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追憶の牛込|サトウハチロー

文学と神楽坂

 サトウハチロー氏が書いた『僕の東京地図』(春陽堂文庫出版、昭和15年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「追憶の牛込」です。

追憶スーベニーの牛込・ド・ウシゴメ
 僕は牛込うしごめで生まれた。薬王寺やくおうじだ。四つの時まで喜久井きくいちょうにいた。それから小石川こいしかわへと
ひっ
して行ったのだ。牛込にいた時は(こいつはあとで、おやじが話してくれたのだが)眞山まやま小父おじさん(靑果せいか氏)に抱っこして、毎口町を歩いたそうである。
 ――火事はどこだい牛込だい、牛のなんとか丸やけだい――
という唄だけは、いまでもはッきりおぼえている。(なんとかいうところは文句を知らないのじゃない。ただいまスーベニアを奏でている僕の心に、おかしなひびきを響かせたくないからである)
 小石川茗荷谷みょうがだににいた小学校の僕、早稲田わせだ中学一年のころの僕。長じておふくろと小石川の台町だいまちに住んでいた頃の僕にとって、神楽坂かぐらざかは、何と言っても忘れられない町である。矢来やらいの交番のところから、牛込見付みつけまでの間を一日に何度往復したことか。お堀には、ボートなんか浮いていなかった。暗い建物の牛込駅があって、線路に沿うてずッと桜が植わっていたように覚えている。身の丈を(ああ僕は四尺もなかッたですぞ)隠すくらいの草が、いっぱい生えていた。僕たち小学生は、二銭の釣竿を持って、一銭のバケツを提げて、そッと牛込駅のわきから、その草むらの中へ、しのびこんだ。みゝずをつけて、お堀へ投げ込んだ。一時間に十匹や十五匹あげるのはお茶の子サイ/\であった。ふなだ。鮒は引きが強い。六寸もあるのに引っぱられると堀の中へ引きこまれるように感じた。時々、オマワリさんに見つかっては追いかけられた。つかまっても、二銭と一銭と合計二銭の損だ(おゝその頃は、いまのように労力問題などはやかましくなかったので、僕は獲物えもの及びそれを獲得する労力のことは考えていなかった)。うまく見つからなかった日には意気揚々と、家へ帰った。殺生せっしょうのきらいなおふくろに見つかると、怒られるので裏の空き地へ行って、焚き火をして焼いて食った。泥くさかッただろうって? そんなことを考えているような子供なんかいなかッた、こいつは小学校時代の話だ。

スーベニー souvenir。仏語では土産、思い出、記憶など
牛込 昭和22年の区制改革前は、東京市は35区に分割。そのひとつ。
薬王寺前 「市ヶ谷薬王寺前町」は、明治末に名前だけが変わり、現在は「市谷薬王寺町」です。右図を。
なんとか 「きんたま」です
神楽坂 当時は神楽坂1丁目から3丁目までの町でした。
矢来の交番 「牛込天神町」交差点にある交番(現在は矢来町地域安全センター)(左図を)

 中学へ行くようになっては、何と言っても山本のわずかしか穴のあいてないドーナツに一番心をひかれた。十銭あると山本へ行った。山本は川崎第百の前だ。いまでもある。五銭のコーヒーを飲み、五銭のドーナツを食べた。ドーナツは陽やけのしたサンチョパンザのようにこんがりとふくれていた。コカコラをはじめて飲んだのもこゝだ。ジンジャエールをはじめて飲んで、あゝあつらえなければよかッたと後悔したのもこゝだ。この間、まだあるかと思って、ドーナツを買いに這入はいったら、店内の模様は昔と一寸ちょっと変わったが、陽やけのしたサンチョパンザことドーナツ氏は昔と同じ顔だ。皿に乗って、僕の目の前にあらわれた、なつかしかった。
 長じて、おふくろと住むようになってからは、彼ドーナツ氏とは、別れを告げてしまツた。そうして、ヤマニバーにもっぱら通うようになった。ヤマニバーは御存知もあろう、文明館ぶんめいかんの先の右側だ。ヤマニバーの前にいま第一銀行がある。売家うりいえふだの出た家が一軒ある。この二軒の問を入ると右側に市営の食堂がある、こゝにも随分ごやツかいになった、金のない日は階下で大盛りに盛ったうどんを食べ、金のある日には、二階で、定食を食べたのだ。定食と言っても十五銭だ。こゝの食物くいものは、市営食堂のうちでも一番量が多くてうまいんじゃないかしら? ……これを通りすぎると飯塚質店の看板が出ている。飯塚友一郎さんのお家だ。質屋の看板の先に官許かんきょにごり酒と書いた看板がある。これも飯塚一家だ。
 ――けがれし涙を、にごり酒に落とす男こゝにあり――
 新宿へ遊びに行った帰りに、これを呑んでこんな歌を作った。あゝスーベニアはまだつづく。

中学へ サトウハチロー氏は明治43年(7歳)に小学校に入学し、大正5年(13歳)に早稲田中学に入り、大正6年(14歳)、父と一緒に浅草区に引っ越ししました。ちなみに関東大震災が起きたのは大正12年、20歳のときでした。
川崎第百 川崎第百銀行のこと。それから銀行ではなく待合になったりしますが、左の蕎麦屋「春月」を飲み込んで大きくなり、最終的には「三菱UFJ銀行」になります。したがって「山本は川崎第百の前」を現在に置き換えると「魚さんは三菱UFJ銀行の前」になります。
いま この文章は昭和11年に書かれています。昭和12年に「火災保険特殊地図」に書いてあった「コーヒー」もこの「山本コーヒー」だったのでしょう。
サンチョパンザ 正しくはサンチョ・パンサ。スペインのセルバンテス(1547-1616)の小説「ドン・キホーテ」に登場する現実主義の従者。
コカコラ コカ・コーラ。ノンアルコール炭酸飲料で、1886年米国ジョージア州アトランタで生産を開始。第2次世界大戦中、米軍とともに世界中に拡大。日本では大正時代から出回っていました。
ジンジャエール ノンアルコール炭酸飲料で、ショウガ(ジンジャー)などの香りと味をつけ、カラメルで着色したもの。
あつらう あつらえるの文語形。注文して作らせること。
第一銀行 現在の「神楽坂KIMURAYA」。
 
 
 

神楽坂の今昔1|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。なお、『ここは牛込・神楽坂』第17巻にも「残っている老舗」だけを除いた全文が出ています。余計なことですが、『ここは牛込・神楽坂』の「特別になつかしい街だ」でなく、毎日新聞社には「特殊になつかしい街だ」と書いてあります。(意味は「特別になつかしい街だ」が正しいような気もしますが)
 なお、ここで登場する写真は、例外を除き、毎日新聞社刊の「大学シリーズ法政大学」に出ていた写真です。

 ◆ 舗装のはしり
 大正十五年の春、旧制の松本中学を卒業した私は、すぐ東京鉄道局に就職し、小石川区小日向水道町の親戚に下宿したから、朝夕神楽坂を歩いて通勤したのであった。だから、私にとっては、特殊になつかしい街だ。
 関東大震災で、市外の盛り場の大部分は灰燼に帰したが、運よく神楽坂は焼け残ったので、人々が方々から集まって来て、たいへんにぎやかであった。
 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。
 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。
 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物佐和屋あたりに、昔は段があった。
 御影石も摩滅するとすべった。そこで、時々石屋さんが道に坐りこんで、石にきざみを入れていた。戦後、アスファルトにし、次にコンクリートにしたのである。

東京鉄道局 鉄道省東京鉄道局。JRグループの前身。
小石川区小日向水道町 現在は文京区水道一丁目の一部。
関東大震災 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東地方南部を襲った大震災。
木煉瓦 もくれんが。煉瓦状に作った木製のブロック。
御影石 みかげいし。花崗かこう岩や花崗閃緑せんりょく岩の石材名。兵庫県神戸市の御影地区が代表的な産地。
小間物 日常用いるこまごましたもの。日用品、化粧品、装身具、袋物、飾りひもなど

 ◆ 残っている老舗
 久しぶりに神楽坂を歩いてみた。戦災で焼かれ、復興がおくれたために、今度はほかの盛り場よりさびれてしまった。しかし、坂を上り また下って行くというこの坂の街には、独特の風情がある。
 神楽坂下側から、坂を上りながら、昭和のはじめからの老舗を私は数えてみた。右側から見て行くと、とっつけに、ワイシャツ・洋品の赤井商店、文房具の山田紙店、おしるこの紀の善(戦前は仕出し割烹)、化粧品・小間物の佐和屋、婦人洋品の菱屋、パンの木村屋、生菓子の塩瀬坂本硝子店、文房具の相馬屋などが今も残っている。
 左側では、きそばのおきな庵、うなぎの志満金夏目写真館戦前は右側)、広東料理の竜公亭、袋物・草履の助六、洋品のサムライ堂、果物・レストランの田原屋などが老舗である。まだあるはずだが思いだせない。

とっつけ カ行五段活用の動詞「取っ付く」から。「取っ付く」は物事を始めること。
戦前は右側 戦後は夏目写真館は左側(南側)でしたが、2011年に「ポルタ神楽坂」ができると、右側(北側)の陶柿園の二階になりました。右の写真は「わがまち神楽坂」(神楽坂地区まちづくりの会、平成7年)から。当時は夏目写真館は坂の南側にありました。

◆ 消えたなつかしい店
 戦後か、その少し前に消えたなつかしい店がいく軒かある。左側上り囗に、銀扇という喫茶と軽食の店があった。コーヒー、紅茶が八銭、カレーライス十五銭。法政の学生のたまり場であった。
 坂の頂上近くに、果物とフルーツパーラーの田原屋があった。銀座の千匹屋にも負けないいい店だった。
 毘沙門さんの手前に、喫茶の白十字があった。女の子はみんな白いエプロンをつけ、後ろで蝶結びにしていた。この清純な娘さんと法政の学生との恋愛事件がいくつかあった。
 現在の三菱銀行のところに、高級喫茶の紅谷があった、水をもらうと、レモンの輪切りが浮いていた。田舎者の私はすっかり感心した。
 右側では、頂上から肴町のほうへ少し下ったあたりに、山本コーヒー店があり、うまいドーナッツで知られていた。その先におしるこの三好野があった。芸者さんにお目にかかるために、時々寄ったものだ。
白十字  神楽坂には白十字に新旧の2つの喫茶店がありました。安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では

◇白十字――白十字の神樂坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同樣喫茶、菓子、輕い食事等。

 1つは坂の上り口で、1つは毘沙門から大久保通りに近い場所にありました。「毘沙門さんの手前」は坂の上り口を示しているのでしょうか。

三菱銀行のところ 大正6年、3丁目の三菱銀行のところには川崎銀行がありました(飯田公子「神楽坂 龍公亭 物語り」サザンカンパニー、平成23年)。紅谷は五丁目でした。

4丁目北側最東部の歴史|神楽坂通り

文学と神楽坂

神楽坂通りに面した紅小路と本多横丁との間の場所です。楽山茶舗があるのが一番有名でしょう。大正の終わりから、昭和、平成までこの場所を調べてみました。

紅小路と本多横丁

古老の記憶による関東大震災前の形

まず大正12年の関東大震災の以前の図を見ます。昭和45年新宿区教育委員会『神楽坂界隈の変遷』の「古老の記憶による関東大震災前の形」です。
ここでは「玩具橋本」「山本コーヒー」「竹川」「靴」が書いてあります。「竹川」「靴」は、昭和5年になると「竹川靴店」と書いていますから、これはおそらく一語だと思います。メイセン屋は紅小路の左に書いてあります。

次は『神楽坂界隈-新宿郷土研究会20周年記念号』(平成9年)の「神楽坂と縁日市」にあった図です。
夜店
昭和5年頃の図は左に、平成8年の図は右です。メイセン屋がここでは楽山茶輔と同じ位置にあり、紅小路通りの右にあったようです。しかし、おそらく「古老の記憶による関東大震災前の形」のほうが正しいのでしょう。つまり、メイセン屋は紅小路の左にあり、楽山茶輔の以前には橋本オモチャがあったのです。こうするとまた困ったことも出てくるのですが、まあそれはそれです。

さて次は「火災保険特殊地図」で昭和12年版と昭和27年版の2つです。左の昭和12年版は「コーヒー」だけが見えます。一方、右の昭和27年版は「神楽坂郵便局」「空白」「みさこのみや」「近江やハキモノ」が見えます。
4丁目
もう1つ、昭和60年に神楽坂青年会がつくった「神楽坂まっぷ」です。

L

神楽坂まっぷ

平成15年の神楽坂通り商店会の「神楽坂マップ」です。平成15年
さらに『神楽坂まちの手帖』第12号の「昭和三十年代とその周辺」から昭和35年の地図をもらいました。また昭和35年以上は国立図書館の地図をまとめています。以上、まとめると

  坂上/西北の店舗① 店舗② 店舗③ 坂下/東南の店舗④
大震災前 玩具 橋本 山本コーヒー 竹川 靴
昭和5年 橋本オモチャ 山本喫茶店 竹川靴店
昭和12年 (建物) (建物) コーヒー (建物)
昭和27年 神楽坂郵便局 (空白) みさこのみや 近江や ハキモノ
昭和35年 神楽坂郵便局   仕出し 魚藤 近江屋
昭和35年頃 神楽坂郵便局 フランス菓子スゴオ 鮮魚 魚三 履物近江屋
昭和45年 (空白) スゴオ菓子店 魚三 近江屋ハキモノ
昭和55年 神楽坂楽山 栄和ビル コーヒースゴオ 魚三 近江屋ハキモノ
昭和60年 銘茶楽山 3F ラサール美容室
5F 栄和歯科
魚さん 近江屋ハキモノ
平成2年 神楽坂銘茶楽山 中坪ビル 魚さん 近江屋
平成8年 楽山茶舗 ゲームセンター 魚さん料理 近江屋履物
平成28年 楽山(①+②) うおさん 4丁目近江屋ビル
  AGARIS、Poisson、野菜食堂サクラサク、
つみき、神楽坂イカセンター
8.va 五十番。蓮、やまあい
La cuchara, 九蔵

 

楽山

楽山

楽山
『まちの手帖第11号』には楽山のこれまでの歴史があります。昭和34年に牛込北町の中央通りに店を開き、昭和43年に現在の場所に変わりました。『まちの手帖第11号』ではこんなことを書いてあります。

昭和39年のお茶審査競技会で5種5煎というきき茶部門で優勝。「その後何度も入賞したから、トロフィーや賞状がトラックいっぱいになったよ(笑)」

山本コーヒー
かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では

山本コーヒー(喫茶店)
楽山の場所に昭和初期にあった。よく職人さんに連れていってもらった。

河合慶子氏は『ここは牛込、神楽坂』第3号「肴町界隈のこと」について

三菱銀行前の『山本コーヒー店』のふっくらと厚みのあるドーナツのこげ茶色。すべてが懐かしく郷愁をさそうのである
うおさん

昔の山本コーヒー店、現在のうおさん

さらにサトウハチロー氏の『僕の東京地図』では別紙に書いています。

山本コーヒー|神楽坂4丁目

文学と神楽坂

 山本珈琲です。現在は「魚さん」。下の図では楽山ビルの隣りで、赤い四角で囲ってあります。場所はここ

 CCF20130517_00097

うおさん

 サトウハチロー氏の『僕の東京地図』で「山本コーヒー」が出てきます。

中学へ行くようになっては、何と言っても山本のわずかしか穴のあいてないドーナツに一番心をひかれた。十銭あると山本へ行った。山本は川崎第百の前だ。いまでもある。五銭のコーヒーを飲み、五銭のドーナツを食べた。ドーナツは陽やけのしたサンチョパンザのようにこんがりとふくれていた。コカコラをはじめて飲んだのもこゝだ。ジンジャエールをはじめて飲んで、あゝあつらえなければよかツたと後悔したのもこゝだ。この間、まだあるかと思って、ドーナツを買いに這人ったら、店内の模様は昔と一寸変わったが、陽やけのしたサンチョパンザことドーナツ氏は昔と同じ顔だ。皿に乗って、僕の目の前にあらわれた、なつかしかった。

サンチョパンザ 正しくはサンチョ・パンサ。スペインのセルバンテス(1547-1616)の小説「ドン・キホーテ」に登場する現実主義の従者。
コカコラ コカ・コーラ。ノンアルコールの炭酸飲料で、1886年米国ジョージア州アトランタで生産が開始しました。第2次世界大戦中、米軍とともに世界中に広まっていきましたが、日本には大正時代から出回っていました
ジンジャエール ノンアルコールの炭酸飲料で、ショウガ(ジンジャー)などの香りと味をつけ、カラメルで着色したもの。
あつらう あつらえるの文語形。注文して作らせること。

中学へ サトウハチロー氏は大正5年に早稲田中学に入りました。したがってこの話は関東大震災が起きた大正12年よりも昔です。
川崎第百 川崎第百銀行のことでした。それから銀行ではなく待合になったりしますが、左の蕎麦「春月」を飲み込んで大きくなり、最終的には「三菱東京UFJ銀行」となりました。したがって「山本は川崎第百の前だ」は「魚さんは三菱東京UFJの前だ」になります。
いま この文章は昭和11年に書かれています。昭和12年に「火災保険特殊地図」に書いてあった「コーヒー」もこの「山本コーヒー」だったのでしょう。

 河合慶子氏は『ここは牛込、神楽坂』 第3号「肴町界隈のこと」について

三菱銀行前の『山本コーヒー店』のふっくらと厚みのあるドーナツのこげ茶色。すべてが懐かしく郷愁をさそうのである。

 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)は

喫茶山本――春月(しゅんげつ)の向ふ側にあつて喫茶、菓子、中でもコーヒーとアイスクリームがこゝの自慢です

文学と神楽坂