タグ別アーカイブ: 島崎藤村

自然主義小説のころ|柳田国男

文学と神楽坂

 日本民俗学の創始者だった柳田国男ですが、10代のころは、新進気鋭の短歌の歌人でした。明治25(1892)年、数えで18歳、やはり短歌の田山花袋(数えで22歳)が初めて柳田氏に会いにきています。二人は親友になりました。それから時は流れ、20代後半から30代には、柳田氏の邸宅での土曜会がでてきました。やがて、この会は自然主義の文士が集まる竜土会になっていきます。これは柳田国男が自叙伝『故郷七十年』で描いた、その当時の会の様子です。

 自然主義という言葉を言い出したのは、田山であったろう。しかも英語のナチュラリズムという言葉をそのまま直訳したのだが、はじめは深い意味はなかったと思う。田山は何か私らの分らない哲学的なことを言い出したりしたが、それはもう後になってからの話であった。それよりはもっと平たく言えば、やはり通例人の日常生活の中にもまだ文学の材料として採るべきものがあるということを認めて、それを扱ってみようとしたといえると思う。
 別に私が田山に話したような奇抜なものだけを書かなければならないわけはない。たとえば二葉亭の「浮雲」や坪内さんの「書生気質」だって、別に変ったところもないだけに、かえって広い意味の自然主義の発端といえないこともなかろう。田山は私の犯罪調査の話ばかりでなく、私が旅行から帰って来ると、何か珍しい話はないかといって聞くことが多かった。私が客観的に見て話してやったのを彼が書いたものの中には、特赦の話以外にも多少注目に値するものもあった。不思議なことには、文学者というものは、われわれの話すことを大変珍しがるものである。想像もできないとかいって感心する。いわゆる「事実は小説よりも奇なり」というわけだろう。それにこちらもいくらか彼等にかぶれて、西洋の写実派の小説などを読んでいるために、そんな例までくらべて話してやるものだから、一時は大変なものであった。そしてとうとう、あすこへ行きさえすればたねがあるというようなことになった。
 小栗風葉など一番熱心に参加した。家があまり困らないものだから不勉強で、代作などを盛んにさせた元祖であった。真山(まやま)青果(せいか)などは初めのうち、ずっと風葉の名前で書いて生活をしていた。青果の方では自分の名で出せるようになるまでは、練習のつもりで代筆をしていたわけであろう。ともかく風葉などは、私のところへ来れば新しい話があるという気で、私に対していたのである。
 それからもう一人は、硯友社の川上眉山(びざん)であった。眉山は家庭が複雑で、気になることが多いためか、酒でまぎらすことが多かった。それに文筆で生活をする必要があって、骨が折れたらしい。しかも硯友社同人の立場にいながら、新興文学の端緒にも触れようという気持が強くて、森鴎外さんのものを片っ端から読んでいた。それに続いては国木田のものなどをよく読んでいた。死ぬ一年か一年半くらい前は、よく私のところに来た。
 それで十人ばかりの仲間が私の家に集まった。土曜日に催したから土曜会ということにしたが、毎週ではなく、たしか月二回ぐらいやっていたと思う。国木田がもちろん陰の黒幕で、島崎君もときどきは加わった。皆が集まった動機といえば、田山ばかりがたねをもらいに行って、うまいことをしているからということであった。明治三十七、八年のころだと思う。欧州でも二十世紀の初めで、英国の文学の一つの変り目にあたり、大陸の文学を盛んに英訳をしだした、ちょうどその時期に当っていた。フランスのドーデのものの英訳などが出始めたので、私が田山にすすめたことを憶えている。船に乗る人が盛んに買ったジャックの船上本などという英訳本が、日本にも来たものである。私は丸善に連絡をとっておいて、手元に届くたびに土曜会の連中に紹介した。この土曜会が後に快楽亭の会になり、三転して竜土(りゅうど)(かい)となったのである。
柳田国男の邸宅

柳田国男の邸宅

ナチュラリズム naturalism。自然主義。文学では客観描写を本領とする写実主義。哲学では自然を重視し、すべての現象を科学的法則で説明する。自然論。神学で、宗教的真理は自然の研究で得られるとする。
奇抜なもの 柳田国男が法制局で出会った特赦の例。子供や愛人が死亡し、自分だけが生きる悲惨な実例。
浮雲 小説。未完。明治20~89年発表。知識青年内海文三を通して明治の文明・風潮を批判し、自我の目覚めと苦悩とを写実的に描く、言文一致体の近代写実小説。
書生気質 当世書生気質。とうせいしょせいかたぎ。小町田こまちだ粲爾さんじという書生と芸妓との恋愛を中心に、当時の書生風俗の諸相を写実的に描き、「小説神髄」の理論の実践化を図ったもの
あすこ 牛込加賀町の柳田国男の邸宅。1901(明治34)年から1927(昭和2)年までこの加賀町に住んでいました。
土曜会 明治後期の文学者の集まり。1900年代初頭、東京牛込加賀町の柳田国男邸に田山花袋、国木田独歩、小栗風葉、柳川春葉、生田葵山、蒲原有明などが集まって文学談を交わした。次第に参加人数が増え、1902年1月、麴町の西洋料理店快楽亭の会合からは会場を外に設けた。牛込赤城神社下の清風亭、雑司ヶ谷鬼子母神の焼鳥屋などに移り、柳田国男氏の年譜では1905年7月、麻布竜土町のフランス料理店竜土軒が月例会場となった。近松秋江氏によれば「自然主義は龍土軒の灰皿から生まれた」という。
ドーデ フランスの小説家・劇作家。Alphonse Daudet。1840年~1897年。故郷プロバンス地方の風物を温かな人間味と詩的情緒豊かな作風で描いた。短編集「風車小屋便り」「月曜物語」、小説「プチ・ショーズ」、戯曲「アルルの女」など
ジャックの船上本 不明です。
快楽亭 麹町英国公使館裏通りの洋食店
竜土会 麻布竜土町のフランス料理店竜土軒から

スポンサーリンク

文壇昔ばなし④|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

             ○

肌合ひの相違と云ふものは仕方のないもので、東京生れの作家の中には島崎藤村毛嫌ひする人が少くなかつたやうに思ふ。私の知つてゐるのでは、荷風芥川辰野隆氏など皆さうである。漱石も露骨な書き方はしてゐないが、相當に藤村を嫌つてゐたらしいことは「」の批評をした言葉のはし/\に窺ふことが出来る。最もアケスケに藤村を罵つたのは芥川で、めつたにあゝ云ふ惡口を書かない男が書いたのだから、餘程嫌ひだつたに違ひない。書いたのは一度だけであるが、口では始終藤村をやツつけてゐて、私など何度聞かされたか知れない。さう云ふ私も、芥川のやうに正面切つては書かなかつたが、遠廻しにチクリチクリ書いた覺えは数回ある。作家同士と云ふものは妙に嗅覺が働くもので、藤村も私が嫌つてゐることを嗅ぎつけてをり、多少氣にしてゐたやうに思ふ。そして藤村が氣にしてゐるらしいことも、私の方にちやんと分つてゐた。しかし藤村には又熱狂的なフアンがあつて、私の舊友の中でも大貫晶川などは藤村を見ること神の如くであつた。彼は私と同じく東京一中の出身であるが、生れは多摩川の向う川岸の溝ノ口あたりであるから、東京人とは云へないのである。正宗白鳥氏は私の藤村嫌ひのことを多分知つてゐて、故意に私に聞かせたのではないかと思ふが、数年前熱海の翠光園で相會した時、今讀み返してみると藤村の作品に一番打たれると云つてをられた。

藤村を嫌い
「春」の批評

 結論を先にいうと、漱石氏による『春』の批評はなさそうです。おそらく、うちうちでの反発はあっても、公になった『春』の悪口はありません。
 まず「漱石全集」(岩波書店、1995年)第16巻「評論など」を調べてみました。しかし、第16巻には何も書いていません。大体、漱石は自然主義の全体についていいたいことがあっても、いえない、いわない。なにせ、自分がやっていた朝日新聞に『春』が出たわけで、あまり批評は書きたくないのです。
 そこで第28巻「総索引」で調査しました。島崎藤村氏全体を調べると、第20巻(日記)416頁(「藤村の食後…を買う」)、第22巻(書簡)[人索](書簡883、書簡1064、書簡1099、書簡1136)、第23巻(書簡)注解(532頁)(「壁」について)と[人索](書簡882、書簡1064、書簡1099、書簡1136)、第25巻(別冊)254頁(「…島崎君の[『春』]が出るまで…私が書かなきやならん」)と519頁(「破戒」とは島崎藤村の小説)に書かれていました。[人索]は「人名に関する注および索引」のことです。
 また「総索引」で『春』(島崎藤村)を調べてみると、書いているのは第23巻(書簡)だけで、内訳は83頁、198頁、206頁、208頁、212頁、 528頁でした。528頁は[人索]で、書簡882、1064、1099、1136の4通がありました。書簡882は『春』を朝日新聞の小説にしたいということが書かれており、書簡1064は、大塚楠緒子宛の書簡で、

藤村氏のかき方は丸で文字を苦にせぬ様な行き方に候あれも面白く候。何となく小説家じみて居らぬ所妙に候然しある人は其代り藤村じみて居ると申候。あれも長きもの故万事は完結後ならでは兎角申しかね候

 書き方は小説家らしくはないけれども、完結がでるまで何も言わないよと、まあ普通の文言です。書簡1099は高浜虚子宛の書簡で

「春」今日結了 最後の五六行は名文に候。作者は知らぬ事ながら小生一人が感心致候。([ついで])を以て大兄へ御通知に及び候。あの五六行が百三十五回にひろがつたら大したものなるべくと藤村先生の為めに惜しみ候。

 逆に考えると、あの五六行だけが良く、残りは最悪となりますが、そこは漱石、感心した文章を読んだと肯定的に書いてあります。書簡1136の小宮豊隆宛の書簡では

今の自然派とは自然の二字に意味なき団体なり。花袋、藤村、白鳥の作を難有がる団体を云ふに外ならず。而して皆恐露病に罹る連中に外ならず。人品を云へば大抵君より下等なり、理窟を云へば君よりも分らずや多し。生活を云へぼ君よりも甚しく困難なり。さるが故に君の敢て為し能はざる所云ひ能はざる所を為す。君是等の諸公を相手にして戦ふの勇気ありや。君を此渦中に引き入るるに忍び ざるが故に此言あり。

と、一般論で自然主義に対する反論がでてきます。しかし、書いてあった島村藤村氏に対する明確な反論はありません。逆に『破戒』では絶賛しかでてきません。(明治39年4月3日の森田草平宛の書籍)

一度だけ

 芥川龍之介氏は「島崎藤村」や「藤村」という名前を『芥川龍之介全集』(岩波書店、1996年)の中で使ったことはありません。「島崎藤村」と関係がありそうな文章は、『或る阿呆の一生』(昭和2年)で出てきます。

四十六 譃

 彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。彼の将来は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわかつてゐた。)不相変いろいろの本を読みつづけた。しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な(うそ)に充ち満ちてゐた。殊に「新生」に至つては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪らうくわいな偽善者に出会つたことはなかつた。が、フランソア・ヴイヨンだけは彼の心にしみとほつた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡」を発見した。
 絞罪を待つてゐるヴイヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。彼は何度もヴイヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉体的エネルギイはかう云ふことを許すわけはなかつた。彼はだんだん衰へて行つた。丁度昔スウイフトの見た、木末こずゑから枯れて来る立ち木のやうに。……

 ここで出てきた「新生」は、谷崎潤一郎氏や当時の見解によれば、島村藤村氏が書いた小説「新生」だというのです。しかし、ダンテの『新生』やルソーの『新生の書』のように別の作品からできているという見解もあります。私もルソーの『新生の書』を直接書いたものではと思っています。ただし、当時の文壇の考えは藤村氏に対する批評だと考えているようです。なお、フランソワ・ヴィヨンは15世紀フランスの詩人で、中世最大の詩人、または最初の近代詩人といわれています。

遠廻しに… これを探すのには非常に難しいと思います。少なくてもはっきり書いた藤村氏に対する批判はなさそうです。

毛嫌い これという理由もなく感情的に嫌う。わけもなく嫌う。鳥獣は相手の毛並みで好き嫌いをするところから。
 島崎藤村の「若菜集」発表前夜の物語で、浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちがモデル。主人公の岸本捨吉には島崎藤村、青木駿一は北村透谷、市川仙太は平田禿木、菅時三郎は戸川秋骨など。
東京一中 府立第一中学校。現在の都立日比谷高等学校。
溝ノ口 神奈川県川崎市高津区溝口(上図)の地域で、JR東日本の武蔵溝ノ口駅があります。多摩川の対側に世田谷区二子玉川が広がっています。
翠光園 以前の熱海翠光園(すいこうえん)ホテルでしょう。場所は熱海市咲見町4番21号で、熱海駅と来宮駅の中間で高台にありました。現在はアデニウム熱海翠光園というマンションに変わっています。右図の左下の赤い矢印です。

スポンサーリンク

文壇昔ばなし②|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

             ○
紅葉の死んだ明治卅六年には、春に五代目菊五郎が死に、秋に九代目團十郎が死んでゐる。文壇で「紅露」が併稱された如く、梨園では「團菊」と云はれてゐたが.この方は舞臺の人であるから、幸ひにして私はこの二巨人の顏や聲音(こわね)を覺えてゐる。が、文壇の方では、僅かな年代の相違のために、會ひ損つてゐる人が随分多い。硯友社花やかなりし頃の作家では、巖谷小波山人にたつた一囘、大正時代に有樂座自由劇場の第何囘目かの試演の時に、小山内薰に紹介してもらつて、廊下で立ち話をしたことがあつた。山人は初對面の挨拶の後で、「君はもつと背の高い人かと思つた」と云つたが、並んでみると私よりは山人の方がずつと高かつた。「少年世界」の愛讀者であつた私は、小波山人と共に江見水蔭が好きであつたが、この人には遂に會ふ機會を逸した。小波山人が死ぬ時、「江見、己は先に行くよ」と云つたと云ふ話を聞いてゐるから、當時水蔭はまだ生きてゐた筈なので、會つて置けばよかつたと未だにさう思ふ。小栗風葉にもたつた一遍、中央公論社がまだ本郷西片町麻田氏のの二階にあつた時分、瀧田樗陰(ちよいん)に引き合はされてほんの二三十分談話を交した。露伴藤村鏡花秋聲等、昭和時代まで生存してゐた諸作家は別として、僅かに一二囘の面識があつた人々は、この外に鷗外魯庵天外泡鳴靑果武郎くらゐなものである。漱石一高の英語を敎へてゐた時分、英法科に籍を置いてゐた私は廊下や校庭で行き逢ふたびにお時儀をした覺えがあるが、漱石は私の級を受け持つてくれなかつたので、残念ながら聲咳に接する折がなかつた。私が帝大生であつた時分、電車は本鄕三丁目の角、「かねやす」の所までしか行かなかつたので、漱石はあすこからいつも人力車に乗つてゐたが、リュウとした(つゐ)大嶋の和服で、靑木堂の前で俥を止めて葉巻などを買つてゐた姿が、今も私の眼底にある。まだ漱石が朝日新聞に入社する前のことで、大學の先生にしては贅澤なものだと、よくさう思ひ/\した。

菊五郎 尾上(おのえ)菊五郎。明治時代の歌舞伎役者。市村座の座元。生年は1844年7月18日(天保15年6月4日)。没年は1903年(明治36年)2月18日。享年は満58歳。
團十郎 市川団十郞(だんじゅうろう)。明治時代の歌舞伎役者。屋号は成田屋。生年は1838年11月29日(天保9年10月13日)。没年は1903年(明治36年)9月13日。享年は満64歳。
紅露 コウロ。紅露時代。明治20年代の近代文学史上の一時期で、尾崎紅葉と幸田露伴が主導的立場にあった。
梨園 俳優、特に、歌舞伎役者の世界。唐の玄宗皇帝が梨の木のある庭園で、みずから音楽・舞踊を教えたという「唐書」礼楽志の故事から。
團菊 普通は三人で、団菊左。だんぎくさ。明治を代表する歌舞伎俳優、九世市川団十郎・五世尾上菊五郎・初世市川左団次のこと
声音 声の調子。こわいろ。
有楽座 日本初の全席椅子席の洋風劇場。場所は数寄屋橋の東北約150m。1908年(明治41年)12月1日に開場。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼亡。
自由劇場 小山内薫と市川左團次(2代目)が明治時代に起こした新劇運動。「無形劇場」で劇場や専属の俳優を持たない。
試演 試験的に上演や演奏すること。
少年世界 少年読者を対象とした雑誌。博文館発行。1895年1月創刊、1933年10月終刊。
中央公論社 雑誌『中央公論』を中心とする総合出版社。1886年に創立された西本願寺の修養団体「反省会」がその前身。1912年西本願寺から離れ、14年中央公論社と改称。坪内逍遙訳「新修シェークスピヤ全集」 (1933) 、谷崎潤一郎訳『源氏物語』 (39~41) などを出版。
西片(にしかた) 東京都文京区の町名。右上図は現在の西片町。このほぼ90%が昔の駒込西片町。これに駒込東片町・田町・丸山福山町・森川町・柳町の1部が合併し、成立したもの。
 旧麻田駒之助邸は残っています。左図を。
一高  昭和10(1935)年までは本郷向ヶ岡弥生町(現・東京大学農学部敷地)にありました。
聲咳に接する 正しいのは謦咳(けいがい)。尊敬する人に直接話を聞く。お目にかかる。
かねやす 東京都文京区本郷三丁目にある雑貨店。「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳で有名。
 つい。素材や模様・形などを同じに作って、そろえること。
大島 大島紬。おおしまつむぎ。鹿児島県奄美大島特産の伝統工芸品、紬織物の一種。高級着物地。
青木堂 文京区本郷5丁目24にありました。1階が小売店で洋酒、煙草、食料品を販売、2階は喫茶店。青木堂はここが本店。なお、牛込区通寺町(現、神楽坂六丁目)の青木堂とは関係はないといいます。

スポンサーリンク