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神楽坂

文学と神楽坂

 新宿区「新宿区町名誌 地名の由来と変遷」(新宿区教育委員会、昭和51年)では…

 神楽坂とは、国鉄飯田橋駅九段口から、牛込台地に上る坂で、坂下から大久保通りまでは江戸時代からあった名称である。

 歴史博物館「新修 新宿区町名誌 地名の由来と変遷」(平成22年、新宿歴史博物館)では

 JR飯田橋駅西口から、牛込台地に上る坂で、坂下から大久保通りまでは江戸時代から神楽坂という名称で呼ばれていた。
 明治4年(1871)6月、この地域一帯に町名をつけたとき、この神楽坂からとって神楽町としたが、旧称どおりの神楽坂で呼ばれていた。
 しかし昭和20年(1945)の空襲で、焼け野原と化した。昭和26年5月1日、坂上の三町も含めて神楽坂と称することになり(東京都告示第347号)、北の赤城神社入り口まで名称統一され、四・五・六丁目ができた。
 この町名変更に当たって、関係町民からも町名を神楽坂に統一する陳情書が区議会に提出された。その理由は、下宮比町と上宮比町が混同されやすいこと、肴町は隣区の肴町と誤認されやすい等が挙げられた(昭和30年新宿区史)。

隣区の肴町 文京区駒込肴町と混同したのでしょう。現在は文京区駒込肴町ではなく、文京区向丘1丁目か2丁目になります。

 実際の陳情書は昭和30年「新宿区史」766頁に書いてあります。以下は旧漢字を新漢字に書き換え、読みにくい漢字を平仮名に変えた等をしたものです。

     陳  情  書
 江戸名所図絵や江戸砂子などに残る古き牛込村は、丘陵起伏する武蔵野の一部、往昔は放牧の地であったとさえ、ある記錄は伝えている。徳川時代に入ってようやく人煙を増すに至ったものの『神楽坂』と『牛込』との限界はすこぶる不明確のまま、その名のみ人々の意識の中に深く刻まれて今日に及び明治初期の行政区画によって丁目と町名とは一応整ったが、
  坂上に下宮比町としばしば混同される上宮比町がありこれに接して隣区肴町と誤認され易き牛込肴町が横たわり更に西方へ数丁通寺町が伸びている 等

捕捉に苦しむ所が多い。これがため行政区画とは別に肴町、上宮比町、通寺町等の住民は、数十年来『神楽坂通り』と云う総称を用い、大衆もまたこれを肯定して日常の要務を弁じている。殊に通寺町の如きは戦災に遭って全町焼土と化するや、直ちに『大神楽坂商店街』と誇示するに至った。神楽坂より六、七丁をへだたった通寺町においてさえかくの如き実状であるため、関係町民と他区域より来訪する人々とが日常の生活上や取引上幾多の煩雑不利を招きつつあるとは枚学にいとまなき所、どこよりどこまでが神楽坂か何人も明答すること能わざるのが現実である。
 数百年来、あまねく知られた名を慕ふのは人情の常、その名を襲用して宣伝価値の昂揚を図るは商業者として当然の帰結、神楽町、上宮比町、肴町、通寺町等に居住する区民が行政区画上の町名を斥け、現実に即した『神楽坂何丁目』と左記の通り町名改称を熱望するに到った事は全く自然の趨勢であり土地発展の永久的対策というも断じて過言ではありませぬ。しかもこれが実現の暁、利便を享受するものはひとり関係住民のみでない事も瞭かであります。
 神楽坂附近一帯の堅実な復興と発展とを期し、あわせてひろく都民相互間の利益をもたらす本件実現のため、何卒格別の御明鑑を仰ぎ、一日も速かに御採択願度くひたすら御願申上げます。
 さらに関係各町住民の連署を以て陳情致します。
 (変更前の町名)    (変更後の町名)
  神楽町 一丁目     神楽坂一丁目
  同   二丁目     神楽坂二丁目
  同   三丁目     神楽坂三丁目
  上 宮 比 町     神楽坂四丁目
  肴     町     神楽坂五丁目
  通  寺  町     神楽坂六丁目
昭和25年  月  日

往昔 おうせき。過ぎ去った昔。いにしえ。往古。
人煙 人家から立ち上る煙。転じて、人の住む気配。



新坂|袋町と若宮町の間に(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 「新坂」は横関栄一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)によれば18か所もあるといいます。新宿区では2か所で、ここでは袋町と若宮町の間を西に上がる坂です。さて、左側は元禄12年(1699)です。右側は享保(1716年)・元文(1736)の年に当たります。大きな違いは?

新坂2

新坂2

 まず巨大な戸田左門の屋敷があるかないかが違います。左図にはありますが、右図にはなくなりました。かわりに左上から中央に下がる道路(茶色の矢印)ができています。これが新坂です。

新坂

新坂

 明治時代も現在もあまり変わってはいません。上は袋町で下は若宮町です。これらの町の間をこの坂は通過します。

 昭和51年、新宿区教育委員会の『新宿区町名誌』では

若宮八幡から袋町の境を西に上る坂は新坂という。江戸中期に新しく聞かれた坂だから名づいた

と書き、平成22年、新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』では

若宮八幡から袋町の境を西に上る坂は新坂(しんさか)という。江戸中期に武家屋敷地の中に新しく開かれた坂であるために名付けられた。若宮八幡からの坂なので若宮坂ともいう

 横関英一の『江戸の坂東京の坂』では

江戸時代では、新しく坂ができるとすぐに、これを新坂と呼ぶ。もしくは、坂の形態が切通し型になっている場合は、切通坂(きりどおしざか)と呼ぶ。既設二坂の中間に新坂ができた場合は、これを中坂(なかざか)と呼ぶ。であるから、中坂も切通坂も等しく新坂なのである。新坂と言うべきところを、その坂の関係位置から中坂、その坂の態様から切通坂と呼んだのにすぎないのである。中坂は、左右二つの坂よりも新しい坂であるということは、まず原則といってよい。

 新宿区の標柱では

新坂(しんざか)
『御府内沿革図書』によると、享保十六年(一七三一)四月に諏紡安芸守の屋敷地の跡に、新しく道路が造られた。新坂は新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。

 美濃大垣藩(岐阜)戸田左門(10万石)の屋敷でしたが、享保10年(1725)の古地図では信濃高島藩(長野)諏訪安芸守(3万石)の屋敷になっています。享保16年4月に新坂が開かれました。

 ひっそりと新坂の標柱は立っています。周りのほとんどは4階ぐらいの小規模マンションで、一戸建てはあっても少なくなりました。一方通行で、車は上(西)から下(東)に向かいます。
標柱

幡随院長兵衛 光照寺の切支丹の仏像 由比正雪の抜け穴 地蔵坂の由来 一平荘 光照寺 袋町の由来 逢坂 庾嶺坂 小栗横町 アグネスホテル 若宮公園 お蔵坂

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2013年6月23日→2019年10月24日

『新宿区町名誌』と『新修新宿区町名誌』

文学と神楽坂

『新宿区町名誌』は昭和51(1976)年、新宿区教育委員会が発行し、『新修新宿区町名誌』は平成22(2010)年、新宿歴史博物館が発行したものです。『新修新宿区町名誌』によれば、2つの違いは

一、本書は、昭和五一年(一九七六)に新宿区教育委員会から刊行された『新宿区町名誌』の内容を再調査し、全面改訂を行ったものである。
一、地域区分は『新宿区町名誌』を踏襲し、古い村を単位とした十区域(①牛込東部、②牛込西部、③牛込北部、④市谷、⑤四谷、⑥新宿と周囲、⑦大久保・百人町、⑧西早稲田・高田馬場、⑨落合・中井、⑩北新宿・西新宿)に分けた。項目は原則として現在の町名を立項し、その町域内にあった過去の町名は小項目として立項している。項目の配列も原則として前書を踏襲したが、読みやすさを考慮し、広域の地名解説を各章の最初に記述した部分もある。

たとえば、神楽坂1丁目を『新宿区町名誌』では

 神楽坂一丁目は、牡丹(ぼたん)屋敷跡とその周辺の武家地跡である。八代将軍吉宗は、享保十四年(一七二九)十一月、紀州からお供をしてきた岡本彦右衛門を、武士に取り立てようとしたが、町屋を望んだので外堀通りに屋敷を与えた。岡本氏はそこにボタンを栽培し、将軍吉宗に献上したので、岡本氏屋敷を牡丹屋敷と呼んだのである。岡本氏は、また牡丹屋彦右衛門と呼ばれた。
 宝暦十一年(一七六一)九月、岡本氏はとがめを受けることがあって家財没収され、屋敷はなくなった。その跡、翌十二月老女(大奥勤務の退職者)飛鳥(あすか)井、花園等の受領地となって町屋ができた。

『新修新宿区町名誌』では

 牛込御門に近い外堀端沿いの地域で、江戸時代には武家地と、牛込(うしごめ)牡丹(ぼたん)屋敷(やしき)という拝領町屋があった。
牛込牡丹屋敷 豊島郡野方領牛込村内にあったが、武家屋敷になった。八代将軍吉宗の時代、岡本彦右衛門が吉宗に供して紀伊国(現和歌山県)から出てきた際、武士に取りたてようと言われたが、町屋が良いと答えこの町を拝領した。屋敷内に牡丹を作り献上したため牡丹屋敷と唱えた。その後上り屋敷となり、宝暦一二年(一七六二)一二月二四目に地所を三分割し、そのうち一ケ所が拝領町屋となった(町方書上)。

一番正確な町名誌でしょうか。

文学と神楽坂