新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17088では、令和4年2月に西五軒町の真清浄寺付近から相生坂などを撮影しました。資料名は「真清浄寺前から相生坂を望む」となっています。相生坂は東西2つありますが、西側の坂です。坂には自動車等のすべりをとめるOリングと呼ぶ円形のくぼみができています。また、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真 ID 14061もあります。
相生坂(令和4年) | |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17088では、令和4年2月に西五軒町の真清浄寺付近から相生坂などを撮影しました。資料名は「真清浄寺前から相生坂を望む」となっています。相生坂は東西2つありますが、西側の坂です。坂には自動車等のすべりをとめるOリングと呼ぶ円形のくぼみができています。また、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真 ID 14061もあります。
相生坂(令和4年) | |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17089は、令和4年2月に東五軒町から西五軒町などを撮影しました。資料名は「東五軒町から西五軒町方面を望む」です。なお、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真があり、ID 14062です。
東五軒町(令和4年) | |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17086とID 17087では、令和4年1月に西五軒町や東五軒町を撮影しました。資料名は「西五軒町6-12から南方面を望む」と「西五軒町6-19から南方面を望む」でした。ただ向かって左側は東五軒町です。ID 17086のENEOSは東五軒町4-12、ID 17087のセブンイレブンは東五軒町3-5です。ちなみに、右側は西五軒町6-12と西五軒町6-1です。撮影位置がわずかに西五軒町よりなので、この資料名になったのでしょう。
また、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真があり、ID 14059、ID 14060とID 14196です。
遠く上向きの坂がありますが、東西2つある相生坂の西側の坂です。
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8430-32は、昭和33年に西五軒町の北側から目白通り、神田川などを撮影しました。資料名は「西五軒町(目白通り、江戸川)」です。なお、江戸川は神田川の上流の古い名で、昭和40年以降は神田川と呼ぶようになりました。
ID 8430は、神田川にかかる橋の上から下流方向(東向き)を撮影しています。撮影場所は西五軒町の西江戸川橋で、左正面が小桜橋。その先の川面に影を落としているのが中ノ橋でしょう。川が突き当たるような形で建物が見えていますが、ここは川が大きく右に曲がっている「大曲」です。 この建物の手前に、後に新白鳥橋ができますが、まだありません。できるのは1971年(昭和46年)です。「今昔マップ」では1975年以上に登場します。 川沿いの歩道に電柱看板「う」がありますが、「うなぎ」でしょう。橋を渡った文京区側には戦前から続く「はし本」があります。 |
ID 8430-32は、同じ西江戸川橋から上流方向(西向き)を撮影しています。護岸は両岸ともかさ上げしています。右正面は石切橋です。 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13055、13081-85は、昭和45年1月に目白通り、神田川、首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しました。資料名は「新小川町二丁目大曲付近」です。しかし、住居表示が変わり、2丁目はなくなってただの「新小川町」になりました。
ID 13055、13084-85は南側から北側の大曲までを撮影しています。目白通りは2車線ずつの対面通行で、神田川の上に首都高があり、その下で川を渡るのは白鳥橋です。目白通りを通るとT字型の「大曲交差点」となります。信号機は一見すると確認できませんが、カバーなどで覆われているだけでしょう。 少し前の昭和44年9月のID 12776-79では、大曲付近の掘削はまだ着手していないように見えます。まず下水管を整備し、そのあとで分水路の建設に着手したのでしょう。 |
ID 13081-83は、南向きの撮影で、遠くに飯田橋交差点の歩道橋が見えます。首都高の下の橋は隆慶橋です。 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12781-84は、昭和44年9月、目白通りと首都高速道路5号線(池袋線)を撮影しました。資料名には「新小川町付近高速道路下」と書かれています。
実際には北部の東五軒町から、目白通りを東に向けて撮影しています。
通りは2車線ずつの対面通行です。左の神田川との境に橋脚が立ち、その上を首都高速が走っています。写真奥で首都高が膨らんだ場所が見えますが、これは「飯田橋料金所」です。2車線のランプが入り口につながった場所は4車線の幅があり、それが2車線に合流します。
中央に見える信号機の下に、神田川を渡る小桜橋がかかっています。こちらを向いた信号機2機はゼブラ柄が確認できます。
目白通りの向かって右側は縁石で高くなった歩道ですが、左側の首都高直下は歩道ではなく、車道と段差がない路側帯になっています。この部分にはバリケードやブロックなどが置いていてあり、神田川の洪水対策となる「放水路」ができる予定です(関口一丁目南部会)。
ID 12781では都営バスが行き交っています。手前に向かってくるバスは「515」「小滝橋車庫ー茅場町」「ワンマン」の表示があり、逆台形のヘッドマークの中に「代替15」(「その他のヘッドマーク」の項)の字が確認できます。前年の昭和43年に廃止された都電15系統の代替バスです。また、対向車線を遠ざかるバスには同じ逆台形に「39」とあるようです。15系統と同時に廃止された都電39系統の代替バスです。
ID 12783に見えるのは都バスではなく「KKK」(国際興業)で、「常盤台駅」「ワンマン」の表示、「ISUZU」のエンブレムが確認できます。
電柱広告には「質 福山」「印刷ローラー 博文社」、川の対岸の文京区には「(TOP)PAN」(凸版印刷)の看板があります。
ID 12784は、ID 12781-839より背後(西側)に移動した新宿区水道町付近から、東方向に撮影しています。神田川に架かる橋は西江戸川橋。遠くの信号がある場所が小桜橋です。路側帯はやはりバリケードで仕切られ、小型トラックが何台か停まっています。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12780とID 12785-86は、昭和44年9月、首都高速道路5号線(池袋線)を撮影したものです。撮影場所は「新小川町付近高速道路下」と書かれています。
目白通りを西に向けて撮影しています。対面通行で、右カーブの先が江戸川橋交差点、背後に戻ると大曲です。
道の上を首都高速が走り、緊急車両や道路管理車両などが停車する「非常駐車帯」も先に見えます。首都高の直下は神田川で、一本足の橋脚は川と道路の間に立っています。
神田川には多くの橋がありますが、写真右端の細い橋は「西江戸川橋」です。橋のたもとに街灯があり、この写真では工事のため通行止めになっているようです。バリケードや土管、土盛りが見えます。
東京都建設局の資料では、目白通りの地下の「江戸川橋分水路」の整備は、この写真より後の昭和47~52年度です。
文京区関口一丁目南部会は「昭和41年10月住民の署名を添え治水対策を早急に進めるよう都河川部・下水道局に強く交渉し昭和44年頃より江戸川橋ー下水管一本埋設、江戸川ー白鳥橋・江戸川橋ー船河原橋にそれぞれ放水路二本が作られました」といい、下水の移設などの準備中でした。
西江戸川橋を渡って文京区に行くと、「北」(か「丸」「九」)で始まる事務所があります。
39番のバスが大曲方向に走っています。この区間には都電15系統と39系統が走り、昭和43年(1968年)9月には廃止されています。この代替として都バス539系統(早稲田-上野公園)が運行し(Wikipediaの都営バス小滝橋営業所)「539系統」は書面上のもので、乗客向けには39番を表示していたようです。「代替後1年程度で定期券の移行措置が終わるとともに取り外され、それ以後は一般路線と見た目が変わらなくなった」といいます。バスの行き先は、無理をすれば「早稲田-〇〇〇〇」と読めそうです。
江戸川橋方向にバン「Coca-Cola スカッとさわやか コカ・コーラ」や自動車「◯YAMA PRINTING CO. LTD」「岡◯商店」が見えます。
ID 12785-86は、さらに西に行き、目白通りの「非常駐車帯」の直下で、石切橋付近から撮影しています。写真説明の「新小川町付近」からはだいぶ遠ざかっています。
首都高の直下はチェーンスタンドとバリケードで区切られて、何台のも自動車が駐車しています。資材置き場になったのか、カバーで覆われたものもあります。恒久的な駐車場とは考えにくく、工事のために一時的に撤去したものの代替でしょうか。この場所は現在は車道になっています。
橋脚の間に石切橋が見えます。ID 12785では道を横断する人と自転車、左端には横断する自動車が一部写っていて、右には信号機の背面が見えます。ゼブラ柄は見えませんが、ここが横断歩道だとわかります。
石切橋の反対側(文京区)には「喫茶 アサノ」「生蕎麦」「寿司 割烹 玉明」などがあり、現在も「生蕎麦 浅野屋」が同じ場所で営業中です。
昭和52年のID 12205は、ほぼ同じ場所の撮影で、先に行くと歩道橋があります。この「古川歩道橋」は東京都が管理し、飯田橋歩道橋と同じで、1970年(昭和45年)に架設しました(東京都建設局「横断歩道橋個別施設計画」No.439)。この写真が撮った昭和44年には、まだありません。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12776-79は、首都高速道路5号線(池袋線)の飯田橋出入口付近を昭和44年9月に撮影したものです。備考では「新小川町付近高速道路下」となっています。
5号線は1969年(昭和44年)6月27日、西神田出入口から護国寺出入口までを供用開始しました。
この写真は開業から間もない時期のものです。高所からの撮影で、おそらく飯田橋交差点(下宮比町)の東海銀行飯田橋支店の建物、現在の飯田橋御幸ビル(1966年=昭和41年5月竣工)から北の方角を見下ろしたのでしょう。
目白通りが奥に延びています。ここには都電15系統が走っていましたが、1968年(昭和43年)に廃止され、軌道も見えません。
首都高は神田川の上に建設されました。画面左に曲がる急カーブは「大曲」と呼ばれる場所です。手前から3本目の橋脚にかかる橋が「隆慶橋」です。その右側、高架の向こうに首都高から下りてくる「飯田橋出口」があります。
一方、目白通りの奥に首都高が白く光って途切れている部分があります。ここは飯田橋入り口の予定地ですが、実際に建設されたのは昭和52年(1977)ごろでした。ID 12215-16に工事中の様子があります。
手前のビルには写植・フォント大手の「モリサワ」の大きな看板。経営理念は『文字を通じて社会に貢献する』こと。デジタルフォント(日本語ポストスクリプトフォント)が有名です。本社は大阪で、大正13年に設立。この下宮比町15-5は昭和44年からの東京支店です。
目白通り沿いの少し先のビルは「中央印刷」。大曲の向こうの「TOPPAN」は文京区の会社で今は「TOPPANホールディングス株式会社」、昔は凸版印刷株式会社と呼んでいました。本社は東京都台東区で、創業は明治33年。事務所は文京区水道1-3-3。総合印刷会社です。
いずれも印刷関係の企業で、神田川流域が印刷・出版で発展した歴史を感じさせます。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17581-82は令和4年10月、赤城神社の鳥居と拝殿などを撮っています。鳥居は昭和44年、令和元年、また拝殿は昭和44年、昭和50-51年、平成29年でも出ています。
(1)鳥居
左側から…… |
(2)拝殿
左側から……
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」 ID 14134は昭和44年頃に赤城元町の日蓮宗清隆寺を撮ったものです。
「一実」は仏語で、絶対平等の真実、「会堂」は集会の大きな建物のこと。表札は「日蓮宗本光山 清隆寺」。
「牛込区史」(昭和5年、576頁)では
本光山清隆寺、中山法華経寺末 起立不明、開基妙行院日徳、慶安四年九月九日遷化、旧境内年貢地百二十八坪、借地百四十四坪半。 |
と極めて簡潔に書いています。なお「中山法華経寺」は千葉県市川市中山にある正中山法華経寺、「遷化」は高僧の死亡したこと。
「当山縁起」によれば、寛永15年(1638年)、妙行院日徳が開基として創建したといいます。
清隆寺には初代・立花家橘之助の墓があることでも知られます。橘之助は明治から大正にかけで活躍した女流音曲師で、名人と呼ばれました。
平成29年に三遊亭小円歌師匠が二代目立花家橘之助を襲名し、82年ぶりに名跡が復活したことで改めて注目されました。
二代目は清隆寺で初代の遠忌の供養をしています。
また、後ろにはお墓以外に「神楽坂樹木葬あかぎガーデン」があります。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13977は平成29年、赤城神社の社殿と狛犬などの写真を撮っています。赤城神社の境内は建築家の隈研吾氏が設計したもので、平成22年(2010年)に完成しました。
神社の社殿とは本殿や拝殿、舞殿などといった境内の重要な建物のことです。また、本殿とは神様がいらっしゃるとされている社殿のことで、拝殿とは参拝者が拝礼を行う社殿。したがって、この写真は拝殿です。屋根には簡単な切妻屋根です。
新社殿は、旧社殿の跡に築いた人工地盤の上に建っています。鳥居から長い階段を上って、写真の拝殿前に出ます。
拝殿の下は氏子参集殿(あかぎホール)、本殿の下は人工地盤を貫く基礎になっています。
では左側から……
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13303-06は、令和元年(2019)5月、赤城神社裏(北側)駐車場からの写真4枚です。この部分は高台の崖上になっており、昭和28年、平成31年などの撮影もあります。
最近の写真なので建物が特定するのも簡単で、手前のえんじ色のマンションで屋上に白い正方形の模様がたくさんあるのは「ライオンズマンション神楽坂第三」(地上5階)で、同じく北に見えるえんじ色のマンションは「神楽坂ココハイツ」(地上11階)、ID 13303-05の薄い茶色のマンションは「グラーサ 神楽坂」(地上8階)です。
ID 13305の奥は、池袋周辺の高層ビル群です。同時期の撮影であるID 14051で詳しく見ています。ただし、豊島区役所、つまり「ブリリアタワー池袋」(地上49階 / 地下3階)は、薄い茶色のマンションの右側で、半分は隠れています。
ID 13303-04の奥は、早稲田方面のマンションなどが写っています。左側から見ていくと、屋上に貯水槽がある青灰色のビルは赤城下町にある旭創業東京支店の「神楽坂アサヒビル」、「BELISTA 神楽坂」は地上13階/地下1階、白い「グランスイート神楽坂」は地上14階で、天神町交差点の近くです。
水色は「菱秀神楽坂ビル」(地上10階)、その右は「フリーディオ神楽坂」(地上11階)、薄い茶色は「パーク・ハイム神楽坂」(地上14階)、全部マンションであり、江戸川橋通り沿いの渡邊坂と呼ばれているあたりです。
中央の一番奥、高い建物は山手線高田馬場駅に近い「住友不動産新宿ガーデンタワー」(地上37階/地下2階)で、ガラスの外装が濃紺に写っています。
ID 13303-4の下を走る道路は無名ですが、そのまま上に行くと「赤城坂」と一緒になってT字をつくります。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9899、ID 9900、ID 9901は昭和50-51年頃、赤城神社からの眺めを撮っています。天気は曇りで、遠くがよく見えません。トタン屋根が光っているので、雨上がりかもしれません。
ID 9899で目立つのは、中央にある「大日本印刷」の広告です。左手前には電柱から街灯がつき出していて、その街灯は消えていません。この下に道路があるのでしょう。
ID 9900では、左端の石柱に「大正十一(年)」と彫られています。その右のビルの塔屋に「はいばら」の広告看板。煙突が何本かあり、右には「竹の湯」とあります。
ID 9901は、少し引いた位置からの撮影です。石柱は屋根つきで、門灯のようなデザインです。「竹の湯」の煙突も確認できます。遠くの集合住宅の上には広告がありますが「日本火災」以外は読めません。
さて以上です。撮影場所の特定は難しい。ところがわかりました。
赤城神社から西の方角に「大日本印刷㈱榎町工場」、北西に「竹の湯」があります。屋根つきの石柱は赤城神社北参道の門柱です。北参道から境内に入ったところ、鳥居の下あたりから撮影したのでしょう。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9902、ID 9903、ID 9904は昭和50-51年頃、赤城神社を撮っています。
赤城神社の拝殿を正面から撮りました。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、入母屋造風で破風が正面を向いています。これは権現造と呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。鈴緒は賽銭箱に向かって垂れています。表柱(向拝柱)は4本見え、回廊の欄干には擬宝珠の飾りがあります。
狛犬は一対で、その台座に改代町の銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
右端に金網フェンスがあります。
右から赤城神社の拝殿、おそらく杉1本、赤城会館です。赤城会館には左三つ巴紋()がつけられています。会館は結婚式などを行っています。
右から赤城会館、昭忠碑の台座、鳥居、下に行く北参道。「昭忠」とは忠義を明らかにすること。日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫、しかし、平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。かわって赤城出世稲荷神社・八耳神社・葵神社という3神社が建立。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8298とID 14161は「赤城神社」を「昭和44年頃か」に撮ったと備考で書かれています。この2枚の写真は人間がわずかに違うだけで、連続して撮影したものでしょう。
ID 8293とよく似ていますが、相違点があります。
第一に、左の玉垣の一部がないことです。ID 8293をよく見ると、玉垣の上部に黒い筋があります。この位置で計画的に除却したのか、あるいは継ぎ目が割れて外れたのか、分かりません。
第二に、このID 8298は好天で、建物の影が出ていることです。また境内の駐車車両も違っており、別の日の撮影と推測できます。
それ以外はよく似ています。看板は「昭和四十五年度園児募集」、写っている人もコート姿や厚着で、季節は冬です。ちなみにID 389とID 390は昭和44年12月でした。
では、左から見ておきます。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6869とID 6870は、1945-55年(昭和20-30年)に、赤城神社で七五三のお祝いを撮ったものです。
赤城神社は昭和20年4月13日、戦災で全てなくなりましたが、本殿は昭和26年に再建。拝殿などの再建は昭和34年なので、この撮影は拝殿の再建前の出来事でした。赤城神社の七五三は他にもID 388があり、こちらは昭和28年11月に撮影しています。この写真2枚(ID 6869とID 6870)も同じく昭和28年11月に撮影した可能性があります。
(1)ID 6869 七五三詣り
正面で神職が向き合っているのが再建した本殿です。本殿には簾(和風カーテン)、お供え、三宝(お供えを盛る台)と高坏、金襴の布などが並び、回廊には擬宝珠の飾りがあります。神職の左右は榊の枝です。
その前に神主が座り、さらに手前に七五三詣りの家族たちが並んで座っています。これは仮設の拝殿であり、木造がわかる安普請であり、天井からは裸電球が下がっています。柱の前には賽銭箱が置かれ、通常はここで参拝するのでしょう。この仮拝殿はID 388でも確認できます。右の手前には母親の手を握る子供もいて、早く見たいといっているようです。
高札様の看板(屋根付きの看板)では「復興瓦奉納受付/御奇篤の方は復興計画中の拝殿の/瓦を御寄進願います/御氏名記入の上葺上げます/1枚金五拾圓」、下には「富◯冩眞舘で/神楽坂五ノ三二」。左の立て看板は「七五三お祝いの方は/御祈祷料を添へて/受付之お申出で/下さい」。「葺上げ」は 屋根を仕上げることです。
(2)ID 6869 露店
石敷の参道の左右に露店が連なっています。参道の奥の仮設拝殿の屋根の下に参拝者が並んでいます。参道の左右に狛犬。右の台座は「改代町」と読むのは、ID 389と同じです。
右の狛犬の背には鉄製の天水桶が見えます。また、左の狛犬のやや左上に石碑がありそうで、茂みから頭をのぞかせています。昭忠碑と同時期にあった少し低い石碑かもしれません。
写真の右端に小さな鳥居があり、参道が分かれています。その先には出世稲荷神社があります。
露店では香具師がさまざまなものを売っています。右手前の黒い服の人は風船、その次の白い服の人はおそらく菓子、その次は千歳飴の屋台です。さら奥に見える壺は甘酒売りでしょうか。左手前は刀や人形などのおもちゃを並べ、奥にも露店が続きます。風船の影はまるで「日の丸」のようです。
参道には親子連れなどが行き交い、振袖と髪飾りをつけた女の子もいます。
左奥は木造の簡素な民家が並びます。その前の枯れたような木は「巨大なやけぼっくいになった大銀杏」でしょうか。さらに左に行けば赤城下町へ下る北参道の階段があるはずですが、この写真には写っていません。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」でID 389は「昭和44年(1969年)12月」に「赤城神社本殿」を撮り、ID 390は「同年12月」「赤城神社」を、ID 8262は「昭和44年頃か」と疑っていて「赤城神社(改代町の狛犬)」を、ID 8292とID 8293は「昭和44年頃か」「赤城神社」を撮ったと備考で書かれています。
戦後の1951年(昭和26年)、本殿を再建し、さらに1959年(昭和34年)、鉄筋コンクリートで拝殿などを再建しています。
(1)赤城神社拝殿
ID 389とID 8262は、いずれも赤城神社の拝殿を正面から撮っています。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、入母屋造風で破風が正面を向いています。これは権現造と呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。垂木飾りがあり、鈴緒が左三つ巴()の賽銭箱に向かって垂れています(図)。表柱(向拝柱)は4本見え、回廊の欄干には擬宝珠の飾りがあります。
狛犬は一対で、その台座に改代町の銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
向かって左の建物の看板には「館」が見えます。これは結婚式場の赤城会館でした。右は同様に社務所と、その奥は赤城幼稚園のようです。赤城幼稚園は1950年頃に開園し、2009年に閉園しました。
赤城会館、赤城幼稚園とも(3)赤城神社の遠景に案内看板が出ています。
ID 8262では右の手前に金網フェンスがあります。
(2)神門と鳥居
門(神社なので神門と呼ぶそうです)の直前から内部への写真を撮っています。左側の玉垣に「赤城神社」、右側は無地の玉垣で、高札様の看板(屋根付きの看板)「赤城(会館)」と看板「之より境内につき 神社関係以外の 自動車通行止」と門灯があり、次に大きな社号標(神社名を建てたもの)の「赤城神(社)」です。参道を進むと、左手にドラム缶数個と二輪手押し車1台、砂1山があります。
鳥居はID 388で遠くに見えていて、おそらく戦前からあるものです。鳥居の礎石の「通寺町」は現在の「神楽坂6丁目」です。左側には民家があり、舞踊などを教える「教授」、読めない看板と自動車1台があります。右側にも民家があります。
さらに進むとアーチ型(⨅)の車止めが参道の中央に置かれ、その右側には「駐車禁止」と書かれ、また幹巻きを行っている木も数本あります。
(3)赤城神社の遠景
さらに赤城神社から遠くなります。左から。
住宅地図 1965年。赤丸の上はID 389とID 8262、真ん中はID 390とID 8293、下はID 8292。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 388は、昭和28年11月に、赤城神社の入り口付近を撮った写真です。
左に石の社号標(神社名を石柱などに刻んで建てたもの)の「赤城神社」、右に看板「赤城神社御造営作事場」があります。「造営」とは神社・寺院・宮殿などを建てることで、「作事場」とは土木建築の仕事場や 工事現場のこと。赤城神社のウェブサイトによると…。
残念なことに、その立派なお社も昭和20年4月13日夕刻の戦災により、ことごとく焼失してしまいました。 終戦後、昭和23年より復興の計画を立て昭和26年10月16日には本殿を竣功、最終的に拝殿、幣殿ができあがったのは、復興計画から10有余年を経た昭和34年5月でした。 |
つまり、この撮影の時は戦災からの再建途上で、本殿はあっても拝殿はまたできていません。参道の右奥のトラックも工事のためでしょうか。
社号標の手前は側溝をはさんで道路がありますが、よく見ると現在の神楽坂の路地のようにピンコロ石を扇状に並べた石畳でした。
参道は未舗装で、鳥居の跡に礎石があります。後に鳥居は写真より奥まった位置に再建され、社号標も別のものになりました。
参道の両脇は民家のようです。右の電柱の看板は「赤城〇〇建設中」と読めますが、詳細は不明です。左にはいかにも昔の自動車が停まっています。
左に5角形の板「赤城〇〇」があり、正面奥には中鳥居、その奥に本殿が見えます。中鳥居の奥にはガーデンパラソルが見え、何かを売っているようです。
参道には晴着姿の親子連れが目立ち、七五三の参拝客でしょう。1人の女の子は洋服と千歳飴を持ち、もう1人の女の子は着物と帯を着て、隣の母親でしょうか、千歳飴を持っています。ID 388の説明は11月ですが、おそらく11月15日頃です。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17577は令和4年(2022年)10月、JR飯田橋駅西口を撮った写真です。JR東日本は2015年8月から飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設する等の改良工事を始めました。この西口駅舎も一旦取り壊し、そして、令和2年(2020年)7月12日(日)、リニューアルオープンし、それから2年後の写真です。
駅舎西口の中央に大きく「JR飯田橋駅」(JR東日本 Iidabashi Station)と書かれています。10〜11段の階段もできました(以前の西口は下図に)。
西口駅舎の正面が3階(西口コンコース階)、上は4階(西口テラス階)、そこから下ったホームが2階(ホーム階)、東口は1階(東口コンコース階)です。4階にある「エキュートエディション(Ecute EDITION)」とは、主に駅ナカのコンビニを展開しているJR東日本の子会社です。上階のプレッセ飯田橋デリマーケット(Precce Iidabashi DELI MARKET)は2023年1月31日に閉店しました。3階にあった「GODIVA café Iidabashi」は営業中です。「◯ie Bufre Boulangerie Re◯」は「NewDays エキュートエディション 飯田橋西口」に変わりました。
構内に出ている立て看板の文字は小さく、中身はよく見えません。
この2022年では、コロナウイルスが猛威を振るい、通勤客等の人々は全員マスクをつけています。また、ロシアがウクライナを奪おうとして戦争を始めたのは同年2月のことでした。
駅舎前には歩行者空間や植栽を用意し、写真では見えませんが、右手に身障者のスロープもあります。
後ろにある巨大な建物はプラウドタワー千代田富士見で、その右はクラッシィハウス千代田富士見で、どちらもマンションです。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13226は神楽河岸、飯田濠と国鉄飯田橋駅などを撮ったものです。飯田濠の東岸は新宿区で神楽河岸、右岸は千代田区で飯田河岸です。
比較するため、池田信氏の「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)を見てみたいと思います。
池田信氏の撮影時期は昭和40年4月です。壕の中央に台上のものがあり、左岸からは坂のようなものでつながっています。これは建設廃材の積み出し場だったと思われます。
北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)で「かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか」と書いています。
壕は浅く、両岸は干上がって底が見えています。喫水の浅いはしけなら、中央部をかろうじて運行できたのでしょう。
ID 13226に戻ると、池田信氏の写真に比べて飯田橋交差点の歩道橋と首都高速が完成しています。首都高が開通した昭和44年以降の撮影だと分かります。
中央に浮体式のクレーンがあり、左岸に鋼矢板(シートパイル)を杭のように打ち込んでいます。右岸の石垣下の底の泥が減っているように見ますが、この工事の船を入れるために浚渫したのかも知れません。
昭和48年2月のID 8792、8793では鋼矢板は並行に3列あります。ID 13226はこれより前、第1列の工程でしょう。
有楽町線建設史の年表によれば、8号線(有楽町線)飯田橋第一工区の着工は昭和46年(1971)5月、同第二工区の着工は同年8月でした。
ID 13226の工事が地下鉄工事とすれば、撮影時期は昭和46年かもしれません。新宿区の神楽河岸現場詰所で撮った写真だと思います。
右岸に並んでいる建物は地図では倉庫ですが、右端の建物は地図では車庫で、一番奥の窓のある建物はID 493などでは寮(社宅)でした。
飯田橋駅のホームにはたくさんの人が電車を待っています。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12317-18は昭和41年頃、下宮比町の飯田橋交差点の消防訓練を撮影しました。
正面左の8階建ては飯田橋東海ビル(昭和41年(1966年)5月完成)です。1階は東海銀行飯田橋支店でした。現在は飯田橋御幸ビルです。
また一見して分かるように、飯田橋交差点の大きな歩道橋も、首都高速道路もありません。歩道橋が出来たのは昭和43年3月で、首都高の開通は昭和44年ごろです。
道路は左へ行くと大久保通り、右奥が目白通りです。交差点を南から北に向けて撮影しています。
中央に東京消防庁の「はしご車」が出ていて、消防職員と警察官も数名います。遠くにポンプ車(消防ポンプ自動車)もあります。はしご車は車体から張り出すアウトリガーのため停止し、ポンプ車は撤退しているようです。路面は水に濡れており、少なくとも一部の放水は終了しています。
ビルの3階より上は窓を開けて多くの会社員が訓練を見下ろしています。歩道にも見物している人がいます。
ID 12318の左端にゼブラ柄の背面板がついた信号機があります。隣のビルは「東海銀行飯田橋支店」、袖看板は「東海銀行」と掲示板「BANK」。その右隣に「三平酒造」があり、酒の黄梅とカッパの絵があります。さらにその右隣は「パーマレディー」「Beauty Sh(op)」「LADY」です。
1968年の写真(J・ウォーリー・ヒギンズ「秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本」光文社新書 2018年)とよく似ていますが、交差点の中に立つ信号は写っていません。
はしご車の左の電柱には「質 オザワ」、その左に「大久保通り/Okubo-dori」の道名標、右の電柱は右の電柱では「ミカワ」「松信産婦人科」です。
目白通りの路面電車の飯田橋停留所では少なくとも男女2人が待っています。これは都電15系統で、左に行けば「大曲」から「高田馬場駅前」に、右は「九段下」から「茅場町」に通じます。
停留所の向こうは神田川ですが、見えません。その奥は文京区で、「お待たせしない家」とサインポールと「◯◯理◯◯の◯◯」、「◯◯◯5◯◯」などの看板が見えます。
空中には電線と、都電の架線が縦横に張り巡らされています。歩行者の多くは長袖で、コート姿も数名います。飯田橋御幸ビルの完成が昭和41年5月なので、その年の晩秋の撮影でしょうか。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12111は昭和54年3月、飯田橋駅を背中にして五叉路を撮影したものです。
歩道橋「ゆずり合いモデル交差点/ひとり◯◯◯◯◯◯◯に」「目白通り/新宿区下宮比町」があり、それと同じ方向で、1台の自動車が左から右に走る道路は「外堀通り」です。たくさんの自動車が並んで待っている道路は「目白通り」です。またその奥には高速道路とそれを支える橋脚があります。高速道路の下は神田川で、昔は江戸川と呼びました。
交差点の向こうは文京区です。「(写)真製版所」「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」が見えます。
誠文堂新光社「日本地理風俗大系 大東京」(昭和6年)の改訂版(昭和12年)です。神楽坂五丁目と同じくこれも新宿歴史博物館「新宿風景II」(平成31年)に出ていました。
飯田橋附近 飯田橋は江戸川と外濠との合流する地点でこれから下流は神田川と称す。写真は市電交叉点附近背景の小丘は富士見町一帯の台地で前は省線飯田橋駅。前面の橋は飯田橋でその下を流れるのが江戸川。この辺は四流八達の区域で市電はここを中心に五方面に通ずる。 |
手前の川は当時は江戸川(現在は神田川)で、船河原橋を超えて外濠(外堀)と一緒になって初めて神田川になりますが、外濠(外堀)と神田川はこのアングルでは見えません。船河原橋を越えるのは外堀通りで、また外堀通りと直交するのは目白通りです。五叉路の一つ、大久保通りは出てきません。
また目白通りの下には飯田橋という橋がかかり、さらに現在とあまり変わらない飯田橋駅が見えます。地元の方は「白文字『飯田橋駅』の『駅』の上にある階段状の建物は大松閣ですね」と言います。
小石川区には巡査派出所(現在は交番)と自働電話(現在は公衆電話)、自動車もあり、路面電車は小石川区と牛込区をつなぐ船河原橋を渡っています。
左隅の角丸四角の店舗には「◯◯◯◯品」と書かれ、右の角丸四角の中にはおそらくアルファベットの10字の看板、2灯が並んだ街灯、「◯◯◯京」、ロゴマークがあります。
また地元の方は「見直して気づきましたが、船河原橋のたもとの小さなアーチは『大下水』の出口ですね。『暗渠さんぽ』の写真と同じもののように見えます」と書いています。明治44年に東京市が敷設したヒューム製下水管も同じ開口部にあり、これは厳密には明治時代の下水管でしょう。大下水(横幅は約1.8m、御府内備考)の一部が下水管(卵形で短径約90cm)になりました。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12083、85-90、94−95、98の10件は昭和54年3月、目白通り沿いで、飯田橋駅付辺を撮影したものです。撮影は全て千代田区です。
(1)左から「ネクタイ」「(レ)ンタル」。突出し看板「珈琲専門店 珈琲館 飯田橋店」、ファサード看板「珈琲館」、ウインドーサインの1枚は「営業中」、「売店コーナー ◯◯式◯◯◯ 売店コーナー」、スタンド看板の「珈琲館」。山商ビル。袖看板「中華料理 新三陽」
(2)下から上を見ています。前から「美(穂美容室) TEL」サインポール(理容所)。次の商店は「かまどの煙り なべの湯げ 酒盛り 小屋 庄や 飯田橋東口店 236-5300」、ファサード看板も同じ。次の商店は「会話 外人教授 TEL 262 5817」「遠心技研 株式会社」「FLセンター 英仏会話 4階 外人教授」。テントの「カメラのミハル」「カメラのミハル シャンス」。「KODAK film ミハル商会」「スポーツ用品 シャンス」。次の商店は「学生 サラリ ローン」「日動火災」「洋品 紳士物専門店 高橋洋◯」。次は「社」「なかの」「(Coc)aC(ola) や」
(3)おそらくカメラを(2)から下向きに変えただけでしょう。前からサインポール(理容所)。次の商店は「かまどの煙り なべの湯げ 酒盛り小屋 庄や 飯田橋東(口)」、提灯「庄や」、サントリー、サントリービール、ダンボールの「ヘ」と「イ」「タマネギ」「ホクレン じやが」、スタンド看板の「清酒 ビール 田舎料理 磯料理 山筍珍味 やき鳥 各種揚物 なべ物 どぞう 庄や」。次の商店は「英仏会話 4階 外人教授」、テントの「カメラのミハル」「Kadak 写真の楽しさを売る ミハル商店」。公衆電話。「カラー 本日出来ます」。「シャンス」ではスキーも販売中。
(4)右の道路側では「FLセンター 英仏会話 4階 TEL 262 5817」、ゴミ置き場にポリペールとダンボール「フリーア(ル)バム」「▲キ◯」(キュウリかキャベツ)、「FIRE HYDRANT 消火栓」と消火栓広告「ハツヤ 初谷歯科 この先イワタビル 4F TEL 262-8206」、「◯◯◯科」。
左の商店側では「小屋 庄や 飯田橋東口店 236-5300」。サインポールと「いらっしゃいませ 只今営業中 美穂美容室」。Coca Colaの自動販売機。テントの店舗。「日刊工業新(聞)」「朝日新聞」「(日)刊スポーツ」。「KM 国際ハイヤー (飯)田橋 (営)業所 64 931」。「駒忠」。屋上に「用字便覧 小◯◯◯」。「自衛官募集中」。屋上に「◯ビル」
(5)左側では電柱看板「眼科保健取扱い 診療所 入口 ◯り二つ十字路先左側」「質 上値サービス 新宿区白銀町 神楽坂 フク◯」「日本労働党 政策演説会」「武見会長にもの申す 患者にも言わせてほしい 『医者にも言わせてほしい』に反論する。生天目昭一著 ¥880 泉文社」。右側の商店のテントでは「道しるべ」、スタンド看板の「Coca Cola 道しるべ coffee & snack」、窓におそらく「募集中」。 地下鉄入り口の付近では (最高速度30キロ)
(区間内)
(駐車禁止)
(区間内)。入り口では「SUBWAY 地下鉄」「飯田橋駅」「飯田橋駅 東西線 有楽町線」。国鉄の飯田橋駅の向こうには「第一勧銀」「週刊現代」「東海銀行」「セントラル ファイナンス」。
(6)左から「琴古流尺八教授」。(指定方向外進行禁止)8−20。寿司正 準備中。突出し看板「きし」「めん」「尾張屋」、ファサード看板「 張屋」、のれん「尾張 きしめん」、はり紙「あ◯ と◯」「きしめん なべやき」、プラスチック製品の「準備中」、食品サンプル。隣の商店は「公衆電話」「たばこ」「新宿 中村屋」。消火栓。「新宿 中村屋」
(7)中央に飯田橋駅、高架橋、ガード下があり、左側から飯田橋交差点(五叉路、市ヶ谷と水道橋)の交通標識、交通信号機、 (交通標識 指定方向外進行禁止)、交通信号機、
(自転車及び歩行者専用)が2個、交通信号機、
(指定方向外進行禁止)、交通信号機、「中央線 飯田橋駅 JNR」、「大型最徐行 制限高4.0M」、交通信号機、
(左・指定方向外進行禁止)、電話ボックス。国鉄飯田橋駅の向こうには「第一勧銀」「週刊現代」が見えます。
(8)右側からはり紙「紳士靴 主催 革◯」「靴の◯◯ 本日より 安い!」「◯◯◯◯◯◯◯◯ 本日より 安い!」。突出し看板の「マスミゴルフ」「コピー 飯田橋」「昭德工業」、スタンド看板「Canon NP コピーサービス」「ゴルフ マスミゴルフ」。テントの上に「フルーツパーラー」。突出し看板「◯ーンヒル 販売(株)」「高級 果実 罐詰 タキン果実店」。突出し看板「きそば」「新宿 中村屋」「めん・尾張屋」「寿司正」「(甲)玉堂」「田」「中華料理 新三陽」「珈琲館」。
道路側には交通信号機(横型灯器)、交通信号機(歩行者灯器)、電柱看板の「質 中◯」、 「SU(B)WAY 地下鉄」。
左側は「朝日新聞」「国際ハイヤー」「みど◯」「イワタビル」
(9)左側は「信販 飯田橋」「こう書房」、「飯田ビル」、「鉄(か銭)道不動産」「◯和商事」。(横断歩道)と
(指定方向外進行禁止)が見えますが、あとは小さくて読めません。
中央に地下鉄出入口と。
(指定方向外進行禁止)8−20。交通信号機(横型灯器)。
(指定方向外進行禁止)8−20。
(自転車及び歩行者専用)。「千代田区」も右に見えます。最後に交通信号機(横型灯器)。
中央の商店では「(鯉)のぼり 特別奉仕価格提供中 ◯って売る店 林商店 263 1771」「ナイロン ◯リ印 鯉のぼり 発売中」「五月鯉のぼり たこ 林商店」。「道しるべ」「なかや食堂」「Coca Cola なかや食堂」「なかや食堂」「め◯ 店」「電話会話」「現代の理論社」「学生 サラリ ローン」「日動火災」「洋服 洋品 紳士物専門店」「KODAK film ミハル商会」「シャン(ス)」「スキー用品大バーゲン」「英仏会話」「遠心技研」「朝日新聞」「国際ハイヤー」「イワタ」
(10)ガード下の「飯田橋駅 IIDABASHI STATION」。アーチ状の駅入り口の下に「レストラン」
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12074、76-82の8件は昭和54年3月、目白通り沿いで、飯田橋駅付辺を撮影したものです。撮影は全て千代田区で、地図では見えませんが、北西方面に行くと飯田橋駅東口が出てきます。
(1)左側から電柱広告の「飯田橋診療」、歩行者用信号機、3階以上のビルの入口の名前は不明、2階建ての商店には突出し看板「カルピス」「味の玉川」「杉山商店」「Coka Cola」、次の2階の家のシャッターは閉鎖中。
(2)左側から飯田橋書店、路地があり、奥に進むと「陣太鼓/名物そば・うどん」「営業中 安い」「名物」。突出し看板は「揚げ立て天ぷら 蕎麦・うどん 陣太鼓」、壁面看板の「スタンド そば・うどん 納豆みそ汁 とにかく安い! うまい! 早い! 揚げ立て天ぷら 陣太鼓」、正面は「揚げ立て天ぷらいろいろご座います」「天丼 コロッケ」「名物そば・うどん コロッケ」木に立てかけた「名物/天◯」。3軒目の二階は「東洋美術創作画廊」とクーラー、一階は「さぬき名物 手打うどん 三◯」「手打/うどん/三代」。突出し看板がありますが、中身は不明、一方、(直進以外進行禁止)は見えます。4番目の店は桶らしいものがあり、壁一面にガラスが張られ、商店の名前はやはり不明です。
(3)前から「◯ン洋菓子店」「初谷歯科/AM 9:30-PM1:00/PM 2:00-PM8:00/休日 日曜 木曜 祝祭日/土曜 午前中/健康保険取扱/時間予約制/TEL 262-8206」「BRO」「サッポロビール/若鳥料理/魚貝山菜珍味/酒蔵/駒忠」「自衛隊採用中/飯田橋募集案内」。トラックが走る道路と駐車場があり、次は「国際ハイヤー」「庄や」「英仏会話」「日動火災」「サラリ/ローン」。さらに国鉄の飯田橋駅(2階にホーム)を越えると、遠くに第一勧銀と東海銀行が見えます。
(4)駒忠です。上から「階上 カウンター お座席 若鳥料理 魚貝山菜 珍味もの 灘の清酒 菊川 若(鳥料理) 魚貝山菜 処」「御奉仕一途 若鳥料理 魚貝山菜 珍味 お茶づけ おにぎり めし物 駒忠」「呼小と/心◯し/家◯ ◯笑/星の間」「大小御宴会 承ります」。道路には「自(衛隊)」
(5)左側から「◯ビル」。「キリン生ビール」「やき鳥 割烹 宴会 ◯亭 清酒 大信州」「吉野家 牛丼 大小 肉皿 大小」「米乃油ビル」。空間(ガソリンスタンド)。
(6)左側から「米乃油ビル」「P←」(駐車場)、ガソリンスタンド、大きな道路に接して「飯田橋スナック」「(Fa)ntaスナック」、2店の看板、「アサヒビール ◯山 瓢箪」「P」。電柱看板は「つけ麺 大王」「おにぎり パン 牛乳」。
(7)左側には「届け用紙」「甲玉堂」「尺八」「澤之鶴 寿司正」「きしめん」交通標識「首都高速 飯田橋 北池袋 高島平 この先 150m」「中村屋」。離れて地下鉄。飯田橋交差点(五叉路)の交通標識。中央に「飯田橋駅」。右側には電柱広告「◯部歯科 895」「質 上値 サービス フクヤ」、店舗は「朝日新聞/日刊スポーツ」「日刊工業新聞」スタンド看板の「CocaCola」「かまどの煙り なべの湯げ 酒盛の小屋 庄や 飯田橋東口店」「会話 外人教授 TEL 252 6817」「遠心技研株式会社」「Bar ◯◯」「スポーツ用品 シャンプ」「KODAK film ミハル商会」(ミハルビル)「サラリ 学生 ローン」「日動火災」「CocaCola なかや」「なかや食◯」「(セント)ラル ナン」。中央奥に「第一勧銀」「週刊現(代)」
(8)前から「(朝)日新聞/日刊スポーツ」「日刊工業新聞」。スタンド看板の「CocaCola」。サインポール。「かまどの煙り なべの湯げ 酒盛の小屋 庄や 飯田橋東口店 263-5300」「英仏会話 外人教授 TEL 252 6817」「遠心技研株式会社」「Bar ◯◯」「スポーツ シャンプ」「KODAK film」「サラリ 学生 ローン」「日動火災」「CocaCola なかや」「なかや食◯」「セントラル ファイナン(ス)」。中央に「飯田橋駅」。中央奥に「東(海)銀行」「ハート(第一勧銀のロゴ)」「週刊(現代)」
誠文堂新光社「日本地理風俗大系 大東京」(昭和6年)の改訂版(昭和12年)です。これは新宿歴史博物館「新宿風景II」(平成31年)に出ていました。
神楽坂の繁昌 いかめしい見附の石垣を西すれば緩かな登りの神楽坂となる。この通りには各種飲食店カフェーの間に色々の商家が建ち並び夜間は雑踏発盛を極め附近には筑土八幡・赤城神社があり法政・早稲田学生の往来繁く特に競技に優勝した際は想像の外である。 |
現在の神楽坂上交差点(大久保通り)から坂下方向で、神楽坂5丁目(当時は肴町)の夜の写真です。
電飾看板以外に、3種類の灯りが路上にあります。1は交通信号灯です。2は街灯で、大きなドングリ型の照明と下にも電灯があり、【L】の鈴蘭灯でしょう。3は【L】の下にあるような行灯型の角灯で、切妻の小屋根を備えています。小屋根から光が漏れている点を除くと【K】とよく似ています。しかし、すりガラスも明治時代からあるので、同じものでも構いません。
店の看板はよく読めませんが、想像を交えると……
正面やや右、ひときわ高い電飾は「田原屋」と思われます。
時代 | ←北西 | 南東→ | |||
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震災前 | 洋服・都築 | 機山閣 | 玩具店 | 松葉塩物 | 神楽坂せんべい |
震災後 | 菊岡三味線 | 山岡書店 | 三角堂メガネ | ||
昭和5年頃 (1930) | 高島屋十銭ストア (昭和7年以降) | ナトリ理容室 | 岡沢菓子店 | ||
1952 | (空き) | 雑貨 | パチンコ | 楽器レコード リード商店 |
|
1955 | 明治牛乳 | 関口商店 | うなぎ大和田 | ||
1963 | (空き) | ||||
1980 | Fance | ||||
1999 | 菱屋 | 弁当たぐち | (建) | ||
2010 | 五十番 | キッチンママ | セイジョー | ||
2018 | チカリシャス | 買い取り店 | |||
2020 | 全て閉店中 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12023、25、27-29、31−36の11件は昭和54年2月、目白通り沿いで、飯田橋駅付辺を撮影したものです。撮影は全て千代田区です。
(1)Pot coffeeは第五田中ビルに入っていました。営業時間は午前8時から午後8時まで。COFFEE SHOP POTと書いてあります。
(2)「神田事務」店があり、次の「喫茶店『プリバ』スナック」ではAM8:00~11:00の間モーニングサービスとしてコーヒーか紅茶にトーストとサラダがついて280円。さらに看板を左から並べると「灘清酒 多聞 大衆割烹 うす井」「カレンダー」「◯ング」「(潮)出版社」「アンもん」「さくら」「(麻)雀」「キムラヤベーカリー」。道路に近い歩道の看板は「ゼブラ」「アイユニオン」「アイカー◯/さしあ◯」、名前の不明の幟、道路標識(指定方向外進行禁止)8〜20、電柱「◯山グタンド バス」、電柱看板「グランドパレス」
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12025 目白通り沿い飯田橋駅付近
(3)道路の反対側で、道路標識を除けば、信濃ビル、しゃぶしゃぶ、そば処 長寿庵です。
(4)酒処うす井は佐藤ビルにありました。左では「只今 準備中 です」「本日◯◯(◯◯◯)刺身 麻婆豆腐 湯どうふ ムツ照焼/肉じゃか アジフライ コロッケ サバミソ」
(5)キムラヤビルのキムラヤベーカリーは神楽坂3丁目にあった木村屋とは別系統で、銀座木村屋から別れた店です。その右側にはたばこ、雪印アイスクリームの冷凍庫、赤電話。さらにその右は「専門の TEL 六七九四」「クリ(ーニング)」
(6)読めない看板、電柱看板「◯久川」、看板「だんご駒形」、看板3枚「(不明)」「サン◯行◯◯」「麻雀」、飯田町◯、コカコーラ
(7)二輪車「タンロップ」。「いやな足のニオイと汚◯/ニオイ暗い」「カネボウの医薬品 漢方相(談)」、看板「大卸」、電柱広告「産関有料駐車場」と「アザミ美容室」、「百草胃腸薬 大洋薬品工業」「毛 若禿 円形禿 フケ、カユミ、抜毛で/お困りの方は/当店でご相談下さい ハツモール」。おそらくヤルマツ薬品でしょう。
(8)反対側で「元祖 中華つけ麺 大王/特製大王餃子・ソース焼そば」。2階は「麻雀 奈美」。隣の家は「GSバッテリ(ー)/島田自動車電機一般修(理)/(有)島田電気工業所」
(9)「ハタイ」と鏡映反転の「有」、「限會」。「飯田町二丁目」「9ー4」。隣の家で「森永ヨーグルト/ピンを抜いてお返し下さい」。
(10)酒井書店です。「麹町法人会々員」も出ています。
(11)さらに1ブロックほど南東方向に動いていきます。道路上には「一丁目歩道橋」、右側に「神田信用金庫」と「ナショナル」、中央に電柱広告「咽喉科 千代田医◯ ◯ ノ八 三井銀行そば ☎︎ 二六」パンフ「ゴミ容器集積所 月水金」、左側に「焼 家」「ア ◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯」「年金 ◯◯ 貯金 為替〒電話 電信 郵便」「おそば 増 増田屋」「喫茶 エリカ」「明治生命」「竹書房」「千代田ビル」が見えます。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12019と12020は昭和54年2月、目白通り周辺を撮影したものです。撮影位置は地下鉄東西線飯田橋駅の出口を地上に出た千代田区です。ID 12019の右端に、下駄履き住宅(現「飯田橋サンポーロハイツ」)が写っています。
目白通りの九段下方面を狙っていて、ID 12019では「山京ビル」が見えます。その奥、かすんでいる高い建物はホテルグランドパレスです。1972年開業、2021年6月営業終了、2023年現在は解体されています。
山京ビルの手前は、片側3車線の広い道に面していながら2-3階の低い建物が目立ちます。現在は、多くが10階建てくらいのビルになっています。
「山京ビル」は千代田区飯田橋1丁目7−9です。また、坂田一真堂は飯田橋3丁目4−3です。
千代田区飯田橋(昭和54年頃) | ||
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新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11468は昭和51年8月、飯田濠と神楽河岸、飯田橋駅西口、牛込橋周辺を撮影したものです。
実際には飯田濠の周囲はID 493などで説明してあります。なお、これは飯田濠で、写真説明にある神田川の支流にあたります。
左上のビル群はまだ説明していません。左端の少しだけ屋根が見えているのは日本歯科大学体育館(1)です。その右が9階の東京警察病院(2)で、屋上には「東京警察病院」と書いてあります。警察病院前の黒い建物と立木は富士見町教会ですが、よく見えません。その右は6階の飯田橋会館(3)で1階は郵便局でした。次は暗く見える前田建設工業別館(4)で、中に三井住友銀行が入っています。多分「前田建設工業」と書いてあるはずです。その次は石原産業東京ビル(5)で、ここも何かビルに書いてあります。その次はフジボウ会館(6)で、最上階は下よりも広くなっています。その右は前田建設工業(7)でした。
約30年後の写真が以下の2枚です。富士見町教会が建て直されたのを除けば、建物はほとんど変わっていません。
千代田区遺産 飯田橋サクラパーク 再開発地区全体 撮影日:平成20(2008)年6月
千代田区遺産 飯田橋サクラパーク 再開発地区全体 撮影日:平成20(2008)年6月