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新見附の前史[明治の市区改正](明治21年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 市区改正委員会の初期、東京の道路計画の立案時に以下の議論がありました。

明治21年(1888年)10月15日開催 第7号会議
19番委員 (靖国神社裏の路線に)一項を加えたし。外濠に新たな橋を架し、この路線を新設せば、すこぶる便宜なるべし。
2番委員 しからば新架橋を要するや。
19番委員 しかり。市ヶ谷門と牛込門との間は8丁ほどにして、その間に橋梁なく、かつ(千代田区側の)番町あたりは道路少なき。1カ所くらいは新架橋を設けて可なり。
(新字・新かなで適宜省略)
※8丁(約870m、実際の牛込橋-市ヶ谷橋間は約1km)

関東平野迅速測図。1896(明治19)年 外濠付近

 提案した19番委員は銀林綱男という明治政府の官僚です。意欲的な人だったらしく、他の道路でも積極的に追加や改変を意見しています。後に官選第6代埼玉県知事、東京商品取引所(東京米穀取引所と合併し戦時統制で解散)初代理事長などを務めました。

明治27年(1894)10月 東京商品取引所設立、初代理事長銀林綱男。上場商品(塩、雑穀、肥料、砂糖、油、金属、木綿、棉花、綿糸)の直取引、延取引、定期取引を為すもの

 曾孫に政治家の片山さつき氏がいます。

片山(さつき)大臣……取引所につきましては、私は大変感慨深いものがございまして、東京商品取引所というのが明治時代に最初に日本にできたときの初代の理事長が私の曾祖父の銀林綱男でございまして…

 さて、もとに戻って……銀林委員の架橋提案は賛成を得られませんでした。

25番委員 新架橋を要すれば私は不同意なり。
委員長  19番の説には賛成者なきをもって消滅に属す。

 明治26年、この構想は民間資金で市区改正委員会の許可を得て実現し、後に新見附と呼ばれるようになります。銀林はすでに委員を外れていました。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

「新見附」はいつから?

文学と神楽坂

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 牛込見附と市ヶ谷見附の中間にある新見附は「江戸城三十六見附」にはなく、民間資本で作られた新しい橋です。明治26年(1893年)の新設許可は単に「新道」でした。
 この橋はいつ完成し、いつごろから「新見附」と呼ばれるようになったのでしょう。
 明治28年7月調査の地図には橋が描かれており、2年足らずで完成したと思われます。しかし牛込門や市ヶ谷門と違い、名前は書いてありません。

東亰市麹町區全圖 新見附付近 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088845/5

 明治31年11月の新撰東京名所図会第17編 麹町区の部・中には「新開道」として出てきます。「名づく」とあるので、これが名前だったとも思われます。

新開道 靖国神社南側の通りを一直線に進み、市ヶ谷に至るの間。堤丘を開窄(開削)し、壕水を埋没し、もって道路とせるところを名づく。(新字・新かなに変更)

 また明治32年6月の新撰東京名所図会第19編では、絵図に描かれているにもかかわらず何も書かれていません。一口坂についても記事がありません。

 明治30年代の地図には新見附自体が描かれていないものが多く、「地元民しか知らない橋」であったようです。
 一転して明治39年8月の新撰東京名所図会第四十三編 牛込区の部・下では地図に「新見附」が明記されます。

 これ以降、他の地図でも新見附が見られるようになります。何が変わったのでしょうか。
 それは路面電車の開業です。東京電気鉄道の外濠線(後の都電3系統)が延伸され、橋のたもとに新見附停留所ができたのは明治38年8月でした。

 新撰東京名所図会の市谷田町の説明にも

電車外濠線往復し、新見附停留所あり。商家軒を連ねたり

と出てきます。
 すでに地元で新見附と呼ばれていたのか、外濠線が新しい名を考えたのかは分かりません。ただ停留所名は公文書にも記載されるため、新見附の名が定着したと思われます。

 新見附の大半は土堤でできた土橋です。大正9年9月30日の暴風雨で崩壊し、橋の下を通っていた中央線の電車(現・JR)が壕側にずり落ちる大事故がありました。崩れた部分から、土中の水道管や電線が見えます。現在は鉄道の上は鉄橋で、昭和4年(1929)7月にかけられました。

一口坂を下りきった新見附交差点から、新宿区市谷田町に向かって、JR中央・総武線を越え、外濠の水を横切っている橋です。明治中頃、外濠の牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて橋が造られ、旧麹町区と旧牛込区の住民の行き来の便宜が図られました。その結果、外濠は二つに仕切られ、下流の牛込橋寄りは牛込濠、上流の市ヶ谷橋寄りは新見附濠と呼ばれるようになりました。現在の橋は昭和4年(1929)7月6日の架橋で、長さ20.65m、幅11.27mの鋼橋です。
千代田区観光協会

 この説明に従えば、千代田区側の橋のたもとが「新見附交差点」です。ただ外濠通りの信号(新宿区)の交差点名表示も「新見附」とあります。
 牛込見附や市ヶ谷見附の橋が「牛込橋」「市ヶ谷橋」であるのに対し、新見附は「新見附橋」と「見附」が橋の名になっています。

外濠通り「新見附」Google

注:国や東京都、他の道路地図では、外濠通りの交差点を「新見附」交差点と呼びます。また橋は「新見附橋」と呼び、普通「新見附」とは呼びません。

新見附の新設[明治の市区改正](明治26年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 牛込見附と市ヶ谷見附の中間にある新見附は、明治期の新しい橋(土橋)から生まれた地名です。旧江戸城の三十六見附ではないため知名度が低く、資料も少ないようです。見附といっても門も桝形もないので、橋全体が「新見附」と呼ばれることもあります。
 東京市区改正委員会が「麹町区四番町ヨリ市ヶ谷田町ニ通ズル等外道路ノ自費開設願」を審議したのは、明治26年(1893年)9月22日開催の第百号会議でした。

東京市区改正委員会議事録 第6巻81コマ 新見附開設 麹町区四番町ヨリ市ヶ谷田町ニ通ズル等外道路新設之図

 市区改正は重要度順に、第1等から第5等に分けて道路建設を計画していました。その計画にない「等外」道路を、民間が自費で建設するプランです。「新見附」という名もありません。
 当時の東京府知事は、以下の内容を文書で市区改正委員会に意見を求めました

 新道開設の儀につき、福永儀八ほか22名の者より出願あり。
 麹町牛込両区を貫通する中央枢要の路線にして、将来一般の便益少なからず。かつ新道に要する土積は、目下、牛込門外壕内浚渫等の土、その他不用土を生ずべき見込みもあり。
 この不用土をもって漸次、築設することに致せば、幸いに多額の工費を要せず。工費2,486円余をもって竣工し得べきことに相成り。
 工費は願人その他有志者より悉皆寄付致すべき旨、申し出あり。建物の移転料を要せずして開設し得べき。等外道路幅員4間(7.2m)として開設可と致し候。ご意見承知したく。
新字・新カナで適宜省略

 出願者の代表である福永儀八は、市谷田町で呉服商「あまざけや」を営んでいました。橋の必要は切実だったでしょう。

 新見附橋の大部分を占める土堤が不用土処分場を兼ねていたというのも興味深いでしょう。「牛込門外壕内浚渫」とは、おそらく飯田壕の揚場の舟運のためでしょう。神楽河岸に土砂や石など建築廃材の集積場があったことも、新道の開設工事を容易にしたと思います。
 この提案に対し、委員会では次のように議論されました。

7番委員 牛込市ヶ谷間はずいぶん長きところなれば、道路の新設は誠に賛成なり。
企望(希望)は、俗に一口坂とか言うすこぶる急な坂あるが、この坂を改正(改修)せば便利を増す。この際、ともに坂路を改正せられなば大なる便宜ならんと信ず。
21番委員 本案は最初、牛込区において大いに尽力せられ、麹町区にも内談ありし。
麹町区においても等外道路として取り広げ、馬車等をも通せしむる様したいと、寄付金を募りすでに出願せんとす。その節には可決せられんことを。
新字・新カナで適宜省略

 新道の先、現在の千代田区側は都市計画道路にはないけれど、寄付金で坂をなだらかにする工事ができそうだから許可しよう-ということです。古い地図を見ると、確かに一口坂には大きなガケがあります。

明治東京全図 明治9年(1876)一口坂付近 緑斜線がガケ

 出席者に異議はなく、東京府の決定を「是認」しました。この道路の新設により、外濠は牛込壕と新見附壕に分けられました。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

外濠線にそって|野口冨士男⑤

 逢坂下のつぎが、新見附であった。
 見附とは城門番兵の見張所の意で、江戸三十六見附ということばはあっても実数ではなくて、曲輪(くるわ)城門は二十六しかなかった。しかし、新見附は二十六城門はおろか、明治十六年から翌年にかけて測量された『参謀本部陸軍部測量局地図』にも、内務省が明治二十年に測図した『東京五千分壱実測図』にも、明治二十七年発行の『東京府庁御編製東京市区改正全図』にもまだあらわれていない。つまり、それ以後に造成されたものだから新見附と命名されたに相違ないのだが、他の見附の場合同様に濠を渡る道としての機能はそなえているものの、見附という呼称がもつ本来の字義とはなんらの関係もない。牛込見附から市ケ谷見附に至る外濠が市ケ谷堀とよばれているのも、江戸時代には新見附がなかったからである。

逢坂下 市電の逢坂下停留所です。
新見附 市電の新見附停留所です。
江戸三十六見附 江戸城門に置かれた見附(見張り番所)の36か所を挙げたもの
外曲輪 そとぐるわ。外郭。一番外の囲い。がいかく。とぐるわ。
城門は26  大熊喜邦氏の『江戸建築叢話』(東亜出版社、1947年)によると、外曲輪26門は、①雉子橋門、②一ッ橋門、③神田橋門、④常盤橋門、⑤呉服橋門、⑥鍛冶橋門、⑦数寄屋橋門、⑧日比谷門、⑨山下門、⑩幸橋門、⑪虎の門、⑫赤坂門、⑬四谷門、⑭市ヶ谷門、⑮牛込門、⑯小石川門、⑰筋違橋門、⑱浅草橋門、⑲芝口門、⑳和田倉門、㉑馬場先門、㉒外桜田門、㉓半蔵門、㉔田安門、㉕清水門、㉖竹橋門です。

江戸城三十六見附。外廓城門

江戸城三十六見附。外曲輪26門

まだない 明治23年の「東京市区改正全図」でも当然ながら新見附は現れていません。

牛込橋と市ヶ谷橋

牛込橋と市ヶ谷橋

それ以後… 新見附は明治27年発行の『東京府庁御編製東京市区改正全図』ではでていませんが、しかし、新宿区教育委員会の「地図で見る新宿区の移り変わり」(昭和57年)によれば、明治28年の「東京市牛込区全図」に新見附がでています(322頁)。おそらく27年にはなく、28年にあったものでしょう。新見附 明治28年
市ケ谷堀 江戸城の堀の一つ。現在の呼び方は牛込堀

 市ケ谷見附といえば、私の少年時代には九段坂がもっと急傾斜で、神田方面からくる市電は九段坂と牛ヶ淵の中間につくられた勾配のゆるい専用軌道を通っていた。そしてその軌道はげんざい坂上の消防署のある地点から左折して、フェアーモントホテル戦没者慰霊のある千鳥ヶ淵ぞいに半蔵門のほうへ走っていたが、それとは別箇に九段坂上市ケ谷駅前間だけを往復していた路線もあった。したがって、その電車に乗ると、いったん市ケ谷駅前でおろされて、濠のむこうまで歩いてから外濠線の電車に乗換えねばならなかった。

地理院地図1974-1978 千鳥ヶ淵

九段坂 九段下交差点から靖国神社の南側を上る坂。明治維新に石段を急坂に変えて、さらに関東大震災の復興計画で緩徐な坂に変更。
牛ヶ淵 うしがふち。江戸城の堀の一つ。上図を。
専用軌道 江本廣一氏の『都電車両総覧』(大正出版、1999年)では実際に専用軌道を描いています。専用軌道

九段坂
消防署 明治45年6月、麹町消防署九段出張所ができた。平成25年3月、廃止。
フェアーモントホテル 2002年(平成14年)1月27日に閉鎖。かわって高級マンションができました。
戦没者慰霊 第二次世界大戦の戦没者の遺骨で遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置。上図を。
千鳥ヶ淵 ちどりがふち。江戸城の堀の一つ。正称は皇居外苑千鳥ヶ淵堀。桜の名所。上図を。
半蔵門 皇居西側の門。下図を参照。下図では外曲輪城門のうち23番目。
九段坂上 「九段坂上」交差点にありました。
市ケ谷駅前 市ケ谷駅前はかなり古い路線図で出てきます。「日本鉄道旅行地図帳五号」(新潮「旅」ムック、2008年)の大正8年頃では、右の丸のように「市ヶ谷見附」は2つに分かれています。その後、「市ケ谷駅前」ができていたのでしょう。この路線では往復していたのか、わかりませんでした。

大正8年の路線図

大正8年の路線図

 もっとも、当時の市電には全線の路線図を印刷した横長い乗換券というものがあって、車掌が行先と乗換場所にパンチを入れてくれたから、何回乗換えても基本料金は変らなかった。全線一区の周遊券のようなもので、料金は震災前から七銭だったと記憶するが、昭和四年十二月中央公論社発行の『新版大東京案内』をみたところ、そこにも七銭と記載されていて、戦前の物価の安定ぶりを再確認させられた。ついでに記しておけば、戦前――特に私たちの少年時代にはあらゆる方面に名人、または職人芸の違人がいて、市内全線の路線図が印刷されてあった乗換券を裏返しにして、なにも印刷されていない真白な面に、行先と乗換場所とその時刻のパンチを入れて1ミリの狂いもないような車掌がいた。

乗換券 例は大正11年2月3日に発行された乗換券。大正11年の乗換券
七銭 今和次郎氏の『新版大東京案内』では

 市電に対する不平の声は既に古い事である。一回どこまで乗つても七銭である事、及市内到るところに(ひろ)まつて布かれてゐると云ふ点では(よろこ)ばれてゐるけれど、あの「チンチン動きまあす……」の気だるさは、緩慢な速力は非近代的な感触を与へ、あれに乗る人々を時世後れにするやうな結果をもち来すかのやうだ。もっとモダン的にハイカラな感触が市電に欲しい……。これだけにして次のものにうつってみやう。

と書かれています。都交通局の『わが街わが都電』(平成3年)によると、料金は昭和17年までは7銭ですが、18年になると10銭でした。なお、昭和20年に日本の敗戦が決まります。

 駅前から外濠線の市ヶ谷見附停留所までは牛込見附や新見附同様に坂道をくだるが、濠を渡る道が傾斜状をなしているのは以上の三見附だけで、そのあたりから濠外の地勢は隆起しはじめる。
 市ケ谷見附の濠外の正面には靴屋があって、「ヤスイカラヨクウレル。ウレルカラナホヤスイ」と書いた看板が眼をひいた。あのキャッチ・フレーズには大正ムードがみなぎっていたとおもうが、大正時代を誤解してもらってはこまる。花屋の飾窓にはSay it with flowerというような金文字もみられた。チュウインガムはリグレイコーンビーフリビイ乾葡萄サンメイド、果物の罐詰はS&Wなどの製品を私たちは食べていた。
 市ヶ谷見附のつぎの停留所は本村町であった……

市ヶ谷見附停留所 外堀通りにありました。
坂道 この停留所3か所は東も西も坂道を下に降りた場所にありました。

3か所の停留所

3か所の停留所。法政大学エコ地域デザイン研究所『外濠-江戸東京の水回廊』(鹿島出版会、2012年)から

ヤスイ… 「安いからよく売れる。売れるからなお安い」と書いてあります。
大正ムード 大正時代は西洋の近代文明と、日本の伝統文化が融合して生まれ、個人の解放や理想に満ちた風潮があった時代でした。
Say it… 正しくはSay it with flowersと複数形で。このキャッチフレーズの詳しい説明は花豊ででています。
リグレイなど リグレイ。Wrigley
コーンビーフ Corned beef
リビイ Libby。
乾葡萄 レーズン(Raisin)のこと。
サンメイド Sun-Maid
S&W 英語もS&Wです
米国の食品
本村町 新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり 四谷編』(昭和57年)では昭和16年は本村町で、昭和22年は本塩町でした。木村町と本塩町

 

私の東京地図|佐多稲子③

文学と神楽坂

 佐多稲子氏の『私の東京地図』の③です。関東大震災の後の大正12年から嫁いでいく大正13年までの1年間を牛込区(現在の新宿区)で生活しています。氏は19歳でした。差別用語や放送禁止用語になる言葉もありますが、原文を尊重します。

 納戸町の静かな横町がやがて、表どおりの、北町から新見附に通じているへ出ようとするちょっと手前に、表どおりの商店の家並みが横町のそこまで曲り入ってしまったという風に一軒の魚屋がある。その真向いに、ぺしゃんと坐り込んだような軒の低い家があった。小さな子ともにおさらいをつける三味線(しゃみせん)の音がその家から聞えている。
 よいはアまアち、そしてエ、恨みてあかつきの、と、唄の言葉の意味は知らずに、幼い声が張り上げている。
「はい、もう一度、にくまアれエぐちの、あれ、なくわいな」
 そう言うお師匠さんの声も優しい女の声である。
「はい、御苦労さま、とてもお上手にお出来になりましたわ。また、あしたね」
 おじぎをして立ってゆくおかっぱの子を、わざわざ送り出してゆくお師匠さんは、束髪に結った色の白い、そしてその声と同じように優しい細おもての人である。足もとのさばき方はこきざみにいそいそとしているけれど、銘仙の羽織が、ゆきもだらりと長くて、襟もとがすくんで見えるのは、その人がせむしだからであった。
 裏の縁側でつぎものなどをしているお師匠さんのお母さんが、自分も立って来る。
「まあほんとうに、どんどんお上手になることねえ。あした、またいらっしゃいね」
納戸町。北町。新見附 地図を参照。上から都電の北町(青丸)、納戸町(赤の多角形)、都電の新見附(青丸)。

 現在は牛込中央通りです。
唄の言葉 三味線の歌(絃歌)『明けの鐘(宵は待ち)』の一節です。「宵は待ち そして恨みて 暁の 別れの鶏と 皆人の 憎まれ口な あれ鳴くわいな 聞かせともなき 耳に手を 鐘は上野か浅草か」と続きます。
お師匠 女性で杵屋与志次師匠。
束髪 そくはつ。髪をひとまとめにして束ねる結髪。明治時代以後、流行した婦人の洋髪の一つ。

銘仙 めいせん。玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物。
 しま。2種以上の色糸を使う、縦か横の筋かその織物。
ゆき 裄丈。ゆきたけ。衿の中心から袖口までの長さ。
 たけ。長さ。%e3%82%86%e3%81%8d%e4%b8%88
すくんで 体をちぢめ小さくなる。
せむし 背中の一部が円く突出した状態。

 せむしのお師匠さんは母親に並ぶとその肩の下になる。娘の仕事を自分もいっしょに大事がる思いで、おっ母さんは、小さい弟子にお愛想を言っている。
「さ、お待たせしました」
 稽古台の前へもどって来るとお師匠さんは稽古本をひろげて、
「では、昨日のところをおさらいいたしましょう」
 と、三味線を膝にとる。三味線の棹の先きが、背の曲がったお師匠さんの肩よりずっと斜め上にのびて、お師匠さんの首がいよいよ襟元へはまったように見える。
月もくらまのウ
 と(ばち)を強く三味線の(いと)に当てて弾きはじめると、お師匠さんの表情がやや()つくなる。女学生のお弟子の幼い撥の音と二重になって暫く、それが続く。(中略)
 神楽坂の花柳界につづいた屋敷町と、大きな酒屋や薬屋などのある北町の表どおりとの間につぶされるように挟まって目にもつかぬ家、稽古三味線の音で辛うじて杵屋与志次の看板に気づく。内弟子から名取りになって、ようやくここに独り立ちしているせむしの師匠は、母親と、十七歳になる妹との三人暮らしであった。妹は母親似の、年齢よりは大柄な、色白のぼってりした娘で、その頃、日本一の建物だと地震前から噂の高かった丸の内ビルディングの地下室の、花月食堂の給仕をしていた。
月もくらまのウ 三味線の『鞍馬山』の一節です。「月もくらま(鞍馬)の影うとく 木の葉おどしの小夜あらし」と続きます。
 ばち。琵琶・三味線などの弦をはじいて鳴らすへら状の道具。
 琴・三味線などの楽器の糸。
酒屋や薬屋 納戸町でも神楽坂に近い場所というと、中町や南町に接する場所でしょう。酒屋としては升本酒店があり、この酒店は明治30年3月から現在まで続く老舗です。この当時も同じ納戸町に店を構えていました。また萱沼薬局も戦前から続く納戸町の店舗でした。この2店舗の間を通って南町に行く通りがあり、おそらく杵屋与志次の家はその辺り(青の輪)にあったのでしょうか。
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杵屋与志次 三味線の師匠で女性。名前は「きねやよしじ」と読むのでしょうか。
花月食堂 実際にあったようです。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂09|牛込見附

文学と神楽坂


牛込見附

牛込見附

 私達は両側の夜店など見ながら、ぶら/\と坂の下まで下りて行った。そして外濠の電車線路を越えて見附の橋の所まで行った。丁度今省線電車線路増設停車場の位置変更などで、上の方も下の方も工事の最中でごった返していて、足元も危うい位の混乱を呈している。工事完成後はどんな風に面目を改められるか知らないが、この牛込見附から見た周囲の風景は、現在残っている幾つかの見附の中で最もすぐれたものだと私は常に思っている。夜四辺に灯がついてからの感じはことによく、夏の夜の納涼に出る者も多いが、昼の景色も悪くはない、上には柳の並木、下には桜の並木、そして濠の上にはボートが点々と浮んでいる。濠に架かった橋が、上と下との二重になっているのも、ちょっと変った景色で、以前にはよくあすこの水門の所を写生している画学生の姿を見かけたものだった。

外濠の電車線路 外濠線の都電線路のこと。都電3系統の路線で、第3系統は飯田橋から皇居の外濠に沿い、赤坂見附に行き、溜池、虎ノ門から飯倉、札の辻、品川に至る路線です。
見附の橋 見附の牛込橋は千代田区富士見二丁目から神楽坂に通ずる早稲田通りに架かっていました。寛永13年(1636)阿波徳島藩主蜂須(はちす)()忠英(ただてる)が建造。当時千代田区側は番町方、新宿区側は牛込方と呼ばれ、旗本屋敷が並び、その間は深い谷だったのを、水を引いて堀としたものです。
省線電車 1920年から1949年の間、現在の「JR線」に相当する鉄道。明治41(1908)年から鉄道院「院電」、大正9(1920)年から鉄道省「省電」、昭和24(1949)年から日本国有鉄道「国電」、昭和62(1987)年から東日本旅客鉄道「JR」と変遷。
線路増設 昭和3(1928)年11月15日、関東大震災復興で貨客分離を目的として、新宿-飯田町間で複々線化工事を完成しました。
停車場の位置変更 停車場はJR駅のことで、ここでは飯田橋駅ではなく、牛込駅のこと。牛込駅は牛込橋(現飯田橋駅西口に接する跨線橋)よりは四ツ谷寄りの位置です。出入口は2か所。ひとつは外堀通りに面した神楽坂下交差点のたもと。現在でも、牛込濠を埋め立てて作った連絡通路の遺構が残っています。下に詳しく書いています。もうひとつは濠の反対側、旧飯田橋郵便局の向かいで、改札口の位置を左右から挟むようにして、石積みの構造物が残っています。昭和3(1928)年11月15日、関東大震災復興で複々線化工事が新宿-飯田町間で完成。これで駅間が近い牛込駅と飯田町駅を統合し、飯田橋駅が開業しました。この3駅についての関係はここで
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。以上は牛込見附ではまったくいいのですが、しかし、別の文脈では、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。詳しくは牛込見附跡を。
大正11年。東京市牛込区二重 大正11年の『東京市牛込区』の地図では牛込橋が2つにわかれています。また下の新宿歴史博物館の「神楽坂通りの図 古老の記憶による震災前の形」でも2つに分かれています。牛込橋の上の1つは千代田区に、下の1つは牛込駅につながっています。2つの牛込橋2
 いまでもこの連絡通路はあります。赤い色で描いた場所です。カナルカフェ写真ではこうなっています。先には行けません。。
カナルカフェ2
下は明治後期の小林清親氏の「牛込見附」です。きちんと牛込橋が2つ書かれています。

牛込見附の清朝

牛込見附

この下の橋は昭和42年になっても残っていました。飯田橋の遠景

 だがあすこの桜は震災後すっかり駄目になってしまった。橋を渡った停車場寄りの処のほんの二、三株が花をつけるのみで、他はどうしたわけか立枯れになってしまった。一頃は見附の桜といって、花時になると電車通りの所から停車場までの間が花のトンネルになり、停車場沿いの土手にも、ずっと新見附のあたりまで爛漫らんまんと咲きつらなり、お濠の水の上に紛々ふんぷんたる花ふゞきを散らしなどして、ちょっとした花見も出来そうな所だったのに、惜しいことだと思う。

停車場 「停車場」はJR駅について話す場合。これは牛込駅に相当します。ちなみに市電(都電)は「停留所」でした。
新見附 明治中頃、行き来の便宜のため、外濠の牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて新しく橋を作りました。この橋を新見附橋といいます。また外濠は二つになり、牛込駅(飯田橋駅)寄りは牛込濠、市ヶ谷寄りは新見附濠と呼ばれるようになりました。
爛漫 花が咲き乱れているさま
紛々 入り乱れてまとまりのないさま
花ふぶき はなふぶき。花びらがまるで雪がふぶくように舞い散るさま
 貸ボートが浮ぶようになったのは、ごく近年のことで確か震災前一、二年頃からのことのように記憶する。あすこを埋め立てゝ市の公園にするとかいううわさも幾度か聞いたが、そのまゝお流れになって今のような私設の水上公園(?)になったものらしい。誰の計画か知らないがいろ/\の意味でいゝ思い付きだといわねばならぬ。今では牛込名物の一つとなった観があり、この頃は天気さえよければいつも押すな/\の盛況で、私も時々気まぐれに子供を連れて漕遊を試みることがあるが、罪がなくて甚だ面白く愉快である。主に小中学の生徒で占めているが、大人の群も相当に多く、若い夫婦の一家族が、水のまに/\舟を流しながら、パラソルの蔭に子供を遊ばせている団欒だんらん振りを見ることも屡々しばしばである。女学生の群も中々多く、時には芸者や雛妓おしゃくや又はカッフエの女給らしい艶めいた若い女性達が、真面目な顔付でオールを動かしていたりして、色彩をはなやかならしめている。聞くと女子の体育奨励のためとあって、特に女子のみの乗艇には料金を半額に優待しているのだそうだが、体育奨励もさることながら、むしろおとりにしているのでないかと笑ったことがあった。

貸ボート この東京水上倶楽部の創業は大正7年(1918年)です。東京で最初に出来たボート場でした。
水上公園 水のほとりや水辺にある公園
漕遊 遊びで漕ぐ
まにまに 随に。他人の意志や事態の成り行きにまかせて行動するさま
団欒振り 「振り」は物事の状態、ようす、ありかた。語調を強めるとき「っぷり」の形になる場合も。「枝―」「仕事―」「話し―」「男っぷり」「飲みっぷり」
雛妓 半人前の芸者、見習のこと。(はん)(ぎょく)()(しゃく)などとも呼びます。
 これは麹町区内に属するが、見附上の土手が、新見附に至るまでずっと公園として開放されるそうで、すでにその工事に取掛かり今月中には出来上るとの話である。それが実現された暁にはあのあたり一帯に水上陸上相まって、他と趣を異にした特殊の景情を現出すべく、公園や遊歩場というものを持たないわれ/\牛込区民や、麹町区一部の人々の好個の慰楽所となるであろう。そしてそれが又わが神楽坂の繁栄を一段と増すであろうことは疑いなきところである。今まであの土手が市民の遊歩場として開放されなかったということは実際不思議というべく、かつて五、六の人々と共に夜の散歩の途次あすこに登り、規則違反のかどを以て刑事巡査に引き立てられ九段の警察へ引張られて屈辱きわまる取調べを受けた馬鹿々々しいにがい経験を持っている私は、一日も早くあすこから『この土手に登るべからず』という時代遅れの制札が取除かれ、自由に愉快に逍遙しょうよう漫歩まんぽを楽しみ得るの日の来らんことを鶴首かくしゅしている次第である。

麹町区 こうじまちく。神田区と一緒になって千代田区
慰楽所 いらくしょ。慰みと楽しみ。「レクリエーション」のこと
あすこ あの土手。見附上の土手から新見附の土手に至るまでの土手です。
逍遙漫歩 逍遙しょうようとは気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩。漫歩まんぽとは、あてもなくぶらぶら歩き回ること。そぞろあるき
鶴首 今か今かと待つこと。首が伸びるほど待ち焦がれること