タグ別アーカイブ: 東京大空襲

春の嵐|野田宇太郎氏『灰の季節』|東京大空襲

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『灰の季節』(修道社、昭和33年)は、第二次世界大戦中から大戦以降を綴った日記です。たとえば、1945年4月12日、昼食前にフランクリン・ルーズベルト大統領が脳卒中で死去し、これを受けて、野田氏は4月13日の日記で簡単に書き留めています。その翌日、神楽坂にとっては東京大空襲を受けた日でした。

四月十四日
単機あて帝都、関東東部、東北部等に侵入、主として帝都は爆弾焼夷弾取り混ぜの攻撃をうけた。熱を押して仕方なく起きる。都心の焼けのこりの部分を中心に空が東北へかけてまつかになつてゐる。そして中央線ぞひに爆発音が近まり、むくむくと黒煙が立ちのぼる。爆弾の無気味な落下音も幾度となくきこえ、敵機が撃墜されるのも数機みる。あとで機数約百七十、四十機位撃墜の発表あり。……眠る。
 中央線は荻窪までであとは不通のため帝都線で渋谷に出、地下鉄で神田に出る。下車しようとすると、どつと乗り込む避難者の群に押し返される。皆真青な顔をして相手が見えないやうなうろたへ方である。やつとの思ひで外に出て神田の河出書房仮事務所まで歩く。
 神田から飯田橋まで見透しに焼け落ちてゐる。飯田橋で不発弾の爆発にあふ。筑土八幡のあたりから新小川町 大曲もずらりと無残に焼けてゐる。神楽坂も家が大半なくなり、飯田橋交叉点から電車通を牛込肴町へ行く途には電線がばらばらに切れ落ち、まだごんごんと音を立てて燃えのこりの家が焔をあげてゐて、焦熱地獄のやうにあつい。そこら中形容し難い悪臭がむんと鼻をつく。人間の焼ける臭ひも混つてゐるやうだ。息をとめて一気に通りぬけようとするが駄目で、途中で立停り、叉熱気のなかを走つた。平時は賑やかな肴町交叉点通寺町側にトタン板が落ちてゐて、何気なく歩きながら蹴ると、下に屍体がかくしてあつた。防護団員の姿もみえず、地獄のなかでも歩いてゐる白昼夢のやうな気持。
 其儘足を早めて大日本印刷に行つた。近づくと今度は大日本印刷が一面の火焔に包まれて、盛んにまだ燃えつゞけてゐる。しまつた! と思ひ、第四中学の焼跡前から夢中で坂を下りて正面に出ると、焔の背後に印刷会社の建物はどうやら無事なやうである。燃えてゐるのは前庭に置かれた軍用の洋紙の山だけである。玄関にゆくと、防護団服を着た人が一人佇んでゐる。思はず「大丈夫ですか」と叫ぶやうに云うと、「ありがたうござゐました。工場の方は大丈夫です……」とその人は私に礼を云つた。あとで重役だつたと判る。消火する人手がなくて焼けるにまかせてゐるのだといふ。
 事務所に入ると、さすがに人はすくないが工場の方は動き続けてゐるやうなので、やつと安心した。これでまだ文藝は出せると思ひ、すぐに火野氏の「」を四月号の組版に廻してもらふ。
 まだ熱があつて、ふらふらとする。避難者の列に加り、やうやく渋谷に出て帝都線で夕暮に家にかへり着いた。
 この日は板橋、豊島、足立方面の被害がとくにひどく、明治神宮本殿も遂に焼失した。また宮城、大宮御所、赤坂離宮の一部にも火災が起つた。

単機 編隊を組まないで、単独で飛行する軍用機。単独飛行。
あて 配分する数量・割合を表す。あたり。送り先・差し出し先を示す。
焼夷弾 敵の建造物や陣地を焼く爆弾
帝都線 京王井の頭線のこと。渋谷と吉祥寺を結んだ。
河出書房 文芸書や思想書を中心に販売する出版社。1945年(昭和20年)の東京大空襲で被災、千代田区神田小川町に移転する。
見透し さえぎるものがなく遠くまで見えること。その場所
飯田橋、筑土八幡、新小川町、大曲、牛込肴町、肴町交叉点、通寺町、大日本印刷 下図を参照。牛込肴町と肴町交叉点は現在「神楽坂上」交差点、通寺町は現在神楽坂六丁目
防護団 軍部の強い指導のもとで満州事変勃発ごろから地域住民の防空業務(灯火管制、警報、防火、防毒、交通整理、救護等)を行わせる防護団と称する組織が全国各地に設立された。
第四中学 現在は牛込第3中学校です。
文藝 1944年11月創刊。発行所を改造社から河出書房に移して継承した雑誌。第2次世界大戦下のほぼ唯一の文芸雑誌。戦後は戦後派の作家を起用。86年からは季刊誌。
火野 火野葦平。ひのあしへい。日中戦争で従軍前に「糞尿譚ふんにょうたん」で芥川賞受賞。生年は明治39年12月3日、没年は昭和35年1月24日で自殺。享年は満53歳
 「海南島記」(改造社 1939年)。国立国会図書館デジタルコレクションとして入手可。

昭和22年の神楽坂

東京大空襲と神楽坂1

文学と神楽坂

 第二次世界大戦の東京大空襲で、神楽坂の被害は桃色の範囲で起こり、逆に白色には大きな被害はありませんでした。これは日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)です。神楽坂は焼け野原になり、焼けていない建物は三菱銀行と津久戸小学校だけでした。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

 さらに「新宿区地図集」(新宿区教育委員会、昭和54年)と「語りつぐ平和への願い-新宿区平和都市宣言5周年記念誌」(新宿区、平成4年)で、黄色や桃色は被害はあり、白色はなかった場所です。

新宿区地図集新宿区平和都市宣言5周年記念誌
「新宿区地図集」(左図)と「語りつぐ平和への願い-新宿区平和都市宣言5周年記念誌」(右図)

早乙女勝元『東京空襲写真集-アメリカ軍の無差別爆撃による被害記録;決定版』東京大空襲・戦災資料センター。勉誠出版。2015年

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第7号の「街の宝もの」で高橋春人氏は、

戦災の神楽坂を見る『戦災の神楽坂を見る』(作品①)という絵は、昭和二十年八月二十八日、終戦直後に復員してきたときに描いたもの。坂上右側の三角形の壁は、いまも坂の途中にある木村屋パン屋の跡で、左側の四角い建物は三菱銀行。右側の方にある黒い木は、本多横丁の裏手にあった大銀杏いちょうで、これはその後生き返ったとか。
『燃える牛込台地』(作品②)。これは昭和二十年の三月十日の空襲のとき、外濠の土手から向うが燃えるのを描いたものです。この夜、東京は大空襲を受けて、まず下町のほとんどがやられた。この付近も、靖国神社方面から富士見町、お濠を越えて市ヶ谷田町…という経路で被爆していったんです。私はそのとき富士見町にいて、最初は状況判断ができず、後で考えれば焼夷弾の落とされた弾帯の道筋にそって逃げていたんです。女房と一緒で、やっと靖国神社の裏手を通って新見附方面の土手公園に出てきたら、向いの牛込台地が燃えていてね。あのあたりの屋敷町には立木が多くて、火の手が梢から梢と、走るように燃え移っていくんです。
 明け方、戻ってみると、家は燃え落ちていて、自分の部屋にぎっしり積んであった本や資料がそのままの形でまだ炭火のように真っ赤に燃えていた。その後、警察病院の方まで歩いてきたら、顔が焼けただれた高射砲隊の兵隊たち(後楽園球場に陣地があった)が、トラックで病院に運びこまれてきて。大通りには消防車が焼けてころがっていて………。神楽坂の大通りには、有名な料亭の金蒔絵の食器などが山積みにされ「お好きな品をさしあげます」という立て札が立っていたけれど、持っていく人は誰もいなかった。私はその三日後に、吉祥寺の成蹊大学にあった陸軍第一航空軍司令部に応召、そこで終戦になって帰ってきたわけです。

 水野正雄氏は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「神楽坂を語る」で

 (復員のため)二十二年四月に名古屋に上陸しました。上陸したら東京の空爆した場所の地図等が出ていて、神楽坂は全滅でした。名古屋から東海道線の夜行に乗って、当時六円のおにぎりを買いました。もらったお金は三百円。そのうち百五十円を名古屋出るときにもらいました。飯田橋の改札で復員切符を見せて渡そうと思ったら、鉄道員が「お家ありますか?」と聞くので、「多分ありません」と答えると、切符を持って行けばどこまでも行けるからと切符を返してくれました。六年経って帰ってきたが、もう何もない。毘沙門の隣の三菱銀行が半分傾いてあるだけで、他は何もありませんでした。この付近の人たちは道の両側に各自の防空壕を掘って暮らしていました。小さい防空壕がいっぱいあったんです。それから津久戸小学校が少し残っていました。あと建物は三菱銀行と津久戸小学校だけ残っていました。助六のおやじさんから閧いて後からわかったことだけど、外堀飯川堀の方が半分埋まっていて、そこに材木屋だとか神楽坂警察署を建てました。屋根だけが出ているような状態で神楽坂警察署ができていました。神楽坂警察は屋根が低くて、麹町方面から来た火事を逃れて助かっていました。戦後の商業地には闇屋が出てきていたが、警察が健在なので、みんな捕まっちゃって神楽坂の発展がかえって遅くなってしまったそうです。

 戦災は神楽坂警察署にはなかったようです。神楽河岸は残り、最初の図でも戦災はなかったようです。

 神楽坂出身の竹田真砂子氏は「綱子の夏」(小説新潮、1998年7月号、日本文藝家協会「現代の小説1998」徳間書店、1998)で

 一ヶ月後、ともかくも様子を見て来ると、秀樹を母親に頂け、リュックサックに、とうもろこしとトマトとひまわりの種をつめて、綱子は上京した。
 満員の汽車を乗り継ぎ、以前なら四時間たらずのところを、六時間かけて到着すると、神楽坂は一面、焼野原になっていた。
 坂の両側に軒を連ねていた商店も、瀟洒(しょうしゃ)(たたずま)いを見せていた料亭の、洗い出しの板塀もない。横丁も小路も瓦礫(がれき)に埋もれて方角さえ分らず、自分の家がどの辺に建っていたのか、見当もつかなかった。
 わずかに、焼け焦げたコンクリートの肌を哂して形を(とど)めている小学校と銀行の位置を確かめて、この辺と思う所に行ってみる。と、思いがけないことに、その一画には焼け木杭(ぼっくい)が何本か打ちこんであり、あり合わせの板きれに書き記した『一新松所有地』の札が立っていた。綱子は、ぼんやりと、その木札を眺め、重 いリュックサックを背負ったまま、しばらくそこに佇んでいた。
「あれぇ、お綱姐さんじゃありませんか」
 突然、後から声をかけられた。綱子が振向くと、顔見知りの男が立っていた。
「やだ、鶴さんじゃないの。まあ、あなた、生きててくれたのね」
 声が、どんどん元気になった。
 鶴さんは、花柳界の事務局である見番(けんばん)で働いていた男衆(おとこし)だった。女房子は疎開させたが、自分は見番の管理室に寝泊りしていて空襲にあい、九死に一生を得たのだという。
「よくぞご無事で」
 涙ぐむ綱子に、改めて鶴さんは頭をさげ、
「姐さんもご無事でなによりでした」
 大粒の涙をこぼした。

洗い出し アライダシ。板の表面をこすり、洗って木目(もくめ)を浮き出させたもの。
男衆 おとこしゅう。おとこしゅ。おとこし。男の人たち。男の奉公人。

砂土原町|入江相政

文学と神楽坂

%e5%85%a5%e6%b1%9f%e7%9b%b8%e6%94%bf 入江(いりえ)相政(すけまさ)氏は東大卒で、官僚、歌人、随筆家。学習院大教授をへて、昭和9年宮内省侍従になり、侍従長を長く務めました。生年は明治38年6月29日。没年は昭和60年9月29日。80歳で死亡しました。

 入江相政氏の「余丁町停留所」(人文書院、1977年)では

 昭和八年に、同じ牛込の、砂土原町に新居を構えた。「新居を構える」などと言えばいかにも自力で一軒建てたようにも聞えるけれど、土地は家内の母にめぐまれ、家は私の父が建ててくれた。地面は三百三十坪、建て坪は六十何坪、まさに贅沢過ぎるものだった。父は言った、「これは、お前の分には過ぎたもの。お前はこれを競争相手と思い、この家と自分とをくらべて、この家にはずかしくないような人になれ」と。これは大変なことになったと思った。
 長女ができてから、ここに移り、ここに移ってすぐ長男が生まれた。二人の子供が小学生になるころ、つまり昭和十何年という時、つくづく思ったのは、道路は舗装され、暖房は発達、車はふえて、東京はますます自然を遠ざける。だからなんとか工夫を重ねて、自然をここに招き寄せる。また一方では、自然の中にはいっていかなければならない、と。
 庭が広かったから、そこに花の咲く木を植えた。「先ず咲く」がその語源というマンサク、卵の薄焼きを細く切ったような黄色い花に、近づく春を楽しもう。サンシュユはどこに植えるか。ハクモクレンは中国からの伝来、あの花の下には、樹下美人のような女でも、立たせなくては。

砂土(さど)(はら) おそらく砂土原町2丁目でしょう。あと一歩で浄瑠璃坂を登りおえる場所にあり、現在はマンションがいっぱいになりました。都市製図社の『火災保険特殊地図』では「入江」と書いた場所があります。砂土原町の説明は『新修 新宿区町名誌』(新宿歴史博物館、平成22年)によると「江戸時代は武家地であった。市谷田町三丁目から船河原町続きの裏通りとその周辺の武家屋敷一帯を俗に砂土原と呼んでいた。本多佐渡守正信の別邸があったためで、佐渡原、佐渡殿原とも呼ばれていた(町方書上)。また、この本多邸跡の土を取って外堀端を埋め立てて市谷田町を造成したので、土(砂土)取場とも呼んだ。佐渡と砂土は同音であるため、砂土原と書いた」

砂土原・昭和12年と現在

マンサク マンサク科マンサク属の落葉小高木。マンサクの語源は明らかでないが、早春に咲くことから「まず咲く」「まんずさく」が東北地方で訛ったものとも。
サンシュユ 山茱萸。ミズキ目ミズキ科の落葉小高木。
ハクモクレン 白木蓮。モクレン目モクレン科モクレン属の落葉低木。白色の花をつける。

3種の植物

同じく「陛下側近として五十年」(講談社、1986年)では

 わが家はもと牛込砂土原町にあったが、親類中で一番あとまで焼けのこるだろうなどといわれていたのだが、二十年三月九日、十日、あの下町の大空襲の晩に、まっ先かけて焼けてしまった。妻や子は、それから疎開して東京を離れ、私は家が無いから、ほとんどつとめ先にとまりつづけていた。
 しばらく経って行ってみたら、わか焼けあとに、半地下式の壕舎(ごうしゃ)が建てられている。市ケ谷の陸軍省、参謀本部が近かったので、軍は地主には無断で、焼跡の方々にこれを建て、万一、陸軍省などが爆撃された場合には、この壕舎に分散して軍務を()り、戦争を遂行しようとしたのである。
 それが、そこまで行かないうちに、八月に戦いはおわった。秋には妻も二人の子供も、疎開先からかえってくることになった。家を建てようにも建てられないので、五,六坪のその壕舎に、いくらか床の板を張ったりして住むことにした。
 壕舎というのは、つまり屋根がペシャンコにつぶれたような格好をしている。だから()ていて上を見ると、天井が無いから、目の上はいきなり屋根裏ということになる。屋根には防水の紙を張り、その紙を釘で打ちつけた。その釘の先がたくさん突き出ている。ふだんは目立たないのだが、気温が零度以下に下ると、白いものかポッポッとちりばめられる。室内に臥ているわれわれ親子のぬくもりが、霜となって釘の先にくっつくわけである。

   屋根裏を 貫き出でし 錆釘に
   あかとき白く 霜降れる見ゆ

 は、その時に()んだものである。
 楽しみながら自然たまった書斎の本のすべてを失い、父からも譲られ、また自分でも集めた書画の類も、ほとんど烏有(うゆう)に帰した。万策尽きたはずではあったが、もう一遍日本を建て直し、ふたたび繁栄させなくてはという、天皇陛下の御意気ごみにつづいて、われわれも、案外、昂然たる風だった。

壕舎 ごうしゃ。敵の襲撃に備えて地中につくった部屋。防空壕
あかとき 「明時=あかとき」は「あかつき」の古形。夜半から明け方までの時刻。
烏有 うゆう。全くないこと。何も存在しないこと
昂然 こうぜん。自信に満ちて、意気盛んなさま

東京大空襲と神楽坂2

文学と神楽坂

 日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)では、白色は第二次世界大戦で戦災をそれほど受けなかった場所です。矢来町の主に南部、横寺町の西部、中町・南町・若宮町の一部、細工町・北山伏町・南山伏町・二十騎町などでは戦災が少ない地域があります。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示。日本地図株式会社。昭和21年刊の複製。1985年

 たとえば色川武大氏の「生家へ」(講談社文芸文庫)で書くところの自宅は矢来町80番(下図で赤い四角)で、戦災はほとんどありませんでした。矢来町80番は矢来町の南東側です。戦争があってもこの周辺は焼けませんでした。「生家へ」を読むと……。

矢来町の地図。色川武大

左側は昭和15年、右側は現代


 生家の門のあたりが急に騒がしくなったと思ったら、年増の女に引率された七八人の娘たちがぞろぞろ入ってきて玄関の格子戸の前に溜まった。そうして植込みにはさまれたそこの細い石畳の上で、それぞれ、舞うような形を示した。囃子が四方からきこえだした。(中略)
 私は、この昼日中の物々しい闖入者たちを、なんとなく気圧された表情で眺めていた。
 女が、ひょいと、生家の奥の方をのぞきこむような姿勢になった。
「お焼けになりませんでしたのね」
「――え?」
「戦争で」
「あ――」と私は頷いた。「残ったンです。おかげで。でも古い家だからもうゆがんでますよ。いっそあのとき焼けてしまった方がよかったかもしれない」
「いいえごぶじでよござんした。それに、お元気そうで」
「元気どころか――」
 私は自分を見返る形になって苦笑したが、女は私に戻した視線を動かさなかった。
「本当に、立派におなりになって」
「からかっちゃいけません。ただ、やっと生きてるだけです」
「お二方ともまだご健在なんでしょ。親御さまたちは」
「ええ」
「どなたもごぶじで、お幸せね。なにもかもごぶじで」

 矢来町から東南東に行ったところにある若宮町でも数軒の家は焼け残りました。 最高裁判所長官の公邸もそのひとつです。若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)では

地図は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根は中根駒十郎の邸宅。

赤い部分は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎氏と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根はかつての中根駒十郎宅。馬場は現在、最高裁判所長官の公邸。大橋は現在マンションに。


若宮町さまざま
 戦争が終わったとき(昭和20年8月15日)、若宮町で残ったのは、中根さん、大橋さん、馬場さんのお家ぐらいだった。私が現在住んでいるところは、昭和25年に友人から譲り受けた土地で、東側の中村吉右衛門宅(現、若宮町ローヤルコーポ)も、その向かいの川合玉堂宅(現、若宮ハウス)も焼け、西側の中根駒十郎さんのお家で火が止まった、奇跡的に焼けなかった家に今でも住んでおられるのは中根駒十郎さん御一家だけ。馬場さんのお家は、財産税で物納されて最高裁判所長官の公邸となり、大橋さんのお家は、一時、大橋図書館となったが現在は日興証券の研修所に建て替えられている。
                        若宮会前会長 細川八郎

現在はマンションが一杯の地域ですが、以前は巨大な邸宅がいくつも並んでいました。

譲り受けた土地 図で細川と書いてある場所。
中村吉右衛門 なかむらきちえもん。初代の歌舞伎俳優。明治30年、市村座で中村吉右衛門(1886年~1954年)を名乗り、九代目市川団十郎の芸風を継承。昭和22年芸術院会員、昭和26年に文化勲章を受賞。生年は1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。享年は68歳。現在は若宮町ローヤルコーポ。
 じょう。歌舞伎俳優などの芸名に付けて、敬意を表します。
川合玉堂 かわいぎょくどう。本名芳三郎。日本画家。温雅な自然を描き、横山大観・竹内栖鳳と共に日本画壇の三巨匠。1940年文化勲章。生年は明治6年11月24日。没年は昭和32年6月30日。享年は83才。
中根駒十郎 なかねこまじゅうろう。新潮社の編集者、専務取締役。明治31年義兄の佐藤儀助(義亮)の新声社(のちの新潮社)に入り、以後佐藤の片腕に。昭和22年支配人を退き顧問。生年は明治15(1882)年11月13日。没年は昭和39(1964)年7月18日。享年は82歳。
馬場 富山県の北前船廻船問屋として富を築いた馬場家が1928年(昭和3年)に牛込邸を建築。現・最高裁判所長官公邸。馬場邸
大橋図書館 大橋佐平氏は大手出版社「博文館」を創立。博文館15周年記念として明治35年東京市麹町区の財団法人が大橋図書館を創った。昭和25年から昭和28年までは若宮町で開館。
建て替え マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に変わりました。

若宮町のマンション

マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」

神楽坂若宮八幡神社

文学と神楽坂

 神楽坂若宮八幡宮は、鎌倉幕府の初代将軍、(みなもとの)頼朝(よりとも)が戦勝を祈念して建立しました。文治5(1189)年7月、奥州の藤原泰衝の征伐に行く途中、頼朝は将来ここ若宮八幡宮のあるところで下馬して祈願したと伝えられています。ここは川と急坂に囲まれた丘の突端で見通しも良く、外敵から身を守るのに適していた、あるいは唯単純に鎌倉を出発しここで一日の行程が終わったのでしょう。
 10月、奥州を平定し、頼朝は鎌倉に戻り、まもなくここに鎌倉鶴岡八幡宮を移します。その後若宮八幡宮は衰退していましたが、文明年間(1469~87)、室町時代の武将、太田道灌(どうかん)が江戸城鎮護(ちんご)、つまり、災いや戦乱をしずめ、国の平安をまもることのため、若宮八幡宮を再興しました。なお、太田道灌が作った江戸城は康正2(1456)年開始、翌長禄1(1457)年4月完成しています。文明年間頃までは大社で、神領などがあり美麗だといわれていました。『江戸名所図会』では巨大な若宮八幡宮がありました。
江戸名所図会の若宮八幡
 明治2(1869)年の神仏混合禁止今により若宮八幡神社となりました。境内は黒塀で囲まれ木戸があり、楠と銀杏の大木があったようです。明治20年明治20年ごろでは、若宮小路があり、これは()(れい)と若宮八幡神社を結ぶ小路です。ほかに下に行くと庾嶺坂。左には新坂、右は小栗横丁、上は出羽様下があります。また若宮神社の前は車は通れません。つまり、アグネスホテルから車で直接若宮小路にははいれません。アグネスホテルは右の地図では大きな「若宮町」の「宮」の場所にあります。

 さらに若宮小路では上から下に一方通行です。
 大正12(1923)年9月1日、関東大震災が起こり、黒塀は倒壊しました。昭和20(1945)年5月25日、東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。御神体は戦火の中、宮司が持ち出し被災を逃れました。

 昭和22年(1947年)2月に乃木神社の古材を利用して仮社殿を再築、昭和24年(1949年)拝殿、昭和25年(1950年)5月に社務所を建築しました。その時代の写真は
若宮旧

 なにか地所は小さくなっていき、代わってマンションなどができています。現在の神社は

現在の若宮

内部 例祭は9月14~15日、神事・行事で中祭は1月15日と6月15日です。

 また右側の立て看板ではこう書いています。

神楽坂若宮八幡神社縁起録

若宮八幡神社は鎌倉時代に源頼朝公により建立された由緒ある御社で
   御祭神 仁徳天皇
       応神天皇
当社の御出来は
若宮八幡宮は若宮坂の上若宮町にあり(或は若宮小路ともいへり)別当は
天台宗普門院と号す 傅ふに文治五年の秋右大将源頼朝公奥州の藤原泰
衡を征伐せんが為に発向す其の時当所にて下馬宿願あり後奥州平沼の後
当社を営鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を移し奉ると云へり(若宮は仁徳天皇な
り後に応神天皇に改め祭ると云ふ)文明年間太田道灌江戸域鎭護の為当
社を再興し社殿を江戸城に相対せしむるなり当社は文明の頃迄は大社に
して神領等あり美れいなりしという
神域は黒板塀の神垣南に黒門あり門内十歩狛犬一対(明和八年卯年八月
奉納とあり)右に天水釜あり拝殿は南に面する瓦葦破風造梁間桁行三間
向拝あり 松に鷹象頭に虎を彫る「若宮八幡神社」の横額源正哥謹書とあり
揚蔀(アゲジトメ)にて殿内格天井を組み毎格花卉を描く神鏡晶然として銅鋼深く鎮せ
り以て幣殿本社に通ず本社は土蔵造りなり
本殿東南に神楽殿あり瓦葦梁間二間桁行二間半勾欄付「神楽殿」の三字を
扁し樵石敬書と読ま 背景墨画(スミエ)の龍あり落款梧堂とあり境内に銀杏の老
樹あり
明治二年神佛混淆(コンコウ)の禁令あるや別当光明山普門院(山州男山に同じ)復飾
して神職となる。
例大祭は九月十五日 中祭 5月15日
          小祭 1月15日 に行はれ社務所は本社の東に在り
現在氏子は若宮町神楽坂一丁目二丁目三丁目の四ケ町なり。

若宮公園 お蔵坂 アグネスホテル 庾嶺坂 新坂 熱海湯 小栗横町
神楽坂の通りと坂に戻る