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居酒屋の作家|山本容郎

文学と神楽坂

『居酒屋の作家』(潮出版社、昭和57年)を書いた山本容郎ようろう氏は文芸評論家で、昭和28年からの12年間は角川書店編集者。昭和50年、フリーに。著書に「文壇百話ここだけの話」「作家の食卓」など。生年は昭和5年4月20日、没年は平成25年12月4日。享年は満83歳。

 私は、曙橋へ出る大通りを少し歩いた。町名でいうと、弁天町である。弁天町と云えば、私は井伏鱒二の「夜ふけと梅の花」が頭に浮かぶ。
「或る夜更けのこと、正確にいえば去年の三月二十日午前二時頃、私はひどく空腹で且つくったくした気持で、何処かおでん屋でもないかと牛込弁天町の通りを歩いていた」
 と、始まるこの作品は、暗がりから出てくる血だらけの男と、それが機縁になって交友関係が出来る奇妙で味のある短篇小説だ。
 奇妙で味のある短篇小説と云えば、と私はつぶやきながら、早稲田通りへ引返して、天神町交番まで来た。
 その作品は、内田百閒の「神楽坂の虎」という小説。ここでは、主人公は、三人づれで、夜中の十二時過ぎ、店をやっている鮨屋をさがしているうちに暗がりに大きな虎を、五、六匹見る話なのである。
「夜ふけと梅の花」の血だらけの男も酔っぱらって、四、五人の男に袋だたきになったのである。彼は大トラということになろうか。
 神楽坂界隈は、虎がよく出る。私は、二つの作品の偶然の一致を喜んだ。百閒はトラを本物の虎として書いているけれど、酔っぱらいのトラを揶揄しているのかも知れない。
曙橋 あけぼのばし。新宿区住吉町。立体交差の道路橋の名前
大通り 正しくは外苑東通り
夜ふけと梅の花 大酒飲みの男は、消防団4、5人から袋叩きにあい、主人公に出会う。主人公はなだめながら、交友関係ができないうちに、男から5円を受け取る。5、6月後、主人公も酔客になり、同様な事を行う。
且つ かつ。二つの行為や事柄が並行して行うこと
くったく 屈託。ある一つのことばかりが気にかかってその他が手につかない。くよくよすること。
機縁 きえん。きっかけ。縁。
早稲田通り 千代田区九段北の靖国通りの田安門交差点から、神楽坂通りを通り抜け、外苑東通りの交点から杉並区上井草の青梅街道の井草八幡前交差点までの延長15kmの東西方向の道路
神楽坂の虎 夜の神楽坂を通ると、虎が五六匹でてくる。うち一匹が後をつけてくる。「夢語り」手法を境地に高めたもの。
揶揄 やゆ。からかう。なぶる。嘲弄ちょうろうする

 私とMは、早稲田通りと大久保通りの交差点から、筑土八幡の方へ歩いた。左側に菊鮨、第三玉の湯、そして「しょうが見える。
 私は、昭和二十八年から四十年まで、飯田橋駅(新宿寄り)から出て、左へ九段の方へ入る方角にある出版社に勤めていた。その関係で神楽坂は、昔なじみの町なのである。「庄」は、昔なじみの飲み屋なのである。
 時は午後二時。私は近くに会社のある友入たちを呼んだ。そら豆、枝豆、やきとりを頼んで、ビールを飲み出した。やがで、総員五人になった。
 二十五、六年前、私は会社のOという二年先輩につれられて、夕方神楽坂を歩いた。彼は江戸趣味があって、私を吉原へも案内してくれた。その時、神楽坂を少し登り、「志満金」(うなぎ屋)の先の路地を左へ曲ると空地へ出た。彼は、ここが、鏡花と神楽坂の芸者・桃太郎(本名・伊藤すず)とが恋愛関係になり、紅葉没後、新世帯を持った場所だと教えてくれた。目の下には、物理学校(東京理科大学)が見えた。
 私は、その頃、読んだばかりの北原白秋の「物理学校裏」の詩の切れ切れを口に出していた。

 日が暮れた、淡い銀と紫――
 蒸し暑い六月の空
 暮れのこる棕櫚の花の悩ましさ。

 それから「一楽」「亀田屋」と、かつてのなじみの店を歩いた。トラにならないけれど、この町は、文豪と虎がよく似合うようだ。
交差点 昔は(昭和55年など)「神楽坂交差点」でした。今は(昭和59年など)「神楽坂上交差点」です。この本が出版された昭和57年11月はどちらを使ったのは、不明です。
筑土八幡 北東方向です。
菊鮨、第三玉の湯、そして「たこ庄」 3軒全ては白銀町にあります。地図を参照

1980年。住宅地図。

昔なじみ 昔馴染。昔から親しくしている人や物、場所。昔親しんだ人や物、場所。
出版社 角川書店です。住所は千代田区富士見二丁目7番地。現在は富士見二丁目13番3号。
趣味 物事から感じ取られるおもむき。味わい。情趣。
吉原 吉原遊廓、江戸幕府が公認した遊廓。初めは江戸日本橋近く(日本橋人形町)に、明暦の大火の後、浅草寺裏の日本堤に移転した。前者を元吉原、後者を新吉原と呼ぶ。
なじみの店 「一楽」や「亀田屋」の位置は不明です。

泉鏡花旧居跡|芳賀善次郎氏と石川悌二氏

文学と神楽坂

 泉鏡花氏は明治36年3月から3年間、「神楽坂2丁目22番地」に住んでいました。しかし、これは広大な場所です。正確な位置はどこにあるのでしょうか。

神楽坂2丁目22

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では……

2、作家泉鏡花旧居跡         (神楽坂2―22)
 神楽坂の途中左手、瀬戸物屋の横を行くと坂道に出る。そこを越したところ、理科大学の裏手にあたる崖上は、泉鏡花が明治36年3月から39年7月まで住んだところである。
 泉鏡花の師、尾崎紅葉は、横寺町に住んでいて、多くの弟子を指導していた。その中で一番早く文壇に認められたのは鏡花である。鏡花は、小栗風葉徳田秋声などとともに紅葉門下の硯友社の一員であるが、硯友社の人々は明治32年の新年宴会を、神楽坂の料亭常盤家で行なった。この夜、鏡花は桃太郎(本名、伊藤すず)という若い芸妓を見知ったのである。それ以来、鏡花と桃太郎との交際は続くのであるが、このことを知った紅葉は不快に思っていた。
 そのうち、36年3月、鏡花が神楽坂のここに一軒借りて桃太郎と同棲していることをきき、紅葉の怒りは爆発した。彼は小栗風葉に案内させて鏡花の家へ乗り込んだが、鏡花はす早く桃太郎を裏口から逃してその場をつくろった。紅葉は鏡花を強く叱りつけて帰ったが、その後彼女は涙をのんで鏡花のもとを去ったのである。
 しかしほどなく紅葉は、その年の10月30日に他界した。紅葉の死によって、生木を割かれるように別れた鏡花と桃太郎の仲は、またもとに戻った。それでも亡師に遠慮して鏡花は籍を入れなかった。正式に結婚式を挙げたのは大正15年になってからである。この両人の住んだのもここであった。
 鏡花の“婦系図”は、半自叙伝小説といわれる。発表された翌年、新富座喜多村緑郎伊藤蓉峰らによって上演されてから有名になった。その時新たに書き加えられた湯島境内の場で、早瀬とお蔦が清く別れる一場が特に観客の涙をさそったものであった。このお蔦は桃太郎であり、早瀬主税は鏡花自身であり、酒井先生というのは紅葉のことである。
 鏡花は、神楽坂を忘れられない思い出の地としていたらしく、“神楽坂の唄”と題した詩を書いている。

生木を割かれる 生木なまきを裂く。相愛の夫婦・恋人などをむりやり別れさせる。
新富座 しんとみざ。歌舞伎劇場名。江戸三座の一つで、明治5年、猿若町から京橋区(中央区)新富町へ進出。明治8年、新富座と改称。ガス灯を設備した近代建築だが、大正12年、関東大震災で焼失した。
喜多村緑郎 新派俳優。女形。素人芝居から俳優の道に入る。道頓堀角座を本拠に「成美団」を結成、のち東京でも活躍し、新派三頭目時代をつくる。人間国宝。生年は明治4年、没年は昭和36年。享年は満89才。
伊藤蓉峰 正しくは伊井蓉峰。新派俳優。新派大合同劇の座長格。端麗な容姿と都会的な芸風で、新派の代表的な俳優として活躍した。生年は明治4年、没年は昭和7年。享年は満60歳。

 住所はわかりますが、その他はわからない。そのまましばらく放っておきました。数年後、石川悌二氏が書いた「近代作家の基礎的研究」(明治書院、昭和48年)があると知りました。鏡花の邸宅の写真もあったのです。

 師尾崎紅葉の死去によって、生木を裂かれたような鏡花と桃太郎の仲はふたたび元に返った。鏡花の戸籍面は、この年12月、小石川大塚町から牛込区神楽町2丁目22番地に送籍されているので、紅葉の没後まもなく両人はまた一緒になったのであろう。しかし鏡花は亡師にはばかり、すずの戸籍を長く妻として入れなかった。それが二十数年を経過した大正15年になって、水上滝太郎の切なるすすめにより、改めて結婚式をあげたのであった。
 鏡花、桃太郎が住んだ神楽町二丁目の家宅はすでにないが、そこは神楽坂を上ってまもなく、左側の瀬戸物屋薬屋の間を左折し、その小路がまたにつき当たる左手あたり(現神楽坂2丁目の東京理科大学裏手)にあった。
 新派劇の「婦系図」はその序幕が主税とお蔦の新世帯であって、瀟洒なつくりのその家は、横手に堀井戸があって、すぐ勝手口や台所が続いているが、これは鏡花の実際の住居を模写したもので、桃太郎も芝居のお蔦さながらの生活をしたものと伝えられている。(村松梢風「現代作家伝・泉鏡花」参照)
 ついでながらに加えると、婦系図のヒロインのお蔦は、桃太郎が抱えられていた芸者屋「蔦永楽」にちなんだ名で、酒井先生は紅葉の住んでいた近くの牛込矢来町一帯が、旧小浜藩酒井氏の下屋敷跡だったことから、「酒井先生」としたのであろう。またこの作中に登場するひどく威勢のいい魚屋「めの惣」のモデルは魚徳という人で、現在神楽坂の北側三丁目にある料亭「魚徳」はその人の孫が経営している。この魚徳の姪は、又平という妓名で桃太郎と同じ蔦永楽から左棲をとっていたが、その人もすでに亡い。紅葉の愛妓だった小えん、すなわち婦系図の小吉のモデルは、相模屋の女将村上ヨネの養女に入籍され(戸籍名、村上えん)ていたが、紅葉の死後5年ほどして北海道函館の網元ひかされて妻となった。
この年 明治36年です。
送籍 民法の旧規定で、婚姻や養子縁組などで、1人の戸籍を他家の戸籍に送り移すこと。
瀬戸物屋 太陽堂です。
薬屋 当時は山本薬局。現在は神楽坂山本ビルで、1階はデンタルクリニック神楽坂です。
小路 神楽坂仲坂と名前をつけました。
 堀見坂です。
左手 地図では東側です。

1976年。住宅地図。

あたり 上の写真を見てください。写真に加えて「神楽坂うら鏡花旧居跡(電柱の左方)」と書いています。写真は昭和48年(1973年)頃に撮ったものです。下の写真は平成18年(2006年)頃に撮られたものです。なぜが2本の電柱はそっくりです。また「泉鏡花旧居跡」の場所も正確に同じ場所だとわかりました。「北原白秋旧居跡」の場所はまだ不明。

籠谷典子編著「東京10000歩ウォーキング No.13 神楽坂・弁天町コース」(明治書院、2006年)


婦系図 おんなけいず。1907年(明治40年)、泉鏡花の小説や、原作とした演劇・映画
蔦永楽 つたえいらく。神楽坂3丁目2番地。地図は大正元年の地図です。正確なものはなく、これ以上は不明です。

東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

左棲 ひだりづま。(左手で着物の褄を持って歩くことから)芸者の異名。
相模屋 神楽坂3丁目8番地。地図は大正元年の地図です。相模家はこの赤い地図で、問題は何軒があるのか、です。

相模屋

相模屋。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

 明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)では、どうも1軒だけでした。ただし、数軒をまとめて地図上だけ1軒にしたと考えることもできますが。

網元 漁網・漁船などを所有し、網子あみこ(漁師)を雇って漁業を営む者。網主あみぬし
ひかされて じょうなどにひきつけられる。ほだされる。

寺内で会った人々|水野正雄

文学と神楽坂

 平松南氏が編集する「神楽坂まちの手帖」第5号(けやき舎、2004年)で、水野正雄氏は寺内で起きた喜怒哀楽(というと大げさだけど)を取り上げます。神楽坂はん子、柳町金語楼、若山富三郎と勝新太郎、花柳小菊、水谷八重子、泉鏡花などのオールドスターがでてきます。

「新宿・神楽坂暮らし80年」④
新宿郷土研究会会長 染め物洗張り「神楽坂 京屋」 水野 正雄
 歌手で有名な神楽坂はん子さん。はん子さんも芸者だったが、神楽坂5丁目読売新聞販売所があるでしょ、あの隣りがはん子さんの家でした。それが白銀町の私の家の隣りのお風呂屋に来るんですよ。私もその頃、お風呂屋に行ってましたけど。見はからって? いいや偶然(笑)。そうするとね、女湯の方で「あらこんにちは」なんて挨拶しているのが聞こえた。それがいい声でね。
 はん子さんの隣りが金語楼お妾さんの家で、今の読売新聞販売所の所です。金語楼の息子、山下敬二郎はあそこで生まれて、いっつも路地でくるくる回って遊んでいたの。金語楼の弟で昔々亭桃太郎(せきせきてい・ももたろう)というのが横寺に住んでましたが。金語楼も桃太郎も家のお客でしたが、勘定ぱらいが悪くてね。はん子さんは勘定ぱらいはよかったですよぉ。それから今の高層マンションの中央あたりに、杵屋勝東治っていう長唄のお師匠さんが住んでいて、そのお妾の子が若山富三郎勝新の兄弟。彼らが20代早々のときに3年ほど神楽坂に住んでいた。出口の床屋(お風呂屋へ抜ける道の大久保通りのところにあった床屋)で何回か会ったことがあるんだが、勝新太郎は生意気なことばかりいっていたよ。映画界に入る前で、なんだかアメリカへ行ってきたらしく、そのことを鼻高々で話していた。
 それから花柳小菊さんも、毘沙門さまの地蔵坂から入ったところに住んでいました。小菊さんも芸者で。はん子さん、小菊さん、水谷八重子、鏡花の嫁さんの桃太郎さんもみんな家のお客さんです。水谷八重子は守田勘弥お妾さんだが、6丁目の横寺のちょっと手前に金物を売っている家があるでしよ、そこは墓場なんですけど、そこに「蒲(かば)」つていう医者の家があって、その隣りが先代の水谷八重子の家でした。兄貴の竹紫っていうのと住んでいたの。神楽坂にはずいぶん、お妾さんが住んでいたんだね。
 鎗花のおかみさんの桃太郎さんは、親父の話ではちょっときつい顔をしていたから、あんまり売れっ子じゃなくて。それで鏡花とお座敷で同席して仲良くなったっていうんだね。


読売新聞販売所 現在はなくなった販売所ですが、1990年には道路の一番左側から3番目にありました。1963年ではやはり左側から3番目に山下氏があり、ちなみに、その2番目は「〇〇〇焼」でした。1960年では、三幸、お好焼き、山下、安井と並んでいます。1952年も左側から3番目は料理・山下でした。

1990年と1963年。住宅地図。

1960年。住宅地図。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

あの隣り 1960年、山下氏の一方の隣りはお好焼き。したがって反対側の安井氏の家の方でしょう。
お風呂屋 1960年には熊乃湯でした。
お妾さん 実際の愛人。愛人の子として山下敬二郎氏がいる。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

 ここで新宿区が編集した「新宿時物語」(星雲社、2007年)の「神楽坂の料亭街」を簡単に見ておきます。地元の人は神楽坂5丁目の一部だといっていて、私もそうだと思っています。
 赤丸はカメラの本体、赤い線はその画角です。

新宿時物語

 ここで➃は「料理 山下」で、柳家金語楼のお妾さんの家、後に読売新聞販売所になり、大久保通り拡幅工事のため、市谷柳町の牛込神楽坂読売センターと統合し移転し、現在はLe petit Bistro RACLER(ル・プティ・ビストロ・ラクレ)になりました。➂は民家で、一時は神楽坂はん子の家になり、現在はなくなり、普通の道路になりました。➀は「芸妓 分まん」、➁は「法律OF 野町」で、➀➁ともに神楽坂アインスタワーになり、➄は「芸妓 富沢」、現在神楽坂茶寮本店です。

山下敬二郎 ロカビリー歌手。ポール・アンカの「ダイアナ」の日本語カバーで有名。生年は1939年2月22日。没年は2011年1月5日。享年は満72歳。
昔々亭桃太郎 落語家。柳家金語楼の弟。生年は1910年1月2日。没年は1970年11月5日。享年は満60歳
高層マンション 神楽坂アインスタワーです。
杵屋勝東治 きねや かつとうじ。長唄三味線方。生年は1909年10月16日。没年は1996年2月23日。
お妾 実は正式な妻。
若山富三郎 わかやま とみさぶろう。俳優。本名は奥村勝。生年は1929年9月1日、没年は1992年4月2日。
勝新 勝 新太郎。かつ しんたろう。俳優。若山富三郎の弟。本名は奥村利夫。生年は1931年(昭和6年)11月29日、没年は1997年(平成9年)6月21日。
床屋 1952年の地図で、赤い四角の「トコヤ」
花柳小菊 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」(2008年)では

馬場さん 塀じゃなくてさ。壁が。「三笠屋」側は波板が貼って鳴らしながら通ったんだよ。子どもんときに。
相川さん ちょっと記憶がないな。その後ろに小菊さんがいたんだよ。花柳小菊さん。三笠屋の真後ろ。私んところの玄関の前に小菊さんがいた。


三笠屋は現在の手打ちそば「山せみ」なので、「三笠屋の真後ろ」は4枚目ほど前の図になるのでしょうか。
アメリカへ行く 1954年、23歳で、アメリカの巡業を行った。映画の撮影所で俳優ジェームス・ディーンに出会い、感化されて映画俳優になることを決意する。
守田勘弥 もりた かんや。歌舞伎役者。昭和10年、14代勘弥を襲名。江戸前の二枚目を得意とした。初代水谷八重子と結婚。実子に水谷良重。生年は明治40年3月8日、没年は昭和50年3月28日。享年は満68歳。
お妾さん 水谷八重子氏は「お妾さん」ではなく、正式に妻でした。
水谷八重子の家 ブログによれば、通寺町61でした。

(昭和12年)火災保険特殊地図





十千万堂日録|尾崎紅葉

文学と神楽坂

尾崎紅葉

尾崎紅葉

 尾崎紅葉氏は自分の日記を書き、特に明治34年1月から36年10月までを『十千万堂日録』として発表しています。

 この泉鏡花氏の事件は1903年(明治36年)4月に起こりました。鏡花氏が将来妻になる芸者すずを落籍し、同棲します。しかし、この件で紅葉氏は鏡花氏を叱責し、すずとの訣別を要求しました。紅葉氏から見たこの事件は『十千万堂日録』に書かれています。

明治36年4月14日
風葉を招き、デチケエシヨンの編輯に就いて問ふ所あり。相率て鏡花を訪ふ。(妓を家に入れしを知り、異見の為に趣く。彼秘して実を吐かず、怒り帰る。十時風葉又来る。右の件に付再人を遣し、鏡花兄弟を枕頭に招き折檻す。十二時頃放ち還す。
疲労甚しく怒罵の元気薄し。
夜、小栗風葉を招いたが、口述の編集について聞いてきたい所があったからだ。2人ともに連れ会って、泉鏡花を訪ねた。愛する芸者を家に入れたとを知ったからだ、鏡花の過ちをいさめ、同意させたいと思ったが、知らないと言い張り、真実を吐かなかった。私は怒って帰った。十時になって、風葉もやってきた。右の件につき、再度、鏡花の兄弟を枕頭に招き、厳しく諫言した。十二時頃、放ち還す。疲労は甚しく、怒りののしる元気は薄い。
 紅葉氏は訣別を要求したのでしょう。さて、泉氏はどうするのか、本文を読む限り、はいといったとは書いていません。
十千万 とちまん。非常に数や量の多いこと。巨万
明治36年 1903年
デチケエシヨン dictation、口述。門弟たちが紅葉氏を慰めるため企画した短篇集「換菓篇」のこと。
 親愛な、親密な、愛する。
異見 自分の思うところを述べて、人の過ちをいさめること。他の人とは違った考え。異議。異論。
趣く 従う。同意する。同意させる。
折檻 強くいさめること。厳しく諫言かんげんすること。
怒罵 どば。怒りののしること。

明治36年4月15日
風葉秋声来訪。鏡花の事件に付き、之より趣き直諌せん為也。夜に入り春葉風葉来訪、十一時迄談ず。
直諌 ちょっかん。遠慮することなく率直に目上の人を、いさめること。遠慮なく相手の非を指摘して忠告すること。

 読む限り、紅葉氏は部下の風葉氏や秋声氏からも再考してほしいといわれたようです。その後、夜の11時頃までかかって、あれこれを話し合ったようです。
明治36年4月16日
夜鏡花来る。相率て其家に到り、明日家を去るといへる桃太郎に会ひ、小使十円を遣す。
 二日後、桃太郎(すず、将来の鏡花の妻)は家から離れることになったようです。別れるとははっきり書いていません。
桃太郎 日本の芸者。桃太郎は芸者時代の名前。泉鏡花の妻、泉すず。旧姓は伊藤。生年は1881年(明治14年)9月28日、没年は1950年(昭和25年)1月20日。享年は満68歳。
十円 明治38年ごろ、小学校の先生の初任給は10~13円、大銀行の大卒の初任給は35円でした。つまり、当時の10円は今でいう10万円ぐらいでしょうか(http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J050.htm)。


泉鏡花

文学と神楽坂

泉鏡花

大正元年の泉鏡花

 いずみきょうか。明治・大正期の小説家・劇作家。本名は鏡太郎。1873(明治6年)年11月4日に生まれ、没年は1939(昭和14年)9月7日。65歳、癌性肺腫瘍のため死亡。

 明治23年(17歳)、牛込横寺町の当時23歳の尾崎紅葉氏を訪ね、最初の門下になります。明治28年(21歳)、『夜行巡査」『外科室』を発表し、出世作に。明治29年5月、郷里から七七歳の祖母と弟豊春を迎えて、小石川区大塚町57番地に同居。明治32年(26歳)、神楽坂の芸妓、桃太郎(本名伊藤すゞ、当時17歳)を知り、牛込南榎町に引っ越し。明治33年(27歳)、幻想譚『高野聖』を発表。
 明治36年(30歳)1月、神楽坂に転居し、すゞと同棲。3月、紅葉はこれを知り、叱責。すゞはいったん鏡花のもとを去り、同年10月、紅葉が死亡、晴れて夫婦に。

 明治38年(32歳)、逗子に転居。明治41年(35歳)、『婦系図』を出版し、帰京。明治42年(36歳)、後藤宙外らの文芸革新会に参加し、反自然主義を標榜。
 昭和14(1939)年、66歳の『縷紅新草』が最後の作。小説は300編以上。独特の文体、女性崇拝、幻想、怪奇、耽美主義、エロチシズム、ロマンチシズムなどの世界が生まれました。