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森田草平の住所

文学と神楽坂

 明治43年8月12~13日、森田草平氏は牛込矢来町62番地に転居、さく女史と家庭生活に入りました。女史は藤間勘次といい、藤間流の日本舞踊の先生でした。

 実は2年前の明治41年3月、氏は心中未遂事件を起こしています。明治40年4月、天台宗中学の英語教師になり、さらに6月、閏秀文学界の講師となり、ここで、平塚明(明子、らいてう、雷鳥)女史を聴講生として知ります。二人の中は急速に進展し、明治41年3月、塩原尾頭峠で、平塚明子女史と心中未遂の塩原事件を起こしています。

 明治42年1月1日~5月16日、氏は朝日新聞にこの事件をモデルにした「煤煙」を連載します。ここでは、最後の数部分を読んでみます。なお、この出典はおおむね「日本現代文学全集41」(講談社、昭和58年)でありますが、さらに必要があれば国立国会図書館の「煤煙」(如山堂、大正2年)を借りています。

 女は包を解いて、手紙の束を雪の上へ投出した。その上へウィスキイの殘りを注ぐ。男はしやがんで燐寸マツチを擦つた。小さな靑い火がぼぼと燃えて、その儘すうと煙を出して消えた。二たび擦る。燐寸が半ばから折れた。三たび、四度目に燃え上つた。男の戀を連ねた文字が燃える。黑くくすぶつて消えようとしては、又ぶす/\と燃え上つた。
 要吉はそれを見詰めてゐた。眼も離さず見詰めてゐた。いよ/\黑い灰となつて仕舞つたのを見濟まして、不圖女をかへり見たが、自分の顏に泛んだ失望の色が自分の眼にも見えるやうな氣がした。
 俄に山巓からどつと風が落ちて來た。灰を飛ばし、雪の粉を飛ばし、われも人も吹飛ばして仕舞ひさうな。二人はひし相抱いた。風は山を鳴らして吹きに吹く。
「死んだら何うなるか、言つて、言つて。」
 女は男の腕を掴んで、かずれた聲に叫ぶ。
「言つて、言つて。」
「私には――言へない。」
 女は凝乎ぢつと男の顏を見守つてゐる。それを見ると、男の心には又むら/\と反抗心が起った。生きるんだ、生きるんだ、自分は何處迄も生きるんだ。
 つとうち衣嚢かくしから短刀を取出して、それを握ったまゝ立上った。女はその氣色を見て、
「何うするんです」と、突走るやうに訊く。
 あなやと言ふ間もなく、要吉は谷間を目蒐めがけて短刀を投げた。
「私は生きるんだ。自然が殺せば知らぬこと、私はもう自分ぢや死なない。貴方も殺さない。」
 二人は顔を見合せたまゝ聲を呑んだ。天上の風に吹き散らされて、雲間の星も右往左往に亂れて、見えた。女は又叫ぶ。
「歩きませう、もつと歩きませう。」
「うむ、歩きませう。」
 二人は雪明りをたよりにして、風の中を行く。風のために雪が氷り始めたやうだ。只、その上層うはかはを破れば、底迄踏み込まずには置かない。やっと半町程進んだ時、ばたりと背後で倒れる音がした。朋子は崖を踏み外したまゝ、聲も立てずにゐる。遽てて、それを引上げようとして、一緒にずる/\と摺り落ちた。三間ばかり落ちて行つたが、危く雪の洞に引かゝつた。
 二人は折重なつたまゝ動かなかった。だん/\風の音も遠くなるらしい。要吉は腹の辺りから冷たい水が沁み込んで来るのを覚えながら、ついうと/\とした。その後は何うなつたか知らない。
 不圖、誰かに喚び起されるやうな氣がして眼を開いた。朋子が凝乎ぢつと自分の顔を見守つてゐる。「ね、歩きませう、もつと歩きませう。」
 女は急に男の手を持つて、同じ事を繰返した。
 要吉は默つて立上つた。見返れば、月天心に懸つて、遠方の山々はさながら太洋のなみがその儘氷つたやうに見えた。わが居る山も、一面に雪が氷つて、きら/\と水晶のやうな光を放つた。あゝ氷獄!氷獄! 女の夢は終に成就した。到頭自分は女に件れられて氷獄のへ來た。――男の心には言ふべからざる歡喜の情が湧いた。う可い、もう可い! 二人は手を取合つたまゝ、雪の上に坐ってゐた。何にも言ふことはない!
 二人は又立上った。堅く氷つた雪を踏みしだきながら、山を登つて行く。
 山巓も間近になつた。
 だん/\月の光がぼんやりして、朝の光に變つて行く。
(明治42年1月~5月「朝日新聞」)

不図 ふと。不斗。思いがけなく、突然起こる。不意に。これといった理由や意識もなく、物事が生じる。
泛ぶ うかぶ。浮かぶ。奥に隠れていたものが表面に現れる。
山巓 さんてん。山巓。山顚。山のいただき。山頂。
犇と ひしと。ぴったりと密着する。
つと ある動作をすばやく、いきなりする。さっと。急に。
内かくし 内隠し。洋服の内ポケット。うらかくし。
突走る つっぱしる。突っ走る。勢いよく走る。まっしぐらに進む。
あなや ひどく驚いた時に発する語。あっ。あれっ。
上層 じょうそう。層をなして重なっている物の上の方の部分。
遽てて あわてる。うろたえる。急いで…する。
摺る する。こする。印刷する。
天心 てんしん。空のまん中。中天。
氷獄 読みは「ひょうごく」(国立国会図書館「煤煙」から)。この言葉は本来ありません。勝手に作ったのでしょうか。なお「八寒地獄」は、寒冷に責められる地獄のこと。
 り。うら。うち。物のうらがわ。なか。内部。

 それから約1年後、氏は藤間勘次女史と矢来町62番地で夫婦関係になりました。

 遠藤登喜子氏は『ここは牛込、神楽坂』第6号の「懐かしの神楽坂 心の故郷・神楽坂」で書き

 勘次師は、二代目藤間勘右衛門(後の勘翁)の門弟で、三代目勘右衛門、後の初代勘斎(松本幸四郎)は先代市川團十郎、松本白鴎、尾上松緑三兄弟の父君です。勘次師は、また作家の森田草平先生の奥さまで、花柳界のお弟子は全く取らず、名門の子女が多く、お嬢さま方がそのころ珍しかった自家用車に乗り、ばあやさんをお供にお稽古に来ておられました。
 藤間のお三方のご兄弟ももちろんこの頃は若く、踊りの手ほどきを勘次師にしていただくためよく来られました。私はまだ小学生で、時々お稽古場で豊(松緑)さんと顔が会うと、住まいが同じ渋谷だったので、お稽古の後、付人のみどりさんという若い男の子と三人で神楽坂をぶらぶら歩いて、よく履物の助六の下にあった白十字でアイスクリームなどをごちそうになったものです。

 下の地図で二人が住んだ矢来町62番地は赤い多角形で書きました。

矢来町62番地

大正11年、東京市牛込区の地図

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑪

文学と神楽坂

 朝日坂を引き返して神楽坂とは反対のほうへ進むと、まもなく右側に音楽之友社がある。牛込郵便局の跡で、そのすぐ先が地下鉄東西線神楽坂駅の神楽坂口である。余計なことを書いておけば、この駅のホームの駅名表示板のうち日本橋方面行の文字は黒だが、中野方面行のホームの駅名は赤い文字で、これも東京では珍しい。
 神楽坂口からちょっと引っこんだ場所にある赤城神社の境内は戦前よりよほど狭くなったようにおもうが、少年時代の記憶にはいつもその種の錯覚がつきまとうので断言はできない。近松秋江の最初の妻で『別れたる妻に送る手紙』のお雪のモデルである大貫ますは、その境内の清風亭という貸席の手伝いをしていた。清風亭はのちに長生館という下宿屋になって、「新潮」の編集をしていた作家の楢崎勤は長生館の左隣りに居住していた。

神楽坂の方から行って、矢来通を新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れると、私の生れた家のあった横町となる。(略)その横町へ曲ると、少しだらだらとした登りになるが、そこを百五十メートルほど行った右側に、私の生れた家はあった。門もなく、道へ向って直ぐ格子戸の開かれているような小さな借家であった。小さな借家の割に五、六十坪の庭などついていたが、無論七十年前のそんな家が今残っている筈はなく、それがあったと思うあたりは、或屋敷のコンクリートの塀に冷たく囲繞されている。

朝日坂 北東部から南西部に行く横寺町を貫く坂
音楽之友社 音楽出版社。本社所在地は神楽坂6-30。1941年12月、音楽世界社、月刊楽譜発行所、管楽研究会の合併で設立。音楽之友
牛込郵便局 通寺町30番地、現在は神楽坂6-30で、会社「音楽之友社」がはいっています。
神楽坂口 地下鉄(東京メトロ)東西線で新宿区矢来町に開く神楽坂駅の神楽坂口。屋根に千本格子の文様をつけています。昔はなかったので、意匠として作ったはず。
神楽坂口
赤城神社 新宿区赤城元町の神社。鎌倉時代の正安2年(1300年)、牛込早稲田の田島村に創建し、寛正元年(1460年)、太田道灌により牛込台に移動し、弘治元年(1555年)、大胡宮内少輔が現在地に移動。江戸時代、徳川幕府が江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集めました。

別れたる妻に送る手紙 家を出てしまった妻への恋情を連綿と綴る書簡体小説
貸席 かしせき。料金を取って時間決めで貸す座敷やその業
長生館 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に。
或屋敷 「ある屋敷」というのは新潮社の初代社長、佐藤義亮氏のもので、今もその祖先の所有物です。佐藤自宅

  広津和郎の『年月のあしおと』の一節である。和郎の父柳浪『今戸心中』を愛読していた永井荷風が処女作(すだれ)の月』の草稿を持参したのも、劇作家の中村吉蔵が寄食したのもその家で、いま横丁の左角はコトブキネオン、右角は「ガス風呂の店」という看板をかかげた商店になっている。新潮社は、地下鉄神楽坂駅矢来町口の前を左へ行った左側にあって、その先には受験生になじみのふかい旺文社がある。

今戸心中 いまどしんじゅう。明治29年発表。遊女が善吉の実意にほだされて結ばれ、今戸河岸で心中するまでの、女心の機微を描きます。
簾の月 この原稿は今でも行方不明。荷風氏の考えでは恐らく改題し、地方紙が買ったものではないかという。
コトブキネオン 現在は「やらい薬局」に変わりました。なお、コトブキネオンは現在も千代田区神田小川町で、ネオンサインや看板標識製作業を行っています。やらい薬局と日本風呂
ガス風呂 「有限会社日本風呂」です。現在も東京ガスの専門の店舗、エネフィットの一員として働き、風呂、給湯設備や住宅リフォームなど行っています。「神楽坂まちの手帖」第10号でこの「日本風呂」を取り上げています。

 トラックに積まれた木曽産の丸太が、神楽坂で箱風呂に生まれ変わる。「親父がさ、いい丸太だ、さすが俺の目に狂いはないなって、いつもちょっと自慢げにしててさあ。」と、店長の光敏(65)さんが言う。木場に流れ着いた丸太を選び出すのは、いつも父の啓蔵(90)さんの役目だった。
 風呂好きには、木の風呂なんてたまらない。今の時代、最高の贅沢だ。そう言うと、「昔はみんな木の風呂だったからねえ。」と光敏さんが懐かしむ。啓蔵さんや職人さん達がここ神楽坂で風呂桶を彫るのを子供の頃から見て育ち、やがて自分も職人になった。

新潮社 1904年、佐藤義亮氏が矢来町71で創立。文芸中心の出版社。佐藤は1896年に新声社を創立したが失敗。そこで新潮社を創立し、雑誌『新潮』を創刊。編集長は中村武羅夫氏。文壇での地位を確立。新潮社は新宿区矢来町に広大な不動産があります。新潮社
旺文社 1931年(昭和6年)、横寺町55で赤尾好夫氏が設立した出版社。教育専門の出版社です。

旺文社

 そして、その曲り角あたりから道路はゆるい下り坂となって、左側に交番がみえる。矢来下とよばれる一帯である。交番のところから右へ真直ぐくだった先は江戸川橋で正面が護国寺だから、その手前の左側に講談社があるわけで、左へくだれば榎町から早稲田南町を経て地下鉄早稲田駅のある馬場下町へ通じているのだが、そのへんにも私の少年時代の思い出につながる場所が二つほどある。

交番 地域安全センターと別の名前に変わりました。下図の赤い四角です。
矢来下 酒井家屋敷の北、早稲田(神楽坂)通りから天神町に下る一帯を矢来下といっています。

矢来下

矢来下

江戸川橋 えどがわばし。文京区南西端で神田川にかかる橋。神田川の一部が江戸川と呼ばれていたためです。
護国寺 東京都文京区大塚にある新義真言宗豊山派の大本山。
講談社 こうだんしゃ。大手出版社。創業者は野間清治。1909年(明治42年)「大日本ゆうべん(かい)」として設立
講談社榎町 えのきちょう。下図を。
早稲田南町 わせだみなみちょう。下図を。
馬場下町 ばばしたちょう。下図を。

 矢来町交番のすこし手前を右へおりて行った、たぶん中里町あたりの路地奥には森田草平住んでいて、私は小学生だったころ何度かその家に行っている。草平が樋口一葉の旧居跡とは知らずに本郷区丸山福山町四番地に下宿して、女主人伊藤ハルの娘岩田さくとの交渉を持ったのは明治三十九年で、正妻となったさくは藤間勘次という舞踊師匠になっていたから、私はそこへ踊りの稽古にかよっていた姉の送り迎えをさせられたわけで、家と草平の名だけは知っていても草平に会ったことはない。
 榎町の大通りの左側には宗柏寺があって、「伝教大師御真作 矢来のお釈迦さま」というネオンの大きな鉄柱が立っている。境内へ入ってみたら、ズック靴をはいた二人の女性が念仏をとなえながらお百度をふんでいた。私が少年時代に見かけたお百度姿は冬でも素足のものであったが、いまではズック靴をはいている。また、少年時代の私は四月八日の灌仏会というと婆やに連れられてここへ甘茶を汲みに来たものだが、少年期に関するかぎり私の行動半径はここまでにとどまっていて先を知らなかった。
 三省堂版『東京地名小辞典』で「早稲田通り」の項をみると、《千代田区九段(九段下)から、新宿区神楽坂~山手線高田馬場駅わき~中野区野方~杉並区井草~練馬区石神井台に通じる道路の通称》とあるから、この章で私が歩いたのは、早稲田通りということになる。

中里町 なかざとちょう。下図を。
住んで 森田草平が住んだ場所は矢来町62番地でした。中里町ではありません。

森田草平が住んだ場所と宗柏寺

森田草平が住んだ場所と宗柏寺

本郷区丸山福山町四番地 樋口一葉が死亡する終焉の地です。白山通りに近くなっています。何か他の有名な場所を捜すと、遠くにですが、東大や三四郎池がありました。
一葉終焉
岩田さく 藤間勘次。森田草平の妻、藤間流の日本舞踊の先生でした。
榎町 えのきちょう。上図を。
宗柏寺 そうはくじ。さらに長く言うと一樹山(いちきさん)宗柏寺。日蓮宗です。
お百度 百度参り。百度(もう)で。ひゃくどまいり。社寺の境内で、一定の距離を100回往復して、そのたびに礼拝・祈願を繰り返すこと。
灌仏会 かんぶつえ。陰暦4月8日の釈迦(しゃか)の誕生日に釈迦像に甘茶を注ぎかける行事。花祭り。
甘茶 アマチャヅルの葉を蒸してもみ乾燥したものを(せん)じた飲料
東京地名小辞典 小さな小さな辞典です。昭和49年に三省堂が発行しました。

林原耕三|神楽坂今昔

文学と神楽坂

林原耕三 林原(はやしばら)耕三(こうぞう)氏は自称最後の漱石門下生で、生年は1887年12月6日。没年は1975年4月23日。英文学者で俳人。1918年、東京帝国大学英文科卒。在学中から夏目漱石に師事し、芥川龍之介氏たちを漱石に紹介し、その後、法政大学、明治大学、専修大学、東京理科大学の教授になりました。
 なかでも東京理科大学の教授歴が長く、その結果、非常に神楽坂のことについては詳しい…はずです。しかし、昭和48年(85歳)に書いた『神楽坂今昔』では、ここかしこに、かなり記録の嘘や抜け落ちが出てきているようです。これは終わりに近い部分です。正しい点もたくさんあるのですが、うっかり抜けた内容がやっぱり出てきます。

 同じ側の矢来町には森田のおたまさんが住んでおり、彼女が三田へ移った跡は素木しづ子君が住んでゐたから、私には随分思ひ出が豊富である。森田草平氏の家も少し先の反対側の路地の奥にあって、思ひ出は一層深まる。最初の夫人お稲さん藤間勘衛門の高弟で、家中(かちゆう)踊舞台があり、そのお弟子が沢山あった。おたまさんもその一人だが、東大国文科に在学中のロシア人エリセイフ君も熱心で、筋がよかったやうだ。その頃、踊りに来たのではないが、少女時代の水谷八重子の「やっちゃん」がよく遊びに来た。それから文学の方で「まあちゃん」(本名豊田正子――今、ゲラに臨んで思ひ出した)といふ少女のお弟子が出入して、その処女作「綴方教室」といふ本が好評嘖々で、未来を大に嘱望されたが、不幸な結婚をして、その後筆を絶って、慧星の如く消えてしまった。
 私は、森田さんが忙しいので、頼まれておしづさんと長男の亮一君に英語を教へた。後におしづさんの自宅へ通はされた。そして、言はれるまゝに、洗濯物を持って行って、(おしづさんは隻脚なので)洗ふのはお毋アさん、縫ふのはおしづさんがしてくれた。森田家では文士の誰彼とも顔を合せ、後年深く交はった佐藤春夫君と相知ったのもこの家であった。森田さんが岩波版第一回漱石全集の校正主任の頃もあの家だから、勢ひ、その方の用件でも屢々訪問した。(略)
 私が大正十四年に都落ちして、昭和五年に東京へ舞ひ戻る五年間以外は生活の舞台はこゝにあったやうなものである。

三田 矢来町から三田にいった時間はわかりませんでした。森田たま氏の年譜はすかすかで、特に20代前半になるとまったくわかりません。森田たま氏も素木氏も矢来町から南榎町にいったことはわかっています。本当は南榎町ではないのでしょうか。たぶんこれも抜け落ちた内容でした。
路地の奥 『漱石全集』と『神楽坂界隈の変遷』によれば、森田草平氏は明治43年12月から大正9年1月にかけて牛込区矢来町62番地に住んでいました。下図では赤い場所です。
お稲さん 草平の妻。踊りの師匠としての名前は藤間勘次(女性です)。ただし草平とっては最初の夫人ではありません。
藤間勘衛門 正しくは藤間勘右衛門(ふじま かんえもん)。生年は天保11.2.12。没年は1925(大正14年)1.23。藤間流勘右衛門の家元。
踊舞台 おどりぶたい。踊りをする舞台
嘖々 さくさく。人々が口々に言いはやすさま。例は「好評嘖々」「評判嘖々たりし当代の佳人」など
森田 これは森田草平氏のほう
亮一 森田草平氏の長男
隻脚 せっきゃく。片足がなくなること。結核のためでした

『素木しづ作品集』によると……

「大正四、五の読売の『よみうり抄』と時事の『文芸消息』の記事から清貢・しづ関係の項を列挙する。(略)
<上野山清貢氏 牛込矢来町一番地二二号へ転居せり。>(『読売新聞』大正5・5・5)
<素木しづ子 上野山清貢氏と共に牛込区南榎町一五に転居した。>(『読売新聞』大正5・6・10)

 これから素木しづは矢来町1番地22号にいたとわかりました。しかし、1番地は巨大で、その22号はどこなのか、現在探すものはなく、全くわかりません。できれば緑の場所ならいいのですが、残念ながら、不明です。なお、赤い場所は森田草平氏が住んでいた場所です。大正11年矢来町

文学と神楽坂