タグ別アーカイブ: 泉鏡花

弁天坂|箪笥町

文学と神楽坂

 

 大久保通りに弁天坂という坂があります。例えば、江戸時代の「町方書上」では

同所南蔵院前脇、町内入口小坂弁天坂、是南蔵院地内名高弁才天安置有之、右故里俗唱來り候哉、縁(起)旧記等無御座候

 小さい坂というのもちょっと違うんでは…と考えますが、拡大する前の道路を考えると、まあ、これもありかぁと思います。

 明治20年ごろの拡大図では

 大久保通りの一部に弁天坂があります。また「新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、1906)では

南藏院なんぞうゐんまへより市廛への入口に坂あり、辨天坂べんてんざかといふ、是、南藏院に辨天堂べんてんだうあるに因りて得たる名なり。

市廛 してん。町にある店。店のある町。市街地。

 横井英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)では

新宿区箪笥町、南蔵院前を山伏町のほうへ上る坂。南蔵院には弁天堂がある。

 山伏町は西にありますので、これは正しいと思います。ところが、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

弁天坂(べんてんざか) 芥坂ともいった。箪笥町の南蔵院前旧都電通り、箪笥町四二番南蔵院の道向いを横寺町の南西部に上る小坂。「府内沿革図書」についてみると、この坂は延宝年中から段坂で、現在と形があまり変わらない。(中略)
 その境内に弁天堂があったのが、弁天坂のよび名になったものである。その弁天堂は本尊として尊崇されていたが、戦災後は再建されない。

 これでは弁天坂と袖摺坂を混同しています。これでは袖摺坂と全く同じです。

 東京都も弁天坂の標識をつくっています。ちょうど南蔵院の反対側です。内容は…

 坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には、南蔵院門前にあまざけやおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子が描かれている。
 坂上近くの横寺町四十七番地には、尾崎紅葉が、明治二十四年から三十六年十月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花小栗風葉が玄関番として住み、のちに弟子たちは庭つづきの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称した。

 また「新修新宿区町名誌」(新宿歴史博物館、平成22年)では

南蔵院前脇から町内入り囗への坂は南蔵院に弁財天が安置されていることから、弁天坂と呼ばれる。(町方書上)。

 以上、現在、弁天坂と考える坂は、大久保通りの一部だと考えています。

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龍膽と撫子|泉鏡花

文学と神楽坂

「龍膽と撫子」は大正11年から12年にかけて、泉鏡花氏が書いた未完の小説です。龍膽は「リンドウ」、撫子は「ナデシコ」と読み、どちらも花の名前です。この1部分は、最初は簡単に見えて、でも後半に行くと、なんだかよくわかりません。

 問題は(なべ)と書いた小料理屋です。その名前と場所は何なのでしょうか。

 神樂坂かぐらざかまちは、まつたひらけた、いまあのむねたかそろへた表通おもてどほりの家並やなみては、薄暗うすぐらのきに、はまぐりかたちを、江戸繪えどゑのはじめごろのやうなしよくいろどつて、(なべ)としたにかいた小料理これうりがあつたものだとはたれおもふまい。またあつてもひとにはかなからう。もつと横町よこちやう裏道うらみちことふのではない。現今げんこんカフエーにかはつたが以前いぜん毘沙門天びしやもんてんならびところに一けんあつた。時分じぶんは、土間どまはもとよりだが、二階にかいへもきやくとほした。入込いりこみおもて二階にかいと、べつ一間ひとまめうに一だんトンとひくくなつて、敷居しきゐまたいで六でふりる。すわると、うへへやたゝみよりは身體からだひくくなる部屋へやがあつた。島田しまだつた、あかぬけのしたねえさんが、唐棧たうざんがらものに繻子くろじゆすえり晝夜帶ちうやおび前垂まへだれがけで、きちんとして、さけやすくても、上手じやうずしやくをした。
 とほりすがりに、光景くわうけいおもふと、なんだか、まぼろしくも屋造やづくりに、そらごとうつしたもののやうながする。……たゞ七八ねん間隔てだたりぎないが、たちまちアスパラガスのみどりかげに、長方形ちやうはうけいしろいしたく順々じゆん/\に、かすみ水打みづうつたやうにならべたおもむきかはつたのである。
 就中なかんづくいちじるしいのは、……うしろが岩組いはぐみがけづくりつて、一面いちめん硝子戸がらすどしきつたおくところの、天井てんじやうが一だんたかい――(すなは以前いぜんだんひくかつた裏二階うらにかい小部屋こべやしたそれあたる)――其頃そのころだと、わん茶碗ちやわん板頭いたがしらに、お手輕でがる料理れうり値段ねだんづけを張出はりだしたかべわきの床柱とこばしらに、葱鮪ねぎまねぎ失禮しつれいしたかとおも水仙すゐせん竹筒たけづつかつたのを……こゝでは、硝子ビイドロなか西洋豌豆花スウィートピが、給仕きふじをんなの、種々さま/\なキスしたあとのくちびるのやうないろされて、さて、その給仕きふじは、しろのエプロンで明滅めいめつかつ往来わうらいする。
 こゝにおいて、蛤鍋はまなべ陽炎かげろふ眞中まんなかに、島田しまだ唐棧柄たうざんがらをんなおもふと、あたかもそれが安價あんかなる反魂香はんごんかう現象げんしやうて、一種いつしゆ錯覺さくかくかんぜざるをない。……それはまだい。もつと近代きんだいひとたちは、蛤鍋はまなべ風情ふぜいを、ねずみ嫁入よめいりすひものをるやうに、あかる天井てんじやうあふであらう。

[現代語訳]神楽坂の町は、全く開けた。表通りの家並みはどれも高くなった。薄暗いひさしにぶら下がった蛤の絵があり、錦絵の初めの頃に見た3色に彩って、下に(なべ)と書いた小料理店があったとは、誰も思わないだろう。また、我々の目に留まることもないだろう。もっとも横丁や裏道のことをいっているのではない。今はカフェーにかわっているが、以前は毘沙門天と並んで、そんな一軒があったのだ。そのころは、土間はもちろん、2階にも、客ははいっていた。通りに接した2階は人が多いが、ほかにひと間、敷居をまたいで、妙に一段だけ低くなって、大きさは六畳、座ると、上の部屋から見えるが、畳よりも体が低くなる、そんな部屋だった。島田髷を結い、洗練した女性が働いて、唐棧柄の着物、黒繻子の襟、表と裏に別の生地を使った帯、前がけをしていて、きちんとして、酒は安いが、上手にお酌をした。
 通りすがりに、この光景を思うと、なんだか、まぼろしの雲の中に家屋があり、絵空事を映したもののような気がする。……ただ七八年の間隔に過ぎないが、これがたちまち、アスパラガスの緑のかげがあり、長方形の白い石のテーブルが順々に、霞に水をまくように並べたという趣に変わったのである。
 なかでも、著しいのは、……この店舗は、後に岩石を配置し、床下を支え、硝子戸で仕切り、奥のところには天井が一段高くなり――(すなわち以前に一段低かった裏二階の小部屋の下にあたる)――そのころには、壁わきの床柱で、椀、茶碗を先頭に、お手軽料理の値段づけを張出して、葱鮪の葱を失礼するかと思う水仙が竹筒に生けてあった……ここでは、ガラスの中にスウィートピーがはいり、給仕女は、種々なキスしたあとの唇のような色を配置し、さて、その給仕は、白のエプロンをひらめかし、あちらこちらの場所で出現している。
 ここで、蛤鍋の陽炎は真ん中にあり、島田髷で唐棧柄の女性を思うと、あたかも死者の姿があらわる安価な香の現象にも似て、一種の錯覚を感ずるをえない。……しかし、これではまだいい。もつと近代的な人たちは、その蛤鍋の風情を見て、鼠の嫁入りの絵がはいった吸いものを見るように、明るい天井を仰ぐであろう。

 と、最後は何だかわかりません。

小料理

 大正3~4年に、毘沙門天のならびに、小料理店があり、のちにカフェにかわったというのですが、これは、どこで、何なのでしょうか。神楽坂にカフェは多くはなく、毘沙門天のならびで、近くにあるのは「白十字」だけです。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では、この「白十字」ができる以前には「明治食堂」があったといいます。

相川さん その大田の半襟屋の隣が荒物屋さんだったね。それで、その隣が米屋さんのあとへ「明治食堂」っていう食堂が来た。その食堂のある時分に明治製菓が借りて、そのあとへ「白十字」が来た。白十字は戦争の最中にあったんだよ。

 この「明治食堂」が(なべ)と書いた小料理店だったのでしょうか。なお、「明治食堂」は現在の「椿屋珈琲店」になりました。

唐棧

江戸繪 一枚刷りの極彩色の江戸役者絵。浮世絵の前身になった。2、3色刷りからしだいに多彩となり、錦絵として人気を博した。
三色 寛保末頃、紅色と緑色(藍色、黄色)の2~3色を印刷する方法が開発。紅摺べにずりといわれたそうです。これでしょう。
現今 いま。現在
土間 建築内部は床を張らず、地面のままか、三和土たたき、石、煉瓦などにしたところ。
ならび 並ぶこと。並んでいるもの。列。
入込 差別なく入りまじること。人が入りまじって集まっていること。雑踏。
表2階 玄関に近いほう、目立つ方、前面・正面になる方の2階。
島田 島田まげのこと。日本髪の代表的な髪形。前髪とたぼを突き出させて、まげを前後に長く大きく結ったもの。
あかぬけのした 洗練されている
唐桟 紺地に浅葱あさぎ・赤などの縦の細縞を織り出した綿織物。
繻子 しゅす。繻子織りにした織物。縦糸と横糸とが交差する点が連続することなく、縦糸か横糸だけが表に現れるような織り方。
昼夜帯 表地と裏地が異なるものを合わせて仕立てた女帯。もとは黒繻子に白の裏を付け、昼夜に見立てたもの。
前垂がけ まえだれがけ。帯のあたりから体の前面に下げて、衣服の汚れを防ぐ布。
屋造 家の構え。家屋の構造。
絵そら事 絵空事。大げさで現実にはあり得ないこと。
 机。テーブル。
水打つ 街路や路地などにたつちりほこりをしずめるために水をまくこと
 風情のある様子。あじわい。
かはつた 「かわった」でしょう。
就中 その中でも。とりわけ。
岩組 いわぐみ。庭園の岩石の配置。立て石。石立て。岩が入り組んでいる所。
崖づくり 崖や池などの上に建物を長い柱と貫で固定し、床下を支える建築方法。
画る かくする。線を引く。物事をはっきり分ける。区分する。
裏二階 表面と反対の面の2階。
板頭 「板頭」は、江戸時代、岡場所で最も多額の揚げ代をかせぐ遊女。「板元」は「料理場」「料理人」。「最初の料理]の意味?
床柱 床の間の片方の、装飾的な柱。
葱鮪 ねぎとまぐろを煮た料理。鍋料理と汁物があるが、鍋をいうことが多い。
硝子 ポルトガル語のvidroから。ガラスのこと。
西洋豌豆花 香豌豆。スイートピー Sweet pea のこと。
插す 刺す。細長い物を他の物の間に入れる。
明滅 あかりがついたり消えたりすること
往来 行ったり来たりすること。行き来。
蛤鍋 蛤のむき身と焼豆腐・ねぎなどを味噌や塩で味をつけ、煮ながら食べる鍋料理。はまなべ。
陽炎 強い日射で地面が熱せられるか、焚き火などを通して遠くを見ると、その物体が細かくゆれたり形がゆがんで見える現象。揺らめき。
 夫のある女性。女性。婦人。
反魂香 反魂香。はんこんこう。はんごんこう。焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるという伝説上の香。
 裏。逆。内部。心の中。腹。
鼠の嫁入り ネズミの夫婦が秘蔵の娘に天下一の婿をとろうとして、次々に申し込むが、結局は同じ仲間のネズミを選ぶ。まず、太陽のところに行くと、太陽は雲に遮られると光が届かないので雲のほうが偉いという。そこで雲に相談すると、雲は風には吹き飛ばされてしまうので風のほうが偉いという。次に風に頼むと、いくら吹いても遮る壁にはかなわないという。そこで壁を訪ねると、壁をかじって穴をあけてしまうネズミがいちばん偉いといい、結局は同じ仲間のネズミから婿をとる。あれこれ迷っても平凡なところに落ち着く。
仰ぐ 上を向いて高い所を見る。見上げる。

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うを徳開店披露|泉鏡花

 

文学と神楽坂

 泉鏡花が大正九年三月に書いた「うを徳」の開店披露の祝辞です。「うを徳」は料亭で、現在も神楽坂3丁目にあります。

 魚德うをとく開店かいてん披露ひろう

 それあたり四季しき眺望ながめは、築土つくどゆき赤城あかぎはな若宮わかみやつき目白めじろかね神樂坂かぐらざかから見附みつけ晴嵐せいらん緣日えんにちあるきの裾模樣すそもやう左褄ひだりづま緋縮緬ひぢりめんけてはよるあめとなる。おほり水鳥みづとり揚場あげばふね八景はつけい一霞ひとかすみ三筋みすぢいと連彈つれびきにて、はるまくまつうち本舞臺ほんぶたい高臺たかだいに、しやちほこならぬ金看板きんかんばん老舗しにせさらあたらしく新築しんちく開店みせびらき御料理おんれうり魚德うをとくと、たこひゞききにぞ名告なのりたる。うをよし、さけよし、鹽梅あんばいよし、最一もひと威勢ゐせいことは、此屋ここ亭主ていしゆ俠勢きほひにして、人間にんげんきたる松魚かつをごとし。烏帽子ゑぼしことや、蓬萊ほうらい床飾とこかざりつるくちばしまなばしの、心得こゝろえはありながら、素袍すはうにあらぬ向顱巻むかうはちまき半纏はんてんまくに、庖丁はうちやううでたゝ。よしそれ見得みえわすれ、虚飾かざりてて、只管ひたすらきやく專一せんいつの、獻立こんだて心意氣こゝろいき割烹かつぽう御仕出おんしだしは正月しやうぐわつより、さて引續ひきつゞ建増たてましの、うめやなぎいろ座敷ざしき五分ごぶすかさぬ四疊半よでふはんひらくや彌生やよひ大廣間おほひろま、おん對向さしむかひも、御宴會ごえんくわいも、お取持とりもち萬端ばんたんきよらかに、お湯殿ゆどのしつらへました。これもみな贔屓ごひいき愈々いよ/\かげかうむたさ。お心置こゝろおきなく手輕てがるに、永當えいたう々々/\御入おんいらせを、ひとへねがたてまつる、と口上こうじやうひたかろう、なん魚德うをとくどうだ、とへば、亭主ていしゆ割膝わりひざひざつて、ちげえねえ、とほりだ、とほりだ、えねえと、威張ゐばるばかりで卷舌まきじたゆゑ、つゝしんだくちかれず、こゝおい馴染なじみがひに、略儀りやくぎにはさふらへど、一寸ちよいと代理だいり御挨拶ごあいさつ
(大正九年三月吉日)

 翻訳はなにか非常に難しい。言葉の洒脱と、中身よりもリズムがいい五七調や七五調などでできています。

[現代語訳]このあたりの、四季を眺めてみよう。筑土の雪、赤城の桜、若宮の月、目白の鐘、そして、神楽坂から牛込見附にかけての霞。
 縁日になって歩いていると、裾に模様、左の褄には緋色の縮緬をきた人(芸者)がいる。夜になると、雨が降る。お堀の水鳥、揚場の船。この八景にも霞がかかる。三味線の連奏が聞こえてくる。
 春がきて、正月で松飾りがある間、晴れの舞台で高台に、金文字の看板で、老舗はさらに新築の店開き。料理店の「うを徳」だと、凧の響きに似て、そう名乗ろう。
 魚の生きがよく、酒はいいし、味もうまい。もうひとつ、威勢がいいのは、ここの亭主だ。気っ風がよく、まるで活きたカツオのようだ。
 烏帽子もいいが、床の間を飾るのは外国製、鉄の工具やまな箸の心得はできる。江戸時代の服ではなく向こう鉢巻をかぶり、半纏の腕まくり、包丁で腕をたたく。見栄を忘れ、飾りを棄て、ただひとつ、お客様のことだけを考えて、献立をつくる気構え。正月からこの割烹店は仕出しする。
 更に建て増しするのは「梅の香」「柳の色」の座敷。少しも声を通さない四畳半を開けると「弥生」の大広間。差し向かいでも、宴会でも、もてなしはどこをとっても清らかに。お風呂もつくりました。皆様、ますますもってご贔屓を賜りますように、来店の時には気兼ねは不要、お手軽に、末永く、お願いします……
 と、挨拶はこう言いたいところだ。うを徳、どうだ、と聞くと、亭主は正座して見栄をはり「違いねえ、その通りだ、違いねえ、その通りだ」と、威張るだけ。巻き舌があるので、うやうやしい口はできない。よく知っている亭主だし、ここで、略式ではありますが、ちょっと代理のご挨拶。

魚徳 当時は魚屋です。現在は料亭「うを徳」です。
築土赤城若宮目白見附揚場 全て周辺地域の名前です。
 目白下新長谷寺(旧目白不動)の鐘は、江戸時代に時刻を知らせる「時の鐘」の1つでした。
晴嵐 晴れた日に山にかかるかすみ。晴れた日に吹く山風
裾模様 着物の上半分を地染めした無地のままに残し、裾回りにだけ模様を置いたもの。衣装全体に模様を施すより手間が省ける。
左褄 和服の左の褄。褄は長着のすその左右両端の部分。
緋縮緬 ひぢりめん。緋色にそめた縮緬。多く婦人の長襦袢じばん、腰巻などに使う。縮緬とは表面に細かいしぼのある絹織物。
八景 八つのすぐれた景色。中国の瀟湘しようしよう八景が起源。日本では近江八景や金沢八景など。
一霞 一面におおうかすみ。一すじのかすみ。いっそう。ひとしお。見渡すかぎり。
三筋 三味線。三本のすじ。
連弾 つれびき。琴・三味線などを二人以上で奏すること。連奏。添え弾き。
松の内 正月の松飾りのある間。元旦から7日か15日まで。
本舞台  歌舞伎の劇場で、花道・付け舞台などを除いた正面の舞台。地方の劇場の舞台に対して、中央の劇場の舞台。本式に事を行う晴れの場所。ひのき舞台。
高台 周囲の土地よりも高くて、頂上が平らになっている所。実際にお濠よりは高くなっています。
 城などの屋根の大棟おおむねの両端につける想像上の海獣をかたどった金属製・瓦製などの飾り物。
金看板 金文字を彫り込んだ看板。世間に対して誇らしく掲げるしるし。世間に堂々と示す主義・主張・商品など。
塩梅 あんばい。飲食物の調味に使う塩と梅酢。食物の味かげん。
俠勢 「俠」は「おとこぎ。俠気」。「勢」は「いきおい。力。」。「任侠」は弱い者を助け、強い者をくじき、命を惜しまない気風。
松魚 カツオ。鰹。堅魚。たたき、煮物、かつお節、缶詰などに使う。
烏帽子 日本における男子の被り物の一種
蓬莱 ホウライ。台湾の異称。
床飾 掛物をかけたり、花・置物などを置いて、床の間を飾ること。その掛物など。
鶴の嘴 つるはし。鶴嘴。堅い土を掘り起こすときなどに用いる鉄製の工具。
まなばし 真魚箸。魚を料理するときに用いる長い箸。
素袍 上下二部式の衣服。武士が常服として用いた。
向こう鉢巻 結び目が額の前にくるようにして締めた鉢巻き。
半纏 半天。和服の一種。労務用と防寒用。普通の羽織と異なる点は、襟返しがないこと、前結びの紐がないこと。
捲り手 まくりで。腕まくり。袖まくり。
敲く 手や手に持った固い物で、物や体に強い衝撃を与える。打つ。目的は、破壊、音を出す、攻撃、注意を喚起、確認、その他いろいろ。
見得 見た目。外見。みば。みかけ。体裁。人の目を気にして、うわべ・外見を実際よりよく見せようとする態度。
専一 せんいつ。せんいち。他の事を考えずに、ただ一つの事柄に心を注ぐこと。
献立 料理の種類、内容、供する順序。
心意気 物事に積極的に取り組もうとする気構え。意気込み。気概。
割烹 食物の調理。料理。日本料理店。
建増 たてまし。現在ある建物に新しく部屋などを建て加えること。増築。
五分 ごくわずかな量・程度
彌生 弥生。草木がますます生い茂ること。陰暦3月。
対向 向き合うこと
取持 人をもてなすこと。もてなし。
万端 ある物事についての、すべての事柄。諸般。
湯殿 入浴するための部屋。浴室。風呂場。
しつらえる ある目的のための設備をある場所に設ける。
贔屓 気に入った人に特に目をかけ世話をすること。気に入ったものを特にかわいがること。
おかげ 御陰。他人の助力。援助。庇護。
蒙る こうむる。他人から、行為や恩恵などを受ける。
心置きない 気兼ねや遠慮がない。
手軽 手数がかからず、簡単。
永当 えいとう。興行などで、見物人が大勢つめかけるさま。
 ひとえに。ただそのことだけをする。いちずに。ひたすら。
奉る その動作の対象を敬う謙譲表現をつくる。
口上 興行で、俳優または頭取が観客に対して、舞台から述べる挨拶をいう。
割膝 わりひざ。膝頭を離して正座すること。男子の正しい座り方とされた。
肘を張る ひじをはる。肘を突っ張っていかにも強そうなようすをする。威張る。気負う。意地を張る。肩肘かたひじ張る。
卷舌 巻き舌、巻舌。舌の先を巻くようにして、威勢よく話す口調。江戸っ子に特有。
謹んで つつしんで。かしこまって。うやうやしく。
略儀 正式の手続きを省略したやり方。略式。
 
 

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青春物語|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

 明治44年、谷崎潤一郎氏は『中央公論』の編集者である滝田樗陰氏に連れられて、新年会に行き、初めて泉鏡花徳田秋声に会ったことを書いています。

 谷崎氏は24歳、滝田氏は28歳、泉氏は37歳、徳田氏は39歳、内田魯庵氏は43歳でした。

此の、私が新進作家として今が賣り出しの最中と云ふ得意の絶頂にある時、明治四十四年の正月に、紅葉館で新年宴會があつたのは、たしか讀賣新聞社の主催だつたかと思ふ。招待を受けたのは、都下の美術家、評論家、小説家等で、大家と新進とを概ね網羅し、非常に廣い範圍に亙つてゐた。「新思潮」からは、私一人であつたか、外にも誰か行つたか、記憶がない。私は瀧田樗陰君が誘ひに來てくれる約束だつたので、氏の來訪を待つて、一緒に出掛けた。その頃のことだから勿論自動車などへは乘らない。神保町から電車で芝の山内へ行つたのだが、瀧田君は吊り革にぶら下りながら、私の姿を見上げ見下ろして、「谷崎さん、今日はあなた、すっかり見違へましたね」と云ふのであつた。それと云ふのが、私は紋附きの羽織がなかつたものだから、その晩の衣裳として偕樂園から頗る上等の羽織袴縞御召二枚(かざ)等一切を借用してゐた。ぜんたい私は、第一囘の「パンの會」の頃までは髮の毛をぼう/\と生やして、さながら山賊の如き物凄い形相をして、「君の顏はアウグスト・ストリンドベルグに似てゐるね」などゝ云はれていゝ氣になってゐたものなんだが、さてそんな衣裳を借りてみると、その薄汚いパルチザン式の容貌ではどうにも映りが惡いものだから、當日の朝床屋へ行って良く伸びた髮を適當に刈つて貫ひ、下町の若旦那と云った風に綺麗に分けて、それから借り着を一着に及び、二重廻しに山高帽と云ふ.まるで今までとは打って變ったいでたちをしてゐた。

縞御召

紅葉館 東京の芝区芝公園20号地にあった会員制の高級料亭。空襲で消滅し、跡地には東京タワーが建っている。
新思潮 文芸雑誌。明治40年、小山内薫が海外の新思潮紹介を目的に創刊。東大文科の同人雑誌。第二次で谷崎潤一郎、第四次で芥川竜之介が出た。
芝の山内 芝公園増上寺の山内。山内さんないとは神社・寺院の敷地内部。
偕楽園 明治10年代から日本橋区にあった中華料理店。関東大震災から伝通院前に移動。谷崎氏と園の長男は同級生で親友。
頗る すこぶる。非常に。たいそう。
縞御召 しまおめし。御召は紬や絣などと同じく織の着物。最高級なシルクの着物。縞御召は、様々な縞模様を織り出した御召のこと。
二枚襲ね 二枚重ね。和服の盛装。長着ながぎ2枚を重ねて着ること。
アウグスト・ストリンドベルグ アウグスト・ストリンドベリ。スウェーデンの劇作家、小説家。『真夏の夢』など。
パルチザン 外国軍や国内の反革命軍に対して自発的に武器をとって戦う、正規軍に入っていない遊撃兵のこと。
二重廻し 二重回し。男性用の和装防寒コート。
打って変わる 前の状態と全く変わる。がらりと変わる。

私は八方から盃を貰ひ、いろいろの人から讃辭や激勵の言葉を浴びせられ、次第に有頂天になつて、瀧田君を促しつゝ徳田秋聲氏の前へ挨拶に行つた。と、秋謦氏は、其處へ蹣跚(まんさん)と通りかゝつた痩せぎすの和服の醉客を呼び止めて、「君、泉君、いゝ人を紹介してやらう――これが谷崎君だと」と云はれると、我が泉氏ははつ(、、)と云つてピタリと臀餅(しりもち)()くやうにすわつた。私は、自分の書くものを泉氏が讀んでゐて下さるかどうかと云ふことが始終氣になつてゐたゞけに、此の秋聲氏の親切は身に沁みて有難かつた。秋聲氏はその上に言葉を添へて、「ねえ、泉君、君は谷崎君が好きだろ?」と云はれる。私は紅葉門下の二巨星の間に挟まつて、眞に光榮身に餘る氣がした。殊に秋聲氏の態度には、後進を勞はる老藝術家の温情がにじみ出てゐるやうに覺えた。けれども残念なことには、泉氏はもうたわい、、、がなくなつてゐて、「あゝ谷崎君、―――」と云つたきり、醉眼朦朧たる瞳をちよつと私の方へ向けながら、受け取つた名刺を紙人れへ収めようとされた途端に、すう、、つとうしろへつてしまはれた。「泉は醉ふと此の調子で、何も分らなくなつちまふんでね」と、秋聲氏は氣の毒さうに執り成された。私は此の二人の大作家に會つた勢ひで、叉瀧田君を促して、今度は内田魯庵翁に盃を貰ひに行つた。翁は恐らく富夜の參會者中、文壇方面に於ける第一の名大家、横綱格の大先葷だつたであらう。

蹣跚 まんさん。よろよろと歩く
身に余る 処遇が自分の身分や業績を超えてよすぎる。過分である。身に過ぎる。
たわい 正体なく酒に酔うこと。酩酊
酔眼朦朧 酒に酔って、目先がぼんやりしている様子
 

神楽坂七不思議|泉鏡花

文学と神楽坂

 明治28年、泉鏡花氏の「神楽坂七不思議」です。地図と比べてみます。

神樂坂(かぐらざか)(なゝ)不思議(ふしぎ)

なか何事なにごと不思議ふしぎなり、「おい、ちよいと煙草屋たばこやむすめはアノ眼色めつき不思議ふしぎぢやあないか。」とふはべつツあるといふ意味いみにあらず、「春狐子しゆんこしうでごす、彼處あすこ會席くわいせき不思議ふしぎくはせやすぜ。」とふもやうひねのなり。ひとありて、もし「イヤ不思議ふしぎね、日本につぽん不思議ふしぎだよ、うも。」とかたらむか、「此奴こいつ失敬しつけいなことをいふ、陛下へいか稜威みいづ軍士ぐんし忠勇ちうゆうつなアおめえあたりまへだ、なに不思議ふしぎなことあねえ。」とムキになるのはおほきに野暮やぼ號外がうぐわいてぴしや/\とひたひたゝき、「不思議ふしぎ不思議ふしぎだ」といつたとてつたが不思議ふしぎであてにはならぬといふにはあらず、こゝの道理だうり噛分かみわけてさ、この七不思議なゝふしぎたまへや。

眼色 目つき。物を見るときの目のようす。また、普段の目の表情。
春狐子 「春狐」は人の名前で、誰かは不明。泉鏡花だとも。子は「名前の下に付けて親しみか、自分の名には、卑下する意味」。
会席 日本料理の形式の一つ。江戸時代以降に発達した酒宴の料理。現在では日本料理の主流に。
捻る いろいろと悩みながら考えをめぐらす。わざと変わった趣向や考案をする。苦心して俳句や歌などを作る。
勝つ 日清戦争で勝ったこと。両国が朝鮮の支配権を争ったのが原因に。
稜威 天子の威光。御厳(みいつ)

東西とうざい最初さいしよきゝたつしまするは、
しゝでらのもゝんぢい。」
これ弓場だいきうば爺樣ぢいさんなり。ひとへば顏相がんさうをくづし、一種いつしゆ特有とくいうこゑはつして、「えひゝゝ。」と愛想あいさうわらひをなす、其顏そのかほては泣出なきださぬ嬰兒こどもを――、「あいつあ不思議ふしぎだよ。」とお花主とくい可愛かはいがる。
次が、
勸工場くわんこうば逆戻ぎやくもどり。」
東京とうきやういたところにいづれも一二いちに勸工場くわんこうばあり、みな入口いりぐち出口でぐちことにす、ひと牛込うしごめ勸工場くわんこうば出口でぐち入口いりぐち同一ひとつなり、「だから不思議ふしぎさ。」といてればつまらぬこと。
それから、
藪蕎麥やぶそば青天井あをてんじやう。」
下谷したや團子坂だんござか出店でみせなり。なつ屋根やねうへはしらて、むしろきてきやくせうず。時々とき/″\夕立ゆふだち蕎麥そばさらはる、とおまけはねば不思議ふしぎにならず。

東京実測図。明治18-20年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。獅子寺は赤い丸。

しし寺 獅子寺。通寺町(現在の神楽坂六丁目)にあった曹洞宗保善寺のこと。江戸幕府三代将軍である徳川家光が牛込の酒井家を訪問し、ここに立寄り、獅子に似た犬を下賜しました。以来「獅子寺」と呼んでいます。明治39年、保善寺は中野区上高田に移転しました。
弓場 弓の稽古場。
顔相 占いで、顔の外面に現れた運勢・吉凶のきざしを見ること。
花主 こう書く熟語はありません。「得意」は「いつも商品を買ってもらったり取引したりする相手、顧客、お得意、親しい友」。「花」は花のように美しいもの。「主」は一家の長、主人。
勧工場 かんこうば。明治・大正時代、一つの建物の中に各種商店が連合して商品を陳列し正札販売した一種のマーケット。「牛込勧工場」は六丁目にあり、現在はスーパーの「よしや」
逆戻 再びもとの場所・状態に戻ること。
藪蕎麦 今は神田、浅草、上野が「藪そば」の御三家。神田藪の本家がここ団子坂にありました。神楽坂の場所は不明ですが、岡崎弘氏と河合慶子氏は『ここは牛込、神楽坂』第18号の「遊び場だった『寺内』」の図で明治40年前後の肴町のソバヤ(図の中央)を書いています。ここでしょうか。
青天井 青空。空。空を天井に見立てていう。
下谷 上野駅を中心とした地域で、1878年(明治11)、下谷区が成立。1947年(昭和22)、浅草区と合併して台東区に。
団子坂 文京区千駄木町二丁目と三丁目の境にある坂道。明治時代、坂の両側に菊人形が展示、東京名物の一つに。
攫う 掠う。さらう。油断につけこんで奪い去る。気づかれないように連れ去る。その場にあるものを残らず持ち去る。
 

奧行おくゆきなしの牛肉店ぎうにくてん。」
いろは)のことなり、れば大廈たいか嵬然くわいぜんとしてそびゆれども奧行おくゆきすこしもなく、座敷ざしきのこらず三角形さんかくけいをなす、けだ幾何學的きかがくてき不思議ふしぎならむ。
島金しまきん辻行燈つじあんどう。」
いへ小路せうぢ引込ひつこんで、とほりのかどに「蒲燒かばやき」といた行燈あんどうばかりあり。はややつがむやみと飛込とびこむと仕立屋したてやなりしぞ不思議ふしぎなる。
菓子屋くわしや鹽餡しほあんむすめ。」
餅菓子店もちぐわしやみせにツンとましてる婦人をんななり。生娘きむすめそでたれてか雉子きじこゑで、ケンもほろゝ無愛嬌者ぶあいけうもの其癖そのくせあまいから不思議ふしぎだとさ。
さてどんじりが、
繪草紙屋ゑざうしや四十しじふ島田しまだ。」
女主人をんなあるじにてなか/\の曲者くせものなり、「小僧こぞうや、紅葉さん御家へ參つて……」などと一面識いちめんしきもない大家たいかこえよがしにひやかしおどかすやつれないから不思議ふしぎなり。
明治二十八年三月

辻行灯

いろは 昔は牛肉店「いろは」でした。現在は神楽坂6丁目2の駐車場です。
 単に
大廈 たいか。大きな建物。りっぱな構えの建物。
嵬然 かいぜん。高くそびえるさま。つまり、外から見ると大きな建物なのに、内部は三角形で小さい。
辻行燈 江戸時代、辻番所の前に立ててあった灯籠形の行灯
仕立屋 「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」では「洋服・八木下」と書いてあります。この時は「島金」(現、志満金)は小栗横丁(鏡花横丁)にでていました。
菓子屋 菓子屋は1~3丁目だけでも9店がありました。不明です。
塩餡 塩で味をつけた餡
雉子の声 雄の雉は春になると「けんけん」と甲高く鳴いて雌を呼びます
曳く 物に手をかけて近くへ寄せる。無理について来させて、ある場所に移動させる。
けんもほろろ 「けん」「ほろろ」はともに雉の鳴き声。頼みや相談などを、冷淡に断ること。
絵草紙 挿絵を多く入れた大衆向けの読物。絵草紙屋は大久保通り西側にある神楽坂5丁目(京屋)や「ここは牛込、神楽坂」第17号の「お便り 投稿 交差点」では3丁目(図)にありました。また、絵葉書屋は3丁目北側最西部(開成堂)にありました。
島田 島田まげ。未婚の女性の髪形の1つ。
曲者 一筋縄ではいかない人。ひとくせある人。
ひやかす 相手が恥ずかしがったり当惑したりするような冗談を言う。からかう。
気が知れない 相手が何を考えているのかわからない。相手の考え・意図が理解できない。
   

故郷七十年|柳田国男

文学と神楽坂

 柳田国男氏に「故郷七十年」(神戸新聞、1958年)という本があります。民俗学が絡んだ自叙伝の本ですが、森鴎外尾崎紅葉などは普通に書き、しかし、泉鏡花については、かなり大胆な書き方をしています。以下は『定本柳田國男集 別巻3』に出ていた「泉鏡花」です。ちなみに柳田国男の生年は明治8年、泉鏡花は明治6年です。

 「故郷七十年」の1は、泉鏡花、2は自然主義小説について、3は30歳代に住んでいた加賀町、4は河童について、5は浅見淵氏が書く加賀町の家です。

  柳田国男は民俗学者で、市谷加賀町柳田家(よう)嗣子(しし)(民法旧規定で、家督相続人となる養子)として入籍し、結婚しています。

   泉鏡花

 星野家の天知夕影の兩君と、妹のおゆうさんとの住居は日本橋にあつた。中庭のある變つた家で、すぐそばに平田禿木も住んでいた。おゆうさんはどちらかというと、兄の友人などからちやほやされることに、意識的な誇りを覺えるというやうな型の婦人だったやうに思う。後に吉田賢竜君の所へ嫁いだ。
 吉田君は泉鏡花と同じ金澤の出身だつたので、二人はずゐぶんと懇意にしてゐた。よくねれた溫厚な人物で、鏡花の小説の中に頻々と現はれてくる人である。私が泉君と知り合ひになるきつかけは、この吉田君の大学寄宿舎の部屋での出來事からであつた。
 大學の一番運動場に近い、日當りのいゝ小さな四人室で、いつの年でも卒業に近い上級生が入ることになつてゐた部屋があつた。空地に近く、外からでも部屋に誰がゐるかがよく判るやうな部屋である。その時分私は白い縞の袴をはいてゐたが、これは當時の學生の伊達であつた。ある日こんな恰好で、この部屋の外を通りながら聲をかけると、多分畔柳芥舟君だつたと思ふが、「おい上らないか」と呼んだので、 窻に手をかけ一気に飛び越えて部屋に入つた。偶然その時泉君が室内に居合せて、私の器械體操が下手だといふことを知らないで、飛び込んでゆく姿をみて、非常に爽快に感じたらしい。そしていかにも器械體操の名人ででもあるかのやうに思い込んでしまつた。泉君の「湯島詣」という小説のはじめの方に、身輕さうに窓からとび上る 學生のことが書いてあるが、あれは私のことである。泉君がそれからこの方、「あんないゝ氣持になった時はなかつたね」などといってくれたので、こちらもつい嬉しくなつて、暇さえあれば小石川の家に訪ねて行つたりした。それ以来、學校を出てから後も、ずつと交際して来たのである。
 鏡花は小石川に住む以前、牛込横寺町尾崎紅葉の玄關番をしばらくしてゐた。しかし誰でも本を出すやうになると、お弟子でも師匠から獨立するのが一般のしきたりになっていたやうだ。ことに泉君は何となく他の諸君に対する競争心があって、人からあまりよく思われないやうな所があつた。
 酒を飮むにしてもまるで古風な飮み方をするし、あとの連中はまあ無茶な遊び方が多かった。そのいちばんの巨魁小栗風葉で、この連中は「あゝ、僞善者奴が」と泉の惡口をいうものだから、しまいには仲間割れがしてしまつた。
 同じ金澤出身の徳田秋聲君などともあまりよくなく、徳田君の方で無理してつき合っているような様子がうかがえた。徳田君は外國語の知識も若干あつたが、泉君の方は、それは昔風で、たゞ頭がいゝから、他人が譯した外國のものなども、こつそり讀んでいたやうである。いろ/\なことがあつたが、私にとっては生涯懇意にした友人の一人であつた。

とび上る学生 泉鏡花作の『湯島詣』から取った、部屋の外から中に一気に飛び込む場所です。

(にぎや)かだね、柳澤(やなぎさは)、」と(まど)(した)園生(そのふ)から(こゑ)()けたものがある。
        二
 一番(いちばん)(まど)(ちか)柳澤(やなぎさは)は、亂暴(らんばう)(むね)(そら)して振向(ふりむ)いたが、硝子(がらす)(ごし)(した)(のぞ)いて()て、
龍田(たつた)か。」
(たれ)()()るかい。」
根岸(ねぎし)新華族(しんくわぞく)だ、(はひ)れ。」と()つて()(なほ)る。
 同時(どうじ)に、ひよいと(まど)(ふち)()(かゝ)つた、飛附(とびつ)いて、(その)以前(いぜん)器械(きかい)體操(たいさう)()らしたか、()(かる)さ、(かた)()()げて(しつ)(なか)に、()()瀟洒(せうしや)なる(かほ)()したのは、龍田(たつた)()若吉(わかきち)といふのである。
 (あづさ)()(ゑみ)(ふく)み、
堪忍(かんにん)してやれ、神月(かうづき)はもう子爵(ししやく)ぢやあない。」といひながら腕組(うでぐみ)をして外壁(そとかべ)附着(くツつ)いたまゝで()る。柳澤(やなぎさは)椅子(いす)をずらして、
「まあ(はひ)れ、丁度(ちやうど)()い。(いま)其事(そのこと)()いて、神月(かうづき)問題(もんだい)といふのをはじめた(ところ)だ。一寸(ちよつと)(その)休憩時間(きうけいじかん)よ。神月(かうづき)(ひど)辯論(べんろん)(きう)して、き(さま)()るのを()つて()たんだぜ、龍田(たつた)()たらばツて()ういつてな。」

天知 星野天知。ほしのてんち。評論家。小説家。帝大農科大学卒。1887年平田禿木らと日本橋教会で受洗。明治女学校で教鞭を取り、1890年『女学生』を創刊、主筆に。26年、北村透谷らと「文学界」を創刊。のち書道研究に没頭。生年は文久2年1月10日、没年は昭和25年9月17日。享年は満88歳。
夕影 ほしのせきえい。建築家。帝大建築科卒。「文学界」同人となって雑誌経営の実務を担当。大卒後は内務省技師。日光東照宮の修復などに携わった。生年は明治2年11月8日、没年は大正13年3月19日。享年は満54歳。
頻々 ひんぴん。同じような事が次から次へと起こること。
伊達 人目にふれるような派手な行動をする。派手なふるまいなどで外見を飾る。
畔柳芥舟 くろやなぎかいしゅう。英語・英文学者。評論家。明治31年、一高教授。のち「大英和辞典」(冨山房)の編纂に専念。生年は明治4年5月17日。没年は大正12年2月20日。享年は満50歳。
湯島詣 芸者蝶吉が主人公。華族の令嬢を妻にした青年神月梓を配し、梓が狂人となった蝶吉とついに心中する話。
小石川の家 鏡花が住んでいた場所でしょう。小石川区大塚町57番地です。
巨魁 盗賊などの悪い仲間の首領。

アルバム 東京文學散歩|野田宇太郎

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏が描く「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)です。

 神樂坂

 神楽坂は明治大正昭和にかけての東京に住む文学者のふるさとのやうなところである。この界隈が文学者に縁を持つやうになつたのは、横寺町尾崎紅葉が住み、矢来町広津柳浪が住み、そこに通ふ若い文人の数も多かつたのにはじまるとも云へるが、又赤城神社の境内の清風亭と云ふ貸席坪内逍遥の芝居台本朗読会や俗曲研究会が催されたり、その他の大小の文学関係の会合が行はれたりしてゐたこともその一つであらう。その清風亭がやがて長生館と云ふ下宿屋に変ってからは、片上伸や後には近松秋江なども住んだことがあつた。

貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷や家。

 大正時代になると矢来町に飯田町から移って来た新潮社が出来、新潮社を中心にこの附近には色々な文士が集つた。同時に島村抱月芸術座が旗上げして芸術倶楽部が出来たのが横寺町である。逍遥や片上伸や抱月などの早稲田大学の教授連の名が出たことでも判るやうに、大正初期になるとこの界隈は早稲田の学生で賑ひはじめた。そこから多くの現代文学の詩人や作家が出たことは今更喋々もあるまい。わけても神楽坂は毘沙門天を中心に花柳粉香の漂ふ町でもあり、ロマンチシズムに胸ふくらませた明治大正の清新な青年文士と、紅袂の美女とのコントラストは如何にも似つかはしいものとなった。
 泉鏡花がすず夫人との新婚生活を営んだのもこの神楽坂であつた。それは明治三十六年頃からのことであるが、その場所は今の牛込見附から神楽坂を登らうとする左側の小路の奥であつたらしい。だが、もはや街は全貌を変へてしまつたので偲ぶよすがとてない。

飯田町 右図で描いたのは昭和16年頃の飯田町です。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月氏と女優の松井須磨子氏を中心に、主に研究劇を行いました。
喋々 ちょうちょう。しきりにしゃべる様子。
 かなめ。ある物事の最も大切な部分。要点。
毘沙門天 仏教で天部の仏神。神楽坂では毘沙門天があり、正式には日蓮宗鎮護山善国寺。
花柳 かりゅう。紅の花と緑の柳。華やかで美しいもの。 遊女。芸者。
粉香 ふんこう。おしろいの匂い。女性の色香。
紅袂 「こうべい」「こうへい」「こうまい」でしょうか。国語辞典にはありません。赤いたもと。女性のたもと。
牛込見附 この場合は神楽坂通りと外堀通りを結ぶ4つ角。現在は「神楽坂下」に変更。
小路の奥 神楽坂二丁目22番地で、北原白秋が住んだ場所と同じでした。現在はが立っています。

東京理科大学(物理学校)裏。「アルバム 東京文學散歩」から

 北原白秋の詩に「物理学校裏」と云ふのがある。物理学校の講義の声と、附近のなまめいた街からきこえる三味や琴の音とを擬音風にとりあつかつて、牛込見附の土手下を走る今の中央線の前身の甲武線鉄道カダンスなどのことをも取り入れた、有名な詩である。白秋は神楽坂二丁目のニ十二番地に明治四十一年十月からしばらく住んでゐたのだが、それが丁度今の東京理科大学、以前の物理学校の裏に当る崖の上であつた。
「物理学校裏」と云ふ詩などは特別で、とりたてて神楽坂を文学の題材とした名作が多いと云ふわけではないが、この界隈は震災で焼け残つて以来、ぐんぐんと発展して、一時は山の手銀座とも称され、カフエーや書店をはじめ、学生や文士に縁の深い有名な店が沢山出来たものである。それに夜店が又たのしいものであつた。平和な昭和時代には真夜中かけてそこを歩きまはつた思ひ出が私などにもある。
 何と云つても神楽坂の生命はあの坂である。あの坂を登るとたのしい場所がある、と云ふやうな期待が、牛込見附の方からゆく私には、いつもあつた。
 戦後の荒廃がひどいだけに、神楽坂は又幻の町でもある。

神楽坂より牛込見附を望む

甲武線鉄道 正しくは甲武鉄道。明治時代の鉄道事業者。御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿から八王子に至りました。1870年(明治3年)に開業。1906年(明治39年)に国有化
カダンス 仏語から。詩の韻律、リズム。
震災 大正12年の関東大震災です。
山の手銀座 銀座は下町。神楽坂は山の手。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では「大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた」と書いています。詳しくは山の手銀座を参照。
カフエー 喫茶店というよりも風俗営業の店。 詳しくはカフェーを参照。
 
 

紅葉の葬儀②|江見水蔭

文学と神楽坂

 江見水蔭氏は小説家で、硯友社同人、のちには大衆小説を書いています。1869年9月17日(明治2年8月12日)に生まれ、昭和2年に書いた『自己中心明治文壇史』は貴重な文壇資料になりました。これは尾崎紅葉氏の葬儀の情況です。

坪内先生の卒倒(明治三十六年の冬の下)
 紅葉の死に就て各新聞は競つて記事を精密にした。その葬儀の模様も委細に報導されたので、茲には主として、自己中心で記載するが、贈花其他は可成り長くつゞいた。棺惻に門生逹が左右に別れて從つたが、其中に異彩を放つたのは、瀬沼夏葉女史で、この人はニコライ神學校の教師瀬沼某の夫人で、露國文學に通じ、その飜譯を故人に示しなどしてゐた。
 硯友社員は棺後に直ぐつゞいた。會葬者は一人も殘らず徒歩で青山の齋場まで附随した。高田先生なども無論であつた。
 思案が行列整理の任に當つて「皆二列に並んで下さい。」と無遠慮に觸れて廻つたが、皆その通りにして呉れた。自分は柳浪と並んで行つた。
 川上音二郎藤澤淺二郎二人が、横寺町の某寺門前で、シルクハツトフロツクコートで默送してゐた。行列が神樂坂を降り、堀端を進行中に、陸軍將校が騎馬で通行し掛つて、馬の暴れを鎭め切れず、一寸行列を亂した事があつた。
森鷗外が騎馬で紅葉の行列を攪亂さした丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶。」と某新聞に記載したのは、全くの無根で、前記の軍人を鷗外に嵌めて了つたのだ。
 青山齋場は立錐の地も無いまでに會葬者が詰めてゐた。
 硯友社の追悼文は、眉山が書いて、思案が讀んだが、途中から鳴咽して丶丶丶丶丶丶丶丶切々丶丶聽くに丶丶丶忍びず丶丶丶會葬者も丶丶丶丶亦多く涕泣した丶丶丶丶丶丶丶
 突然會葬者中に卒倒者を生じた丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶それは坪内逍遙先生であつた○○○○○○○○○○○○○。それを最初に氣着いて抱き留めたのは、伊臣眞であつた。早速場外へお逹れして、岡野榮の家で靜養されたが、一時は皆吃驚した。(腦貧血を起されたのであつた。)
 次ぎに角田竹冷宗匠が、秋聲會を代表して追悼文を讀んだ。之も亦泣きながらであつた。
 門弟を代表しては鏡花が讀んだ。
 自分は長年、多くの葬儀に列したけれども、紅葉の時の如く會葬者の殆ど全部が、徒歩で以て長途を行き、二列の順をくづさなかつた樣なのは、他に見なかつた。又齋場に於ける緊張味は、殆ど類を見ないのであつた。わざと成らぬ丶丶丶丶丶丶劇的光景丶丶丶丶に富んだ丶丶丶丶のは丶丶故人の徳望の丶丶丶丶丶丶現はれと見て丶丶丶丶丶丶好からうである丶丶丶丶丶丶丶

ニコライ神学校 千代田区神田駿河台の正教会の大聖堂。正式には東京復活大聖堂。ロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライ(Nicholas)に由来。
瀬沼某 瀬沼恪三郎かくさぶろうのこと。明治23年、ロシアに留学。キエフ神学大にまなぶ。帰国後、正教神学校教授、校長をつとめる。
二人 「金色夜叉」を演じた役者たちです。
嵌める はめる。ぴったり合うように物を入れる。物の外側にリング状や袋状の物をかぶせる。
青山斎場 現在は青山葬儀所。場所は港区南青山2-33-20。明治34年に民間の斎場として開設。大正14年に旧東京市に寄付。なお、尾崎紅葉の墓は青山霊園で1種ロ10号14側にあります。
秋声会 しゅうせいかい。俳句結社。1895年(明治28)10月、角田竹冷ちくれい、尾崎紅葉、戸川残花、大野洒竹しゃちくらが、日本派以外の新派俳人を広く糾合して創立。その趣旨は、新古調和、折衷主義で、革新的意気に欠け、作句面では遊俳とも称される趣味的傾向が強かった。
宗匠 そうしょう。文芸・技芸などの道に熟達し、人に教える立場にある人。特に和歌・連歌・俳諧・茶道・花道などの師匠。
長途 ちょうと。長いみちのり。遠い旅路。
わざとならず ことさらでない。さりげない。自然な。

紅葉の臨終④伊藤整

文学と神楽坂

 伊藤整氏の『日本文壇史』第7巻(講談社、初版は1964年)では尾崎紅葉氏の臨終を詳しく書いています。

 玄関の三畳に集っていた七人の弟子たちへも遺言するというので、皆は二階の八畳の病室へ入った。紅葉は目を閉していた。弟子たちが、
「先生、先生」と口々に呼んだ。
 紅葉は目を見開いた。そして言った。
「まづい面を持つて来て、見せろ。」
 一人一人名前を言え、と言われて、一同は次々と「小栗です」、「です」、「徳田です」、「柳川です」と言った。
 それに一つ一つうなずいてから、紅葉は言った。
「お前たち、相互に助け合って、おれの門下の名を辱しめないやうにしろよ。夜中は忙がしい所を毎夜かはるがはる夜伽(よとぎ)に来て呉れて満足した。どうか病気に勝って今一度生き返り、世話をしてやらうと思つてゐたこともあるが、もういかん。これから力を合せて勉強し、まづいものを食っても長命して、ただの一冊一篇でも良いものを書け……おれも七度生れ変つて文章のために尽す積りだから……」
 すすり泣く声か弟子たちの間に起った。
「直さん、直さん」と妻喜久子の弟の医師樺島直次郎を呼び、モルヒネを多量に注射して死なしてくれ、と言った。樺島直次郎が、あまり興奮するといけない、と言うと、紅葉は憤然として、
「そんなに女々しくちや仕方がない。どうせ命かない者か悶え苦しんで二時間や三時間生きながらへて何になるものか」と言った。
 皆が困り切っていると、彼は言葉をついで、
「理窟の分らぬ奴ぢやないか。この苦しみをして生きてゐたつて、何の役に立つものか。お前等がそんなことを言ふのは。死んだことがないからだ。嘘だと思ふなら死んでみろ」と言った。
 あまり興奮させては、と皆が次の間に下り、樺島直次郎はカンフルにモルヒネを少し入れて注射した。そのあと紅葉は気分が落ちついた。そして何か甘い(あん)のようなものを食べたいと言うので、金鍔(きんつば)を一口食べさせた。
 そのうちに、また小栗、泉と呼ぶので二人が行くと、
「今夜は酒はどうした?」と、いつもの夜伽のことを訊いた。鏡花は、今夜も酒を持って来ました、徳田は、肴として鳥と松茸の煮たのを持って来ました、と言った。
「三十日近くに、えらいな。酒をここへ持って来て飲んだらよからう」と紅葉が言った。
 酒はもう下で皆で飲んでしまった後だったので、改めてそこへ酒を持って来させ、鏡花と風葉の間に置き、紅葉には管で少し口に入れてやり、あとを皆が一口ずつ飲んだ。別れの盃であった。
 そのあとで紅葉が、思案に、
「石橋、是非解剖してくれ」と言った。
 思案が当惑して口ごもると、
「何だ生返事なんかしやがつて。おれを解剖すると新聞屋なんざあ種がふえて喜ぶだらう」と言って微笑した。そのあとで紅葉は、葬式に寝棺を使うと皆より高い位置になって悪いから、駕籠(かご)にしてくれと言い、また遺品の分配のことも言った。朝方の四時半には遺言もお別れも済んだ。
 その頃、突然、すさまじい音を立てて大雨が降りはじめ、雨の中に夜が明けた。
 紅葉が言った。
「石橋、曇天(クラウデイ・ウエザー)だな、なに、(レーン)が降つてる? どうも天気の悪いのが一番いやだ。」
 そして彼は顔をしかめた。
 それから彼は牛乳を少し飲んだ。五六人ががりで寝巻や蒲団をすっかり新しく取り替えたあと、紅葉はよく眠った。
 この十月三十日の朝早く打った電報で、 硯友社員の江見(えみ)水蔭(すいいん)川上(かわかみ)眉山(びざん)広津(ひろつ)柳浪(りゅうろう)丸岡(まるおか)九華(きゅうか)たちがまた駆けつけた。外に長田(おさだ)秋濤(しゅうとう)斉藤(さいとう)松洲(しょうしゅう)角田(つのだ)竹冷(ちくれい)などの友人も来た。午後になって、もう駄目だから暇乞いしようと言って、親戚から順に二人ずつ八畳の病室に入った。長田秋濤は涙を滂沱(ぼうだ)と流していた。柳浪と水蔭が一緒に入ると、紅葉は、目を開いて二人を見、
「遠方をわざわざ、……」と言って、すぐまた目を閉じた。柳浪も水蔭も胸が一杯になり、一語も発することかできなかった。眉山が入って行くと、紅葉は、眉山の我がままについて最後に忠告をした。眉山は泣き出した。
 その夜の十一時十五分、潮の引きぎわに、紅葉は昏睡したまま息を引きとった。

 硯友社の社員は当初は4人でした。明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校、現・東京大学教養学部)の学生、尾崎紅葉山田美妙石橋思案と高等商業学校(現・一橋大学)の丸岡九華の4人が創立したのです。同年5月、機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を発行。以降、同人に巌谷小波(いわやさざなみ)広津柳浪川上眉山らが参加、また紅葉門下の泉鏡花小栗風葉柳川春葉徳田秋声等が加わっています。『我楽多文庫』には小説、漢詩、戯文、狂歌、川柳、都々逸(どどいつ)などさまざまな作品を載せ、その結果、明治20~30年代の文壇の中心勢力になりました。

玄関の三畳  後藤宙外氏の『明治文壇回顧録』によれば

半坪程の土間につづく取次の間は、確か二畳であつたと思ふ

と書き、一方、鳥居信重氏が『よこてらまち』(新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会)で描く尾崎邸の玄関は

畳二枚に板敷1畳分の玄関

と書いてあります。野口冨士男氏の『私のなかの東京』では

面積は三畳でも、そのうちの奥の一畳分は板敷きになっていたので三畳といえば三畳だが、二畳といえば二畳でもあったのである

と書いています。図はここにあります。

七人の弟子たち 七人の名前のうち泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声以外はわかりません。
夜伽 病人の看護、主君の警備などのために夜通し寝ずにそばに付き添うこと。
金鍔金鍔 小麦粉の薄い皮で餡を包み、刀の鍔に似せて平たくし、鉄板の上で軽く焼いた和菓子
暇乞い いとまごい。別れを告げること。別れの言葉。
滂沱 雨の降りしきるさま。涙がとめどもなく流れ出る様子

紅葉の臨終①泉鏡花

文学と神楽坂

 尾崎紅葉氏は明治36年(1903年)10月30日に満35歳で死亡しました。

 まず泉鏡花氏が書いた紅葉の臨終際の文章です(鏡花全集28巻)。感極まっているのです。

   紅葉先生逝去前十五分間      明治38年7月
 明治三十六年十月三十日十一時、……形勢不穩なり。予は二階に行きて、(つゝし)みて鄰室(りんしつ)(かしこ)まれり。此處(こゝ)には、石橋丸岡久我の三氏あり。
 人々は耳より耳に、耳より耳に、(にぶ)き、弱き、稻妻の如き(さゝやき)(つた)()れり。
 病室は(たゞ)(しん)として()のもの音もなし。
 時々時計の(きし)(こゑ)とともに、すゝり(なき)(なき)ゆるあるのみ。
 室と室とを隔てたる四枚の襖、其の一端、北の方のみ細目(ほそめ)に開けたる間より、五分()き、三分措きに、白衣、(いろ)(あたら)しき(せう)看護婦、悄然(せうぜん)として()でて、(しづか)に、しかれども、ふら/\と、水の如き(ともしび)の中を()ぎりては、廊下に(たゝず)める醫師と相見(あひみ)私語(しご)す。
 雨(しきり)なり。
 (まさ)に十分、醫師は()()りて、(まゆ)憂苦(いうく)(たゝ)へつゝ、もはや、カンフルの注射無用(むよう)なる(よし)を説き聞かせり。
 風又た一層を(くは)ふ。
 雨はたゞ波の(たゞよ)ふが如き氣勢(けはひ)して降りしきる。
 これよりさき、病室に(かすか)なるしはぶきの聲あるだに、其の都度、皆慄然(りつぜん)として(たましひ)を消したるが、今や、(ひとへ)に吐息といへども聞えずなりぬ。
 時に看護婦は襖より半身を(あらは)して、ソト醫師に目くばせ()り、同時に相携(あひたづさ)へて病室に入りて見えずなれり。
 石橋氏は椅子に()りて、()()(さゝ)ふること(あた)はざるものの如く、()(あふ)ぎ、且つ()し、左を見、右を見て、心地(こゝち)()なんとするものの如くなりき。
 (角田氏入る。)
 人々の(さゝや)きは(やうや)(しげ)(こまや)かに()(きた)れり、月の(いり)引汐(ひきしほ)、といふ(こゑ)(ひらめ)(きこ)えり。
 十一時十五分、予は病室の事を語る能はず。
[現代文]明治36年10月30日午後11時……形勢は不穩である。私は二階に行き、隣の部屋に謹んで正座していた。ここには、石橋思案氏、丸岡九華氏、久我亀石氏の三氏もいた。
 鈍くて弱い、稲妻のような囁きだげが、耳から耳に、耳から耳にと伝わってくる。病室はただシンになり、ほかの音はない。
 時々時計のきしむ音とともに、すすり泣きだけが聞こえてくる。
 部屋と部屋を隔てたのは四枚の襖。その一端の北の方、細く開けたあいだから、色は新しい白衣の看護婦は、五分おき、三分おきに、元気はなく出てきて、静かに、でも、ふらふらと、水と似ている灯火のそばを過ぎていく。廊下に佇む医師と向かい合い、私語をしている。
 雨はしきりに降ってくる。
 それからちょうど十分後になった。医師は、眉に憂苦をただえ、もはやカンフルの注射は無用だと説き聞かせている。
 さらに一層、風は強くなる。
 雨はただ波が漂うような気配で、降りしきる。
 以前は、病室にささやかな尾崎先生の咳嗽があった。その都度、みんな身震いするように気力は消えていた。しかし、現在は、この吐息も聞こえないようになった。
 この時、看護婦は襖より半身を現し、そっと医師に目くばせし、一緒に病室に入って見えなくなった。
 石橋氏は椅子によりそって、身を耐え支えるのはできないように、上を見たり、下を見たり、左や右を見たりで、気持は死のうしているようだ。
 (角田竹冷氏が部屋に入った。)
 人々のささやき声もようやく出てきて、こまやかになり、月の入りや引汐という声も一瞬聞こえてくる。
 尾崎紅葉が死亡した午後11時15分、私にはこの病室のことを話す能力はない。

畏まる かしこまる。相手の威厳などを恐れて、つつしんだ態度をとる。正座する。
久我 久我龜石。硯友社の会員。詳細は不明。
悄然 元気がなく、うちしおれている様子。しょんぼり。
衝と つと。ある動作をすばやく、または、いきなりするさま。さっと。急に。不意に。
カンフル 樟脳。しょうのう。医薬名。中枢神経興奮薬で、心運動亢進や血圧上昇をきたす。興奮剤としてカンフル注射液を用いていたが、作用が不確実なため、使用は現在まずない。
しはぶき せき。咳嗽
慄然 恐ろしくて身震いする様子。
そと 音を立てないように。静かに。人に知られないように。ひそかに。そっと。
心地 ここち。物や事に接した時の心の状態。気分。気持ち。