泉鏡花」タグアーカイブ

婦系図

文学と神楽坂

泉鏡花

泉鏡花

 これは泉鏡花氏の『婦系図』(1907年、明治40年)前篇「柏家」45節で、中心人物のうち3人(小芳、酒井俊蔵、早瀬主税)が出てくる有名な場面です。「いいえ、私が悪いんです…」と言う人は芸妓の小芳で、ドイツ文学者の酒井俊蔵の愛人。小芳から「貴下」と呼ばれた人は主人公の書生で以前の掏摸すり、早瀬主税ちから。「成らん!」と怒る人はドイツ文学者の酒井俊蔵で、主税の先生です。
 もちろん酒井俊蔵のモデルは尾崎紅葉氏、早瀬主税は泉鏡花氏、小芳は芸妓の小えんです。
 小芳が「いいえ…」といった言葉に対して、文学者の酒井は芸妓のお蔦を早瀬の妻にするのは無理だといって「俺を棄てるか、おんなを棄てるか」と詰問します。

いいえ、私が悪いんです。ですから、あとしかられますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」
「成らん! この場に及んで分別も糸瓜へちまもあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、おんなを連れて駈落かけおちをしかねない。短兵急たんぺいきゅうに首をおさえて叩っってしまうのだ。
 早瀬。」
苛々いらいらした音調で、
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支さしつかえん、おんなうらんでも、泣いてもい。こがじにに死んでもい。先生命令いいつけだ、切れっちまえ。
 俺を棄てるか、婦を棄てるか。
 むむ、このほか言句もんくはないのよ。」

糸瓜 へちま。つまらないものや役に立たないもののたとえ
短兵急 刀剣などをもって急激に攻めるさま。だしぬけに。ひどく急に。
苛々しい いらいらしい。心がいらだつ。いらいらする様子。
先生 自分より先に生まれた人。学問や技術・芸能を教える人。自分が教えを受けている人。この場合は酒井俊蔵。
言句 げんく。ごんく。言葉。ひとくさりの言葉。一言一句。

(どうだ。)とあごで言わせて、悠然ゆうぜんと天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓にひじをついた。
おんなを棄てます。先生。」
判然はっきり云った。其処そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の猪口ちょくと相触れて、カチリと鳴った。
幾久いくひさし、おさかずきを。」と、ぐっと飲んで目をふさいだのである。
 物をも言わず、背向うしろむきになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、
其方そっちの、其方の熱い方を。もう一杯ひとつ、もう一ツ。」
と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物をふところへ、羽織ひもを引懸けて、ずッと立った。
「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」

悠然 ゆうぜん。物事に動ぜず、ゆったりと落ち着いているさま。悠々。
猪口 ちょく。日本酒を飲むときに用いる陶製の小さな器。小形の陶器で、口が広く、底は少し狭くなる。猪口
幾久く いくひさしく。いつまでも久しい。行く末長い。
 ふところ。衣服を着たときの、胸のあたりの内側の部分。懐中。
羽織 はおり。和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。

湯島の境内②|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花氏の『婦系図』「湯島の境内」からです。「湯島の境内」は「婦系図」の小説(1907年)では入っておらず、戯曲(1914年)で新しく加わりました。ここは戯曲の山場のひとつです。この原本は岩波書店の「鏡花全集 第26」(第一版は昭和17年)から。なお、早瀬主税ちからは書生で、主人公。お蔦は内縁の妻。早瀬の話に出てきた「おれ」や「先生」とはドイツ文学者の酒井俊蔵で、主税の先生。小芳は芸妓で、酒井の愛人でした。

早瀬 実は柏家かしわや奥座敷で、胸に匕首あいくちを刺されるような、御意見をこうむった。小芳こよしさんも、あおくなって涙を流して、とりなしてくんなすったが、たとい泣いても縋っても、こがれじにをしても構わん、おれの命令だ、とおっしゃってな、二の句は続かん、小芳さんも、俺も畳へ倒れたよ。
お蔦 (やや気色けしきばむ)まあ、死んでも構わないと、あの、ええ、死ぬまいとお思いなすって、……小芳さんの生命いのちを懸けた、わけしりでいて、水臭い、芸者のまことを御存じない! 私死にます、柳橋の蔦吉は男にこがれて死んで見せるわ。
早瀬 これ、飛んでもない、お前は、血相変えて、勿体もったいない、意地で先生にたてを突く気か。俺がさせない。待て、落着いて聞けと云うに!――死んでも構わないとおっしゃったのは、先生だけれど、……お前と切れる、女を棄てます、と誓ったのは、この俺だが、どうするえ。
お蔦 貴方をどうするって、そんな無理なことばッかり、情があるなら、実があるなら、先生のそうおっしゃった時、なぜ推返おしかえて出来ないまでも、私の心を、先生におっしゃってみては下さいません。
早瀬 血を吐く思いで俺も云った。小芳さんも、そばで聞く俺がきまりの悪いほど、お前の心を取次いでくれたけれど、――四の五の云うな、一も二もない――俺を棄てるか、おんなを棄てるか、さあ、どうだ――と胸つきつけて言われたには、何とも返す言葉がなかった。今もって、いや、尽未来際じんみらいざい、俺は何とも、ほかに言うべき言葉を知らん。

柏家 柳橋にあった芸者置屋おきやか料亭。置屋とは料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
奥座敷 家の奥のほうにある座敷。私生活にあてる座敷。
匕首 あいくち。つばのない短刀。
小芳 芸妓。ドイツ文学者酒井俊蔵の愛人。酒井俊蔵は早瀬主税の先生。
縋る すがる。 頼みとしてとりつく。しっかりとつかまる。しがみつく。
こがれ死に 焦がれ死に。恋い慕うあまり病気になって死ぬこと。
二の句 次に言いだす言葉。
気色ばむ 怒ったようすを表情に現す。むっとして顔色を変える。
わけしり 訳知り。遊里の事情によく通じていること。また、その人。
 まこと。うそや偽りでないこと。人に対して誠実で欺かないこと。偽りのない心。まごころ。
蔦吉 芸名、名。「吉」「太郎」「奴」などをつけて男名前を使うことが多かった。
押し返す おしかえす。押してきた相手を逆にこちらから押す。押し戻す。相手の言葉を受けて返す。裏返す。
尽未来際 じんみらいさい。仏語。未来の果てに至るまで。未来永劫。永遠。

お蔦 (間)ああ、分りました。それで、あの、その時に、お前さん、女を棄てます、と云ったんだわね。
早瀬 堪忍しておくれ、済まない、が、たしかに誓った。
お蔦 よく、おっしゃった、男ですわ。女房の私も嬉しい。早瀬さん、男は……それで立ちました。
早瀬 立つも立たぬも、お前一つだ。じゃ肯分ききわけてくれるんだね。
お蔦 肯分けないでどうしましょう。
早瀬 それじゃ別れてくれるんだな。
お蔦 ですけれど……やっぱり私の早瀬さん、それだからなお未練が出るじゃありませんか。
早瀬 また、そんな無理を言う。
お蔦 どッちが、無理だと思うんですよ。
早瀬 じゃお前、私がこれだけ事を分けて頼むのに、肯入れちゃくれんのかい。
お蔦 いいえ。
早瀬 それじゃ一言、清く別れると云ってくんなよ。
お蔦 …………
早瀬 ええ、お蔦。(あせる。)
お蔦 いいますよ。(きれぎれ且つ涙)別れる切れると云う前に、夫婦で、も一度顔が見たい。(胸にすがって、顔を見合わす。)
〽見る度ごとに面痩おもやて、どうせながらえいられねば、殺して行ってくださんせ。
お蔦 見納めかねえ――それじゃ、お別れ申します。
早瀬 (涙を払い、気を替う)さあ、ここに金子かねがある、……下すったんだ、受取っておいておくれ。(渡す。)
お蔦 (取るとひとしく)手切れかい、失礼な、(となげうたんとして、腕のえたるさま)あの、先生が下すったんですか。
早瀬 まだ借金も残っていよう、当座の小使いにもするように、とお心づけ下すったんだ。
お蔦 (しおしおと押頂く)こうした時の気が乱れて、勿体ない事をしようとした、そんなら私、わざと頂いておきますよ。(と帯に納めて、落したる髷形まげがたの包に目を注ぐ。じっと泣きつつ拾取って砂を払う)も、荷になってなぜか重い。打棄うっちゃって行きたいけれど、それではねるに当るから。

男が立つ 男としての名誉が保たれる。面目が保たれる。男の名誉が守られる。
事を分ける ことをわける。筋道を立てて詳しく説明する。条理を尽くす。
きれぎれ 細かくいくつにも切れて。切れそうになって、からくもつながっている
且つ 一方では。ちょっと。わずかに。そのうえ。それに加えて。
面痩せる おもやせる。顔がやせてほっそりした感じになる。顔がやつれる。
えいられねば 不明。「永」はエイ、ながい。「映ずる」は光や物の影が他のものの表面にうつる。「えいら…」はありません。
見納め みおさめ。見収め。これで見るのが最後だ。
替う かう。換う。代う。「える」の文語形。
斉しく ひとしく。等しく。そのことが起こったのと同時に。するや否や。
擲つ なげうつ。抛つ。捨てる。惜しげもなく差し出す。放棄してかえりみない。
髷形 女性が髷を結うとき、形を整えるために髷の中に入れる紙製のしん。髷入れ。
拗ねる すねる。すなおに人に従わないで、不平がましい態度をとる。

鰻坂 合羽坂|河童出たとて鰻坂

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「坂のある風景」の「鰻坂 合羽坂」を見ていきます。しかし、俳優の芦田伸介氏の家がどこにあるのか、これだけではわかりません。

鰻坂

鰻坂と合羽坂

「ね、右へ登る細い坂があったでしょう。」
「ええ」
矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じゃないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」
「自衛隊の裏には合羽坂という坂があります。雨合羽のカッパなんて字になってますが、あれは本当は河童という字を当てなくちゃならないんです。あのへんに河童のお化けが出たというんで、カッパ坂なんですから」

「夜のタクシー」海老沢泰久

矢来町のほうへ 矢来町は牛込中央通りを北に動くと出てきます。鰻坂は市谷砂土原町と払方町を分ける坂です。「右へ登る細い坂を行くと矢来町になる」と考えると嘘になります。

矢来町と鰻坂

矢来町と鰻坂

いまの坂 牛込中央通りを南から来る場合、うなぎ坂と平行する坂は払方町の坂(下図)です。逆に北から来る場合、右に曲がるのは遙か南の小路です。したがって、払方町の坂のほうが正しいのでしょう。しかし、芦田伸介氏の家はどこだかわかりません。

鰻坂とその上の坂。1990年

鰻坂とその上の坂。1990年

芦田伸介 あしだしんすけ。本名は蘆田義道。東京外語を1年で中退、昭和12年、旧満州で新京放送劇団。昭和14年、森繁久彌等と満州劇団を結成。昭和24年、劇団民芸に入団。テレビ「七人の刑事」をはじめ、映画や舞台で活躍。生年は大正6年3月14日、没年は平成11年(1999年)1月9日。享年は満81歳。
河童のお化けが出た 実際は違うようです。『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では

右は當町近邊東の方二蓮池と唱候大池有之右池中獺雨天等の節は夜分坂近邊え出候處河童出候と其頃專ら風聞仕候二付自ら河童坂と唱候處後世合羽坂と書誤候由申傅候
この町の近辺で東方に蓮池という大きな池がありました。夜分になると特に雨天の節などにはかわうそが坂の近辺に出てきます。そこで、風評通りに、これを河童坂と呼んできました。その後、誰かが合羽坂と書き間違えたのです。

カッパ坂 西北に上がる坂です。江戸時代(『御府内場末往還其外沿革図書』嘉永5年、1852年)は現在の合羽坂とほぼ同じです。しかし、ほかの坂を合羽坂とよんた時代もありました。

本村町と合羽坂

本村町、仲之町と合羽坂

 三島由紀夫が割腹を遂げた陸上自衛隊市ケ谷駐屯地がある市谷本村町と西隣りの市谷仲之町との間を北上する坂合羽坂という。
 江戸時代、尾張藩の合羽干し場だったのでこの名がついたとするがあるが、『夜のタクシー』の運転手のいうように、河童説も有力である。
 というのも坂の下には古い大きな沼があり、河童が出たという伝説が生まれても不思議はないからである。
 永井荷風が『日和下駄』の中で本村町の坂の上から見る市ケ谷~小石川の景色が、東京中で最も美しいと述べているが、この坂の上とは、おそらく合羽坂のことであろう。
 鰻坂は、市谷砂土原町払方町の間を曲折している坂道。
 さらに砂土原町の一丁目と二丁目の境を市谷田町から払方町の方へのぼる長い坂が浄瑠璃坂。この浄瑠璃坂と合羽坂を「山の手だけど江戸らしい」と鏡花がほめている。
 また市谷左内町市谷加賀町の間の坂道を中根坂といい、外堀通り市ケ谷見附付近から市谷左内町へとのぼる坂を佐内坂という。
 このように市ヶ谷近辺は起伏に富んでいる。そして町名変更の波に洗われながらも旧称が残っており、同じ新宿区内でも整理され、旧町名が姿を消した新宿駅を中心とする地域とは全く異なった様相を呈している。

市谷本村町市谷仲之町 図を参照
北上する坂 現在の「北上する坂」は合羽坂ではなく、「外苑東通り」です。
 岡崎清記氏の「今昔 東京の坂」(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では「この坂名は、尾張藩の者たちの合羽干場になっていたためともいう。」と書いてありました。
古い大きな沼 『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では「東方にはす池という大きな池」があり、また「今昔 東京の坂」では「河童坂の名の由来となった蓮池は、町内の東方、尾張屋敷の御長屋下にあった用水溜で、蓮が生えていたが、のち埋め立てられて御先手組屋敷となった」といっています。下の図で赤い丸でしょうか。

絵図・市谷御屋敷

新宿歴史博物館「尾張家への誘い」新宿区生涯学習財団。2006年10月。95頁

日和下駄 ひよりげた。歯の低い差し歯下駄。主に晴天の日に履く。永井荷風の「日和下駄」(1915年)では裏町と横道を歩き、東京中を散策する随筆集。
日和下駄
東京中で最も美しいと述べている  永井荷風が書いた『日和下駄』「第四 地図」の一文です。

 私は四谷見附よつやみつけを出てから迂曲うきょくした外濠のつつみの、丁度その曲角まがりかどになっている本村町ほんむらちょうの坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込うしごめを経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷八幡はちまんの桜早くも散って、ちゃ稲荷いなりの茶の木の生垣いけがき伸び茂る頃、濠端ほりばたづたいの道すがら、行手ゆくてに望む牛込小石川の高台かけて、みどりしたたる新樹のこずえに、ゆらゆらと初夏しょかの雲凉しに動く空を見る時、私は何のいわれもなく山の手のこのあたりを中心にして江戸の狂歌が勃興した天明てんめい時代の風流を思起おもいおこすのである。

おそらく合羽坂のこと 現在の命名では「外苑東通り」になります。
小石川 文京区の一部。1947年、小石川区と本郷区の2区を合併して文京区になりました。

旧区

アイランズ「東京の戦前 昔恋しい散歩地図」草思社、2004年

山の手だけど江戸らしい すみません。出典は不明です。

新潮社があることで知られる矢来町は、旧酒井邸の外垣に、矢来が組んであったことに由来するという。

②昭和四十五年十一月、作家の三島由紀夫が楯の会のメンバーと共に市ヶ谷駐屯地にたてこもり、自衛隊員に決起をうながしたが、応じないのを知ると、割腹自殺をした。

③市谷砂土原町には児童書の偕成社さ・え・ら書房、詩集の出版で知られる思潮社をはじめ、小規模の出版社が多数ある。

市谷加賀町の半分近くを大日本印刷(株)が占めている。

⑤この外堀通りを境にして、新宿区と千代田区に分かれている。
 四ツ谷から市ヶ谷を通って飯田橋まで、外堀堤は桜と松の並木がつづく美しい散歩道である。桜吹雪の舞い散る中を散策するのは本当に素敵だ。

偕成社さ・え・ら書房思潮社 下図を参照。
偕成社、さ・え・ら書房、思潮社
大日本印刷(株) 1876年、秀英舎が創業。昭和10年、日清印刷と合併し「大日本印刷」に。大日本印刷は市谷加賀町一丁目の全てを占め、ほかに市谷加賀町二丁目、市谷左内町、市谷鷹匠町の一部を持つ。
外堀通り 環状2号線・外堀通りです。

鏡花幻想|竹田真砂子

 文学と神楽坂

竹田真砂子

竹田真砂子

『鏡花幻想』は1989年に竹田真砂子氏が書いた、泉鏡花ではなくその妻、すずを中心にした小説です。

 竹田真砂子氏は小説家で、出身は神楽坂。時代小説を中心に活躍し、また、神楽坂を題材にした小説も沢山あります。作品は「十六夜に」「白春」「あとより恋の責めくれば 御家人南畝先生」など。生年は昭和13年3月21日です。

 これは泉鏡花が将来の妻すずと同棲を始めてそれを知った尾崎紅葉が激怒した部分です。実際にはこの激怒した時間は、昼下りではなく、夜中に起こりました。

 一応の体裁が整って、すゞは神楽町二丁目の家から毎日蔦永楽に通って、一日四、五時間ほど座敷を勤め、家事にも馴れてきた四月の中頃、鏡太郎は突然、横寺町尾崎紅葉からの呼び出しを受けた。豊春も同行せよとの伝言である。二人は衣服を改めて横寺町へ出かけた。
 四月十四日。昼下りである。
 十二、十三日と二日続けて昼間の遠出のお座敷があって、すゞは伯爵家の広大な庭園に設えられた仮設舞台清元を歌ってきた。踊る立方たちかたと違って、地方じかたは地味な存在だけれど、先年の硯友社の新年会で『保名』をひとくさり歌って以来、本格的に鍛えた咽喉が重宝がられて、大事なお座敷の地方というと、よく声がかかるようになった。(略)
 わずか二時間後に、思いもかけぬ残酷な宣告を鏡太郎の口から聞こうとは。すゞにも祖母にも露ほどの予感もなかった。

体裁 ていさい。外から見た様子。外見。外観。
四月十四日 明治36年の4月でした。
昼下り 正午をやや過ぎた頃。
仮設舞台 必要に応じて仮に設ける舞台。
清元 きよもと。清元節。江戸浄瑠璃の一派。
立方 立ち方。たちかた。歌舞伎・日本舞踊で、立って舞い踊る者。
地方 じかた。日本舞踊で、伴奏音楽を演奏する人々。唄・浄瑠璃・三味線・囃子などの演奏者をまとめていう。
保名 やすな。歌舞伎舞踊。清元節の曲名。篠田金治作詞、清沢万吉作曲。『深山みやまのはな及兼とどかぬ樹振えだぶり』の一節
ひとくさり 一齣。一闋。謡いもの、語りもの、また話などのまとまった一区切り。

 横寺町から帰って来た時の、鏡太郎の顔には表情がなかった。豊春はうつむいたまま、
「お帰りなさい」
 すゞが声をかけても返事もせず、上りかけた足を下駄に戻して、また外へ出て行ってしまった。
 鏡太郎も、ひとことも口をきかずに二階へ上る。下から後姿を見上げてすゞは首をひねった。
「どうしなすったんでしょうねえ」
 祖母も眼窟の落窪んだ目を見開いて、きょとんとしている。お茶をいれて二階へ持って行こうとしたが、祖母が手を振って止めた。尋常でない鏡太郎の様子に祖母もすゞも、階下でただ座って、息を殺しているより他になすすべがなかった。
 だから二階で手が鳴った時、用をいいつけられるのを待ち兼ていたすゞは、
「はあい」
 元気よく返事をして、祖母に笑いかけてから跳びはねるように立上った。
「御用でしょうか」
 座ってをあけて、敷居の外から声をかける。鏡太郎は机に背を向けて正座していた。敷いている友禅の座布団は、祖母に綿の入れ方を習いながらすゞが拵えたものである。
「ここへ来てお座り」
 鏡太郎は静かに自分の前の座を手で示した。
 すゞは前掛けをはずしてに入れてから中へ入って襖を閉め、示された場所に座った。
 鏡太郎はすゞを見ない。視線は畳に落ちたままだ。
「心を静めて聞いてもらいたい。折入っての頼みだ。無理を承知の酷い頼みだ」
 聞きとりにくいほど小さな声である。

 ふすま。和室の仕切りに使う建具。木などの骨組みの両面に紙や布を張ったもの。
敷居 しきい。襖や障子などの建具を立て込むために開口部の下部に取り付ける、溝やレールがついた水平材。
友禅 ゆうぜん。江戸時代に現れた多彩な模様染め。
前掛け 衣服をよごさないようにきものの上に着ける布。
 たもと。和服の袖付けから下の、袋のように垂れた部分。

 すゞには鏡太郎が苦しんでいるのが分った。その苦しみがすゞの肌に伝わって、ちくちくと絹針の先で突かれるように痛かった。
 ――早くおっしやいましな。そんなにお苦しみになるとお体にさわります。
 どんな酷い頼みか知らないが、いえば少しは鏡太郎の苦しみが減るだろう。すゞも半分、鏡太郎と同じ苦労が味わえる。すゞは、口をつぐんでしまった鏡太郎の顔を、首をかしげて見上げた。
 鏡太郎はほとんど口を動かさずにいった。
「この家から出て行ってもらいたい」
 すゞには鏡太郎のいっていることが、よく分らなかった。手を膝において、首をかしげた姿勢のまま、なお鏡太郎の顔を見つめて次の言葉を待った。が、鏡太郎は黙っていた。
 見えない渦が二人を取り囲み、深い深い、暗い暗い沈黙の底に引きずりこんでいった。
 どれほどそうしていただろうか。すゞの頭の中は空っぽになり、手足にもまるで感覚がなくなっていた。起きているのか、眠っているのか、それさえ判然としなかった。
「あなた、ね、あなたですわね」
 声が出ているか、口が動いていか、自分でもよく分らなかったけれど、すゞは鏡太郎に語りかけてみた。
 鏡太郎の姿勢もさっきから少しも変っていない。外出着のまま、羽織もぬがずにきちんと布団の上に座っている。畳に置いた視線も動いていない。
「先生の御意だ。女と暮らすなら破門すると」
 このひとことを鏡太郎はどんな思いでいっているのだろう。いいたくない、これだけは生命に代えてもいいたくない。それでも、どうしてもいわなければならない仕儀になって、今、鏡太郎はすゞの前に魂ぐるみ生命を投げ出したのだ。(中略)「お前にだけは教えておく。紅葉先生は重い胃病で、お生命いのちはもう永くないんだ」
 先月、紅葉が入院していたことは、すゞも知っていた。今は自宅に戻っているから、すゞは全快したものと思っていたのだが、死期が近いなんて。これでは鏡太郎もすゞも、無理難題を吹きかける紅葉を恨むこともできやしない。
 鏡太郎の腕に力がこもった。その腕の中ですゞは何度も何度も頷いた。

 尾崎紅葉は、1903年(明治36年)3月、胃癌と診断され、4月、ここに書いてあるように泉鏡花を叱責し、10月30日、自宅で死亡しました。享年は37歳でした。

 実際のすずはもっと気が強いような気がします。「鏡花幻想」では話してはいるんですが、ひよわく、気が強くはない。一方「婦系図」でも「湯島の境内」でも、鏡花が描くすずはもっと話しているし、芯も強い。

絹針 きぬばり。絹布や薄手木綿を縫うときに用いる細い針。
羽織 はおり。和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。
仕儀 しぎ。物事の成り行き。事の次第。特に、思わしくない結果や事態。
頷く うなずく。首肯く。肯く。肯定・同意・承諾などの気持ちを表して首をたてに振る。

十千万堂日録|尾崎紅葉

 文学と神楽坂

尾崎紅葉

尾崎紅葉

 尾崎紅葉氏は自分の日記を書き、特に明治34年1月から36年10月までを『十千万堂日録』として発表しています。

 この泉鏡花氏の事件は1903年(明治36年)4月に起こりました。鏡花氏が将来妻になる芸者すずを落籍し、同棲します。しかし、この件で紅葉氏は鏡花氏を叱責し、すずとの訣別を要求しました。紅葉氏から見たこの事件は『十千万堂日録』に書かれています。

明治36年4月14日
風葉を招き、デチケエシヨンの編輯に就いて問ふ所あり。相率て鏡花を訪ふ。(妓を家に入れしを知り、異見の為に趣く。彼秘して実を吐かず、怒り帰る。十時風葉又来る。右の件に付再人を遣し、鏡花兄弟を枕頭に招き折檻す。十二時頃放ち還す。
疲労甚しく怒罵の元気薄し。

 紅葉氏は訣別を要求したのでしょう。さて、泉氏はどうするのか、本文を読む限り、はいといったとは書いていません。

十千万 とちまん。非常に数や量の多いこと。巨万
明治36年 1903年
デチケエシヨン dictation、口述。門弟たちが紅葉氏を慰めるため企画した短篇集「換菓篇」のこと。
 親愛な、親密な、愛する。
異見 自分の思うところを述べて、人の過ちをいさめること。他の人とは違った考え。異議。異論。
趣く 従う。同意する。同意させる。
折檻 強くいさめること。厳しく諫言かんげんすること。
怒罵 どば。怒りののしること。

明治36年4月15日
風葉秋声来訪。鏡花の事件に付き、之より趣き直諌せん為也。夜に入り春葉風葉来訪、十一時迄談ず。

直諌 ちょっかん。遠慮することなく率直に目上の人を、いさめること。遠慮なく相手の非を指摘して忠告すること。

 読む限り、紅葉氏は部下の風葉氏や秋声氏からも再考してほしいといわれたようです。その後、夜の11時頃までかかって、あれこれを話し合ったようです。

明治36年4月16日
夜鏡花来る。相率て其家に到り、明日家を去るといへる桃太郎に会ひ、小使十円を遣す。

 二日後、桃太郎(すず、将来の鏡花の妻)は家から離れることになったようです。別れるとははっきり書いていません。

桃太郎 日本の芸者。桃太郎は芸者時代の名前。泉鏡花の妻、泉すず。旧姓は伊藤。生年は1881年(明治14年)9月28日、没年は1950年(昭和25年)1月20日。享年は満68歳。
十円 明治38年ごろ、小学校の先生の初任給は10~13円、大銀行の大卒の初任給は35円でした。つまり、当時の10円は今でいう10万円ぐらいでしょうか(http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J050.htm)。

神楽坂|江戸情趣、毘沙門天に残りけり

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「色街濡れた街」の「神楽坂」では…

「東京物語」辞典

「東京物語」辞典

 楽坂の町は、く開けた。いまあのを高く揃えた表通りの家並を見ては、薄暗い軒に、蛤の形を、江戸絵のはじめ頃のような三色に彩って、(なべ)と下にかいた小料理屋があったものだとは誰も思うまい。
 明治の終りから大正の初年にかけてのことだが、その時分毘沙門の緑日になると、あそこの入口に特に大きな赤い二提灯が掲げられ、あの狭い境内に、猿芝居やのぞきからくりなんかの見世物小屋が二つも三つも掛ったのを覚えている。

 屋根の最も高い所。二つの屋根面が接合する部分。
家並 家が並んでいること。やなみ。
江戸絵 浮世絵版画の前身となった紅彩色の江戸役者絵。江戸中期から売り出され、2、3色刷りからしだいに多彩となり、錦絵にしきえとして人気を博した。
 ちょう。提灯、弓、琴、幕、蚊帳、テントなど張るもの、張って作ったものを数える助数詞。
提灯 ちょうちん。照明具。細い竹ひごの骨に紙や絹を張り、風を防ぎ、中にろうそくをともし、折り畳めるようにしたもの。
のぞきからくり 箱の前面にレンズを取り付けた穴数個があり、内に風景や劇の続き絵を、左右の2人の説明入りでのぞかせるもの。幕末〜明治期に流行した。
見世物小屋 見世物を興行するために設けた小屋。見世物とは寺社の境内、空地などに仮小屋を建てて演芸や珍しいものなどを見せて入場料を取った興行。

 鏡花夫人は神楽坂の芸者であったが、神楽坂といえばつくりの料亭と左棲の芸者を想起するのが常であった。
 下町とは趣き異にした山の手の代表的な花街として聞こえており、同時に早稲田の学生が闊歩した街でもあった。
 神楽坂のイメージは江戸情趣にあふれた街であるが、大正十三年頃から昭和十年頃にかけては、レストランやカフェー、三越や松屋などの百貨店も出来、繁華を極めた。夜の殷賑ぶりは銀座に勝るとも劣らず「牛込銀座」の異称で呼ばれもした。
 しかし終戦後の復興によっても昔の活気が思うように戻らなかった。

鏡花夫人 泉すず。芸者。泉鏡花(1873~1939)の妻。旧姓は伊藤。芸者時代の名前は「桃太郎」。生年は1881年(明治14年)9月28日、没年は1950年(昭和25年)1月20日。享年は69歳。
 気風、容姿、身なりなどがさっぱりとし、洗練されていて、しゃれた色気をもっていること。
つくり つくられたようす。つくりぐあい。よそおい。身なり。化粧。
左棲 ひだりづま。和服の左の褄。(左手で着物の褄を持って歩くことから)芸者の異名。
趣き おもむき。物事での感興。情趣。風情。おもしろみ。あじわい。趣味。
異にする ことにする。別にする。ちがえる。際立って特別である。
山の手 市街地のうち、高台の地区。東京では東京湾岸の低地が隆起し始める武蔵野台地の東縁以西、すなわち、四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたりをいう。
花街 はなまち。芸者屋・遊女屋などが集まっている町。花柳街。いろまち。
闊歩 大またにゆっくり歩くこと。大いばりで勝手気ままに振る舞うこと
江戸情趣 江戸を真似するしみじみとした味わい。
殷賑 いんしん。活気がありにぎやかなこと。繁華
牛込銀座 「山の手の銀座」のほうが正確。山の手随一の盛り場。

 昭和二十七年、神楽坂はん子がうたう「芸者ワルツ」がヒットした。その名のとおり、神楽坂の芸者だという、当時としては意表をついた話題性も手伝っての大ヒットであった。
 日頃、料亭とか芸者とかに縁のない庶民を耳で楽しませてくれたが、現実に足を運ぶ客の数が増えたというわけではなかった。
 しかし近年、再び神楽坂が脚光を浴びている。
 マガジンハウス系のビジュアルな雑誌などで紹介されたせいか、レトロブームの影響か、若者の間で関心が強い。
 坂の上には沙門天で知られる善国寺があり、縁日には若いカップルの姿も見られるようになった。

神楽坂はん子 芸者と歌手。本名は鈴木玉子。16歳から神楽坂で芸者に。作曲家・古賀政男の「こんな私じゃなかったに」で、昭和27年に歌手デビュー。同年、「ゲイシャ・ワルツ」もヒット、一世を風靡するが、わずか3年で引退。生年は1931年3月24日、没年は1995年6月10日。享年は満64歳。
意表をつく 意表を突く。相手の予期しないことをする。
マガジンハウス 出版社。1983年までの旧名は平凡出版株式会社。若者向け情報誌やグラビアを多用する女性誌の草分け。
レトロブーム ”retro” boom。懐古趣味。復古調スタイル
縁日 神仏との有縁の日のこと。神仏の縁のある日を選び、祭祀や供養を行う日。東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治二十年以後で、ここ毘沙門天がはじまり。

①神楽坂は飯田橋駅から神楽坂三丁目へ上り、毘沙門天前を下る坂道である。
 坂の名の由来は、この坂の途中で神楽を奏したからだとも、筑土八幡市ヶ谷八幡など近隣の神楽の音が聞こえて来たからだともいう。
 町名はもちろん、この坂の名にちなむ。現在は六丁目あたりにまでを神楽坂通りと呼んでいる。

②明治十年代の後半、坂をなだらかにしてから、だんだん開けてきた。何よりも関東大震災の被害を殆んど蒙らなかったことが、大正末から昭和十年にかけての繁栄の原因であろう。

③現在でも黒板塀の料亭が立ち並ぶ一角は、昔の花街の佇いをそっくり残している。

山手(新宿)七福神の一つ。七福神のコースを列記すると、
畏沙門天(善国寺)→大黒天(経王寺)→弁財天(巌島神社)→寿老人(法善寺)→福録寿(永福寺)→恵比寿(稲荷鬼王神社)→布袋(太宗寺)
 である。

*鏡花の引用文の世界を垣間みたかったら、毘沙門天の露地を入った所にある居酒屋伊勢藤がある。
 仕舞屋風の店構えに縄のれんをさそう。
 うす暗い土間、夏は各自打扇の座敷。その上酒酔い厳禁で徳利は制限付き
 悪口ではなく風流を求めるならこれくらいのことは忍の一字。否、だからこそ、江戸情緒にもひたれるのだと、暮色あふれる居酒屋で一献かたむけてみてはいかが。

筑土八幡 東京都新宿区筑土八幡町にある神社
市ヶ谷八幡 現代は市谷亀岡八幡宮。東京都新宿区市谷八幡町15にある神社
蒙る こうむる。こうぶる。被害を受ける。
黒板塀 くろいたべい。黒く塗った、板づくりの塀。黒渋塗りの板塀。防虫・防腐・防湿効果がある。
佇い たたずまい。その場所にある様子。あり方。そのものから醸し出されている雰囲気
仕舞屋 今までの商売をやめた家。廃業した家。しもたや。
縄のれん 縄を幾筋も結び垂らして作ったのれん。縄のれんを下げていることから、居酒屋、一膳飯屋などをいう語
 おもむき。味わい。面白み。
打扇 うちあおぐ。うちあおぎ。扇やうちわなどを動かしてさっと風を起こす。
徳利は制限付き 「徳利」はとっくり、とくり。どんなふうに「制限付き」なのか不明。現在は制限がない徳利です。
暮色 ぼしょく。夕暮れの薄暗い色合い。暮れかかったようす。
一献 いっこん。1杯の酒。お酒を飲むこと。酒をふるまうこと。

尾崎紅葉旧居跡(360°VRカメラ)

 平成28年、新しく説明文がでました。これは新しいものです。なお「十千萬堂」は、この説明文では「とちまどう」となっていますが、やはり「とちまんどう」でしょう。ここだけは「とちまんどう」としています。

新宿区指定史跡
 ざき こう よう きゅう きょ あと
所 在 地 新宿区横寺町47番地
指定年月日 昭和60年3月1日


 この地は、小説家の尾崎紅葉(1867~1903)が、明治24年(1891)から明治36年(1903)10月30日に亡くなるまで12年間暮らし、代表作「金色こんじきしゃ」など多くの作品を執筆した場所である。
 紅葉は、本名を徳太郎といい、江戸の芝中門前町(現在の港区浜松町)に生まれた。東京府第二中学や三田英学校で学び、明治16年(1883)大学予備門に入学、同18年にはやまみょうらと硯友社けんゆうしゃを結成、回覧雑誌『らくぶん』を発行した。同21年には帝国大学法科大学(現在の東京大学)政治科に入学、翌年には文科大学国文科に移るが同23年に退学した。在学中から読売新聞社に入社し、「きゃまくら」「三人妻」などを連載して人気作家となり、やがて明治めいじ文壇ぶんだん重鎮じゅうちんとして幸田こうだ露伴ろはんとともに紅露こうろ時代じだいを築いた。
 紅葉は鳥居家の母屋を借りて居住したが、自らの号でもある「まんどう」と称した。二階の八畳と六畳を書斎と応接間にし、一階にはいずみきょうら弟子が起居したこともあった。当時の家屋は戦災により焼失したが、鳥居家には今も紅葉がふすまの下張りにした俳句の遺筆が保存されている。
 平成28年3月25日

新宿区教育委員会

湯島の境内①|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花氏の『婦系図』「湯島の境内」からです。「湯島の境内」は小説「婦系図」(1907年)では入っておらず、戯曲「婦系図」(1914年)で新しく加わりました。戯曲の山場のひとつです。この原本は岩波書店「鏡花全集 第26」(第一版は昭和17年)から。なお、早瀬主税ちからは書生で、主人公。お蔦は内縁の妻です。

早瀬 おれこれきりわかれるんだ。
お蔦 えゝ。
早瀬 思切おもひきつてわかれてくれ。
お蔦 早瀬はやせさん。
早瀬 …………
お蔦 串戯じょうだんぢや、――貴方あなたささうねえ。
早瀬 洒落しゃれ串戯じょうだんで、こ、こんなことが。おれゆめれとおもつてる。
 〽あとには二人ふたりさしあひも、なみだぬぐうて三千歳みちとせが、うらめしさうにかほて、
お蔦 真個ほんたうなのねえ。
早瀬 おれがあやまる、あたまげるよ。
お蔦 れるのわかれるのッて、そんなことは、芸者げいしやときふものよ。……わたしにやねとつてください。つたにはれろ、とおつしやいましな。
  ツンとしてそがひる。
早瀬 おつた、おつたおれけつして薄情はくじやうぢやない。
お蔦 えゝ、薄情はくじやうとはおもひません。
早瀬 ちかつておまへきはしない。
お蔦 えゝ、かれてたまるもんですか。

三千歳 みちとせ。歌舞伎舞踊で、片岡直次郎と遊女三千歳の雪夜の忍び逢いをうたう。
そがい 背向。後。後ろの方角。後方。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈⑥

文学と神楽坂

   紅葉十千万堂跡

 飯塚酒店藝術倶楽部の思い出を右にしてそのまま南へまっすぐに横寺町を歩くと、左に箪笥町への道がわかれ、その先は都電通りに出る。その道の右側に大信寺という罹災した古寺があり、その寺の裹が丁度ちょうど尾崎紅葉終焉の家となった十千万堂の跡である。十千万堂というのは紅葉の俳号で、戦災焼失後は紅葉の家主だった鳥居氏の住宅が建てられた。その表入口は横寺町の通りにあって、最近新らしく造られた鉄製の透し門の中に、新宿区で今年の三月に新らしく建て直したばかりの「尾崎紅葉旧居跡」と書いた、史跡でなく旧跡の木札標識がある。そこへ入った奥の左側の、鳥居と表札のある家の屋敷内が、ほぼ十千万堂の跡に当る。
 紅葉が祖父の荒木氏と共に横寺町四十七番地にそれぞれ隣りあわせて一軒ずつの貸家を借りて住みついたのは、明冶二十四年二月頃である。
 明冶二十二年の新著百種第一冊『二人比丘尼色懺悔』が作家としての出世作となった紅葉ではあったがすでにその頃は硯友社を率いる新進作家と云ってよかった。樺島喜久を妻に迎えたのは明治二十四年三月、横寺町に移って間もなくの二十五歳のときである。

都電通り 大久保通りです。
大信寺 新宿区横寺町にある浄土宗寺院です。図では赤い矢印。詳しくはここに

終焉の家 図では「尾崎紅葉旧居跡」です。
今年 昭和44年です
木札標識 現在は「新宿区指定史跡」になりました。詳しくはここで
新著百種 1889年に吉岡書籍店で刊行しました。
二人比丘尼色懺悔 ににんびくにいろざんげ。尾崎紅葉氏の出世作。ある草庵に出逢った2人の尼が過去の懺悔として語る悲しい話。

 泉鏡花が紅葉門人第一号として入門したのもその年十月で、鏡花は先ず尾崎家の書生として同居し、明治二十七年には父の死を迎えて金沢に帰郷し、貧苦の中に「義血侠血」などを書いた期間もあったが、大凡二十八年二月まで、約四年間を紅葉の許で薫陶を受けた。鏡花につづいて柳川春葉小栗風葉徳田秋聲などが硯友社の門を潜って紅葉に師事し、やがて鏡花、秋聲、風葉は次代の文壇に新風を捲き起すと共に、紅葉門の三羽烏とも呼ばれるようになった。そのうちの小栗風葉が中心となって、十千万堂裏の、少し低くなった箪笥町の一角に文学塾が開かれたのは明治三十年十二月からである。
 紅葉は入門者があると一時この文学塾に入れるのが常であった。その塾では秋聲も明治三十二年二月に筑土八幡下に移るまで梁山泊のような生活をしたことがある。
 明治三十年一月から三十五年五月に亙り読売新聞に継続連載し、三十六年一月から三月までは「新小説」にその続篇を書きつづけた『金色夜叉』を最後に、紅葉が胃癌のために歿したのは明治三十六年十月三十日で、まだ三十七歳の若さであった。だがその死は悟りに徹したともいえる大往生で、「死なば秋露のひぬ間ぞ面白き」という辞世の句をのこしている。

義血侠血 旅芸人の女性がある青年を金銭的に援助する。その女性がある男性を過失で殺し、検事になった青年が断罪する。最後は2人ともに自殺で終わる。「瀧の白糸」の原作。
大凡 おおよそ。細部にこだわらず概略を判断する。だいたい。大ざっぱに。およそ。
薫陶 人徳・品位などで人を感化し、よい方に導くこと。香をたいて薫りを染み込ませ、陶器を作り上げる意から。
文学塾 十千万堂塾、または詩星堂。詳しくは徳田秋声の「‎光を追うて」で
梁山泊 りょうざんぱく。中国山東省済寧市梁山県の沼。『水滸伝』ではここに住む人々を主人公とした小説。転じて、豪傑や野心家の集まる場所。
金色夜叉 『読売新聞』連載。未完。鴫沢しぎさわ宮はいいなずけである一高生のはざま貫一を捨てて富豪の富山と結婚する。貫一は復讐のために高利貸の手代となる。
ひぬ 干ぬ。乾く。

 わたくしが昭和二十六年にはじめて紅葉住居跡をたずねたときは、秋聾が昭和八年に書いた「和解」という小説に、K(鏡花)と共にその附近を久しぶりに歩いたことがほぼ事実通りに書かれているので、それを頼りに焼け跡の大信寺で横寺町四十七番地の紅葉住居跡を尋ねると、中年の婦人が紅葉の大家でもあったという寺の裏の鳥居という家を教えてくれた。
 鳥居家は焼け跡に建てられたばかりの、まだ新らしい家であったが、紅葉歿後の十千万堂のことを知る老婦人がいて、昔の玄関や母家の在り方まで詳しく語った。紅葉遺著の『十千万堂目録』の扉に描かれている玄関口の簡単なスケッチなどを記憶して訪れたわたくしに、玄関前の木はモチの木で、その木は戦災で焼けたが、根株だけはまだ掘らずに残しているからと、わざわざ上土を取り除けてその黒い根株を見せてくれたりもした。
 そして十千万堂の襖の下張りから出て来たという、よれよれに痛んだ鳥の子紙の一枚には、「初冬や髭もそりたてのをとこぶり 十千万」、もう一枚には「はしたものいはひすきたる雑煮かな 十千万堂紅葉」と、紅葉の癖のある書体でまだ下書きらしい句が一つずつ書かれていた。それをやっとのことで読むと、紅葉葬儀の写貞や「尾崎德太郎」と印刷した細長い洒落た名刺一枚なども奥から出して見せてくれた。……
 あれから十八年が過ぎていると思うと歳月のへだたりはすでにはるかだが、十千万堂跡が新宿区の旧跡に指定されて見学者が多くなっているほかは、鳥居家の容子もあまり変らず、老婦人もさすがに頭髪はうすくなり白いものもふえているが、依然として元気で、久しぶりに訪れたわたくしをよく覚えていて、快く迎えてくれた。

根株 ねかぶ。木の切り株。
上土 うわつち。表面の土。
下張り したばり。ふすま屏風びょうぶなどの下地。
初冬や髭もそりたてのをとこぶり 初冬や髭剃りたての男ぶり
はしたもの 端者。半者。召使いで、身分は中程度。それほど身分の低くない召使いの女。
いはひ 祝い。めでたい出来事を喜ぶこと。
へだたり 隔たること。その度合い。
容子 様子。外から見てわかる物事のありさま。状況。状態。身なり。態度。そぶり。

弁天坂|箪笥町

文学と神楽坂

 大久保通りに弁天坂という坂があります。例えば、江戸時代の「町方書上」では

同所南蔵院前脇、町内入口小坂弁天坂、是南蔵院地内名高弁才天安置有之、右故里俗唱來り候哉、縁(起)旧記等無御座候

 小さい坂というのもちょっと違うんでは…と考えますが、拡大する前の道路を考えると、まあ、これもありかぁと思います。

 明治20年ごろの拡大図では

 大久保通りの一部に弁天坂があります。また「新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、1906)では

南藏院なんぞうゐんまへより市廛への入口に坂あり、辨天坂べんてんざかといふ、是、南藏院に辨天堂べんてんだうあるに因りて得たる名なり。

市廛 してん。町にある店。店のある町。市街地。

 横井英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)では

新宿区箪笥町、南蔵院前を山伏町のほうへ上る坂。南蔵院には弁天堂がある。

 山伏町は西にありますので、これは正しいと思います。ところが、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

弁天坂(べんてんざか) 芥坂ともいった。箪笥町の南蔵院前旧都電通り、箪笥町四二番南蔵院の道向いを横寺町の南西部に上る小坂。「府内沿革図書」についてみると、この坂は延宝年中から段坂で、現在と形があまり変わらない。(中略)
その境内に弁天堂があったのが、弁天坂のよび名になったものである。その弁天堂は本尊として尊崇されていたが、戦災後は再建されない。

 これでは弁天坂と袖摺坂を混同しています。これでは袖摺坂と全く同じです。

 東京都も弁天坂の標識をつくっています。ちょうど南蔵院の反対側です。内容は…

 坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には、南蔵院門前にあまざけやおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子が描かれている。
 坂上近くの横寺町四十七番地には、尾崎紅葉が、明治二十四年から三十六年十月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花小栗風葉が玄関番として住み、のちに弟子たちは庭つづきの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称した。

 また「新修新宿区町名誌」(新宿歴史博物館、平成22年)では

南蔵院前脇から町内入り囗への坂は南蔵院に弁財天が安置されていることから、弁天坂と呼ばれる。(町方書上)。

 以上、現在、弁天坂と考える坂は、大久保通りの一部だと考えています。