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思い出はいつも光とともに|川村克己

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文学と神楽坂

川村克己氏

『ここは牛込、神楽坂』第4号で川村克己かつみ氏が津久戸小学校のことを書いています。
 川村氏はフランス文学者で、1945年、東京帝国大学仏文科を卒業し、立教大学教授を勤め、退職後は新潟産業大学副学長。生年は1922年3月13日、没年は2007年6月14日。享年は満85歳。

 思い出はいつも、光とともにあった。遥か遠くに去った日々が、時折りきらりと光るきらめきを送ってくる。そして失われた時の風景がよみがえる。
 その日、いつも明るいはずの教室には、どんよりとした薄暗い光が重苦しく淀んでいた。いつもは優しい西林先生が、いかめしい顔つきで立っていられる。宿題をやってこなかったひとは立ちなさいと言われ、おずおずと立ち上がった僕の眼には涙が惨み出てきた。
 前の日、学校から帰るとランドセルを放り出し、宿題はないのという母の声をふり切って、毘沙門さまに日暮れまで遊びに出かけてしまったのだ。
 お使いに行かされたのでと言い訳にもならぬ言い訳をか細い声で言ったのに対し、「一日中お使いしていたわけではないでしょう」と問いつめるきびしい声が返ってきた。先生の姿は、灰色のバックに黒々と浮かんで、あふれる大粒の涙の中にゆれる影となって見えなくなった。木造だった校舎の一階の、一年生の教室は、悲しい光に満ちていた。
          §
 雨が降るとそのゆるやかな小松石の石段は、鮮やかな緑色に光るのだった。そこをぴちゃぴちゃとはねをあげながら走り降りるのが好きだった。
 神楽坂をのぼりつめると右側に、木村屋というパン屋さんがある。その先は細い路地をへだてて、太白飴名代とする宮城屋があり、その次が古めかしい作りの筆墨を商う魁雲堂という店があった。この筆屋が僕の育った家である。
 その頃、折れそうに痩せこけた少年の僕は、いつも遅刻しそうになりながら、パン屋と飴屋の間の路地に駆け込み、突き当たって右に折れる。置屋の並ぶその道が、やがてゆるやかに下る石段となる。いつもはくすんだ色のその石段が、雨に濡れると装いを凝らしたグリーンの色となり、この僕になにかわからない言葉で、語りかけてくるのだった。
 段をおりきって、これもさして広くない道へ出る。そこを左に折れて、真っすぐに、だらだらと下ると、われらが津久戸小学校の門に行き着く。
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 新学年のまだ馴染めない教室だけれども、華やいだ光に満ちている。校庭をとりまく桜の木が、咲き乱れる花をつけて、その枝が二階の僕たちの教室の窓際にまでのびている。
 その明るい教室の教壇のわきに見なれない少年が立っている。転校生として先生が紹介されたその子は、僕の前の席に座った。櫛田克己という名で、僕と同じ名なので、すぐ仲良しになった。しかし、何ヵ月かたつと、彼の姿は消えてしまった。また引っ越していったらしい。中学に入ったら、その櫛田と再会し、肴町の鳥肉屋の息子、重田功もまじえ、この三人は長く友達としてつき合った。先年櫛田はこの世を去り、残された二人は、淋しい思いを抱きながらも、時折出会って懐かしさを反芻している。
太白飴

太白飴

小松石 箱根火山の溶岩が急速に固まった安山岩で、特に神奈川県真鶴町でとれるのを「本小松石」という。石の表面を研磨すると、緑がかった灰色の輝く美しい石肌がでる。
はね 跳ねる。はずみをつけて飛び上がる。跳躍する。
太白飴 たいはくあめ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴。
名代 なだい。評判が高いこと。名高いこと。
宮城屋 宮城屋は下図の右から2番目

大正11年頃の「豊島理髪店」から「パン木村ヤ」まで。(「古老の記憶による関東大震災前の形」昭和45年。新宿区立図書館資料室紀要4。「神楽坂界隈の変遷」新宿区教育委員会)

大正11年頃の「豊島理髪店」から「パン木村ヤ」まで。(「古老の記憶による関東大震災前の形」昭和45年。新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」新宿区教育委員会)

置屋 おきや。芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。芸妓屋。芸者屋。
津久戸小学校 明治37年に開校。酒問屋の升本喜兵衛氏がこの学校を寄付。
櫛田克己 くしだかつみ。朝日新聞の学芸記者。
肴町 現在は神楽坂五丁目
重田功 久保たかし氏が書いた随筆「ふるさと神楽坂」(大久保孝、1994年)で、「重田功」の名前が出てきます。それを除くと、なさそうです。

 私と津久戸小学校の同級生で、早稲田中学へ行った人達は多かった。
 その中で、川村克己君(立教大学の文学部教授でフランス文学者、その後柏崎市にある新潟産業大学の教授になり、今は副学長)、重田功君(サラリーマンを定年でやめたあと、今は横須賀で自然破壊に敢然と立ち上がり、運動を行っている)、櫛田克己君(故人櫛田民雄氏と櫛田ふきさんの息子。朝日新聞の記者として、大佛次郎さんが「天皇の世紀」を執筆されるに当って、つきっきりでお世話をした人として有名)のトリオは、まことにうらやましい仲であった。
 後年、川村、重田の両君がその想い出を書いておられる。

東京大空襲と神楽坂1

文学と神楽坂

 第二次世界大戦の東京大空襲で、神楽坂の被害は桃色の範囲で起こり、逆に白色には大きな被害はありませんでした。これは日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)です。神楽坂は焼け野原になり、焼けていない建物は三菱銀行と津久戸小学校だけでした。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

 さらに「新宿区地図集」(新宿区教育委員会、昭和54年)と「語りつぐ平和への願い-新宿区平和都市宣言5周年記念誌」(新宿区、平成4年)で、黄色や桃色は被害はあり、白色はなかった場所です。

新宿区地図集新宿区平和都市宣言5周年記念誌
「新宿区地図集」(左図)と「語りつぐ平和への願い-新宿区平和都市宣言5周年記念誌」(右図)

早乙女勝元『東京空襲写真集-アメリカ軍の無差別爆撃による被害記録;決定版』東京大空襲・戦災資料センター。勉誠出版。2015年

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第7号の「街の宝もの」で高橋春人氏は、

戦災の神楽坂を見る『戦災の神楽坂を見る』(作品①)という絵は、昭和二十年八月二十八日、終戦直後に復員してきたときに描いたもの。坂上右側の三角形の壁は、いまも坂の途中にある木村屋パン屋の跡で、左側の四角い建物は三菱銀行。右側の方にある黒い木は、本多横丁の裏手にあった大銀杏いちょうで、これはその後生き返ったとか。
『燃える牛込台地』(作品②)。これは昭和二十年の三月十日の空襲のとき、外濠の土手から向うが燃えるのを描いたものです。この夜、東京は大空襲を受けて、まず下町のほとんどがやられた。この付近も、靖国神社方面から富士見町、お濠を越えて市ヶ谷田町…という経路で被爆していったんです。私はそのとき富士見町にいて、最初は状況判断ができず、後で考えれば焼夷弾の落とされた弾帯の道筋にそって逃げていたんです。女房と一緒で、やっと靖国神社の裏手を通って新見附方面の土手公園に出てきたら、向いの牛込台地が燃えていてね。あのあたりの屋敷町には立木が多くて、火の手が梢から梢と、走るように燃え移っていくんです。
 明け方、戻ってみると、家は燃え落ちていて、自分の部屋にぎっしり積んであった本や資料がそのままの形でまだ炭火のように真っ赤に燃えていた。その後、警察病院の方まで歩いてきたら、顔が焼けただれた高射砲隊の兵隊たち(後楽園球場に陣地があった)が、トラックで病院に運びこまれてきて。大通りには消防車が焼けてころがっていて………。神楽坂の大通りには、有名な料亭の金蒔絵の食器などが山積みにされ「お好きな品をさしあげます」という立て札が立っていたけれど、持っていく人は誰もいなかった。私はその三日後に、吉祥寺の成蹊大学にあった陸軍第一航空軍司令部に応召、そこで終戦になって帰ってきたわけです。

 水野正雄氏は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「神楽坂を語る」で

 (復員のため)二十二年四月に名古屋に上陸しました。上陸したら東京の空爆した場所の地図等が出ていて、神楽坂は全滅でした。名古屋から東海道線の夜行に乗って、当時六円のおにぎりを買いました。もらったお金は三百円。そのうち百五十円を名古屋出るときにもらいました。飯田橋の改札で復員切符を見せて渡そうと思ったら、鉄道員が「お家ありますか?」と聞くので、「多分ありません」と答えると、切符を持って行けばどこまでも行けるからと切符を返してくれました。六年経って帰ってきたが、もう何もない。毘沙門の隣の三菱銀行が半分傾いてあるだけで、他は何もありませんでした。この付近の人たちは道の両側に各自の防空壕を掘って暮らしていました。小さい防空壕がいっぱいあったんです。それから津久戸小学校が少し残っていました。あと建物は三菱銀行と津久戸小学校だけ残っていました。助六のおやじさんから閧いて後からわかったことだけど、外堀飯川堀の方が半分埋まっていて、そこに材木屋だとか神楽坂警察署を建てました。屋根だけが出ているような状態で神楽坂警察署ができていました。神楽坂警察は屋根が低くて、麹町方面から来た火事を逃れて助かっていました。戦後の商業地には闇屋が出てきていたが、警察が健在なので、みんな捕まっちゃって神楽坂の発展がかえって遅くなってしまったそうです。

 戦災は神楽坂警察署にはなかったようです。神楽河岸は残り、最初の図でも戦災はなかったようです。

 神楽坂出身の竹田真砂子氏は「綱子の夏」(小説新潮、1998年7月号、日本文藝家協会「現代の小説1998」徳間書店、1998)で

 一ヶ月後、ともかくも様子を見て来ると、秀樹を母親に頂け、リュックサックに、とうもろこしとトマトとひまわりの種をつめて、綱子は上京した。
 満員の汽車を乗り継ぎ、以前なら四時間たらずのところを、六時間かけて到着すると、神楽坂は一面、焼野原になっていた。
 坂の両側に軒を連ねていた商店も、瀟洒(しょうしゃ)(たたずま)いを見せていた料亭の、洗い出しの板塀もない。横丁も小路も瓦礫(がれき)に埋もれて方角さえ分らず、自分の家がどの辺に建っていたのか、見当もつかなかった。
 わずかに、焼け焦げたコンクリートの肌を哂して形を(とど)めている小学校と銀行の位置を確かめて、この辺と思う所に行ってみる。と、思いがけないことに、その一画には焼け木杭(ぼっくい)が何本か打ちこんであり、あり合わせの板きれに書き記した『一新松所有地』の札が立っていた。綱子は、ぼんやりと、その木札を眺め、重 いリュックサックを背負ったまま、しばらくそこに佇んでいた。
「あれぇ、お綱姐さんじゃありませんか」
 突然、後から声をかけられた。綱子が振向くと、顔見知りの男が立っていた。
「やだ、鶴さんじゃないの。まあ、あなた、生きててくれたのね」
 声が、どんどん元気になった。
 鶴さんは、花柳界の事務局である見番(けんばん)で働いていた男衆(おとこし)だった。女房子は疎開させたが、自分は見番の管理室に寝泊りしていて空襲にあい、九死に一生を得たのだという。
「よくぞご無事で」
 涙ぐむ綱子に、改めて鶴さんは頭をさげ、
「姐さんもご無事でなによりでした」
 大粒の涙をこぼした。

洗い出し アライダシ。板の表面をこすり、洗って木目(もくめ)を浮き出させたもの。
男衆 おとこしゅう。おとこしゅ。おとこし。男の人たち。男の奉公人。