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外濠線にそって|野口冨士男①

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆『私のなかの東京』のなかの「外濠線にそって」は昭和51年10月に発表されました。氏は65歳でした。ここでは神楽坂と周辺に関する前半の1部分を読もうと思います。

     外濠線にそって

 せめてもう三、四年早く生まれていたかったとおもうことがしばしばある。
 大正十二年九月一日の関東大震災のとき私は小学校の六年生であったが、中学の三、四年生になっていたら、もっと震災前の束京のあちらこちらを見ていただろうとくやまれてならない。
 本書では、明治以後の文学作品と私の記憶のなかにある過去の東京の姿に、可能なかぎり現状の一端などを織りまぜていってみたいとおもうのだが、ひとくちに東京といっても、あまり広大すぎてとらえようがない。げんに今から二十年ほど以前に出版した自作のなかでも、私はのべている。

東京ほど広い都会もないが、東京の人間ほど東京を知らぬ者もすくないのではなかろうか。ぼくらが知っているような気になっている東京とは東京のきわめて一小部分の、そのまたほんの一小部分にしか過ぎない。たまたまぼくらはなんらかの機会をあたえられて幾つかの町を知る。そして、その知っているだけの町を幾つかつなぎ合わせたものが、ぼくらの頭のなかで一つの東京になっている。ぼくの知らない町を知っていて、ぽくの知っている町を知らない人の頭のなかにある東京と、ぼくの頭のなかにある東京は一つの東京ではない。

 ことに私は山ノ手生まれの山ノ手そだちで、浅草の観音さま花屋敷両国の川開き洲崎沖の投網などにも親に連れていかれたことはあっても、ひとり歩きをしたのはほぼ山ノ手につきている。ただ、私は神楽坂に住んで芝の小学校へかよっていたから、自分と同年の少年たちにくらべれぱ、なにほどか広い東京を知っていたといえるだろう。
 大正七年に私が入学した小学校は慶応義塾の幼稚舎で、現在では天現寺に移っている幼稚舎はまだ三田の大学の山の下にあったために、飯田橋から市ケ谷、四谷、赤坂、虎ノ門を経て札の辻に至る系統の市電――のちに都電三号線となった外濠線を毎日往復していた。しかも牛込から芝までといえば、旧十五区時代のせまい東京市の南北縦断の全長にちかい距離であった。
 まずその沿線を軸として、気ままに道草を食いながら書きはじめていってみることにしよう。

*

 飯田橋から芝の方角にむかう市電の外濠線には、二系統あった。一つは私が乗った札の辻行で、他の一つは芝口行であったが、前者は虎ノ門から右折して三田の方面にむかって、後者は新橋駅方向へ真直ぐ走った。が、芝口という地名も、こんにちではわからなくなってしまっているらしい。二、三年前に、私は芝口をある雑誌で「芝国」と二ヵ所も誤植された。東海道五十三次の起点日本橋から第一宿の品川へむかうとき、そこで芝へさしかかるから芝口だったわけで、いま高速道路の下に形だけのこっている新橋芝口橋ともよばれていた。

 引用の元は分かりませんでした。国立図書館などで調べなくては解らないのでしょう。これ以外の注釈は以下に書きました。

 

外濠線

昭和7年の外濠線

外濠線 「そとぼりせん」と読みます。最終的には外濠線は都電三号線と同じで、都電の「品川駅前」から「飯田橋」を結ぶ路線でした。しかし昔の外濠線では違う地域を指している場合もあります。
山ノ手 区部西半の地域。武蔵野台地東端で下町に対する俗称。本来は山手線の内側の住宅街を形成する地域
浅草の観音さま 浅草寺。台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺。聖観音宗の総本山。山号は金龍山
花屋敷 台東区浅草二丁目にある遊園地
両国の川開き 川開きとは夏に水辺で行う納涼祭のこと。両国では屋形船や伝馬船が川を埋め、両岸には人垣ができてはなやかに花火が打上げられていました。現在では「隅田川花火大会」のこと
洲崎 江東区木場東隣一帯の通称。元禄年間(1688~1704)埋め立てでできました。
投網 円錐形の袋状の網のすそにおもりを付け、魚のいる水面に投げて引き上げる漁法
芝の小学校 芝区(現在の港区)の慶應義塾幼稚舎です
天現寺 渋谷区恵比寿。慶應義塾幼稚舎の西には都立広尾病院があります。
札の辻 ふだのつじ。港区芝5丁目で田町駅西口の地区。札の辻とは、江戸幕府が法令などを公示する高札を立てた道のこと。この制度は明治6年に廃止。札の辻の市電系統図では下部に書いています。
二系統 外濠線が都電三号線と同じ場合は、外濠線は1系統しかありません。ところが、この路線はそれよりも以前にかかっていたものなのです。実際に昭和7年の東京市電では「飯田橋」から出て、「札の辻」に行く路線と、「三原橋」に行く路線がありました。
芝口 しばぐち。交差点「新橋」のこと。上の市電系統図では右方に。下図では外堀通り、昭和通り、中央通り、第一京浜が1つに交わる場所。

新橋

新橋

虎ノ門 三田 新橋駅 以上は上の市電系統図で。
新橋 新橋は銀座通り南端の汐留川にかかる新橋8丁目の橋。「土橋」より新しい橋だから「新橋」
芝口橋 しばぐちばし。江戸時代は「新橋」を「芝口橋」と呼びました。

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文学と神楽坂

 もうひとつかきそえておきたいのは例のパンの会のことである。パンの会は僕らの青春の旗みたいなものである。野田宇太郎君の好著「パンの会」の記述は、まことにきれいごとでけつかうだが、やはりあらゆる芸術運動がさうであつたやうに内部的には感情の疎隔や嫉妬反ぜいがあつた。木下杢太郎君や石井柏亭君のやうなユニークな存在がなかつたらあんなけんらんとした足跡を大正芸術史に残したかどうか疑がはしい。
 今思ひ出してもパンの会の帰りが凄まじかつた。みんな泥酔して深夜の街頭を放浪して歩く。女郎屋へでもいかなけりや興奮の捨て場所がない。吉井勇君はその晩洲崎の遊廓へいきたがつて、味噌ッかすのぼくに金を出せとおどかす。たつた十三銭しか残つてゐなかつたので正直にそつくり出すと吉井君は忽ち例の無頼漢と化していきなりぼくの手をひつぱたいた。
 僕もさうさう卑屈になつてはゐられないのでやにはに彼を路上へ突き倒して下駄でぶンなぐつた。杢太郎君がとんできてひき分けてくれる。
 いつの間にか別れ別れになつて、僕は北原白秋君と二人ッきりになつてしまつた。白秋は腰がぬけちまつてやたらところぶ。ころびながら「空に真紅な雲の色」を胴間声で歌つては、おい幹彦ッ、おれを家までおぶつて帰れッといばりくさる。僕は唯々だくだく路傍にあつた荷車へ彼をのせて懸命に引つぱつていつた。白秋家は神楽坂下なのでいくら若い臂力でもそこまで曳いていけるものぢやない。途中でほッたらかして遁げようとすると白秋はおいおい泣きだして、幹彦お前はいい奴だ、おれを捨てるなとかじりついてきて生温い舌でぺロペロなめる。
 僕も胸がいつぱいになつてやつと人力車を一台さがしてそれへ乗せて帰してやつた。街燈の光で彼の財布をしらべてみると、なんと彼は三円なにがしか隠しもつていやがるのである。車代を先払ひしてあとは僕がねこババきめてやつた。

反ぜい はんぜい。反噬。動物が恩を忘れて、飼い主にかみつくこと。転じて、恩ある人に背きはむかうこと。恩をあだで返すこと
石井柏亭 いしい はくてい。版画家、洋画家、美術評論家。生年は1882年(明治15年)3月28日。没年は1958年(昭和33年)12月29日
けんらん 絢爛。華やかで美しい。詩歌や文章の表現が、豊富な語彙や凝った言い回しなどで美的に飾られていて、華麗な印象を与える様子。
洲崎 すさき。東京都江東区東陽一丁目の旧町名
味噌ッかす みそっかす。味噌っ滓。子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。
空に真紅… 白秋の「邪宗門」のなかにある詩です。玻璃は「はり」と読み、ガラスのことで、ガラス製の器に酒を注いだ事を意味します。またこの詩はパンの会の会歌にもなっています。

 「空に真赤な」
(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。
玻璃(はり)真赤(まつか)(さけ)(いろ)。
なんでこの()(かな)しかろ。
(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。
   明治四一年五月作

胴間声 どうまごえ。調子はずれの太く濁った下品な声。
唯々だくだく 唯唯諾諾。いいだくだく。 何事にもはいはいと従うさま。他人の言いなりになるさま
神楽坂下 神楽坂1丁目の全てと2丁目の部分。白秋はここに
臂力 ひりょく。うでの力

 僕だつて行きどころがないのだ。そこへあひにく阪本紅蓮洞が幽霊のやうに横町から現はれてきた。酔ひがさめてみると吉原の女郎屋の二階で寝てゐた。夜が明けてゐる。その時分吉井君たちと女郎屋へ泊ると紅蓮洞と版画家の伊上凡骨がいつも勘定の代りに居残りをさせられる。その朝はあの老残の紅蓮洞が可哀想になつて僕自身が始末屋へさがつた。始末屋といふのは札つきのコロンボがやつてゐる車宿のことである。勘定不足の客には入墨をしたあんちやんがダニのやうにくッついてくる。
 僕は本郷の質屋へいつて身ぐるみぬいで八円こしらへた。学生のくせに親父の洋服屋をだまかしてこしらへさせた自慢の背広を店先でぬいで、前に入れてあつた袷に着かへ革のバンドをしめてやつと家へ帰つた。
 その晩雷門前のヨカ楼で飲んでゐると高村光太郎君と市川猿之助君に逢つた。べろんべろんに酔つてまた吉原である。金が足りないのでワリ床といふやつである。びとつの部屋を古屏風で仕切つて寝るのである。夜が明けるまでカンカンガクガクの芸術論をたたかはしてゐるので、女郎たちが怒つて、女同士で寝てしまつた。やはり今のやうにさかんにパリを謳歌する時代だつたが、象徴派や後期印象派の論議ばかりでキンゼイ報告のやうなえげつない話はしなかつた、みづみづしかつたわけである。高村君はパリにゐた間この黄色い皮膚と高い頬骨が恥かしくて町が歩けなかつたなぞといつて、エクゾティシズ厶をかきたてた。
 僕は背広をなくしたので早稲田大学の制服をきてゐた。あの変テコな角帽が制定されたころで、あれを文学科で真先にかぷりだしたのは猿之助君と長谷川時雨の弟の虎太郎君と僕と三人であつた。

 酒と女では実に難行苦行したものである、谷崎潤一郎君が文化勲章をもらひ、吉井君が芸術院会員、高村君は高名な彫刻家、みんなずゐぷん年季を入れて古さびてしまつたもんである。
 今では名前も顔も忘れ果てたあの時分の一夜泊りの安女郎たちがもし生きてゐたらキラ星のごときお歴々の壮観にさぞかしおッ魂消ることであらう。
 それにしてもあの清純そのものであつた杢太郎君の姿が最前列にみえないのは何んとしてもさびしい。生きてゐたら第二の鷗外としてもてはやされたであらうのに。

伊上凡骨 神田の木版師。中沢、三宅氏等の水彩画を版画にし、ぼかしに長じていました。
始末屋 遊里で遊興費の不足した客を引き受け勘定を取り立てる商売
ゴロンボ ごろつき、ならずもの
車宿 くるまやど。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。
ヨカ楼 高村光太郎氏が書いた「ヒウザン会とパンの会」によれば

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、(よろい)(ばし)(わき)の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである

また、野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」で「よか楼」は

雷門前竝本通りにあつた三階建の塔のやうなレストラン

でした。細かくは東京紅團の「パンの会 -2-」で。
高村光太郎 高村光太郎たかむらこうたろう。詩人・彫刻家。1883年(明治16年)3月13日 – 1956年(昭和31年)4月2日。欧米に留学。ロダンに傾倒。帰国後、「パンの会」に加わり、「スバル」に詩を発表。岸田劉生らとフュウザン会を結成。詩集「道程」「智恵子抄」「典型」、翻訳「ロダンの言葉」、彫刻に「手」など
市川猿之助 いちかわえんのすけ。2世の歌舞伎役者。1888年(明治21年)5月10日 – 1963年(昭和38年)6月12日)。劇団春秋座を結成。多くの新舞踊・新歌舞伎を上演
ワリ床 割床。ワリドコ。何人もの人が屏風などで一室を仕切って寝ること。女郎屋で廻し部屋もふさがつている時、一つの部屋を屏風で仕切つて客を入れること
エクゾティシズ厶 exoticism。現在は「エキゾチシズム」のほうがよさそうです。異国趣味、異国情緒。異国の文物に憧れを抱く心境

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂