漱石山房」タグアーカイブ

漱石山房の推移3

漱石山房の名残り

 ところで、この一文の本当の目的は、この前芥川のことを書いたので、そのころ瞥見した漱石山房の推移をちょっとしるして置きたかったのである。というのは、たまたま漱石山房より数軒しか離れていない牛込弁天町の豊陽館という下宿屋に、ぼくは割りに長く下宿していて、始終その前を通っていたからである。
 “矢来の坂下から榎町通りを真直ぐいって、初めての十字路を左に柳町の電車の停留所の方へ折れ、少し行くと右に曲って弁天橋を渡る狭い路がある。これを少し行って、だらだら坂の途中の右手にあるのが、漱石の晩年に住んでいた、七番地のである”
 小宮豊隆の言っているこの家だ。
 ぼくが豊陽館に下宿したのは大正十一年頃で、その時はもう改築されていたが、早稲田に入った大正八年に初めてその前を通った時には、まだ大正五年に亡くなった漱石の在世の時の儘だった。狭い坂道に面して高く地盛りした上に、赤い新芽を持った青々としたカナメモチの低い生垣がつづき、その生垣越しに、芭蕉など植わっているちょっとした庭を隔てて書斎のガラス戸か光って見えた。が、さして広くない古ぼけたひら家で、その質素振りに驚いたものだった。

豊陽館 大正11年、東京旅館組合『東京旅館下宿名簿』では豊陽館は弁天町8にありました。下図で赤い丸が弁天町8に当たります
漱石の家 緑色の右端は矢来の坂下です。左の緑の丸は漱石の家です。青い色は川を示し、そこに弁天橋がかかっていました。
地図。昭和5年の牛込区全図。緑色は矢来の坂下から漱石山房の行き方。赤色は弁天町の豊陽館。ピンクは床屋。

昭和5年の牛込区全図の一部。

瞥見 べっけん。ちらっと見ること。
カナメモチ バラ科の常緑小高木。樹高は3~5m。
芭蕉 バショウ科の多年草。英名をジャパニーズ・バナナ。高さは2~3m。花や果実はバナナとよく似ています。耐寒性にあり、関東地方以南では露地植えも可能。主に観賞用。種子が大きく、タンニン分を多く含み、多くは食用には不適。

カナメモチとバショウ

カナメモチとバショウ

 ところか、改築されたものは、カナメモチの生垣は屋根を持った高い土塀にかわり、大きな冠木門の奥には、洋館もある宏壮な二階家がそびえ、すっかり見違えるように立派になっていた。ぼくはいささかがっかりしたものの、しかし、あたりの風物は、漱石在世当時とたいして変わっていないふうだったので、せめてそれを満足に思った。「硝子戸の中」に書かれている小さな床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていたし、漱石がそこの人力車によく乗ったという、薄汚い車宿も門のまん前に健在だった。ただ、この車宿の連中は改築に反感をもったのだろう、漱石未亡人のことを余りよくいわなかった。そのほか、「三四郎」を思いついた田中三四郎(石垣綾子さんのお父さんだという)いう家も、「彼岸過まで」の中の須永を思いついた須永という産婆の家も、まだ近所にあった。
 が、終戦後である。じつに久し振りでその小路を辿ったら、漱石山房はすっかり戦災で焼けうせ、白い安手の都営アパートがその跡に建っていて驚いた。片隅にコスモスがさき乱れていたが、そこに漱石の出世作「吾輩は猫である」の五輪塔の猫の墓が焼けただれて残っており、それが碌かに漱石山房の名残りをとどめているに過ぎなかった。
床屋

夏目漱石は『硝子戸の中』16で、

(うち)の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度そこで髪を刈かって貰った事がある。

と書いています。この文章の「床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていた」と一緒に考えると、前の図で桃色の四角の範囲に床屋はあったと考えます。

田中三四郎

 石垣綾子氏の『わが愛の木に花みてり』(婦人画報社、昭和62年)では

 わたし、生まれたのは市谷ですけれど、二歳になったとき、早稲田南町に移って、それから長く住むことになります。この町名はまだ残っていますね。あの頃はまだ庭にホタルが見られたくらいでしたけど、その辺は中産階級の住宅地として開けつつあった頃でした。ほんの三軒か四軒か先に夏目漱石のお宅があって、聞くところによると漱石は、わたしの父の“田中三四郎”という表札を見て、『三四郎』の主人公の名前にされたんだそうです。たぶん散歩姿なんかも目にしているんでしょうけれど、今みたいにマスコミで顔を知られる世の中じゃありませんから、わたし全然記憶はありませんね。ただ、お嬢さんの愛子さんとは早稲田小学校でど一緒でしたけど、あちらは背が小さかったし、わたしは高い方で席も離れてましたから、そう親しくはしていませんでした。でも、長女の筆子さんてかたは、わたしの姉と仲よしで、よく家にも遊びにいらしてたようですよ。
 で、この早稲田南町の家は、広い芝生の庭にひょうたん池があったんです。その辺りで姉とわたしは鬼ごっこするんですけど、姉は身軽に、その池のくぴれた辺りにある中島から向こうへ飛び移るんです。わたしはできないんですよ。立ち止まっちゃう。そうすると姉は、向こうの築山からわたしを見おろして、「のろまさん、捕まえてごらん」ってはやし立てるの。悔しかったものですよ。
早稲田南町の一部

早稲田南町の一部

 早稲田南町は漱石公園を含む広大な敷地です。ひょうたん池はまったくわかりません。また、同氏の『いのちは燃える』(偕成社、1973年)では

 早稲田(わせだ)南町のわが家から数軒(すうけん)さきに、夏目(なつめ)漱石(そうせき)(1867~1916年)のお宅があった。()(がき)をめぐらした屋敷で木の(しげ)る広い庭にとりかこまれていた。三百(つぼ)(約1000平方メートル)の、家賃三十五円の借家(しやくや)だということだが、うっそうとしていて暗く、神秘的(しんぴてき)(かん)じであった。(略)
 私の父は田中三四郎といって、漱石の『三四郎』という小説とおなじ名前である。漱石は散歩のとき、父の標札に目をとめて、『三四郎』の題名を思いついたということである。
 父は科学者で教育家であった。軍人の士官(しかん)を養成する幼年(ようねん)学校をふりだしに、岡山と山形の旧制高校で物理を教え、晩年は中央大学につとめた。八十七才で亡くなる直前まで、教壇を離れようとしなかった。
 家庭では五百坪(約1650平方メートル)の早稲田の家を支配する絶対の権威者(けんいしや)であった。私は父を尊敬はしても、厳格なその前ではびくびくした。言葉使いも、よそゆきのていねいさで話しかけなければならない。
昭和5年の牛込区全図。緑色は漱石が住んだ場所。青色はおそらく田中三四郎の場所

牛込区全図、昭和5年

 田中三四郎氏の建物は500坪で、漱石(緑色の場所)は300坪。これからすると、田中氏はたぶん青色で囲った場所(の一部)でしょう。

 一方、『ここは牛込、神楽坂』第10号(平成9年、1997年)で、河合正氏が「魚屋などが申し上げることではあるませんので……」では

 うちは創業が亨保十七年で、はじめは三河屋三四郎でしたが、その後肴屋三四郎を名乗るようになり、代々当主がその名を継いできました。
 漱石先生の『三四郎』とのことは昭和の終わり頃、毎日新聞にも出たことがありますが、そのときは肴屋風情が何をというようなお叱りがあちこちからきて。漱石先生には熱心な読者や研究者がいますからね。もうそのことには触れないことにしているんですよ。」

 これについて『ここは牛込、神楽坂』の編集部は

 ご主人はいかにも江戸っ子という感じの方で、お店は榎町交差点そば榎町児童館の隣。念のため毎日新聞で調べてもらいましたが10年以上前のことらしくわかりませんでした。『三四郎』の名は漱石の家の近くにいた田中三四郎(石垣綾子さんの父上とか)から思いついたという説がありますが、地方出の若者にご近所のご主人の名を?という疑問もあり、やはり近くの江戸前の肴屋三四郎さんに親近感をもって付けたというほうが妥当な気がします。
現在の地図。漱石公園(左下)と肴屋三四郎(右上)

現在の地図。漱石公園(左下)と肴屋三四郎(右上)

 で、漱石公園(左下)と肴屋三四郎(右上)です。かなり離れています。

 もし近所で名前をつける場合、私は単に近所で肴屋三四郎よりも田中三四郎のほうに軍配を上げてしまいます。

 また、漱石氏の卒業生に堀川三四郎という人もいました。これは明治38年4月10日の漱石氏から大谷繞石宛の手紙に出ています。三四郎のモデルはわからないといった方が正しいのでしょう。

都営アパート 都営アパートは区営の早稲田南町第3アパートになりましたが、29年7月に予定する「漱石山房記念館」の建設のため、解体されてしまいました。

冠木門 冠木を渡した、屋根のない門
車宿 くるまやど。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。車屋。

道草庵|漱石公園

文学と神楽坂

道草庵(みちくさあん)は漱石や山房の資料を展示しています。
正面には漱石の書籍が復刻本で7冊並んでいます。
復刻本
7冊について「春陽堂刊行『複製品』 夏目漱石著  橋口五葉 装丁」は全部同じです。

1.(うずら)(かご)   明治40年(1907)1月
『坊っちゃん』『草枕』『二百十日』の三篇を収めています
2.(くさ)(あわせ)   明治41年(1908)9月
朝日新聞に連載された『坑夫』と、「ホトトギス」に発表した『野分』の二篇を収めています
3.()()(じん)(そう) 明治41年(1908)1月
朝日新聞社に入社して最初に書いた作品です。連載中に、ここ漱石山房に転居して来ました。
4.(さん)()(ろう)  明治42年(1909)5月
『それから』『門』へと続く三部作の第一作。一人の青年を通じて当時の欧化主義を批判して注目されました。
5.()(へん)   明治43年(1910)5月
『文鳥』『夢十夜』『永日小品』『満韓ところヾ』という四篇の短篇や紀行文を収めています。
6.(もん)    明治44年(1911)1月
親友の妻を奪った主人公・宗助は、易者に過去の罪を指摘され驚きます。人の心の中に内在する罪の意識を描いた作品で、題名は小宮豊隆が命名しました。
7.()(がん)(すぎ)(まで) 大正元年(1912)9月
明治43年8月の修善寺の大患(胃潰瘍)を克服し、療養生活から復帰した漱石が、約2年ぶりに執筆した長篇小説。春陽堂からは最後の出版となりました。

橋口はしくち五葉ごようは版画家・装丁家で、明治14年(1881)~大正10年(1921)。 本名 橋口清。鹿児島市生まれ。鹿児島中学卒業後上京し、橋本雅邦に入門します。黒田清輝の白馬会研究所で洋画を学び、東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二らに師事しました。明治37年10月から、熊本で漱石に師事した実兄・橋口貢の推薦で「ホトトギス」に口絵・挿絵を掲載。翌年2月に『我輩は猫である』続編で挿絵を担当して漱石から賞賛され、単行本や「漱石山房」の原稿用紙のデザインを手掛けました。

また、壁のボードの正面は5枚並んでいます。左から
1.新宿ゆかりの明治の文豪 夏目漱石
2.主な作品
3.夏目漱石の生涯
4.漱石山房に集った人々
5.漱石山房に集った人々

新宿ゆかりの明治の文豪 夏目漱石
日本を代表する文豪「夏目漱石」は、慶応3年(1867)に牛込馬場下横町(現新宿区喜久井町)に名主の末子として生まれました。松山・熊本、英国留学など経て、大正5年に現在の新宿区早稲田南町の「漱石山房」で生涯をとじました。
英国留学を終えて帰国後、「吾輩は猫である」「坊っちゃん」などを発表し、山房に移ってから「三四郎」や「それから」「門」「こころ」、そして最後の作品となる「明暗」(未完)など多数の作品を執筆しました。
山房は空襲で全焼し、現在、その跡の一部が漱石公園となっており、猫塚や漱石の胸像などがあります。
2007年に夏目漱石の生誕140年を迎えるにあたり、新宿ゆかりの文豪「夏目漱石」と、住まいとなった「漱石山房」を皆様にご紹介したします。
主な作品
発表年  執筆年齢     作品
1905年   37歳     『我輩は猫である』
      37歳     『倫敦塔』
1906年      39歳     『草枕』
      39歳     『坊っちゃん』 
       39歳     『二百十日』
1907年   39歳     『野分』
漱石山房で執筆した作品 
*漱石が早稲田南町の家(のちの漱石山房)に引越したのは、1907年9月。
       40歳     『虞美人草』  
 1908年   40歳     『坑夫』    
        41歳     『夢十夜』   
        41歳     『文鳥』    
        41歳     『三四郎』   
 1909年    42歳     『それから』  
 1910年   43歳     『門』     
 1912年   44歳     『彼岸過迄』  
          45歳     『行人』    
 1914年   47歳     『こころ』   
 1915年   47歳     『硝子戸の中』 
       48歳     『道草』    
 1916年   49歳     『明暗』(未完)

夏目漱石の生涯。ここにはいろいろな活動を書いていますが、ここは写真だけ。(ダブルクリックで拡大)。テキストは別のHTMLで。

「漱石山房に集った人々」は2つに分けてリストされます。

高浜虚子  たかはま きょし   明治7年~昭和34年(1874~1959)
俳人・小説家     愛媛県松山市出身
伊予尋常中学校で級友の河東碧梧桐を介して正岡子規に師事し、虚子の号を与えられる。明治30年、松山で創刊された俳句雑誌『ホトトギス』の経営を引き継ぎ、翌年東京に移る。漱石との親交は続き、神経衰弱に悩む漱石に小説を書くことを勧めたのも虚子であった。こうして「吾輩は猫である」と「坊っちゃん」は、『ホトトギス』に発表された。
寺田寅彦  てらだ とらひこ   明治11~昭和10年(1878~1935)
物理学者・随筆家   東京市麹町区(現、千代田区)出身
熊本の第五高等学校時代の教え子で、漱石の新婚家庭を訪ねて俳句の手ほどきを受けている。明治32年、上京し東京帝国大学物理学科に入学。卒業後は物理学者として活動するかたわら、科学と文学を調和させた随筆を数多く発表している。漱石の最古参の弟子であり、『吾輩は猫である』の寒月のモデルにもなっている。
小宮豊隆  こみや とよたか   明治17~昭和41年(1884~1966)
評論家・ドイツ文学者 福岡県京都郡犀川村(現、みやこ町)出身
明治38年、東京帝国大学独文科入学時に、従兄の紹介で漱石を訪ね、以後親交を結ぶ。卒業後は漱石の紹介で、森田草平らとともに朝日新聞の「文芸欄」で活躍する。漱石没後は全集の編纂に携わり、また、東北大学教授・附属図書館長として漱石文庫の受入れに尽力した。これにより漱石の蔵書は戦災を免れることができた。
森田草平  もりた そうへい   明治14~24年(1881~1940)
小説家        岐阜県稲葉郡鷺山村(現、岐阜市)出身
東京帝国大学英文科卒業。明治38年に発表した処女作『病葉』の感想を漱石に求めたのをきっかけに漱石門下となる。明治41年3月、草平は平塚明子(雷鳥)と塩原で心中未遂を起こした際、漱石は草平を自宅に迎え、醜聞の渦中から彼を守った。この体験を書いた小説『煤煙』は、朝日新聞の「文芸欄」第一回に掲載された。

鈴木三重吉  すずき みえきち  明治15~昭和11年(1882~1936年)
小説家・児童文学者 広島県広島市出身
東京帝国大学英文科卒業。在学中に自作「千鳥」を漱石に送り、その推薦により『ホトトギス』に掲載されたことを機に漱石門下となる。多忙な漱石に「木曜会」を提案したのは彼であった。大正7年、児童文学誌『赤い鳥』を創刊、児童文学運動をリードした。
安部能成   あべ よししげ   明治16~昭和41年(1883~1966年)
評論家・哲学者   愛媛県松山市出身
第一高等学校で漱石に師事し、東京帝国大学哲学科卒業後、森田草平・小宮豊隆らと朝日新聞の「文芸欄」で活躍する。後に第一高等学校校長、文部大臣、学習院院長を務める。喜久井町の漱石生誕の地の記念碑の題字は、能成の筆によるものである。
内田百閒   うちだ ひゃっけん 明治22~昭和46年(1889~1971年)
小説家・随筆家   岡山県岡山市出身
第六高等学校在学中に『老猫』という作品を漱石に送り、評価される。東京帝国大学独文科在学中、長与胃腸病院に入院中の漱石を訪ね、木曜会への出席を許される。
和辻哲郎   わつじ てつろう  明治22~昭和35年(1889~1960年)
哲学者・文化史家  兵庫県神崎郡仁豊野(現、姫路市)出身
第一高等学校時代には、教室の窓の外から授業を聞くほど漱石に心酔した。東京帝国大学哲学科卒業後、漱石門下となる。『古都巡礼』『風土』などの著作で知られる。
芥川龍之介  あくたがわ りゅうのすけ 明治25~昭和2年(1892~1927年)
小説家       東京市京橋区(現、中央区)出身
大正4年、漱石の死の前年に、東京帝国大学英文科の同級生である久米正雄と共に漱石山房を訪れる。漱石は『鼻』を絶賛し、龍之介を感動させた。

高浜虚子を除き、全員東京帝国大学の生徒です。安部能成は文部大臣(これは驚き)や学習院院長を勤めあげています。 右側の壁には「猫塚」と「漱石山房」、「『漱石山房』に関する新宿区の取組み」が出てきます。

猫塚(ねこづか)
漱石没後の大正8年(1919)、『吾輩(わがはい)は猫である』のモデルとなった猫の十三(じゅうさん)(かい)()にあたり、漱石山房の庭に建てられた供養塔(くようとう)。『文鳥』という作品で、その死が描かれた文鳥など、夏目家のペットの合同供養塔であった。
九重の層塔(そうとう)で、意匠(いしょう)は漱石作品の装丁(そうてい)も手がけた画家の津田(つだ)青楓(せいふう)による。なお、現在の供養塔は、昭和28年(1953)12月に復元(ふくげん)されたものである。
猫塚を清掃する早稲田小学校の児童たち(昭和42年12月9日)
「猫塚」復元除幕式
この写真は、昭和28年(1953)12月9日、漱石山房跡(現在の漱石公園)で行われた「猫塚」復元除幕式の様子を撮影したフィルムから構成したものです。戦災で倒壊した猫塚が、漱石の37回目の命日に再建されたもので、式典には鏡子夫人や長男の純一氏、弟子の小宮豊隆・安部能成らが出席しており、その姿がフィルムに収められています。
夏目(なつめ) 鏡子(きょうこ) 明治10~昭和38年(1877~1963)
夏目漱石の妻。戸籍(こせき)名はキヨ。貴族院書記官長・中根(なかね)重一(じゅういち)の長女として広島県に生まれる。
明治28年(1895)漱石と見合いをし、翌年熊本の第五高等学校に赴任(ふにん)していた漱石と結婚した。2男5女(筆子、恒子、栄子、愛子、純一、伸六、ひな子)をもうける。漱石の没後、夫との生活ぶりを口述(こうじゅつ)し、長女・筆子の夫で漱石の弟子でもあった松岡(まつおか)(ゆずる)筆録(ひつろく)した『漱石の思い出』が出版されている。
漱石山房
夏目漱石は、明治40年(1907年)、早稲田南町に引越してきました。漱石は、この場で多くの有名な作品を生み、大正5年、49歳で「明暗」執筆中に亡くなるまで住み続けました。この、漱石が晩年を過ごした家と地を「漱石山房」といいます。
「漱石山房」の家はベランダ式の回廊のある広い家で、奥に板敷きの洋間がありました。漱石は、この洋間に絨毯を敷き紫壇の机と座布団をしつらえて書斎としていました。
漱石は面会者がとても多かったので、面会日を木曜日と決め、その日は午後から応接間を開放し、訪問者を受け入れました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」は、近代日本では珍しい文豪サロンとして、若い文学者たちの集いの場所となり、漱石没後も彼らの精神的な砦となりました。
「漱石山房」の変遷と漱石公園の整備

 

3.「猫塚」復元除幕式の映像。ビデオです。見たい場合は頼んでみましょう。約20分。漱石号
漱石山房の小冊子4.小冊子。「漱石山房秋冬」と「漱石山房の思い出」はただでもらえます。ただし、残りは僅かだと聞いています。

神楽坂の通りと坂に戻る

漱石公園|早稲田

文学と神楽坂

まず全体を示します。建物の南側しか入ることは出来ません。漱石山房
東西線の早稲田駅か大江戸線の牛込柳町駅から歩いていくことになります。南側正面の漱石公園の写真は下に。①は「新宿区立 漱石公園」です。漱石山房外観
漱石山房
②漱石の胸像。中央は「夏目漱石」。右は「則天去私」。意味は、天地の法則に従い、私心を捨て去ること。夏目漱石が晩年に理想とした境地を表した言葉です。「(てん)に則(のっとり)(わたくし)()る」と訓読するようです。漱石の胸像
左は読めませんが、後ろに回ると解説があり、

肩に来て人なつかしや赤蜻蛉 漱石は慶応3年(一八六七)二月九日、この近くの江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町1)に生まれた。明治四十年九月にこの地に住み、「三四郎」「それから」「門」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」などを発表、大正五年(一九一六)十二月九日、数え年五十歳で死去した。
この終焉の「漱石山房」跡地に漱石の胸像を建立し、その偉大な文業を、永遠に称えるものである。
なお、表の漱石直筆の俳句は
「ひとよりも空 語よりも黙
肩に来て人なつかしや赤蜻蛉」
と読む。

③漱石の横顔と注意書き。漱石の横顔

この公園は文豪夏目漱石の終焉地です。
誰もが、快適に過ごせるように、先のことは禁止しています。
車輌の乗入れ     花火・爆竹        夜闇に騒ぐ
寝泊り たき火    飲酒に伴う迷惑      タバコを吸う
動物へえさやり    犬を入れる 糞の放置   球技

④「漱石の散歩道」漱石の散歩道

漱石の散歩道

明治の文豪夏目漱石は、現在の喜久井町で生まれ早稲田南町で亡くなりました。漱石の作品には、早稲田・神楽坂界隈が数多く登場します。漱石は、ときには一人で、ときには弟子たちとこの周辺を散策し、買い物や食事を楽しみました。漱石を身近に感じながら、歩いてみてはいかがですか?

 誕生の地 新宿区指定史跡 新宿区喜久井町1(当寺:牛込馬場下横町) 漱石は慶応3年(1867)、当時の牛込馬場下横町に生まれました。現在その地には、生誕100年を記念した石碑が建てられています。石碑の題字は弟子の安部能成の筆によるものです。

 夏目坂 (なつめざか)
夏目家は、江戸時代には町方名主を務める名家でした。夏目坂は、馬場下から南東へ上る坂で、漱石の父・直克が命名したといいます。

 小倉屋(こくらや) 新宿区馬場下町3
延宝6年(1678)に創業したと伝えられる酒屋で、漱石の生家はこの裏手にありました。漱石自身が幼少期について書いた随筆『硝子戸の中』では、「間口の広い小倉屋という酒屋もあった」と登場します。

 誓閑寺(せいかんじ) 新宿区喜久井町61
『硝子戸の中』で「西閑寺」として出てくるお寺。この寺の「梵鐘」は天和2年(1682)に作られた区内最古のもので、区指定有形文化財となっています。

<現在地> 終焉(しゅうえん)の地 新宿区指定史跡 新宿区早稲田南町7
漱石が、明治40年(1907)9月から大正5年(1916)に亡くなるまで過ごした場所です。ここは「漱石山房」と呼ばれ、毎年木曜日の「木曜会」には多くの弟子たちが集まりました。

 漱石旧居跡 *現在はありません
漱石が、英国からの帰国直後、明治36年(1903)1月から翌年3月まで住んだ場所です。留守宅の困窮ぶりはひどく、漱石を驚かせたといいます。

 神楽坂(かくらざか) 新宿区神楽坂1~6丁目
江戸時代より、「神楽坂の毘沙門天」と呼ばれ信仰されていた「善国寺」の門前町として栄えました。明治20年(1887)頃から縁日に夜店がたちはじめ、山の手随一の繁華街となりました。漱石もよく神楽坂の寄席や文房具屋を訪れていました。

 和良(わら)店亭(だなてい)  *現在はありません
藁店(わらだな)と呼ばれた通り(地蔵坂の別名)にあったことからその名のついた寄席で、漱石が足繁く通っていました。神楽坂は当時5つの寄席が並び、浅草などと並び東京の演芸の中心でした。

 田原屋(たわらや)  *現在はありません
漱石が通っていた牛鍋屋。日露戦争のときに果物屋となり、大正時代初めには洋食屋となりましたが、平成14年(2002)に惜しまれながら閉店しました。

 善国寺(ぜんこくじ)毘沙門天(びしゃもんてん))新宿区神楽坂5-36
「毘沙門天像」(区指定有形文化財)が有名です。文政4年(1595)に創建され、寛政5年(1793)に神楽坂に移されました。門前町は繁華街として発展し、寅の日に開かれた縁日は『坊ちゃん』の中にも書かれています。

 相馬(そうま)()
万治2年(1659)に創業したという文房具店。創業当時は和紙をすいて江戸城に納めていました。明治中期から和半紙だった原稿用紙を洋紙に印刷して売り出しました。漱石はここの原稿用紙を愛用していました。

 東京理科大学 (旧)東京物理大学 新宿区神楽坂1-3
明治14年(1881)、東京物理学講習所が創設され、2年後には3代目校長中村恭平は漱石と懇意で『我輩は猫である』のモデルとも言われています。『坊ちゃん』は、東京物理学校の出身という設定です。

⑤ 漱石山房の記憶。入ってすぐの場所です。山房の記憶

夏目漱石は、明治40年9月、この地に引っ越してきました。そして大正5年12月9日、『明暗』執筆中に49歳で亡くなるまで、多くの作品を生み出したのです。漱石が晩年住んだこの家を「漱石山房」といいます。漱石は面会者が多かったので、木曜日の午後を面会の日としました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」、漱石を囲む文学サロンとして、若い文学者たちの集う場となり、漱石没後も彼らの心のよりどころとなりました。

新宿ゆかりの明治の文豪
夏目漱石
◎古ぼけた格子戸のまわりは蔦におおわれていました。
◎家主は医者で、ベランダ式の回廊や洋間がある広い家でした。
◎ベランダでくつろぐ漱石
◎奥の洋間に絨毯を敷き、机と座布団を置いて書斎として使いました。

漱石の書斎の様子
・大きな書棚  ・赤い絨毯
・紫檀の机   ・瀬戸火鉢
漱石はこの書斎で多くの有名な作品を執筆しました。
◎この書斎で書かれた主な作品
『坑夫』『夢十夜』『三四郎』『それから』『門』
『彼岸過迄』『こゝろ』『道草』『明暗』(未完)

⑥ベランダ。ただの張りぼてです。なんかなあ。テラス
⑦「道草庵」。遠くに猫塚も見えます。「道草庵」は別にここで。小冊子2冊をタダでもらえます。

道草庵
猫塚(ねこづか)と漱石終焉の地
猫塚

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定史跡
夏目(なつめ)漱石(そうせき)終焉(しゅうえん)()
  所 在 地  新宿区早稲田南町七番地
          指定年月日  昭和六十一年十月三日

 この漱石公園一帯は、文豪夏目漱石が晩年の明治四十年九月二十九日から大正五年十二月九日に死去するまで住んだところで「漱石山房」と呼んでいた。
 漱石はここで「坑夫」「三四郎」「それから」「門」などの代表作を発表し、「明暗」執筆の半ばに世を去った。漱石死去当日の様子は内田百閒の「漱石先生臨終記」に詳述されている。
 また、漱石山房の様子は、漱石の「文士の生活」や、芥川龍之介の「漱石山房の秋」「漱石山房の冬」(ともに『東京小品』の中)などに克明に書かれている。
 この石塔は俗称「猫塚」と呼ばれているが、これは「我輩は猫である」の猫の墓ではなく、漱石の没後遺族が家で飼っていた犬や猫、小鳥の供養のため建てたもので、昭和二十八年の漱石の命日に、ここに復元されたものである。
       平成三年十一月

東京都新宿区教育委員会

猫塚(ねこづか)
漱石没後の大正8年(1919)、『我輩は猫である』のモデルとなった猫の十三回忌にあたり、漱石山房の庭に建てられた供養塔です。残念ながら『我輩は猫である』の猫ははいってはいませんが、夏目家のペットの合同供養塔です。九重の層塔そうとうです。層塔とは屋根が幾層にも重なっている塔で、三重の塔や五重の塔などで有名。なお、現在の供養塔は、昭和28年(1953)12月に復元されたもので、九重の塔としては昔の方がよかった。

⑨ トイレです。

なお、この公園を前に行く道路は「漱石山房通り」といいます。漱石公園には2つの出入り口があり、西からの出入り口に標柱があります。
漱石山房通り漱石山房通り

矢来屋敷 矢来公園 石畳と赤城坂[昔] 駒坂 瓢箪坂 白銀公園 一水寮 相生坂 成金横丁の店 魚浅 朝日坂 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁 寺内公園 神楽坂5丁目 4丁目 3丁目
神楽坂の通りと坂に戻る

文学と神楽坂