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牛込の文士達⑤|神垣とり子

 くろご朗読会というのがあって芝居好きの二十前後の若者たちがより集ってお互いに役割をきめてやる。発起者は築地六芳館の甥で中川某、「修善寺物語」の姉娘など寿美蔵ばりでよかった。うづまき石鹸の本舗の主人が森ほのほという劇評家なのでよくきていて若いくろご朗読会のめんどうを見ていた。口の大きい福地もよくやってきた。
 芝居の総見もやった。泰三は芝居にあんまり興味がなかったが若い連中とよくつきあった。それに大正日日という新聞社へ里見弾と一緒に入社したので「御社(おしゃ)」といわれる芝居の二日目に芝居へ出かけ、新聞に劇評をかくので役にたった。もっとも「新演芸」の内山佐平に、「御所の五郎蔵」の落入り胡弓がはいるのをヴァイリンかといって笑われたぐらいだけど。

くろご朗読会 ラジオの脚本朗読に加わった団体のひとつだ、と遠藤滋氏の「かたりべ日本史」(雄山閣、昭和50年)
築地六芳館 「憲政本党党報」第3巻749頁では「12月22日出京、京橋区築地六方館に投宿」と書いてあります。旅館でしょうか。
寿美蔵 市川寿美蔵(すみぞう)。上方の歌舞伎役者。
修善寺物語 戯曲、歌舞伎作品。一幕三場。岡本綺堂作。面作りにかける夜叉王の職人気質や頼家暗殺のドラマなどを織り込み、舞台は大評判に。
姉娘 年上の娘
うづまき石鹸 「日本橋街並み繁昌史」262頁によれば、日本橋横山町二丁目の近江屋天野磯五郎店が石鹸「ウヅマキ」を販売したようですが、石鹸を生産したのかは不明です。
森ほのほ 京都の劇評家、狂言批評家。
福地 不明ですが、新聞記者、政治家、劇作家の福地源一郎氏では? 歌舞伎座を建設するのですが、生年は天保12年3月23日(1841年5月13日)、没年は明治39年1月4日と、少し早く死亡しています。
総見 そうけん。総見物の略。全員で見物すること。芝居・相撲などの興行を支援するため、団体などの全員が見物すること。
大正日日 1919年11月、大阪で創刊した日刊新聞。大阪の商人の勝本忠兵衛が破格の資本金200万円で創設。先発の大阪毎日新聞、大阪朝日新聞から仇敵視され、妨害を受け、翌20年7月、大本おおもと教に買収。
御社 御社日。おしゃび。演劇・興業の世界では、演劇関係者や記者の公演招待日
新演芸 大正5年~14年、出版社の玄文社が「新演芸」誌を作り、毎月、東京の各劇場を総見して批評した演劇合評会が有名だった。
内山佐平 大正5年~14年、出版社の玄文社の社員。その後、JOAK(現、東京放送局NHK)に移ってラジオ番組を制作した。
御所の五郎蔵 歌舞伎狂言「曽我そが綉侠もようたてしの御所染ごしょぞめ」の後半部分の通称
落入り おちいり。歌舞伎で、息の絶えるさまをする演技
胡弓 こきゅう。東洋の弦楽器。形は三味線に似て小形。弦は三本か四本。馬の尾の毛を張った弓でこすって演奏する。
ヴァイリン バイオリン。管弦楽や室内楽において中心的役割を果たす擦弦さつげん楽器。おそらく泰三が胡弓を間違えてバイオリンといったのでしょう。

 「生きている小平次」の作者鈴木泉三郎第一書房長谷川巳之吉玄文社のお歴々が神楽坂へよくやって来た。鈴木泉三郎は四谷銀行の行員の伜で、大番町の水車のある川岸に家があって山形屋小間物店の娘を嫁にもらってちょっと評判になった。「八幡やの娘」や「美しき白痴の死」を書いたが若死にをして惜しかった。
 坂本紅連洞という名物男がいた。長い黒いマント姿で、顔が長く文士の誰彼をつかまえて、やい1円出せ。税金取り立てよりこわいらしく誰でも出す。いやだという者は1人もいないのが不思議だ。島村抱月もとられた一人だった。『ヤイ島村』と呼びつけられても怒らなかったそうだ。何の会でも木戸御免でまかり通っていた。谷垣精二の近くの弁天町に独身で間借りしていた。どういう風の吹きまわしか私は気に入られていた。グレゴリー夫人作の「月の出」が有楽座にかかった時入場券をくれたり、トルストイの「闇の力」の入場券をくれた。

生きている小平次 鈴木泉三郎作の戯曲。三幕。大正13年『演劇新潮』に発表。大正14年6月新橋演舞場で、六世尾上菊五郎などで初演。内容は、歌舞伎囃方の太九郎は役者の小幡小平次から妻をほしいといわれ、舟の外に突き落としてしまう。10日後、役者の小平次は妻の前に現れたが、太九郎が現れ、役者を殺してしまう。太九郎と妻は江戸を逃げ出すが、小平次のような旅人がついていく。ここで終わり。
鈴木泉三郎 すずきせんざぶろう。「新演芸」を編集し、戯曲「八幡屋の娘」「ラシャメンの父」「美しき白痴の死」などを執筆。12年2月6代目尾上菊五郎が「次郎吉懺悔」を上演し好評だった。玄文社の解散にともない、以後文筆生活に入る。絶筆の「生きてゐる小平次」は代表作。生年は明治26年5月10日。没年は大正13年10月6日。享年は満32歳。
第一書房 1923年、創業。1944年3月、廃業。絢爛とした造本の豪華本を刊行
長谷川巳之吉 はせがわみのきち。雑誌・書籍編集者。「玄文社」に入社、『新演芸』などを編集した。生年は明治26年12月28日、没年は昭和48年10月11日、享年は満79歳
玄文社 大正5年~大正14年、東京の出版社。単行本の他、月刊雑誌『新家庭』『新演芸』『花形』『詩聖』『劇と評論』も発行。
四谷銀行 明治30年10月、東京市四谷区伝馬町(現在の東京都新宿区四谷)に設立。大正11年11月、京都市の日本積善銀行の取り付け騒ぎが始まり、本行も休業し、このまま整理中。最終的に昭和2年に廃業した。
大番町 四谷大番町。現、新宿区大京町。
山形屋小間物店 山形屋は宝暦元年(1751年)に創業した鹿児島の百貨店?
八幡やの娘美しき白痴の死 国会図書館で鈴木泉三郎戯曲全集を無料閲覧中
木戸御免 きどごめん。相撲や芝居などの興行場に、木戸銭なしで自由に出入りできること。
グレゴリー夫人 アイルランドの劇作家・詩人。Isabella Augusta Gregory。アベー座を開場し、アイルランド伝説の収集に努力し、そこに基づいた戯曲を書いた。一幕物「月の出」は1907初演。生年は1852年3月15日、没年は1932年5月22日。

 花柳はるみ中野秀人と神楽坂を歩いていたり、長田幹彦の兄の秀雄が新婚の細君と仲よく田原やへ姿を現わしていた。神楽坂の中途にある牛込会館汐見洋金平軍之助八重子を座長にして芸術座を起したので、俳優達も街を賑わしていた。ダルクローズの体育学校を出てきた山田五郎の弟子がステッキを妙な風について得意がって歩いていた。
 近代劇場というのが出来て、「時事」美川徳之助――美川きよの実兄――が「リリオム」で舞台にたって浅野慎次郎田中筆子が参加した。田中筆子は沢田正二郎東京明治座で旗上げした時に初舞台をした気のきく子役で、その時これもやっぱり早稲田の学生で、俳優になって島村抱月を崇拝し教授の片上伸の名をとって月村伸と名乗った男と出演した。

花柳はるみ 女優。大正4年、芸術座の「その前夜」で初舞台。7年、帰山教正のりまさ監督の「生の輝き」に主演し、日本映画の女優第1号となる。35歳で引退。生年は明治29年2月24日、没年は昭和37年10月11日。享年は満66歳。
中野秀人 なかのひでと。詩人、画家。大正9年、プロレタリア文学評論「第四階級の文学」を発表。昭和15年、花田清輝きよてるらと「文化組織」を創刊。戦後も前衛的な創作活動をつづけた。詩集は「聖歌隊」、小説は「精霊の家」など。生年は明治31年5月17日。没年は昭和41年5月13日。享年は満67歳。
金平軍之助 映画の出演、製作を行った。出生地は東京市本郷。生年は明治38年年5月7日
芸術座 大正2年、島村抱月氏と松井須磨子氏を中心に東京で結成した新劇の劇団。抱月・須磨子の急死で、大正8年、解散。大正13年、水谷竹紫氏が義妹水谷八重子氏を中心に再興。昭和20年、竹紫の死で自然解消。
ダルクローズ スイスの音楽教育者、作曲家。リズムと身体運動を結びつけた教育方法リトミックを創始。世界の幼児教育に多大な影響を与えた。
山田五郎 昭和の舞踊家。能楽に学び、大正15年、米国で舞踊家となり、パリのオデオン座に出演。昭和3年帰国し、能をとりいれた「猩々」などを演じた。生年は明治40年1月22日、没年は昭和43年12月21日。享年は満61歳。
得意がる 盛んに得意な様子をする。誇らしげにふるまう。
近代劇場 どうも「近代劇場」という劇場が実際にあったようです。1926年にこの劇場で「リリオム」が初演されています。
「時事」 時事新報です。美川徳之助氏は時事新報の記者でした。
美川徳之助 随筆家。大丸に務めていた父の命でロンドン1年間、パリ5年間の遊興生活。帰国後、時事新報5年間、読売新聞27年間勤め企画部長で退職。「愉しわがパリ―モンマルトル夜話」「パリの穴東京の穴」など。生年は明治31年。(村上紀史郎「バロン・サツマ」と呼ばれた男。藤原書店。2009年)
美川きよ 小説家。大正15年「三田文学」に「デリケート時代」を発表。昭和5年以降こまやかな女性心理をえがく短編を手がける。長編小説「女流作家」「夜のノートルダム」など。生年は明治33年9月28日。没年は昭和62年7月2日。享年は満86歳。
リリオム ハンガリーの作家モルナールの戯曲。7場。ブダペストの遊園地を背景に、気のいい乱暴者リリオムの生と死を、現実と空想の交り合った手法で描いた悲喜劇。
浅野慎次郎 俳優。第二次芸術座に参加。『ドモ又の死』など。
田中筆子 女優。大正2年、第二次芸術座の「青い鳥」に出演後、金平軍之助が主宰する近代劇場に参加し、脇役女優として活躍。生年は1913年3月16日、没年は1981年2月23日、享年は満67歳。
東京明治座 中央区日本橋浜町にある明治座です。都営新宿線の浜町駅、都営浅草線の人形町駅、日比谷線の人形町駅から行け、また、東京駅からは八重洲口の無料巡回バス「メトロリンク日本橋Eライン」を使っても行くことができます。
月村伸 俳優。松本克平氏の「日本新劇史」(津熊書房、1966)には島村抱月氏の告別式の写真が載っていますが、そのなかに若いころの氏の写真がありました。

アルバム 東京文學散歩|野田宇太郎

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏が描く「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)です。

 神樂坂

 神楽坂は明治大正昭和にかけての東京に住む文学者のふるさとのやうなところである。この界隈が文学者に縁を持つやうになつたのは、横寺町尾崎紅葉が住み、矢来町広津柳浪が住み、そこに通ふ若い文人の数も多かつたのにはじまるとも云へるが、又赤城神社の境内の清風亭と云ふ貸席坪内逍遥の芝居台本朗読会や俗曲研究会が催されたり、その他の大小の文学関係の会合が行はれたりしてゐたこともその一つであらう。その清風亭がやがて長生館と云ふ下宿屋に変ってからは、片上伸や後には近松秋江なども住んだことがあつた。

貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷や家。

 大正時代になると矢来町に飯田町から移って来た新潮社が出来、新潮社を中心にこの附近には色々な文士が集つた。同時に島村抱月芸術座が旗上げして芸術倶楽部が出来たのが横寺町である。逍遥や片上伸や抱月などの早稲田大学の教授連の名が出たことでも判るやうに、大正初期になるとこの界隈は早稲田の学生で賑ひはじめた。そこから多くの現代文学の詩人や作家が出たことは今更喋々もあるまい。わけても神楽坂は毘沙門天を中心に花柳粉香の漂ふ町でもあり、ロマンチシズムに胸ふくらませた明治大正の清新な青年文士と、紅袂の美女とのコントラストは如何にも似つかはしいものとなった。
 泉鏡花がすず夫人との新婚生活を営んだのもこの神楽坂であつた。それは明治三十六年頃からのことであるが、その場所は今の牛込見附から神楽坂を登らうとする左側の小路の奥であつたらしい。だが、もはや街は全貌を変へてしまつたので偲ぶよすがとてない。

飯田町 右図で描いたのは昭和16年頃の飯田町です。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月氏と女優の松井須磨子氏を中心に、主に研究劇を行いました。
喋々 ちょうちょう。しきりにしゃべる様子。
 かなめ。ある物事の最も大切な部分。要点。
毘沙門天 仏教で天部の仏神。神楽坂では毘沙門天があり、正式には日蓮宗鎮護山善国寺。
花柳 かりゅう。紅の花と緑の柳。華やかで美しいもの。 遊女。芸者。
粉香 ふんこう。おしろいの匂い。女性の色香。
紅袂 「こうべい」「こうへい」「こうまい」でしょうか。国語辞典にはありません。赤いたもと。女性のたもと。
牛込見附 この場合は神楽坂通りと外堀通りを結ぶ4つ角。現在は「神楽坂下」に変更。
小路の奥 神楽坂二丁目22番地で、北原白秋が住んだ場所と同じでした。現在はが立っています。

東京理科大学(物理学校)裏。「アルバム 東京文學散歩」から

 北原白秋の詩に「物理学校裏」と云ふのがある。物理学校の講義の声と、附近のなまめいた街からきこえる三味や琴の音とを擬音風にとりあつかつて、牛込見附の土手下を走る今の中央線の前身の甲武線鉄道カダンスなどのことをも取り入れた、有名な詩である。白秋は神楽坂二丁目のニ十二番地に明治四十一年十月からしばらく住んでゐたのだが、それが丁度今の東京理科大学、以前の物理学校の裏に当る崖の上であつた。
「物理学校裏」と云ふ詩などは特別で、とりたてて神楽坂を文学の題材とした名作が多いと云ふわけではないが、この界隈は震災で焼け残つて以来、ぐんぐんと発展して、一時は山の手銀座とも称され、カフエーや書店をはじめ、学生や文士に縁の深い有名な店が沢山出来たものである。それに夜店が又たのしいものであつた。平和な昭和時代には真夜中かけてそこを歩きまはつた思ひ出が私などにもある。
 何と云つても神楽坂の生命はあの坂である。あの坂を登るとたのしい場所がある、と云ふやうな期待が、牛込見附の方からゆく私には、いつもあつた。
 戦後の荒廃がひどいだけに、神楽坂は又幻の町でもある。

神楽坂より牛込見附を望む

甲武線鉄道 正しくは甲武鉄道。明治時代の鉄道事業者。御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿から八王子に至りました。1870年(明治3年)に開業。1906年(明治39年)に国有化
カダンス 仏語から。詩の韻律、リズム。
震災 大正12年の関東大震災です。
山の手銀座 銀座は下町。神楽坂は山の手。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では「大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた」と書いています。詳しくは山の手銀座を参照。
カフエー 喫茶店というよりも風俗営業の店。 詳しくはカフェーを参照。
 
 

漱石山房の推移1

文学と神楽坂

 浅見淵氏が書いた『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「漱石山房の推移」の一部です。

早稲田界隈の盛り場

 そういう世相だったので、一方では景気がよくて学生が俄かにふえたのだろう、さて早稲田に入って下宿屋探ししてみると、早稲田界限から牛込の神楽坂にかけては、これはという下宿屋は満員で非常に払底していた。辛うじて下戸塚法栄館という小さな下宿屋の一室か空いていたので、ひとまずそこへ下宿した。大正末期に川崎長太郎が小説が売れだしたので、のちに夜逃げするに到ったが、偶然とぐろを巻いていた下宿屋である。朝夕を戸山ヶ原練兵場を往復する兵隊が軍歌を歌って通り、またその頃の学生には尺八を吹く者が多く、神戸の町なかに育ったぼくは、当座、なんだか田舎の旅宿に泊っているような心細さを覚えたものだ。

払底 ふってい。すっかりなくなること。乏しくなること。
下戸塚  豊多摩郡戸塚町大字下戸塚は淀橋区になるときは戸塚町1丁目になりますが、新宿区ができる時に戸塚町1丁目はばらばらになってしまいます。そのまま戸塚1丁目として残った部分①と、西早稲田1、2、3丁目②~⑤になった部分です。

新宿区教育委員会。「地図で見る新宿区の移り変わり 戸塚・落合編」昭和57年

新宿区教育委員会。「地図で見る新宿区の移り変わり 戸塚・落合編」昭和57年

法栄館 東京旅館組合本部編の『東京旅館下宿名簿』(大正11年)ではわかりませんでした。
とぐろを巻く 蛇などがからだを渦巻き状に巻く。何人かが特に何をするでもなく、ある場所に集まる。ある場所に腰をすえて、動かない。
戸山ヶ原 とやまがはら。江戸時代には尾張徳川家の下屋敷で、今も残る箱根山は当時の築山で東京市内で最高地の44.6メートル。箱根山に見立てて、庭内を旅する趣向にしていました。明治以降は陸軍戸山学校や陸軍の射撃場・練兵場に。現在は住宅・文教地区。
練兵場 れんぺいじょう。兵隊を訓練する場所。陸軍戸山学校の練兵場は下図に。

現在と明治43年の戸山学校練兵場。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』

現在と明治43年の戸山学校練兵場。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』

 当時は早稲田界隈の盛り場というと神楽坂で、新宿はまだ寂しい場末町だった。新宿が賑やかになりだしたのは、大正十二年の関東大震災以後である。新学期が始まるとぼつぼつ学生が下宿屋の移動をはじめ、まもなくぼくは神楽坂界隈の下宿屋に引越した。その下宿屋は赤城神社の境内にあって、長生館といった。下宿してから知ったのだが、正宗白鳥近松秋江などの坪内逍遙門下がよく会合を開いていた貸席の跡で、下宿屋になってからも、秋江は下宿していたことがあるということだった。出世作「別れた妻に送る手紙」に書かれている、最初の夫人と別れた後のどん底の貧乏時代だったらしく、夏など、着た切り雀の浴衣まで質屋へいれてしまって、猿股一つで暮らしていたこともあるという、本当か嘘か知らぬがそんなエピソードまで残っていた。それから少し遅れて、片上伸加能作次郎なども下宿していた。のち、太平洋戦争の頃、「新潮」の編集者だった楢崎勤を所用あって訪ねたら、長生館がいつかなくなってしまっていて、その跡に建った借家の一軒に住んでいて意外な気がした。楢崎君はそこで戦災を蒙ったのである。

赤城神社 新宿区赤城元町にある神社
貸席 かしせき。料金を取って時間決めで貸す座敷
別れた妻に送る手紙 正しくは「別れたる妻に送る手紙」。情痴におぼれる自己を赤裸々に描く作品。もっと詳しくはここで。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂13|追憶

文学と神楽坂

追憶

私は毘沙門前の都寿司の屋台ののれんをくぐり、三、四人の先客の間にはさまりながら、二つ三つ好きなまぐろをつまんだ。この都寿司も先代からの古い馴染なじみだが、今でも矢張り神楽坂の屋台寿司の中では最もうまいとされているようだ。
 寺町の郵便局下のヤマニ・バーでは、まだ盛んに客が出入りしていた。にぎやかな笑声も漏れ聞えた。カッフエというものが出来る以前、丁度その先駆者のように、このバーなるものが方々に出来た。そしてこのヤマニ・バーなどは、浅草の神谷バーは別として、この種のものの元祖のようなものだった。

都寿司

都寿司 織田一磨作の神楽阪(1917)(「東京風景」より )には都寿司は次の絵のように載っています。

織田一磨:「東京風景」より 神楽阪(1917)

織田一磨:「東京風景」より 神楽阪(1917)

また、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では現在の「福屋せんべい」の前に寿司がありました。

神楽坂と縁日市

郵便局 神楽坂6丁目にあった「音楽之友社別館」が以前の郵便局でした。
ヤマニバー 菊池病院のすぐ右、現在「水越商事KK」で、衣料品を売る「7Day’s」と書いた建物が昔のヤマニバーでした。細かくはここで
神谷バー 創業明治13(1880)年。日本初のバー。ずっと浅草1丁目1番地で。2011年(平成23年)、神谷ビル本館は登録有形文化財に

その向いの、第一銀行支店の横を入った横寺町の通りは、ごみ/\した狭いきたない通りだがちょっと特色のある所だ。入るとすぐ右手に閻魔えんまがあり、続いて市営の公衆食堂があり、昔ながらの古風な縄のれんに、『官許にごり』の看板も古い牛込名代の飯塚酒場と、もう一軒何とかいう同じ酒場とが相対し、それから例の芸術座跡のアパートメントがあり、他に二、三の小さなカッフエや飲食店が、荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋といったような家がごちゃごちゃしている間にはさまり、更にまた朝夕とう/\とお題目の音の絶えない何とかいう日蓮宗のお寺があり、田川というかなり大きな草花屋があるといった風である。そして公衆食堂には、これを利用するもの毎日平均、朝昼夕の三度を延べて四千人の多数に上るという繁昌振りを示し、飯塚酒場などには昼となく晩となく、いつもその長い卓上に真白な徳利の林の立ち並んでいるのを見かけるが、私はいつもこの横町をば、自分勝手に大衆横町或はプロレタリア食傷新道などと名づけて、常に或親しみを感じている。

 新宿区横寺町交友会『よこてらまち』(00年)の「昭和10年頃の横寺町」を見ていきます。横寺町

第一銀行支店 現在は「スーパーキムラヤ」です。これは、まあちょっと高級なスーパーです。上の図では最も右で、青灰色です。
お閻魔様 正蔵院のこと。丸形で色は濃紺色。
市営の公衆食堂 「神楽坂公衆食堂」です。薄緑色で。
飯塚酒場 現在は普通の家ですが、長い間酒場をやっていました。薄茶色です。
同じ酒場 新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会の『よこてらまち』(2000年)の「昭和10年頃の横寺町」では「1. 米屋 2.パーマネント 3. 公証人役場 4.目覚し新聞 5.マッサージ業 6.靴修理店 7.歯医者 8.若松屋 9.大工職 10.洋服店」で、昭和10年頃で「同じ酒場」はありません。若松屋が何を指しているのか分かりませんが、酒場ではないようです。若松家であればテキヤの1つ。テキヤとは縁日など人出の多いところなどで、居合抜き、独楽回し、手品、曲芸などの見世物を演じ、各種の薬品,商品を売る者。なお、横寺町の「もきち」(居酒屋)はこの時はまだ生まれていません。この横寺町の「もきち」は「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」にでています。
芸術座跡 座長の島村抱月が大正7年12月、スペインかぜで死亡し、大正8年1月、1か月後に主演女優の松井須磨子氏は自殺し、2人を失った芸術座もこれでなくなり、松井須磨子氏の兄、小林さんのアパート(芸術倶楽部跡)になりました。紫色
荒物… 「荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋」は「荒物屋、染物屋、女髪結、製本屋、質屋」のこと。荒物屋は「家庭用の雑貨類を売る商売や店」で、別名は「雑貨屋」。以下のイラストでは赤で書いてあります。横寺町はあらゆる店があり、なんでも売っていたようです。
日蓮宗のお寺 円福寺です。黄色で。現在も円福寺はあります。
田川 花屋の田川は青色で。現在はありません。

私は神楽坂への散歩の行きか帰りかには、大抵この横町を通るのを常としているが、その度毎に必ず思い出さずにいられないのは、かの芸術座の昔のことである。このせまい横町に、大正四年の秋はじめてあの緑色の木造の建物が建ち上った時や、トルストイの『闇の力』や有島武郎の『死とその前後』などの演ぜられた時の感激的な印銘は今もなおあざやかに胸に残っているが、それよりもかの島村抱月先生の寂しいいたましい死や、須磨子の悲劇的な最期やを思い、更に島村先生晩年の生活や事業やをしのんでは、常に追憶の涙を新たにせざるを得ないのだ。

芸術座 げいじゅつざ。島村抱月、松井須磨子を中心とした第一次芸術座と、水谷竹紫、水谷八重子を中心とした第二次芸術座があります。これは第一次芸術座のほう。
トルストイ レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич ТолстойLev Nikolayevich Tolstoy)。帝政ロシアの小説家、思想家。生年は1828年9月9日(ユリウス暦8月28日)。没年は1910年11月20日(ユリウス暦11月7日)。
闇の力 愚かさにより父殺し・嬰児殺しへと転落する人間を描いた戯曲。須磨子はアニーシャ役で、裕福な百姓の妻です。
死とその前後 大正7年10月、須磨子は有島武郎の「死と其(その)前後」の妻役で好評を博しました。
印銘 いんめい。 公私の文書に押して特有の痕跡(印影・印痕)を残すこと。
傷しい死 島村抱月はスペインかぜ(新型インフルエンザ)で、大正7年11月5日に死亡し、翌8年1月5日、松井須磨子氏は自殺します。

私の追想は更に飛んで郵便局裏の赤城神社の境内に飛んで行く。あの境内の一番奥の突き当りに長生館という下宿屋があった。たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てて小石川の高台を望んだ静かな家だったが、片上伸先生なども一時そこに下宿していられた。大きなけやきの樹に窓をおおわれた暗い六畳の部屋だったが、その後私もその同じ部屋に宿を借り、そこから博文館へ通ったのであった。近松秋江氏が筑土の植木屋旅館からここの離れへ移って来て、近くの通寺町にいた楠山正雄君と私との三人で文壇独身会を発起し、永代橋都川でその第一回を開いたりしたのもその頃のことだった。

赤城神社 現在は赤城元町1-10。700年にわたり牛込総鎮守として鎮座しています。
長生館 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に。しかし、清風亭はどこにあるのか、いろいろ説がありますが、細かくはここで
博文館 はくぶんかん。東京都の出版社。明治時代には富国強兵の時代風潮に乗り、数々の国粋主義的な雑誌を創刊。取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社などの関連企業を次々と創業し、戦前は日本最大の出版社に。
筑土の植木屋旅館 近松秋江がここに来る前は筑土の植木屋旅館だったといいます。場所は不明。筑土とは「津久戸」なのか、「筑土八幡町」なのか、合わせてそう呼んだのか、わかりません。
楠山正雄 くすやま まさお。1884年11月4日 – 1950年11月26日。演劇評論家、編集者、児童文学者
永代橋 都川えいたいばし。隅田川にかかる橋で、地上には永代通り、地下には東京メトロ東西線が通っています。この図は東京紅團(東京紅団)の『パンの会を歩く』 http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm からとりました。実際は巨大な地図が東京紅團(東京紅団)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/ にあります。
都川 都川も上図で。

その長生館の建物は、その以前清風亭という貸席になっていて、坪内先生を中心に、東儀土肥水口などの諸氏が脚本の朗読や実演の稽古などをやって、後の文芸協会もとを作った由緒ゆいしょづきな家だったそうだ。そしてその清風亭が後に江戸川べりに移ったのだが、実際江戸川の清風亭といえば、吾々早稲田大学に関係ある者にとっては、一つの古蹟だったといってもいい位だ。早稲田の学生や教授などの色々の会合は、多くそこで開かれたものだが、殊に私などの心に大きな印象を残しているのは、大正二年の秋、島村先生が遂に恩師坪内先生の文芸協会から分離して、松井須磨子と共に新たに芸術座を起した根拠地が、この江戸川の清風亭だったということである。

清風亭 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋になりました。しかし、赤城神社内で清風亭はどこあったのか、いろいろ説がありますが、細かくはここで
貸席 料金を取って貸す座敷
土肥 土肥春曙。どひしゅんしょ。明治2(1869).10.6.-1915.3.2。俳優。1890年東京専門学校 (現早稲田大学) 文科の第1期生として入学。卒業後、新聞記者や母校の講師を経て、1901年川上音二郎一座の通訳兼文芸部員として渡欧。 05年坪内逍遙の脚本朗読会に加わって易風会を興し、翌 06年文芸協会が設立されると技芸監督、中心俳優として活躍。
水口 水口薇陽。びよう。1873-1940。05年坪内逍遙の脚本朗読会に加わって易風会を興し、上演運動を行う。
文芸協会 1906年、坪内逍遥、島村抱月が中心で、演劇のみならず宗教・美術・文学など広範な文化運動を目的として発足。09年演劇研究所を設立して演劇団体に。1913年、解散。
江戸川の清風亭 清風亭は石切橋に転移しました。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』「28、明治文学史上ゆかりの清風亭跡」(三交社)では「この清風亭は、石切橋に新築して移り、建物は、長生館という下宿屋になる」と書いてあります。石切橋は
石切橋
古蹟 こせき。古跡とも。歴史に残るような有名な事件や建物などのあと。遺跡。旧跡。古址こし