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私の東京地図|佐多稲子④

文学と神楽坂

 牛込見附の方へ降りかけの、助六という下駄屋で、姉妹が買物をしているのを見たことがある。お師匠さんが鼻緒を手にとっては、自分よりも背の高い君子に顔を仰向けてそれを見せ、また番頭に何か言い言いしている。君子はさすがに若い番頭の前なので、身体つきを甘ったれた風に(たな)にもたせかけていた。姉の背が(こぶ)を背負って自分よりも低いことなど意に介していない。不具の姉は、傍若無人に妹を甘えさせ、何かの喜びを感じている。

 坂の中途には、神楽坂倶楽部(くらぶ)などという貸席もあった。そのすぐ上てに、牛込会館という、あとでは白木屋が店を出した洋風の大きな建物があったが、ここで水谷八重子が翻訳劇をやったのもその頃である。「殴られる彼奴」の道化師には汐見洋(しおみよう)が、眼も埋まるほどまっ白に塗って、鼻の先と頬をまっ赤に紅で染めてピエロの服をきていた。八重子は獅子(しし)つかいの、傲慢(ごうまん)な娘に、そして東屋(あずまや)三郎座頭(ざがしら)で、派手な(しま)の服に長靴か何か履いていた。
 喫茶店の山本では、ドウナツが安くてうまい。今まで下町ばかりに住んでいた私は、山本で一杯のコーヒーをのむことに、幾分の文化の雰囲気を感じた。芳子は相変らずどこか冷めたく、上っつらな冗談ばかり言っている。屋敷町から神楽坂へ出るひっそりした坂道で朝毎に()う男が、喜劇俳優のバスター・キートンに似ているなどと言って、その男が曲り角から現われるのを見つけると、
「おッ、バスター・キートン!」
 と囁いて、言った自分はつんと澄ましている。
 その春、見合いをして決まった縁談に、私か(かた)づいていったのはこの杵屋与志次の家の、間借りの部屋からであった。次の年の正月に、私が夫の家を出て行方を知らせなかった時、この家へも搜索人が廻った。

姉妹 姉は三味線の師匠で杵屋与志次という女性、妹は君子さん。
お師匠さん 姉は三味線の師匠で杵屋与志次という女性
君子 妹の君子さん
貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷やそれをする家。
芳子 丸善で同僚で、同じ杵屋与志次の家に間借りをしている女性。
バスター・キートン Buster Keaton。生年は1896年。没年は1966年。無声映画の米国の人気俳優。
杵屋与志次 長唄三味線のお師匠さん。名前は「きねやよしじ」と読むのでしょうか。
次の年の正月 大正13(1924)年末、佐多稲子氏は家出し、正月あけに帰りました。

神楽坂考|野口冨士男

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆集『断崖のはての空』の「神楽坂考」の一部です。

-49・4「群像」

 さいきん広津和郎氏の『年月のあしおと』を再読する機会があったが、には特に最初の部分――氏がそこで生まれて少年時代をすごした牛込矢来町界隈について記しておられるあたりに、懐かしさにたえぬものがあった。
 明治二十四年に生誕した広津さんと私との間には、正確に二十年の年齢差がある。にもかかわらず、牛込は関東大震災に焼亡をまぬがれたので、私の少年期にも広津さんの少年時代の町のたたずまいはさほど変貌をみせずに残存していた。そんな状況の中で私は大正六年の後半から昭和初年まで――年齢でいえば六歳以後の十年内外をやはりあの附近ですごしただけに、忘しがたいものがある。
 そして、広津さんの記憶のたしかさを再確認したのに反して、昨年五月の「青春と読書」に掲載された林原耕三氏の『神楽坂今昔』という短文は、私の記憶とあまりにも大きく違い過ぎていた。が、ご高齢の林原氏は夏目漱石門下で戦前の物理学校――現在の東京理科大学で教職についておられた方だから、神楽坂とはご縁が深い。うろおぼえのいいかげんなことを書いては申訳ないと思ったので、私はこの原稿の〆切が迫った雨天の日の午後、傘をさして神楽坂まで行ってみた。
 坂下の左角はパチンコ店で、その先隣りの花屋について左折すると東京理大があるが、林原氏は鳥屋の川鉄がその小路にあって《毎年、山房の新年宴会に出た合鴨鍋はその店から取寄せたのであった》と記している。それは明治何年ごろのことなのだろうか。私は昭和十二年十月に牛込三業会が発行した『牛込華街読本』という書物を架蔵しているが、巻末の『牛込華街附近の変遷史』はそのかなりな部分が「風俗画報」から取られているようだが、なかなか精確な記録である。
 それによれば明治三十七年頃の川鉄は肴町二十二番地にあって、私が知っていた川鉄も肴町の電車停留所より一つ手前の左側の路地の左側にあった。そして、その店の四角い蓋つきの塗物に入った親子は独特の製法で、少年時代の私の大好物であった。林原文は前掲の文章につづけて《今はお座敷の蒲焼が専門の芝金があり、椅子で食ふ蒲どんの簡易易食堂を通に面した所に出してゐる》と記しているから、川鉄はそこから坂上に引っ越したのだろうか。但し芝金は誤記か誤植で志満金が正しい。私が学生時代に学友と小宴を張ったとき、その店には芸者がきた。
 ついでに記しておくと、明治三十六年に泉鏡花が伊藤すゞを妻にむかえた家がこの横にあったことは私も知っていたが、『華街読本』によれば神楽町二丁目二十二番地で、明治三十八年版「牛込区全図」をみると東京理大の手前、志満金の先隣りに相当する。村松定孝氏が作製した筑摩書房版「明治文学全集」の「泉鏡花集」年譜には、この地番がない。
 坂の中途右側には水谷八重子東屋三郎が舞台をふんだ牛込会館があって一時白木屋になっていたが、現在ではマーサ美容室のある場所(左隣りのレコード商とジョン・ブル喫茶店あたりまで)がそのである。また、神楽坂演芸場という寄席は、坂をのぼりきった左側のカナン洋装店宮坂金物店の間を入った左側にあった。さらにカナン洋装店の左隣りの位置には、昭和になってからだが盛文堂書店があって、当時の文学者の大部分はその店の原稿用紙を使っていたものである。武田麟太郎氏なども、その一人であった。
 毘沙門様で知られる善国寺はすぐその先のやはり左側にあって、現在は地下が毘沙門ホールという寄席で、毎月五の日に開演されている。その毘沙門様と三菱銀行の間には何軒かの料亭の建ちならんでいるのが大通りからでも見えるが、永井荷風の『夏すがた』にノゾキの場面が出てくる家の背景はこの毘沙門横丁である。

パチンコ店 パチンコニューパリーでした。今はスターバックスコーヒー神楽坂下店です。
引っ越し 川鉄はこんな引っ越しはしません。ただの間違いです。
正しい 芝金の書き方も正しいのです。明治大正年間は芝金としていました。
 読み方は「シ」か「あと」。ほかに「跡」「痕」「迹」も。以前に何かが存在したしるし。建築物は「址」が多い。

東京理大 地図です。理科大マップ
肴町22番地 明治28年の肴町22番地明治28年では、肴町22番地は右図のように大久保通りを超えた坂上になります。明治28年には川鉄は坂上にあったのです。『新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、明治37年、1904年)では「鳥料理には川鐵(22番地)」と書いています。『牛込華街読本』(昭和12年)でも同様です。一方、現在の我々が川鉄跡として記録する場所は27番地です。途中で場所が変わったのでしょう。
ノゾキ 『夏すがた』にノゾキの場面がやって来ます。

 慶三(けいざう)はどんな藝者(げいしや)とお(きやく)だか見えるものなら見てやらうと、何心(なにごころ)なく立上つて窓の外へ顏を出すと、鼻の先に隣の裹窓の目隱(めかくし)(つき)出てゐたが、此方(こちら)真暗(まつくら)向うには(あかり)がついてゐるので、目隠の板に拇指ほどの大さの節穴(ふしあな)が丁度ニツあいてゐるのがよく分った。慶三はこれ屈強(くつきやう)と、(のぞき)機關(からくり)でも見るやうに片目を押當(おしあ)てたが、すると(たちま)ち声を立てる程にびつくりして慌忙(あわ)てゝ口を(おほ)ひ、
「お干代/\大變だぜ。鳥渡(ちよつと)來て見ろ。」
四邊(あたり)(はゞか)る小聾に、お千代も何事かと教へられた目隱の節穴から同じやうに片目をつぶつて隣の二階を覗いた。
 隣の話聾(はなしごゑ)先刻(さつき)からぱつたりと途絶(とだ)えたまゝ今は(ひと)なき如く(しん)としてゐるのである。お千代は(しばら)く覗いてゐたが次第に息使(いきづか)(せは)しく胸をはずませて来て
「あなた。罪だからもう止しませうよ。」
()(まゝ)黙つて隙見(すきま)をするのはもう氣の毒で(たま)らないといふやうに、そつと慶三の手を引いたが、慶三はもうそんな事には耳をも貸さず節穴へぴつたり顏を押當てたまゝ息を(こら)して身動き一ツしない。お千代も仕方なしに()一ツの節穴へ再び顏を押付けたが、兎角(とかく)する中に慶三もお千代も何方(どつち)からが手を出すとも知れず、二人は眞暗(まつくら)な中に(たがひ)に手と手をさぐり()ふかと思ふと、相方(そうほう)ともに狂氣のやうに猛烈な力で抱合(だきあ)つた。

寄席と映画

文学と神楽坂

寄席と映画館、劇場は6つありました。東側から行くと…

牛込会館。神楽坂3丁目にあり、貸し座敷として働きました。水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。現在はコンビニのサークルKです。

神楽坂演芸場。これも3丁目にあり、漫才・曲芸・奇術・声色・音曲などの色もの(現在の寄席)が有名でした。現在は駐車場。

牛込館。漱石も通った寄席、和良(わら)(だな)亭、俳優学校と創作試演会の「牛込高等演芸館」、映画館の牛込館などがあり、大正時代は専ら牛込館でした。現在は数軒の飲食店。

柳水亭。肴町(神楽坂5丁目)にありました。明治時代は講釈席の鶴扇亭、大正に入ると寄席の柳水亭、関東大震災の翌年の大正13年(平松南氏の『神楽坂おとなの散歩マップ』展望社、2007年)には勝岡演芸場になり、さらに活動写真の東宝映画館になりました。現在は飲食店。

牛込亭。牛込亭も色物が主体で、通寺町(神楽坂6丁目)にありました。道路で2つに切られて普通の民家になっています。

文明館。通寺町(神楽坂6丁目)にあり、文明館の勧工場、映画館の文明館から後に映画館の武蔵野館と変わりました。現在はスーパーのよしや。

最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとこの場所で他の映画館や寄席に行きます。映画館と寄席

牛込会館 牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 柳水亭 牛込亭 文明館

色物寄席。現在の寄席の演芸場。江戸時代から昭和初期に至るまで、浪曲席、講談席(釈場)と区別し、落語、手踊、百面相、手品、音曲などの混合席のこと。現在は色物ではなく、寄席になった。

水谷八重子|舟橋聖一

文学と神楽坂

舟橋聖一氏の『わが女人抄』(朝日新聞社、1965年)の一節『水谷八重子』です。

 水谷八重子のことは四十年昔にさかのぼる。はじめて会ったのが、大正大震災の直後、神楽坂の牛込会館で演った「殴られるあいつ」(アンドレェエフ)の舞台稽古(げいこ)の日だが、八重ちゃんの書いた「舞台ぐらし五十年」(「潮」四月号)によると、初舞台は大正二年とあるから、私の会う前が、まだ十年ほどあるのである。
 当時私は旧制高校時代だったが、私より一つ若い八重ちゃんのほうが、はるかに年上で、舞台ずれ、世間ずれしていたように思った。それもそのはず、初舞台以来、「闇の力」のアニューシヤ、「アンナ・カレーニナ」のセルジー、「人形の家」のノラ、「青い鳥」のチルチル、チェーホフ「かもめ」のニーナ、「野鴨」のヘドイッヒなどの舞台経験をして、すでに水谷八重子の名は天下に鳴りひびいていたのである。
 が、それにしても、なんという我がままで横暴で、人を食った女優だろうと、内心おどろいたものだ。「殴られるあいつ」の脚色は、吉田甲子太郎氏で、演出は小山内薫氏、あいつの役は、汐見洋だった。
 舞台稽古だから、客席は関係者ばかりで、どこへでも自由に(すわ)れる。この会館は寄席風で、花道はついているが、客席は(ます)になっていた。私は舞台ばなの、ごく近い桝に陣取って一日がかりで見物した。
 あのころの八重子は、大ぜいの男・男・男の中にまじって、汗まみれになったものの、どんな男をも傍へ近寄せない誇りがあって、それがひどく驕慢(きょうまん)に見えたのだろう。しかし。驕り高き女というものは、若い男にはすばらしく魅力的である。八重子の人気が、沸騰するのも無理ではなかった。
 やがて初日があき、私は一度ならず見物に行った。三度目には、紀伊国屋書店田辺茂一をさそって行った。彼はまだ慶応ボーイだったが、一目で八重ちゃんに()れて、さっそく結婚を申込んで、ことわられたという話がある。このとき、求婚の使者に立ったのが、田辺の姉さんであったことは、最近まで知らなかった。昭和三十九年三月末、新宿に紀伊国屋ビルが竣工(しゆんこう)し、その五階にある紀伊国屋ホールの初開場に、水谷が「島の千歳」を踊った時、はからずも楽屋でその話が出て、姉さんが昔話を披露したことから、表面化した。八重ちゃんも思わず微苦笑して、
 「こういう証人に出て来られては、アウトですね」
 と、四十年の昔を思い出す風であった。しかし、大正末期における水谷の存在と一慶応ボーイ田辺とでは、いわゆる吊鐘(つりがね)に提灯の感なきにしもあらずで、私は彼の求愛を、およそ大それた注文で、振られるのが当り前と思っていた記憶がある。が、その(かん)四十年相たち候のち、自分の店の自家用のホールに、その人を招いて、一卜幕踊らせた彼は、やっと長い心の欝屈(うつくつ)を晴らすことが出来たろう。

一つ若い。舟橋氏は19歳、水谷は18歳

桝。ます。劇場・相撲場などで、方形に仕切った観客席

驕慢。きょうまん。おごりたかぶって相手をあなどり,勝手気ままにふるまうこと

紀伊国屋書店。1927年(昭和2年)1月22日創業。創業者の田辺茂一は、書店業界の実力者で文化人。

竣工。工事が完了して建物できあがること。竣成

島の千歳。しまのせんざい。おめでたい時に舞う長唄

吊鐘に提灯。形は似ていても重さに格段の開きがあり、外見はどうあれ、中身が似ても似つかないものの喩え

相たち候。あいたちそうろう。「時が立ちました」の古風な表現

一卜幕。ひとまく。幕を上げてから下ろすまでに舞台で演じる一区切り

欝屈。うっくつ。気分が晴れ晴れしない。心がふさぐこと

神楽坂・新宿|大宅壮一

文学と神楽坂

ちなみに大宅壮一氏が書いた昭和26年4月の「サンデー毎日」の『歓楽街五十年史』のうち「神楽坂・新宿」でも全く同じ光景が出てきます。昭和の時代、20年経っても、神楽坂は「盛り場の仲間入りもできないほどのさびれ方」になっていました。

 山の手方面の代表的歓楽街というよりも、二流の芸者町として知られていた神楽坂が、銀座の繁栄を奪ったかのような様相を呈したのは、大震災で焼け残ったおかげである。
 それだけではなく、ここには電車が通っていないし、道路もたいして重要ではないので、燈ともしごろ車馬一切が通行止めとなり、そのために、極めて安全で快適なプロムナードとして喜ばれた。夜はおびただしい人出で、銀座から移ってきたカフェープランタンへ毎晩のように通ってくる文人たちの間に混じって、お座敷着姿の芸者がつまをとって歩く光景は、当時の神楽坂でないと見られないものだった。
 牛込演芸館文明館牛込亭柳水亭などのほかに、牛込会館があって、ここではまだういういしかったころの水谷八重子の踊りや、いまはソ連で対日放送をやっているとかいう岡田嘉子の舞台姿も、よく見られたものだ。横町には松井須磨子が首をくくった芸術座の跡があり、それが後にアパートになって、一時、私もそこに住んだことがある。
 一流の洋食を食わせた田原屋オザワ、菓子の紅屋、縄のれんの飯塚などなど、名前をいえば思い出す人も多いと思うが、それらも、戦前すでに統制で影が薄くなり、姿を消したものが多い。特に戦後の神楽坂は、歓楽街どころか、盛り場の仲間入りもできないほどのさびれ方である。

褄をとる

燈ともしごろ 日が暮れて、明かりを点し始めるころ
プロムナード 散歩道。遊歩道。
カフェープランタン 岩戸町二十四番地(現在は岩戸町一番地)にありました。
つまをとる 褄を取る。芸者が裾の長い着物の褄を手で持ち上げて歩く。

神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとこの場所で他の映画館や寄席に行きます。映画館と寄席

牛込会館 牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 柳水亭 牛込亭 文明館

大震災①|昭和文壇側面史|浅見淵

文学と神楽坂

 関東大震災の神楽坂の様子です。浅見(ふかし)氏は昭和時代の小説家、評論家で、私小説風の作品や作家論、作品論などを発表しました。『昭和文壇側面史』は昭和43年に発表し、浅見淵は69歳のときです。

当時ぼくは牛込弁天町の下宿屋にいたので、下宿屋はもちろんのこと、神楽坂を中心とする牛込の山の手界隈はほとんど被害らしい被害は無かった。神楽坂の中ほどに、巌谷一六書の金看坂を掲げた、いまでも残っている老舗の尾沢薬局が、そのころ、隣りにレストランを経営していた。このレストランの二階が潰れていたくらいである。(中略)

田原屋・川鉄・赤瓢箪

 戦災で焼け、近年やっと復活して昔のように客を集めているらしい洋食屋の田原屋は、大震災のころ既に山の手の高級レストランとして有名だったが、この田原屋。肴町の路地の奥にあった、尾崎紅葉をはじめ硯友社一派がよく通ったといわれる川鉄という鳥屋。それから、質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋。これらの店には、文壇、画壇、劇壇を問わず、あらゆる有名人が目白押しに詰めかけていた。白木屋がいち早く神楽坂の中途に特売所を設けたが、一応物資が出まわると、これが牛込会館という俄か劇場に早変わりし、水谷竹紫水谷八重子たちの芸術座アンドレーフの「殴られるあいつ」を上演したりしていた。この劇団に、のちに築地に小劇場のスターとなった、東屋三郎汐見洋田村秋子たちが客演していたが、この連中の顔がとくに赤瓢箪ででよく見受けられた。

弁天町 弁天町場所は新宿区の北部に。巨大な町ですが、明治5年から変わっていません。大部分が宗参寺の境内で、元禄十一年以降次第に町皿みができ門前町となりました。
尾沢薬局

神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では

尾澤薬局明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています。
レストラン

尾沢薬局の隣りは、カフェー・オザワといいました。加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』「早稲田神楽坂」(昭和2年)によれば

薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフェを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないゝカッフェが出来、それで益〻土地が開け且その繁栄を増すように思われたからだった。
赤瓢箪 これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では「おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん」と書き、昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では「赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。」と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。関東大震災でも潰れなかったようです。
白木屋 しろきや。東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ。かつて日本を代表した百貨店の一つ。法人自体は現在の株式会社東急百貨店として存続。1930年(昭和5年)、錦糸堀や神楽坂に分店を出しています。
牛込会館 神楽坂の2丁目から3丁目に入ってすぐ右側で、現在は「サークルK」です。関東大震災の数日後、水谷竹紫と水谷八重子は牛込会館の屋上に上っています。牛込会館は現在はサークルKに変わっています。
芸術座 第二次芸術座。第一次芸術座は、1913年、島村抱月、松井須磨子などが結成し、1919年、解散。第二次芸術座は、水谷竹紫、水谷八重子が名前を受け継ぎ、同名の劇団を起こしました。
アンドレーフ Леонид Николаевич Андреев。Leonid Nikolaevich Andreev。レオニード・ニコラーエヴィチ・アンドレーエフ。20世紀はじめのロシアの作家。生年は1871年8月21日(ユリウス暦8月9日)。没年は1919年9月12日。ロシア第一革命の高揚とその後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家に。
殴られるあいつ 1922年の演劇。He Who Gets Slapped。道化師となった科学者の愛と人生を描きました
田村秋子 たむら あきこ。新劇女優。生年は明治38年(1905年)10月8日、没年は昭和58年(1983年)2月3日。1924年築地小劇場の第1回研究生として入所、創立公演『休みの日』に出演。29年、夫の友田恭助と築地座を結成、戦後は文学座に出演。

神楽坂|大東京案内(5/7)

前は大東京案内(4/7)です。

あまり広くないこの界限(かいわい)で、娯楽(ごらく)機関(きくわん)は五つ六つある。昔、神市場といった現在の神樂坂演藝館牛込亭などは色もの席。手踊り浪花節席の柳水亭(りゆうすゐてい)は今の勝岡(かつをか)牛込(うしごめ)會館(くわいくわん)は最も立派な建物だが、震災直後には水谷八重子汐見洋などが新劇(しんげき)を演じた思ひ出を持ってゐる。
 映畫常設館の文明館(ぶんめいくわん)は三流どころの活動小屋らしい。そこへ行くと、(きう)藁店(わらだな)牛込館(うしごめくわん)は、所謂(いわゆる)山の手系統の流れを汲む説明者と、呼びもののレヴユーを以つて、一脉(みやく)新鮮(しんせん)な現代風を(かも)し出すところ。その客筋も新しい。

色もの 寄席で、講談・義太夫・落語に対して、彩りとして演じられる漫才・曲芸・奇術・声色・音曲などのこと。
手踊り 寄席などで、端唄や俗曲・流行歌につれておどる踊り
浪花節 江戸末期、大坂で成立。三味線の伴奏で独演し、題材は軍談・講釈・物語など、義理人情をテーマとしたもの。浪曲。
新劇 歌舞伎・新派劇などの旧劇に対抗して明治末期以降の新興演劇
一脉 一脈。ひとつづき。一連のつながりがあること。わずかに
客筋 きゃくすじ。その店に来る客の傾向・種類。客種

神楽坂演芸館 坂下から神楽坂3丁目のお香と和雑貨の店「椿屋」の直前を左に曲がると、左手に広々とした駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。さらに解説
牛込会館

神楽坂の2丁目から3丁目に入ってすぐ右側で、現在は「サークルK」です。水谷八重子氏の『芸 ゆめ いのち』(1956年)では

(関東大震災が終わると、一か月後の)十月十七日から一週間の公演の日取りをきめました。牛込会館は寄席をひとまわり大きくした程度の小屋で、舞台は間口が三間半、奥行も二間くらいのものでしたが、何しろ震災後、はじめての芝居でしたので、千葉や横浜あたりからもかけつけられたお客さんがあって、大へんな盛況でした。
 出し物は『大尉の娘』、『吃又の死』のほかに、瀬戸英一さんの『夕顔の巻』がでました」
文明館 文明館の地図は上の鶴扇亭と同じ地図に出ています。詳しくはここで
藁店 藁店(わらだな)は神楽坂5丁目と袋町とを結ぶ坂道です。
『ここは牛込、神楽坂』の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会を引用すると

小林さん(小林石工店) で、当時うちの前で、車を引く馬や牛にやる藁を一桶いくらかで売っていたので、あの坂を藁店と呼ぷようになったと聞いています。

文政十年(1827)の『牛込町方書上』によれば

里俗藁店と申候、前々ゟ藁売買人居候故、藁店与唱申候

と出てきます。明治維新より40年の昔から「藁店」という言い方は使っていました。なお、ゟは平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた合字平仮名(合略仮名)で、発音は「より」です。
夏目漱石氏の『吾輩は猫である』で

この子供の言葉ちがいをやる事は(おびただ)しいもので、(中略)或る時などは「わたしゃ藁店(わらだな)の子じゃないわ」と云うから、よくよく聞き(ただ)して見ると裏店(うらだな)と藁店を混同していたりする。

裏店とは裏通りにある家で、商家の裏側や路地などにある粗末な家をいいました。

レビュー レビューrevue。フランス語です。音楽やコント踊り等で構成。時事風刺の効いた舞台娯楽ショー。19世紀末から20世紀にかけて各国で流行。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとこの場所で他の映画館や寄席に行きます。

映画館と寄席

牛込会館 牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 柳水亭 牛込亭 文明館

文学と神楽坂

初代・水谷八重子|芸術座

水谷八重子 芸術座の園遊会 水谷八重子は、1905年8月、東京市牛込区神楽坂で時計商の松野豊蔵・とめの次女として生まれ、5歳のときに父親が死亡、母とともに名妓だった姉と義兄、編集者の水谷(みずたに)竹紫(ちくし)のもとに住みこんでいます。竹紫氏(本名は武)は島村抱月氏が芸術座をつくる際に中心的な役割を果たしていました。

 1914年(大正3年、9歳)、芸術座に『内部』で出演、1916年(大正5年、11歳)には帝劇公演『アンナ・カレーニナ』で松井須磨子氏演じるアンナ役の息子役で出演しました。

 自書の『芸 ゆめ いのち』(1956年、白水社)では

芸術座の旗上げ公演は、この年の九月、有楽座で行われました。出し物はメーテルリンクの『内部』と『モンナ・ヴァンナ』がとりあげられることとなりました。そして、この『内部』が、意外にも私の舞台出演のキッカケとなりました。
『内部』は、舞台の正面に窓を飾りつけ、外の群衆の動きや表情で、部屋の中の出来ごとを見せるという酒落れた芝居でしたが、その群衆の子役をやらされたのです。
 もちろん、義兄がその話をもちかけてきました時は、「嫌よ」と、かぶりをふったのですが、いろいろなだめすかされ、とどのつまりは、黙って抱かれているだけでよいからということで、やっとうなずきました。もっとも、子供の泣き声をきくと、とたんに不機嫌になる義兄だけに、これまで殆んど口をきいたことのない仲でしたが、その義兄が笑顔をみせて私に話しかけるのが珍しくもあり、つい興味も手つだって、出ることを約束したようにも思われます。しかし、二、三度お稽古につれて行かれるうち、私にどうしてもセリフをいわせて、舞台の効果をだそうとしたらしく、初日の舞台があく前になって、「見えないから、どいてよ!」というセリフを大声で言うように申し渡されました。恥かしかったせいもありましょうが、子供心にも約束が違うといって、とうとう楽の日まで言わずじまいでした。相当の強情ッぱりでもあったようです。
 私の初舞台は、正式には大正五年九月、帝劇で『アンナ・カレニナ』のセルジーをやったことになっていますが、実際はこの『内部』でした。この芝居で、松井須磨子さんや沢田正二郎さんにお目にかかりましたが、お二人とも毎日、奪いあうようにして私の顔の拵えをして下さいました。また群衆の一人に秋田雨雀先生が出演なさっていたのを記憶しております。先生は『内部』の翻訳者で、文芸部に席をおいておられましたが、人手が足りないため、出演なされたそうです。みるからにお優しそうな、小柄な方でした。

 1970年の『私の履歴書』(日本経済新聞社)では

「内郎」のけいこ中、室内のベッドで、他の恐怖を待つ屋外に、村人が集まってくるシーンがある。群衆の一人に子供かほしい、との希望が出た。結局、近くで遊んでいた私がかり出された。もちろん台詞はない。かわいそうとあって、「見えないからどいてよ」のひとことを与えられたのを思い起こす。
 これが私の舞台へ出た最初である。が、初舞台は、二年後、芸術座の帝劇公演、トルストイ作「アンナ・カレーニナ」の子役セルジーということにしている。というのは、「内部」の場合、役の名とてなく、その場に居合わせてのを場だったのだか、セルジーは違う。脚色の松居松葉(のち松翁)先生が私の出演を祝って、母親アンナとかれんな子供との別離場面を、特に一景書きたしてくれたのであった。

 平成7年『ここは牛込、神楽坂』の第5号で、娘・水谷良重氏と聞き手・竹田真砂子氏は『神楽坂談話室。水谷良重』による座談会を載せています。

水谷 その抱月、須磨子一座の「アンナ・カレーニナ」のアンナの息子役のセルジーというのが(水谷八重子氏の)正式な初舞台だったようです。そのときは竹久夢二さんがお人形の絵を書いてくださって、それを手拭に染めて配ったとか。

 残念ながら竹久夢二氏の「お人形の絵」はどんなものなのか分かりません。そこで、氏の「人形の絵」を調べました。参考までにこんな絵があるそうです。

 1923年(大正12年、18歳)9月1日の関東大震災を迎えます。

かれこれ一ト月もたったでしょうか。九月一日のお昼ころです。裏庭に近い墓地の蝉の声をきくともなくききいっていますと、だしぬけに、ガラガラと屋鳴りがおこりました。思わずおフトンを頭からかぶりましたが、屋鳴りはやまず、その上にこんどは上下にゆれて、まるで船の難破を思わせるように激しくなってきます。余りのこわさに「お母さーん」「アーちゃま!(姉の愛称)」と叫びましたが、実は大きな声も出ず、ハネおきて柱や障子づたいに台所から裏庭へとびだしました。病床に長く寝ていましたので起き上れなかったのですが、驚いて立ち上ったわけです。墓地のそばに寝間着のままで、ちぢこまっておりますところに、母と姉が「よく起き上がれたね」といいながら血の気のひいた姿で、家からとびだしてきました。二人ともおびえながらも、私をかばうようにして、成行をぼう然と見守っておりましたが、ここで過ごした数刻は、本当にこの世の最後の阿修羅場かと思われました。幸いに私の家は無事でしたが、私の寝床にはいつのまに落ちましたか、屋根を打ちぬいて、一抱えもある墓石が落ちていました。これには二度びっくりしてしまいました。こうした騒ぎのなかを、友田さんがご自分の小石川のお家が焼け落ちたのにもかまわず、私がどうしているだろうと、お見舞に来て下さいました。(『芸 ゆめ いのち』)

 数日後、牛込会館の屋上に上っています。牛込会館は現在はサークルKに変わっています。

義兄が私をつれて、神楽坂中腹、牛込会館の屋上にあがったのはいつだったろうか。日数のたっていなかったことだけは確かである。神田、日本橋、下谷にかけて、見わたすかぎり、蕭条とした焼け野原、痛ましいながめに、胸が熱く締められた。感情の激しい義兄竹紫は「日本はどうなるだろう」と、ひとこともらしたあとで「八重子、しっかりしよう。この会館が残っているかぎり、芝居はやれるよ」と言った。その目に涙のにじんでいたことを忘れない。(『私の履歴書』)

『ここは牛込、神楽坂』第5号で水谷八重子氏の「神楽坂の思い出」では、編集者註として

古老の話などによると水谷八重子さんは、もと通寺町35(現神楽坂6丁目)、駿河屋さん(昔は油屋でいまは模型の店)の横を入ったところとのことなので、横寺町は記憶違いでしょうか。

大正11年東京市牛込区
 大正11年の地図では通寺町35は赤の場所です。地図上では確かにここが通寺町35になるのですが、しかし「現神楽坂6丁目の駿河屋さん」は通寺町64(緑色)になります。通寺町35か、通寺町64か、どちらかが間違えています。「区内に在住した文学者たち」の水谷竹紫の項によれば、氏の住所は大正6年頃~7年頃は早稲田鶴巻町211、大正12年頃~15年頃は通寺町61(青色)になっています。

 大正12年に関東大震災が起こっていますから、通寺町35ではなく、水谷竹紫氏は実際には通寺町61にいたのでしょう。現在も住所としては同じでです。「現神楽坂6丁目の駿河屋さんの横を入ったところ」が正しいと、住所も通寺町61が正しいのでしょう。

それからは、義兄は文字通りに日夜奔走しまして、十月十七日から一週間の公演の日取りをきめました。出演者は花柳章太郎、小堀誠、石川新水、藤村秀夫さん等、新派の“新劇座”の方たちが中心で、そのなかに私も加えて頂きました。
 牛込会館は寄席をひとまわり大きくした程度の小屋で、舞台は間口が三間半、奥行も二間くらいのものでしたが、何しろ震災後、はじめての芝居でしたので、千葉や横浜あたりからもかけつけられたお客さんがあって、大へんな盛況でした。
 出し物は『大尉の娘』、『吃又の死』のほかに、瀬戸英一さんの『夕顔の巻』がでました。私は『ドモ又の死』と『夕顔の巻』の雛妓に出演いたしました。衣裳など何一つありませんので、私や義兄の着物はもちろん、神楽坂の芸者さんからもいろいろお借りして問にあわせました。
 楽屋で顔をつくりながら、ふと窓の外をながめますと、入口から遙か牛込見付まで延々と坂に行列をつくったお客さんが、たちつくしておられました。開場後、はみでたお客さんのなかには、「横浜から歩いてきたのだからみせてよ」と、入口で嘆願している方もあり、いまさら芝居とお客さんの結びつきの深さを感じさせられました。
 一方、この公演の成功で自信を得ました義兄は、私を中心に“芸術座”再興の肚をきめて、一路その準備をすすめて行きました。(『芸 ゆめ いのち』)

 ここでは「牛込見付」ですから神楽坂下に人が流れています。神楽坂上に流れたような日もありました。下では「肴町」、これは「神楽坂上」に流れて行っています。

牛込会館での初日を待ちかねて集まってきた観衆は、中腹から坂上の昆沙門様前を越し、肴町の電車通り近くまで列を作った。会場は、高級寄席のような建物だったので、収容人員も、すしづめにしで、五百人も入れたらギリギリだったろう。(『私の履歴書』)

 1924年(大正13年)、義兄の水谷竹紫が第二次芸術座を創立し、その中心メンバーとして活躍します。