牛込停車場
風俗画報臨時増刊「新撰東京名所図会」の「牛込区之部 上」は明治37年に発行したもので、その「牛込停車場」です。
●牛込停車場 牛込停車場は。牛込濠の東畔を埋めて設備したる甲武鐵道線の驛にて。飯田町の次に在る停車場なり。其の結構四谷停車場と大差なし。但當所の閣道は驛の西側に在りて。直ちに舊牛込門南の乗車券賣場に行くべく。右に下れば四谷、新宿行のブラットホームに至るべし。飯田町行は改札所前にて。閣道を攀るの煩なし。 當所の土手には。四谷の如く多くの躑躅花なきも。秋夜叢露の中に宿りし蟲の聲ゆかしく聞ゆ。 今や電車の準備中なれば。長蛇の黒煙を噴て走るの異觀はなきに至るべきか。但隄松には電車の方よろしきか。 |
[現代語訳]牛込停車場は、牛込堀の東側を埋めて設備した甲武鉄道線の駅であり、飯田町の次に来る停車場だ。その構成は四谷停車場と大差はない。ただし、当所の階上の廊下は、駅の西側にあり、直ちに旧牛込門の南口の乗車券売り場に行く場合、右の下に行けばよく、四谷や新宿に行くブラットホームになる。飯田町行は改札所の前で、跨線橋を登るわずらわしさはない。 当所の土手には四谷と違って多くのつつじの花はないが、秋の夜、草むらのつゆのなかで、虫の音は心がひかれる。 現在は電車の準備中で、長い黒煙を吹いて走る奇観はないといえよう。なお、土手の松では電車のほうがよくはないか。 |
甲武鉄道 東京市内の御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿 を経由、多摩郡を横断し八王子に至る鉄道を甲武鉄道は運営しました。 1906年(明治39年)公布の鉄道国有法で同年10月1日に国有化、中央本線の一部に。

結構 全体の構造や組み立てを考えること。その構造や組み立て。構成。
閣道 かくどう。地上高くしつらえられた廊下
舊 旧
攀る よじる。よじ登る。
躑躅 つつじ。
明治初期(おそらく明治10年以前)、まだ牛込橋は1つだけです。
明治後期になって、小林清親氏が描いた「牛込見附」です。本来の牛込橋は上の橋で、神楽坂と千代田区の牛込見附跡をつなぐ橋です。一方、下の橋は牛込駅につながっています。
1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。場所は 牛込駅と比べて北寄りに移りました。また、牛込駅は廃止しました。
織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録』(洸林堂、1944年、昭和19年)で『牛込見附雪景』です。このころは2つの橋があったので、これは下の橋から眺めた上の橋を示し、北向きです。
なお、写真のように、この下の橋は昭和42年になっても残っていました。
また、2014(平成26)年、JR東日本は飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設し、西口駅舎は一旦取り壊し、千代田区と共同で1,000㎡の駅前広場を備えた新駅舎を建設したいとの発表を行いました。2020年の東京オリンピックまでに完成したいとのこと。