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私のなかの東京|野口冨士男|路面③

文学と神楽坂

 昭和53年(1978年)、野口冨士男が書いた『私のなかの東京』③は、『神楽坂通りの図』と『牛込華街読本』の紹介があり、さらに神楽坂の路面はどう変化してきたかを書いています。最初は砂利、それから大正12年以降は木の煉瓦、そして昭和初期には石畳の場所もできたようです。

 私が神楽坂に住んでいたのは、小学校入学の前年に相当する大正六年秋から震災後の十三年春までで、その後も昭和三、四年ごろまでひっかかりを持っていたが、『神楽坂通りの図』には表通りの商店が軒なみ拾いあげられているばかりではない。路地奥の待合や芸者屋に至るまで詳細をきわめていて、私の家も図示されているからまことにありがたい。
 また、かつて東京新聞社政治部記者であった加藤裕正から贈られた、昭和十二年十ー月に牛込三業会から編纂発行された非売品の『牛込華街読本』には、巻末に『牛込華街附近の変遷史』というものが収載されていて、明治三十年代の写真や「風俗画報」の挿絵などが多数転載されているし、そうした有様は関東大震災前までさほどいちじるしい変化をみせていなかったので、それをひろげてみると回想のための援軍を送られたような気がする。震災前の神楽坂には砂利が敷かれていて、傾斜ももっと急であったから、坂下には九段坂下ほどではなかったが、荷車の後押しをして零細な駄賃をもらう立ちん棒がいたことまでが思い出される。

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砂利 これははっきり出ています。昔は『牛込華街読本』にもあるように砂利でした。写真ではぶらぶらと坂に人相の悪そうに見える数人が立っていますが、次に説明する立ちん棒をやっていたのですね。

立ちん棒 立ちん棒について、『新宿立図書館資料室紀要4 ― 神楽坂界隈の変遷』の「古老談話・あれこれ」で古老はこう話しています。

俗に『立ちん棒』ってのがいましてね、坂を上る車のあと押しをする人達ですが、それが坂下にいつでも立っているんです。坂の下まできて『サァ行こうか……』なんていうと、うしろからあと押しをして坂の上まで手伝って行って、1銭か2銭もらうんです。大正までいましたね。当時の1銭か2銭でもまず今の100円以上でしょうネ。一般の人達は30円か40円位の月給ぢゃなかったんですかねえ」

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊『大学シリーズ 法政大学』昭和46年、『ここは牛込、神楽坂』第17号に抜粋)では

 神楽坂下には、たちんぼと呼ばれる職業の人が二、三人いた。四十過ぎの男ばかりで、地下足袋に股引、しるしばんてんという服装だった。八百屋、果物屋その他の商売の人たちが、神田市場から品物を仕入れ、大八車を引いて坂下まで帰ってくる。一人ではとても坂はあがれない。そこで、たちんぼに坂の頂上まで押してもらうのであった。
 いくばくかの押し賃をもらうと、次の車を待つのであった。この商売は、神楽坂だけのものだったにちがいない

神楽坂通り

 その砂利が取り払われて(もく)レンガとなったのは震災後のことだったはずで、坂の傾斜がゆるくなったのもそのときだったとおもうが、それがさらにサイコロ形の直方体の石を扇面状に置きならべたものに変ったのは昭和初年代のはずである。たしか昭和四年に中央公論社から出版された浅原六朗の『都会の点描派』というクリーム色のペーパーバックスの一冊に掲載されていた随筆の一つに、神楽坂の路面は中央が高くて左右が低い――カマボコ状をなしていると記されていたと私は記憶する。そして、『牛込華街読本』に掲載されている昭和十二年当時の写真をみると、ほぼ現状にちかいものに改まっている。
 が、それはただ路面だけのことで、両側の店舗の現状は激変している。最も顕著な変化は建物が比較にならぬほど立体化されたことだが、それとても他の繁華街ほど高層なものがあるわけではない。いちばん高いものでも、志満金の五階建てどまりである。
 が、それはただ路面だけのことで、両側の店舗の現状は激変している。最も顕著な変化は建物が比較にならぬほど立体化されたことだが、それとても他の繁華街ほど高層なものがあるわけではない。いちばん高いものでも、志満金の五階建てどまりである。まして、平面ともなれば、なんらの変化もみとめられないと言いきっても、恐らくまちがいではない。どこの横丁や路地を入っていってみても、他土地のばあいは道幅がひろげられたり、曲線が直線にちかく改変されている例がすくなくないのに、神楽坂周辺にはそういうことがない。都市開発からそれだけ取り残されているともいえるが、そういえば新宿区は町名変更も最もおくれている区の一つで、神楽坂周辺にはいまのところまだ旧町名をとどめているものがかなり多い。が、それももはや時間の問題であることは言うまでもない。

木レンガ 木で作ったレンガ。レンガ状の木。木材を輪切りやサイコロ状にして、木口を上に向けて敷き並べたもの。
震災 関東大震災のことで、1923年(大正12年)9月1日11時58分に発震。
石畳サイコロ形… 石畳の1つ。ピンコロ(つまり、おおむね正方形の)石畳(敷き詰められた上面が平らな石)を使った鱗張り舗装(舗石張り技法の一つで、魚のうろこのように張ること)
都会の点描派 『都会の点描派』は1929年に中央公論社から出て、1993年、河出書房新社が再度出した当時の東京の随筆集です。最初に「神楽坂の路面は中央が高くて左右が低い――カマボコ状をなしていると記されていた」という点についてです。
 まず、この文章は『都会の点描派』のどこにも出ていません。つまり、河出書房新社の『浅原六朗選集 第3巻』(1993)には『都会の点描派』が完全に載っていますが、ここには同じ文章はどこにもありません。
 神楽坂は「弧を描く街から」という章にあり、「弧を描いている神楽坂の街路は、近代的な直線から離れて何処かなつかしいローマンスがあるので、人々はここを中心として夜にさかる」と「それらの物語を抜きにしても、神楽坂には曲線的都会情緒がある」だけです。「さかる(盛る)」とは「繁盛する。にぎわう。はやる」のこと。河出書房新社版ではこれ以上はわかりませんが、「弧を描いている」はどちらかというと「魚のうろこのように」、つまり石畳に似ています。
 さらに「路面は中央が高くて左右が低い」のは、道路全体について書いているのでしょう。道の中央が盛り上げられ、左右はどぶになり、前から下に割るとカマボコ形になっていた。(これから先に説明する道路を参照しましょう)。しかし、これも『都会の点描派』では書いていません。
当時の写真 『牛込華街読本』の昭和十二年当時の写真はこうなっています。

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神楽坂。『牛込華街読本』172頁から


志満金 しまきん。神楽坂下の2丁目の鰻屋のこと
時間の問題 ではなく、牛込では今でも古い町名をとどめています。

牛込華街読本

文学と神楽坂

牛込華街讀本、牛込華街読本

牛込華街読本

『牛込華街読本』(昭和12年、1937年)は主人と女中と芸妓の職責をまとめた本です。なるほどこんな本があるんだ。芸妓のいる家はこの本を相当大事に大事にしまってあり、1回は主人と女中と芸妓はこの本をよくよく読んでほしいと……
 ところが『新宿 雑談』(昭和45年、1970年)という薄っぺらの本があり、その中で春木健吉氏が書いた「牛込華街読本が生きている――新宿周辺の華街」を読むとあっと驚く話が出ています。『牛込華街読本』は日本の図書館全部で2冊があるだけで、おそらく誰かが秘蔵している本を加えてみても、勝手に言えばおそらく十数冊もないだろう。うーむ。では「牛込華街読本が生きている」の一部です。

 上野駅前の本屋にはいって、書棚の題字を見ながら物色した。永井竜男著「わが切抜帖より」という随筆集が目にとまった。(略)
 酒徒交伝――石黒敬七旦那の酒癖からはじまって、芸者遊びの話題に「牛込華街読本」の要約が1頁半ほど書いてあった。
 この本が永井竜男氏の蔵書になっているというから、私は昔日の神楽坂華街の関係者ならばもっていると簡単に考えた。
 板室温泉の二泊の間、予定された原稿は未完のまま、私は「わが切抜帖より」を読み耽けてしまって、面白さに読み終えた。
 未稿のまま東京へ帰った私は、妙に「牛込華街読本」が気がかりになって、神楽坂華街の旧友に電話で依頼した。
 ところが、旧友から「牛込華街読本」の記憶がないというのである。後日、旧友が華街関係者に尋ねて誰も識らもないという返事が撥ね返ってきた。私はこの返事にいささか愕いたのである。旧友は戦前まで神楽坂の有名だった料亭の息子だからだ。それに三業会が出版して、一般の客が蔵書しているのに関係者が識らないというからである。
 それから、私は心当りの蔵書家連に「牛込華街読本」の有無を聴き歩いた。
 最近、私は新宿郷土研究家一瀬幸三氏がこの本を蔵書しているのを聴き、借入りを申出たところ心よく貸していただいた。
 さらに新宿区立図書館資料室へ資料探しに出かけた際、資料室員から「牛込華街読本」は神楽坂検番に一部だけ、それも客から贈られたのが残っているというのである。重ね重ねの愕きである。

 現在、牛込三業会が発行した蒔田耕著『牛込華街讀本』は新宿歴史博物館国立国会図書館に入っています。
 なお、『
新宿 雑談』は新宿歴史博物館に入っていますが、国立国会図書館には入っていません。こちらは1冊しかないのかも……

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