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牛込の文士達➀|神垣とり子

文学と神楽坂

「牛込の文士達」(新宿区立図書館資料室紀要4神楽坂界隈の変遷、新宿区立図書館、 昭和45年)を書いた神垣とり子氏は1899年(明治32年)に貸座敷「住吉楼」の娘として生まれた江戸っ子で、美貌であっても、気性は激しく、浪費家で、しかも、相馬泰三氏の元妻。この2人、大正9年に結婚して、しばらくして横寺町の小住宅を借りていました。しかし、この結婚は長続きできず、大正12年頃、離婚します。ただし、相馬氏が死亡した直前の昭和27年に再会し、亡くなるまで神垣とり子氏は傍にいました。
 これは大正10~12年頃の世界です。

  牛込の文士達
火事はとこだい
「牛込だい」
「牛込のきん玉丸焼けだい!」
 牛込というと明治、大正時代の東京の子供達は、こういって噺し立てるほど、牛込の牛宿は芝の高輪車町辺の牛宿と共に有名だった。そして両方とも近所に飲み屋や小料理屋があり賑わったものだ。牛込の神楽坂は表通りが商店、裏通りは花柳界で、昔の牛込駅から入力車にのるとかなりの坂道なので車力が泣いたといわれた。「東雲のストライキ節」をもじって
「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」と替唄が出来た。
 毘沙門さまの本堂の鈴が鳴り出し、お百度道の石だたみに芸者の下駄の音が一段と冴えてくると毘沙門横丁の角のそばやの春月で「イラッシャイ」  ふらりっとはいるお客が気がつくと一羽のオームがよく馴らされていていうのだ。「もり」「かけ」 5銭とかいてあるので、もりかけを注文して10銭とられた上、もりの上からおつゆをかけて袴を汚した早稲田の学生の逸話もあった。その学生達にとりまかれて着流しのいわゆる「文士」連がいた。

火事はとこだい 昭和一桁に生まれた人はよく唄った「かけあい」言葉、「ハヤシ」言葉、地口じぐち歌、ざれ歌。地口とはしゃれで、諺や俗語などに同音や発音の似た語を使って、意味の違った文句を作ること。たとえば〈舌切り雀〉を〈着た切り雀〉という。
牛宿 牛の牧場のこと。神楽坂には大宝律令で牛の牧場が開けて以来の歴史があります。701年(大宝元年)、大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧ぎゅうまき」という牧場が設置、飼育舎「乳牛院」が建てられたという。古代の馬牧が今日都内に「駒込」「馬込」の地名で残されているが、古代の牛牧では「牛込」に当てはまるという。
高輪車町 高輪牛町。たかなわうしまち。牛町。市ヶ谷見附の石垣普請の時、重量運搬機の牛車が大量に必要となり、幕府が京都四条車町の牛屋木村清兵衛を中心とする牛持人足を呼び寄せて材木や石類の運搬に当たらせた。工事終了後、この町での定住を認め、牛車を使っての荷物運搬の独占権も与えた。「車町」(通称牛町)とよぶ。
車力 大八車などで荷物を運ぶのを職業とする人や荷車
東雲のストライキ節 東雲節、しののめ節、ストライキ節。明治後期の1900年ころから流行した流行歌はやりうたのひとつ。代表的な歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」
お百度 病気平癒や念願成就のため社寺に参りて、その境内の一定の距離をはだしなどで100回往復し、そのたびに拝する軽い苦行
もり 従来のつゆに浸して食べること。一説には高く盛りあげるから。
かけ 「おそばにつゆをぶっかけて食べ始める」から「ぶっかけそば」転じて「かけ」
着流し はかまや羽織をつけない男子和装の略装。くだけた身なり。

 大正の初めから神楽坂は「文士の街」になった。そうして山の手随一のさかり場だった。肴町を中心にして文なし文士は「ヤマモト」で5銭のコーヒーと、ドーナツで2時間もねばりおかみさんの大丸まげにみとれていた。
 雑司ヶ谷の森から木菟みたいに毎晩やってくるのは秋田雨雀で、雨が降ると見えないのは雨傘がないからだろうなんていわれていた。秋田雨雀は小柄な人なつっこい童顔でだれかれに愛想よく挨拶をしてゆく。「土瓶面なあど精二」とは、印度の詩入ラビンドラナート・タゴールが来朝して若い男女が話題にしたのをもじってつけた名で、谷崎精二潤一郎の弟でいい男だと己惚れていたが履物が江戸っ子のわりには安ものらしくすりへって、そり上げた額の青さとは似ても似つかぬものだった。矢来町を通って弁天町からやってくるのだから下駄もへってしまうのだろう。「」(このしろ)みたいに妙に青っぼい着物ばかり着ている細田民樹が五分刈りの頭でヒョコヒョコと歩いていた。

大丸まげ  既婚女性の代表的な髪型。丸髷の大きいもの。

大丸髷

雑司ヶ谷 東京都豊島区の町名。池袋から南に位置する。
木菟 みみずく。フクロウ科のうち羽角(うかく、いわゆる「耳」)がある種の総称。
土瓶面なあど精二 「ドビンメンナード・精二」と名前をつけたわけです。
ラビンドラナート・タゴール インドの詩人、思想家、作曲家。1913年、ノーベル文学賞を受賞。1916年から1924年まで5回来日。生年は1861年5月7日、没年は1941年8月7日。
弁天町 谷崎精二は大正8年頃から昭和元年頃までは弁天町6に住んでいました。
 このしろ。ニシン科の海水魚。全長約25センチ。約10センチのものをコハダという。
細田民樹 早稲田大学英文科卒。大正2年「泥焔」を「早稲田文学」に発表。島村抱月らの称賛をえ、早稲田派の新人に。兵役の体験を大正13年に「或兵卒の記録」、昭和5年「真理の春」として発表。プロレタリア文学の一翼を担った。大正10年から12年頃まで北町41の大正館。生年は明治25年1月27日、没年は昭和47年10月5日。

 都館という下宿やの三階に広津和郎が女房と暮していた。くたびれているが栗梅色縫紋の羽織着てソロリとしていた。親爺の柳浪お下りだといっていたがシャレタ裏がついていたっけ。ルドルフ・バレンチノにどこか似ているといわれていたが、本物が聞いたら泣きべそをかくだろうけど文士の中ではともかくいい男だった。宇野浩二葛西善蔵と歩いていると贅六や田舎っぺと違っていた。
 詩人の生田春月白銀町豆腐やの露地裏のみすぼらしい、二階に住んでいた。名とはあべこべの花世女史とー緒にいた。この花世女史が、油揚げを買ってる姿をよく見た。女弟子らしいデパートの女店員が二階にいた。これもだらしのない姿で、裾まわしがきれて綿が出ていても平気で神楽坂を散歩していた。「帯のお太鼓だけが歩いている」なんて背のひくい花世女史の陰口を長谷川時雨をとりまく女たちがいっていたが、花世はむしろ媚をうって男の詩人仲間を娼婦的に泳ぎまわる彼女らを見くだしていた。

栗梅色 くりうめいろ。栗色を帯びた濃い赤茶色。#8e3d22。#8e3d22
縫紋 ぬいもん。刺繍ししゅうをして表した紋。
ソロリ 静かにゆっくりと動作が行われるさま。そろそろ。すべるようになめらかに動く。するり
お下り おさがり。客に出した食物の残り。年長者や目上の人からもらった使い古しの品物。お古。
ルドルフ・バレンチノ サイレント映画時代のハリウッドで活躍したイタリア出身の俳優。生年は1895年5月6日.没年は1926年8月23日。
贅六 ぜいろく。関東の人が上方かみがたの人をあざけっていう語]
豆腐や 『神楽坂まちの手帖 第3号』(2003年)の「新宿・神楽坂暮らし80年②」で水野正雄氏は白銀町を描き、豆腐屋は現在の交番に当たるといいます。

白銀町・豆腐屋

花世 生田花世。いくたはなよ。大正から昭和時代の小説家。大正2年、平塚らいてうの「青鞜せいとう」同人となり、昭和3年「女人芸術」誌の創刊に参画した。夫の生田春月の死後「詩と人生」を主宰。生年は明治21年10月15日。没年は昭和45年12月8日。享年は満82歳。
裾まわし 裾回し。すそまわし。着物の裾部分の裏布をいう。
お太鼓 おたいこ。女帯の結び方の一種。年齢,未婚既婚を問わず最も一般的な結び方

「夏目君、君のボートの腕前は…」伊集院静氏

文学と神楽坂

 伊集院静氏の「『夏目君、君のボートの腕前はどんなもんぞな?』(子規)」(シグネチャー、2020年)です。

伊集院静

伊集院静

昨秋から新聞小説を執筆していて、主人公が明治、大正期に活躍した夏目漱石ということもあり、漱石の生まれ育った牛込や、浅草界隈を散策することが多くなった。
 丁度、長く仕事場にしていたお茶の水のホテルから、神楽坂の丘の上にあるホテルに移ってしばらくして、連載小説の執筆がはじまった。
 漱石の誕生、幼少、少年時代から書きはじめることになったのだが、百五十年前の話であるから、遠い時間を想像するのだが、さしてそれが遠い日のことではないのは、七、八年前、漱石と同時代に生きた正岡子規のことを書いた経験で、幕末、明治はつい昨日のことでもあるという考え方ができるようになっていた。

新聞 日本経済新聞
小説 2019年9月11日から伊集院静氏の「ミチクサ先生」が始まりました。
お茶の水のホテル おそらく「山の上ホテル」
神楽坂の丘の上にあるホテル おそらく「アグネス ホテル アンド アパートメンツ東京」
連載小説 伊集院静氏の「ミチクサ先生」が『日本経済新聞』で始まりました。
書いた経験 伊集院静氏の「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石」(講談社、2013)です。

 新しい仕事場になった神楽坂から、漱石の誕生した牛込坂下すぐ近くである。
 漱石記念館も静かで、思惟するには良い所であった。
 散策する場所を、物語の主人公が歩いていたり、赤ん坊の時なら、泣いていたりしていたのだろう、と想像するのは楽しいものだ。
 漱石は生まれてすぐ実母が高齢だったので、乳を貰わねばならず、里子に出された。里子に出されたが古道具屋だった。が心配になって夕刻見に行くと、夜店の商売道具を陳列した坂の隅に寵に入れられた弟がいたというので、あわてて抱いて帰ったという。その夜店のあった内藤新宿にも、夕刻行ってみたが、今はマンションになっていた。同じく乳を与えたのが、今、毘沙門天のある大通りの前の煎餅屋隣りの二階に髪結いの店があり、そこの女房であったらしい。昼間出かけた折、今は焼鳥屋になっている二階をしばらく眺めていた。
 どんな目をした、どんな赤児が、乳母の乳を飲み、満腹になるとどんな顔で眠っていたのだろうか、と想像した。

牛込坂下 「牛込坂」という坂はありません。漱石が誕生した場所は「早稲田前交差点」から「夏目坂」をのぼりかけた所です。また、誕生した坂は夏目坂です。『夏目漱石博物館』(石崎等・中山繁信、彰国社、昭和60年)の想像図を使うと夏目家は赤色で囲まれた場所でした。

夏目漱石博物館

夏目漱石博物館

すぐ近く 「夏目漱石誕生の地」(新宿区喜久井町1番地)から「神楽坂下交差点」までは徒歩で約28分もかかります。また「夏目漱石誕生の地」から「アグネスホテル」までは徒歩で同じく約28分です。
漱石記念館 正しくは「新宿区立漱石山房記念館」です。
実母 母ちゑは数え年42歳でした。
 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、慶応3年、

 二月中旬、または下旬(不確かな推定)、母乳不足も原因となり、生後ただちに四っ谷の古道具屋に里子にやられる。源兵衛村(豊多摩郡戸塚村宇源兵衛村、現・新宿区戸塚)の八百屋ともいわれる。里子にやられる前後に、神楽坂の平野理髪店の主婦から貰い乳をする。

 夏目鏡子述、松岡譲筆談の『漱石の思い出』(角川書店、1966年)では

(四っ谷の古道具屋は)毎夜お天気がいいと四谷の大通りへ夜店を張る大道商人だったのです。
 ある晩高田の姉さんが四谷の通りを歩いていますと、大道の古道具店のそばに、おはちいれ、、、、、に入れられた赤ん坊が、暗いランプに顔を照らしだされて、かわいらしく眠っております。近よってみるとまごう方なくそれが先ごろ里子にやった弟の「金ちゃん」なのです。何がなんでもおはちいれ、、、、、に入れられて大道の野天の下に寝せられているのはひどい。姉さんはむしようにかわいそうになつて、いきなり抱きかかえて家へかえつて参りました。が一時の気の毒さで連れ帰って来てはみたものの、もともと家には乳がありません。そこでお乳欲しさに一晩じゆう泣きどおしに泣き明かす始末に、連れて来た姉さんは父からさんざん叱られて、しかたなしにまたその古道具屋へかえしてしまいました。こうして乳離れのするまで古道具屋に預けておかれました。
高田の姉 「高田の姉」とは漱石の腹違いの二番目の姉にあたり、ふさです。

その夜店 漱石が夜店に関係したのは、四谷で里子になった時だけです。生まれたときからすぐに里子になり、実家に戻った年月は不明ですが、一年ぐらいでしょうか。続いて内藤新宿北裏町の塩原昌之助の養子になりましたが、時期は明治元年ごろからでした(他の説もあり)。「内藤新宿に夜台があった」と「四谷に夜台があった」とは同一ではありません。「内藤新宿に養父母が住んでいた」のほうが正しいと思います。
内藤新宿 江戸時代に設けられた宿場の一つで、新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯。荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)の中に梅沢彦太郎氏の「夏目漱石の遺墨」『日本医事新報』(第929号、発行は昭和15年6月15日)によれば

漱石さんは五歳の頃、古道具屋へ里子に遣られた。それは自分が母親に連れられて神樂坂の毘沙門さんの緣日に遊びに行つたら、金ちやんが籠に入って、がらくた、、、、道具と一緒に緣日に出てゐたといふので、それは先生が末子で、除りに母親が年をとってから出来たので世間體を恥ぢて里子にやられたもので、その古道具屋は、先生を連れては、淺草、四谷、神樂坂と轉々として夜店を出してをつたものらしく、それでがらくた、、、、道具を列べた傍の籠の中に先生を蒲團にくるんで置いてをつたものであります。
 それで、金ちゃんが笊に入つてゐると言つてをつたので、廣森の母親は漱石先生一家とも交際があったものだから、早速、これを先生の御両親にも傅へた。それで、先生の御一家でも驚かれて、寒いのに、夜店にがらくた、、、、道具と一緒に並べておかれてはといふので、遂に引取つて、實家から小學校にも上り、それで小學校時代から先生とずつと友達だつたと廣森は私に話してゐました
浅草、四谷、神楽坂 この3か所には夜店が出ています。

同じく乳を与えた 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、慶応3年、

 母親は乳が出なかったので、神楽坂の毘沙門天(日蓮宗鎮護山護国寺、現・新宿区神楽坂五丁目三十六番)前の平野という床屋(髪結かみゆい)の先代(または先々代)の主婦から乳を貰う。(鏡・昭和三年)これは、森田草平が漱石から直接聞いている。漱石は直矩から聞いたものと思われる。里子に出される前後らしいが、後であったとも想像される。

「古老の記憶による関東大震災前の形」『神楽坂界隈の変遷』(新宿区教育委員会、昭和45年)では「床ヤ・平の」と書いてあります。

平野という床屋

平野という床屋。「古老の記憶による関東大震災前の形」『神楽坂界隈の変遷』昭和45年新宿区教育委員会。

煎餅屋 「毘沙門せんべい 福屋」です。以前は「履物・三河屋」でした。
隣りの二階 「神楽坂界隈の変遷」によれば、居酒屋「伊勢藤」の方が正しいでしょう。「隣りの二階」ではなく「向こう隣りの家で1階」でした。
焼鳥屋 「神楽坂 鳥茶屋」です。当時は「魚國」でした。

 その髪結いのあった場所から五分も歩いた所に地蔵坂という坂があり、その坂の途中に、『和良わらだなてい』という寄席小屋があり、漱石は四、五歳から姉や兄に連れられて寄席へ行っていた。
 子供が寄席へ? と思われようが、江戸中期に全盛を迎えた寄席小屋は、町内にひとつの割合いで店を出していた。子供も父親や家の贔屓の役者、噺家はなしかの楽屋へ遊びに行き、菓子等をもらっていた。その『和良店亭』のあった坂道に立つと、一高の学生になった漱石が子規と二人で寄席見物に出かけた姿を思い、何やら楽しい気分になった。

地蔵坂 神楽坂通り4丁目から光照寺に行く坂。地域名は藁店わらだな
和良店亭 江戸時代からの牛込で一番の寄席。寄席は閉店し、明治39年に「牛込高等演芸館」が新築されました。
四、五歳 矢野誠一氏の『文人たちの寄席』(文春文庫)では

 江戸の草分けと言われる名主の家に生まれた夏目金之助漱石は、子供時代を牛込馬場下で過ごすのだが、まだ十歳にみたぬ頃から日本橋瀬戸物町の伊勢本に講釈をききに出かけたという。娯楽の少なかった時代の名家に育った身にとっては、あたりまえのことだったのかもしれない。


 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、明治2年、数え年3歳で、

12月20日(陰暦11月18日)(推定)、『桃山譚』の「地震の場」の初日を養父昌之助に連れられて観に行く。(最初の記憶)(小森隆吉)

と書かれています。
姉や兄に連れられて 八歳になる前の漱石は養子で、養父母のもと、一人っ子として生活しました(荒正人著『漱石研究年表 増補改訂版』集英社、昭和59年)。漱石が四、五歳の時に「姉や兄に連れられ」たという経験はおそらくありません。



大下水|市谷~牛込

文学と神楽坂

 江戸時代、市ヶ谷から飯田橋にかけて「大下水」がありました。
 この時、下水には3種類があったのです。自宅の前にある小下水、小下水を集める横切下水、横切下水を集めて最終的に落口から川にもっていく大下水です(新宿区教育委員会『紅葉堀遺跡』平成2年)。大下水は石垣で構築され、その普請修復は公的資金で行いました。
 この大下水は、昭和初期にあんきょ、つまり、地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路になっていました(本田創編著「東京『暗渠』散歩」洋泉社、平成24年)。それ以前にはかいきょ、つまり、ふたはない水路になっていました。

新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4。神楽坂界隈の変遷』(1970年)から

 まぁ、昔の下水のほんどは、雨水でした。屎尿は汲み取り式なので、下水に便や尿が混入することはなく、米のとぎ汁は拭き掃除に使い、最後は植木にまくわけです(ミツカン。水の文化。排水の歴史)。
 では、牛込の大下水について、『御府内備考』はどう見えていたのでしょう? この『御府内備考』は江戸幕府が編集した江戸の資料集です。これを編纂した『御府内風土記』は、1872年(明治5年)、皇居火災で焼失しましたが、『備考』は残っています。なお、≪≫は割注で、本来は一行の中に二段構えで表示する補注です。

大下水

大下水と外濠。正保年中江戸絵図から。正保元年(1644)頃。垂直に川が2本流れるように見えるが、左側は大下水の水、右側が外濠の水で、どちらも本当の川ではない。

大下水は市ヶ谷田町より牛込揚場町を歴て船河原橋脇にて江戸川に合す。此下水の成し年代等詳ならざれと寛永十八年堀千之助御手傅にて石垣を築きしよし傅ふれば古き下水なら事なし。此下水の上流尾州表門より外を柳川と唱へそれより上を拾川と唱ふるよし。よりて下流まてを通して紅葉川など書しものあり。その実は無名の大下水なり。改撰江戸志云紅葉堀の名は市谷左内坂の名主草名の名主といふ》家に蔵するふるき帳にも見へしといふ。坂光淳の説に四谷御門をそのかみ紅葉御門といひにといふによれはそれらの名よりおこりしや。此御門にはその比よき紅葉のありしかはかくいひしにやと

[現代語訳]大下水は市ヶ谷田町から牛込揚場町を経て、船河原橋脇にて神田川に合流する。この下水が成立した年代などはわからないが、寛永18年(1641年)、堀千之助は土木工事を行い、石垣を築いたという。古い下水なので議論しても仕方がない。この下水の上流は尾張国上屋敷の表門からの外に流した部分を柳川といい、それより上を拾川という。下流までを通して紅葉川など書いたものもあるが、その実は、無名の大下水である。改撰江戸志によれば、紅葉堀の名は市谷左内坂の名主(草体の署名が有名な名主)の家にあった古い帳簿でも見える。18世紀の歌人・坂光淳の説によれば、四谷御門をその昔、紅葉御門といったので、その名から名前がついたという。その時分、この御門には美しい紅葉があったので、そう名前がついたのではないか。

 正保年中江戸絵図(上図、1644年頃)には、大下水を越えて市谷と牛込を渡る橋は市谷御門だけです。牛込御門から神楽坂までは大下水のため直接渡れませんでした。

正保年間の大下水。拾川、柳川、紅葉川なども大下水と同じ意味で、図では外濠の上に大下水がありました。

正保年間の大下水。拾川、柳川、紅葉川は大下水と同じ意味。

 一方、明暦江戸大絵図(下図、1658年頃)では、市谷御門と牛込御門2つになっています。また、大下水の幅は、正保年中江戸絵図で神楽坂1丁目と同じぐらいと考えると約30m、一方、明暦江戸大絵図では一部に家などができているのか、幅は少なくなっていますが、それでも一間、つまり、約1.8mもあったと、『御府内備考』「揚場町」は述べています。

明暦江戸大絵図。http://collegio.jp/?page_id=154 (明暦は1655~8年)。大下水と外濠の距離が遠くなり、あいだには家もありそうだ。

明暦江戸大絵図(明暦3~4年頃、1657~8年)。大下水と外濠の距離が遠くなり、あいだには家もありそうだ。

『新修新宿区町名誌』から

『新修新宿区町名誌』から

市ヶ谷田町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば、「豊島郡市谷領布田ふた新田と称す場所に、元和六年(1620)頃から百姓町屋を立てていた。同九年、外堀造成の御用地として召し上げられたため、左内坂下に小屋場を設けて仮住まいをしていた。外堀完成後、旧址が堀になってしまったため、旧地近くの堀端に町屋取立てを願い出たが、既に武家屋敷となったために願いは却下され、替地として佐渡殿原(現市谷砂土原町周辺)、赤坂御門前の二か所を提案された。しかし両所ともに馴れ住んだ場所から離れた所だったので佐渡殿原の土を引きならして武家地に仕立てることを願い出、また堀端通りの田地にこの佐渡殿原や浄瑠璃坂下、逢坂辺りの土を落として埋立てた。寛永三年(1626)にこの埋立地を町割りし、南から順に市谷田町一丁目、上二丁目、下二丁目、三丁目とし、四丁目のみ市谷御門の南西側、現在の外堀通りと靖国通りとの分岐点にあたる場所に作られた。この地を開発した草創名主は島田左内である」。また、『新修新宿区町名誌』の絵(右図)では、南端は左内坂だと描いています。
牛込揚場町 新宿区北東部の町名。北は下宮比町に、東は神楽河岸に、南は神楽坂二丁目に、西は津久戸町にそれぞれ接する。江戸時代では神楽河岸の一部を含む。
船河原橋 旧江戸川(現神田川の上流)の橋。現在は、さらに外濠のお堀、さらに神田川も結ぶ橋(ここに最近の図)。
江戸川 現在は神田川。昔は堀と合流する上流を江戸川と呼びました。
寛永十八年 1641年
堀千之助 越後村上藩の堀干介直定。寛永15年(1638)、父直次が25歳で死亡し、寛永18年(1641)、幕府の命令で、6歳で御手伝普請を行い、家臣に市谷水道石垣の普請浚工したため賜物を与えた。翌年、死亡し、そのため後継者はなく、断家した。
御手伝 御手伝普請。おてつだいぶしん。豊臣政権や江戸幕府が大名を動員して行った土木工事。
 ゆ。さとす。相手の不明点や疑問点をといて教える。
尾州 びしゅう。尾張おわり国の異称。
柳川 「暗渠さんぽ」では、尾張国上屋敷(現、防衛省)から下流部分を指すという。名前は川沿いに柳が植えられていたため。
拾川 同じく「暗渠さんぽ」では、尾張国上屋敷(現、防衛省)から上流部分を指す。
紅葉川 「暗渠さんぽ」では、『全体をさす名称として、「紅葉川」「楓川」「長延寺川」「外濠川」などがみられます』
紅葉堀 「暗渠さんぽ」では、大下水のこと。
左内坂の名主 名主は島田左内です。
草名 そうみょう。そうな。草体の署名。特に、二字を合わせて一字のように書いたもの。その傾向が進むと、字を変形あるいは合体させて特殊な形をつくる花押かおうとなる。
坂光淳 18世紀の歌人。自書は『用心私記』
四谷御門 四谷見附門。千代田区麹町6丁目。現在のJR四ッ谷駅麹町口付近。初代長州藩主の毛利秀就が普請した

川柳江戸名所図会⑤|至文堂

文学と神楽坂

「藁店」と書いてありますが、由井正雪のことが中心です。由井正雪は榎町に軍学塾「張孔堂」を開き、門弟は一時4000人以上でした。由井正雪は藁店にも住んだことがあるようです。

藁   店

牛込に榎町という町がある。
  本郷春木うしこみ夏木なり (三二・42)
 本郷に春木町というところがあるのに対比させた句である。牛込を昔は<うしこみ>ともよんだ。
 この榎町に由井正雪張孔堂という邸宅を構え、門弟四千人を擁していたという。
   うし込のがつそうきものふといやつ    (天二・三・二七)
 この句、一七・39には「うしこみの」となっている。がっそうとは、総髪、なでつけ髪で、正雪の風采を語っている。ッ
   牛込先生とんだ事をたくらみ       (傍三・33)
 神楽坂を上り、善国寺を通り越してすぐの左への横丁を袋町という。もと行き止まりになっていたからだという。またこの辺りに藁を扱う店があったので〈藁店〉ともいう。
   わらだなでよベ逃げてくなまこうり   (五七・29)
 藁でなまこをくくると溶けるという俗信による句である。もっとも藁店というのは他にもあって、たとえば筋違橋北詰の横丁も藁店という。それはここで米相場が立っていたからだという

静岡市菩提樹院の由比正雪像

榎町 えのきちょう。新宿区の北東部にある。
春木 現在は本郷3丁目の大部分。
由井正雪 ゆいしょうせつ。江戸初期の兵法家。軍学塾「張孔堂」を開き、クーデターを画策。出生は1605年。享年は1651年。
張孔堂 楠木流軍学の教授所、軍学塾「張孔堂ちょうこうどう」を。塾名は、中国の名軍師2人、張子房と諸葛孔明に由来する。この道場は評判となり一時は3000人もの門下生を抱えたという。諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた。
邸宅 場所は牛込榎町の広大な道場でした。しかし、事件の6年後に生まれた新井あらい白石はくせきは、正雪の弟子から聞いた話として、正雪の道場は神田連雀れんじゃく町の五間いつまの裏店であったと書いています。
がっそう 兀僧。江戸時代の男の髪形。成人男子は前額部から頭上にかけて髪をそり上げた(月代さかやきを剃らした)が、剃らず、のばした髪を頭上で束ねたもの。
きものふとい 肝の太い。物に動じない。大胆である。
とんだ事 幕府転覆を企てたこと。事前に発覚し、由井正雪は自刃した。これが慶安事件です。
袋町 現在の袋町は大きい(右図の紫の場所)のですが、江戸時代では小さい場所(藁店の一部で赤の場所)でした。
藁店 わらだな。藁を売る店。店を「たな」と呼ぶ場合は「見せ棚」の略で、商品を陳列しておく場所や商店のこと。
なまこうり 海鼠売り。ナマコを売る人。季語は冬

 さて、正雪が藁店に住んだとも考えられていたようで、
   御弓丁からわら店へ度々かよひ      (天三松2)
 御弓丁は、後の本郷弓町で、丸橋忠弥の住んでいた所である。
   藁店は今も雲気を見る所         (桜・12)
 この句は今と昔とを対比させているわけであるが、今の方は、幕府の天文台のことで、はじめ神田佐久間町にあったものを、明和二年、吉田四郎三郎によって、この藁店へ移した。しかし西南方の遠望に障りがあるというので。その子の吉田靱負の時、天明二年に浅草堀田原へ引越した。此句は明和四年であるから此句の作られた時はまだ藁店にあった。
 もう一方、昔の方は、正雪のことで、慶安四年四月二十日の晩、道灌山に同志と集って手筈を定めたが、丸橋忠弥の軽率から露見し、忠弥は二十四日召捕られた。正雪は駿府にいたが、26日早朝、旅館梅屋方を立出て、東の方の空を仰いで天文を占ったところ、陰謀の露見を知り、自決したという。
 この句の作者は、正雪が牛込にいて雲気を見たと誤解して、昔、正雪が雲気を見、今は天文台で雲気を見ると対比させたわけである。

藁店に住んだ 昭和43年、新宿区教育委員会の『新宿の伝説と口碑』13.「由比正雪の抜け穴」では「神田連雀町(今淡路町)に住んでいた由比正雪は、光照寺付近に住んでいたくすのき不伝ふでんの道場をまかせられて、光照寺のところに移ってきた」と書いてあります。
御弓丁 おゆみちょう。明治時代は弓町。現在は 東京都文京区本郷2丁目の1部です。
丸橋忠弥 まるばしちゅうや。宝蔵院流槍術の達人。江戸時代前期、慶安4 (1651) 年、由井正雪らとともに江戸幕府倒壊を計画したが、事前に発覚。町奉行に逮捕され、品川で磔刑に処した。
雲気 うんき。空中に立ち上る異様の気。昔、天文家や兵術家が天候・吉凶などを判断する根拠にした。
吉田四郎三郎 1703-1787年、江戸時代中期の暦算家。明和元年、幕府天文方となり、宝暦暦の修正案をまとめた。佐々木文次郎の名で知られたが、晩年吉田四郎三郎に改名。
吉田靱負 吉田四郎三郎の子
浅草堀田原 現在は台東区蔵前の「国際通り」の「寿3丁目」交差点から「蔵前小学校」交差点までの地域です。
道灌山 どうかんやま。荒川区西日暮里付近の高台。そばに開成中学校・高等学校がある。
駿府 現在の静岡県静岡市。

 しかし駿府にいたという句もあって
   悪人するがと江戸でおつとらへ     (安八松4)
   ふとひやつするがと江戸でとらへられ   (安六松3)
   ふてゑ奴ッ江戸と駿河でとらへられ    (筥初・37)
   十能に達し久能で雪消へ        (一三四・3)
   不屈な雪駿州へ来て消る         (五四・33)
と言っている。また正雪が天文に達していたことについては、
   正雪にわか雨にあわぬなり      (安六義5)
という句もある。また、朝食の膳に向い、飯の上に立つ湯気によって露見を悟ったともいうので、
   冷飯を喰ふと正雪知れぬとこ       (五九・29)
   大望もすへる駿河の飯の湯気       (一四八・3)
 飯の饐えるにかけて言っている。

十能 じゅうのう。点火している炭火を運んだり,かき落したりする道具
久能 くのう。久能村で、静岡県の中部にある。
不屈 どんな困難にぶつかっても、意志を貫くこと。
すえる。饐える すえる。飲食物が腐ってすっぱくなる。


追憶の牛込|サトウハチロー

文学と神楽坂

 サトウハチロー氏が書いた『僕の東京地図』(春陽堂文庫出版、昭和15年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「追憶の牛込」です。

追憶スーベニーの牛込・ド・ウシゴメ
 僕は牛込うしごめで生まれた。薬王寺やくおうじだ。四つの時まで喜久井きくいちょうにいた。それから小石川こいしかわへとひっして行ったのだ。牛込にいた時は(こいつはあとで、おやじが話してくれたのだが)眞山まやま小父おじさん(靑果せいか氏)に抱っこして、毎口町を歩いたそうである。
 ――火事はどこだい牛込だい、牛のなんとか丸やけだい――
という唄だけは、いまでもはッきりおぼえている。(なんとかいうところは文句を知らないのじゃない。ただいまスーベニアを奏でている僕の心に、おかしなひびきを響かせたくないからである)
 小石川茗荷谷みょうがだににいた小学校の僕、早稲田わせだ中学一年のころの僕。長じておふくろと小石川の台町だいまちに住んでいた頃の僕にとって、神楽坂かぐらざかは、何と言っても忘れられない町である。矢来やらいの交番のところから、牛込見付みつけまでの間を一日に何度往復したことか。お堀には、ボートなんか浮いていなかった。暗い建物の牛込駅があって、線路に沿うてずッと桜が植わっていたように覚えている。身の丈を(ああ僕は四尺もなかッたですぞ)隠すくらいの草が、いっぱい生えていた。僕たち小学生は、二銭の釣竿を持って、一銭のバケツを提げて、そッと牛込駅のわきから、その草むらの中へ、しのびこんだ。みゝずをつけて、お堀へ投げ込んだ。一時間に十匹や十五匹あげるのはお茶の子サイ/\であった。ふなだ。鮒は引きが強い。六寸もあるのに引っぱられると堀の中へ引きこまれるように感じた。時々、オマワリさんに見つかっては追いかけられた。つかまっても、二銭と一銭と合計三銭の損だ(おゝその頃は、いまのように労力問題などはやかましくなかったので、僕は獲物えもの及びそれを獲得する労力のことは考えていなかった)。うまく見つからなかった日には意気揚々と、家へ帰った。殺生せっしょうのきらいなおふくろに見つかると、怒られるので裏の空き地へ行って、焚き火をして焼いて食った。泥くさかッただろうって? そんなことを考えているような子供なんかいなかッた、こいつは小学校時代の話だ。

スーベニー souvenir。仏語では土産、思い出、記憶など
牛込 昭和22年の区制改革前は、東京市は35区に分割。そのひとつ。
薬王寺前 「市ヶ谷薬王寺前町」は、明治末に名前だけが変わり、現在は「市谷薬王寺町」です。右図を。
なんとか 「きんたま」です
神楽坂 当時は神楽坂1丁目から3丁目までの町でした。
矢来の交番 「牛込天神町」交差点にある交番(現在は矢来町地域安全センター)(左図を)

 中学へ行くようになっては、何と言っても山本のわずかしか穴のあいてないドーナツに一番心をひかれた。十銭あると山本へ行った。山本は川崎第百の前だ。いまでもある。五銭のコーヒーを飲み、五銭のドーナツを食べた。ドーナツは陽やけのしたサンチョパンザのようにこんがりとふくれていた。コカコラをはじめて飲んだのもこゝだ。ジンジャエールをはじめて飲んで、あゝあつらえなければよかッたと後悔したのもこゝだ。この間、まだあるかと思って、ドーナツを買いに這入はいったら、店内の模様は昔と一寸ちょっと変わったが、陽やけのしたサンチョパンザことドーナツ氏は昔と同じ顔だ。皿に乗って、僕の目の前にあらわれた、なつかしかった。
長じて、おふくろと住むようになってからは、彼ドーナツ氏とは、別れを告げてしまツた。そうして、ヤマニバーにもっぱら通うようになった。ヤマニバーは御存知もあろう、文明館ぶんめいかんの先の右側だ。ヤマニバーの前にいま第一銀行がある。売家うりいえふだの出た家が一軒ある。この二軒の間を入ると右側に市営の食堂がある、こゝにも随分ごやツかいになった、金のない日は階下で大盛りに盛ったうどんを食べ、金のある日には、二階で、定食を食べたのだ。定食と言っても十五銭だ。こゝの食物くいものは、市営食堂のうちでも一番量が多くてうまいんじゃないかしら? ……これを通りすぎると飯塚質店の看板が出ている。飯塚友一郎さんのお家だ。質屋の看板の先に官許かんきょにごり酒と書いた看板がある。これも飯塚一家だ。
 ――けがれし涙を、にごり酒に落とす男こゝにあり――
 新宿へ遊びに行った帰りに、これを呑んでこんな歌を作った。あゝスーベニアはまだつづく。

中学へ サトウハチロー氏は明治43年(7歳)に小学校に入学し、大正5年(13歳)に早稲田中学に入り、大正6年(14歳)、父と一緒に浅草区に引っ越ししました。ちなみに関東大震災が起きたのは大正12年、20歳のときでした。
川崎第百 川崎第百銀行のこと。それから、左の蕎麦屋「春月」を飲み込んで大きくなり、最終的には「三菱UFJ銀行」になります。したがって「山本は川崎第百の前」を現在に置き換えると「魚さんは三菱UFJ銀行の前」になります。
いま この文章は昭和11年に書かれています。昭和12年に「火災保険特殊地図」に書いてあった「コーヒー」もこの「山本コーヒー」だったのでしょう。
サンチョパンザ 正しくはサンチョ・パンサ。スペインのセルバンテス(1547-1616)の小説「ドン・キホーテ」に登場する現実主義の従者。
コカコラ コカ・コーラ。ノンアルコール炭酸飲料で、1886年米国ジョージア州アトランタで生産を開始。第2次世界大戦中、米軍とともに世界中に拡大。日本では大正時代から出回っていました。
ジンジャエール ノンアルコール炭酸飲料で、ショウガ(ジンジャー)などの香りと味をつけ、カラメルで着色したもの。
あつらう あつらえるの文語形。注文して作らせること。
第一銀行 現在の「神楽坂KIMURAYA」。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈①


文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)は、昭和44年春から45年秋までの記録で、46年に「改稿東京文学散歩」として刊行し、昭和53年には「その後書き加えた新しい資料も多く、全面的に筆を加えて決定版とした」ものです。
「牛込界隈」の全部は著作権の関係で、引用できません(と思います)。そこで、そのうち一部を引用します。

   神楽坂

 大江戸成立以来の歴史的地域として牛込の名は明治以後も東京山の手の区名にのこされたが、現在は新宿区に含まれて、遂に地図からもその文字は消されてしまった。しかし、二十年前の敗戦混乱という塀の向うの歴史には牛込の文字がひしめいていて、それを知らねば二十年前の歴史さえ理解出来ないのである。
 牛込から江戸城への入口であった牛込見附跡の石垣は富士見二丁目北寄りの一角に厳然と今も残り、史跡となっている。その牛込見附跡を今日の出発点として、わたくしは中央線を(また)牛込橋を渡り、飯田橋駅南口前から外壕を横切る坂を下った。歩道に生きのこる老柳の陰から、その正面に牛込界隈かいわい第一の繁華街神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る。

牛込 東京都新宿区の地域名。旧東京市牛込区。主な地名として神楽坂、市谷、早稲田など。地名の由来は、昔、武蔵野むさしのの牧場があり、多くの牛を飼育したことから。
富士見二丁目区名 戦前は牛込区がありました。
富士見二丁目 東京都千代田区の地名。地図は右図に。
老柳 新宿区によれば、現在はハナミズキとツツジ(http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000180899.pdf)。柳は枝葉が下がって通行に支障があり、葉が小さく緑陰に乏しいため街路樹には向きません。

 神楽坂! いつもお祭りの神楽の笛や太鼓の遠音が坂の上から聞えてくるような街の名である。その地名もどうやら神楽に因縁があるらしい。「江戸砂子市谷八幡の祭礼に、神輿(しんよ)、牛込門の橋上に留まりて神楽を奏するより名を得たるとなし、江戸志は、穴八幡の祭礼に此の阪にて神楽を奏するより(なづ)くと云ひ、改撰江戸志は、津久戸社田安より今の地に移るの時、神楽を此阪に奏せしよりの名なりと記す。」と明治の『東京案内』には記されている。いずれにしても神社が多く祭礼が多いのは牛込の繁昌はんじょうを物語るものであろう。江戸以前の牛込氏居城址といわれる所も神楽坂を上ってまた左へ、藁店(わらだな)の坂を辿ったその上の袋町の台地一帯である。神楽坂は牛込氏時代から開かれていた坂道だったに違いあるまい。
 ところで現在の神楽坂は、東の牛込見附に近い坂下の外濠に面して警察署のあるあたりが神楽河岸で、東から西へ坂に沿って一丁目から六丁目まで続き、「神楽坂町」が「神楽坂」何丁目になっている。そのうち一丁目から三丁目までは以前と大した変化もないようだが、その次の四丁目は以前の宮比町、五丁目は(さかな)、そして今もまだ都電が走りつづけている旧肴町の十字路をそのまま西へ越したゆるやかな坂道の六丁目は旧通寺町である。またその先の矢来町の新称早稲田通りに矢来町ならぬ神楽坂という地下鉄駅が最近に開かれたので、神楽坂の名だけが勝手に飴棒のように引きのばされた感じである。自国の歴史認識さえ失った為政者共は、町名や地名を糝粉(しんこ)細工(ざいく)と勧違いして、勝手にいじくるのをよろこんでいるのではなかろうか。そんな感じさえする。

神楽 神をまつるために奏する舞楽。民間の神事芸能。
市谷亀岡八幡宮 いちがや かめがおか はちまんぐう。新宿区市谷八幡町にある八幡神社です。太田道灌が文明11年(1479年)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を守護神として勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して、亀岡八幡宮と称した。江戸城外濠が完成の後、茶の木稲荷のあった当地に遷座。明治5年に郷社に。
神輿 みこし。祭礼の時に、神体を安置してかつぐ輿(こし)
江戸志 写本。明和年間に、近藤義休が編集し、文化年間に、瀬名貞雄が増補改正した。
穴八幡 新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。
改撰江戸志 原本はなく、成立年代は不明。文政以前(1818~1830年)にはあったらしい。
津久戸社田安 元和2年(1616年)、それまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。
『東京案内』 正確には東京市市史編纂係編「東京案内」下巻(裳華房、1907年)。インターネットでは国立図書館の「東京案内」の146コマ目。
牛込氏 当主大胡重行は戦国時代の天文年間(1532~55)に南関東に移り、北条氏の家臣となりました。天文24年(1555)、その子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近などを領有。天正十八年(1590)、徳川家康に家臣となり、牛込城は取壊。
居城址 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)では牛込氏の居城址の想像図を出しています。

警察署 昔は警察署がありました。現在の警察署は南山伏町1番15号に。
神楽河岸 昭和56年の地図で緑の部分。

最近に開かれた 地下鉄の神楽坂駅は、1964年(昭和39年)12月に開業。
飴棒 あめんぼう。駄菓子。棒状につくった飴。
糝粉細工 うるち米を洗って乾かし、ひいて粉にした糝粉を蒸して餅状にし、彩色し、鳥、花、人間などの形にした細工物

  早稲田派の忘年会や神楽坂
という句が正岡子規の明治三十一年俳句未定稿冬の部(『子規全集』巻三)にある。この句は明治時代の神楽坂が当時の東京専門学校後の早稲田大学)のいわゆる早稲田書生の闊歩かっぽする街であったことと、宴会などが盛んに催されるような料亭などが多い街であったことを示している、この句の作られた明治三十一年十月までは、東京専門学校から明治ニ十四年十月創刊以来の第一次「早稲田文学」が発行されていて、坪内逍遙傘下の早稲田派がぼつぼつ文壇に擡頭しつつあった。「早稲田文学」が自然派の拠城として文壇を占拠するまでになり、実際に早稲田派の名が文壇にひろまったのは、島村抱月が逍遙の後を継いで主宰した明治三十九年一月からの第二次「早稲田文学」時代だが、子規のこの一句によって神楽坂はそれ以前から早くも文学的地名になっていたことが伺われる。

東京専門学校 明治15年(1882年)「東京専門学校」が開設し、10月21日、東京専門学校の開校式。明治35年(1902年)9月、「早稲田大学」の改称を認可。
早稲田大学 明治37年(1904年)、専門学校令に準拠する高等教育機関(旧制専門学校)。大正9年(1920年)、大学令による大学となりました。
第一次「早稲田文学」 明治24年10月20日「早稲田文学」の創刊号を発行。明治26年9月、第49号からは誌面が一新。純粋の文学雑誌に転身。明治31年10月まで第一次「早稲田文学」は156冊を出版。
拠城 活動の足がかりとなる領域。
第二次「早稲田文学」 1905年、島村抱月の牽引によって第二次「早稲田文学」を開始。

 神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る、とわたくしは云った。わたくしが神楽坂や早稲田あたりをはじめて歩いたのは昭和四年春からのことで、その後昭和八、九年頃にわたくしは近くの飯田町で貧乏文学青年の生活をはじめていて、毎夜のように神楽坂を歩き廻った。酒をたしなむのでもなく、また用事があるのでもなかったが、日に一度は必ずそこにゆかないと夜もおちおち眠れぬような気持で、ただわけもなく坂の夜店を冷やかしたり、ときには山田とか相馬屋とかの文房具店で原稿用紙を買ったり、友人と顔を合せては田原屋フルーツ・パーラーとか、白十字紅屋などの喫茶店で語りあうのが常であった。神楽坂は大正十二年の大震災で下町方面が焼けた後、一時は銀座あたりの古い暖簾のれんの店が分店を出し、レストランやカフェーなども多くなって牛込というより東京屈指の繁華街であった。牛込銀座などと呼ばれたのもその頃である。わたくしが上京した頃は銀座も既に復興していたが、神楽坂の夜の賑わいなどは銀座の夜に劣るものではなかった。……それが昭和の戦火で幻のように消えてしまったのである。
 戦後二十四年、思い出のフィルターを透してのぞく神楽坂には、必ずしも戦前ほどのうるおいもたのしい賑わいも感じられないが、復興に成功して繁栄を収り戻した街には違いない。わたくしは一丁目に新装した山田紙店の、わざわざ原稿用紙と大きく書いた看板文字をなつかしい気持で眺め、左側の一丁目とニ丁目の境の小路入口、花屋の角で足をとめた。その小路をはいった右側のあたりが、どうやら泉鏡花の住居跡に当るからである。

飯田町 現在は飯田橋一丁目から三丁目まで。飯田町は飯田橋一丁目と二丁目からできていました。地図はhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/d8/Chiyodacity-townmap1.png
田原屋フルーツ・パーラー これは神楽坂の中腹、三丁目にあった「果物 田原屋」を指すのでしょう。

 古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会から

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会から

ここは牛込、神楽坂」第17号の「お便り 投稿 交差点」で故奥田卯吉氏は次のように書いています。

 創業時の田原屋のこと。神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた。(略)
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。それは格調高いもので、大理石張りのショーウインドーがあり、店内に入ると夏場の高原調の白樺風景で話題になった中庭があり、朱塗りの太鼓橋を渡ると奥が落ち着いたフルーツパーラーになっていた。突き当たりは藤棚のテラスで、その向こうは六本のシュロの木を植えた庭があり、立派な三波石が据えられていた。これが親父の自慢で『千疋屋などどこ吹く風』だった。」と書いています。

暖簾 のれん。屋号などを染め抜いて商店の先に掲げる布。信用・名声などの無形の経済的財産。「暖」の唐音「のう」が変化したもの。

最新東京繁昌記|伊藤銀月

文学と神楽坂

 伊藤銀月氏が書いた「最新東京繁昌記」(内外出版協会、明治36年、1903年)の牛込区です。
 氏は評論家・小説家で、生年は明治4年10月21日。秋田中学中退。「よろず(ちょう)(ほう)」の記者でした。没年は昭和19年1月4日、73歳でした。この文章は32歳に書いています。ほかの区には悪口いっぱいで、牛込区はまだいいほうです。

まず、現代文に直してみます。

その7。夏のような風

 四谷は麴町と親しく、小石川は本鄕といい関係があるが、牛込区だけは他の区と親しくしていない。神楽坂は牛込区の目になっている。目がキラキラしていないと東京っ子の目ではない。神楽坂は肥えていて、お尻も大きな女性が、帯が解けてもわからず、街にいるようなものだ。神楽坂をぞろぞろ登ってくるのは、髪を西洋風に組み、帽子をもってくる西洋風の人が多い。
 牛込区の気風。
 神楽坂は牛込衆が展覧場にいるようなもので、牛込衆は自分を陳列しようとしてここに集合してくる。なお、牛込ッ子という言葉はどうもおかしい。牛込人や牛込者というも何か臭くて、面白くはない。牛込衆というのは穏便で、これが一番よかろう。
 旦那、続いて細君、それから子供、最後に下女がゾロリゾロリと牛込風に歩くと、ゆっくり歩くので、下駄の摩耗も一種違う。この区の人間ほど悠々と暮らし、生活も困っていないと見えるが、しかし、必ずしも暇は多くはなく、生活も困っている場合もある。そう見えないのは牛込風の気風だ。
 牛込区には、いつでも夏の初めに似たなまぬるい柔かい風が吹いてくる。この風に吹かれて麦の穗を出すように、髯が生えそうな先生がいる。つきたての餅に目鼻を書いたように、手でなでると消えような笑顏の令嬢もいる。
 神楽坂の芸妓が鳴らす三味線の音は、雨が降ってくるようだ。牛込には神楽坂の芸妓がいて、麹町には富士見の芸妓がいる。富士見の芸妓は蒔いた種に肥やしをふりかけ、芽になったものだが、神楽坂の芸妓はどぶばたにこぼれた種が自然にふやけて、芽になったものだ。つまり、同じように土臭いが、神楽坂の芸妓は、より自然で、より詩趣がある。
 士官学校や監獄署もある市ケ谷は、牛込の布地に一層粗い模樣を染め出したものだ。牛込では座布団を出るが、市ケ谷は敷布団に出す以外に方法はない。
 根岸は下谷の別の区域で、根津は本郷の別の区域であり、早稲田は牛込の別の区域に似ている。しかし実際には極めて異なり、別の区域ではなく「新牛込」である。神楽坂の繁華は早稲田の趣味に伴くように、早稲田の将来には神楽坂の趣味の繁華があるようだ。
 WindowやMacでは下の黄色の文字の上で1~2秒ポインターを動かさない場合に吹き出しが出てきます。残念ながらiPodは出てきませんので、最後に同じ文章を書いておきました。
其七 夏の初の如き風(牛込區)
四谷は麴町と親しく、小石川は本鄕と交り好し。獨り牛込は誰とも親しからず。
神樂坂は牛込の眼也、眸に張りの無きは東京ッ兒の眼にあらず。
神樂坂は、肥つて御尻の()()つた女が、帶の解けたを知らずに往來を引きずつて居る形也、ソロ/\と登るものは、束髪帽子の蟻。
牛込ッ子にあ
らず牛込衆牛込的氣風
神樂坂は牛込衆の展覧場也、牛込衆は己れ自身を陳列すべく此處に集合する也。牛込ッ兒と云ふは無論當らず、牛込人或は牛込者と云ふも何か臭ひがありさうに聞こえて面白からず、牛込衆と云ふの穩なるに如かず。
旦那とさうして細君、さうして子供、さうして下女、ゾロリ/\と牛込的に歩く也、牛込的下駄の()りやうは一種別也。此區の人間程悠々緩々、(ひま)(おほ)生活(くらし)困らなさゝうに見ゆるは無し。必ずしも暇多きにあらず、必ずしも生活(くらし)に困らざるにあらず、()か見ゆるは牛込的氣風也。
牛込には、何時(いつ)も夏の初めの如き生温(なまぬる)く柔かき風吹けり。此風に吹かれて麥の穗を出すが如く、髯の芽生(めば)()でゝ()はれさうな先生あり。()きたての餅に目鼻を惡戯(いたづら)()きしたるが如く、手で撫でれば消えさうな笑顏(えかほ)令嬢あり。
()神樂(かぐら)藝妓(げいしや)の三味線の音、雨を喚びさう也。
牛込に御神樂藝妓あるは、麹町に富士見藝妓あると異なれり。富士見藝妓は蒔いた種に(こや)しを施して芽を吹かせしものなれども、御神樂藝妓は溷端(どぶばた)にこぼれた種の自然にフヤケて芽を吹きしもの也。同じく土臭しと雖も、御神樂藝妓は、より自然的にして、より詩趣を帶べり
士官學校及び監獄署を圍める市ケ谷は、牛込の布地(きれぢ)に一層(あら)き模樣を染め出したるもの也。牛込は座蒲團に供すべきも、市ケ谷は(しき)蒲團(ぶとん)に用ふるの外無し。
根岸が下谷の別區域なる如く、根津が本鄕の別區域なる如く、早稲田は牛込の別區域なるに似たり。而も其實は大にそれらと異なり、別區域にあらずして新牛込也。神樂坂の繁華が早稲田趣味を帶ばしめらるゝが如く、早稲田の將來に神樂坂趣味の繁華を開かんとす。

眸に張り ひとみ。開いた眼。 「張り」はひきしまって弾力がある。
肥つて御尻の出ッ張つた女 肥えていて、お尻も大きな女性が、だらしなく、街にいるという意味。 これでどうして神楽坂になるのでしょう。悪口でしょうね。しかし、ほかの区も相当ひどいと思います。
束髪 西洋婦人の髪形を真似して、 明治時代に上流階級の女性で登場した髷の一群。
 多くの人
帽子 明治27~8年ごろ、帽子も流行しました。 西洋風にかぶれた人が多かったのでしょう
牛込衆 牛込ッ子、牛込人、牛込者はどれもだめ。牛込衆がいいのかなあ……と考慮中。『「牛込ッ子にあらず牛込衆也」と牛込の住人の気質を表現するなど、当時の様子には心惹かれるものがある』と『立壁正子の仕事』(「立壁正子の仕事」をつくる会、平成14年)では説明します。実際はどの区も皮肉いっぱいです。
下駄 ゆっくり歩くので、下駄の摩耗も著しい。
困らなさゝうに見ゆるは無し 悠々と暮らしもよさそうな人が 神楽坂で多そうだといっています。
先生 髯が生えそうな先生。 悪口にも聞こえる用語です
令嬢 「餅に目鼻を悪戯書きする」のは悪口で、 「笑顔の令嬢」は賛辞です。
土臭し これは皮肉
御神樂藝妓は、より自然的にして、より詩趣を帶べり これは賛辞
牛込は座蒲團に 牛込が高級の座布団、市ケ谷は三級の敷き布団 ……どうしてこう区別するのか不明ですが 市ケ谷よりも牛込がいいと思っているのはわかります。
新牛込 早稲田は新牛込といったほうがいい。 この時代、早稲田の住宅が急速に増えていました。

石版東京圖繪|永井龍男

文学と神楽坂

永井 龍男 永井龍男氏の『石版東京圖繪』のある章「バラック」です。関東大震災で下町はやられましたが、神楽坂はほとんど無傷でした。

 氏は小説家で鎌倉文学館の館長でした。生年は明治37(1904)年5月20日。没年は平成2(1990)年10月12日。大正7年、一ツ橋高小卒。大正9年、文芸誌「サンエス」に「活版屋の話」が当選。昭和2年、文芸春秋社入社。14年「文芸春秋」編集長、20年退社。戦後は創作が中心で、昭和24年、「朝霧」で横光利一賞受賞。格調高い文章で知られる短編の名手といわれました。

 関東大震災の被害は、東京の下町にはなはだしく、そのほとんどの地域を(かい)(じん)と化した。下町気質(かたぎ)とか、下町風と呼ばれた風俗も、この時以来東京から消滅した。(略)
「仕事をするにも、この焼けっ原じゃあ」
「だから、おれ達の天下がくる。細かい話は、今夜ゆっくりだ。おれのいま居るところは、牛込の軍隊仲間の家だ。なあに、見渡す限り焼けっ原のようだが、神楽坂を上ってみろ。昔のまんま東京が残ってる。なんなら池の端あたりまで歩いてみるか」(略)
「いいか、下町はみんな焼けちまって、牛込麻布と、山の手は大した景気だ」(略)
 卯之吉が云った通り、飯田橋を一つ渡って神楽坂にかかると、昔のままの東京があった。

灰燼 灰や燃え殻。建物などが燃えて跡形もないこと
下町気質 人情深くて、祭りと喧嘩好き。何かと世話を焼きたがる。兄貴肌か姉御肌。
池の端 辞書では「池之端」は東京都台東区の地名で、「池の端」は一般に池がある端。「池之端」を指すのでしょう。
牛込麻布 下町は壊滅的な被害を受けましたが、牛込と港区麻布十番周辺は被害も少なかったようです。

 商店は軒並み落着いて商売をしていたし、浴衣(ゆかた)で町を歩いている女達も、どこということはないが、「ああ、東京へかえってきた」と思わせる、(あか)抜けした風俗であった。(略)
「神楽坂の待合なんぞも、表向きは遠慮しているが、裏にまわると、結構陽気に商売をはじめている。立ちおくれは禁物だ」(略)
 神楽坂には、日本橋で焼けた三越松屋、銀座の村松資生堂、さてはカフエー・プランタンなどが、出店を開くような繁昌振りで、東京一の盛り場にのし上った。
 夜店が両側に軒を連ね、人の出盛りには肩をぶつけんばかりの賑やかさで、その中を座敷着(おんな)が、横丁から横丁へ人をかきわけながら抜けて通る。
 毘沙(びしや)門さまあたりが中心になるが、その石の鳥居の手前を入って真直(まつす)ぐ、待合や小料理屋の前を過ぎると、急に闇が濃くなる。

垢抜け 容姿、性格などが洗練され、素人っぽさや野暮臭さがなくなる
立ちおくれ 着手する時機を失うこと
座敷着 芸者や芸人などが客の座敷に出るときに着る着物
 酒席で、音曲・歌舞などをもって客をもてなす女。芸妓。芸者
手前 毘沙門横丁でしょう。
待合 客と芸妓の遊興などのための席を貸して酒食を供する店

絹もすりん|森田たま

文学と神楽坂

森田たま 森田たま氏の『もめん随筆』(中央公論社、1936年、昭和11年)の「絹もすりん」です。

区内に在住した文学者たち』によれば、昭和13年頃~19年頃、矢来町41に住んでいました。しかし、20代でもここに住んでいたようです。

 1970年(75歳)、死亡しました。

 この随筆は、書きたいことだけを書くので、とても綺麗です。

 十八の時初めて上京して、ふとした機会からのお稽古に通ふやうな事になつた。御縁があつて牛込の藤間勘次さんに教へて頂いたのであるが、踊などといふものは三つ四つの頃近所に若いお妾さんがゐて、退屈しのぎに私を借りていつては深川だの奴さんだのを教へてくれた事があるきりで、手の出しかた足の踏みかたてんで見当のつけやうもなく、つるつると滑つこい舞台の上を、ただ辷るまいといふ一心で浮腰に歩き廻つた。爪先立つていまにも転びさうな私の足許へぢつと眼をそそいでゐたお師匠さんは、やがて一緒にお茶を飲みなからさり気なく云はれるのである。
「おたまさん、あなたの足袋は幾文なの」きかれても私は知らなかつた。
「家から送つてきたのをそのまま穿いてゐるんですけど、……」
「さう。道理で変だと思つた。その足袋はきつとあなたには大き過ぎるんですよ、一ぺん足袋屋へいつて寸法をはかつてお貰ひなさいよ。足袋だけはきつちりしたのを穿かなくつちやね。……」
 私はお師匠さんに教はつた通り早速通寺町美濃屋へ行つて寸法をはかつて貰つた。八文の足袋がきつちりと合つた。あらためて家から送つてよこしたのを調べると、こはぜに九文と刻んであつた。
 神楽坂の夜店に金魚売りや虫屋が幅をきかす頃になると、女の人の姿が眼に立つて美しくなり、散歩に出る人の数が急にふえてゆくやうに思はれた。人間洪水といつていいやうな凄まじい群集の間をくぐりぬけて、矢来のお師匠さんのところまで辿りつき、黒つぽい縞もすりん単衣からたたんだ手巾を出して顔を拭いてゐると、二階から降りて来たお師匠さんが私を見て「暑いでせう」と声をかけた。
「おくにでは今頃でもやつぱりさういふ風にもすりんを着てらつしやるの」
「ええ、……」と私はをひいて自分の衿を見るやうにした。
「夜のお稽古は浴衣でいいんですよ。……昼間だつてお稽古の時はねえ、汗になりますからねえ」
 夜の神楽坂を歩く女の人が急に美しく見え出したのは、くつきりと鮮やかな浴衣のせゐであつた事にやつと私は気づいたのである。

 おどり。音楽などに合わせて踊ること。
藤間勘次 森田草平の妻、藤間流の日本舞踊の先生です。遠藤登喜子氏は『ここは牛込、神楽坂』第6号の「懐かしの神楽坂 心の故郷・神楽坂」を書き

 勘次師は、二代目藤間勘右衛門(後の勘翁)の門弟で、三代目勘右衛門、後の初代勘斎(松本幸四郎)は先代市川團十郎、松本白鴎、尾上松緑三兄弟の父君です。勘次師は、また作家の森田草平先生の奥さまで、花柳界のお弟子は全く取らず、名門の子女が多く、お嬢さま方がそのころ珍しかった自家用車に乗り、ばあやさんをお供にお稽古に来ておられました。
 藤間のお三方のご兄弟ももちろんこの頃は若く、踊りの手ほどきを勘次師にしていただくためよく来られました。私はまだ小学生で、時々お稽古場で豊(松緑)さんと顔が会うと、住まいが同じ渋谷だったので、お稽古の後、付人のみどりさんという若い男の子と三人で神楽坂をぶらぶら歩いて、よく履物の助六の下にあった白十字でアイスクリームなどをごちそうになったものです。

浮腰 腰が不安定な姿勢。へっぴり腰
通寺町 現在の神楽坂6丁目です。
美濃屋 戦前の美濃屋は神楽坂6丁目にあって、戦後は5丁目に移ってきました。中小企業情報の『商店街めぐり-神楽坂』では1955年の美濃屋は創業から60年経った店でした。これが正しいと、1895年ごろに創業したのでしょう。上記の遠藤登喜子氏は

 肴町の交差点を渡って少し行くと、コーヒーを挽いているお店があり、よい香りが漂っていました。その先が足袋の美濃屋さんで、戦前は肴町を越したところにあったのです。広いお店は畳が敷き詰められ、小さいダンスの引出しが横にずうっと並び、大旦那がお客の足型を取ったり、店員さんが小さい台の上で足袋を裏返して、木槌でトントンとたたく音が聞こえていました。私の踊りの足袋も長い間、美濃屋さんのお世話になりました。
明治40年の5~6丁目

『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」で岡崎弘氏と河合慶子氏が書いた「遊び場だった『寺内』」の一部

残念ながら、正確な神楽坂6丁目の地図も美濃屋の地図もありません。ただし、「タビヤ」の地図はあります。「茶ヤ」が「コーヒーを挽いているお店」でしょうか。
こはぜ 小鉤。鞐。布に縫い付けられた爪型の小さな留め具
矢来 神楽坂上の台地にあり、以前は若狭小浜藩主の酒井讃岐守の敷地でした。矢来の名前は、この敷地の周囲を竹矢来で囲んでいたためです。北部に東西線の神楽坂駅があり、また新潮社もあります。
師匠 夏目漱石の手紙を読むと、森田草平氏と藤間勘次女史は矢来町62番地に住んでいました。

矢来町62番地

大正11年、東京市牛込区の地図

縞もすりん モスリンは羊毛等で織った毛織物。(しま)モスリンは2種以上の色糸を使って織り出した縦縞や横縞のモスリン
単衣 ひとえ。裏地のない和服。6月から9月までで着用しました。
 たもと。和服の袖付けから下で袋のように垂れたところ
くに 森田たま氏の故郷は北海道でした
 おとがい。下あご。あご。
浴衣 ゆかた。木綿の浴衣地でつくられた単衣の長着。家庭での湯上がりのくつろぎ着や、夏祭り、縁日、盆踊り、夕涼みなど夏の衣服として着用します

文学と神楽坂

袋町の櫻

文学と神楽坂

CCF20140518_0000000.0 『牛込華街読本』(昭和12年)の最初の半分は芸者の心構えが書いてあります。後半は歴史やいわれが書いてあります。この「袋町の桜」は後半の一部で、全く聞いたこともない言葉や熟語がでてきます。でも、辞書を片手に読むと、袋町はなかなか綺麗だったとわかってきました。

 遠藤但馬守の館には桜が何十本も植えられて、築山、亭、茶園などを配する庭園があったのでした。現在は普通の家ばかりが並んでいますが、明治時代では、矢来町の酒井家の下屋敷と比べると、遠藤但馬守の下屋敷のほうが遥かによかったのではと思ってしまいます。

 実はこれより早く『新撰東京名所図会第42編』に同じ項が書いてありました。でも『牛込華街読本』を引用します。

袋町二十五番地は遠藤但馬守江州三上の藩主一萬三千石)の下屋敷の跡ですが、其地續き及び二十六番地の(ほとり)は光照寺の境内地と幕士宅址でした。明治以後、いたく荒れ果てゝ、人の顧みるものも無かつたのを、牧野(はたす)(故陸軍少將)が此一廓を買取り、修理して庭園といたしました。そして吉野の種を(ここ)に移して、櫻雲搖曳、盆地あり、假山(つきやま)あり、山上に(てい)ありといふ具合に風雅なものにいたしまして、北の方光照寺の墓地に接して()(ゑん)を作り、自ら娯んでゐられたのみか、但馬守の(ふるい)(やしき)に住んでゐられました。開花の候ともなりますと、林泉遊覧を一般に開放して、亭に、(みぎは)に、花を賞して逍遙自在だったといふことです。だか平時(ふだん)は園門を堅く鎖してありました。

遠藤但馬守 遠藤但馬守の敷地は青い場所です。邸宅は左下の赤で指した場所なのでしょう。

明治18-20年

明治18-20年

三上 三上藩。みかみはん。琵琶湖の南東部、滋賀県野洲市を領有した藩。
下屋敷 しもやしき。したやしき。郊外などに構えた控えの大名屋敷の別邸
地續き 地続き。じつづき。土地と土地とが、海や川で隔てられることなく続いていること。
幕士 幕府の武士の意味でしょう。
宅址 たくあと。住居の跡。建造物には「址」も使います。
江州 ごうしゅう。近江国(おうみのくに) と同じ。現在の滋賀県。
顧みる 心にとどめ考える。気にかける
一廓 いっかく。あるひと続きの地域
吉野 奈良県中部、吉野郡の地名。桜の名所。よしのざくらは、吉野桜で、吉野山に咲くヤマザクラやソメイヨシノの別名。ソメイヨシノの名前は江戸末期に染井(ソメイ)の植木屋が広めた吉野桜から
 ここ。現在の時点・場所を示す語。この時・この場所で。
櫻雲 桜雲。おううん。桜の花が一面に咲きつづいて、遠方からは白雲のように見えること。花の雲
搖曳 揺曳。ようえい。ゆらゆらとたなびくこと
假山 築山(つきやま)と同じ。人工的に作った山
 屋根だけで壁のない休息所。休憩したり、雨や日光を避けて涼んだり、景色や季節の移ろいを眺めたりする。東屋

尖亭

茶園 茶を栽培している畑。茶畑。 茶を売る店。茶舗。
makinoharadaityoenn娯んで 楽しい、愉しい、娯しい、たのしい。
林泉 りんせん。林や泉水を配して造った庭園
遊覧 ゆうらん。あちこち見物してまわること。
 みぎわ。海・湖などの水と、陸地と接している所。みずぎわ。なぎさ
逍遙 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩
自在 自分の思うとおりにできること

明治二十年頃、始めて神樂町三丁目から中町に通する邸内を横貫する新道を開きましたので、新道開鑿以来、樹木は伐去られ、次第に人家が立て込みましたので、漸く其風致を損ひましたが、牧野氏が引拂つた後は子爵土井家(越前大野の藩主四萬石)この地所を購入され、叉但馬守の邸址に(やかた)を作られました。
 その頃土井家の後園、新道の邊及び近傍に散在した櫻の樹はみな牧野將軍の遺愛の名花で、殊に若宮町に面する土井家の石垣と黒板塀に添って列植せられてあつたものなどは、其數七八十本にも及び、連梢吉野のを呈して、春の眺めは一入だったとのことです。

新道 ここでしょう。

明治28年

明治28年の地図

開鑿 開削。かいさく。土地を切り開いて道路を作ること。明治28年には新道ができました。
伐去 伐。ばつ。きる。うつ。刃物で木などをきる。 去。きょ。さる。その場から離れていく。「うちさられ」と読むものでしょうか。
風致 ふうち。おもむき。あじわい。特に自然のおもむき。風趣
 旧。きゅう。古いこと
越前 ほぼ福井県中・北部に相当します
後園 こうえん。家のうしろにある庭園や畑
列植 れっしょく。植物を並べて植えること
連梢 連。れん。つれ、仲間、連中。 梢。しょう。こずえ。木の先端。これで「れんしょう」になるのでしょうか。こずえが何本も植わっていること
 えん。色あざやかな、あでやかな
一入 ひとしお。いっそう。ひときわ