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牛込郷愁

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「牛込うしごめ郷愁ノスタルジヤ」です。話は牛込区の(みやこ)館支店という下宿屋で、起きました。

 なお、最後の「なつかしい店だ」と次の「こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう」は同じ段落内です。長すぎるので2つに分けて書きました。

 牛込牛込館の向こう隣に、都館(みやこかん)支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈(けんとう)がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論(もちろん)原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「(これ)を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎(たにざき)精二(せいじ)さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬(そうま)泰三(たいぞう)さんは、襟足(えりあし)へいつも毛をはやしていた、廣津(ひろつ)さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌(こづち)を腰へぶらさげて、その批評家の(うち)のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽(かぐら)(ざか)の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ()()って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。さかなは何やならんと横目で見たら、おそば、、、だった。しかも、かけ、、だった。かけ、、のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月しゅんげつと書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん様と横町よこちょうを隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。

牛込牛込館都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。

牛込館と都館支店

左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。

軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
スウハイ 崇拝。敬い尊ぶこと。
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「()(せん)」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
センチメント 感情。情緒。感傷。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
 酒に添えるものの総称。一般に魚類。酒席の座興になる話題や歌舞のことも。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。

こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう。相馬そうま! 御存知でしょう有名な紙屋だ。当時僕たちはこゝで原稿紙を買った。僕と國木田くにきだ虎男とらお獨歩どっぽの長男)と、平野威馬雄いまおヘンリイビイブイというアメリカ人で日本の勲章を持っている人のせがれ)と三人で、相馬屋へ行ったことがある。五百枚ずつ原稿紙を買った。お金を払おうとした時に僕たちに原稿紙包みを渡した小僧さんが、奥から何か用があって呼ばれた。咄嗟とっさに僕が「ソレッ」と言った(あゝ、ツウといえばカア、ソレッと言えばずらかり、昔の友達は意気があいすぎていた)。三人の姿は店から飛び出ていた。金はあったのだ。払おうとしたのだ。嘘ではない、計画的ではない。ひょッとの間に魔にとりつかれたのだ(ベンカイじゃありませんぞ)。僕は包みを抱えたまゝ、すぐ隣の足袋屋の横を曲がった。今この足袋屋は石長いしなが酒店の一部となってなくなっている。大きなゴミ箱があった、フタを開けてみると、運よくゴミがない、まず包みをトンと投げこみ、続いて僕も飛びこんだ。人差し指で、ゴミ箱のフタを押しあげて、目を通りへむけたら、相馬屋という提燈ちょうちんをつけた自転車が三台、続いて文明館のほうへ走って行った。折を見はからって僕は家へ帰った。もうけたような気がしていたら翌日國木田が来て、「だめだ、お前がいなくなったので待っていたら、つかまってしまッたぞ。割前わりまえをよこせ」と取られてしまった。苦心して得だのは着物についたゴミ箱の匂いだけだッた。相馬屋の原稿用紙はたしかにいゝ。罪ほろぼしに言っているのではない。
 まだある。二十一、二の時分に神楽館かぐらかんという下宿にいた。白木屋の前の横丁を這入ったところだ。片岡鐵兵てっぺいことアイアンソルジャー、麻雀八段川崎かわさき備寛びかん間宮まみや茂輔もすけ、僕などたむろしていたのだ。僕はマダム間宮の着物を着て(自分のはまげてしまったので)たもとをひるがえして赤びょうたんへ行く、田原屋でサンドウィッチを食べた。払いは鐵兵さんがした。

国木田虎男 詩人。国木田独歩の長男。「日本詩人」「楽園」などに作品を発表。詩集は「鴎」。ほかに独歩関係の著作など。生年は明治35年1月5日、没年は昭和45年。享年は満68歳。
平野威馬雄 詩人。平野レミの父。父はフランス系アメリカ人。モーパッサンなどの翻訳。昭和28年から混血児救済のため「レミの会」を主宰。空とぶ円盤の研究や「お化けを守る会」でも知られた。生年は明治33年5月5日、没年は昭和61年11月11日。享年は満86歳。
ヘンリイビイブイ ヘンリイ・パイク・ブイ。Henry Pike Bowie。裕福なフランス系アメリカ人。米国で日米親善や日系移民の権利擁護に貢献し、親日の功で、生前に勲二等旭日重光章を贈与。
ずらかる 逃げる。姿をくらます。
ベンカイ 弁解。言い訳をする。言いひらき。
石長酒店 正しくは万長酒店です。サトウハチローからが間違えていました。
意気があう 「意気」は「何か事をしようという積極的な心持ち、気構え、元気」。「息が合う」は「物事を行う調子や気分がぴったり合う」
割前 それぞれに割り当てた額
アイアンソルジャー おそらく鉄兵を鉄と兵にわけて、英語を使って、鉄はアイアン(iron)、兵士はソルジャー(soldier)としたのでしょう。
まげる 曲げる。品物を質に入れる。「質」と発音が同じ「七」の第二画がまがることからか?
たもと 袂。和服の袖で袖付けより下の垂れ下がった部分。

私の東京地図|佐多稲子④

文学と神楽坂

 牛込見附の方へ降りかけの、助六という下駄屋で、姉妹が買物をしているのを見たことがある。お師匠さんが鼻緒を手にとっては、自分よりも背の高い君子に顔を仰向けてそれを見せ、また番頭に何か言い言いしている。君子はさすがに若い番頭の前なので、身体つきを甘ったれた風に(たな)にもたせかけていた。姉の背が(こぶ)を背負って自分よりも低いことなど意に介していない。不具の姉は、傍若無人に妹を甘えさせ、何かの喜びを感じている。

 坂の中途には、神楽坂倶楽部(くらぶ)などという貸席もあった。そのすぐ上てに、牛込会館という、あとでは白木屋が店を出した洋風の大きな建物があったが、ここで水谷八重子が翻訳劇をやったのもその頃である。「殴られる彼奴」の道化師には汐見洋(しおみよう)が、眼も埋まるほどまっ白に塗って、鼻の先と頬をまっ赤に紅で染めてピエロの服をきていた。八重子は獅子(しし)つかいの、傲慢(ごうまん)な娘に、そして東屋(あずまや)三郎座頭(ざがしら)で、派手な(しま)の服に長靴か何か履いていた。
 喫茶店の山本では、ドウナツが安くてうまい。今まで下町ばかりに住んでいた私は、山本で一杯のコーヒーをのむことに、幾分の文化の雰囲気を感じた。芳子は相変らずどこか冷めたく、上っつらな冗談ばかり言っている。屋敷町から神楽坂へ出るひっそりした坂道で朝毎に()う男が、喜劇俳優のバスター・キートンに似ているなどと言って、その男が曲り角から現われるのを見つけると、
「おッ、バスター・キートン!」
 と囁いて、言った自分はつんと澄ましている。
 その春、見合いをして決まった縁談に、私か(かた)づいていったのはこの杵屋与志次の家の、間借りの部屋からであった。次の年の正月に、私が夫の家を出て行方を知らせなかった時、この家へも搜索人が廻った。

姉妹 姉は三味線の師匠で杵屋与志次という女性、妹は君子さん。
お師匠さん 姉は三味線の師匠で杵屋与志次という女性
君子 妹の君子さん
貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷やそれをする家。
芳子 丸善で同僚で、同じ杵屋与志次の家に間借りをしている女性。
バスター・キートン Buster Keaton。生年は1896年。没年は1966年。無声映画の米国の人気俳優。
杵屋与志次 長唄三味線のお師匠さん。名前は「きねやよしじ」と読むのでしょうか。
次の年の正月 大正13(1924)年末、佐多稲子氏は家出し、正月あけに帰りました。

わが馴染みの横町|色川武大

文学と神楽坂

色川武大 色川武大氏が書いた「わが馴染みの横町 神楽坂」(『東京人』、1988年6月)です。

 氏は小説家で、昭和36年「黒い布」で文壇にデビュー。昭和52年「怪しい来客簿」で泉鏡花文学賞、昭和53年「離婚」で直木賞。また阿佐田哲也の筆名で「麻雀(マージヤン)放浪記」などのギャンブル小説も出しています。生年は昭和4年3月28日なので、この文章は59歳に書かれたものです。

 神楽坂は、震災で下町の盛り場が焼失したために賑やかになり、ターミナルの西方移動で新宿が勃興するまでの短期間、盛り場としてスポットライトが当ったらしい。私は昭和四年、牛込矢来町の生まれだから、盛りの頃の神楽坂を眺めて育ったことになる。
 その頃は、建物は小ぶりだが、白木屋高島屋、デパートが二つもストア風の出店を出しており、毎晩夜店が並び、車馬は通行止めだった。雑踏で道が埋まっていたといっても今の人は誰も信用しない。本当に、昭和に入ってからは街の変転が烈しくて、その変転の中で育った私自身、往時が夢のようだ。
 カーブして津久戸の方に抜ける現大久保通りも、ストレートな大通りではなくて、市電がぎしぎしいいながら人家の中にわけ入っていったような記憶がある。いったいに道幅を拡げていた時期で、江戸風な小道が整理され、改正道路と称する舗装道路になっていった。改正される前のたたずまいがなつかしいのだけれど、私などの年齢では具体的な記憶がすくない。
 北町と肴町の間にある坂のあたりは、両側が崖のようになっていて、袋町の方面に昇る蛇段々という曲りくねった段々があった。ここは蝉とりの名所で、ひときわなつかしいが、今は何の風情もない舗装の坂道だ。往時のあの泥道というものは、ぬかるむと始末がわるいが、下駄に適合していた。舗装になって、下駄では頭に響いて歩きにくい。私は下駄が好きだから、泥道の柔らかさがなつかしい。
 夏の夜は、浴衣を着て親に手をひかれ、矢来の方から出て、夜店を眺めながら坂下まで散歩し、外濠のほとりで涼んだり、ボート遊びをしたりして、また同じ道を戻ってくる。なんということはないが、当時、恰好のリクリエーションだった。花火屋のおばさん、玉蜀黍売りの婆さん、古本の店、詰将棋、バナナ売り、盆栽屋、皆はっきりと顔が浮かんでくる。坂上の熊公焼きは特に有名だったが、単なるあんこ(、、、)巻きだ。
 それ以上に名物的存在は、肴町電停前にいつも居る初老の人物で、古びた学帽をかぶり書生姿に高下駄。一定時間になるとカランコロン下駄の音を響かせ、通りを往復する。乞食ともちがうし浮浪者でもない。人々は親しみの眼でこの人物を眺めていた。世の中がのんびりしていてあの頃はこういう風物詩的な人物がよく居たものだ。
 戦災で残らず焼け、復興もおそく、長いこと、都心部の見捨てられた街と化していたが、最近歩いてみると、ここもビルラッシュ。至るところで建築の音がきこえてくる。古くからの老舗も、この変革の嵐の前にひとたまりもないのかどうか。
 裏通りの花柳界は、道筋だけは変らないが、内容は大きくさま変りしているらしく、三味線の音など絶滅し、カラオケと麻雀の音ばかり空疎にきこえてくる。

矢来町80

震災 1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に 起きた関東地方の地震とそれに続いた災害
矢来町 色川氏は矢来町80番に住んでいました。赤の地域で、矢来町80番の中には家屋が数軒あります。
白木屋 しろきや。 東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ。 かつて日本を代表した百貨店。 1930年(昭和5年)、錦糸堀や神楽坂に分店を出しています。
改正道路 明治時代から大正時代の都市計画を市区改正と呼んでいました。 東京市は道路幅員が狭く、上下水道など都市基盤の整備が遅れ、 大火も起こりました。改正道路とは市区改正で整備した新しい 道路のことです。
蛇段々 岩戸町の11番地と12番地で挟まれた南方が高い道路
熊公焼き あんこ巻きのことです。細かくはここに
初老の人物 誰だか、わかりません。

高島屋

高島屋たかしまや。「神楽坂界隈の変遷」で新宿区教育委員会は「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)で「震災直後高島屋十銭ストアーになった」とかいてあります」。以前は本屋の機山閣でした。
「まちの想い出をたどって」第2集によれば

相川さん 三角堂の隣が「機山閣」という本屋さん。そこへ十銭ストアができた。
  神楽坂に高島屋があった
山下さん 『高島屋』が? そんな間口が広かったですか?
馬場さん そんな広くないですよ。
相川さん 二間半ぐらい。
山下さん もっと大きいつちゅうような感じがしていた。繁盛していたんだよな。高島屋系統は下にもあったしね。

現在は貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」です

蛇段々 鳥居秀敏氏が書いた「袖摺坂(そですりざか)って本当はどの坂?」(『まちの想い出をたどって』第二集)で「蛇段々」について書いています。

袖摺坂「蛇段々」というのをご存知の方いらっしゃいませんか? 私が愛日小学校を卒業したのは昭和十一年ですが、そのころまだS字状の広い車道の坂道はありませんでした。昭和十六年の地図を見てください。この地図の「町」の字のあるところが十一番地で小高い丘があり、隣の十二番地はレベッカビルです。そして十一番地と十二番地の間に細い道がありますね。この細い道を入りますと高い崖に突き当たります。高さ六メートル以上ある急な崖です。そこで左に曲がって斜めに登っていきます。そして登りきるとまた右へ曲がる細道があってそれを出ると南部さんの前に出ます。これが私の子供のころ蛇段々といわれていた細道です。学校の帰りに時々寄り道をしてこの蛇段々を下りて帰るというのが一つの楽しみでもありました。蛇段々という名前はおそらく坂でないところも含めて、うねうねと曲かっていますから、蛇を連想したのではないかと思います。しかしこの蛇段々は子供たちだけの呼び名で大人は袖摺坂と吁んでいたのかどうか、その点を私は知りません。しかし後ほど細かく申しますように、これが先ほどの新撰東京名所図会や御府内備考に書いてある地形とぴったり一致するのです。そのことから私はこの蛇段々が袖摺坂であったと、九十九パーセント確信しています。蛇段々
 これは蛇段々の模型です。十一番地と十ニ番地の間から登ります。すると相当急な高さ六メートル以上の崖に突き当たりますから真直には上れません。そこでその斜面を斜めに登ります。そしてまた右に曲がると南部さんの家の前に出ます。袋町も、北町も、多少大久保通りに向かって緩い傾斜をしていましたが、岩戸町の辺りはほとんど平担です。このあたりの台地は関東ローム層、いわゆる赤土ですから滑りやすい。仮に袋町の方から下りていったとします。崖縁を左に曲がりますと当然左側は高台です。それから右側は垣根かどうかは分かりませんが、十八メートルの間に六メートルも下るかなりの急な坂です。ですから滑らないように段々を作った。「岸地に雁木を設け折廻はしたる急峻の坂なり」という表現はこれにぴったり一致するわけです。

蛇段々と袖摺坂とは同じなのか? 私は違うと思っています。これは別に書きます。

文学と神楽坂

大震災①|昭和文壇側面史|浅見淵

文学と神楽坂

 関東大震災の神楽坂の様子です。浅見(ふかし)氏は昭和時代の小説家、評論家で、私小説風の作品や作家論、作品論などを発表しました。『昭和文壇側面史』は昭和43年に発表し、浅見淵は69歳のときです。

当時ぼくは牛込弁天町の下宿屋にいたので、下宿屋はもちろんのこと、神楽坂を中心とする牛込の山の手界隈はほとんど被害らしい被害は無かった。神楽坂の中ほどに、巌谷一六書の金看坂を掲げた、いまでも残っている老舗の尾沢薬局が、そのころ、隣りにレストランを経営していた。このレストランの二階が潰れていたくらいである。(中略)

田原屋・川鉄・赤瓢箪

 戦災で焼け、近年やっと復活して昔のように客を集めているらしい洋食屋の田原屋は、大震災のころ既に山の手の高級レストランとして有名だったが、この田原屋。肴町の路地の奥にあった、尾崎紅葉をはじめ硯友社一派がよく通ったといわれる川鉄という鳥屋。それから、質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋。これらの店には、文壇、画壇、劇壇を問わず、あらゆる有名人が目白押しに詰めかけていた。白木屋がいち早く神楽坂の中途に特売所を設けたが、一応物資が出まわると、これが牛込会館という俄か劇場に早変わりし、水谷竹紫水谷八重子たちの芸術座アンドレーフの「殴られるあいつ」を上演したりしていた。この劇団に、のちに築地に小劇場のスターとなった、東屋三郎汐見洋田村秋子たちが客演していたが、この連中の顔がとくに赤瓢箪ででよく見受けられた。

弁天町弁天町 場所は新宿区の北部に。巨大な町ですが、明治5年から変わっていません。大部分が宗参寺の境内で、元禄十一年以降次第に町皿みができ門前町となりました。
尾沢薬局 神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では尾澤薬局「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています。
レストラン 尾沢薬局の隣りは、カフェー・オザワといいました。加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』「早稲田神楽坂」(昭和2年)によれば「薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフェを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないゝカッフェが出来、それで益〻土地が開け且その繁栄を増すように思われたからだった。」
赤瓢箪 これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では「おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん」と書き、昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では「赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。」と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。関東大震災でも潰れなかったようです。
白木屋 しろきや。東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ。かつて日本を代表した百貨店の一つ。法人自体は現在の株式会社東急百貨店として存続。1930年(昭和5年)、錦糸堀や神楽坂に分店を出しています。
牛込会館 神楽坂の2丁目から3丁目に入ってすぐ右側で、現在は「サークルK」です。関東大震災の数日後、水谷竹紫と水谷八重子は牛込会館の屋上に上っています。牛込会館は現在はサークルKに変わっています。
芸術座 第二次芸術座。第一次芸術座は、1913年、島村抱月、松井須磨子などが結成し、1919年、解散。第二次芸術座は、水谷竹紫、水谷八重子が名前を受け継ぎ、同名の劇団を起こしました。
アンドレーフ Леонид Николаевич Андреев。Leonid Nikolaevich Andreev。レオニード・ニコラーエヴィチ・アンドレーエフ。20世紀はじめのロシアの作家。生年は1871年8月21日(ユリウス暦8月9日)。没年は1919年9月12日。ロシア第一革命の高揚とその後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家に。
田村秋子 たむら あきこ。新劇女優。生年は明治38年(1905年)10月8日、没年は昭和58年(1983年)2月3日。1924年築地小劇場の第1回研究生として入所、創立公演『休みの日』に出演。29年、夫の友田恭助と築地座を結成、戦後は文学座に出演。

神楽館|広津和郎

文学と神楽坂

広津和郎広津(ひろつ)和郎(かずお)氏は作家、文芸評論家、翻訳家です。『年月のあしおと』(講談社、昭和44年、1969年)に大正12(1923)年9月1日に起こった関東大震災のことが書かれています。そのとき、広津氏は31歳、神楽坂の下宿にはいっていました。

では、この神楽坂の下宿はどこなのでしょうか。 まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。

私は牛込神楽坂に近い下宿屋社員を四人程置き、自分も鎌倉――当時鎌倉小町に私は両親と一緒に暮していたが、始終東京に出て、その同じ下宿にいることが多かった。その外に社員ではなかったが、片岡鉄兵が家からの仕送りがなくなったので、そこに置いておいた。それから後に麻雀で有名になった川崎備寛なども置いておいた。どうせ一人や二人、人数がふえたところで大した違いはないという気持で、これらの人達の下宿代を一緒に払ったわけであるが、銀行の手形交換の時刻の迫る前に原稿を書き、雑誌社にかけつけて、原稿料を受取ると、銀行にとんで行って、やっと手形を落すというようなことも、今思い出すと何か愉快な思い出になっている。(中略)
 関東の大震災も、私はその下宿屋の三階で出遭った。私はその前夜原稿を書いていたので、地震の時間の正午一寸前には、まだ寝ていた。ひどい震動で眼がさめたが、ふと見ると、部屋の隅の鴨居の合せ目がぱくぱくと拡がっては又つぽまり、拡がっては又つぼまりしている。あれが拡がり切ったら、天井が落ちるのではないかと思ったので、私は寝床から起き上って、箪笥の側に行き、箪笥が倒れないようにと、それを押えながら、その蔭に身を寄せた。
下宿屋 この下宿に入り、関東大震災の時もこの下宿に入っていました。場所は「牛込神楽坂に近」く、片岡鉄兵と川崎備寛も一緒に住んでいた場所だといいます。
片岡鉄兵 片岡鐵兵はここに。『区内に在住した文学者たち』でも居所はわかります。ここに。

『広津和郎全集 第13巻』の「先ずペエシェンスから」(初発は昭和3年10月。底本は『新潮』)に出ていました。

片岡鉄兵君とは暫く会わない。(省略)
 例の震災前及び震災後の牛込の神楽館時代には毎日互に顔を合わせていた。それから急に顔を合わせなくなって、そして彼が結婚するので彼から招待されたその時まで、約二年間位は、彼に対する記憶が殆んどない。どうも会う機会がなかったらしい。

神楽館だという場所でした。場所はここです。 サトウハチロー氏の『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)も同じことが出ています。

二十一、二の時分に神楽館という下宿にいた。白木屋の前の横丁を這人ったところだ。片岡鐵兵ことアイアンソルジャー、麻雀八段川崎備寛、間宮茂輔、僕などたむろしていたのだ。僕はマダム間宮の着物を着て(自分のはまげてしまったので)たもとをひるがえして赤びょうたんへ行く、田原屋でサンドウィッチを食べた。払いは鐵兵さんがした。
白木屋 白木屋は百貨店で、神楽坂の中腹で、神楽坂2丁目が終わり、代わって3丁目に始まった場所にありました。現在、白木屋はなく、1階には「サークルK」,2階には「Royal Host」がはいっています。下から右に向かうと「神楽坂仲通り」に入っていきます。
間宮茂輔 まみや もすけ。小説家で、細かくはここに。まだこのころは広津和郎氏が社長だった渋谷の『藝術社』の一社員でした。
赤びょうたん これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では

おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん

と書き、浅見淵著『昭和文壇側面史』では

質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋

関東大震災でも潰れなかったようです。また昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。

と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。

間宮茂輔の親戚、間宮武氏が書いた『六頭目の馬・間宮茂輔の生涯』で関東大震災はこう書いています。

神楽坂は矢来の新潮社に通じる道筋にあたっていたから、文士の往来も繁く、矢来に住んでいた谷崎精二加納作次郎、それに佐々木茂索といった人たちはよく神楽館に立ち寄っていった。
 その年の九月一日、関東大震災が起こる。
 その日出社していたのは、茂輔と番頭役の島田という男の二人だった。
 地鳴りを伴いながら、激しい振動が襲い、木造の社は音を立てて崩れ落ちた。
 縁先の太い樹木によじ登り、茂輔は辛うじて難を避けた。
 黒煙と土くれが巻き上る空の下を、めくリ上げるように続く余震に脅えながら神楽館に辿り着いた。建物は無事だったが、部屋の壁は崩れ、広津をはじめ同宿の片岡鉄兵の姿もみえなかった。
 夕方になって、広津たちが避難先から次々と帰って来た。

以上、広津和郎氏が大震災にあった下宿は「神楽館」でした。