相馬泰三」タグアーカイブ

牛込の文士達➆|神垣とり子

 泰三は文士のだれ彼を辛辣に評していた。よくまああんな毒舌があの小男の口から出るかと思うくらいだ。葛西善蔵さえも「田舎っぺい」とやっつけたらしい。それにしてはよく若い者が集った。お節句には文学青年が集って泰三が郷里から持って来た獅子噛み火鉢にさざえを入れて、めいめい具を足して壷焼きにして食べた。お酒は茅場町白雪の支配人の池田みのるが2升ぶら下げてきた。この連中は集れば銀座をのすより京橋の裏通りや横町のうまいもんやを歩き、甚兵衛で「くさや」の干物を買ってきたり「酒盗」を買ってきてくれた。その頃猫が7匹もいて、くさやは、赤いけどあべこべの名をつけた「くろ」には大好物のものであった。「ちび」というのは一番大きくてアスパラガスの鍵をあけると一目散に飛んでくるので不思議だった。味淋ぼしを、それもよくかんでごはんにまぜてやる役に早稲田の学生で、泰三の隣村の村長の次男坊があたった。はじめて横寺町の家を訪れた時、「ちまき」をうんとこさともってきた坊主頭の男の子で「どうもう児」と名をつけた。それが近所の下宿から泰三の所へころがりこんで猫の食事係となった。「みりんぼしを噛んでいてよく食べたもんですよ、とてもうまかった」と何十年かたってから聞いて思わず苦笑した。

郷里 相馬泰三氏は現在の地域で、新潟県新潟市南区の生まれです。
獅子噛み火鉢 「獅噛火鉢」が正しい。しかみひばち。獅噛みを足や把手にとりつけた金属製の丸火鉢。
茅場町 東京都中央区の地名。日本橋茅場町一丁目から日本橋茅場町三丁目まで。
白雪 おそらく兵庫県伊丹市の小西酒造では? 「山は富士 酒は白雪」がそのキャッチフレーズ。
池田みのる 名前があまりにも普通なので探すことはできません。
のす 勢いや力を伸ばす。発展させる。
京橋 明治11年から昭和22年までの東京市京橋区。現在は中央区南部。

1878年東京15区

甚兵衛 不明。現在、新橋駅にある甚兵衛の開店は3~40年前。ここでは約100年前に開店していたので、違います。
くさや 魚からつくる塩干しの一種。伊豆七島の特産物。特有の臭みがある。
酒盗 しゅとう。魚の内臓を原料とする塩辛
くろ 猫の名前です
 いわし。マイワシ、ウルメイワシ、カタクチイワシの海水魚の総称
味淋ぼし 味醂干。みりんぼし。魚の干物の一種。魚を開き醤油や砂糖、みりんなどを合わせたタレに漬け込んで味付けし、乾燥する。
ちまき 餅菓子の一種。笹や竹の皮などで巻き、い草で三角形に縛ってつくる。

 バスケットに原稿を入れて島田清次郎の向うを張るつもりらしい新潟の質屋の伜が上京して横寺町の泰三のところへおちついた。同郷のよしみでたずねてきたおとなしい少年で「豚児をよろしく」と親から添え手紙をもってきたのでみんなが「質やのトントン」ということにして、今もって「トントン」で通っている。
 神楽坂で現金の一番あるのが坂の途中の焼芋やだといわれていた。一番月給の多いのは牛込郵便局長さんだというので折があった時きいたら「95円」だというので少いと思った。うちではいくら人の出入りが多いとはいえ、家賃は17円の二階だが北町の岩瀬肉店へ15円、出入りの魚やが10円、八百やが10円、映画、寄席、芝居が7円くらい、ほかにオザワ水文紀の善など。横寺町に新居をもった年の暮に残金2円50銭で大笑いをした。佐倉炭が1俵2円の頃だったかしら。「今日は帝劇、明日は三越」の頃で、帝劇の入場料が最高4円で牛込駅から坂を上って横寺町までの入力車が50銭だった。

豚児 自分の子供をへりくだっていう語。豚の子。
坂の途中の焼芋や 焼芋屋は、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」ではなく、『露店研究』でもありません。
岩瀬肉店 昭和12年の火災保険特殊地図では、新宿区北町に同じ名前はありませんでした。
佐倉炭 千葉県佐倉地方に産するクヌギからつくる炭。上質で、茶の湯などに用いられる。

 無一物主義で通していた泰三も、結婚したらお宗旨を変えてしまった。というより私の浪費癖がそうさせたのだろう。「クルイロフ」の「乞食の財布」を捨てなければならない時が来た。長谷川時雨女史が経営している鶴見の旅館「花香苑」に原稿を書きに出かけたり、越後寺泊りに冬の日本海の荒波を見に行ったりするのに疲れて来た。泰三は誰にも相談しないで郷里に帰った。広津和郎葛西善蔵は鎌倉へ住みつき、秋庭俊彦等々力に農園を始めてメロンを作ったりしていた。その秋に関東大震災があったが焼けなかった神楽坂は前にも増して賑やかになった。その賑わいに文士たちが一役買っていたことも事実だった。

無一物 むいちもつ。何もないこと。何も持っていないこと。
主義 常にいだく主張、考えや行動の指針
宗旨 しゅうし。自分の主義・主張・趣味。好みのやり方や考え方。
クルイロフ イワン・クルイロフ。Иван Андреевич Крылов。19世紀ロシアの劇作家、文学者。庶民の日常語を用いて、不道徳、社会悪、農奴制による罪悪を風刺した。生年は1769年2月13日、没年は1844年11月21日。
乞食の財布 豊島与志雄、高倉輝訳「世界童話集」(アルス、昭和3年)ではコマ番号110-111が「不思議な財布」として出ています。この財布、1日に1枚ずつ中で金貨を生んでくる。でも、使えない。財布を川でなくすと、はじめて金貨を使える。主人公は900枚金貨を持っていて、使わずに、死亡しました。
花香苑 はなかえん。大正14年、横浜市鶴見区に長谷川時雨氏が田舎料理の旅館「花香苑」を開いた。
越後 佐渡を除いて新潟県の全域にあたる地域
寺泊り 固有名詞として、新潟県長岡市の地名。日本海に面し、漁業が盛んで、古くは佐渡へ渡る重要な港として栄えた。他寺の僧や参詣人が泊まる、寺の宿舎は宿坊(しゅくぼう)といいます。おそらく固有名詞のほうでしょう。
等々力 とどろき。東京都世田谷区と神奈川県川崎市中原区の地名、

牛込の文士達⑤|神垣とり子

 くろご朗読会というのがあって芝居好きの二十前後の若者たちがより集ってお互いに役割をきめてやる。発起者は築地六芳館の甥で中川某、「修善寺物語」の姉娘など寿美蔵ばりでよかった。うづまき石鹸の本舗の主人が森ほのほという劇評家なのでよくきていて若いくろご朗読会のめんどうを見ていた。口の大きい福地もよくやってきた。
 芝居の総見もやった。泰三は芝居にあんまり興味がなかったが若い連中とよくつきあった。それに大正日日という新聞社へ里見弾と一緒に入社したので「御社(おしゃ)」といわれる芝居の二日目に芝居へ出かけ、新聞に劇評をかくので役にたった。もっとも「新演芸」の内山佐平に、「御所の五郎蔵」の落入り胡弓がはいるのをヴァイリンかといって笑われたぐらいだけど。

くろご朗読会 ラジオの脚本朗読に加わった団体のひとつだ、と遠藤滋氏の「かたりべ日本史」(雄山閣、昭和50年)
築地六芳館 「憲政本党党報」第3巻749頁では「12月22日出京、京橋区築地六方館に投宿」と書いてあります。旅館でしょうか。
寿美蔵 市川寿美蔵(すみぞう)。上方の歌舞伎役者。
修善寺物語 戯曲、歌舞伎作品。一幕三場。岡本綺堂作。面作りにかける夜叉王の職人気質や頼家暗殺のドラマなどを織り込み、舞台は大評判に。
姉娘 年上の娘
うづまき石鹸 「日本橋街並み繁昌史」262頁によれば、日本橋横山町二丁目の近江屋天野磯五郎店が石鹸「ウヅマキ」を販売したようですが、石鹸を生産したのかは不明です。
森ほのほ 京都の劇評家、狂言批評家。
福地 不明ですが、新聞記者、政治家、劇作家の福地源一郎氏では? 歌舞伎座を建設するのですが、生年は天保12年3月23日(1841年5月13日)、没年は明治39年1月4日と、少し早く死亡しています。
総見 そうけん。総見物の略。全員で見物すること。芝居・相撲などの興行を支援するため、団体などの全員が見物すること。
大正日日 1919年11月、大阪で創刊した日刊新聞。大阪の商人の勝本忠兵衛が破格の資本金200万円で創設。先発の大阪毎日新聞、大阪朝日新聞から仇敵視され、妨害を受け、翌20年7月、大本おおもと教に買収。
御社 御社日。おしゃび。演劇・興業の世界では、演劇関係者や記者の公演招待日
新演芸 大正5年~14年、出版社の玄文社が「新演芸」誌を作り、毎月、東京の各劇場を総見して批評した演劇合評会が有名だった。
内山佐平 大正5年~14年、出版社の玄文社の社員。その後、JOAK(現、東京放送局NHK)に移ってラジオ番組を制作した。
御所の五郎蔵 歌舞伎狂言「曽我そが綉侠もようたてしの御所染ごしょぞめ」の後半部分の通称
落入り おちいり。歌舞伎で、息の絶えるさまをする演技
胡弓 こきゅう。東洋の弦楽器。形は三味線に似て小形。弦は三本か四本。馬の尾の毛を張った弓でこすって演奏する。
ヴァイリン バイオリン。管弦楽や室内楽において中心的役割を果たす擦弦さつげん楽器。おそらく泰三が胡弓を間違えてバイオリンといったのでしょう。

 「生きている小平次」の作者鈴木泉三郎第一書房長谷川巳之吉玄文社のお歴々が神楽坂へよくやって来た。鈴木泉三郎は四谷銀行の行員の伜で、大番町の水車のある川岸に家があって山形屋小間物店の娘を嫁にもらってちょっと評判になった。「八幡やの娘」や「美しき白痴の死」を書いたが若死にをして惜しかった。
 坂本紅連洞という名物男がいた。長い黒いマント姿で、顔が長く文士の誰彼をつかまえて、やい1円出せ。税金取り立てよりこわいらしく誰でも出す。いやだという者は1人もいないのが不思議だ。島村抱月もとられた一人だった。『ヤイ島村』と呼びつけられても怒らなかったそうだ。何の会でも木戸御免でまかり通っていた。谷垣精二の近くの弁天町に独身で間借りしていた。どういう風の吹きまわしか私は気に入られていた。グレゴリー夫人作の「月の出」が有楽座にかかった時入場券をくれたり、トルストイの「闇の力」の入場券をくれた。

生きている小平次 鈴木泉三郎作の戯曲。三幕。大正13年『演劇新潮』に発表。大正14年6月新橋演舞場で、六世尾上菊五郎などで初演。内容は、歌舞伎囃方の太九郎は役者の小幡小平次から妻をほしいといわれ、舟の外に突き落としてしまう。10日後、役者の小平次は妻の前に現れたが、太九郎が現れ、役者を殺してしまう。太九郎と妻は江戸を逃げ出すが、小平次のような旅人がついていく。ここで終わり。
鈴木泉三郎 すずきせんざぶろう。「新演芸」を編集し、戯曲「八幡屋の娘」「ラシャメンの父」「美しき白痴の死」などを執筆。12年2月6代目尾上菊五郎が「次郎吉懺悔」を上演し好評だった。玄文社の解散にともない、以後文筆生活に入る。絶筆の「生きてゐる小平次」は代表作。生年は明治26年5月10日。没年は大正13年10月6日。享年は満32歳。
第一書房 1923年、創業。1944年3月、廃業。絢爛とした造本の豪華本を刊行
長谷川巳之吉 はせがわみのきち。雑誌・書籍編集者。「玄文社」に入社、『新演芸』などを編集した。生年は明治26年12月28日、没年は昭和48年10月11日、享年は満79歳
玄文社 大正5年~大正14年、東京の出版社。単行本の他、月刊雑誌『新家庭』『新演芸』『花形』『詩聖』『劇と評論』も発行。
四谷銀行 明治30年10月、東京市四谷区伝馬町(現在の東京都新宿区四谷)に設立。大正11年11月、京都市の日本積善銀行の取り付け騒ぎが始まり、本行も休業し、このまま整理中。最終的に昭和2年に廃業した。
大番町 四谷大番町。現、新宿区大京町。
山形屋小間物店 山形屋は宝暦元年(1751年)に創業した鹿児島の百貨店?
八幡やの娘美しき白痴の死 国会図書館で鈴木泉三郎戯曲全集を無料閲覧中
木戸御免 きどごめん。相撲や芝居などの興行場に、木戸銭なしで自由に出入りできること。
グレゴリー夫人 アイルランドの劇作家・詩人。Isabella Augusta Gregory。アベー座を開場し、アイルランド伝説の収集に努力し、そこに基づいた戯曲を書いた。一幕物「月の出」は1907初演。生年は1852年3月15日、没年は1932年5月22日。

 花柳はるみ中野秀人と神楽坂を歩いていたり、長田幹彦の兄の秀雄が新婚の細君と仲よく田原やへ姿を現わしていた。神楽坂の中途にある牛込会館汐見洋金平軍之助八重子を座長にして芸術座を起したので、俳優達も街を賑わしていた。ダルクローズの体育学校を出てきた山田五郎の弟子がステッキを妙な風について得意がって歩いていた。
 近代劇場というのが出来て、「時事」美川徳之助――美川きよの実兄――が「リリオム」で舞台にたって浅野慎次郎田中筆子が参加した。田中筆子は沢田正二郎東京明治座で旗上げした時に初舞台をした気のきく子役で、その時これもやっぱり早稲田の学生で、俳優になって島村抱月を崇拝し教授の片上伸の名をとって月村伸と名乗った男と出演した。

花柳はるみ 女優。大正4年、芸術座の「その前夜」で初舞台。7年、帰山教正のりまさ監督の「生の輝き」に主演し、日本映画の女優第1号となる。35歳で引退。生年は明治29年2月24日、没年は昭和37年10月11日。享年は満66歳。
中野秀人 なかのひでと。詩人、画家。大正9年、プロレタリア文学評論「第四階級の文学」を発表。昭和15年、花田清輝きよてるらと「文化組織」を創刊。戦後も前衛的な創作活動をつづけた。詩集は「聖歌隊」、小説は「精霊の家」など。生年は明治31年5月17日。没年は昭和41年5月13日。享年は満67歳。
金平軍之助 映画の出演、製作を行った。出生地は東京市本郷。生年は明治38年年5月7日
芸術座 大正2年、島村抱月氏と松井須磨子氏を中心に東京で結成した新劇の劇団。抱月・須磨子の急死で、大正8年、解散。大正13年、水谷竹紫氏が義妹水谷八重子氏を中心に再興。昭和20年、竹紫の死で自然解消。
ダルクローズ スイスの音楽教育者、作曲家。リズムと身体運動を結びつけた教育方法リトミックを創始。世界の幼児教育に多大な影響を与えた。
山田五郎 昭和の舞踊家。能楽に学び、大正15年、米国で舞踊家となり、パリのオデオン座に出演。昭和3年帰国し、能をとりいれた「猩々」などを演じた。生年は明治40年1月22日、没年は昭和43年12月21日。享年は満61歳。
得意がる 盛んに得意な様子をする。誇らしげにふるまう。
近代劇場 どうも「近代劇場」という劇場が実際にあったようです。1926年にこの劇場で「リリオム」が初演されています。
「時事」 時事新報です。美川徳之助氏は時事新報の記者でした。
美川徳之助 随筆家。大丸に務めていた父の命でパリに行き、5年間、遊興生活。帰国後、時事新報や読売新聞に務めた。「愉しわがパリ―モンマルトル夜話」「パリの穴東京の穴」など。生年は1898年。(村上紀史郎「バロン・サツマ」と呼ばれた男。藤原書店。2009年)
美川きよ 小説家。大正15年「三田文学」に「デリケート時代」を発表。昭和5年以降こまやかな女性心理をえがく短編を手がける。長編小説「女流作家」「夜のノートルダム」など。生年は明治33年9月28日。没年は昭和62年7月2日。享年は満86歳。
リリオム ハンガリーの作家モルナールの戯曲。7場。ブダペストの遊園地を背景に、気のいい乱暴者リリオムの生と死を、現実と空想の交り合った手法で描いた悲喜劇。
浅野慎次郎 俳優。第二次芸術座に参加。『ドモ又の死』など。
田中筆子 女優。大正2年、第二次芸術座の「青い鳥」に出演後、金平軍之助が主宰する近代劇場に参加し、脇役女優として活躍。生年は1913年3月16日、没年は1981年2月23日、享年は満67歳。
東京明治座 中央区日本橋浜町にある明治座です。都営新宿線の浜町駅、都営浅草線の人形町駅、日比谷線の人形町駅から行け、また、東京駅からは八重洲口の無料巡回バス「メトロリンク日本橋Eライン」を使っても行くことができます。
月村伸 俳優。松本克平氏の「日本新劇史」(津熊書房、1966)には島村抱月氏の告別式の写真が載っていますが、そのなかに若いころの氏の写真がありました。

牛込の文士達④|神垣とり子

文学と神楽坂


 藤森秀男という詩人がよく来た。目的はやはり間宮茂輔をふった京都生れの女子大生にあるらしかった。「こけもも」という詩集をくれたが朝の九時頃から夜までいて、彼女のことばかり話すので弱った。お相手をしているけど「雀のお宿」じやないからお茶にお菓子、お土産つづらというわけにもいかず、河井酔若が尋ねてきたのでこれ幸いと神楽坂へ出かけて「オザワ」で食事をした。
 「オザワ」は毘沙門の向う側で薬局をやっていて地内の芸者やへ通りぬける小路があって芸者が声をかけてゆく。その奥と二階で洋食やをやっていた。「田原や」は果物やでここも裏でフランス料理をやっていたが、味も値段も銀座並みなので、お客のなりたねも違っていた。文士連も芥川竜之介菊池寛今東光の「新思潮」や慶応の「三田文学」の連中が常連で、とりまきをつれて肩で風を切って神楽坂を歩っていた。
 坂上の料理屋には芸者も入り、神検・旧検に別れている。待合松ヶ枝が幅をきかせていた。毘沙門横丁には「高しまや」という芸者やに、松蔦・寿美蔵なんて役者の名にちなんだ芸者がいた。ロシヤ芸者の松子なんていう毛色の変ったのもいた。

藤森秀男 ふじもりひでお。正しくは秀夫。ドイツ文学者。東京大卒。詩人、童謡作家。慶大や金沢大などの教授を歴任し、ゲーテやハイネを研究。訳詞としては「めえめえ児山羊」(ドイツのわらべ歌)。生年は明治27年3月1日、没年は昭和37年12月20日。享年は満68歳。
こけもも 1919年、藤森秀夫氏は『こけもゝ 詩集』を文武堂から発行しています。
雀のお宿 童謡『すずめのおやど』の歌詞は すずめ すずめ/おやどは どこだ/ちっちっち ちっちっち/こちらでござる/おじいさん よくおいで/ごちそう いたしましょう/お茶に お菓子/おみやげ つづら/ 作詞は不詳、作曲はフランス民謡で、昭和22年に作られました。
つづら 葛籠。蓋つきの籠の一種。後に竹を使って縦横に組み合わせて編んだ四角い衣装箱。
河井酔若 かわいすいめい。詩人。「文庫」の記者として詩欄を担当し、多くの詩人を育てる。生年は明治7年5月7日、没年は昭和40年1月17日
地内 現在は「寺内」というのが普通
なり 形。身なり。服装。なりふり。風体。
たね 血筋。血統。
新思潮 文芸雑誌。第1次は1907年~08年、小山内 (おさない) 薫が主宰し、演劇を中心とする外国文学の翻訳紹介。第2次は10年~11年で、小山内の他、谷崎潤一郎,和辻哲郎,後藤末雄等の東京大学の同人誌。第3次は14年2月~9月で、山本有三,豊島与志雄、久米正雄、芥川龍之介、松岡譲、菊池寛等が創刊。第4次は16年~17年で、久米、芥川、松岡、菊池等が再刊。全同人が文壇への登場を果し、第3次と第4次の同人を『新思潮』派と呼ぶ。以後、十数次に及ぶ。
三田文学 文芸雑誌。1910年5月、永井荷風を中心に森鴎外、上田敏を顧問として創刊。三田文学会機関誌。自然主義の「早稲田文学」に対した耽美主義の立場をとった。久保田万太郎・佐藤春夫・水上滝太郎・西脇順三郎らが輩出。断続しつつ現在に至る。
神検・旧検 昭和10年頃、神楽坂花柳界に政党関係の内紛があり、神楽坂三業会(神検、新番)と牛込三業会(旧検、旧番)に別れた。神検は民政派、旧検は政友会だった(松川二郎「全国花街めぐ里」誠文堂、1929年)。戦後の昭和24年、合併して東京神楽坂組合に。
待合 花街における貸席業。客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店。
高しまや 毘沙門横丁に「分高島」があります。ここでしょうか。なお「分」「新」「金」などが名前についている場合は「分家」のことが普通です。

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会

 坂の途中で「ルーブル紙幣」が5銭10銭と売れていた。塩瀬の最中が一つ買える金額で「100ルーブル」の所有者になれ、ふたたび帝政ロシヤの夢を見るには安いのでよく売れた。売れたといえば毘沙門さまの境内にしんこ細工の屋台店があった。このしんこ細工でよせ鍋や、お櫃(ひつ)の形をつくって2銭で売っていた。葛西善蔵は子供をつれて上京するときっと泰三の家へ来るのでよく買ってやった。
 原稿紙は相馬や山田やのがいいっていって遠くから買いにきていた。坂下の「たぬきや」瀬戸物店では新婚の連中がよく買物をしていた。足袋やの「みのや」は山の手では一流店で手縫だった。銀座の「大野屋」と同じ位の値段だった。本多横丁の小間物やも「さわや」より少し落ちるが品物が多く、徳田秋声山田順子とベタベタしながら買いものをしていた。

帝政ロシヤ 1721年から1917年までのロシア帝国。日露戦争は1904年から1905年まで。
しんこ細工 新粉細工。新粉(うるち米を粉にしたもの)を水でこねて蒸し、それをついたものが新粉餅。これでさまざまな物の形をつくるのが新粉細工。
お櫃(ひつ) 炊いた飯を釜から移し入れておく木製の器。めしびつ。おはち。
きっと 確実にそうなるだろうと予測しているさま。自身の事柄に関しては決意を、相手に対しては強い要望を表す。必ず。あることが確実に行われるさま。必ず。
たぬきや 「古老の大震災の前」では神楽坂2丁目北側の「瀬戸物・タヌキ堂」です。「しのだ寿司」から「オアシス」になっていきます。
大正11年頃
古老の大震災の前
昭和5年頃
新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年
昭和12年
火災保険特殊地図
昭和27年
火災保険特殊地図
昭和35年
住宅地図
平成22年
住宅地図
神楽坂2丁目・坂上
絵草紙屋松来軒中華11空き地パチンコマリー第2カグラヒルズ
山本甘栗店11
茶・山下山下園茶店11
山本油店クスリ山一オアシススロットクラブ
瀬戸物・タヌキ堂ワコー喫茶キッサしのだすし
銘仙屋大木堂パンキッサ空き地コーヒーリオン
バー沙羅
第1カグラヒルズ
夏目写真館夏目写真館11メトロ映画館メトロ映画館
瀧歯科医濫長軒皮膚科医院
棚橋タバコ屋隼人屋煙草タバコ
吹野食料品富貴野食品〇〇〇ヤ
大畑バン店大畑菓子店キッサパチンコバンコク理容バンコック大内理容店
坂下

小間物や 「ここは牛込、神楽坂」第5号(平成七年)32頁には本多横丁の神楽坂四丁目に「小間物・桔梗屋」があったといいます。ここでしょうか?

 横寺町飯塚は近くに質やもやっていて、土蔵のある親質屋で牛込きっての金持とかいわれ坪内博士令嬢息子が嫁にもらって評判だった。公衆食堂がそのそばにあった。この店は近所の人達まで利用した。ごま塩が食卓にあるので労働者に喜ばれた。横寺、通寺は「めし屋」がない所で、この公衆食堂の前に天ぷらやが出来、15銭の天丼を売って出前をするので、芸術クラブ住人に重宝がられた。
 松井須磨子が首をつった二階の廊下は格子がはまって明りとりになって吹きぬけになっていた。その部屋を見に行く学生があった。そこの前に小さな雑貨屋があり、お湯やに行く人に石鹸や垢すりを売っていた。その家には娘が3人いて上の子が15~6で、抱月が須磨子と歯みがきなんか買いにきてよく顔をしっていたけどそんなに偉い女優とは知らなかったという。

令嬢 写真家の鹿嶋清兵衛と後妻ゑつの長女くにを6歳の時に養女にしています。
天ぷらや 一軒家か屋台です。新宿区横寺町交友会、今昔史編集委員会の『よこてらまち』(2000年)でも、1997年の新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』でも昭和10年頃になると、なくなっていました。
格子 細い角材や竹などを、碁盤の目のように組み合わせて作った建具。戸・窓などに用いる。
明りとり 光を取り入れるための窓。明かり窓。外の光の取り入れぐあい。採光。
小さな雑貨屋 2000年の『よこてらまち』でも1997年の新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(下図)でも不明です。

よこてらまち

神楽坂界隈

お湯や 藤の湯でした。

牛込の文士達➂|神垣とり子

文学と神楽坂

 いよいよ相馬泰三氏がでてきます。この文章を書いた神垣とり子氏は美貌の妻でしたが、あっという間に、人形芝居の青年と一緒になり、相馬とは離婚しました。

 「直し」と繩のれんのかかった居酒屋飯塚横寺町にあったが、その横寺町に相馬泰三いた。牛込警察のおまわりさんの独身寮の隣りで、筋向い聚英社という出版屋があって新潮社も近かったことから文士が原稿の持ち込みにきたり前借りしにやってきて留守だと寄り道をしていった。
 近くの都館には早稲田の学生がかなり多く下宿をしていた。渋沢栄一庶子だと自称する学生は赤くなったので養家先の名古屋の家から出されてきていた。高丘子爵御曹子もいた。泰三は弟子が多いというより若い友達が多かった。都館の連中も遊びに来たが誰一人、手土産をもってくる人もいなければ、又それを気にする人もなかった。宇野浩二葛西善蔵の弟子だという間宮茂輔鎌倉ハムをどっさりもって来たのは例外で当時出入していた女子大生に気があったらしい。

直し 直し味醂。なおしみりん。焼酎に味醂をまぜた酒。焼酎よりも甘くて弱い。なおし。直し酒。なおしざけ。腐りかけた酒や下等な酒を加工して、普通の酒のように直したもの。
繩のれん 一本の横竹に縄を幾筋も並べ垂らして、簾の代用としたもの。店先に繩のれんを下げたところから居酒屋・一膳飯屋などのこと。
いた 相馬泰三の住所は横寺町36でした。

横寺町36

筋向い 道や堀を隔てて斜め前方。
聚英社 聚英閣が正しい。
渋沢栄一 実業家、子爵。新政府では大蔵大丞。欧州を巡遊後、実業界に入り、第一国立銀行、初の私鉄日本鉄道会社、王子製紙など五百余の会社を設立。生年は天保11年2月13日。没年は昭和6年11月11日。享年は満92歳。
庶子 民法の旧規定で、父が認知した私生児。
赤くなった 酒を飲むと顔が赤くなったのでしょうか。
高丘子爵 たかおかししゃく。公家。藤原北家支流の閑院流。家格は羽林家
御曹司 おんぞうし。貴族や上流武家の子弟で、まだ独立せず親の邸内に部屋を占めて居住する者
鎌倉ハム 食肉加工品のハムのブランドの一つ。複数の業者が製造販売する。1874年(明治7年)、イギリス人技師ウィリアム・カーティスが神奈川県鎌倉郡で畜産業を始め、横浜市で外国人に販売する。1884年(明治17年)、地震で工場が出火、消火作業に行った近隣住民の恩義に報いるべく製法を伝授し、カーティスの妻の奉公元である大庄屋齋藤の満平へ1887年に製法を売却した。

 間宮は慶応ボーイなので銀座組だけど静岡の久根銅山に或る夏出かけ泰三の兄が何かの課長をしていたのでその縁故で出入する様になった。初め本名の真言を使っていたが泰三が「川原茂輔って代議士がいるぞ、なかなか優秀らしいから君も改名しろ」といわれたので真言をやめて茂輔といったが間もなく四国の阿多田島へ燈台守りになって東京を去った。というのはその女子大生に「升田屋」(今の寿海寿美蔵時代)に似ているといわれていい男ぶっていたが、仕事も職もなく居候ばかりしてもいられないので、四国くんだりまで流れていったのだ。鰯くさい土地の娘といい仲になったという噂も聞いたがやっぱりお江戸がなつかしく独りで上京してきた。そうして葛西善蔵広津和郎の鎌倉の先輩のところへ行ったり、上京して三十間堀の「万力屋」炭店――昔新橋七人組――の君太郎の弟丹羽一郎の所へ行ったりして相変らずの居候暮しだった。

久根銅山 くねどうざん。静岡県浜松市天竜区の鉱山。産出物は銅、黄鉄鉱など。
真言 間宮茂輔の本名は「間宮真言(まこと)」
川原茂輔 実業家、政治家。佐賀県政界・実業界で活躍。佐賀日日新聞社長など歴任。明治25年以来、衆院議員当選10回。昭和4年、衆院議長。生年は安政6年9月15日、没年は昭和4年5月19日。
阿多田島 あたたじま。 広島県大竹市の瀬戸内海の島。有人島。間宮茂輔氏の「三百人の作家」(五月書房、1959)によれば、実際は香川県高松市の男木島(おぎじま)に渡りました。
升田屋 市川寿美蔵(すみぞう)。歌舞伎役者の名跡。屋号は初代と二代目は不詳、三代目は大見屋から成田屋、以後五代目まで成田屋、五代目以降は升田屋。
寿海 1886–1971。五代目の養子。旧名は市川高丸、市川小満之助、市川登升(升田屋)、六代目市川壽美蔵(升田屋)、三代目市川壽海(成田屋)でした。
寿美蔵時代 六代目市川寿美蔵(升田屋)から三代目市川寿海(成田屋)に変わっています。
噂も聞いた 実際に間宮茂輔氏は正式に島の娘と結婚しています”>
三十間堀 三十間堀川。さんじっけんほりかわ。中央区にかつて存在した河川
新橋七人組 明治後期から大正前期、新橋の半玉のなかで、優れた半玉を選ぶもの。白井権八氏の「美人大学いろ手帳」(美人大学社、大正3年)では、新七人組は小万こまん、その子、里千代さとちよ小奴こやっこ君太郎きみたろう春枝はるえ元香もとかと書かれています。
君太郎 清松家君太郎。六代目尾上菊五郎夫人になりました。

新橋七人組 君太郎(左)と小奴 https://twitter.com/FlowerSaphiret/status/614617463766974464/photo/1

 丹羽一郎の妹がやっていた鎌倉の雪の下の旅館で間宮と丹羽は風呂番などしていたこともあった。しかし相変らず神楽坂へは女子大生の顔を見に泰三の所へきていた。彼女が東大の学生と熱くなり近く結婚するという頃彼女の母親がうちの娘は裾まわしを痛めますとよくこぼした。「恋愛してほっつき歩くからですよ」といってやりたかった。素寒ピンの間宮より伏見の呉服やの息子の方が親の気にいって結婚してしまった。
 神楽坂へは渋谷から舟木重雄兄弟がよく散歩にきたが間宮茂輔は馴染めないようだった。そのくせ泰三の所ではあぐらをかいたりしていた。
 各務虎夫北村喜八守随憲治の東大組と名古屋の伊藤丑之助、高丘子爵の御曹子、越後の大地主の息子、大阪の正弁丹後の弟などの早稲田派と外語の平野静男が合流して横寺町の泰三の家はいつも人の出入りが多くて賑やかだった。

裾まわし あわせの着物の裾部分の裏布。江戸末期、吉原の芸者衆は裾を長く引きずる風習があり、足元で裾が広がり裏が見え、見栄えが良かったといいます。また、裾は非常に痛みやすいところです。
素寒ピン 素寒貧。すかんぴん。貧乏で何も持たないこと。まったく金がないこと
舟木重雄 早稲田大学文学科の「高等遊民」。広津和郎・葛西善蔵らと文芸同人雑誌「奇蹟」を創刊し、その編集兼発行人。作家・島田清次郎は舟木重雄の妹芳江をホテルに監禁している。生年は1884年、没年は1951年。
各務虎夫 各務虎雄か。かがみとらお。国文学。生年は1900年。没年は1984年
北村喜八 演出家、劇作家、翻訳家。東京帝国大学英文科卒。1924年、築地小劇場に参加。昭和25年、国際演劇協会(ITI)日本センターを設立し、26年理事長に就任。生年は明治31年11月17日、没年は昭和35年12月27日
守随憲治 しゅずいけんじ、近世日本文学研究者、東京大学教養学部名誉教授。生年は明治32年3月10日、没年は昭和58年2月7日。
伊藤丑之助 早稲田大学の学生運動を主導。若くして死亡した。
正弁丹後 明治二十六年「法善寺横丁 正弁丹吾亭」の誤植でしょうか。正弁丹吾亭は日本料理の料亭です。なお広島の「正弁丹吾」もあるようで、昭和35年創業、まったく無関係です。
平野静男 大正~昭和時代の平野静男はわからず、平野静雄はいるようですが、有名な人ではありません。

 葛西善蔵なんか朝っぱらから来て飲んだり食べたりした上、電車賃をねだっていた。「水文」なんかでおごられて帰りに「女房と牛は三日目にぶんなぐれ」なんて暴言をはいていた。泰三が金なにがしかを渡してやると、
「泰三、お前はがま口を二つもっていて、俺に銭をよこす時は少ない方をざらっと掌にのっけてよこす、ずるい奴だ」
 泰三は善蔵にそういわれても顔をしかめるだけで怒らなかった。新潮社の会計の中根駒十郎を葛西善蔵は「駒十郎,役者のような名をつけて、吉良になったり由良になったり」といったが傑作の一つだろう。善蔵は青森の碇ケ関の生まれで方言がひどく、お茶碗が「おつやわん」だったり浅虫が「あんじゃむし」で東京もんは面くらう。その調子で出版屋に前借りの金策に来て断われた時
  二百十日や危病神、鬼の子孫の高利貸、
  暗い暗い腹へった、行燈なめたら舌焼いた
とよれよれの袴姿で身振りおかしく、しらふで踊る恰好が淋しそうで気の毒だった。その癖少しお金がはいると、「直し」と筆太に5尺位の看板にかかれた飯塚の繩のれんをくぐっていい気げんになり、泰三の家へ来て「赤とんぼ」をおどる。
 赤とんぼ 赤とんぼ 羽根がなければ赤とんがらし
 赤とんがらし 赤とんがらし 羽根が生えれば赤とんぼ

碇ケ関 いかりがせき。地名。青森県平川市碇ケ関。
浅虫 あさむし。青森県の浅虫温泉のことでしょうか?
赤とんぼ 風雅遁走!から引用すると「芭蕉の弟子の其角がつくった『あかとんぼ はねをとったら とうがらし』という句を、師芭蕉みずから『とうがらし はねをつけたら あかとんぼ』と訂正したというエピソードが残っている。その時、芭蕉は言ったというのである。『それじゃ、俳句とはいえん。おまえはトンボを殺してしまっている』」

牛込郷愁

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「牛込うしごめ郷愁ノスタルジヤ」です。話は牛込区の(みやこ)館支店という下宿屋で、起きました。

 なお、最後の「なつかしい店だ」と次の「こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう」は同じ段落内です。長すぎるので2つに分けて書きました。

 牛込牛込館の向こう隣に、都館(みやこかん)支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈(けんとう)がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論(もちろん)原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「(これ)を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎(たにざき)精二(せいじ)さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬(そうま)泰三(たいぞう)さんは、襟足(えりあし)へいつも毛をはやしていた、廣津(ひろつ)さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌(こづち)を腰へぶらさげて、その批評家の(うち)のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽(かぐら)(ざか)の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ()()って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。さかなは何やならんと横目で見たら、おそば、、、だった。しかも、かけ、、だった。かけ、、のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月しゅんげつと書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん様と横町よこちょうを隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。

牛込牛込館都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。

牛込館と都館支店

左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。

軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
スウハイ 崇拝。敬い尊ぶこと。
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「()(せん)」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
センチメント 感情。情緒。感傷。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
 酒に添えるものの総称。一般に魚類。酒席の座興になる話題や歌舞のことも。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。

こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう。相馬そうま! 御存知でしょう有名な紙屋だ。当時僕たちはこゝで原稿紙を買った。僕と國木田くにきだ虎男とらお獨歩どっぽの長男)と、平野威馬雄いまおヘンリイビイブイというアメリカ人で日本の勲章を持っている人のせがれ)と三人で、相馬屋へ行ったことがある。五百枚ずつ原稿紙を買った。お金を払おうとした時に僕たちに原稿紙包みを渡した小僧さんが、奥から何か用があって呼ばれた。咄嗟とっさに僕が「ソレッ」と言った(あゝ、ツウといえばカア、ソレッと言えばずらかり、昔の友達は意気があいすぎていた)。三人の姿は店から飛び出ていた。金はあったのだ。払おうとしたのだ。嘘ではない、計画的ではない。ひょッとの間に魔にとりつかれたのだ(ベンカイじゃありませんぞ)。僕は包みを抱えたまゝ、すぐ隣の足袋屋の横を曲がった。今この足袋屋は石長いしなが酒店の一部となってなくなっている。大きなゴミ箱があった、フタを開けてみると、運よくゴミがない、まず包みをトンと投げこみ、続いて僕も飛びこんだ。人差し指で、ゴミ箱のフタを押しあげて、目を通りへむけたら、相馬屋という提燈ちょうちんをつけた自転車が三台、続いて文明館のほうへ走って行った。折を見はからって僕は家へ帰った。もうけたような気がしていたら翌日國木田が来て、「だめだ、お前がいなくなったので待っていたら、つかまってしまッたぞ。割前わりまえをよこせ」と取られてしまった。苦心して得だのは着物についたゴミ箱の匂いだけだッた。相馬屋の原稿用紙はたしかにいゝ。罪ほろぼしに言っているのではない。
 まだある。二十一、二の時分に神楽館かぐらかんという下宿にいた。白木屋の前の横丁を這入ったところだ。片岡鐵兵てっぺいことアイアンソルジャー、麻雀八段川崎かわさき備寛びかん間宮まみや茂輔もすけ、僕などたむろしていたのだ。僕はマダム間宮の着物を着て(自分のはまげてしまったので)たもとをひるがえして赤びょうたんへ行く、田原屋でサンドウィッチを食べた。払いは鐵兵さんがした。

国木田虎男 詩人。国木田独歩の長男。「日本詩人」「楽園」などに作品を発表。詩集は「鴎」。ほかに独歩関係の著作など。生年は明治35年1月5日、没年は昭和45年。享年は満68歳。
平野威馬雄 詩人。平野レミの父。父はフランス系アメリカ人。モーパッサンなどの翻訳。昭和28年から混血児救済のため「レミの会」を主宰。空とぶ円盤の研究や「お化けを守る会」でも知られた。生年は明治33年5月5日、没年は昭和61年11月11日。享年は満86歳。
ヘンリイビイブイ ヘンリイ・パイク・ブイ。Henry Pike Bowie。裕福なフランス系アメリカ人。米国で日米親善や日系移民の権利擁護に貢献し、親日の功で、生前に勲二等旭日重光章を贈与。
ずらかる 逃げる。姿をくらます。
ベンカイ 弁解。言い訳をする。言いひらき。
石長酒店 正しくは万長酒店です。サトウハチローからが間違えていました。
意気があう 「意気」は「何か事をしようという積極的な心持ち、気構え、元気」。「息が合う」は「物事を行う調子や気分がぴったり合う」
割前 それぞれに割り当てた額
アイアンソルジャー おそらく鉄兵を鉄と兵にわけて、英語を使って、鉄はアイアン(iron)、兵士はソルジャー(soldier)としたのでしょう。
まげる 曲げる。品物を質に入れる。「質」と発音が同じ「七」の第二画がまがることからか?
たもと 袂。和服の袖で袖付けより下の垂れ下がった部分。

三百人の作家②|間宮茂輔

文学と神楽坂

 間宮茂輔氏の『三百人の作家』(五月書房、1959年)から「鎌倉建長寺境内」です。

 間宮茂輔氏は小説家で、「不同調」の同人から「文芸戦線」、ナップに加わり、昭和8年に投獄され、10年、転向して出獄。12年から「人民文庫」に長編「あらがね」を連載し、第6回芥川龍之介賞候補に選出。戦後は民主主義文学運動や平和運動の推進に努めました。

 当時、相馬泰三は、牛込横寺町の、叢文閣書店の斜向いに新婚の夫人と住んでいた。才色兼備の夫人‥‥神垣とり子については後でふれる機会があるかもしれない。ともかくわたしは相馬家の常連みたいになって、そこの二階でいろんな作家たちに紹介された。
 或る日もわたしが遊びに行っていると、三人の作家が訪ねて来たが、頭髪のもじゃもじゃな背の低い醜男が菊池寛であり、おじさんみたような感じで顔に薄いの残つている人が加納作次郎であり、いちばん若い、五分刈の、紺ガスリを着た眼光のするどい人が広津和郎であった。三人は小説家協会という相互扶助の団体を創立するため相馬泰三を勧誘に来たのである。いうまでもなくこの小説家協会が発展して戦前の文芸家協会になり、戦争ちゅうはさらに変身して日本文芸報国会となったことはだれでも知っているが、その出発に当って菊池、広津、加納その他の人びとが、足をはこんで一人ずつ勧誘して歩いた努力は記憶されていいことだろう。
「そう‥‥そんなものがあれば便利だろうし、べつに無くても差支えはないだろうね」
と、相馬が一流の皮肉な答えかたをしたのをわたしはおぼえている。
 英訳ではあるが、チェーホフの飜訳紹介で功績のある秋葉俊彦にも同じ二階でひきあわされた。わたしなど新潮社版の秋葉訳でチェーホフに取りついたようなものである。有名な東海寺(品川)の住職でもあるこの人には、だれが考えたものか、アキーバ・トシヒコーフという巧い綽名があった。
 谷崎精二には神楽坂の路上で紹介された。すでに早大の講師か教授かであったこの作家は、兄の潤一郎とはちがい、見るから真面目そうであったが、駄じゃれの名人であり、矢来の奥から細身のステッキをついて現われ、神楽坂をよく散歩していた。しかし下町生れの東京児らしいところもないではなく、いつもぞろっとした風に和服を着流し中折れをちょいと横に被った長身が、何か役者のような印象であった。

叢文閣書店 大正7(1918)年から、この書店は神楽坂2-11にありました。それ以前にはよくわかりませんが、恐らく間違えています。横寺町にあった書店は文海堂(28番地、緑色)か聚英閣(43番地、青色)でした。

住んでいた 住所は横寺町36。上図で赤色。
神垣とり子 生年は1899年(明治32年)。貸座敷「住吉楼」の娘。相馬泰三氏の別れた妻。相馬氏が死亡する直前に再会し、亡くなるまで傍にいました。
紺ガスリ 紺絣。紺地に絣を白く染め抜いた模様か、その模様がある織物や染め物。耐久性があるので仕事着や普段着に普及。
小説家協会 1921年、発足。
文芸家協会 1926年、発足。小説家協会と劇作家協会が合併してできたもの。文学者の職能擁護団体。戦時中は日本文芸報国会で吸収。1945年、日本文芸家協会として再発足。
日本文芸報国会 1932年(昭和7年)内閣情報局の指導の下に結成。戦意高揚、国策宣伝が目的。45年、終戦直後に解散。
秋葉俊彦 詩人として文壇に。大正の初めから中頃までにチェーホフの諸短篇を訳し、名訳者と。
ぞろっと 羽織・袴をつけない着物だけの姿で
着流し 袴や羽織をつけない男子和装の略装。くだけた身なり
中折れ 中折れ帽子。中折れ帽。山高帽の頂を前後にくぼませてかぶるフェルト製の紳士帽。

都館|文士が多し

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。話は牛込区の(みやこ)館支店という下宿屋で、サトウハチロー氏が都館に住んでいた宇野浩二氏を崇拝していたと言っています。

牛込郷愁(ノスタルジヤ)
 牛込牛込館の向こう隣に、都館(みやこかん)支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈(けんとう)をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論(もちろん)原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「(これ)を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎(たにざき)精二(せいじ)さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬(そうま)泰三(たいぞう)さんは、襟足(えりあし)へいつも毛をはやしていた、廣津(ひろつ)さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌(こづち)を腰へぶらさげて、その批評家の(うち)のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽(かぐら)(ざか)の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ()()って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。さかなは何やならんと横目で見たら、おそば、、、だった。しかも、かけ、、だった。かけ、、のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月しゅんげつと書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん様と横町よこちょうを隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。

牛込牛込館都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。現在は牛込館はLiberty houseと神楽坂センタービルに、都館支店はLog Salonに当たります。

牛込館と都館支店

左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。

軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「()(せん)」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。