神楽坂まちの手帖」タグアーカイブ

神楽坂、坂と路地の変化40年

文学と神楽坂

 『神楽坂まちの手帖』第10号(2005年)に建築家の三沢浩氏が小栗横丁を主体として書いています。

神楽坂、坂と路地の変化40年

 小栗横丁は20数年の間、自宅からの通勤路だった。だから最近のこの道の変遷には、驚きひとしおである。神楽坂に外堀通りから入り、理科大への田口生花店の角を左へ、そして古い石垣と志満金厨房の間を右に入る。そこから始まり、突き当たりの西條歯科で終わるゆるいカーブの続く、200m余の路地が小栗横丁と呼ばれる。石垣の所に元禄時代1700年頃の、江戸切絵図に小栗五大夫の屋敷が見える。文政の1800年代には、西條歯科の斜め前の丸紅若宮寮の場所にも小栗仁右衛門とあり、これも路地に名を残す一因ではなかったか。
 左側の神楽坂2丁目22番に、泉鏡花明治38年まで4年間住み、並びの家北原白秋明治42年まで、2年間住んだことになっている。「からたちの花」はここで生まれたのかどうか。今は理科大附属の外人教師館だが、以前は石段の上に平屋の板張り小住宅が、草花やつりしのぶに囲まれてひっそりとあり、中からクラシック音楽が流れ出ていた。右の細い路地、夏日写真館の脇を抜けると神楽坂で、入口にガス灯つきの石の門があった。

ひとしお 一入。ほかの場合より程度が一段と増すこと。何か特別な事情や理由があって一段と程度が増していること。

小栗横丁。1983年。住宅地図

外堀通り 皇居のまわりを一周する最大8車線の都道。
理科大 東京理科大学。新宿区神楽坂一丁目に本部を置く私立大学
田口生花店 正しくは田口屋生花店
志満金厨房 志満金はうなぎ割烹を主にする日本料理。厨房とはその調理室のこと
西條歯科 最西部にある歯医者
江戸切絵図 江戸時代から明治にかけてつくられた区分地図。

元禄と文政。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から

丸紅若宮寮 大手総合商社丸紅株式会社の共同宿舎。2001年には依然開設し、2010年には終了しています。
明治38年 泉鏡花旧居跡では、明治36年3月から明治39年7月まで住んでいたとのこと。この「泉鏡花・北原白秋旧居跡」は泉鏡花の旧居だといいます。
並びの家 道などの同じ側。神楽坂2丁目22番はかなり大きな場所です。その2軒に泉鏡花氏と北原白秋氏の2人がいたわけです。おそらく別の家に住んでいたのでしょう。

神楽坂2丁目。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

明治42年 北原白秋旧居跡では、明治41年10月末から明治42年10月まで住んでいたとのこと。
からたちの花 大正13年、「赤い鳥」で詞を発表。歌詞は「からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ/からたちのとげはいたいよ/靑い靑い針のとげだよ/からたちは畑の垣根よ/いつもいつもとほる道だよ/からたちも秋はみのるよ/まろいまろい金のたまだよ/からたちのそばで泣いたよ/みんなみんなやさしかつたよ/からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ」
外人教師館 地図によると「東京理科大学神楽坂客員宿舎」(右下)。その後、新宿区若宮町に移動しました。

1996年。住宅地図

つりしのぶ 釣り忍。竹や針金を芯にして山苔を巻きつけ、その上にシノブの根茎を巻き付けて、さまざまな形に仕立てたもの。
夏日写真館 以前は坂上を見て左側でした
ガス灯つき ガス灯つきの石の門に相当する門は思い出せないと、地元の人。下は商店会の街灯でした。

夏日写真館

 次の右折れの先は、藤原酒店と向き合って整美歯科、左は急坂を経ると加賀まりこさん宅へ抜ける。熱海湯前までは粋な飲食店が並び、そのうちの一軒は、やや広くなった通に店内から、客用の椅子を出して日向干し。この店の入口にはほぼ毎日、ふぐひれも干してあって、ひれ酒を誘った。熱海湯右の石段を登れば斉藤医院、突き当たりは履き物の「助六」の裏庭で、いつも池への水音が優雅。熱海湯前には煉瓦の階段がゆるく登る、手すりつきの路地があって、突き当たりには桜の古木が、すばらしい花を見せた。
 さてこれから突き当たりまでが、小栗横丁の舞台。右側は黒塀が続いて、名だたる料亭があった。まず喜久月、続いて鷹の羽、その裏に接して重の井。重の井の入口は若宮八幡の通りで右に折れ、坂を登った突き当たりが、このあたりに君臨していた松ケ枝となる。もちろん小栗横丁ではないが、道の左右には仕出屋芸妓置屋があった。

1973年、住宅地図

昔の加賀まりこ

整美歯科 正しくは臼井歯科では? 非常に短命に終わった整美歯科医か、名前だけを間違えて正しくは臼井歯科だったのでしょう。
加賀まりこ かがまりこ。女優。生年は1943月12月11日。千代田区神田小川町に生まれ、神楽坂2丁目で大きくなった。フジテレビの『東京タワーは知っている』でデビュー。和製ブリジット・バルドーとも。
若宮八幡 鎌倉時代の文治五年秋、若宮八幡宮を分社した。図の「若宮町」よりもさらに南に存在。「出羽様下」通りと同じ。
仕出屋 注文に応じて料理をつくり届けることを業とする家
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。芸妓屋。芸者屋。置屋。

 ある夕刻、この道筋を帰ってきたが、花屋から石垣の角を曲がるあたりで、脂粉の香がひと筋流れているのを感じた。この小路は巾2~3m、しかも大きくカープしながら、時にはねじれるように曲がって先が見通せない。しかも次第にゆるく登る。脂粉の流れは左右に消えることなく、家並みに沿って続いていたが、熱海湯先で消えた。料亭には置き塩のある格子戸の入口と、黒塀にとりつけた小さな木戸がある。どの入口に入ったものか。
 その格子戸を開けると、打ち水された坪庭、黒松が枝を延ばし、玄関は右か左に90度折れた所にあって、格子戸越しには全貌は見えないのが常。玄関の式台を上がると、右に折れて次の間、また90度折れて座敷に近づく。狭い敷地に小栗横丁から入り、奥行きを深くするための、日本流の入り方がそこに残っていた。植え込みに遣り水踏み石灯龍に灯、粋な庭には朝から手入れをする仲居さんの姿があり、一本ずつ格子を磨くのも仕事のうち。夕刻ともなると、ある入口には一流製鉄会社の黒い背広連、別の料亭では横山隆一等の漫画集団の姿も見た。三味線の高鳴る黒塀からは、経理関係の組合などが溢れ出したり。

脂粉 しふん。紅とおしろい。
次第にゆるく登る ノエル・ヌエット氏が描いた「若宮町」も上にのぼっています。この絵画もここでしょうか。

若宮町。ノエル・ヌエット作。1946年。画集「東京」から

現在の神楽坂2丁目から若宮町に

置き塩 盛り塩。もりしお。塩を三角錐型や円錐型に盛り、玄関先や家の中に置く風習。縁起担ぎ、厄除け、魔除けの意味があります。
格子戸 格子を組んで作った戸。
木戸 街路、庭園、住居などの出入口で、屋根がなく、開き戸のある木の門。
打ち水 ほこりをしずめたり、涼をとるために水をまくこと。
坪庭 建物と建物との間や、敷地の一部につくった小さな庭。
式台 玄関の土間とホールの段差が大きい場合にその中間の高さに設けられる横板
遣り水 やりみず。水を庭の植え込みや盆栽などに与えること。
踏み石 通常は、玄関や縁側などにある、靴を脱ぎておく踏み台のような石。日本庭園にある飛び石。
灯龍 とうろう。日本古来の戸外照明用具。竹,木,石,金属などの枠に紙や布を張って,中に火をともす。
仲居 旅館や料亭などで客の接待をする女性。
横山隆一 漫画家。第2次世界大戦後『毎日新聞』に『フクちゃん』を1956年~71年まで連載。生年は1909年5月17日、没年は2001年11月8日。享年は満92歳。



寺内で会った人々|水野正雄

文学と神楽坂

 平松南氏が編集する「神楽坂まちの手帖」第5号(けやき舎、2004年)で、水野正雄氏は寺内で起きた喜怒哀楽(というと大げさだけど)を取り上げます。神楽坂はん子、柳町金語楼、若山富三郎と勝新太郎、花柳小菊、水谷八重子、泉鏡花などのオールドスターがでてきます。

「新宿・神楽坂暮らし80年」④
新宿郷土研究会会長 染め物洗張り「神楽坂 京屋」 水野 正雄
 歌手で有名な神楽坂はん子さん。はん子さんも芸者だったが、神楽坂5丁目読売新聞販売所があるでしょ、あの隣りがはん子さんの家でした。それが白銀町の私の家の隣りのお風呂屋に来るんですよ。私もその頃、お風呂屋に行ってましたけど。見はからって? いいや偶然(笑)。そうするとね、女湯の方で「あらこんにちは」なんて挨拶しているのが聞こえた。それがいい声でね。
 はん子さんの隣りが金語楼お妾さんの家で、今の読売新聞販売所の所です。金語楼の息子、山下敬二郎はあそこで生まれて、いっつも路地でくるくる回って遊んでいたの。金語楼の弟で昔々亭桃太郎(せきせきてい・ももたろう)というのが横寺に住んでましたが。金語楼も桃太郎も家のお客でしたが、勘定ぱらいが悪くてね。はん子さんは勘定ぱらいはよかったですよぉ。それから今の高層マンションの中央あたりに、杵屋勝東治っていう長唄のお師匠さんが住んでいて、そのお妾の子が若山富三郎勝新の兄弟。彼らが20代早々のときに3年ほど神楽坂に住んでいた。出口の床屋(お風呂屋へ抜ける道の大久保通りのところにあった床屋)で何回か会ったことがあるんだが、勝新太郎は生意気なことばかりいっていたよ。映画界に入る前で、なんだかアメリカへ行ってきたらしく、そのことを鼻高々で話していた。
 それから花柳小菊さんも、毘沙門さまの地蔵坂から入ったところに住んでいました。小菊さんも芸者で。はん子さん、小菊さん、水谷八重子、鏡花の嫁さんの桃太郎さんもみんな家のお客さんです。水谷八重子は守田勘弥お妾さんだが、6丁目の横寺のちょっと手前に金物を売っている家があるでしよ、そこは墓場なんですけど、そこに「蒲(かば)」つていう医者の家があって、その隣りが先代の水谷八重子の家でした。兄貴の竹紫っていうのと住んでいたの。神楽坂にはずいぶん、お妾さんが住んでいたんだね。
 鎗花のおかみさんの桃太郎さんは、親父の話ではちょっときつい顔をしていたから、あんまり売れっ子じゃなくて。それで鏡花とお座敷で同席して仲良くなったっていうんだね。

読売新聞販売所 現在はなくなった販売所ですが、1990年には道路の一番左側から3番目にありました。1963年ではやはり左側から3番目に山下氏があり、ちなみに、その2番目は「〇〇〇焼」でした。1960年では、三幸、お好焼き、山下、安井と並んでいます。1952年も左側から3番目は料理・山下でした。

1990年と1963年。住宅地図。

1960年。住宅地図。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

あの隣り 1960年、山下氏の一方の隣りはお好焼き。したがって反対側の安井氏の家の方でしょう。
お風呂屋 1960年には熊乃湯でした。
お妾さん 実際の愛人。愛人の子として山下敬二郎氏がいる。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

 ここで新宿区が編集した「新宿時物語」(星雲社、2007年)の「神楽坂の料亭街」を簡単に見ておきます。地元の人は神楽坂5丁目の一部だといっていて、私もそうだと思っています。
 赤丸はカメラの本体、赤い線はその画角です。

新宿時物語

 ここで➃は「料理 山下」で、柳家金語楼のお妾さんの家、後に読売新聞販売所になり、大久保通り拡幅工事のため、市谷柳町の牛込神楽坂読売センターと統合し移転し、現在はLe petit Bistro RACLER(ル・プティ・ビストロ・ラクレ)になりました。➂は民家で、一時は神楽坂はん子の家になり、現在はなくなり、普通の道路になりました。➀は「芸妓 分まん」、➁は「法律OF 野町」で、➀➁ともに神楽坂アインスタワーになり、➄は「芸妓 富沢」、現在神楽坂茶寮本店です。

山下敬二郎 ロカビリー歌手。ポール・アンカの「ダイアナ」の日本語カバーで有名。生年は1939年2月22日。没年は2011年1月5日。享年は満72歳。
昔々亭桃太郎 落語家。柳家金語楼の弟。生年は1910年1月2日。没年は1970年11月5日。享年は満60歳
高層マンション 神楽坂アインスタワーです。
杵屋勝東治 きねや かつとうじ。長唄三味線方。生年は1909年10月16日。没年は1996年2月23日。
お妾 実は正式な妻。
若山富三郎 わかやま とみさぶろう。俳優。本名は奥村勝。生年は1929年9月1日、没年は1992年4月2日。
勝新 勝 新太郎。かつ しんたろう。俳優。若山富三郎の弟。本名は奥村利夫。生年は1931年(昭和6年)11月29日、没年は1997年(平成9年)6月21日。
床屋 1952年の地図で、赤い四角の「トコヤ」
花柳小菊 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」(2008年)では

馬場さん 塀じゃなくてさ。壁が。「三笠屋」側は波板が貼って鳴らしながら通ったんだよ。子どもんときに。
相川さん ちょっと記憶がないな。その後ろに小菊さんがいたんだよ。花柳小菊さん。三笠屋の真後ろ。私んところの玄関の前に小菊さんがいた。

三笠屋は現在の手打ちそば「山せみ」なので、「三笠屋の真後ろ」は4枚目ほど前の図になるのでしょうか。
アメリカへ行く 1954年、23歳で、アメリカの巡業を行った。映画の撮影所で俳優ジェームス・ディーンに出会い、感化されて映画俳優になることを決意する。
守田勘弥 もりた かんや。歌舞伎役者。昭和10年、14代勘弥を襲名。江戸前の二枚目を得意とした。初代水谷八重子と結婚。実子に水谷良重。生年は明治40年3月8日、没年は昭和50年3月28日。享年は満68歳。
お妾さん 水谷八重子氏は「お妾さん」ではなく、正式に妻でした。
水谷八重子の家 ブログによれば、通寺町61でした。

(昭和12年)火災保険特殊地図


和可菜|兵庫横丁

文学と神楽坂

 旅館「()()()」は昭和29年に木暮実千代氏が出資して、神楽坂4-7(兵庫横丁)に建築。女将は妹の和田敏子氏。一時は脚本家・映画監督・作家たちが本を書く「ホン書き」として有名でしたが、2015年末に閉店しました。
 粋なまちづくり倶楽部の『粋なまち 神楽坂の遺伝子』(2013年、東洋書店)では和可菜旅館について

霧除けを帯びた入母屋造りの瓦屋根に下見板張りの外観は、玄関脇の植栽とともに閉静な路地に彩りを添えている。板塀にしつらえられた引違いの格子木戸は、動線を屈曲させてアプローチに「引き」を作る。玄関は洗い出し土間に自然石を沓脱ぎとして配し、台形の無垢板の式台ナグリ吹寄せ 竿縁の天井をしつらえるなど手の込んだ意匠が残る。腰には丸太を縦張りし高窓のガラス戸桟を人字型に加工するなど、旅館建築ならではの自由なデザインも見られる。

そう、建物として本当に何かが上品で流麗なのです。
 なお、ここで出てくる設計用語については

霧除け 霧や雨が入り込まないよう、出入り口や窓などの上部に設ける小さなひさし。
入母屋造り 上部で切妻造(前後2方向に勾配をもつ)、下部で寄棟造(前後左右四方向に勾配)となる構造。
下見板張り 外壁で板を横に並べるとき、板の下端がその下の板の上端に少し重なるように張ること。
格子木戸 碁盤の目の木の戸。
洗い出し たたきや壁などで、表面が乾かないうちに水洗いして、小石を浮き出させたもの。
沓脱ぎ 履物を脱ぐ所。
式台 玄関の土間と床の段差が大きい場合に設置する板。
ナグリ 舞台玄能。
吹寄せ 竿を2本ずつ寄せて入れるもの。
竿縁(さおぶち) 一般的和室天井張り形式。
縦と横1縦張り 縦に羽目板などを張ったもの。
戸桟 裏に桟を取り付けた、頑丈な戸。

外から見た旅館・和可奈

 明治大学教授の黒川鍾信氏の本『神楽坂ホン書き旅館』は02年に出版されました。
 NHK出版でそのPRを読むと『今井正、内田吐夢、田坂具隆、山田洋次、石堂淑朗、市川森一、竹山洋、野坂昭如、結城昌治、色川武大、伊集院静、村松友視。日本を代表する映画監督、脚本家、作家たちを、神楽坂の一角で四十八年間にわたって支えてきた「ホン書き旅館」の女将が語る執筆現場の秘話』だそうです。
 本当に「秘話」はちょっと大げさですが、でも「へー」という話が一杯入っています。たとえば、山田洋次氏が寅さんシリーズ第35作で初めてここにやってきた時の話。阿佐田哲也氏のマージャン大会の話。伊集院静氏が宿をここに置いた、その理由など。
 また黒川氏は05~06年、『神楽坂まちの手帖』第9号から第15号にかけて「ホン書き旅館の帳場から」を書いています。
 さらに小田島雅和氏が『神楽坂まちの手帖』15年第1号から第3号にかけて「和可菜通信」を書いています。中身は俳句の「くちなし句会」について。 「くちなし句会」は作家結城昌治氏を中心として俳句の句会のことです。昭和52年(1977年)から開始し、第4回句会以来は「和可菜」で行い、途中で中断がありますが、平成19年(07年)以上、25年以上も続いています。今もやっているのかどうかは、はっきり言ってわかりません。やっていると思いたいです。
 伊集院静氏は11年に『いねむり先生』を書きます。そこで、筆者2人がいるけど実は同一人物だと教わります。伊集院氏がその筆者を連れて

神楽坂の通りを毘沙門天の向いから路地に入り、くねくねと曲がった石畳の階段を段だらに降りて行くと、黒塀に囲まれたその宿はあった。

 これは和可菜です。「段だら」とはいくつにも段になっているもの。その宿の庭については

ボクたちはその宿の庭に面した濡縁(ぬれえん)に並んで座っていた。(略)
 ちいさな庭の中央に古びた池があり、手入れかされてないのか、水は涸れてしまっている池の真ん中に一匹の黒猫が吹き溜った枯葉とじっとしていた。(略)
 庭といっても数歩歩けば表に出てしまう箱庭で、時折、塀のむこうの坂道を通る人の足音かすぐ近くに聞こえた。

 濡縁とは雨風を防ぐ雨戸などの外壁はない縁側だそうです。
 しかし、『神楽坂まちの手帖』そのものは第18号になって消えていきます。以来、「和可菜」は沈黙し、声は聞こえてはきません。本当に今も外国人が多いのでしょうか? だれかインターネットを使ってくれるとよく分かるのに。
 06年の『神楽坂まちの手帖』第15号、「ホン書き旅館の帳場から」で黒川鍾信氏は和可菜を取り上げて寿命はもう「風前の灯」だといいます。

「昭和ニ十九年~現在 ここで三千本を超える映画・テレビドラマの脚本と数百編の小説が書かれた」と刻まれるだろう。
 「~現在」が「~平成○○年」に代わる日がくるのは、さほど先のことではない。いや、すでに半分は“休館”の状態である。

 ところが、07年のTVドラマ『拝啓、父上様』はまた大きく変わります。「和可菜」は架空の料亭『坂下』のすぐ隣りになり、第3話の架空の作家・津山冬彦(奥田瑛二)の写真もここで撮影しました。

かくれんぼ横丁(「和可菜」前)
  石畳に並んで立つ津山冬彦と芸者真由美。
  スチールをとっているカメラマン。
カメラ「あ、いいな!  いいですよ! 目線一寸上。ア! いいなァ!」
  その時、撮っている先方の角から和服の男が現われる。
カメラ「ア」
  一瞬ためらい、シャッターを切る。
  和服の男――ルオーさんである。

「和可奈」の前にたたずむ作家、津山冬彦。「拝啓、父上様」で出ました。

 今では和可奈は閉鎖しても閉められない場所になってきたのです。まるで遊園地、観光名所になったようです。いまでは休みの日には人人人です。

 しかし、最初に述べたように、2015年末に閉店しました。しかし、閉店しても、和可菜の「看板」だけはそばに置いておくようです。



神楽坂の通りと坂に戻る

牛込亭|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

「牛込亭」って正確にはどこにあったのでしょうか?

通寺町の発展

島崎藤村等「大東京繁昌記 山手篇」(昭和2年)。加能作次郎の「早稲田神楽坂」「通寺町の発展

神楽坂まちの手帖』の平松南編集長は

そのころ神楽坂には演芸場が5つもあり、6丁目の安養寺うらの「牛込亭」もまた落語と講談の専門館であった。

と書き、吉田章一氏の『神楽坂まちの手帖』第10号の「牛込亭の番組と芸人たち」では、

話を牛込亭に戻しますと、神楽坂から大久保通を過ぎて、すこし先の右側、路地の奥にありました。できたのは明治10年頃といわれ、初めは持ち主を名を取って「岩田亭」と呼びました。明治後半になって相撲の親方の武蔵川が買って「牛込亭」にしました。
 関東大震災には焼けませんでしたが、芸人が焼け出されて集まらないためか一時は講談や浪曲を掛けていました。その後落語を中心とする色物席に戻り、現在の落語協会の前身である東京落語協会所属の寄席になりました。ときどきは浪曲も掛けていたようです。定員は200人足らずでした。
 牛込亭は戦災で焼失しなくなりました。

ここは牛込、神楽坂』6号で丸岡陶苑・岡崎弘氏の「町の宝もの」では

寺町の牛込亭にもよく行った。牛込亭に入るとこに秋山って塗物屋があって、こっち側はあとで帽子屋ができて。いま、たこ焼きがあるでしょ、あのあたり。あそこに細い道があって、突き当りが寄席でね。

 渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』では

神楽坂上より矢来町に向かってすぐ、通寺町の通り右側に木戸口があり、その突き当たりの路地おくに牛込亭があった。

 赤城神社の氏子町一覧「とおりてらまち」の説明です。

また娯楽場として九番地に寄席牛込亭(明治十年十月設立)、十一番地に常設活動写真文明館が(明治四十五年一月建立)ある。

 しかし、大正15年の東京演芸場組合では、牛込亭は「通り寺町」になっています。右は昭和5年の地図です。

通り寺町昭和5年
 1978年の三遊亭圓生の『圓生 江戸散歩』(集英社)では

飯田橋方面から来れば柳水亭の前を通って交差点を右に曲がると、そこから家数にして十四、五軒ほど行き路地を右側に入って十メートルぐらい行って突当たりが牛込亭の木戸口でした。

 これから考えられるものは

通り寺町昭和5年2

 牛込亭という場所は今では道路になるのか、道路に近い場所ではなかったのでしょうか。8番地は戦後になってからそこを貫く道路ができます。『円生江戸散歩』という本で円生は牛込亭の地図を書いていますが、この牛込亭の反対側、通寺町と岩戸町の道路は川喜田屋横丁の通りです。川喜田屋横丁の反対側に道路がでてきます。すると橙の丸で囲んだ場所あたりでしょうか。

牛込亭

 その後、昭和12年の「火災保険特殊地図」(都市製図社)を見ました。こうなっています。

昭和12年、牛込亭

牛込亭。昭和12年「火災保険特殊地図」(都市製図社)

 現在の地図で予想する寄席とまったく同じです。やはり道路で寄席は上下2つに分けているのですね。

 牛込亭は色物(いろもの)が主体でした。これは講談、義太夫、落語、浪花節などの本来の演芸とすると、それ以外の漫才,音曲,奇術,紙切り,曲芸,声帯模写などをさして色物というようです。

『神楽坂まちの手帖』第10号「神楽坂落語祭」59頁では、ある日の演芸は14人が出ています。講談が1人、落語は6人、残りの7人は、笑話、楽語、物まね、奇術、浮世節、能歌舞、新内を行いました。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座
白銀公園 瓢箪坂 駒坂 川喜田屋横丁 神楽坂5丁目 成金横丁
神楽坂の通りと坂に戻る

神楽坂|兵庫横丁はどこから来たの

文学と神楽坂

 みんな兵庫横丁はどれぐらいから知っていますか? やはり2008年からでしょうか。それより前にはごく少量の人は知っていましたが、他の人は誰も知らなかったのです。

 たとえば……
 料亭幸本の若女将、寺田歩さんは2007年『神楽坂まちの手帖』第15号では

そういえば、この辺りを兵庫横丁っていうそうですね。住んでる人間は知らないもので、「へえ、名前が付いてるんだ」って驚きました。

といっています。

 もっと古く平成10年(1998年)夏号の『ここは牛込、神楽坂』では

井上 ここは神楽坂で、もっともきれいだといわれるところ。決定打がほしい。黒塀があったりして『しのび坂』はどうか。猫の通り道なので「猫坂」でもいい。
  “おしのび”という感じでいい。あのあたりは昔は確か本多横丁からも抜けられた。

 この座談会に登場する3人とも「兵庫横丁」という用語は全く知りません。

 さらに新宿区の『新宿区60年史ー新宿時物語』(新宿区、平成19年、2007年)では、なんと芸者新道という、別の場所の名前が正々堂々と付いていました。

新宿時物語

新宿時物語

 ところが平成22年(10年)の「神楽坂粋なまちなみルール」(案)では正々堂々と兵庫横丁が出てきます。

 実は水野正雄氏が『神楽坂界隈』「中世の神楽坂とその周辺」で「平成7年、神楽坂街づくりの会のフォーラムの際、ここの横丁名を「兵庫横丁を名付けるよう私から提案をしておいた」と、書いています。その際、やはり1説だと書けばよかったのに…。

提言「兵庫横丁」の命名を。
神楽坂まちづくりの会新宿区郷土史会 水野正雄。
 この周辺の横丁や路地に“かくれんぼ横丁”“見返り横丁”とかなんらかの名前がついているのですが、この横丁だけは名前がありません。なんとか名前をつけてみたいと考えています。今流で言えば「総理大臣首きり横丁」といったところですが、中世の町兵庫まちにちなんで「兵庫横丁」としたらいかがでしょう。そうすれば中世の記憶も残ります。
 兵庫まちにちなむことを是非提案いたします。
神楽坂地区まちづくりの会「わがまち神楽坂」平成7年

 まあこのあたり、歴史的な云々は別として、以前にはなかった場所、江戸時代ではまったくなかった路地だと、知っておきたいところです。江戸時代と現在では場所も違います。もう正しいことになったのでまあ仕方がない…としておきましょう。でも、兵庫横丁という用語はいい言葉です、うん。

神楽坂の通りと坂に戻る

文学と神楽坂

兵庫7

文学と神楽坂



神楽坂|不二家 かわいいペコちゃん でもペコちゃん焼は…

文学と神楽坂

 地下鉄の出入り口の先には「不二家」のフランチャイズ店があります。昔は岩瀬糸店、小間物みどりや、パンの神楽堂になり、昭和42年(1967年)、ケーキ・洋菓子などの不二家になりました。場所はここです。

fujiya

 わずか105円の「ペコちゃん焼」が有名です。現在はここにしか残っていません。05年、鉄板を新しくしたのを機に「ポコちゃん焼」が登場しました。かわいいペコちゃん、りりしいポコちゃん、新しい鉄板、きれいな店構え、ペコちゃん「焼」もうっとりするほど可愛くなりました。(若干、うそです)。

 決して甘すぎるものはないので大丈夫。なお、店の前のペコちゃんはしょっちゅう衣装が変わります。

 この平松南社長は父がフランチャイズの社長で、本人は講談社の社員でした。祖父と兄はなくなり、本人がここの社長になりました。あとはわかっているひとはわかっている、ここ神楽坂が大好きな社長として書籍の出版などもやっていました。現在はインターネットが中心です。

神楽坂1丁目に戻る場合
神楽坂の通りと坂に戻る場合は

文学と神楽坂