神楽坂まちの手帖」タグアーカイブ

「きらく会館」の謎?

文学と神楽坂

 地元の方から神楽坂3丁目にあった「きらく会館」という話を送ってくれました。

 商店や住人の名を個別に記した住宅地図は情報量が多く、新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」などの撮影時期の特定に役立ちます。一方、その記載は必ずしも正確でなく、逆に謎を生んでしまうこともあります。昭和30年代に短期間だけ神楽坂3丁目にあった「きらく会館」も、そのひとつです。このブログの「神楽坂通り(3丁目南東部)」で詳細に検討しているエリアですが、記事には名前も出てきません。
 場所は神楽坂を登り切る直前、通りの南側の「龍公亭飯店」と「ヒデ美容室」の間です。老舗の多い一角で、戦前はここに「助六はきもの店」がありました。
 第2次大戦で焼け野原になった後、店が戻ってきた様子が昭和27年(1952)の写真ID 4794です。「龍公亭」は平屋。「助六」は「龍公亭」を挟んで反対側に移りました。「龍公亭」の向こう隣、建築中または改装中の建物が、のちに「きらく会館」になる場所です。さらに坂下よりの2階屋が「ヒデパーマ」で、壁面に大きく「パー〇〇」の字が見えます。
 アルバム 東京文学散歩(創元社、1954年)掲載の写真では店は開業しています。昭和28年(1953)のID 9504は凸型の「龍公亭」の向こうに、昭和32年(1957)のID 4943では「ヒデ美容室」の手前に建物があることが分かります。いずれも業種も店名も分かりません。『神楽坂まちの手帖』第12号の「神楽坂30年代地図」では「蘇家成」の名があります。
 この時期の住宅地図を見ると
●人文社
1960 → 1962 → 1964
空家 → 空家 → きらく会館
●住宅協会
1962 → 1963 →1964→ 1965 → 1968
()→()→ きらく会館 → 同→ 同
とあり、昭和39年(1964)ごろに店ができたように見えます。
 しかし写真と照合すると矛盾が出てきます。
 ID 14-15は昭和37年(1962)-昭和40年(1965)と推測される写真です。「ヒデ美容室」の手前は取り壊されています。同様にID 12903-12905でも「龍公亭飯店」と「ヒデ美容室」の間は空地です。これも昭和37年(1962)-昭和39年(1964)と思われる写真です。
 一方、住宅地図の「きらく会館」の場所には、すぐ後に「五条ビル」が建ちます。完成は昭和42年(1967)で、住宅地図では昭和45年(1970)から「コーヒー五番(五条?)」が出てきます。ただ昭和41年(1966)のID 7658や「メトロアーカイブ 坂のある街 昭和41年」には、外観的には完成している「五条ビル」が写っています。5階建てのビルですから、前年の昭和40年(1965)には建築を始めていたでしょう。
 では「きらく会館」は、いつあったのか。ID 14-15の空地に建築して、すぐ壊してビルにするのは不自然です。それ以前の空き家だったところに昭和30年代半ばに店を出し、数年で閉店したのではないでしょうか。だとすればID 14-15ID 12903-12905は、「きらく会館」取り壊し後の撮影として時期を絞り込みやすくなります。
 確たる証拠はありません。ひとつだけ手がかりらしきものはID 18(下図)です。昭和37年(1962)頃と思われる写真ですが、拡大するとはるか坂上に「ヒデ美容室」の看板と、その向こうに洋酒のボトルのような看板が見えます。並びの店(山本薬局、龍公亭飯店、助六はきもの店)ではなさそうなので、これが業種不明の「きらく会館」かもしれません。
 なお「きらく会館」の場所は「五条ビル」が建った後、平成19年(2007)に隣の「ヒデ美容室」と一体で「神楽坂センタービル」になりました。「ヒデ美容室」は日本髪、着付けなど和装を主体とする美容院で、今も同ビル内にあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18の拡大図 神楽坂下から坂上方向

神楽坂、坂と路地の変化40年(1)|三沢浩

文学と神楽坂

 建築家の三沢浩氏の「神楽坂まちの手帖」第9号(2005年)の随筆「神楽坂、坂と路地の変化40年(1)」を、半分以下の分量に限って、引用します。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、(2)(3)も引用可能の分量に限って引用します。また、茶色のコメントは地元の方のものです。

外堀通りの桜は今年で30年目
 4月初頭、今年もみごとなソメイヨシノが、外堀通りを飾った。新たな柵が、厚いコンクリートの基礎にのり、ライオンズクラブの石の標識が、木柱ペンキ塗りにとって代わった。ライオンざくらと命名されているが、この桜は、1976年にクラブ認証十周年記念の植樹であった。つまり30年目の枝振りは、大きく濠に向けて土手を覆い、ボートに代わる水上の張り出し店に多くの客を呼んで、席待ちの列までできた。
 この植樹以前には、一間毎の柱を貫き、誰もが気軽に水面に降りられた。まだ鮒がよく釣れたころのことだ。土手公園の向こうに、名建築だった「逓信病院」の瀟洒な白亜の姿が見え、そろそろ巨大な警察病院の建て方が始まる頃。神楽坂側には三階建の物理学校時代を示す、理科大学校舎と、小さな研究社の本社が並んでいた。
 くねる都電の線路はなぜか濠側にあって、それに沿って歩くと、春の浅い3月初めには、鼻をくすぐる濠の匂いが漂った。毎年その香を感ずると、春の到来を知ったものだ。何のかおりか、不思議な燻りの匂いだったが、都電が無くなる頃には、車も増え、いつしか消えてしまった。
ライオンズクラブ 東京飯田橋ライオンズクラブ。場所は不明。
張り出し はりだし。建物などの外側へ出っ張らせてつくること、またはその部分。
一間 いっけん。ひとま。尺貫法の長さの単位で、1.81818m
水面に降りられた 実はお堀の柵は低かったのです。

外堀通り。TV。気まぐれ本格派全編(1977年)

土手公園 現在は外濠そとぼり公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
逓信病院 東京逓信病院。千代田区富士見ニ丁目14番23号。総合病院。

東京逓信病院

警察病院 東京警察病院。総合病院。千代田区富士見町。沿革によれば全館竣工は1970年(昭和45年)3月。2008年(平成20年)4月に中野区中野4丁目に移転しました。

住宅地図。1978年

理科大学 東京理科大学。神楽坂キャンパスは新宿区神楽坂1-3。
研究社 昭和40年3月から昭和57年まで、研究社(辞典部門)と研究社出版(書籍・雑誌)は神楽坂に同居しました
燻り いぶり。くすぶり。物がよく燃えないで、煙ばかりを出す

歩行者天国の日曜日、神楽坂通りさわや前 1971年5月 筆者撮影

坂のすべり止めは一升瓶の底だったか
 都電の停留所は牛込見附、今のマクドナルドの隣の公衆便所が最寄りだったが、見附から佳作座を越えるあたりで大きくカーブして、その神楽河岸には材木屋、土砂屋、都のごみ船寄りつきなど、一列の家並みが、ややくねった濠を遮っていた。
 見附からパチンコのニューパリと、洋品のアカイの間を入ると神楽坂が始まる。40年前の坂は、今とくらべると随分と静かだった。高い建物は坂上の菱屋の6階、大きな建物は、今のカグラヒルズの位置にあった、キャバレー「軽い心」で、あとは坂を越え、今も変わらぬ三菱銀行神楽坂支店だったろう。そのほかはほぼ木造の2階建、それら商店の間口は、今とほとんど変わることなく、昔の敷地割りを、その店構えに残していた。おおむね3間、5.4m、奥行きは背後の路地や崖で変わる。上り坂右の裏は路地が通り、左の裏は次第に崖となっているから、大体同じような敷地面積だと思われる。
 1960年代のこの坂には、今の街路樹のけやきは無い。昨年新しい街路灯になる前は、ガス灯型だったが、それも無く、UFO型が曲げた鉄パイプに吊られていた。林立する電柱は家並みを圧倒し、くもの巣のように電線が走り、坂をまたいでいた。歩道はアスファルト、車道はコンクリートで、坂部分は自動車のすべり止めのために、内径で10cm位の輪型が30cm間隔で、びっしり堀り込まれていた。セメントが生乾きのうちに、一升瓶の底を押しつけて輪型をつくったと、冗談交じりの話を聞かされた。
 このコンクリート床がはがされて、アスファルトになり、歩道はインターロッキングという、互いに噛み合ってずれない、小型ブロックに変わる。1980年代初頭に、東京都が都内で22商店街を選び、モデル商店街としたが、その選に入ったからであった。
牛込見附 以下の通り。

牛込神楽坂警察署管内全図(昭和7年)(「牛込警察署の歩み」牛込警察署、1976年から)

マクドナルド 現在はカナルカフェブティックで、お菓子などを販売します。
公衆便所 位置は変わりません。
佳作座 現在はパチンコ店「オアシス飯田橋店」です。
材木屋、土砂屋、都のごみ船 現在は100%なくなりました。細かくは「神楽坂と神楽河岸」で。
寄りつく よりつく。 そばへ近づく。
ニューパリ 正確にはニューパリー
ほかはほぼ木造の2階建 実際には菱屋がビルになった昭和42年(1967年)頃に、大島ビル(1959年竣工)、五条ビル(1967年竣工)、神楽坂ビル(1969年竣工)など同程度の高さのビルがいくつも建っています。
街路樹 昭和48年までは街路樹は全くなく、牛込橋は桜の木でした。昭和49年、神楽坂1~5丁目はけやきになっています。
ガス灯型 昭和54年、神楽坂1~5丁目はUFO型でした。昭和59年(田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-2神楽坂標柱 1984-10-02)、ガス灯型になっています。

田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-02 昭和59年1984-10-02

UFO型 大きな電灯で、昭和36年2月に「鈴蘭灯」から変わりました。
輪型 Oリングです。
冗談交じり 多分、冗談。
インターロッキング インターロッキング(interlocking)は、かみ合わせる。ブロックを互いにかみ合うような形状にして舗装する。荷重が掛かったとき、ブロック間の目地に充填した砂がブロック相互のかみ合わせ効果(荷重分散効果)が得られる。
その選に入った 神楽坂6丁目だけです。

神楽坂、坂と路地の変化40年(3)|三沢浩

文学と神楽坂

 けやき舎の「神楽坂まちの手帖」第11号(2006年)から三沢浩氏の随筆「神楽坂、坂と路地の変化40年(3)」を引用します。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、茶色のコメントは地元の方のものです。また、(1)(2)も引用可能な分量に限って、引用します。

◆モデル商店街に選ばれた頃
 東京都が22の商店街を選んだのは、1982年のこと。神楽坂も「モデル商店街」に選ばれて、画期的な衣替えをした。けやきが街路樹として植えられ、今までのUFO型だった街路灯が、ガス灯型に変わる。歩道はインターロッキング・ブロックという、新しい噛み合う小型コンクリートブロックになる。車道は坂部分に輪型を残したままだが、歩道との境界ブロックが、美しくなった。嬉しかったのは、両側にあった電柱が片側だけになり、張り巡らされた電線が、半分に減ったことだった。
 写真を見て頂きたい。夕方の写真は改造以前の、1980年1月の日曜日。歩行者天国の終わる5時前。今の「カグラヒルズ」の位置には、キャバレー「軽い心の大きな間口があった。一度だけ誘われて入ったが、天井の高い巨大な空間で、美女が各テーブルに坐り、ある客たちは音楽に合わせて踊っていた。脂粉の香り、酒の匂いが満ちて、神楽坂の栄華がそこにあった。それは夜の世界、神楽坂の路地には料亭が並び、芸者の数も多かった。

神楽坂、坂と路地の変化40年(3)

 しかしこの中心の通りには、今の繁栄と人通りに較べると、寂しいと思われるほどしんみりとした静けさがあった。現在の全国版チェーン店の隆盛と違い、町の顔をつくる商店が、軒を連ねていた。写真に見える「軽い心」の先、「パチンコマリー」の所は「ツインスター」の賑やかな看板に代わる。

1982年 昭和57年
神楽坂も「モデル商店街」に選ばれて 神楽坂は大久保通りを挟んで1-5丁目と6丁目のふたつの商店会に分かれています。「モデル商店街」になったのは戦後に神楽坂が広がった6丁目の方でした。つまり「昭和57年には、東京都のモデル商店街に指定され、本格的な「街づくり」に着手、歩道を拡幅するとともにカラー舗装して一新、街路灯43基設置し、街路樹も植栽するなどして近代化を図りました」と神楽坂6丁目の神楽坂商店街振興組合は書いています。
衣替え 神楽坂6丁目はモデル商店街に選定され、完成するのは1984年、つまり昭和59年のことです。なお、1-5丁目には、それ以前から街路樹がありました。
けやき ニレ科ケヤキ属の落葉広葉樹の高木。昭和47年10月、新宿区の木として制定。成長が早く、寿命が長いのが特徴。

けやき

UFO型 1-5丁目と6丁目は、それぞれ形状の違う円盤形の街灯でした。

1-5丁目の円盤形街灯(1977年「気まぐれ本格派」22話から)

6丁目の円盤型街灯(1977年「気まぐれ本格派」31話から)

ガス灯型 1-5丁目と6丁目の街灯は、どちらも円盤形の後はガス灯型になりました。しかし両者の形状は異なり、6丁目の方は左右のアームに高低差があります。両者が同時整備かどうかは分かりません。映画「神楽坂モデル商店街完成」(6丁目)はガス灯型の例が出ています。

6丁目のガス灯型街灯

ガス灯型街灯

インターロッキング・ブロック インターロッキング(interlocking)は、かみ合わせる。ブロックを互いにかみ合うような形状にして舗装する。荷重が掛かったとき、ブロック間の目地に充填した砂がブロック相互のかみ合わせ効果(荷重分散効果)が得られる。

インターロッキング・ブロック

輪型を残したまま 急勾配箇所ではアスファルト舗装よりもコンクリート舗装の採用が多い。自動車や自転車がすべりをとめるため『Oオーリング』と呼ばれる円形のくぼみは、ドーナツ状のゴム製リングで型どりをして施工します。

Oリング

電柱が片側だけ 6丁目の通りの両側に電柱があります。一方、1-5丁目については昭和54年(1979年)のID 85ID 87ID 88ID 89を見ると、すでに電柱は片側だけになっています。三沢氏が撮影した1980年1月の写真(下図)も電柱は片側だけのようです。
キャバレー「軽い心」 写真参照

神楽坂、坂と路地の変化40年

ツインスター 1992年12月~2003年、ディスコ「ツインスター(TwinStar)」がありました。閉店し、フレンチレストラン「ラリアンス{L’Alliance)」に変わりました。

ラリアンス

◆坂と店構えのあり方
 坂下から登り始め最初の路地が「神楽小路」。右角の甘味店「紀の善」は、改造されて昔の面影と違う。歩道から一呼吸あって引違いガラス戸があり、その前に小振りなショーケースのあるのは昔と同じ。心憎い余裕のある入口の気配りだ。「八百屋煎餅」を欲しがる知人がいて、地方に行く時のみやげだった。(省略)
 不二家の店頭で「ベコちゃん焼き」を実演していた昔、人だかりで歩けなかった。5年前の建替えで、店先が変わった。歩道からいきなり7段下がって半地下の店へ。そのカーブする階段の左脇で実演があり、さながらまわり舞台のように、階段を降りながらそれが見られる。右の階段を10段登ればコーヒー店。間口4.5mがこの仕掛けで振り分けられ、立休化して人だかりが無くなった。うまい実例である。(省略)
 間口が流通の店の3軒分ある「陶柿園」は、陶器の老舗。40年間変わらないこの店先は、恐らく神楽坂でも随一の工夫がある。坂の上と下に、2か所の入口、全面ガラスの店先で奥行きが全部見渡せる。加えて内部が5つのレベルに分かれ階段を登ったり、降りたり。それによって空間構成が見え、客がまるでステージを歩くように見える。ガラス器が輝き、人の動きに加わる。
昔の面影と違う 現在の面影は…

紀の善

八百屋煎餅 おそらく紀の善独自の煎餅
半地下の店 写真を参照fujiya
40年間変わらない 陶柿園の開業は昭和23年(1948年)、ビルを建てたのは昭和47年(1972年)でした。2006年の文章としては、少しオーバーです。
随一の工夫 随一かどうかは分かりません。

陶柿園ビル

奥行きが全部見渡せる 陶柿園ビルは店舗が1階と中2階の二層構造になっています。坂下側から入ると1階、坂上側は「神楽坂写真館」などのテナントの入り口を兼ねていて中2階に入れます。また店内の階段でも上下できます。こうした構造が前面のガラス越し見えるのが、建築家としての三沢氏に興味深かったのでしょう。

陶柿園ビル

◆神楽坂は両側商店街の典型
 (省略)
 理科大建築学科の沖塩荘一郎名誉教授は、かつて書いている。「二車線の片側は違法駐車であるが、狭くなった車道を通行人が自由に横断している。現行制度では考えられないことだが、これがこれからのまちづくりのヒント」だと。繁栄している商店街は、アーケードを持とうが持つまいが、狭い道巾で車の入らないこと。有名な江東区の「砂町銀座」。巣鴨のおばあさんの原宿である「とげぬき地蔵商店街」など。商店街は両側に店が並び、ゆっくり品定めができ、斜めに横断したり、行き交えることが賑わいづくりには、欠かせない原理ではなかろうか。(省略)
パタンランゲージ」という、建築都市デザインの文法をのべた、クリス・アレキサンダーという、カリフォルニア大学教授は、そのパタンの一つに店先を扱っている。それも随分と研究し、学生に実験させた。店が一望の下に見えることで、店内に客を呼び込める。当たり前のことだが、大小に関わらず、店舗の入口の必要条件であることを強調している。つまらないことを研究したものと、昔は考えていたが、神楽坂の両側では、その工夫に溢れていることを痛感する。

パタンランゲージ pattern language。クリストファー・アレグザンダー教授が提唱した、建築・都市計画に関わる理論。人々が「心地よい」と感じる環境(都市、建築物)を分析して253のパターンを挙げている。例には「小さな人だまり」「座れる階段」「街路を見下ろすバルコニー」など。
建築都市デザイン 現在の都市像や将来像を描くデザイン。

箪笥町(写真)昭和35年 ID 565

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 は、昭和35年(1960年)、大久保通り沿いの箪笥町岩戸町付近を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 大久保通り箪笥町付近

 中央を大久保通りがあり、右には大きなS型の道路があります。これが「新蛇段々」で、この仮称は何を隠そう、私です、はい。大久保通りを走る都電は13番線でした。中央奥のひときわ大きな5階建ての建物は東京厚生年金病院(現・地域医療機能推進機構東京新宿メディカルセンター)でした。
 さて、地元の方に解説してもらいました。

 この写真を撮影したのは、旧牛込区役所の跡、新宿区役所・箪笥町特別出張所の建屋の屋上でしょう。戦後15年を経ても民家の多くは平屋か2階屋なので、遠くが見通せます。

地理院地図 1961年~1969年

565b 大久保通り箪笥町付近

 左側のこんもりした森が筑土八幡神社です。すぐ手前の四角いビルは少し後に東京都の放射線技師学校になりますが、当時は何だったか分かりません。現在は牛込消防署があります。大正時代には関東大震災直後に三越マーケットがやってきました。
 筑土八幡の右、遠くに壁のようなものが見えますが、神田川の向こうの小石川の地下鉄丸ノ内線の地上区間です。この区間は1954年(昭和29年)に開業しています。筑土八幡側の複数の建物は中央大学富坂校舎ではないでしょうか。
 東京厚生年金病院は本館と別館があり、渡り廊下でつながっていました。すぐ手前は津久戸小学校の体育館が見えます。
 年金病院の右側の遠くのビルは、よく分かりません。場所としては外堀通り沿いの文京区後楽にある職安(現ハローワーク飯田橋)あたりでしょう。このビルと病院の別館との間、遠くに見える凸型は後楽園球場のスコアボードのようです。
 高級分譲マンションのはしり、揚場町セントラルコーポラスがあれば、これら文京区の景色は隠れてしまうはずですが、竣工はこの写真の2年後の1962年です。
 右側に切り立ったガケが見えます。手前が岩戸町、ガケの上が袋町です。飲み屋や職人の商工混在する岩戸町と、お屋敷町である袋町の落差が見られます。ガケ上の四角いコンクリートの建物は戦後にできた日本出版クラブで、印刷や出版の会社が集まる牛込地区の象徴のひとつでした。
 出版クラブのすぐ右、三菱銀行神楽坂支店の看板が見えます。建て直し前の旧店舗ですが、当時の神楽坂通りでもひときわ目立つ高い建物でした。
 右端の一番高い瓦屋根は光照寺と思われます。出版クラブ前からの参道に木が見えますが、現在はなくなっています。
 屋根が低いので、電柱だけでなく煙突が目立ちます。自前の焼却炉などを持つ事業者が多かったのだと思われます。もちろん銭湯もあり、年金病院の前に見える煙突が神楽坂で一番大きかった神楽坂浴場(津久戸町)です。昭和51年(1976年)の読売新聞の記事にイラストがあります。筑土八幡の左側が今もある玉の湯(白銀町、当時は別名)です。小栗横丁の熱海湯(神楽坂3丁目)は低い場所にあるので、この写真では明確に分かりません。

中央大学の富坂校舎 中大には1970年代まで、富坂とは別に「後楽園校舎」がありました。添付「今昔マップ」参照。この土地を売って多摩地区の土地を買った時の総長が升本喜兵衛です。多摩校舎の土地は升本総本店のものだったと聞いています。「かつては後楽園校舎、御茶ノ水校舎などの校舎が複数ありましたが、多摩移転時にその多くを売却しました」と中大のサイト

中大 後楽園校舎

 平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(2006年)では「大久保通り」の説明の時に同じ写真を使っています。

 昭和30年ごろ。車も少なく、都電13系統が悠々と走っている。右端に見えるのは、南蔵院から袋町方面に向かう坂道。道路の形状から、二枚が同じ位置を写したものであることが、かろうじて分かる。
 正面上部の大きな建物は厚生年金病院。屋上に見える円形は展望台である。リハビリに用いるため一階から螺旋形のスロープで繋がっており、上ると富士山まで見渡すことが出来た。

 またさっしいのホームページの「都電13番線 今昔物語」では新蛇段々の急峻な坂道が見えます。新蛇段々の反対側の坂は袖振坂です。

都電13番線 今昔物語

東京都都市整備局の地図

神楽坂3丁目(写真)菱屋 昭和28年 ID 99

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 99は、神楽坂3丁目付近で、神楽坂の中途から坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯があり、車道にはほぼ平坦で、将来できるOリングはまだありません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 99 神楽坂中程か

 これはID 46ほぼ・・同じです。最大の違いはID 99の左隅1~2mが増えたことです。またトーンカーブのため、見えなかったことが見えるようになったことも違っています。さらに昭和28年(1953年)に撮影したと新宿歴史博物館が正確に示した点です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 46 神楽坂3丁目付近。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂3丁目(昭和28年)
  1. 電柱看板「飯田橋 犬猫の診療所」
  2. フランス料理喫茶 花菱。地図の「金井敏雄」
  3. 看板「土地と家屋」。地図の「土地S」
  1. 電柱看板「おなじみの龍公亭
  2. 万平のみや。吊り看板「鮨」
  3. 菱屋糸店。看板の「菱屋糸本店」。のぼり旗の「(スキ)ー毛糸」
  4. 〇富。丸富呉服。〇〇〇〇店
  5. 神楽坂の魚屋「青久」。写真の看板に「仕出し」と書いてあります。周辺の割烹、料亭がお得意様だったのでしょう。
  6. 「あんぱん」の「木村屋」。地図の「木村泰造」。銀座・木村屋の支店で、立派な店構え。テントの文字は、おそらく「木村屋(小さく)神楽坂店」では。その上には木の字をベースにしたキムラヤの商標とローマ字が書かれているようです。この店舗の創業は明治39年、閉店は平成17年(「神楽坂まちの手帖」第8号、平成17年)
  7. 不明。寿司「二葉」は一歩奥に入った場所でした。
  8. 「青日書院」

神楽坂2丁目(写真)昭和33年頃 メトロ ID 58

文学と神楽坂

http://towa33.com/?eid=8195

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 58は、神楽坂2丁目を撮ったものです。撮影の方向は、坂下から坂上で、歩道は綺麗で平坦で、街灯は昭和36~7年まで続いた鈴蘭灯でした。全員コートを着ています。
 メトロ映画のメーン作品は「修羅しゅら八荒はっこう」で、市川右太衛門と大川橋蔵が主演の娯楽時代劇。公開は昭和33年11月11日。「神州天馬侠 完結篇」は昭和33年9月23日。「裸の太陽」は昭和33年10月1日。どれも昭和33年の映画です。この写真を撮ったのはおそらく昭和33年11月に寒くなって撮ったのでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 58 コーヒーリオン前

神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂2丁目(昭和33年10月)
  1. メトロ映画。「修羅八荒」「神州天馬侠 完結篇」「裸の太陽」。昭和33年に公開
  2. 「珈琲 リオン」「トリスバー 沙羅」「COFFEE RION」
  3. 小さな通りがあり、3種の看板。草書体の「志乃多」、「ピク 」「麻(雀) ルビー」
  4. 草書体で「志乃多寿し

神楽坂2丁目(写真)昭和33年 ID 57

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 57は、神楽坂2丁目を撮ったものです。撮影の方向は、坂下から坂上で、街灯は昭和36~7年まで続いた鈴蘭灯でした。
 シャツの人がいますが、半袖の人はいません。つまり夏ではありません。歩道はきれいで平坦です。
 左に建築中のビルは大島ビルで、この築年月は昭和34年(1959年)5月、総階数は4階です。建築後は大島糸店になりました。この撮影日は、佳作座の広告「野ばら」があるので、昭和33年秋や冬でしょう。
 一方、新宿歴史博物館の調べではこの写真は「昭和37年頃」に撮ったといいます。
 横断幕の「本日特売日」があります。
 また、車道のOリングはないのですが、アスファルト舗装では車の馬力が不十分で、石敷でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 57 神楽坂入口付近から坂上方向

神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂2丁目(昭和33年)
  1. 建築中。「タイヤモンド毛糸 大島糸店」になる
  2. 電柱看板。「 倉庫完備 大久保」「石川歯科
  3. (マルヨシ美術店)
  4. 夏目写真(館)
  5. 「+クスリ」。精神安定剤「ハーモニン 神楽坂薬局」
  6. 洋装生地 林屋
  7. (十奈美)
  1. パチンコマリー。Pachinco Mary。右端に佳作座の広告「野ばら」(日本公開は昭和33年8月23日)も。
  2. 壁面看板「ジュ 靴」「ヤマヤタ ⇒」
  3. 看板「洋食 喫茶京屋⇒」(奥にあった)
  4. 「靴はニューイトウ」
  5. 通りに接し「イトウふと(ん)」。「コーヒー 坂」ではない
  6. (陶磁器 陶柿園
  7. 「旅館 かぐら苑」の半分だけが見える
  8. クラウン(喫茶)
  9. ルナ美容室
  10. ポーラ化粧品
  11. 亀井鮨
  12. ひときわ高い看板「資生堂化粧」(さわや
  13. 遠くに看板「テレビ 竹谷電気」。
  14. さらに「万平のみや」の特徴的な吊り看板

神楽坂3丁目(写真)昭和30年頃 ID 46

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 46を見ましょう。撮影は神楽坂3丁目付近で、神楽坂の中途から坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯があり、車道には平坦で、Οリングはまだありません。なお、ID 99のほうがこれよりも情報が多く、必ずID 99を見ておいて下さい。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 46 神楽坂3丁目付近。

 新宿歴史博物館「新宿区の民俗」(5)(平成13年)p.57では「昭和30年前後の神楽坂3丁目付近」と書かれています。
 また神楽坂三十年代地図の昭和35年頃では、丸富呉服は東京電力に、神楽魚は食品ストアに変わっています。同様な変化は住宅地図(人文社、昭和35年)でも見られます。つまり、ID 46は昭和35年以前だといいます。
 一方、昭和27年(都市製図社「火災保険特殊地図」)と比べると、同時代になるといいます。

火災保険特殊地図 都市製図社 昭和27年

神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂3丁目(坂下→坂上)
  1. 万平のみや。「鮨」が見られる。
  2. 菱屋糸店。看板の「菱屋総本店」。のぼり旗の「 ー毛糸」
  3. 丸富呉服。
  4. 神楽坂の魚屋「青 」。写真の看板に「仕出し」と書いてあります。周辺の割烹、料亭がお得意様だったのでしょう。
  5. 木村泰造。「あんぱん」の「木村屋」。銀座・木村屋の支店で、立派な店構え。テントの上の文字は、おそらく「木村屋(小さく)神楽坂店」です。その上には木の字をベースにしたキムラヤの商標とローマ字が書かれているようです。この店舗の創業は明治39年、閉店は平成17年(「神楽坂まちの手帖」第8号、平成17年)
  6. 不明。寿司「二葉」は一歩奥に入った場所でした。
  7. 「青日書院」

 かぐらむらの「記憶の中の神楽坂」では

万平(すき焼き)
 ちょっと陰気な柳が目印だった「万平」。名物のおばあちゃんは、四角いカウンターの中で、若かった文学青年たちを相手に、男女の粋な話をいろいろとしてくれた。確か早稲田の坪内逍遥先生の最後の講義を、着物をぱりっと着て、講堂の最前列で聞いたと自慢していた。20代で学生でもなかったけどね、粋だったね。元気で楽しいおばあちゃんだった。ビルになった時は、早稲田通り側に、檜の風呂を作ったのは有名な話だけど…。

キムラヤ(パン・菓子)
 明治時代からつづく老舗中の老舗。銀座本店と縁戚関係にあって、名物の酒種あんパンをはじめ、クリームパン、マロン、チーズクリームなどとてもおいしかった。お店のおばさんや若夫婦もとても品があって気持ちがよかった。新作メニューのナッツの入ったのや煮タマゴの入ったのも好きでした。残念の一語です。

三年坂|まちの手帖

文学と神楽坂

 平成16年(2004 年)、平松南氏編集の「神楽坂まちの手帖」第4号(けやき舎)の「神楽坂界わいの名坂」「三年坂」では

 三年坂      坂推薦入 坂本二朗さん(坂本ガラス)

 毘沙門様の前から本多横丁を抜け軽子坂も突っ切って、筑土八幡神社の石段の始まる大久保通りまでの百メートル強の緩やかな坂である。古い記録に「巾一間四尺より二間二尺」とあるが、車のすれ違いは難しそうなところをみると、現在の道幅とおよその変化はないようだ。
 坂上の半分を占める本多横丁は、両側に寿司屋、鰻屋、居酒屋等が並び、脇に「芸者新道」「かくれんぼ横丁」の路地を抱えて、なにやら賑やかな物音が聞こえてきそうな商店の坂なのである。以前は「ロクハチ」ともなると、御座敷に出る姐さんの艶姿が多かったと、八千代鮨を営む斎藤本多横丁商店会会長はおっしゃる。ロクハチって?「六時から八時」のことですワ‥。その姐さん達が一刻をあらそってショウトカットしたのが「芸者新道」だ。そういえば敷き石もまろやかで吸殻の一つもない清潔さは、艶っぽい。
 ところで、その名の由来、横丁の東側はかつての「本多対馬守」様のお屋敷である。それなのにあろうことか、一時、「すずらん通り」と改名した。斎藤会長は馴染みの客に再三、何故通りの名前を変えたのかと責められた。それで「本多」を復活させたのが昭和50年ごろだという。
 「昔の名前で出ています」のほうがすてきだと、わたしも思う。なんたって、本多様の目の前にはあの天下のご意見番の「大久保彦左衛門」も住んでいた頃からのものだから。
 斎藤会長の想像は、あだ討ちで有名な堀部安兵衛決闘の助っ人に走ったコースにおよぶ。叔母の知らせを受けた安兵衛が、八丁堀から鍛冶橋、竹橋、飯田橋、改代町、馬場下、高田馬場を走る。飯田橋通過の際に、この三年坂、つまり本多横丁を走ったかもしれないでしょう‥と目を輝かす。ないとは言えぬ、とわたしも思う。
 そもそも各地にある三年坂の名の由来は、必ず寺や墓地にとりかこまれた静寂な場所で、そこで躓くと三年の内に死ぬ。死なないためには三度土を舐めよという俗信による。不吉な俗信のせいで、地蔵坂、三念坂の別名も多い。とにかく、これは危険な俗信である。鳥の糞も含んだ破傷風菌にまみれた土を、三度もなめたらどうなることか。
 堀部安兵衛も先を急ぐあまり、転んだかもしれない。しかし土は舐めなかっただろう。それでも村上三兄弟をバッタバッタとやっつけるほど元気だったのである。そのことを尋ねようにも坂名に起因した、当時はあった西照院成願院も今は無い。
(明森まつり)


一間四尺 約3m。一間は六尺なので一間四尺は10尺、10尺は約3m。
二間二尺 約4.2m。二間二尺は14尺。
車のすれ違いは難しそうな 実際は南西方向から北東方向への一方通行です。
本多対馬守 江戸前期の旗本である本多対馬守の屋敷があったため。万治元年(1658年)、本多忠将は対馬守に任官している。
すずらん通り 昭和24年頃、戦災で焼け残ったスズラン型の街灯にちなみ、「スズラン横丁商店会」として発足。道路も「すずらん通り」になりました。その後、旧名の本多横丁の復活を望む声が多くなり、昭和27年頃「本多横丁商店会」に改名。しかし道路は「すずらん通り」のままで、大きな街灯看板も残っていました。その看板を変更したのは昭和50年ごろです。
昔の名前で出ています 歌謡曲「昔の名前で出ています」は1975年(昭和50年)に小林旭が発表。作詞は星野哲郎、作曲は叶弦大でした。
大久保彦左衛門 「小日向小石川牛込北辺絵図」(嘉永2年、1849年)では

大久保彦左衛門の家

堀部安兵衛 江戸時代前期の武士。赤穂47士で一番の剣豪。高田馬場の決闘で有名に。生年は寛文10年(1670年)、没年は元禄16年2月4日(1703年3月20日)。享年は数えで34歳。
決闘の助っ人に走った 講談ではこれでもいいのでしょうが、実際に八丁堀は出発点でしょうか。違うという声が聞こえます。
八丁堀から鍛冶橋、竹橋、飯田橋、改代町、馬場下、高田馬場 以下を参照。このコースは徒歩で約2時間半かかります。

村上三兄弟 村上庄左衛門、弟の中津川祐見、弟の村上三郎右衛門を倒しました。
西照院 現在は東京都杉並区高円寺の曹洞宗の普明山西照寺。万延元年の礫川牛込小日向絵図は下図で。
成願院 現在は東京都中野区本町の曹洞宗の多宝山成願寺。万延元年の礫川牛込小日向絵図は下図で。

万延元年、礫川牛込小日向絵図

神楽坂、坂と路地の変化40年(2)|三沢浩

文学と神楽坂

 『神楽坂まちの手帖』第10号(2005年)に建築家の三沢浩氏が小栗横丁を主体として書いています。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、(1)(3)も引用可能の分量に限って引用します。

神楽坂、坂と路地の変化40年

 小栗横丁は20数年の間、自宅からの通勤路だった。だから最近のこの道の変遷には、驚きひとしおである。神楽坂に外堀通りから入り、理科大への田口生花店の角を左へ、そして古い石垣と志満金厨房の間を右に入る。そこから始まり、突き当たりの西條歯科で終わるゆるいカーブの続く、200m余の路地が小栗横丁と呼ばれる。石垣の所に元禄時代1700年頃の、江戸切絵図に小栗五大夫の屋敷が見える。文政の1800年代には、西條歯科の斜め前の丸紅若宮寮の場所にも小栗仁右衛門とあり、これも路地に名を残す一因ではなかったか。
 左側の神楽坂2丁目22番に、泉鏡花明治38年まで4年間住み、並びの家北原白秋明治42年まで、2年間住んだことになっている。「からたちの花」はここで生まれたのかどうか。今は理科大附属の外人教師館だが、以前は石段の上に平屋の板張り小住宅が、草花やつりしのぶに囲まれてひっそりとあり、中からクラシック音楽が流れ出ていた。右の細い路地、夏日写真館の脇を抜けると神楽坂で、入口にガス灯つきの石の門があった。


ひとしお 一入。ほかの場合より程度が一段と増すこと。何か特別な事情や理由があって一段と程度が増していること。

小栗横丁。1983年。住宅地図

外堀通り 皇居のまわりを一周する最大8車線の都道。
理科大 東京理科大学。新宿区神楽坂一丁目に本部を置く私立大学
田口生花店 正しくは田口屋生花店
志満金厨房 志満金はうなぎ割烹を主にする日本料理。厨房とはその調理室のこと
西條歯科 最西部にある歯医者
江戸切絵図 江戸時代から明治にかけてつくられた区分地図。

元禄と文政。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から

丸紅若宮寮 大手総合商社丸紅株式会社の共同宿舎。2001年には依然開設し、2010年には終了しています。
明治38年 泉鏡花旧居跡では、明治36年3月から明治39年7月まで住んでいたとのこと。この「泉鏡花・北原白秋旧居跡」は泉鏡花の旧居だといいます。
並びの家 道などの同じ側。神楽坂2丁目22番はかなり大きな場所です。その2軒に泉鏡花氏と北原白秋氏の2人がいたわけです。おそらく別の家に住んでいたのでしょう。

神楽坂2丁目。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

明治42年 北原白秋旧居跡では、明治41年10月末から明治42年10月まで住んでいたとのこと。
からたちの花 大正13年、「赤い鳥」で詞を発表。歌詞は「からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ/からたちのとげはいたいよ/靑い靑い針のとげだよ/からたちは畑の垣根よ/いつもいつもとほる道だよ/からたちも秋はみのるよ/まろいまろい金のたまだよ/からたちのそばで泣いたよ/みんなみんなやさしかつたよ/からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ」
外人教師館 地図によると「東京理科大学神楽坂客員宿舎」(右下)。その後、新宿区若宮町に移動しました。

1996年。住宅地図

つりしのぶ 釣り忍。竹や針金を芯にして山苔を巻きつけ、その上にシノブの根茎を巻き付けて、さまざまな形に仕立てたもの。
夏日写真館 以前は坂上を見て左側でした
ガス灯つき ガス灯つきの石の門に相当する門は思い出せないと、地元の人。下は商店会の街灯でした。

夏日写真館

 次の右折れの先は、藤原酒店と向き合って整美歯科、左は急坂を経ると加賀まりこさん宅へ抜ける。熱海湯前までは粋な飲食店が並び、そのうちの一軒は、やや広くなった通に店内から、客用の椅子を出して日向干し。この店の入口にはほぼ毎日、ふぐひれも干してあって、ひれ酒を誘った。熱海湯右の石段を登れば斉藤医院、突き当たりは履き物の「助六」の裏庭で、いつも池への水音が優雅。熱海湯前には煉瓦の階段がゆるく登る、手すりつきの路地があって、突き当たりには桜の古木が、すばらしい花を見せた。
 さてこれから突き当たりまでが、小栗横丁の舞台。右側は黒塀が続いて、名だたる料亭があった。まず喜久月、続いて鷹の羽、その裏に接して重の井。重の井の入口は若宮八幡の通りで右に折れ、坂を登った突き当たりが、このあたりに君臨していた松ケ枝となる。もちろん小栗横丁ではないが、道の左右には仕出屋芸妓置屋があった。

1973年、住宅地図

斉藤医院

整美歯科 以前は「正しくは臼井歯科では? 非常に短命に終わった整美歯科か、名前だけを間違えて正しくは臼井歯科だったのでしょう」と書きましたが、しかし、昭和42年の『新修新宿区史』を見ると、整美歯科は確かにあったようです(参照は「新修新宿区史」で左端の電柱広告を)。
加賀まりこ かがまりこ。女優。生年は1943月12月11日。千代田区神田小川町に生まれ、神楽坂2丁目で大きくなった。フジテレビの『東京タワーは知っている』でデビュー。和製ブリジット・バルドーとも。
若宮八幡 鎌倉時代の文治五年秋、若宮八幡宮を分社した。図の「若宮町」よりもさらに南に存在。「出羽様下」通りと同じ。
仕出屋 注文に応じて料理をつくり届けることを業とする家
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。芸妓屋。芸者屋。置屋。

 ある夕刻、この道筋を帰ってきたが、花屋から石垣の角を曲がるあたりで、脂粉の香がひと筋流れているのを感じた。この小路は巾2~3m、しかも大きくカープしながら、時にはねじれるように曲がって先が見通せない。しかも次第にゆるく登る。脂粉の流れは左右に消えることなく、家並みに沿って続いていたが、熱海湯先で消えた。料亭には置き塩のある格子戸の入口と、黒塀にとりつけた小さな木戸がある。どの入口に入ったものか。
 その格子戸を開けると、打ち水された坪庭、黒松が枝を延ばし、玄関は右か左に90度折れた所にあって、格子戸越しには全貌は見えないのが常。玄関の式台を上がると、右に折れて次の間、また90度折れて座敷に近づく。狭い敷地に小栗横丁から入り、奥行きを深くするための、日本流の入り方がそこに残っていた。植え込みに遣り水踏み石灯龍に灯、粋な庭には朝から手入れをする仲居さんの姿があり、一本ずつ格子を磨くのも仕事のうち。夕刻ともなると、ある入口には一流製鉄会社の黒い背広連、別の料亭では横山隆一等の漫画集団の姿も見た。三味線の高鳴る黒塀からは、経理関係の組合などが溢れ出したり。

脂粉 しふん。紅とおしろい。
次第にゆるく登る ノエル・ヌエット氏が描いた「若宮町」も上にのぼっています。この絵画もここでしょうか。

若宮町。ノエル・ヌエット作。1946年。画集「東京」から

現在の神楽坂2丁目から若宮町に

置き塩 盛り塩。もりしお。塩を三角錐型や円錐型に盛り、玄関先や家の中に置く風習。縁起担ぎ、厄除け、魔除けの意味があります。
格子戸 格子を組んで作った戸。
木戸 街路、庭園、住居などの出入口で、屋根がなく、開き戸のある木の門。
打ち水 ほこりをしずめたり、涼をとるために水をまくこと。
坪庭 建物と建物との間や、敷地の一部につくった小さな庭。
式台 玄関の土間とホールの段差が大きい場合にその中間の高さに設けられる横板
遣り水 やりみず。水を庭の植え込みや盆栽などに与えること。
踏み石 通常は、玄関や縁側などにある、靴を脱ぎておく踏み台のような石。日本庭園にある飛び石。
灯龍 とうろう。日本古来の戸外照明用具。竹,木,石,金属などの枠に紙や布を張って,中に火をともす。
仲居 旅館や料亭などで客の接待をする女性。
横山隆一 漫画家。第2次世界大戦後『毎日新聞』に『フクちゃん』を1956年~71年まで連載。生年は1909年5月17日、没年は2001年11月8日。享年は満92歳。




寺内で会った人々|水野正雄

文学と神楽坂

 平松南氏が編集する「神楽坂まちの手帖」第5号(けやき舎、2004年)で、水野正雄氏は寺内で起きた喜怒哀楽(というと大げさだけど)を取り上げます。神楽坂はん子、柳町金語楼、若山富三郎と勝新太郎、花柳小菊、水谷八重子、泉鏡花などのオールドスターがでてきます。

「新宿・神楽坂暮らし80年」④
新宿郷土研究会会長 染め物洗張り「神楽坂 京屋」 水野 正雄
 歌手で有名な神楽坂はん子さん。はん子さんも芸者だったが、神楽坂5丁目読売新聞販売所があるでしょ、あの隣りがはん子さんの家でした。それが白銀町の私の家の隣りのお風呂屋に来るんですよ。私もその頃、お風呂屋に行ってましたけど。見はからって? いいや偶然(笑)。そうするとね、女湯の方で「あらこんにちは」なんて挨拶しているのが聞こえた。それがいい声でね。
 はん子さんの隣りが金語楼お妾さんの家で、今の読売新聞販売所の所です。金語楼の息子、山下敬二郎はあそこで生まれて、いっつも路地でくるくる回って遊んでいたの。金語楼の弟で昔々亭桃太郎(せきせきてい・ももたろう)というのが横寺に住んでましたが。金語楼も桃太郎も家のお客でしたが、勘定ぱらいが悪くてね。はん子さんは勘定ぱらいはよかったですよぉ。それから今の高層マンションの中央あたりに、杵屋勝東治っていう長唄のお師匠さんが住んでいて、そのお妾の子が若山富三郎勝新の兄弟。彼らが20代早々のときに3年ほど神楽坂に住んでいた。出口の床屋(お風呂屋へ抜ける道の大久保通りのところにあった床屋)で何回か会ったことがあるんだが、勝新太郎は生意気なことばかりいっていたよ。映画界に入る前で、なんだかアメリカへ行ってきたらしく、そのことを鼻高々で話していた。
 それから花柳小菊さんも、毘沙門さまの地蔵坂から入ったところに住んでいました。小菊さんも芸者で。はん子さん、小菊さん、水谷八重子、鏡花の嫁さんの桃太郎さんもみんな家のお客さんです。水谷八重子は守田勘弥お妾さんだが、6丁目の横寺のちょっと手前に金物を売っている家があるでしよ、そこは墓場なんですけど、そこに「蒲(かば)」つていう医者の家があって、その隣りが先代の水谷八重子の家でした。兄貴の竹紫っていうのと住んでいたの。神楽坂にはずいぶん、お妾さんが住んでいたんだね。
 鎗花のおかみさんの桃太郎さんは、親父の話ではちょっときつい顔をしていたから、あんまり売れっ子じゃなくて。それで鏡花とお座敷で同席して仲良くなったっていうんだね。


読売新聞販売所 現在はなくなった販売所ですが、1990年には道路の一番左側から3番目にありました。1963年ではやはり左側から3番目に山下氏があり、ちなみに、その2番目は「〇〇〇焼」でした。1960年では、三幸、お好焼き、山下、安井と並んでいます。1952年も左側から3番目は料理・山下でした。

1990年と1963年。住宅地図。

1960年。住宅地図。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

あの隣り 1960年、山下氏の一方の隣りはお好焼き。したがって反対側の安井氏の家の方でしょう。
お風呂屋 1960年には熊乃湯でした。
お妾さん 実際の愛人。愛人の子として山下敬二郎氏がいる。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

 ここで新宿区が編集した「新宿時物語」(星雲社、2007年)の「神楽坂の料亭街」を簡単に見ておきます。地元の人は神楽坂5丁目の一部だといっていて、私もそうだと思っています。
 赤丸はカメラの本体、赤い線はその画角です。

新宿時物語

 ここで➃は「料理 山下」で、柳家金語楼のお妾さんの家、後に読売新聞販売所になり、大久保通り拡幅工事のため、市谷柳町の牛込神楽坂読売センターと統合し移転し、現在はLe petit Bistro RACLER(ル・プティ・ビストロ・ラクレ)になりました。➂は民家で、一時は神楽坂はん子の家になり、現在はなくなり、普通の道路になりました。➀は「芸妓 分まん」、➁は「法律OF 野町」で、➀➁ともに神楽坂アインスタワーになり、➄は「芸妓 富沢」、現在神楽坂茶寮本店です。

山下敬二郎 ロカビリー歌手。ポール・アンカの「ダイアナ」の日本語カバーで有名。生年は1939年2月22日。没年は2011年1月5日。享年は満72歳。
昔々亭桃太郎 落語家。柳家金語楼の弟。生年は1910年1月2日。没年は1970年11月5日。享年は満60歳
高層マンション 神楽坂アインスタワーです。
杵屋勝東治 きねや かつとうじ。長唄三味線方。生年は1909年10月16日。没年は1996年2月23日。
お妾 実は正式な妻。
若山富三郎 わかやま とみさぶろう。俳優。本名は奥村勝。生年は1929年9月1日、没年は1992年4月2日。
勝新 勝 新太郎。かつ しんたろう。俳優。若山富三郎の弟。本名は奥村利夫。生年は1931年(昭和6年)11月29日、没年は1997年(平成9年)6月21日。
床屋 1952年の地図で、赤い四角の「トコヤ」
花柳小菊 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」(2008年)では

馬場さん 塀じゃなくてさ。壁が。「三笠屋」側は波板が貼って鳴らしながら通ったんだよ。子どもんときに。
相川さん ちょっと記憶がないな。その後ろに小菊さんがいたんだよ。花柳小菊さん。三笠屋の真後ろ。私んところの玄関の前に小菊さんがいた。


三笠屋は現在の手打ちそば「山せみ」なので、「三笠屋の真後ろ」は4枚目ほど前の図になるのでしょうか。
アメリカへ行く 1954年、23歳で、アメリカの巡業を行った。映画の撮影所で俳優ジェームス・ディーンに出会い、感化されて映画俳優になることを決意する。
守田勘弥 もりた かんや。歌舞伎役者。昭和10年、14代勘弥を襲名。江戸前の二枚目を得意とした。初代水谷八重子と結婚。実子に水谷良重。生年は明治40年3月8日、没年は昭和50年3月28日。享年は満68歳。
お妾さん 水谷八重子氏は「お妾さん」ではなく、正式に妻でした。
水谷八重子の家 ブログによれば、通寺町61でした。

(昭和12年)火災保険特殊地図





和可菜|兵庫横丁

文学と神楽坂

 旅館「()()()」は昭和29年に木暮実千代氏が出資して、神楽坂4-7(兵庫横丁)に建築。女将は妹の和田敏子氏。一時は脚本家・映画監督・作家たちが本を書く「ホン書き」として有名でした。
 粋なまちづくり倶楽部の『粋なまち 神楽坂の遺伝子』(2013年、東洋書店)では和可菜旅館について

霧除けを帯びた入母屋造りの瓦屋根に下見板張りの外観は、玄関脇の植栽とともに閉静な路地に彩りを添えている。板塀にしつらえられた引違いの格子木戸は、動線を屈曲させてアプローチに「引き」を作る。玄関は洗い出し土間に自然石を沓脱ぎとして配し、台形の無垢板の式台ナグリ吹寄せ 竿縁の天井をしつらえるなど手の込んだ意匠が残る。腰には丸太を縦張りし高窓のガラス戸桟を人字型に加工するなど、旅館建築ならではの自由なデザインも見られる。

そう、建物として本当に何かが上品で流麗なのです。
 なお、ここで出てくる設計用語については

霧除け 霧や雨が入り込まないよう、出入り口や窓などの上部に設ける小さなひさし。
入母屋造り 上部で切妻造(前後2方向に勾配をもつ)、下部で寄棟造(前後左右四方向に勾配)となる構造。
下見板張り 外壁で板を横に並べるとき、板の下端がその下の板の上端に少し重なるように張ること。
格子木戸 碁盤の目の木の戸。
洗い出し たたきや壁などで、表面が乾かないうちに水洗いして、小石を浮き出させたもの。
沓脱ぎ 履物を脱ぐ所。
式台 玄関の土間と床の段差が大きい場合に設置する板。
ナグリ 舞台玄能。
吹寄せ 竿を2本ずつ寄せて入れるもの。
竿縁(さおぶち) 一般的和室天井張り形式。
縦と横1縦張り 縦に羽目板などを張ったもの。
戸桟 裏に桟を取り付けた、頑丈な戸。

外から見た旅館・和可奈

 明治大学教授の黒川鍾信氏の本『神楽坂ホン書き旅館』は02年に出版されました。
 NHK出版でそのPRを読むと『今井正、内田吐夢、田坂具隆、山田洋次、石堂淑朗、市川森一、竹山洋、野坂昭如、結城昌治、色川武大、伊集院静、村松友視。日本を代表する映画監督、脚本家、作家たちを、神楽坂の一角で四十八年間にわたって支えてきた「ホン書き旅館」の女将が語る執筆現場の秘話』だそうです。
 本当に「秘話」はちょっと大げさですが、でも「へー」という話が一杯入っています。たとえば、山田洋次氏が寅さんシリーズ第35作で初めてここにやってきた時の話。阿佐田哲也氏のマージャン大会の話。伊集院静氏が宿をここに置いた、その理由など。
 また黒川氏は05~06年、『神楽坂まちの手帖』第9号から第15号にかけて「ホン書き旅館の帳場から」を書いています。
 さらに小田島雅和氏が『神楽坂まちの手帖』15年第1号から第3号にかけて「和可菜通信」を書いています。中身は俳句の「くちなし句会」について。 「くちなし句会」は作家結城昌治氏を中心として俳句の句会のことです。昭和52年(1977年)から開始し、第4回句会以来は「和可菜」で行い、途中で中断がありますが、平成19年(07年)以上、25年以上も続いています。今もやっているのかどうかは、はっきり言ってわかりません。やっていると思いたいです。
 伊集院静氏は11年に『いねむり先生』を書きます。そこで、筆者2人がいるけど実は同一人物だと教わります。伊集院氏がその筆者を連れて

 神楽坂の通りを毘沙門天の向いから路地に入り、くねくねと曲がった石畳の階段を段だらに降りて行くと、黒塀に囲まれたその宿はあった。

 これは和可菜です。「段だら」とはいくつにも段になっているもの。その宿の庭については

 ボクたちはその宿の庭に面した濡縁(ぬれえん)に並んで座っていた。(略)
 ちいさな庭の中央に古びた池があり、手入れかされてないのか、水は涸れてしまっている池の真ん中に一匹の黒猫が吹き溜った枯葉とじっとしていた。(略)
 庭といっても数歩歩けば表に出てしまう箱庭で、時折、塀のむこうの坂道を通る人の足音かすぐ近くに聞こえた。

 濡縁とは雨風を防ぐ雨戸などの外壁はない縁側だそうです。
 しかし、『神楽坂まちの手帖』そのものは第18号になって消えていきます。以来、「和可菜」は沈黙し、声は聞こえてはきません。本当に今も外国人が多いのでしょうか? だれかインターネットを使ってくれるとよく分かるのに。
 06年の『神楽坂まちの手帖』第15号、「ホン書き旅館の帳場から」で黒川鍾信氏は和可菜を取り上げて寿命はもう「風前の灯」だといいます。

「昭和ニ十九年~現在 ここで三千本を超える映画・テレビドラマの脚本と数百編の小説が書かれた」と刻まれるだろう。
 「~現在」が「~平成○○年」に代わる日がくるのは、さほど先のことではない。いや、すでに半分は“休館”の状態である。

 ところが、07年のTVドラマ『拝啓、父上様』はまた大きく変わります。「和可菜」は架空の料亭『坂下』のすぐ隣りになり、第3話の架空の作家・津山冬彦(奥田瑛二)の写真もここで撮影しました。

かくれんぼ横丁(「和可菜」前)
  石畳に並んで立つ津山冬彦と芸者真由美。
  スチールをとっているカメラマン。
カメラ「あ、いいな!  いいですよ! 目線一寸上。ア! いいなァ!」
  その時、撮っている先方の角から和服の男が現われる。
カメラ「ア」
  一瞬ためらい、シャッターを切る。
  和服の男――ルオーさんである。


「和可奈」の前にたたずむ作家、津山冬彦。「拝啓、父上様」で出ました。

 今では和可奈は閉鎖しても閉められない場所になってきたのです。まるで遊園地、観光名所になったようです。いまでは休みの日には人人人です。

 2015年末に一時閉店しましたが、隈研吾設計事務所の手を借りて、2021年、再出発するようです。





神楽坂の通りと坂に戻る

牛込亭|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

「牛込亭」って正確にはどこにあったのでしょうか?

通寺町の発展

島崎藤村等「大東京繁昌記 山手篇」(昭和2年)。加能作次郎の「早稲田神楽坂」「通寺町の発展

神楽坂まちの手帖』の平松南編集長は

そのころ神楽坂には演芸場が5つもあり、6丁目の安養寺うらの「牛込亭」もまた落語と講談の専門館であった。

と書き、吉田章一氏の『神楽坂まちの手帖』第10号の「牛込亭の番組と芸人たち」では、

話を牛込亭に戻しますと、神楽坂から大久保通を過ぎて、すこし先の右側、路地の奥にありました。できたのは明治10年頃といわれ、初めは持ち主を名を取って「岩田亭」と呼びました。明治後半になって相撲の親方の武蔵川が買って「牛込亭」にしました。
 関東大震災には焼けませんでしたが、芸人が焼け出されて集まらないためか一時は講談や浪曲を掛けていました。その後落語を中心とする色物席に戻り、現在の落語協会の前身である東京落語協会所属の寄席になりました。ときどきは浪曲も掛けていたようです。定員は200人足らずでした。
 牛込亭は戦災で焼失しなくなりました。

ここは牛込、神楽坂』6号で丸岡陶苑・岡崎弘氏の「町の宝もの」では

寺町の牛込亭にもよく行った。牛込亭に入るとこに秋山って塗物屋があって、こっち側はあとで帽子屋ができて。いま、たこ焼きがあるでしょ、あのあたり。あそこに細い道があって、突き当りが寄席でね。

 渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』では

神楽坂上より矢来町に向かってすぐ、通寺町の通り右側に木戸口があり、その突き当たりの路地おくに牛込亭があった。

 赤城神社の氏子町一覧「とおりてらまち」の説明です。

また娯楽場として九番地に寄席牛込亭(明治十年十月設立)、十一番地に常設活動写真文明館が(明治四十五年一月建立)ある。

 しかし、大正15年の東京演芸場組合では、牛込亭は「通り寺町」になっています。右は昭和5年の地図です。

通り寺町昭和5年
 1978年の三遊亭圓生の『圓生 江戸散歩』(集英社)では

飯田橋方面から来れば柳水亭の前を通って交差点を右に曲がると、そこから家数にして十四、五軒ほど行き路地を右側に入って十メートルぐらい行って突当たりが牛込亭の木戸口でした。

 これから考えられるものは

通り寺町昭和5年2

 牛込亭という場所は今では道路になるのか、道路に近い場所ではなかったのでしょうか。8番地は戦後になってからそこを貫く道路ができます。『円生江戸散歩』という本で円生は牛込亭の地図を書いていますが、この牛込亭の反対側、通寺町と岩戸町の道路は川喜田屋横丁の通りです。川喜田屋横丁の反対側に道路がでてきます。すると橙の丸で囲んだ場所あたりでしょうか。

牛込亭

 その後、昭和12年の「火災保険特殊地図」(都市製図社)を見ました。こうなっています。

昭和12年、牛込亭

牛込亭。昭和12年「火災保険特殊地図」(都市製図社)

 現在の地図で予想する寄席とまったく同じです。やはり道路で寄席は上下2つに分けているのですね。

 牛込亭は色物(いろもの)が主体でした。これは講談、義太夫、落語、浪花節などの本来の演芸とすると、それ以外の漫才,音曲,奇術,紙切り,曲芸,声帯模写などをさして色物というようです。

『神楽坂まちの手帖』第10号「神楽坂落語祭」59頁では、ある日の演芸は14人が出ています。講談が1人、落語は6人、残りの7人は、笑話、楽語、物まね、奇術、浮世節、能歌舞、新内を行いました。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座
白銀公園 瓢箪坂 駒坂 川喜田屋横丁 神楽坂5丁目 成金横丁
神楽坂の通りと坂に戻る

神楽坂|兵庫横丁はどこから来たの

文学と神楽坂

 みんな兵庫横丁はどれぐらいから知っていますか? やはり2008年からでしょうか。それより前にはごく少量の人は知っていましたが、他の人は誰も知らなかったのです。

 たとえば……
 料亭幸本の若女将、寺田歩さんは2007年『神楽坂まちの手帖』第15号では

そういえば、この辺りを兵庫横丁っていうそうですね。住んでる人間は知らないもので、「へえ、名前が付いてるんだ」って驚きました。

といっています。

 もっと古く平成10年(1998年)夏号の『ここは牛込、神楽坂』では

井上 ここは神楽坂で、もっともきれいだといわれるところ。決定打がほしい。黒塀があったりして『しのび坂』はどうか。猫の通り道なので「猫坂」でもいい。
  “おしのび”という感じでいい。あのあたりは昔は確か本多横丁からも抜けられた。

 この座談会に登場する3人とも「兵庫横丁」という用語は全く知りません。

 さらに新宿区の『新宿区60年史ー新宿時物語』(新宿区、平成19年、2007年)では、なんと芸者新道という、別の場所の名前が正々堂々と付いていました。

新宿時物語

新宿時物語

 ところが平成22年(10年)の「神楽坂粋なまちなみルール」(案)では正々堂々と兵庫横丁が出てきます。

 実は水野正雄氏が『神楽坂界隈』「中世の神楽坂とその周辺」で「平成7年、神楽坂街づくりの会のフォーラムの際、ここの横丁名を「兵庫横丁を名付けるよう私から提案をしておいた」と、書いています。その際、やはり1説だと書けばよかったのに…。

提言「兵庫横丁」の命名を。
神楽坂まちづくりの会新宿区郷土史会 水野正雄。
 この周辺の横丁や路地に“かくれんぼ横丁”“見返り横丁”とかなんらかの名前がついているのですが、この横丁だけは名前がありません。なんとか名前をつけてみたいと考えています。今流で言えば「総理大臣首きり横丁」といったところですが、中世の町兵庫まちにちなんで「兵庫横丁」としたらいかがでしょう。そうすれば中世の記憶も残ります。
 兵庫まちにちなむことを是非提案いたします。
神楽坂地区まちづくりの会「わがまち神楽坂」平成7年

 まあこのあたり、歴史的な云々は別として、以前にはなかった場所、江戸時代ではまったくなかった路地だと、知っておきたいところです。江戸時代と現在では場所も違います。もう正しいことになったのでまあ仕方がない…としておきましょう。でも、兵庫横丁という用語はいい言葉です、うん。

兵庫7



神楽坂|不二家 かわいいペコちゃん でもペコちゃん焼は…

文学と神楽坂

 地下鉄の出入り口の先には「不二家」のフランチャイズ店があります。昔は岩瀬糸店、小間物みどりや、パンの神楽堂になり、昭和42年(1967年)、ケーキ・洋菓子などの不二家になりました。場所はここです。

fujiya

 わずか105円の「ペコちゃん焼」が有名です。現在はここにしか残っていません。05年、鉄板を新しくしたのを機に「ポコちゃん焼」が登場しました。かわいいペコちゃん、りりしいポコちゃん、新しい鉄板、きれいな店構え、ペコちゃん「焼」もうっとりするほど可愛くなりました。(若干、うそです)。

 決して甘すぎるものはないので大丈夫。なお、店の前のペコちゃんはしょっちゅう衣装が変わります。

 この平松南社長は父がフランチャイズの社長で、本人は講談社の社員でした。祖父と兄はなくなり、本人がここの社長になりました。あとはわかっているひとはわかっている、ここ神楽坂が大好きな社長として書籍の出版などもやっていました。現在はインターネットが中心です。