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神楽坂|ル・ブルターニュ 高いけど

文学と神楽坂

 ル・ブルターニュの創業は平成8年(1996)です。ブルターニュ地方の伝統料理、そば粉のクレープ『ガレット』を提供します。このソバのクレープがブルターニュ地方の飢饉を何度も救い、ソバは何世紀もの間「主食」でした。場所はここ

 ちなみにイギリスではほとんどソバは使っていません。ソバはイギリス海峡を超えられなかったのです。

 しかし日本で食べるとほんとに高い。多分値段はフランスの数倍はする。でもソバのクレープは今まではなかったからなあ。
クレープ

伊勢藤福屋鳥茶屋大門湯[昔]

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2013年3月17日→2019年5月16日

神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 明治時代、東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…

神樂坂町二丁目 享保中、士地官収くわんしうして、よけとなし、延享えんきやう二年放生寺ほうしやうじ借地しやくちとし、文政五年田町四丁目代地だいちとなる。明治二年神樂坂のとりて牛込神樂かぐらちやう改稱し、明治四年六月附近ふきん士地しち開墾地かいこんちを合し、南隣に一丁目をつるを以て其の二丁目となす。坂に神樂かぐらざかあるを以て里俗此邊このへんすべて神樂坂と稱す。

享保 1716~36年
士地 武士の土地ではないでしょうか?
官収 官庁がとりあげること。没収。
火除地 江戸幕府が明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地。
延享 1744~48年
放生寺 東京都新宿区西早稲田にある高田八幡宮の別当寺。別当寺とは江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺
文政 1818~31年
田町四丁目 現在の新宿区市谷本村町1丁目。
代地 江戸幕府が江戸市中において強制的に収用した土地の代替地として市中に与えた土地のこと。
改稱 名称や称号を改めること。改名。
里俗 りぞく。地方の風俗。土地のならわし

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では

神楽坂2丁目
 神楽坂一丁目の西側、神楽坂の両側に広がる地域で、江戸時代には旗本や御家人の屋敷が多くを占め、町地は市谷いちがや田町たまち四丁目代地があった。
市谷田町四丁目代地 もともと市谷田町四丁目内にあったが、文政五年二八二二)二月八日に町内から出火した火災で焼失した場所が尾張徳川家の火除地となったため、同年六月九日、神楽坂南側にある穴八幡放生寺拝借地旅所跡を下され、そのときからこの町名となった(町方書上)。里俗は神楽坂。
 明治二年(一八六九)五月に牛込神楽町(町名唱替帳・明治二年町鑑)、同四年六月周辺の土地を合併して神楽町二丁目と改称(市史稿市街篇五三)。昭和二六年五月一日から現在の神楽坂二丁目となる(東京都告示第三四七号)

 ここで神楽坂通りを横切る右側と左側がそれぞれ別の横町につながっています。

神楽坂2丁目

神楽坂2丁目

 まず明治20年の地図2丁目。この地図では鏡花仮宅と出ていますが、現在はなくなり、「泉鏡花・北原白秋旧居跡」の標柱が立っています。

 右側は「神楽小路(こうじ)」、昔は「紀ノ善横丁」といいました。場所はここ

 神楽小路

 左側は「鏡花横丁」です。場所はここ。鏡花横丁は牛込倶楽部の平成10年夏号『ここは牛込、神楽坂』で提案した地名です。小栗横丁

 このあたりは泉鏡花の旧家があったということで『鏡花通り』とつけるといいんじゃないかと言ったことがあるんですよ。でも、文献では「小栗横丁」になっているらしい。

 志満金と田口花店に挟まれた横丁を鏡花横丁と呼んでいるようです。鏡花横丁はまっすく曲がらずにいって理科大に行く。曲がるのは小栗横丁です。なお、小栗横丁は以前、小栗利右衛門屋敷があったためとされています(町方書上)。詳しくは小栗横町でアグネスホテルはここから行くこともできます。

ここは牛込、神楽坂』「語らい広場」で、ある読者は「大通りを入ったところが横丁で、横丁を入ったその奥は路地」だといっていました。路地の幅は3尺(90cm)。神楽坂ではおおむね正しいのでしょうか。

 左側には「志満金しまきん」と「オザキヤ靴店」が見えます。

 さらに行くと「ポルタ神楽坂」にやってきます。 Portaはラテン語で城門のこと。2011年にできた新しい建物です。東京理科大学の新施設ですが、1、2階にはたくさんレストランが入っています。たとえば二丁目食堂トレド千年こうじや梅花亭です。あっという間もなく消えていった店も沢山あります。また、昔ここにカフェーユレカ(あるいはユリカ)があり、詩人がやってきたりしました。ポルタ神楽坂

 ではまた神楽坂通りの上を向いて歩いてみましょう。陶柿園神楽坂写真館さわや肉のますだや太陽堂などがでてきます。

 ここで神楽坂について、『神楽坂おとなの散歩マップ 』で洋品アカイ・赤井義松はこう書いています。

よく注意して歩くと、「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる。あれは急傾斜を取るために、あそこで一段、ちょっとつけたわけです。

 さらに上に行くと、神楽坂の2丁目と3丁目の境にやってきます。3丁目の右側には1階はサークルK、2階はロイヤルホストが見えます。昔は牛込會館でした。

 その下には牛込神楽坂の図もあります。
2丁目と3丁目

 このあたりが一番急な坂になり、最大勾配は12%、角度は4.5度です。(『ここは牛込、神楽坂』14号42頁)

 ここから上を向いて右側は神楽坂仲通りになり、左側は下に向き小栗横丁に入り、上は神楽坂3丁目に行きます。ほかに神楽坂1丁目神楽坂4丁目神楽坂5丁目神楽坂6丁目もあります。

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神楽坂|牡丹屋敷のいわれ

文学と神楽坂

「牡丹屋敷」は明治20年の地図でも出てきますが、江戸時代にすでに三分割し、この屋敷自体はまったくありません。この典雅な名前「牡丹屋敷」のいわれですが、新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』でこう書いています。

牡丹

牡丹

牛込牡丹屋敷 豊島郡野方領牛込村内にあったが、武家屋敷になった。八代将軍吉宗の時代、岡本彦右衛門が吉宗に供して紀伊国(現和歌山県)から出てきた際、武士に取りたてようと言われたが、町屋が良いと答えこの町を拝領した。屋敷内に牡丹を作り献上したため牡丹屋敷と唱えた。その後上り屋敷となり、宝暦12年(1762)12月24曰に地所を三分割し、そのうち一ケ所が拝領町屋となった(町方書上)

上り屋敷 江戸時代の狩猟地における休憩所
拝領町屋 江戸で下級の幕臣に与えられた拝領屋敷内に長屋を建て、町方の者を居住、賃貸料を取ることを認められたもの。

 江戸幕府が編集した江戸の地誌「御府内備考」(大日本地誌大系。第3巻。雄山閣。1931年)では

    牡丹屋舗
 町之儀往古は武州豊島郡野方領牛込村の内に有之其御武家方御屋舗に相成候處 有德院樣御代岡本彦右衛門と申者紀州御供仕武家に御取立之蒙臺命候得共御免相願町家望のよし奉申上候に付當町拝領仕致住居候而  御傳法の熱湯散と申藥相弘大鷲壹羽御預被爲遊屋敷内にて牡丹花を作御て致献上候よし依之町名を牡丹屋舗と唱家號牡丹屋彦右衛門と申寵在侯處其後賓暦年中有て蒙御咎を家財被召上上地上り屋舗に相成候…

 「当」の旧字。
往古 遠い過去。大昔
有徳院 江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗のこと。有徳院は戒名。
 より。平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた平仮名。合略仮名。
台命 将軍や皇族などの命令。
拝領 目上の人、身分の高い人から物をいただくこと。
伝法 でんぽう。師が弟子に仏法を授け伝えること。秘伝
大鷲 おおわし。タカ目タカ科の猛鳥。
家號 やごう。商店の呼び名。店名。
 ゆえ。事の起こるわけ。理由。原因。

 江戸時代の『御府内風土記』編纂で、江戸の町の由来について町名主に提出させた書類「町方書上」(新宿近世文書研究会、1996年)でも中身は同じです。

 當町之義、往古武州豊嶋郡野方領牛込村之内有之、其後武家方御屋鋪相成候處、 有徳院様御代、岡本彦右衛門申者紀州ゟ御供仕、武家御取立之蒙 台命候得共御免相願、町家望之由奉申上候付、當町拝領仕致住居候 御傅法熱湯散申薬相弘、大鷲壱羽御預被為遊、屋敷内而牡丹花作候献上致候由、依之町名ヲ牡丹屋舗卜唱、屋号牡丹屋彦右衛門申罷在候処其後、宝暦年中故有蒙御咎、家財被召上、地面上り屋敷相成候趣申傅候、其後右上り屋鋪…

 平仮名「は」と同じ。漢字「者」から派生。

 岡本彦右衛門は家伝の薬「熱湯散」をつくっていましたが、宝暦11年(1761)、岡本彦右衛門が故あって咎めをこうむり、このため屋敷を没収、屋敷は上り屋敷になりました。翌12年、地所は3つにわけられ、大奥女中方御年寄飛鳥井(かすがい)、同花園(はなぞの)、御表使三坂(みさか)の3人の女性が拝領することになりました。

 明治2年(1869)に玉咲(たまさき)町と改称、明治4年には神楽町1丁目と改称、明治26年になってから神楽坂1丁目になります。

 なお他の牡丹屋敷と区別するため新宿歴史博物館は牛込牡丹屋敷と書いています。現在はスターバックスコーヒーなどが林立しています。

神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形1

新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年から。
古老の震災前1

場所は赤井寿徳庵山田紙店紀の善神楽小路琴富貴茶話会志満金神楽坂倶楽部温泉山浴場旧検靴屋と印判屋佐和屋軽子坂紀の善横町末よし

金満津 赤井 寿徳庵 山田紙店 紀の善 神楽小路 紀の善横町 琴富貴 茶話会 志満金 神楽坂倶楽部 旧検 浴場 温泉山 佐和屋 靴屋と印判屋 軽子坂 末よし

牛垣雄矢氏の「東京の都心周辺地域における土地利用の変遷と建物の中高層化」(地理学評論。2006。79:527-41、https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj2002/79/10/79_10_527/_pdf)では、「同資料の『震災前』の時期については、記載されている商店名と、東京市役所(1929)『東京市商工名鑑』に記載されている商店名と開業年を照らし合わせた結果、おおむね1922年頃であると考えられる」と書いています。1922年は大正11年です。

神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形2

新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年から。
古老の大震災の前2

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