タグ別アーカイブ: 神楽坂通り

神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形1

新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年から。
古老の震災前1

赤井 寿徳庵 山田紙店 紀の善 神楽小路 琴富貴 茶話会 志満金 神楽坂倶楽部 旧検 浴場 温泉山 佐和屋 靴屋と印判屋 軽子坂

牛垣雄矢氏の「東京の都心周辺地域における土地利用の変遷と建物の中高層化」(地理学評論。2006。79:527-41、https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj2002/79/10/79_10_527/_pdf)では、「同資料の『震災前』の時期については、記載されている商店名と、東京市役所(1929)『東京市商工名鑑』に記載されている商店名と開業年を照らし合わせた結果、おおむね1922年頃であると考えられる」と書いています。1922年は大正11年です。

場所は赤井寿徳庵山田紙店紀の善神楽小路琴富貴茶話会志満金神楽坂倶楽部温泉山浴場旧検靴屋と印判屋佐和屋軽子坂

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神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形2

新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年から。
古老の大震災の前2

木村屋 尾沢薬局 相馬屋紙店 煙草屋 盛文堂書店 宮坂金物店 婦人洋装店 サムライ堂 味が評判 本多横丁 豊島理髪店 善国寺 うを徳 毘沙門横丁 裏つづき 草薙堂 田原 裏側一帯 田原屋 東京貯蓄銀行 カフェー・オザワ 地蔵坂 光照寺 増田屋 浅井 路地奥 川鉄 八百文 恵比寿亭 文士 丸屋 機山閣 河合陶器店 尾張屋銀行 鶴亀亭 柳水亭 牛込館 神楽おでん 武田芳進堂 大久保通り

木村屋 尾沢薬局 相馬屋紙店 煙草屋 盛文堂書店 宮坂金物店 婦人洋装店 サムライ堂 本多横丁 豊島理髪店 善国寺 草薙堂 うを徳 毘沙門横丁 裏つづき 田原屋 田原コメント 裏側一帯 東京貯蓄銀行 カフェー・オザワ 地蔵坂 光照寺 路地奥 川鉄 八百文 恵比寿亭 川鉄の解説 丸屋 機山閣 河合陶器店 尾張屋銀行 鶴亀亭 柳水亭 牛込館 神楽おでん 武田芳進堂 大久保通り

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階段の話|神楽坂

文学と神楽坂

 階段の話です。

 平成22年、新宿歴史博物館「新修 新宿区町名誌」によれば、神楽坂は

江戸時代には段々のある急坂であったが、明治初年に掘り下げて改修された。……大正14年(1925)坂が舗装された。……舗装も最初は木レンガであったが、滑るため、2年ほどして御影石に節を入れた舗装に変わった。

また、石川悌二氏は『江戸東京坂道事典』で……

やはりむかしは相当な急坂であったのを明治になって改修したもの。明治13年3月30日、郵便報知は「神楽坂を掘り下げる」と題する次の記事を掲載している。「牛込神楽坂は頗る急峻なる長坂にて、車馬荷車並に人民の往復も不便を極め、時として危険なることも度々なれば、坂上を掘り下げ、同所藁店下寺通辺の地形と平面になし、又小石川金剛寺坂も同様掘り下げんとて、頃日府庁土木課の官吏が出張して測量されしと。」

また神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」では……(なお、「相川さん」は棟梁で街の世話人で、大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。「佐藤さん」は亀十パン店主です。)

相川さん 古い資料を見ると、昔の神楽坂ってのは階段だったらしいね。
山下さん 牛込見附から上かってくる方ですね。
相川さん 商店街ができるからってんで階段を坂にしたら、えらい坂が急勾配になったんで、「車力も辛い神楽坂」っで歌ができたくらいなんです。それを天利さん(注)ショウジロウさんって区会議長をやった人が、ハンコを関係各機関からもらって、区のお金を使って坂を下げたんです。下げたら今度は下の方から苦情が来て。坂を下げて勾配をずうっと河合さんの方までもってくる予定で設計図はできていた。ところがあんまり喧喧囂囂(けんけんごうごう)で収まりがつかなくなって、それでピタッとやめたんで、天利さんの前のところだけグッと上がっちやった。あれが忘れ形見だ。注:菱屋さんの先代店主
佐藤さん そういえばそうですね。最後のいちばん登りきるところが基点(起点?)なんですね。
馬場さん 自分の家の前に来ちゃった。ヘヘヘ。
相川さん 「工事中止」ってんでね。ということは、坂下の方の店(本道?)は階段じゃないとお店へ入れない。階段の商店街になっちゃうのはまずいってんで、それであそこでピシッと切った。歩いていてもわかるでしよ? 上がりきったな、と思うと、またグッと上がる。それがちょうど天利さんの前へ来ていた(笑)。区会議長やってる時分に天利さんはお釈迦様(注)の後ろへうちを買い足して、ご隠居しちゃったんです。(注)弁天町にある宗相寺
馬場さん ああ、弁天町のね。
相川さん そのあと工事を引き受けたのが、上州屋の旦那なんです。

上州屋は5丁目の下駄屋で、以降は藪そば、ampm、最後はとんかつさくらに変わります。
同じく2010年(平成22年)の西村和夫氏の『雑学 神楽坂』によれば…

江戸期は階段が作られるほど急な神楽坂だったが、明治になって何回となく改修され、工事の度ごとに緩やかになっていった。階段がいつなくなったのかわからないが、明治の初めと考えて間違いはなさそうだ。

 坂上は明治10年代に平坦にされたが、坂下は勾配をそのままにして先に商店街が出来てしまった。傾斜した道路の店があったのでは商売がやりづらいと、サークルKの先、当時糸屋を営んでいた菱屋が中心になって牛込区役所に働きかけ、坂を剃り勾配を緩くした。ところが、工事が進むにつれて坂上の商店ほど道との高低差が広がり、再び埋め直すという笑えぬ失敗があったという。こんな苦労を何度も繰り返し、神楽坂は今の勾配になったようである。

 芸者新道の入口の傾斜はそのままにされたので階段が作られて、手すりがないと上がれないような急坂が現在まで残り、昔の神楽坂の急勾配の様子をうかがわせる。

『神楽坂おとなの散歩マップ 』で洋品アカイ・赤井義松はこう書いています。(この店はなくなりました)

よく注意して歩くと、「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる。あれは急傾斜を取るために、あそこで一段、ちょっとつけたわけです。
江戸名所図絵の牛込神楽坂

江戸名所図絵の牛込神楽坂

江戸時代の(だん)(ざか)については『江戸名所』「牛込神楽坂」では10数段の階段になっています。
なお、この画讃には『月毎の寅の日にハ参詣夥しく植木等の諸商人市をなして賑へり』と書いています。

また平成14年(2002年)になってから電線もなくなりました。

神楽坂の通りと坂に戻る場合は

文学と神楽坂

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東京の路地を歩く|笹口幸男③

文学と神楽坂

さらにこの路地の東側に、枝路地を二本もつ、より変化に富んだ迷路的な路地が走っている。お座敷てんぷら〈天孝〉をはじめ、〈高藤〉〈金升〉〈さがみ〉〈なが峰〉〈和光〉などの料亭や旅館、酒房などが占拠する、いかにも「花街」らしい一画だ。さっき、京都の町並みのようであると言ったが、ここもまさに伝統に富む京都に一脈通ずる品のよい都市空間を保っている。よそで見たならば、なんの変哲のない、犬を連れた老人の散歩ですら、ここでは絵になる、といったあんばいである。

 町並みのよさに加えて、私にとっての神楽坂のもう一つの魅力といえば、食の名店が多いことである。JR飯田橋駅に近いほうから思いつくままに挙げれば、甘味どころの〈紀の善〉。戦前は寿司屋だったこの店、あんもミツもともに自家製という。その横丁を入った左側には、手打ち蕎麦の〈志な乃〉がある。昼飯どきには、店の外まで人があふれている。量の多い太打ちの田舎そばは、ややヘビーに感じる向きもあるようだ。坂の右手途中には、ジャンボ肉まんで有名な中華料理の〈五十番〉、毘沙門天の先にある洋食の〈田原屋〉、牛肉ステーキが自慢の酒場〈河庄〉などなど、店に事欠かない。

 なかでも〈田原屋〉は歴史を秘めた洋食屋である。一階が果物店で、レストランは二階。明治の中期、神楽坂のなかほどに牛鍋屋として創業されたこの店が、現在地に移ったのは大正三年だという。客のなかには、夏目漱石菊池寛佐藤春夫サトウハチローがいたようだ。さらに島村抱月松井須磨子も来たようだし、永井荷風の『断腸亭日乗』のなかにも、たびたび田原屋へ出かけたという記述が見られる。昼飯どきでも、この店には静かな落ち着きかあり、ゆったりと食事を楽しむ年配の客を多く見かける。
路地

現在、かくれんぼ横丁と呼んでいます。

神楽坂の地図

神楽坂の地図

天孝など かくれんぼ横丁天孝、高藤、金升、さがみ、なが峰、和光のうち天孝だけが同じ店として生き延びています。他は全て閉店しました。右は1985年の「神楽坂まっぷ」で、この頃は全部が開店しています。また2007年には「わかまつ」で出火し、右隣りの「志のだ」に延焼しました。
紀の善 紀の善ぜん」は文久・慶応年間(1861-1868年)に口入れ屋、つまり職業周旋業者として創業しました。建物は第二次世界大戦で焼失し、甘味処「紀の善」に変わりました。最後の名前の変更は戦後の昭和23年(1948)のこと。
志な乃 現在も同じ場所の神楽小路で営業中。志な乃
五十番 五十番創業は昭和32年(1957年)。肉まんや中華料理が有名です。肉まんはほかのと比べて生地が厚くて、肉はちょっと少ない。2016年3月には本多横丁に向かって右側だったのが、左側になりました。
田原屋 田原屋19世紀末ごろ牛鍋屋として開業。その後、洋食屋とフルーツの店に変わりました。2002年2月に閉店。
河庄 場所は不明です。
断腸亭日乗 だんちょうていにちじょう。永井荷風の日記で、1917年(大正6年)9月16日から、死の前日の1959年(昭和34年)4月29日まで、激動期の世相と批判をつづったもの。

文学と神楽坂

東京気侭地図3|神吉拓郎

文学と神楽坂

 表通りと、一本東側にある軽子坂、この間に挾まれた、大久保通り寄りの一画、このあたりは、神楽坂の空気に、独特のうるおいと彩りを添える花街である。坂を上って行って毘沙門さまのちょっと手前の向い側、そこを右へ曲ると、昔からの本多横丁といわれる小路だが、そのあたりの北側、筑土八幡へ抜ける道から、大久保通りにかけては、入り組んだ石段と小路の続く、迷路のような地帯だ。

 道幅は、どれも狭い。来合せる人があれば、肩を斜めに、すれ違うのに気を遣うほどの細道だ。表通りの神楽坂は、今はもうコンクリートの舗装になってしまったけれど、このあたりの小路には、昔ながらの石畳、扇面状に小さな角石を敷きつめたそれが、まだ残っている。

 気の向くままに右に折れる。と、そこに数段の石段かある。それを下りると、先は行きどまりである。

 行きどまりと見えて、小路は左へ折れる。塀と塀の(あわい)の、まっすぐ向いては歩けないような細い道に、軒灯と、格子戸がある。

 小路は、ひんやりとしている。どこからか風が通ってくる。

 また石段。まんなかが磨りへっていて、靴が滑りそうになる。

 角を曲ると、華やかな色彩が目に入る。若い母親が、子供を遊ばせている。気がついてこっちを見る視線は、軽くいぶかしげだ。

 ぼくは、内心、知らぬ家の庭先に踏みこんでしまったかと、恐縮したいような気持になる。

 石段を上り下りし、右左と曲っているうちに、高低の感覚も、方角の感覚も、次第にあやふやになってくるのが心細く、また面白い。

 この一画の小路には、行きどまりは、あまりない。殆ど、「抜けられる」道だ。

 ひときわ狭く、趣きの深い小路を歩いていると、つい鼻の先の軒灯に、ぽっかりと灯がともった。暗い軒灯だけれど、墨で書かれた家号の字は、くっきりと読みとれた。

 その軒灯の上には、まだかすかに陽の色が残っている空があった。

 ぽくは、まるっきりの下戸だけれど、呑んべえが、酒をのみたいと思うのは、こういうときだろうな、と思う。

神楽坂の通り

表通り 神楽坂通りのこと
軽子坂 軽子とは軽籠持の略称で、船着き場などで荷物運搬を業とする人。軽子がこの辺りに多く住んでいたため、名前が付きました。
大久保通り 新宿区飯田橋交差点から、新宿区神楽坂上交差点を通り、杉並区大久保通り入り口交差点まで。
一画 写真で暗く塗った色の場所。
花街 はなまち。花町とも。かがい。芸者屋・遊女屋などの集まっている町。色里。色町。
本多横丁 神楽坂通りの最大の横丁
筑土八幡 筑土八幡神社のこと。赤丸で書いてあります
地帯 ここをどう呼ぶのがいいのか、2005年になっても正式名称がありませんでした。水野正雄氏が『神楽坂界隈』「中世の神楽坂とその周辺」で「平成7年、神楽坂街づくりの会のフォーラムの際、ここの横丁名を「兵庫横丁」を名付けるよう私から提案をしておいた」と、書いています。その名の通り、現在、これは兵庫横丁と呼んでいます。
行きどまり 兵庫横丁の一見行きどまりに見える路地。さらに先を左側に行くと抜けられる道があります。兵庫横丁の行き止まり
軒灯 けんとう。軒先につけるあかり
格子戸 こうしど。格子を組んで作った戸

神楽坂通り|大宅壮一

文学と神楽坂

大宅壮一大宅(おおや)壮一(そういち)氏が書いた『モダン層とモダン相』(大鳳閣書房、昭和5年、1930年)の1章「神楽坂通り」です。この「神楽坂通り」、もともとは新潮社の「文章倶楽部」(昭和3年、1928年)に出したものでした。

氏はジャーナリスト、ノンフィクション作家、毒舌の社会評論家です。生年は1900年(明治33年)9月13日。没年は1970年(昭和45年)11月22日です。

     神樂坂通り

 神樂坂の通りを歩く度毎に、僕の頭にはいつも一つの思ひ出が生々と甦つて來るのである。

 それは震災の年の暮に近い頃のことである。(中略)

 汽車が甲府を過ぎて信州に入つた頃、僕はふと通路をへだてた隣席でしきりに得意さうに話してゐる東京人らしい老人の話に耳を傾けた。

 その話によると、彼は大變な好きで、千圓以上もする犬を何匹も飼つてゐるのであるが、その中でも一番大切だのを震災でなくしてしまつた。その犬は純日本種で、狸の穴をどんな遠方からでも嗅ぎつける不思議な能力を持つてゐるのであるが、さういふ犬は日本中を探しても數へる程しかゐない。幸ひ信州の山奥の何村の某が、その種の犬を一匹飼つてゐることを耳にしたので手離すかどうか分らないが、何千圓出してでも是非手に入れるつもりで、わざわざ東京から出かけるところだといふのである。

 それから老人は、その犬の飼育費が東京だと月に百圓位はかゝるといったやうな景氣のいゝ話をして、感心して聞いてゐる粗朴さうな土地の人々を煙に卷いてゐた。

 彼は澁い凝つた着物を着て、ロシヤ人の冠るやうな毛皮の頭巾を冠り、態度からいつても、ものゝ言ひつぷりからいつても、いかにも豪家の御隠居然としてゐた。たゞ一つ、僕にとつて疑問だつたのは、さういう御隠居様がどうして三等に乗つて長旅をするのだらうといふ一點であつた。

      *

 その後數日を經て、空つ風の吹く或る寒い晩、僕は懐手をして神樂坂の通りを歩いてゐた。支那ソバかヤキトリでも食ひたいと思つて、十二三銭入つてゐる財布を握りながら、周圍を見廻したけれど、場末と違つて、この上品な古めかしい通りには、僕の求めてゐる屋臺店は見當らなかつた。

      *

 その時僕は、自分の眼の前に全く思ひがけない人間がつてゐることを發見した。

 毘沙門樣の石垣の前で、小さな楊子店を出して、頭から毛布をすつぽり冠り、寒さうに火鉢を抱いてゐるのは、數日前中央線の汽車の中で豪奢な獵犬の話をしてゐたその老人であつた!

      *

意味がわからない語句がまずありません。

千円 当時の5円が2-3万円でしたので、千円は数百万円になります。
渋い 落ち着いた趣、地味で深い味わい
懐手 ふところで。和服を着たとき、手を袖から出さずに懐に入れていること
屋臺 屋台
蹲む 辞書には「つくなむ」しか書いてありませんが、意味は「しゃがむ」です。ひざを折り曲げて腰を落とす。かがむ。
楊子 歯を掃除する用具。現在では歯間用の(つま)楊枝(ようじ)(爪楊枝)をさす場合がほとんどですが、本来は歯ブラシまでも含んでいました。

お金を持っている屋台の主人。現実に屋台からビルになることもあったので、決して嘘ではないと思います。さて、(2)で悪い神楽坂がでてきます。

安田武|天国に結ぶ恋2

文学と神楽坂

 亡くなった母は、私が巣鴨へいってきたというと、お地蔵様をお参りしてきた
か、と(たず)ねるのを忘れなかったが、また神楽坂へいったといえば、毘沙門(びしゃもん)さんへ
お(まい)りしたかい、と念を押したものだった。神楽坂生まれの毋は、「寅毘沙」の
縁日の賑わいのなかで育ったわけだ。
 神楽坂演芸場のあったのは、坂を登って、毘沙門天の少し手前、宮坂金物店の 横丁を曲がった直ぐの処だったというが、ここで、月の晦日(みそか)に、柳家金語楼の独 演会が開かれていた。祖父の安永舎の代から出入りだった小石川・戸崎町の色刷 り印刷屋さん、この内儀が大変な金語楼贔屓(びいき)で、私のことを、一刻も早く金語楼 にあずけろ、そうすれば、一生、左うちわで暮らせる、と口を酢にしていう。 「ナニ、師匠には、あたしから頼んだげます、って、石黒さンたら、演芸場へい くたンびに、真顔でいうンだから」と、母は憶い出しては笑った。
 金語楼は、毎回、新作を三席発表し、むろん、私の方は、例の小原沢先生の時 間のネタ採りで懸命だったはずだが、それらの(はなし)は、一つも覚えていない。ただ 「三原山」という外題で、「ほんとうに、どうして、こんなに沢山の人が三原山 で死ぬンでしょうねえ」、「それがソレ、みんな、ミハラ出た錆です」というオ チだけを記憶している。大島の三原山で投身自殺が流行したのだった。地元や警 察の厳重な讐戒の目をかいくぐって、自殺者は跡を絶たず、大島通いの汽船会社 が、片道切符を売らなくなったという話があった。自殺者の数は、男四〇八名、 女一四〇名(昭和八年中)に及んだ、と記録されている。赤い椿に夢のせて、恋 し懐かし三原山ァ――と、歌の声は甘かったけれど。
巣鴨 東京都豊島区の巣鴨(すがも)駅を中心とする街。とげぬき地蔵で有名な高岩寺がある。
地蔵様 高岩寺(こうがんじ)は曹洞宗の寺院。本尊は地蔵菩薩(延命地蔵)。一般にはとげぬき地蔵で有名。
毘沙門 善国寺(ぜんこくじ)は新宿区神楽坂にある日蓮宗の寺院。本尊は毘沙門天。開基は徳川家康。正式には善國寺。
寅毘沙 寅の日は毘沙門の縁日
縁日 神仏との有縁(うえん)の日のこと。神仏の(ゆかりの)ある日を選び、祭祀や供養を行う日。
神楽坂演芸場 神楽坂下から来ると「椿屋」の直前から左手に曲がり、10メートルも行くと駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。昭和10年に「演舞場」に改名しましたが、寄席の1つで、柳家金語楼などが有名でした。
宮坂金物店 宮坂金物店は現在はお香と和雑貨の店「椿屋」です。
柳家金語楼 柳家金語楼やなぎや きんごろう。喜劇俳優、落語家、発明家。生年は1901年2月28日。没年は1972年10月22日。エノケン・ロッパと並ぶ三大喜劇人として有名でした。
左うちわ 右手で必死に仰ぐ必要はなく、左手でゆっくりとあおげはいい。これから転じて、優雅な楽な暮らしぶり。
口を酢に 口酸っぱく。クチズッパク。同じ言葉をなん度も繰り返して念を入れて言うこと
小原沢 安田武氏の小学校の担任の先生。
外題 巻子・冊子の表紙に書く書名・巻名
ミハラ出た錆 正しくは「身から出た錆」。刀の錆は刀身から生じるところから、自分の犯した悪行の結果として自分自身が苦しむこと。自業自得
赤い椿… 大島のイメージを変えるために、1933年、 西條八十作詞、中山晋平作曲の「燃える御神火」が作られました。3番までありますが、版権を考えると1番だけしか載せられません。

1 赤き椿の 夢のせて
  ゆきて帰らぬ 黒潮や
  ほのぼの燃ゆる 御神火に
  島の乙女の 唄悲し
  恋しなつかし 三原山
  山の煙よ いつまでも

学者町学生町(1)|出口競

文学と神楽坂

出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)で、その(1)です。

 何處(どこ)から何處へ流れるとなき外濠(そとぼり)の流れは、一刷毛ごとに薄れゆく
夕日影に(ぼか)されて、煤煙のやうに(くろ)ずんでゆく、荷足舟が幾艘(いくさう)も繋つ
てゐて、河岸から小砂利(こじやり)や貨物や割石を積込む音が靜かな空氣を搖動(うご)
かす。神樂坂にはもう(なつ)かしい灯が、恰度芝居の遠見の書割(かきわり)を見るや
うに(うつく)しく輝いてわれも人も()ひよせられるやうに坂を(あが)つて行く。
紀の善の店(さき)には印絆纒(かんはん)を着た下足番が床几に腰かけて路行(みちゆ)く人を眺
めてゐる、上框(あがりかまち)には山の手式の書生下駄が四五(そく)珠數(じゆず)(つなぎ)にされて
ゐて、拭きこんだ板間(いたま)に梯子段が見える。田舎者で(とほ)つた早稲田の(がく)
(せい)も此處のやすけが戀しくなれば()づ江戸つ子の()としたもの、その
斜向ひの小路を入った處に島金(しまきん)といふ牛屋がある。専門學校時代から
古い馴染(なじ)みだ。坂を上り()ると左手の露路(ろぢ)の突當りに洋食店の青陽軒(せいやうけん)
があつて、早稲田界隈の高襟さんを一()に引受けてゐる。
 何故(なぜ)()うも人通りが多いのであろう、これが毎晩(まいばん)なのだ、寅午(とらうま)の緣
日等と來ては海軍ならば夫れこそ舷々(げん〴〵)(あひ)()と公報に書く處だ。強
ち道幅の狭隘(けふあい)が誇張的に見せる行為(せゐ)でもなかろう。誰れも彼れも暢氣(のんき)
さうな顔をしてゐる、兩側(りやうがは)の露店のカンテラが一(せい)に空を赤めて、
(やか)ましい呼聲が客足を止めさせる。特有(とくいう)へら〳〵帽子を目深(まぶか)飛白(かすり)

の書生が、昆沙門前で1人はヴァイオリンを()き1人は本を口に当て
(うた)つてゐるのが悲調を帯びて、願掛(ぐわんがけ)に行く脂粉(おしろい)の女の胸に(あは)い哀愁
の種を()く。
外濠 そとぼり。江戸城の外側の堀の総称。水路で江戸城を取り囲んでいました。
煤煙 ばいえん。物の燃焼で煙と(すす)がでたもの
正しくは「あおぐろ」が正確。青みを帯びた黒。
割石 割石1ワリイシ。石材を割って、形が不定で鋭い角や縁をもつ石。
書割 かきわり。芝居の大道具。木枠に布や紙を張り、建物や風景など舞台の背景を描いたもの。何枚かに分かれていることから書割といいました。
紀の善 現在は甘味処ですが、戦前は寿司屋でした。ここに詳しく
印絆纒 印絆纒シルシバンテン。襟や背などに屋号・家紋などを染め抜いた半纏。
床几 しょうぎ。細長い板に脚を付けた簡単な腰掛け。Shogi_as_japanese_traditional_chair
上框 うわがまち。戸・障子などの建具の上辺の横木
書生下駄 高下駄(たか)下駄(げた)。10センチ以上視線が高くなります。
珠數繋 数珠(じゅず、ずず)は穴が貫通した多くの珠に糸の束を通し輪にした法具。じゅずつなぎ。糸でつないだ数珠玉のように、多くの人や物をひとつなぎにすること
板間 いたま。板敷の部屋。板の間。
やすけ 「義経千本桜」に登場する鮨屋(すしや)の名は弥助(やすけ)でした。以来、鮨の異称として使いました。紀の善は戦前は寿司屋でした
それぞれの部分。「これで君も江戸っ子だね」といったところでしょうか。
島金 現在は志満金です。
青陽軒 青陽軒はどこにあるのか、わかりません。
高襟 ハイカラ。西洋風なこと
舷々相摩す げんげんあいます。ふなばたが互いに擦れ合う。船と船とが接近して激しく戦うようすを表す言葉。
狭隘 きょうあい。面積などが狭くゆとりがないこと。
カンテラ カンテラオランダ語kandelaarから。手提げ用の石油ランプ。ブリキ・銅などで作った筒形の容器に石油を入れ、綿糸を芯にして火をともします
へらへら 紙や布などが薄く腰の弱いさま
目深 まぶか。めぶか。目が隠れるほど、帽子などを深くかぶるさま。
飛白 かすり。絣とも書きます。かすれたような部分を規則的に配した模様や、その模様のある織物です。

Café jokyû no uraomote

文学と神楽坂

小松直人氏が書いたCafé jokyû no uraomote(二松堂、昭和6年、『カフェー女給の裏表』と読むのでしょう)の一部ですが、しかしこの本では神楽坂はここだけです。

淋しい神樂坂

 山の手銀座(ぎんざ)の名をほしいま丶にして、神樂坂(かぐらざか)大震災(だいしんさい)以前(いぜん)までは、山の手における代表的な(さか)()であっだ。それが、震災(しんさい)()、新宿の異常(ゐじやう)發展(はつてん)けおされて、すっかり盛り場しての盛名(せいめい)をおとしてしまつた。

 その證據(しやうこ)には、時代の寵兒(ちやうじ)たるカフエが、こゝにはきはめてまぼらにしか、存在(そんざい)しない。それも、カフエオザワをのぞけば、外のカフエはぐつと()ちて、場末(ばすゑ)のそれと大差(たいさ)がない。

 省線(しやうせん)飯田橋(いひだばし)(えき)で下車して、電車道をのりこえ坂をのぼつて行けば、左側(ひだりがは)ユリカ神養亭(しんやうてい)の兩カフエが並んでゐる。ユリカは神樂坂(かぐらざか)界隈(かいわい)切つてのハイカラなカフエで、女給(ぢよきふ)の數は十人を()え、サービスも先づ申し分がない。それに隣る神養亭(しんやうてい)は、レストラン()みて面白(おもしろ)くない。
山の手銀座 下町の銀座は銀座です。こう書くのは抵抗がありますが、しかし昔の銀座は典型的に下町でした。一方、山の手の銀座は神楽坂です。大震災ごろから言い始めたようですが、2-3年も立たないうちに新宿が大きくなりました。
ほしいまま 思いのままに振る舞う。自分のしたいようにする。
大震災 関東大震災。1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒、マグニチュード7.9の地震です。震源は神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)。
けおとす ()(おと)す。すでにその地位にある者や競争相手をおしのける。
盛名 りっぱな評判。盛んな名声
寵児 世にもてはやされる人。人気者
カフエ  カフェーの始まりは、明治44年、銀座に開業したカフェー・プランタンです。経営者は洋画家平岡権八郎と松山省三。パリのCafeをモデルに美術家や文学者の交際の場としてスタート、本場のCafeの店員は男性ですが、ここでは女給。美人女給を揃えたカフェー・ライオンなどの店が増えましたが、まだ料理、コーヒー、酒が主です。

 カフェーがもっぱら女給のサービスを売り物にするようになったのは関東大震災後で、翌年(1924年)、銀座に開業したカフェータイガーは女給の化粧が派手で、体をすり付けて話をする、といったサービスで人気がでます。昭和に入り、女給は単なる給仕(ウエイトレス)ではなく、ホステスとして働き、昭和8年(1933年)には風俗営業の特殊喫茶として警察の管轄下に置かれました。

 この本も昭和6年に書かれていますので、かなりホステス的な女給も多かったのでしょう。
カフエオザワ 神楽坂4丁目でした。オザワについてはここで。場所はここ
場末 繁華街の中心部から離れた場所。また、都心からはずれた所
電車道 路面電車の軌道が敷設された道路。電車通り。ここは外苑通り
ユリカ、神養亭 いずれも神楽坂2丁目にありました。現在は全て理科大の「ポルタ神楽坂」です。図の左は神楽坂上、右は神楽坂下になります。なお、ユリカについてはここで書いています。
ユリカと神養亭

新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」を元に作っています

ハイカラ 西洋風で目新しくしゃれていること。英語のhigh collar(高い襟)から。もともとは高い襟をつけ、進歩主義・欧米主義を主張した若い政治家のこと。
女給 じょきゅう。カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性
オザワは、相變(あひかは)わらずだが何と云ても、神樂坂(かぐらざか)のカフエのピカ一である。細長(ほそなが)い建物は時代向ではないが、一(しゆ)(かほ)りを持つてゐて落ちつけるのは流石(さすが)である。女給(ぢよきふ)は十四五人も居ようか、そのサービスは上品(じやうひん)で、大向ふをうならせる(やう)エロサービスではないが、店とビツタリしてゐて申し分がない。(つよ)刺戟(しげき)を求めようとする客は失望(しつぼう)するであらうが、しんみりとしたカフエ氣分(きぶん)(あじは)はうとする(きやく)は、この店に來てゴールドンスリツパーをなめるもよし、黒松白鷹(くろまつはくたか)の一本をかたむけてみるもよからう。
大向こう 舞台から見て正面の後方にある一幕見の立見席 転じて,一般の見物人
おおむこうをうならせる【大向こうを唸らせる】芝居などで大向こうの観客を感嘆させる。一般の人々に大いに受ける
エロサービス エロはエロティック、30~31年(昭和5~6)を頂点とする退廃的風俗。昨今のポルノ風俗に比べればその露出度はたわいもないといわれています
ゴールデン・スリッパー ゴールデンスリッパーGolden Slipper Cocktail。リキュールをベースとするカクテル。リキュールの女王といわれるイエロー・シャルトリューズ(薬草のリキュール)と金粉の入ったゴールド・ワッサーを使った豪華なカクテル。卵黄を用いた濃厚な味はナイト・キャップに最適。
黒松白鷹 本醸造の日本酒。甘・辛・酸のバランスのとれたなめらかな味わい
肴町(さかなまち)停留所(ていりゆうじよ)の近くに、震災直後プランタン支店(してん)が出來て、牛込一帯に()んでいた、文士連や畫家達(ぐわかたち)が盛に出没(しつぼつ)したが、今ははかない、神樂坂(かぐらざか)カフエロマンスの一頁をかざつてゐるにすぎない。

 カフエハクセンは、地域(ちゐき)の關係上文壇(ぶんだん)切つての酒豪(しゆごう)水守龜之助をはじめとして、一時盛に新潮社(しんちようしや)關係(かんけい)のお歴々出没(しゆつぼつ)したが、今はもうここへ立寄(たちよ)る人も少ない。

 この(ほか)に、神樂坂(かぐらざか)一帯にはミナミ、コーセイケン、ホマレ亭、ヴランド、シロバラ、ヤマダ、ホーライケン(とう)のカフエがあるが、いづれもあまり立派(りつぱ)な店ではない。
肴町停留所 現在は都電のほとんどはなくなりました。これは都バスの停留所「牛込神楽坂」になりました。
プランタン 明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように店が変わりました。ここで詳しく。昔の岩戸町二十四番地、現在は岩戸町一番地です。
画家達 鏑木清方氏、竹久夢二氏、梶田半古氏、川合玉堂氏、小杉小二郎氏、鍋井克之氏など
カフエロマンス カフェで起きた恋。恋愛小説
カフエハクセン 場所はわかりません。矢来町、横寺町、神楽坂6丁目などでしょうか。
水守亀之助 1886年6月22日 – 1958年12月15日、1907年には田山花袋に入門 1919年、中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。編集者生活の傍ら、『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と合わせて新潮三羽烏と言われたようです。
新潮社 しんちょうしゃ。出版社。文芸書の大手。新宿区矢来町に広大な不動産があります。
歴々 身分・地位などの高い人々。多く「お歴々」の形で用います。おえらがた
ミナミなど 場所はまずわかりません。ヴランドはどこだかわかりませんが、当時の3丁目の牛込会館の地下に「カフェーグランド」がありました。ここは現在「サークルKサンクス」です。また5丁目にも「グランドカフェ」がありました。現在は「手打ちそば山せみ」です。また「ヤマダ」は現在、3丁目のヤマダヤと同じ場所に「カフェ山田」がありました。

文学と神楽坂

 

神楽坂|石垣りん

文学と神楽坂

『略歴-石垣りん詩集』から。 詩は1976年9月『歴程』に発表。

神楽坂

いつか出版クラブの帰りみち
飯田橋駅へ向かって
ひとりで坂を下りてゆくと。
先を歩いていた山之口貘さんが
立ち止まった。
貘さんは
背中で私を見ていたらしい。
不思議にやさしい

大きな目の人が立ちはだかり
あのアタリに、と小路の奥を指さした。
「ヘンミユウキチが住んでいました」
ひとこというとあとの記憶が立ち消えだ。
私は「このアタリに」と指さしてみる。
山之口貘さんが立っていた、と。
石垣りん 詩人。生年は1920年(大正9年)2月21日。没年は2004年(平成16年)12月26日)。4歳の時に生母と死別、以後18歳までに3人の義母に。小学校を卒業した14歳の時に日本興業銀行に事務員として就職。以来定年の55歳(1975年)まで勤務しました。
出版クラブ 日本出版クラブは、「出版界の総親和」という精神を掲げ、1953年9月に設立されました。新宿区の神楽坂通りからわずかに離れた袋町にあります。
山之口貘 やまのくち ばく。詩人。生年は1903年(明治36年)9月11日。没年は1963年(昭和38年)7月19日。放浪と貧窮の中で風刺とユーモアを感じさせる詩作。
ヘンミ
ユウキチ
逸見猶吉。詩人。生年は1907年9月9日。没年は1946年5月17日。1928年、21歳の頃、神楽坂で酒場「ユレカ」を経営。壮大でニヒル、暗い詩風でした。

文学と神楽坂