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愛がいない部屋|石田衣良

文学と神楽坂

 石田衣良氏の『愛がいない部屋』(集英社、2005年)です。始めに「おわりに」を紹介します。ここに本を書いた意図が書かれています。

 恋愛短篇集もついに三冊目になりました。
 これまでは二十代、三十代と年齢別に書いてきたけれど、今度はどうしよう。では人生のある時ではなく、場所を限定して書くことにしよう。それなら超高層の集合住宅がおもしろそうだな。東京では百を超えるガラスとコンクリートの塔が空をさしています。今の時代を映す背景としてぴったりだし、一棟のマンションに舞台を圧縮することで、さまざまな対比が鮮やかに描けるかもしれない。
 タワーマンションが建つ街は、以前住んでいた神楽坂にしよう。その名も「メゾン・リベルテ」。自由の家という名のマンションに住む、そう自由ではない人々の暮らしを、これまでよりすこしだけリアルに書いてみよう。この本はそんな気もちで始めた連作集です。

 では、最初の「空を分ける」から

「このマンションは二年まえに竣工しました。計画段階では、地元の住民から超高層への反対運動がありましたが、今では問題なく周辺住民とスムーズにいっています」
 扉が開くとエレベーターの奥は鏡張りだった。防犯対策だろうか。
「どうぞ」
 ボタンを押したまま成美がいった。階数表示がつぎつぎと点滅しながら、操作盤を駆けあがっていく。梨花は息をのんで、耳抜きをした。こんな贅沢なマンションに住めるのも、割安なルームシェアのおかげだ。梨花ひとりではとても手のでる物件ではなかった。建物の案内は続いている。
「当初の計画では地上四十三階建てでしたが、話しあいの結果、地上三十三階となり、公開緑地を多くすることで落ち着きました。最上階は展望室と来客用の宿泊施設などです。ほとんどは分譲ですが、賃貸物件もいくつかあります」
 エレベーターは十九階で停止した。中央の吹き抜けを内廊下が四角くかこんでいた。博人は手すりから顔をのぞかせ、したを見おろしてから、ガラスの屋根を見あげた。梨花も同じようにする。遥か下方に放射状に大理石の組まれた明るいロビーが落ちていた。博人はのんびりという。
「うえを見ても、したを見てもきりがない。なんだか、このマンションだけでひとつの街みたいだ。ぼくたちは中の上くらいのところに住むんだな」
 梨花はうなずいて博人の横顔をそっと見つめた。広告代理店のクリエイターがどんな仕事をするのかよくわからないが、ものをつくる人の細やかな神経を感じさせる横顔だった。廊下の先から成美が声をかけてくる。
「こちらです。どうぞ」
 部屋番号は1917号室だった。梨花は贅沢な共有部分から、ため息のでるような室内を想像していたが、ドアのなかは案外普通のつくりだった。ロビーと同じ大理石は張ってあるが玄関は狹く、まっすぐ奥に延びる廊下も余裕たっぷりというわけではなかった。不動産会社の女は、天井まで届くシューズクローゼットを開けて、配電盤のブレーカーをあげた。先に立って部屋にあがり廊下をすすんでいく。図面に目を落としていった。
「廊下の左右に個室がひとつずつあります。六畳と変形の七畳で、どちらも大容量のクローゼットがついています。全部で六十平米ちょっとの2LDKになります」
 博人と梨花はドアを開けて室内を確かめた。どちらの部屋も窓は吹き抜け側にあいているので、それほど明るくはなかった。天気の悪い日には昼間でも照明が必要だろう。

ルームシェア roomshare。ひとつの住居を他人同士が、共同で借りたり、共有して居住すること
公開緑地 地方公共団体の条例要綱等に基づき、土地所有者と地方公共団体などが契約を結び、緑地を一定期間住民の利用に供するために公開するもの。
クリエイター 創作家、制作者。広告クリエイターとは広告制作でコピーライトやCMプランニングを中心に行う人。
シューズクローゼット Shoe Closet。玄関で靴を入れるための収納箱。下駄箱
クローゼット 衣類を仕舞う洋風の空間。押入れ。
LDK リビングルーム(居間)とダイニング(食堂)とキッチン(台所)

アライバル社の広告から(https://www.arrival-net.co.jp/article/condominium/kagurazaka_einstower/)

 建物のモデルは「神楽坂アインスタワー(Eins Tower)」なのでしょう。これは神楽坂五丁目にあり、26階建て、竣工は2003年。借地権付きマンションで、普通の分譲マンションではありません。2018年、67.37㎡の価格は6,180万円。なお、ドイツ語のeinsは「ひとつ、1」。
 東急リバブルの広告では……「タワーマンション特有の共用施設の充実、フロントサービス、24時間有人管理、24時間総合監視システム、オートロック、防犯カメラ、モニター付きインターホンと徹底した安全管理体制が設けられています。室内はバリアフリー、ディスポーザー、カウンター付きシステムキッチン、オートバスなど生活設備も充実しています」

 さて別の章「いばらの城」では

アライバル社の広告から


「なんて名前」
「メゾン・リベルテ神楽坂。ほらもうさっきから見えてるよ」
 茂人は美広の指さす空を見あげた。白く輝く積乱雲を背に、この街には似あわない巨大な超高層ビルが灰色の切り絵のように空を占めている。
「あんなところか。すごく高いんじゃないの」
「部屋によってはそうでもないみたい」
 その物件は神楽坂上の交差点近くに建っていた。周辺の公開緑地もかなりの広さがあリ、ちょっとした公園なみである。エントランスはホテルのように広々としていた。中央が巨大な吹き抜けになったロビー階には、ファミリーレストランやコンビニ、本屋や花屋まである。休日のせいか オープンカフェの日傘のテーブルはほとんど埋まっていた。一番端の席に、妙に目立つ真紅のストールを巻いた小柄な老女が座って、こちらをじっと見つめていた。

オープンカフェ 道路側の壁を取払ったり店の前に客席を設けたり、開放的な演出を凝らしたカフェやレストラン。
ストール 婦人用の細長い肩掛け

 残念ながら、神楽坂アインスタワーには「ファミリーレストランやコンビニ、本屋や花屋」はありません。 

1枚の写真(上田屋履物)

文学と神楽坂

改造社の『日本地理大系』で「昭和5年の神楽坂通り」の写真です。新宿と文学

上田屋履物店だけがはっきりと絵の右側に見えます。その次は「○○メリヤス店」がでています。

1丁目から東の方をみる可能性もありますが、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」を見ると、おそらくここではないといえそうです。5丁目の商店

5丁目から6丁目をみるほうがよさそうです。

同じく「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」を見ると、右手に「上田屋履物」と「浜田メリヤス店」が見えます。ここではないでしょうか。

屋台があったのか、はっきりしませんが、あってもいいと思います。

のぼり旗や垂れ幕などが異常に無数に立っています。

現代の写真は
5丁目の商店街

現在と昭和5年の写真を比べると、下の赤の建物は何でしょう?

向こうに見える建物はなに

向こうに見える建物はなに

新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)の昭和5年と比べて見ると、こう見えたのでしょうか? 

昭和5年、あの建物は

それともアーチ状の屋根が一見建物に見えたのでしょうか? よくわかりません。

つくば商事、すし好、マルゲリータ

文学と神楽坂

神楽坂上の南側には、交番がありました。左図は岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」です。明治40年ごろですが、「交バン」がわかります。右図は昭和27年の都市製図社「火災保険特殊地図」です。赤い矢印で示しますが、戦後になってもしばらくの間、交番はそこにありました。

L

s12 交番

都市製図社「火災保険特殊地図」 昭和12年

建物としては、尾張屋銀行がありました。昭和2年、尾張屋銀行は昭和銀行に買収され、左図は昭和12年の都市製図社「火災保険特殊地図」ですが、昭和銀行支店になっています。

場所は尾張屋銀行空き地益美屋を示します。

「遊び場だった『寺内』」の中で、岡崎弘氏は

それから神楽坂上のこの角が「尾張屋銀行」。隣の「東屋洋傘店」には三人兄弟がいて、一緒に戸山ヶ原まで遊びに行ったりしてましたよ。そして、「益美屋」、袴屋、乾物の「近江屋」、「紅谷」が並んでいました。

神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」では……。なお、「相川さん」は棟梁で街の世話人。大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主。昭和十年に福井県から上京。「佐藤さん」は亀十パン店主。(現、Miss Urbanのところで営業していた)

つくばとすし好

尾張屋銀行はつくば商事に、空き地はすし好に

マルゲリータ

益美屋はピザのマルゲリータパリアッチョに。

相川さん そのあと工事を引き受けたのが、上州屋の旦那なんです。それで角は交番があって、尾張屋銀行があって、これが関東大震災で潰れたあとに復旧して。レンガでできていたんですね。関東大震災で一メートルぐらいレンガのクズが河合さんの方ヘダーツといっちゃってね。神楽坂をふさいじゃったんです。三尺ぐらいしか通路がなくて。尾張屋銀行が交番を潰したっていうんで、鉄筋で今度は交番を作った。
山下さん あの丸いのね。
相川さん その前は木でできたボックスだったんです。
佐藤さん それであの丸い交番がずっと戦後も残っていたわけですか。
馬場さん 袋町の交番は木ですよね。
相川さん 木でしたね。
佐藤さん 昔のトーチカじやないけど、すごい(木が)厚いですよね。その記憶はあります。
相川さん 夏は西陽があたるでしよ。お巡りさんが立っていて、一日中西陽で気の毒だってんで、町内で六月になると日よけを寄付するんです。町内から金もらって、その仕事はうちでやった。窓のところヘ上げ下げの葦簾を下げて、夜になると上げる。鉄筋だもんだから、焼けちゃうと暑くて中にいられないんです。天井が低いでしよ。あの上に葦簾を広げて周りに垂らす。カラカラっと巻き上げのね。
山下さん 終戦後は交番はあったけどお巡りさんはいなかったことがあったね。
相川さん ええ、そうなんです。
山下さん そのころ天利さんの仮小屋のところへ泥棒が入ってね。よく覚えてるけど、交番にお巡りさんがいなかったんだよね。目と鼻の先なのに。
相川さん この戦争後に交番もずいぶんなくなったんですよ。厚生年金病院にも交番があったし、袋町にあったし。大曲のところはいまだに残っていますね。
馬場さん ああ、ありますね。場所はちょっと移動したけどね。
相川さん あそこは寒いんですってさ。川の風が吹き上げてくるから。あそこは苦手だ、島流しだってね(笑)。確かに寒いや。それでこの隣はトウグ(陶具?)屋さんがあったんですが、そこを担保に取られて空き地になったんです。
馬場さん ここのところはあんまりはっきりしなかったんですよ。相川さんがいちばんよく知っているんだ。なんで空き地だったの?
相川さん 昭和銀行が建てるんで、担保に取った家だから、空き地にしといた。塀が二間ぐらいあって。だからお祭りやるときに、いつもその塀を壊してお神酒所にした。奥深いでしよ、だから表にお神輿をおいて、後ろがたまり場になっている。独立でできたんですよ。

Café jokyû no uraomote

文学と神楽坂

小松直人氏が書いたCafé jokyû no uraomote(二松堂、昭和6年、『カフェー女給の裏表』と読むのでしょう)の一部ですが、しかしこの本では神楽坂はここだけです。

淋しい神樂坂
 山の手銀座(ぎんざ)の名をほしいま丶にして、神樂坂(かぐらざか)大震災(だいしんさい)以前(いぜん)までは、山の手における代表的な(さか)()であっだ。それが、震災(しんさい)()、新宿の異常(ゐじやう)發展(はつてん)けおされて、すっかり盛り場しての盛名(せいめい)をおとしてしまつた。
 その證據(しやうこ)には、時代の寵兒(ちやうじ)たるカフエが、こゝにはきはめてまぼらにしか、存在(そんざい)しない。それも、カフエオザワをのぞけば、外のカフエはぐつと()ちて、場末(ばすゑ)のそれと大差(たいさ)がない。
 省線(しやうせん)飯田橋(いひだばし)(えき)で下車して、電車道をのりこえ坂をのぼつて行けば、左側(ひだりがは)ユリカ神養亭(しんやうてい)の兩カフエが並んでゐる。ユリカは神樂坂(かぐらざか)界隈(かいわい)切つてのハイカラなカフエで、女給(ぢよきふ)の數は十人を()え、サービスも先づ申し分がない。それに隣る神養亭(しんやうてい)は、レストラン()みて面白(おもしろ)くない。

山の手銀座 下町の銀座は銀座です。こう書くのは抵抗がありますが、しかし昔の銀座は典型的に下町でした。一方、山の手の銀座は神楽坂です。大震災ごろから言い始めたようですが、2-3年も立たないうちに新宿が大きくなりました。
ほしいまま 思いのままに振る舞う。自分のしたいようにする。
大震災 関東大震災。1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒、マグニチュード7.9の地震です。震源は神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)。
けおとす ()(おと)す。すでにその地位にある者や競争相手をおしのける。
盛名 りっぱな評判。盛んな名声
寵児 世にもてはやされる人。人気者
カフエ カフェーの始まりは、明治44年、銀座に開業したカフェー・プランタンです。経営者は洋画家平岡権八郎と松山省三。パリのCafeをモデルに美術家や文学者の交際の場としてスタート、本場のCafeの店員は男性ですが、ここでは女給。美人女給を揃えたカフェー・ライオンなどの店が増えましたが、まだ料理、コーヒー、酒が主です。
 カフェーがもっぱら女給のサービスを売り物にするようになったのは関東大震災後で、翌年(1924年)、銀座に開業したカフェータイガーは女給の化粧が派手で、体をすり付けて話をする、といったサービスで人気がでます。昭和に入り、女給は単なる給仕(ウエイトレス)ではなく、ホステスとして働き、昭和8年(1933年)には風俗営業の特殊喫茶として警察の管轄下に置かれました。
 この本も昭和6年に書かれていますので、かなりホステス的な女給も多かったのでしょう。
カフエオザワ 神楽坂4丁目でした。オザワについてはここで。場所はここ
場末 繁華街の中心部から離れた場所。また、都心からはずれた所
電車道 路面電車の軌道が敷設された道路。電車通り。ここでは外堀通り
ユリカ、神養亭 いずれも神楽坂2丁目にありました。現在は全て理科大の「ポルタ神楽坂」です。図の左は神楽坂上、右は神楽坂下になります。なお、ユリカについてはここで書いています。

ユリカと神養亭

新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」を元に作っています

ハイカラ 西洋風で目新しくしゃれていること。英語のhigh collar(高い襟)から。もともとは高い襟をつけ、進歩主義・欧米主義を主張した若い政治家のこと。
女給 じょきゅう。カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性

オザワは、相變(あひかは)わらずだが何と云ても、神樂坂(かぐらざか)のカフエのピカ一である。細長(ほそなが)い建物は時代向ではないが、一(しゆ)(かほ)りを持つてゐて落ちつけるのは流石(さすが)である。女給(ぢよきふ)は十四五人も居ようか、そのサービスは上品(じやうひん)で、大向ふをうならせる(やう)エロサービスではないが、店とビツタリしてゐて申し分がない。(つよ)刺戟(しげき)を求めようとする客は失望(しつぼう)するであらうが、しんみりとしたカフエ氣分(きぶん)(あじは)はうとする(きやく)は、この店に來てゴールドンスリツパーをなめるもよし、黒松白鷹(くろまつはくたか)の一本をかたむけてみるもよからう。

ゴールデンスリッパー

大向こう 舞台から見て正面の後方にある一幕見の立見席 転じて,一般の見物人
大向こうを唸らせる おおむこうをうならせる。芝居などで大向こうの観客を感嘆させる。一般の人々に大いに受ける
エロサービス エロはエロティック、30~31年(昭和5~6)を頂点とする退廃的風俗。昨今のポルノ風俗に比べればその露出度はたわいもないといわれています
ゴールデン・スリッパー Golden Slipper Cocktail。リキュールをベースとするカクテル。リキュールの女王といわれるイエロー・シャルトリューズ(薬草のリキュール)と金粉の入ったゴールド・ワッサーを使った豪華なカクテル。卵黄を用いた濃厚な味はナイト・キャップに最適。
黒松白鷹 本醸造の日本酒。甘・辛・酸のバランスのとれたなめらかな味わい

肴町(さかなまち)停留所(ていりゆうじよ)の近くに、震災直後プランタン支店(してん)が出來て、牛込一帯に()んでいた、文士連や畫家達(ぐわかたち)が盛に出没(しつぼつ)したが、今ははかない、神樂坂(かぐらざか)カフエロマンスの一頁をかざつてゐるにすぎない。
 カフエハクセンは、地域(ちゐき)の關係上文壇(ぶんだん)切つての酒豪(しゆごう)水守龜之助をはじめとして、一時盛に新潮社(しんちようしや)關係(かんけい)お歴々出没(しゆつぼつ)したが、今はもうここへ立寄(たちよ)る人も少ない。
 この(ほか)に、神樂坂(かぐらざか)一帯にはミナミ、コーセイケン、ホマレ亭、ヴランド、シロバラ、ヤマダ、ホーライケン(とう)のカフエがあるが、いづれもあまり立派(りつぱ)な店ではない。

肴町停留所 現在は都電のほとんどはなくなりました。これは都バスの停留所「牛込神楽坂」になりました。
プランタン 明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように店が変わりました。ここで詳しく。昔の岩戸町二十四番地、現在は岩戸町一番地です。
画家達 鏑木清方氏、竹久夢二氏、梶田半古氏、川合玉堂氏、小杉小二郎氏、鍋井克之氏など
カフエロマンス カフェで起きた恋。恋愛小説
カフエハクセン 場所はわかりません。矢来町、横寺町、神楽坂6丁目などでしょうか。
水守亀之助 1886年6月22日~1958年12月15日。1907年には田山花袋に入門。1919年、中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。編集者生活の傍ら『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と合わせて新潮三羽烏と言われたようです。
新潮社 しんちょうしゃ。出版社。文芸書の大手。
歴々 身分・地位などの高い人々。多く「お歴々」の形で用います。おえらがた
ミナミなど 場所はまずわかりません。ヴランドはどこだかわかりませんが、当時の3丁目の牛込会館の地下に「カフェーグランド」がありました。ここは現在「サークルKサンクス」です。また5丁目にも「グランドカフェ」がありました。現在は「手打ちそば山せみ」です。また「ヤマダ」は現在、3丁目のヤマダヤと同じ場所に「カフェ山田」がありました。

文学と神楽坂

 

学者町学生町(2)|出口競

文学と神楽坂

出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)で、その(2)です。神楽坂は(2)で終わりです。(1)はここに

 往來の六分強(ぶきやう)は男である。そして男の七分が早稲田(わせだ)の學生であるけれど
その服装(ふくさう)に至つては弊衣(へいい)破帽(はぼう)一見と知らるゝもあり、何處(どこ)の旦那かと(かひ)
(かぶ)らるゝあり、千姿萬態である。左に折れて中坂に洋館(やうくわん)の建物がある、
これぞ元の高等演藝館今は日活(にちくわつ)直營(ちよくえい)活動(くわつどう)寫眞(しやしん)牛込(うしごめ)(くわん)となって藁
店といった昔の面影(おもかげ)はない。土曜劇場創作試演會等は此処(ここ)に生れて所謂劇
壇に貢献(こうけん)(ゆた)かであつた。尚、此の(ちか)に藝術座の藝術(げいじゆつ)倶楽部(くらぶ)がある。
 肴町停留所前の鳥屋の河鐡かはてつ、とりや独特の「とり」といふ字に河鐡と崩し
た文字の掛行燈かけあんどんを潜ると、くらい細長いいしだたみがあつて直ぐ廊下になつてゐ
る。そとから見ると春雨はるさめの夜の遣瀬なさ土地柄れず絲に言はせる歌姫うたひめ
もがなと思はれるが、そこは可成堅いうちの事とて学生は安心して御自慢の
鳥がへるといつてゐる。區役所前の吉熊よしくまは今は無慘むざんや、代書所時計店等
にくはしてゐるが、區外の人々にもうなづかれる有名な料理屋でかつては一代の文
星紅葉山人が盛んに大盡めこんだことが彼の日記にもほのえる。此店
の營業中慣例のやうにひらかれた早稲田わせだ系統けいとうの諸會合も今は其株を吉新よししんにと
られてしまつた。電車通り飯田橋いひだばしの方へれて少し行くとそこに矢ばね
、、、
がある。こゝは学生の根城ねじろであるといつてよからう。
 赤い旗、あをはた、広告爺、音律をなさぬ楽隊、あくどい色彩のかんばん、そ して悪どい化粧の女案内人、文明館へははひる勇氣がない、さりとて牛込亭 鹿えず。
弊衣 破れてぼろぼろになった衣服
破帽 破れてぼろぼろになった帽子。身なりに気を使わず、粗野でむさくるしいこと。特に、旧制高校の学生が好んで身につけたバンカラ風な服装
「ふ」と読んで成年に達した男子、一人前のおとこ。
千姿万態 さまざまに異なる姿や形のこと
洋館 西洋風の建物。実際にこの牛込館は洋館でした。牛込館
高等演芸館 藁店わらだなに江戸期から和良わらだな亭という漱石も通った寄席がありました。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを自費で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設しました。
藁店 わらだな。藁店は「わら」を扱うお店のこと。すくなくとも1軒が車を引く馬や牛にやる藁を売っていたのでしょう。詳しくはここに
土曜劇場創作試演会 藤沢浅二郎の俳優学校「東京俳優養成所」が開設し、度々創作試演会を行っていました。
近く 私たちの感覚では近くではありません。大きな道、大久保通りの反対側にありましたが、大正時代の感覚では近くだったとも考えられます。牛込館は袋町2に、芸術倶楽部は横寺町9にありました。
芸術倶楽部 ここも二階建の白い洋館でした。詳しくはここを
肴町停留所 現在は都バスの「牛込神楽坂前」停留所になりました
川鉄 昔の肴町27にありました。現在は神楽坂5丁目です。詳しくはここで

L 昭和5年『牛込区全図』から

掛行燈 家の入り口・店先・廊下の柱などにかけておくあんどん
石甃 板石を敷き詰めたところ
遣瀬ない 遣瀬ない。遣る瀬無い。やるせない。意味は「つらくて悲しい」
土地柄 その土地に特有の風習
絲に言わせる これは恋(旧字体では戀)の意味を指しているのでしょう。つまり「絲に言はせる歌姫」は「戀する歌姫」に変わるのです。
もがな があればいいなあ。であってほしいなあ。以上をこの文をまとめて訳すと「春雨の夜でつらく悲しいので、この神楽坂に特有なやり方で恋を歌う歌手がでてくればいいのにと思う」
可成 かなり
安心して 川鉄は芸者を入れませんでした。それで安心できたのです。
吉熊 箪笥町三十五番地の区役所前にありました。ここで
代書所 本人に代わって書類や契約書などを作成する所
化す 「くわす」と書いて「かす」。 形状・性質などがかわる
文星 中国では北斗七星の主星「斗魁」を頂く星座[6星]を文昌星と言っています。古来より学問、文学の神として崇拝してきました。
紅葉山人 尾崎紅葉です。「山人」は文人や墨客(ぼっかく)(書画をよくする人) が雅号に添えて用いる言葉です。
大盡 大尽。 財産を多く持っている者。金持ち。金銭を湯水の如く使つて派手な遊びをする客
ほの。かすかに、わずかに
吉新 おそらく肴町の42番にあったようです。昔は神楽坂から奥に入っていくこともできたのですが、今はできません。「ampm」から「ゆであげパスタ&ピザLaPausaラパウザ」から変わって「とんかつさくら」の奥にありました。
電車通り ここでは大久保通りです
矢ばね 場所はわかりません。実は大久保通りについてはほとんど資料はないのです。神楽坂通りについては色々書いてあります。しかし、大久保通りについては遙かに少なく、大正時代についてはまずありません。
根城 活動の根拠とする土地や建物
文明館 映画館です。このころはもう既に神楽坂通りに沿う通寺町11に移っていました。細かくはここを
牛込亭 通寺町八にある寄席でした。細かくはここを。吉田章一氏の『東京落語散歩』(角川文庫)では「大久保通りとの交差点近くに寄席『牛込亭』(神楽坂六ー8)と、『柳水亭』(神楽坂五-13)があった。『牛込亭』は、明治十年頃『岩田亭』で始まり、のち相撲の武蔵川が買って『三柳亭』改め『牛込亭』とした。六代目圓生か大正九年初めての独演会を開いた。昭和になると浪曲が主となり戦災まで続いた」と書いてあります。
鹿

寄席芸人用語で、咄家のこと。はなしかをしか(、、)に略し、鹿の字を当てました。

大東京繁昌記山手篇

『大東京繁昌記』山手篇の加能作次郎の「早稲田神楽坂」から

文学と神楽坂

神楽坂|大東京案内(3/7)

前は大東京案内(2/7)です。

通りで目貫(めぬ)の大店は、酒屋の万長(まんちよう)、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢(おざわ)、糸屋の菱屋(ひしや)、それらの老舗(しにせ)の間に割り込んで日蓮宗(にちれんしう)辻説法でその店(うた)はれるカグラ屋メリンス店。山の手一流の菓子屋紅谷は、今では楼上を喫茶部、家族づれの人達の上りいゝ店として評判が高い。

目貫き めぬき。目抜き。目立つこと。中心的。市街で最も人通りの多い、中心的な通り。
尾沢 尾沢薬局。現在は喫茶店の「Veloce神楽坂店」

菱屋 創業は明治3年(1870)。「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが並んでいます。現在も営業中。
辻説法 道ばたに立ち、通行人を相手に説法すること。カグラ屋メリンス店については、インターネットの「西村和夫の神楽坂」(15)「田原屋そして紅屋の娘」はこう書いています。

古い神楽坂ファンなら忘れてはならぬ店が毘沙門前のモスリン屋「警世文」である。店の主人は日蓮宗の凝り屋らしく、店先に「一切の大事のなかで国が亡ぶるが大事のなかの大事なり」といったのぼりを掲げ、道行く人に「思想困難」とか「市会の醜事実」を商売をよそに論じ、その周りに人だかりができ、暗がりには易者が店を出すといった、神楽坂が銀座や新宿の繁華街と違った雰囲気を持っていた。

実はこの元がありました。大宅壮一氏が書いた「神楽坂通り」でした。なお、モスリンとは「唐縮緬とうちりめん」です。

カグラ屋メリンス店 5丁目で、神楽屋とも。「カグラ屋メリンス店」は現在の「Paul神楽坂店」です。メリンス店とは「メリノ種の羊毛で織ったところから薄く柔らかい毛織物」
楼上 階上。紅谷の場合、1階は菓子屋、2階は喫茶店。大正10年、3階建てに改築。3階はダンスホールでしたが、大震災後は喫茶店に。
4丁目と5丁目2

火災保険特殊地図 都市製図社 昭和12年

明治製菓白十字船橋屋はりまや等から、よく売り込んだ()(よし)()()鹿()()半玉(はんぎよく)(ねえ)さんなどになくてならない店。今は店がかりもみすぼらしい山本もこゝでの喫茶店の草分(くさわ)けだ。
 カフエ・オザワ、それから牛込演芸館下のグランド女給のゐるカフエの大どころ。田原屋は果実店の(かたは/rt>)らレストランをやつてゐるが、七面鳥とマカロニを名物に一流の洋食を喰はせるので通人間(つうじんかん)に響いてゐる。
明治製菓 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

明治製菓の神楽坂分店で相當に大きい構へです

と書いてありました。「明治食堂」の場所は5丁目の白十字の左隣で、現在はパチンコ・スロット「ゴードン神楽坂店」です。

白十字 新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)で大正11年頃から昭和8年は5丁目にあったようです。「大東京うまいもの食べある記」では

白十字の神楽坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同様喫茶、菓子、輕い食事等

と出ています。現在はパチンコ・スロット「ゴードン神楽坂店」です。また、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば、昭和12年頃は2丁目でした。現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。

船橋屋 広津和郎氏の『年月のあしおと』(初版は昭和38年の『群像』、講談社版は昭和44年発行)では

船橋屋本店の名を見つけたので、思わず立寄って見る気になったのである。昔は如何にも和菓子舗らしい店構えであったが、今は特色のない雑菓子屋と云った店つきになっていた。

今は「神楽坂FNビル」に変わりました。

はりまや 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば2丁目にあった喫茶店です。10年ぐらい前には「はりまや」のあった場所には「夏目写真館」でした。しかし夏目写真館も引っ越し、現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
緋鹿ノ子 緋鹿ノ子ひがのこ。真っ赤な鹿()()絞り。鹿の子とは模様が子鹿の斑点に似ているところから来た言葉
山本 4丁目。白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

春月の向ふ側にあつて喫茶、菓子、中でもコーヒーとアイスクリームがこゝの自慢です。

現在は「魚さん」。楽山ビルを正面に向かって右隣りです。

カフエ・オザワ 4丁目。一階は女給がいるカフェ、二階は食堂。現在はcafe VELOCE ベローチェに。
牛込演芸館 現在は神楽坂3丁目のコンビニの「サークルK」に。大正12年(1923年)9月1日、関東大震災の頃は貸し座敷「牛込會館」に。同年12月17日、女優、水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。水谷八重子は18歳でした。大好評を博したそうです。
グランド 3丁目。白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)では

野球おでんを看板のグランド

と書いています。現在はコンビニの「サークルK」に。

女給 カフェやバーなどの飲食店で客の接待や給仕をする女性
田原屋 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)では

毘沙門の向ふ隣。果物屋として昔から名の知れた店ですが、同時に山の手一の美味な洋食を食べさせることも、既に永い歴史になってゐます。店先を見ただけでは、どこで洋食をたべるのか一寸判らぬ位ですが、果物の間を抜けて奥へ行くと食堂があり二階は更に落付いた上品な食堂になってゐます。

と書いてあります。現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」

日本料理では芸者の入る末よし吉新吉熊橋本常盤指折(ゆびを)りの家。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金など、なかなかの老舗(しにせ)で芸者も入る。さうでないのは鳥料理(とりれうり)川鉄、家族づれの客にはうつてつけの心持のいゝ家。
末よし 末吉末吉は2丁目13番地にあったので左のイラストで。地図は現在の地図。
吉新
よしん

よしん

神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には

相川さん 三尺の路地がありまして、奥に「吉新」という割烹店があった。
佐藤さん ああ、魚金さんの奥の二階家だ。
馬場さん 戦後はね。いまの勧銀(注)のところまでつながっているとこだ。
 (注) この勧銀は現在の百円パーキング

百円パーキングは今ではなく、PAUL神楽坂店などに変わりました。

吉熊 「東京名所図会」(睦書房、宮尾しげを監修)では

箪笥町三十五番吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。

箪笥町三十五番にあるので、牛込区役所と相対しています。

橋本

安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では

◇橋本――毘沙門裏に昔からある山手一流の蒲燒料理、花柳の繩張内で座敷も堂々たるもの。まあこの邉で最上の鰻を食べたい人、叉相當のお客をする場合は、こゝへ招くのが一番お馳走でせう。
橋本

現在は石かわ

現在は高村ビルで、一階は日本料理「神楽坂 石かわ」です。石かわはミシュランの三ツ星に輝く名店です。

常盤 当時は上宮比町(現在の神楽坂4丁目)にあった料亭常盤です。昭和12年の「火災保険特殊地図」で、常磐と書いてある店だと思います。たぶんここでしょう。上宮比町
紀の善 東京神楽坂下の甘味処。戦前は寿司屋。
島金 現在は志満金。昔は島金。鰻屋で、創業は明治2年(1869)で牛鍋「開化鍋」の店として始まりました。その後、鰻の店舗に転身しました。さらに鰻の焼き上がりを待つ間に割烹料理をも味わえるし、店内には茶室もあります。

次は大東京案内(4/7)です。

文学と神楽坂

神楽坂|紅谷(昔)

文学と神楽坂

紅谷
 現在「くすりの福太郎」がある神楽坂5丁目に菓子屋「紅谷」がありました。地図はここです。
CIMG8953

「紅谷菓子店神楽坂支店」の創業は明治30年(1897年)。1945年の戦災で焼失するまで営業を続けました。本店は「小石川安藤坂紅谷」で、嘉永年間の創業。経営者は小川茂七。

 和菓子屋から洋菓子に転じ、1階は菓子屋、2階は喫茶店。

紅谷。藤森照信など「幻景の東京-大正・昭和の街と住い。写真集」。柏書房。1998年

紅谷。藤森照信など「幻景の東京-大正・昭和の街と住い。写真集」。柏書房。1998年

 大正10年、3階建てに改築。3階はダンスホール、大震災後は喫茶店でした。

 2階は喫茶店でいつでも女学生が集まる場所で、当時流行の「紅屋の娘」はこの紅谷を歌ったものといわれています。
 昭和4(1929)年、日活は『東京行進曲』の主題歌としてレコードを発売し、B面に入っていたのがこの曲でした。

    紅屋の娘

1 紅屋で娘の いうことにゃ
  サノ いうことにゃ
  春のお月様 うす曇り
  トサイサイ うす曇り
2 お顔に薄紅 つけたとさ
  サノ つけたとさ
  私も薄紅 つけよかな
  トサイサイ つけよかな
3 今宵もお月様 空の上
  サノ 空の上
  一はけさらりと 染めたとさ
  トサイサイ 染めたとさ
4 私も一はけ 染めるから
  サノ 染めるから
  (たもと)の薄紅 くださいな
  トサイサイ くださいな

 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(丸ノ内出版社、昭和8年)によれば

日本菓子の老舗(しにせ)、山手一と云つても(むかし)は過褒でなかつた店です。階上喫茶部(きつさぶ)、しるこや甘いものもあり、この邉で一(ばん)安心(あんしん)して行ける上に、内部の設備(せつび)もよいので坂一の人氣ものとなつて居り、(わか)い學生、女學生、家族連れで夜は(とく)に大入りです。お隣りに獨立(どくりつ)したパーラーも落着いてゐて、大學生逹のよいたまりになつてゐます。ランチ、パン、喫茶(きつさ)(とう)、お隣の日本菓子に對しこゝは洋菓子(やうくわし)も賣つてゐます」

 1927(昭和2)年、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」で加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』では

紅谷はたしか小石川安藤坂の同店の支店で、以前はドラ焼を呼び物とし日本菓子専門の店だったが、最近では洋菓子の方がむしろ主だという趣があり、ちょっと風月堂といった感じで、神楽坂のみならず山の手方面の菓子屋では一流だろう。震災二、三年前三階建の洋館に改築して、二階に喫茶部を、三階にダンスホールを設けたが、震災後はダンスホールを閉鎖して、二階同様喫茶場にてている。愛らしい小女給を置いて、普通の喫茶店にあるものの外、しる粉やお手の物の和菓子も食べさせるといった風で学生や家族連れの客でいつも賑っている。

 岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」で岡崎弘氏は

「紅谷」の切りさんしょもおいしかった。菓子は(店頭に)飾ってなくて、生菓子をくださいというと適当にやってくれて。その後ハイカラになってバナナを揚げたりお菓子にしたりして、で、二階を喫茶にして。
「紅谷」のヒデちゃんとは、戸山の方に二度くらい遊びに行つたな。次男坊は「折屋」のエイちゃんと同級生だから、仲がよくってさ。「紅谷」さんの娘さんがお嫁に行くときなんぞは、「折屋」の親父さんが仲人で、とても盛大だったよ。「紅谷」は安藤坂だかが本店で、こっちは隠居仕事だったんだけど、当たっちゃって。

切り山椒 和菓子。糝粉しんこに砂糖とサンショウの汁や粉を混ぜて蒸し、細長く切ったもの。

 また矢田津世子氏『神楽坂』では昭和10年頃の神楽坂が出てきます。

お詣りをすませて毘沙門を出てきたところを、「あら、お初っちゃんじゃないの」と声をかけられた。小学校の時仲好しだった遠藤琴子だとすぐに気が付いた。小石川の水道端に世帯をもってからまだ間がなく、今日は買物でこちらへ出てきたのだ、という。紅谷の二階へ上って汁粉を食べながら昔話がひと区切りつくと、琴子は仕合せな身上話を初めた。婿さんの新吉さんは五ツちがいの今年二十八で申分のない温厚な銀行員。毎日の帰宅が判で押したように五時きっかりなの。ひとりでは喫茶店へもよう入れないような内気なたちなので、まして悪あそびをされる気苦労もなし、何処へ行くのにも「さあ、琴ちゃん」何をするのにも「さあ、琴ちゃん」で、あたしがいないではからきし意気地がないの。まるで、あんた、赤ん坊よ。――と、いかにも、愉しそうな話しぶりである。それに惹きいれられて、お初が琴子の新世帯をああもこうも想像していると、
「お初ちゃんはどうなの?」
ときかれた。
「ええ、あたし……」
と云うたなり、うまく返事が出てこない。それなり俯向いて黙りこんでいると、お初の髪あたまから履物まで素ばしこく眼を通していた琴子は、ふっと気が付いたように時計をみて、
「もう、そろそろ宅の戻る時間ですから……」
と、別れを告げた。
 紅谷の前に立って琴子のうしろ姿を見送っていたお初は何やら暗い寂しい気もちになって今にも泣きたいようである。仕合せな琴子にくらべてわが身のやるせなさが思われる。どんな気苦労をしてもいいから、自分もまた琴子のように似合いの男と愉しい世帯をもってみたいものだとつくづく思った。

 紅谷は昭和20年5月、第2次世界戦争の空襲で全焼し、なくなりました。

神楽坂5丁目に戻る。
神楽坂の通りと坂に戻る場合

文学と神楽坂

続こしかたの記|鏑木清方

文学と神楽坂

鏑木(かぶらき)清方氏が書いた『続こしかたの記』の「夜蕾(やらい)亭雑記(1)」では

前記田原屋に並んで太田屋といふ半襟店があつた。銀座には襟善ゑり圓の專門店もあるが、この土地には太田屋が繁昌して、山川はそこの主人と心安く、圖案の相談にも乘つてゐたやうである。半襟に數奇(こら)したのは明治、大正を盛りとしてその後、だんだん影を消した。紙の相馬屋、菓子喫茶の紅谷も土地の名物であつた。神樂坂通から電車道を越す通寺町には今は見かけぬ砂糖屋 蝋燭屋の專門店もあつた。

ここでは砂糖屋と蝋燭屋はどこにあるの、というのが問題です。でも、その前に、他の問題もやっておきます。

田原屋 神楽坂5丁目南側にあった1階は果物屋、2階は洋食屋。現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」です。
太田屋 河合慶子氏は『ここ牛込、神楽坂』第3号の『懐かしの神楽坂』で「肴町界隈のこと」を書き、

ワラ店の角の「太田半衿店」。箱にきれいに並んだ半衿の、赤・黄・緑と色とりどりの鮮やかさ。

現在は和菓子の『五十鈴(いすず)』です。
半襟 半襟装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢(じゅばん)などの(えり)の上に縫いつけた替え襟。
襟善 ゑり善。えり善。中央区銀座5丁目6-7。和服店。
ゑり圓 ゑり円。えり円。中央区銀座4丁目6−10。和服店
山川 秀峰。やまかわ しゅうほう。生まれは明治31年〈1898年〉4月3日。死亡は昭和19年〈1944年〉12月29日)。日本画家、版画家。美人画で有名です。大正2年(1913年)に清方に入門し美人画を学びました。
数奇 すうき。ふしあわせ。不運。運命がさまざまに変化すること…となるのですが、おかしい。数奇ではなく、数寄だとすると…数寄は「すき」と読み、風流・風雅に心を寄せること。数寄(すき)を凝らす。建物・道具などに、風流な工夫を隅々までほどこすことと…このほうが正しいと思っています。一瞬、私が書いたものが違ったではと不安でしたが、鏑木清方氏からして違っていました。
相馬屋 神楽坂5丁目北側にある文房具屋。現在も健全です。
電車道 路面電車が敷設されている道路。現在の大久保通り。昔はここに路面電車ができていました
通寺町 現在の神楽坂6丁目のこと。

太田半衿

砂糖屋 『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった『寺内』」を書き、そこに「サトーヤ」が出ています。これが砂糖屋だったのでしょうか。

サトーヤ

  『ここは牛込、神楽坂』第15号の「続こしからの記」の解説で、「砂糖屋は砂糖問屋の升屋、蝋燭屋は、現模型店の駿河屋」と書いてあります。『地籍台帳・地籍地図[東京]6・地図編2』(大正元年)で調べると、神楽坂6丁目59番地には舛屋砂糖店と書いていました。(ます)屋砂糖店、あるいは(ます)屋砂糖店は、江戸時代に砂糖を取り扱った問屋でした。明治以後、中国・オランダ以外に欧米諸国からの輸入も開始、輸入品の値段が下がり、砂糖問屋は大打撃を受けて、多くが没落することになりました。舛屋はここです。

L

  都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和12年)と平成10年の『ゼンリン住宅地図』では下の通りです。上の四角、59番地が砂糖屋さんでした。
2015年に立てられたコボちゃんの像も書いています。

砂糖・蝋燭 2

蝋燭屋 これは神楽坂6丁目64番地です。場所はここ
蝋燭とは、糸や紙縒りを芯にして、蝋を固めた円柱状の灯火用具。この蝋燭屋は、模型店の駿河屋に変わります。駿河屋については雑誌『かぐらむら』の「記憶の中の神楽坂」(03)「神楽坂6丁目辺り」

古く、落ち着いた建物に、模型やフィギュアなども置いてあって、ショーウインドーを覗く楽しみがあった。適度な明るさと、ホッとするような懐かしさが混在していた。閉店前の1カ月は、バーゲンセールで、なぜかロシア製とドイツ製の戦車が売れ残っていたので半額で買いました。でも、まだ組み立てていません。

駿河屋も今はなく、東京パーク神楽坂第1駐車場に変わり、さらに現在は自転車の「SAKULA」などに変わりました。下の写真は、左側がSAKULA、右側は昔の砂糖屋です。今はパークリュクスです。

砂糖と蝋燭 現在

文学と神楽坂

伝統の店々|昭和30年 (3/4)

そばの春月永坂更科池端蓮玉と共に東都三老舗と謳われたのれんで、更科とやぶの中間を行くのが特徴とされている。また毘沙門天との間を横丁に入るとうなぎの橋本、神楽坂随一の繁栄と格を有する料亭松ケ枝がある。また表通りの毘沙門天安置する善国寺は始め麹町にあり、家康自ら鎮護山善国寺と命名したもので、代々将軍家および江戸市民の信仰篤く二百三十余年前此地に移ってより、その緑日の賑わいは一層名高く、神楽坂繁栄の一因をなしたことは人形町水天宮と好一対をなすものといえよう。その隣りが果物の田原屋。明治四十年頃創業、明治末年日本で始めてのフルーツパーラーを始めたものである。
永坂更科

子母沢寛氏の『味覚極楽』「竹内薫兵氏の話 そばの味落つ」で竹内薫兵氏は

私の一番いいのは、月並だが矢張り、麻布(あざぶ)永坂(ながさか)の「更科(さらしな)」で、あのうちの更科そばには何んともいえない風味がある。はじめは「並の盛り」といういわゆる駄そばばかりを食った。しかしこれを段々やっている中にあの白い細い更科の方がよろしくなる。駄そばの方もうまいにはうまいが、味が重いし、舌へ残る気持も、少しべとりッとする。更科は少しあっさりとしすぎる位に、淡々たるところがいいようである。

子母沢寛氏の「寸刻の味」では

永坂の「更科」も先生のおっしゃる通り。だがわたしは「さらしな」よりは、駄蕎麦の方が好きである。書生の頃十二銭の大盛、あれをよく食べた。一度に大盛三つを注文したら、女中さんに笑われた。「とても三つは無理ですから二つにしては」「いや、いいから持って来てくれ」、がやっぱり二つで閉口していると、その美しい女中さんがざる(、、)蕎麦につく「わさび」を持って来て「これを入れると食べられます」という。が、遂に駄目であった。駄蕎麦一筋で「さらしな」は余り淡泊すぎて、味をぬいた素麺をたべてるような、ただ、下地に何にかつけて食べてるというようなそんな感じで感心しなかった。この頃は「更科」へ行かないので、どんな事になっているか知らない。

終戦後しばらくは営業をやっていますが、昭和30年には空き地になります。

池端蓮玉

子母沢寛氏の『味覚極楽』「竹内薫兵氏の話 そばの味落つ」の竹内薫兵氏は

下谷池の端の「蓮玉庵」もなかなかうまいもので、十四、五年前は、そば食いたちは東京第一の折紙をつけ、私なども毎日のように通ったが、これも今はいけない。そばそのものの味と下地の味とが、どうもぴったりと来ないようになったのである。

子母沢寛氏の「寸刻の味」では

池の端の蓮玉庵の、蕎麦と下地の関係については、それからずいぶん長い間通ったが、いつ行っても行く度に先生の言柴を思い出して感心した。しかし考えて見ればこれが蓮玉庵というものの独自の「味」だったかも知れない。
東都三老舗 へー、そうなんだ。実は辞書で「東都三老舗」を調べてみても何もありません。現在の江戸そばの三老舗は普通、砂場、更科、薮です。
やぶ 藪蕎麦は醤油の味がつよい、塩からいそばつゆ。一方、更科蕎麦は蕎麦殻を外し、精製度を高め、胚乳内層中心の蕎麦粉(更科粉、一番粉)を使った、白く高級感のある蕎麦。中間というのは、そばつゆなのか、蕎麦粉なのか、あるいは両方なのか、全体なのか、どれをさすのかはっきりしません。

都市製図社の「火災保険特殊地図」(昭和27年)で赤で囲んだ場所はここで出てきた場所です。蕎麦の春月、蒲焼の橋本、松ケ枝、毘沙門天、田原屋

橋本

安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では

◇橋本――毘沙門裏に昔からある山手一流の蒲燒料理、花柳の繩張内で座敷も堂々たるもの。まあこの邉で最上の鰻を食べたい人、叉相當のお客をする場合は、こゝへ招くのが一番お馳走でせう。
橋本

現在は石かわ

現在は高村ビルで、一階は日本料理「神楽坂 石かわ」です。石かわはミシュランの三ツ星に輝く名店です。

松ケ枝

創業は明治38年。水野正雄氏は『神楽坂まちの手帖』第5号『花街・神楽坂の中心だった料亭「松ケ枝」』で、

松ケ枝

現在はマンション

「松ヶ枝がどんなに大きくて繁盛していたかは、下働きの女中だけで50人はいたことを話せば想像できるでしょう。下働きの女中さんというのは、料理もここで作っていましたから食器を洗ったり、掃除をしたり浴衣や敷布を洗濯したり。」

毘沙門天 仏教で天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
安置 丁重に据え置くこと。特に、神仏の像などを据え祭ること
善国寺 新宿区神楽坂にある日蓮宗の寺院
麹町 千代田区の地名で、旧麹町区にあたる。
緑日 神仏との有縁(うえん)の日。この日に参詣(さんけい)すれば特に御利益があると信じられています
人形町 中央区の地名で、旧日本橋区にあたる。
水天宮 中央区にある神社で江戸時代より安産・子授けの神として人々から厚い信仰を集めたそうです
田原屋

牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』の第17号で二代目田原屋の奥田卯吉氏が書いた「おれも江戸っ子、神楽坂」では

時代の先端をゆく父たちは、五丁目の魚屋の店が売り物に出たので、長男はそこでレストランを始め、当時、個人のレストランとしては珍しいフランス料理のコースを出していた。

また、その中の「親父と二晩かけて考案したフルーツみつ豆」では

田原屋

現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」

いまどきフルーツぬきのみつ豆など考えられないくらいだが、これは親父と二晩がかりで考え出したもの。世に言う「フルーツみつ豆」の始まりで、後にあんこをのせて「あんみつ」ともなった。
当時のお客さんは、フルーツみつ豆を珍しかって、なかなかの好評だった。変色の早い桃、林檎、梨、枇杷などは甘露煮をしてタップリと、そしてメロン、苺、バナナ、サクランボ、西瓜、オレンジなど季節の香りを彩りよくあしらって見事なものとなった。

伝統の店々|昭和30年 (4/4)

文学と神楽坂

昭和30年(1955年)に『商店街めぐり-神楽坂』を書いています。

五十鈴は戦後成功した和菓子としるこの店、この辺では凝ったきれいな店である。足袋の美濃屋は創業六十年、乾物の伊勢屋は文久年闇、この向側の原稿用紙の相馬屋は創業三百年、九代目の伝統をもち、この街では最古参株、尾崎紅葉の愛顧した店で紅葉のいろいろの指示注文で苦心して原稿用紙を作ったので、いよいよ独特の良いものができるようになり普く文士連に愛用され、相馬屋の名は天下に鳴響いた。隣の万長は創業五十年の古いのれんであり、すき焼の恵比寿亭は戦争以来肉の小売業、明治四十二年江戸橋に創業、大震災後この地に移ったものである。このように神楽坂としての古いのれんの店々或はまたこの街にふさわしき店々が最近軒をつらねている。またこの店々の裏側には料亭街或はまた柳家金語楼金プロがある。

以上で『伝統の店々』はおしまいです。

五十鈴 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第4号で金田理恵氏の「おいしいもの大好きおばさんの神楽坂ガイド」では「ちょっと塩気の効いた『五十鈴』の豆大福もいいし…(いけない、糖尿のこと忘れてた)」
5丁目1

都市製図社の「火災保険特殊地図」(昭和27年)で赤で囲んだ場所はここで出てきた場所です。

美濃屋

遠藤登喜子氏は『ここは牛込、神楽坂』第6号の「懐かしの神楽坂 心の故郷・神楽坂」を書き、

Asian Tawan

昔は美濃屋

その先は足袋(たび)の美濃屋さんで、戦前は肴町を越したところにあったのです。広いお店は畳が敷き詰められ、小さいタンスの引出しがよこにずうっと並び、大旦那がお客の足型を取ったり、店員さんが小さい台の上で足袋を裏返して、木槌でトントンとたたく音が聞こえていました。その頃見かけた金ボタンの学生服を着た小学生が先頃亡くなったご主人だったわけです。私の踊りの足袋も長い間、美濃屋さんのお世話になりました。

また、大島歌織氏の『ここは牛込、神楽坂』第8号の「神楽坂で見つけた」では

明治初期から続く美濃屋さんのご主人(三代目)は、六年前に「六十四歳になる手前で」亡くなられて。いまは外の職人さんに頼んでいるとのこと。その職人さんがやって来るのは、金曜日の夜七時。誂えたい人は、その時分に型をとってもらわなればなりませぬ。

現在は2階の「Asian Tawan」などです。

相馬屋
オサムグッズ1

オサムグッズ

大谷峯子氏は『ここは牛込、神楽坂』第3号で「六本木在住者の神楽坂ひとり暮らしショッピング』を書き、「相馬屋でオサムグッズの新物をチェックする』と書いています。ここで「オサムグッズ(OSAMU GOODS)」って。これはイラストレーター原田治氏が制作して1976年に誕生。「可愛い」をキーワードにシンプルな線で描かれたデザイン。80~90年代の女子学生に人気を獲得しました。

また、『ここは牛込、神楽坂』第2号の「お店の履歴書」では

鴎外が、逍遥が使った原稿用紙
 そして日露戦争の頃は、筆、墨、紙に手拭などを入れた相馬屋特製の慰問袋が大ヒット。その後のヒット商品が有名な原稿用紙だ。そもそもは和紙に木版刷りで薄い桃色の罫をいれたのが始まりで、それが売れに売れて、活版で刷るようになり、やがては、ひょんなことから洋紙の原稿用紙が生まれるいきさつも、区の資料に詳しく記されている。要は、断ち損じた洋紙を無駄にしないための窮余の一策だったという。
 これには横寺町にいた尾崎紅葉の助言もあったらしい。だから当然紅葉氏は愛用したはずだが、ほかにはどんな方が?「森鴎外さんがいまの国立医療センター、昔の陸軍第一病院の院長さんをやっていた頃、よくお見えになったと聞いています。買物のときはご自分でお金を出さず、奥様がみんな払っていらしたとか」
指示注文

新宿区立図書館資料室紀要4の『神楽坂界隈の変遷』(昭和45年)で「古老談話・あれこれ」を書き、『古い番頭氏が語る神楽坂の相馬屋』について

原稿用紙もその時この断ちそこないの紙を使ったのがもとで大当りをとった事は確かですが、一説には当時横寺のお住いの尾崎紅葉先生も入れ智恵があったんだといいますが、私はそいつは覚えていません。ただよく店へ来られて「勝どんちょっと来てくれ、こんな年賀状を作りたいんが引受けてくれよ」なんてご註文がありますと、私がすぐお納戸町の石版屋へとんで行っては刷らせたことはまだよく覚えています。
恵比寿亭

安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では

ゑびす亭―入口に下足番が頑張つてゐるあたり、昔風の牛鳥料理です。

雑誌「まちの想い出をたどって」第3集の「肴町よもやま話③」では

山下さん 次は恵比寿亭で間口が三間ぐらいありましたね。
馬場さん これは二階が全部座敷があってね。恵比寿亭ってのは、いまの「三竹屋」さんのところ?
相川さん そうです。裏玄関が私のうちのところまできていたんです。
馬場さん その恵比寿亭さんってのは何年ごろできたんですか?
相川さん 関東大震災の明くる年にできた。その普請中に関東大震災がグラグラつときで、もろに横丁の方へ倒れた。

現在は「手打ちそば 山せみ」です。

山せみ

昔は恵比寿亭。今は山せみ

柳家金語楼 やなぎや きんごろう。生まれは1901(明治34)年2月28日、死亡は1972(昭和47)年10月22日。喜劇俳優、落語家、落語作家・脚本家(筆名・有崎勉)、発明家、陶芸家です。
大久保孝氏は『ここは牛込、神楽坂』第3号の「懐かしの神楽坂」で『その路地の奥に』を書き、

神楽坂演芸場
 本多横丁の手前、盛文堂という本屋と宮坂金物店の間の道を入るとすぐに「神楽坂演芸場」があった。ここは芸術協会の砦であったから、金語楼、柳橋、柳好(先代)、金馬、小文治、桃太郎などが出ており、講談では一竜斎貞山、大島伯鶴、神田伯竜、小金井芦州など、その他色ものでは、新内の富士松宮古太夫など。
 金語楼はもっぱら兵隊もの。
 暮は客が入らないので、木戸銭を十銭にしたが、あまり入らない。でも金語楼が怪しげな日本舞踊をやったり、柳橋が座ぶとんをひっくりかえして、紙をめくって次の出演者を知らせたり、お茶をだしたりするのがおかしかった。
金プロ

「金星プロダクション」が正しいと思います。略して「金プロ」かな。『神楽坂まちの手帖』(けやき舎)第5号の「花街・神楽坂の中心だった料亭『松ケ枝』」で水野正雄氏は

神楽坂はん子さんの隣りが金語楼のお妾さんの家で、今の読売新聞販売所の所です。金語楼の息子、山下敬二郎はあそこで生まれて、いっつも路地でくるくる回って遊んでいたの。金語楼の弟で昔々亭(せきせきてい)桃太郎(ももたろう)というのが横寺に住んでましたが。金語楼も桃太郎も家のお客でしたが、勘定ぱらいが悪くてね。

現在の読売新聞販売所は上の地図では赤い変形六角で囲んだ場所です。昔は「(料)山下」と書いてありました。おそらく金星プロダクションもこの場所か近傍ではないのでしょうか。なお、金語楼の本名は山下敬太郎です。

読売新聞

この辺りに金プロ。現在は読売新聞販売所

しかし、2016年1月、読売新聞販売所はなくなっていました。
旧読売販売所

文学と神楽坂