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山の手と下町の同居-軽子坂と揚場町

文学と神楽坂

 揚場町って、どんな町なんでしょうか。そこで、津久戸小学校PTA広報委員会の「つくどがみてきた、まちのふうけい」(新宿区立津久戸小学校、2015年)をまず広げてみました。これはPTA制作の簡単にわかる小冊子で、揚場町もこの学区なのです。「まちの風景」を開き、「津久戸町」はこの学校があるところ、揚場町はその隣町です。次は「牛込見附・飯田橋」。あれっ、でない。さらに次を見ましょう。「新小川町」「東五軒町、西五軒町」「神楽坂」「赤城元町・赤城下町」「白銀町」「矢来町・横寺町」「袋町」「若宮町・岩戸町」「市谷船河原町」、これで終わり。揚場町はどこでもない。なぜ、でないの?
 2017年、ウィキペディアで揚場町の世帯数と人口は54世帯と105人。こんな小ささだったんだ。ちなみに、津久戸町のほうが小さくて98人。揚場町にはマンションがあるから、津久戸町に人口的には勝っている。しかし、揚場町には本当に大きな地域で、沢山の人がいるはずなのに、どうして少ないの? 標高が低い揚場町は倉庫と職場だけで、標高が高い地域では第一流の豪邸だけ、どちらも人口密度は低い。
 つまり、揚場町の中に「山の手と下町」が同居していると、地元の方。以下は地元の方の説明です。

 神楽坂は、よく「山の手の下町」と言われます。かつては城西地区で唯一の花街だったし、台地の上の住宅街に隣接して下町の賑やかさがあるからでしょう。それとは別の意味で山の手と下町の同居を感じさせるのが、神楽坂通りの裏手の軽子坂と揚場町です。
 昭和50年ごろまで、牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした。地名で言うと西側は神楽坂一丁目と揚場町、東側は神楽河岸です。名画の佳作座の前を過ぎると人の往来がぐっと減り、あとは、いま「飯田橋升本ビル」になっている升本酒店の本店とか、反対側の材木商とか、自動車の整備工場とか、役所の管理用の建物とか。そのほか普通の人にはなじみがない建材や産業材の会社兼倉庫みたいなものが立ち並んでいました。そういえば一時期、大相撲の佐渡ケ嶽部屋が古い建物に入居していたこともありました。都心の大通りなのにオフィス街でも商店街でもなく、倉庫街みたいな感じでした。
 神楽坂通りでは昭和40年代から、4-5階建てのビルがドンドンできていたんですが、外堀通り沿いは平屋か2階建てばかり。だから「メトロ映画」とか「軽い心」が飯田橋駅からよく見えたと言います。神楽小路の出口のギンレイホール大きな看板がついたのも、前にある建物が低かったからです。
 揚場町をちょっと入ったところの升本さんの倉庫は広場みたいになっていて、近所の子どもの遊び場でした。その先の路地の奥には生花市場がありました。割と早くに他の市場に統合されたのですが、もし今も残っていたら「市場横丁」なんて呼ばれたかも知れません。こういう場所でしたから、江戸時代に荷揚げ場があって、人夫が荷を担いでいたという歴史が納得できました。

城西地区 江戸城、現在の皇居を中心にして、西側の方角にある地域。6区があり、新宿区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、練馬区。
花街 遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。遊郭。花柳街。いろまち。はなまち。
軽子坂と揚場町 下図参照。

1912年、地籍台帳・地籍地図

牛込見附の交差点 現在は「神楽坂下」交差点
神楽河岸 下図参照。新宿区の町名で、丁目の設定がない単独町名。飯田橋駅の西側に位置する小さな町域があり、駅ビル「飯田橋セントラルプラザ」の建設のため、神楽河岸の形やその区境は変更している。

昭和58年「住宅地図」、区境などを変更

升本酒店の本店 酒問屋の升本総本店です。図の左側の「本店」は升本総本店のことです。

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

反対側の材木商 「大郷材木店」はラムラ建設で津久戸町に移転しました。「材木横丁」と呼んでいる場所です。

大郷材木店。https://blog.goo.ne.jp/kagurazakaisan/e/873ba776487429d0e755425fc61ee9ce

自動車の整備工場 神楽河岸の大郷材木店の北(右隣)にあって、1980年代には「ボルボ」という喫茶店を併設していました。残念ながら1965年の地図には載っていません。
役所の管理用の建物 地図を参照

1965年「住宅地図」

佐渡ケ嶽部屋 おそらく部屋の建て替え中に、佳作座の先の「三和計器」の跡に仮住まいしていたようです。「三和計器」は、1985年9月、飯田橋駅前地区再開発で、千葉県船橋市に工場を移転し、「三和計器」のあとには、1988年に「神楽坂1丁目ビル」が完成しました。その間に佐渡ケ嶽部屋ができました。部屋は現在、千葉県松戸市で、それ以前は墨田区太平で稽古していました。
生花市場 飯田生花市場です。花市場は建物の隣の何もないところが本来の場所で、そこに切花の入った大きな箱を並べて取引します。

 そんな倉庫街が、軽子坂を上りはじめると一変します。坂の左側に佐久間さんのお屋敷。右には升本さんの広大な本宅。坂の上の、いまノービィビルが建っているところには石造りの立派な洋館がありました。ここが誰の持ち物か忘れられていて、あまりに生活感がないので、失礼ながら「お化け屋敷」と呼ばれていました。その周辺も50坪、100坪といった庭付き一戸建てばかりで、今ほど土地が高くなかったにせよ、庶民には高嶺の花でした。
 少し大げさかも知れませんが、現場労働の「下町」と名声・財力の「山の手」が鮮やかに隣接していた。それが軽子坂であり、揚場町だと思うのです。今は再開発が進みましたが、それでも揚場町の「山の手」部分のお屋敷町の面影が、わずかに残っています。

升本さんの広大な本宅 下図を参照。

軽子坂。1963年(昭和38年)「住宅地図」

石造りの立派な洋館 これは鈴木氏の邸宅だといいます。安居判事の邸宅とも。「住宅地図」では1970年、更地になり、1973年、駐車場になっています。「神楽坂まちの手帖」12号の「神楽坂30年代地図」では

 津久戸小学校から仲通りに向かう左側の「セントラルコーポラス」。初期の分譲住宅で、中庭と半地下の広い駐車場のあるぜいたくなつくりは、マンション(豪邸)という呼ぶにふさわしい。当時、ここに住むこと自体にステータスがありました。もともとは石黒忠悳石黒忠篤という名士の豪邸だったようです。
 神楽坂に縁の深い政治家に田中角栄がいます。その生涯の盟友であった二階堂進は、セントラルコーポラスにずっと住んでいました。入り口にポリスボックスがあり、警備の巡査が常駐していました。二階堂さんは自宅のほかにマスコミ用の部屋を借りていたそうで、政治部の記者が常時、出入りしていたと聞きます。そうした記者が神楽小路の「みちくさ横丁」あたりでヒマつぶしをしていたので、こんな話が地元に伝わるのです。
 セントラルコーポラスの並びには警察の官舎があるのですが、ここには署長クラスでないと住めないのだとウワサで聞いています。やはり高級住宅の名残りなんでしょう。
 揚場町の「下町」部分、外堀通り沿いは、すっかりビルが建ち並びました。ただ神楽坂の入り口に近い一丁目にはパチンコ「オアシス」はじめ、低層の建物が残っています。そこも再開発の計画が動き出したと聞きます。いずれ高い建物が建てば、裏通りになる神楽小路みちくさ横丁も大きく姿を変えるでしょう。

仲通り 正確には神楽坂仲通り。

1984年「住宅地図」

セントラルコーポラス マンション。築年月は1962年10月。地上6階。面積帯は80㎡~109㎡台。
石黒忠悳ただのり 子爵・医学博士・陸軍軍医総監。西洋医学を修め、大学東校(のちの東大医学部)の教師。その後、陸軍本病院長、東京大学医学部綜理心得、軍医総監、貴族院議員。生年は弘化2年。没年は昭和16年。享年は97歳。シベリアを単騎横断した福島安正氏が陸軍軍医寮の空家を無料で借りられるよう世話をしたことがあるという。
石黒忠篤 忠悳の長男。農林官僚、政治家。東京帝大卒。15年農相。農業団体の要職を歴任。戦後、農地改革を推進。「農政の神様」といわれた。生年は明治17年。没年は昭和35年。享年は76歳。
名士の豪邸 最初の地図で「石黒邸」

二階堂進

二階堂進 昭和21年、衆議院自民党議員。田中角栄の腹心。昭和47年、第1次田中内閣で官房長官。のち党の副総裁などを歴任。昭和51年のロッキード事件では灰色高官。生年は明治42年10月16日。没年は平成12年2月3日。享年は90歳。
警察の官舎 警視庁神楽坂荘。築年月は1978年2月。4階建。

道路通称名

文学と神楽坂

 都や区は道路通称名として

(東京都)道路利用者に分かりやすく親しみやすい名称
(新宿区)「地域で古くから使われている名称」や「生活の利便性向上に寄与する名称」

を設定しています。

 神楽坂と関係する都道(道路通称名)は早稲田通り(千代田区九段北2丁目←→杉並区上井草4丁目)、大久保通り、外堀通りでしょう。

都道(https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/content/000006191.pdf)

 区道では神楽坂通り、本多横丁、神楽坂仲通り、見番横丁、牛込中央通りがあげられます。この「神楽坂通り」は1丁目から5丁目までで、神楽坂6丁目の通りは誰がなんと言っても新宿区の真性の「神楽坂通り」ではありません。神楽坂1丁目から5丁目までは幅は12mのままですが、神楽坂6丁目は都道としていつか20mに広がります。

区道の道路通称名

区道の道路通称名

 さて、2つ、問題があります。1つは、早稲田通りで、神楽坂上交差点から神楽坂下交差点までの部分までです。西の方から神楽坂上交差点まで来ると、都道はここで終わり、区道の上から神楽坂下交差点に行き、さらに千代田区の区道に変わり、麹町警察署の飯田橋駅前交番を通り、九段中等学校前から田安門まで行く道です。田安門になって初めて都道になります。はい、現在もこの通りが早稲田通りです。おそらく、ここは昔は都道だったのです。いつ区道になったのか、不明です。

 また、早稲田通りの名前もなくなる理由はなく、神楽坂坂上から坂下までは正しく神楽坂通りと、昔からの早稲田通りの2つがあるのでしょう。

 2つ目の問題は、神楽小路、かくれんぼ横丁、毘沙門横丁、藁店、見返し横丁などの道路群です。これは新宿区の道路通称名にはありません。地元の方の話では、たとえば「見返し横丁」ではなく、「鳥静さんを入ったところ」などと使うほうがいいといいます。まあ、その通り。しかし、観光資源としては重要だといいます。私にとっては「鳥静さんを入ったところ」よりは「見返し横丁」のほうが簡単です。「鳥静とはなに」から話さないといけないし。しかし「見返し」なのか「見返り」なのか、どちらかに当たるのか、良く考えないとわかりません。もともと、あくまでも洒落や愛称のために使ったものだし。しかし、毘沙門横丁や藁店などの戦前から残した言葉は道路通称名として残るべきです。

 なお、地図を見ると、道路通称名がとりわけ多い部分があります。落合地区です。本当に多い。観光資源として重要ではないはずなのに。

区道道路通称名

 これは1925年から1936年の間、耕地整理を行い、耕地は碁盤目に整備したのです。2009年(平成21年)、ある神楽坂の人の話では、地元の町会が組織的に区役所に申請したため、道路通称名として認定されたといいます。


神楽小路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 平成10(1998)年『ここは牛込、神楽坂』第13号の特集「神楽坂を歩く」では…

阿久津 スタートして、まず「神楽小路」に向かいましたね。
井上  これは神楽坂としては少し異質じゃないですか。粋というより、戦後のエネルギーを感じるというか。
林   あそこは昔からあまり変わっていない。

 はいろいろな説明。を叩くと地図は奥に進み、図の上で手のアイコンは360度動きます。

平成15年「神楽坂まちの手帖」第2号「神楽小路に今宵も集う」56頁から

 新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」の「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)によれば、震災前の当時、大正11(1922)年頃は「紀ノ善横丁」と呼んだそうです。

 おそらく戦後になってから「神楽小路」と名前が変わります。昭和30年代にはもう神楽小路と呼んだようです。最初は頭上のアーチ看板でしたが、それが標石に変わったのは平成18年です。

 平成18(2006)年、「神楽坂まちの手帖」第13号「独自に生み出した”老舗”の味」では

 2006年3月末、「神楽小路」の名を刻んだ石柱が完成した。「紀の膳」さんの脇の小路に一歩足を踏み入れる時、丸みを帯びたその石柱を無意識に撫でていたとしても不思議はない。つるんと気持ちの良い触感だ。
「さっきね、石柱にもたれて立ってる人がいたんですよ」。そんなことを、殊更嬉しそうに言うのが、ラーメン屋「黒兵衛」店主であり、神楽小路親交会の会長でもある大野雄一さん(50歳)だ。彼の店は、その神楽小路を入ってすぐのところにある。
 もともと頭上にあった神楽小路の名を示す看板が古びて、いよいよ危険になってきた去年、それに変わるものを作ろうと中心となって奔走してきた。(神楽小路)の字体は、平野甲賀さんにお願いしたというこだわりようだ。

平野甲賀 ひらのこうが。ブックデザイナー。1964年から1992年まで晶文社の本の装丁を一手に担ってきた。生年は1938年。

 西村和夫氏の「雑学神楽坂」第7章「神楽坂を上がる」(角川学芸出版、平成22年)では

 紀の善の角を入ると神楽小路である。軽子坂に抜けるこの道は以前「紀の善横町」と呼ばれていたが、いつしか大衆的な飲み屋、中華料理、飲食店が雑然と並び、夜は人通りが多くなり神楽小路と名を変えた。紀の善前に「神楽小路」の石碑が建っている。

 ここに入ってから、「みちくさ横丁」がでてきます。また「東京ワンタン本舗」の看板はギンレイホールの屋上にあります。さらに2018年には新しく石畳と黒塀の横丁もできました。

2018年3月19日→2019年8月16日


神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 明治時代、東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…

神樂坂町二丁目 享保中、士地官収くわんしうして、よけとなし、延享えんきやう二年放生寺ほうしやうじ借地しやくちとし、文政五年田町四丁目代地だいちとなる。明治二年神樂坂のとりて牛込神樂かぐらちやう改稱し、明治四年六月附近ふきん士地しち開墾地かいこんちを合し、南隣に一丁目をつるを以て其の二丁目となす。坂に神樂かぐらざかあるを以て里俗此邊このへんすべて神樂坂と稱す。

享保 1716~36年
士地 武士の土地ではないでしょうか?
官収 官庁がとりあげること。没収。
火除地 江戸幕府が明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地。
延享 1744~48年
放生寺 東京都新宿区西早稲田にある高田八幡宮の別当寺。別当寺とは江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺
文政 1818~31年
田町四丁目 現在の新宿区市谷本村町1丁目。
代地 江戸幕府が江戸市中において強制的に収用した土地の代替地として市中に与えた土地のこと。
改稱 名称や称号を改めること。改名。
里俗 りぞく。地方の風俗。土地のならわし

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では

神楽坂2丁目
 神楽坂一丁目の西側、神楽坂の両側に広がる地域で、江戸時代には旗本や御家人の屋敷が多くを占め、町地は市谷いちがや田町たまち四丁目代地があった。
市谷田町四丁目代地 もともと市谷田町四丁目内にあったが、文政五年二八二二)二月八日に町内から出火した火災で焼失した場所が尾張徳川家の火除地となったため、同年六月九日、神楽坂南側にある穴八幡放生寺拝借地旅所跡を下され、そのときからこの町名となった(町方書上)。里俗は神楽坂。
 明治二年(一八六九)五月に牛込神楽町(町名唱替帳・明治二年町鑑)、同四年六月周辺の土地を合併して神楽町二丁目と改称(市史稿市街篇五三)。昭和二六年五月一日から現在の神楽坂二丁目となる(東京都告示第三四七号)

 ここで神楽坂通りを横切る右側と左側がそれぞれ別の横町につながっています。

神楽坂2丁目

神楽坂2丁目

 まず明治20年の地図2丁目。この地図では鏡花仮宅と出ていますが、現在はなくなり、「泉鏡花・北原白秋旧居跡」の標柱が立っています。

 右側は「神楽小路(こうじ)」、昔は「紀ノ善横丁」といいました。場所はここ

 神楽小路

 左側は「鏡花横丁」です。場所はここ。鏡花横丁は牛込倶楽部の平成10年夏号『ここは牛込、神楽坂』で提案した地名です。小栗横丁

 このあたりは泉鏡花の旧家があったということで『鏡花通り』とつけるといいんじゃないかと言ったことがあるんですよ。でも、文献では「小栗横丁」になっているらしい。

 志満金と田口屋生花店に挟まれた横丁を鏡花横丁と呼んでいるようです。鏡花横丁はまっすく曲がらずにいって理科大に行く。曲がるのは小栗横丁です。なお、小栗横丁は以前、小栗利右衛門屋敷があったためとされています(町方書上)。詳しくは小栗横町でアグネスホテルはここから行くこともできます。

ここは牛込、神楽坂』「語らい広場」で、ある読者は「大通りを入ったところが横丁で、横丁を入ったその奥は路地」だといっていました。路地の幅は3尺(90cm)。神楽坂ではおおむね正しいのでしょうか。

 左側には「志満金しまきん」と「オザキヤ靴店」が見えます。

 さらに行くと「ポルタ神楽坂」にやってきます。 Portaはラテン語で城門のこと。2011年にできた新しい9階の建物です。東京理科大学の新施設ですが、1、2階にはたくさんレストランが入っています。たとえば二丁目食堂トレド千年こうじや梅花亭です。あっという間もなく消えていった店も沢山あります。また、昔ここにカフェーユレカ(あるいはユリカ)があり、詩人がやってきたりしました。ポルタ神楽坂

Porta神楽坂(写真)ポルタ

赤はポルタ神楽坂に

 ではまた神楽坂通りの上を向いて歩いてみましょう。陶柿園神楽坂写真館さわや肉のますだや太陽堂などがでてきます。

 ここで神楽坂について、『神楽坂おとなの散歩マップ 』で洋品アカイ・赤井義松はこう書いています。

よく注意して歩くと、「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる。あれは急傾斜を取るために、あそこで一段、ちょっとつけたわけです。

 さらに上に行くと、神楽坂の2丁目と3丁目の境にやってきます。3丁目の右側には1階はサークルK、2階はロイヤルホストが見えます。昔は牛込會館でした。

 その下には牛込神楽坂の図もあります。
2丁目と3丁目

 このあたりが一番急な坂になり、最大勾配は12%、角度は4.5度です。(『ここは牛込、神楽坂』14号42頁)

 ここから上を向いて右側は神楽坂仲通りになり、左側は下に向き小栗横丁に入り、上は神楽坂3丁目に行きます。ほかに神楽坂1丁目神楽坂4丁目神楽坂5丁目神楽坂6丁目もあります。

神楽坂の通りと坂に戻る

神楽小路からの石畳横道

文学と神楽坂

 2018年にできたのがこの神楽小路から横に入っていく道の石畳。店舗は2018年11月9日にできました。


 神楽坂ビストロ&カフェ フロマティックといい、ラリアンスグループがつくっています。パンとワインとラクレットチーズが得意です。

 昔はここには石畳はなく、アスファルトでした(下図)。

以前の神楽小路からの横道。Googleから。

 ここは神楽坂1丁目ではなく、2丁目に当たります。石畳は私道です。

 以前はまったく変哲もない道でした。それが変わります。少し変わったときにGoogleでは写真を撮っています(360度のGoogleの写真。右図はその一部)。左側には薄朱色の壁がありますが、石畳はまだありません。昔の店舗は「神楽小町」でした。

 現在(2018年11月)は、こんな道と右側に新店舗ができています。

 また、突き当たりから入口にむけて撮ると、反対側は立派な黒塀に変わっています。


みちくさ横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 平成10(1998)年『ここは牛込、神楽坂』第13号の特集「神楽坂を歩く」では…

みちくさ横丁

坂崎 神楽小路に出る前に、「大仙」の入っている建物の階段を上って神楽小路に出る、あれはおもしろいですね。
井上 あれは道というか、ひとの建物の中を通り抜けたわけですよ。本来は映画館の通りを通るべきでしょうね。
坂崎 ぼくは、夜、あの建物の中を通って神楽小路に出ることがありますよ。東南アジアの街を歩いている気分になる。新宿のゴールデン街みたいな感じもある。
林  そのミニ版みたいでね。昔は、いまのギンレイホールの隣のビルのあるあたりは湿地帯で、きれいな湖水の池があった。そして軽子坂をはさんだ向かいにある今のルコビルは升本さんの倉庫だった。その前には土俵があり、相撲大会などがあったんです。

神楽小路から見たみちくさ横丁

「大仙」とは外堀通りの2階でやっていた「玄来がゆ大仙」のことです(神楽坂青年会「神楽坂まっぷ」1985年)。「大仙」についてはコメント欄にも。

 外堀通りのビルから神楽小路に出る道路について、これはまだありますが、鍵かかかっていて通れません(下図の左)。また、ワインバーのル・トランブルー(Le Train Bleu)(2018年4月からは神楽坂唐揚げ製造所)は1階からでも2階からでも通れるようです(下図の左右)。「神楽小路商店街」の説明で、「神楽小路の中にさらに『みちくさ横丁』が分岐して、そこが袋小路になっているところも、とてもおもしろいのです」と書いてあります。

左は2階のみちくさ横丁から見たもの、右は1階の外堀通りから見たもの

 しかし、ここで別のコメントがありました。下のコメントのほうが正しいと思います。下を読んでください。

「みちくさ横丁」という名前も、平成7年(1995年)、ゼンリンの住宅地図にはなく(下図の左)、平成8年(1996年)にはありました。まあ、大家さんが決めて、看板をかければいいだけのことですから、これは簡単。

 平成15(2003)年には「神楽坂まちの手帖」第2号の小野塚邦子氏の「神楽小路に今宵も集う」で……

軽子坂へ行く手前、右手にみちくさ横丁がある。両手を伸ばすと本当に届きそうな(幅の)この路には、昔ながらの面影を今に残した店が所狭しと立ち並ぶ。 3坪程の「土筆」や「みっちゃん」等、新聞や雑誌の記者で賑わうお店が多い。

 なお、最初の「升本さんの倉庫」だった建物というのは下図で。軽子坂を超えた北側にあります。

ルコビル

升本さんの倉庫。1984年

「ルコビル」については、コメントが複数出てきました。ルコビルは飯田橋升本ビルではなく、軽子坂MNビルを略していうようです。

ルコビル

ルコビル。2010年

Ruko