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白昼見|稲垣足穂

文学と神楽坂

 稲垣足穂氏の『白昼見』の1部です。昭和23年に書かれた自伝的な作品で、前半は「新潮」に、後半は「思潮」に書かれています。ここで扱う時間は昭和12年5月ごろ。氏は牛込区横寺町37番地の旺山荘アパートに移りました。

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)

 五月上旬になって、山上二郎の下宿から電車道をへだてた高台に、やっと自分の居場所を定めることが出来ました。衣巻の住いで書いた短篇が売れたことがありましたが、百円など何の役に立つかとわたしは思っていたので、二日間でつかいはたしてしまいました。そこで、改めて、旧知の江戸川乱歩に金三十円を無心し、ほかに玉虫色の背広と夜具の上下の寄附を受けました。こんなことで落付けるものならば、先の百円があればなんだって出来る、そういうことが判りましたが、かと云って、この次の百円は分けて使おうなどとは、わたしは勿論考えませんでした。
 わたしがこの横寺町の一隅に住いをきめたのは、飯塚という酒造家が経営している縄のれんがあったことに依ります。旧臘の或る晩初めて山上に案内されて、其処に、長大なけやきの一枚板の卓に向って、濁り酒というものを飲んでいる人々と、背後の壁面にずらりと掛け並べられた品目の廉価に、わたしは驚きました。けれども勿論、それらのたべものや鍋類に箸をつける気持は起りませんでした。ところがそのうちに、何しろこの店では十銭あれば泡盛ブランかが飲めます。便利に思って通っているうちに、五銭のゴッタ煮やにしんの煮付がなかなか美味おいしいのだ、ということが判ってきました。同時に、印半纏をまとうた人々のあいだには、紳士と称する曖昧あいまい模糊もこたる存在のあずかり知らぬ渋味と真実があるということが、――それは既に鯛太郎及び鯖吉を通して感付いていましたが――その理解がいっそう打ち拡げられることになりました。こうして、宮比町の友人がくれた青い背広はたちまちのうちに質にはいってしまいました。次に靴がなくなりました。神楽坂であがなった格子こうしじまハンティングも、ワイシャツも、蝙蝠こうもりがさも、相続いて姿を消すに到りました。同じ酒造家の金融部でしたから、インキや便箋を質草にしても一杯か二杯のブラン代に立替えられ、わたしはやがて夜具のほか身辺無一物になってしまいました。考えてみると然し、馬込の旧友の家ではわたしは着の身着のままで、あの朝たもとには二円あったきりなのです。「こんなことぐらいは何か」と思っていたものの、さて困ったのは、こちらへ移った当座こそ何彼と口実を見つけて、三円なり五円なり、時には二十円と集めることのできた金も、既に引き出すたねが尽きてきたことでした。洋服の寄進者が、こんなことではいけないと云って、食堂の回数券を買ってくれましたが、この神楽坂食堂が矢張り飯塚酒店の直営でしたから、食券で飲ませてくれるようにとの交渉が、縄のれんのねえさんとのあいだに取交されたのでした。これでわたしへの助力者はあきれました。こうなると、再び周辺が急に余所余所しくなり出したことを、わたしは感付かぬわけにはまいりません。――「君と僕とはどうも空間の性質が異なるらしい。ぼくの住む世では遺憾ながら、君の常数を発見することは不可能だ」このたび上京して数回逢った同窓の友が、彼は官立美術学校の解剖美学教授でしたが、十円だけ送ってくれと、二度目に云ってやった時に、いまのような返事を寄越しました。――「小生は今後きみをもって過ぎ去った人間と見なすであろう、ではさようなら」こんな速達の葉書をくれたのは、芥川賞の受領者石川淳でした。衣巻からは其後いっこうに音沙汰がありません。慈眼山室生犀星もついに云い出しました。「苦労が遅過ぎた、あれはあれで滅びる人間じゃ」
 八月に入ると、三日間なにも口へほうり込まない日を迎えました。九月になると、湯屋の計り台に乗ってみて、十五キログラム体重が減っていることが判りました。

電車道 現在の大久保通り
高台 当時の稲垣氏の住所は牛込区(現在は新宿区)横寺町37番地でした。
衣巻 衣巻省三。きぬまきせいぞう。詩人、小説家。同級生の稲垣足穂と一緒に佐藤春夫の門下生に。昭和10年、小説「けしかけられた男」で第1回芥川賞候補。生年は明治33年2月25日。没年は昭和53年8月14日。享年は満78歳。
無心する 遠慮せず物品や金銭をねだること。
縄のれん 縄を幾筋も結び垂らして作ったのれん。店先にこののれんを下げたところから、居酒屋や一膳飯屋
旧臘 きゅうろう。去年の12月。新年になってから用いる。臘は陰暦12月。
濁り酒 にごりざけ。発酵させただけで、糟かすを漉こしていない白くにごった酒。どぶろく。
泡盛 あわもり。沖縄産の焼酎。
ブラン デンキブラン。明治15年、浅草の酒店主が開発したブランデー風カクテル。詳しくはhttp://www.kamiya-bar.com/denkibran.html
印半纏 しるしばんてん。家号などを染め出した半纏。江戸後期から職人などが着用。半纏は防寒用や仕事用の和服の上着。
鯛太郎 不明。鯛太郎は鯛の料理の総称でしょうか。鯖吉も同じです。さらにこの1文も意味不明です。「飲み屋にいる庶民にとって紳士は独特の意味がある」でしょうか。でもこれでもやっぱりわからない。
宮比町 戦前、宮比町は上宮比町と下宮比町の2つに分かれていました。戦後、上宮比町だけが名前が変わり「神楽坂4丁目」です。

ハンチング

ハンティング 狩り。狩猟。青空文庫によれば「ハンチング(hunting cap)」と同じ用法もあり、これば鳥打ち帽子のこと。
馬込の旧友の家 大森馬込に住んでいた衣巻省三氏の家でした。
着の身着の儘 きのみきのまま。いま着ている着物以外は何も持っていないこと。
たもと 和服のそでの下の袋状の所。
飯塚酒店の直営 神楽坂大衆食堂は東京市営の食堂でした。酒店の直営ではないと思います。
石川淳 小説家。小説「普賢ふげん」で第4回芥川賞。無頼ぶらい派や戯作派で、理想の喪失と絶望からの再生を描く。生年は明治32年3月7日、没年は昭和62年12月29日。享年は満88歳。
慈眼山 室生犀星氏の住所は「大森区(現大田区)馬込町久保763番地」ですが、その隣に慈眼山萬福寺がありました。

飯塚酒場|横寺町

文学と神楽坂

飯塚酒場

横寺町2

新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』から

飯塚酒場の官許にごり

 三叉路を越えての場所、内野医院の手前、龍門寺と神楽坂中央整骨院の反対側、現在は家1軒と4台の駐車場になっていますが、この横寺町7番目が飯塚酒場でした。有名な居酒屋で自家製のどぶろく「官許どぶろく」「官許にごり」が有名で、文士もこれを目当てに並んでいました。

 井伏鱒二は『人と人影』(1972年)で

この店は江戸時代から続いて来た店で、土間の入口に「官許どぶろく」と書いた古めかしい看板を掛けていた。土間のなかは古風なままに簡素なつくりだが、幕末のころ札束に黴をわかしたという噂が立っていたほどの店である。町奉行から呼出しがあって「牛込には官札に黴が生えるほど金があるのか」と皮肉を云われたそうだ。

 中屋金一郎編著「東京のたべものうまいもの」(北辰堂, 1958年)では

「飯塚酒店」。弘化四年(1847)創業。にごり酒で有名。戦中統制以来、戦後も作っていないが、お客相手のなわのれんの方は、おばあさんが帳場を、八十すぎたおじいさんが、酒をだしたり、料理をこしらえていた。おじいさんの丹精する、いかの白づくりと、なすのからし漬けはそろばんずくではできない手の込んだすばらしい味だったが、近ごろ休んでいる。さびしいことである。早稲田派の作家・詩人がよくきていた。かつて、稲垣足穂氏のあらわれなかった晩はなく、また、明大の校歌を作った、そしてロマンチックな社会主義詩人の児玉花外が晩年困っていたとき、ここのおばあさんが家作の長屋に住まわせ、三度の食事を運んで面倒を見ていた。養育院へ入ったのちも、明大の学生とともに最後まで世話したことが伝えられている。

 衣巻省三氏の「馬込牛込」(「文藝世紀」、昭和15年、文藝世紀社。再録は「タルホスペシャル」別冊幻想文学➂、1987年、幻想文学会出版局)では

 横寺町の通りに「飯塚」と呼ばれる牛込名代の飲屋があつた。その裏手の同名の質屋と兄弟分で、自分の家で種々の酒を醸造し、安く、うまく飲ませた。その道のものは誰知らぬものもない老舗だつた。十錢もあればブランデーが一杯五銭もあればおがとれた。此處では細かい神經など用をなさない。他の、新興の、文化的な薄手のものとちがひ、古風に、どつしり落着いてゐた。時分どきには、さしもの廣いこの店も唯嗷々、此の店の「ごつた」のお皿盛りのやうに一杯だつた。家庭と云ふものを知らぬは毎日ここに来た。この店については――誰か餘り見かけない客が便所へ行かうと立上つたとしよう。お爛場にゐるでつぷり血色のいい梅ちゃんが、「ハイお便所!」と喚くやうに云ふ。すると奥で仕事してゐた若い衆が、「こちらヘ!」と誘導してくれる。斷らうものなら道に迷つて了ふ。廣い、薄暗い酒造場をくねくね廻つて、大酒樽の乾された裏庭へ出てから、その片隅に隠れてゐる便所に案内してくれるのだ。丁度胸のへんに鐵棒が一本横に渡してあつた。成程上手に出来てゐるわいと、醉つたお客は思はず胸を當てた。こんな仕掛けを見ただけで大方客種も知れる。お天気の好い晝間は、鷄が餌を拾ひ、雄鷄が千鳥足を突つきに来た。皆んなは怖い鷄だと云つてゐた。ダットサンや乳母車もおかれ、子守娘がこの家の美しい末娘を遊ばせてゐた。牛込の飲屋の裏に、こんな長閑な風景もあるのかと、感心しながら戻ると又道を失ふ。まごまごしてゐると。さつきの若い衆が「こちらヘ!」と導いてくれた。この便所行は。退窟した酒間の気持らしにもなり、運動にもなつた。もう、「 ハイお便所!」と云はれなくなつたら、常連の一人となつた證證である。常迪は此の飲屋を愛する者ばかりの寄り合ひだつた。身なりこそ凡て卑しいと云へるが、たちの惡い客は見當らなかつた。不思議に喧嘩がなかつた。主人は茶色の圓帽をかぶつて、ほんの時たま顔を見せた。帳場に坐る時は眼鏡をかけた。店の長テーブルの奥の端に席をとると、帳場越しにお座敷が見渡された。夕飯時には、お櫃を抱へた女中を侍らし、一家うち揃つての團欒だつた。大きな食卓の上になごやかな笑ひが溢れてゐた。家庭を失つた者、故鄕を去つてうらぶれた者などにとつて、たまらぬ程なつかしい一瞥だつた。それは店の方とちがひ、上品な格をそなへた一家の夕餉だつた。

 酒や飯に添えて食べるもの。おかず。副食物。
嗷々 ごうごう。口やかましい。騒々しい。声がうるさい。
 小説家の稲垣足穂氏です。
長閑 のどか。静かでのんびりして落ち着いている。
円帽 正教会で長輔祭・長司祭に与えられる円筒形の帽子。カミラフカ。日本正教会では円帽子という。
朝日坂の名前 神楽坂5丁目 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁 一水寮

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稲垣足穂の「弥勒」|鳥居秀敏

文学と神楽坂

『よこてらまち』(新宿区横寺町交友会・今昔史編集委員会、2000年)の「横寺町と近代文芸」で、鳥居秀敏氏が稲垣足穂氏の作品を取り上げています。足穂氏は戦前に横寺町にいた異質の小説家です。また、鳥居氏は横寺町の、まあ言ってみればこの時代の長老格で、『よこてらまち』の編集顧問であり、さらに鳥居一家は小説家の尾崎紅葉氏の大家でもありました。

       横寺町での足穂の生活

 足穂が横寺町へ越して来たのは昭和12年の5月で、戦災で焼け出される昭和20年4月までの8年間、37番地の東京高等数学塾に暮らしていました。岩戸町の法正寺とは背中合せで、牛込幼稚園と棟続きだったようです。足穂38才から46才のことでした。
 「横寺日記」によれば、足穂は思い出したように神楽坂の盛文堂へ出掛けて、野尻抱影の「星座巡礼」を買い求め、南蔵院と向い合せの崖の上(石段わき)から、牽牛織女白鳥カシオペアペガサスを見たり、また家の裏手でオリオン双子を見ながら用をたしたりしています。それは決して自然科学の眼ではなく、月を見れば月面から月美人の横顔を追い求めるような足穂独得の眼で、星を愛するには天文学はいらないとも言っています。プラネタリウムは幻燈仕掛けの錯覚に過ぎず、星に通ずるものを持っていない、と言いながら、毎日会館のプラネタリウムへ何度も足を運んでいたようです。
 この「横寺日記」にはほとんど星のことばかり書いており、足穂の生活ぶりを十分読み取ることが出来ませんが、眼鏡を質に入れたり出したりする話が出て来ます。借りる額は50銭か1円ですが、緊急の際には1円50銭も借りられたそうです。飯塚酒店にしろその質屋にしろ、足穂にはどこか助けてやりたくなるようなものがあったのかも知れません。足穂の半自伝的小説といわれる「弥勒」の中から、横寺町の出て来る部分を抜萃してみましょう。

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)から

黄色は東京高等数学塾だった現在の建物。

東京高等数学塾 上図で青色の建物。その左に「東京高等数学塾」と書いてあります。
法正寺 上図で右の赤い建物です。
牛込幼稚園 上図で青色の建物。建物の中央部に「牛込幼稚園」
横寺日記 昭和23年、「文潮」に「きらきら日誌」として発表。当時の住所は横寺町。星座を中心にまとめたもの。
野尻抱影 のじりほうえい。ジャーナリスト。随筆家。1906年、早稲田大学英文科卒業。主に星のロマンチシズムを語った。生年は1885年11月15日、没年は1977年10月30日。享年は満91歳。
星座巡礼 1925年『星座巡禮』(研究社)として発売。現在も『新星座巡礼』として販売中。四季の夜空をめぐる星座の数々を月を追って紹介。
南蔵院 箪笥町にある真言宗豊山派の寺院。図では下の赤丸。
牽牛 わし座のアルファ星。アルタイル。『新星座巡礼』では8月に。
織女 こと座のアルファ星。ベガ。『新星座巡礼』では8月。
白鳥 はくちょう座。アルファ星はデネブ。『新星座巡礼』では8月。
カシオペア カシオペア座。「W」形の星座。北極星を発見する方法の1つ。『新星座巡礼』では9月。
ペガサス 正しくはペガスス座。胴体部分は「ぺガススの大四辺形」。『新星座巡礼』では9月。
オリオン オリオン座。アルファ星はベテルギウス。ベータ星はリゲル。真ん中に三ツ星。『新星座巡礼』では1月。
双子 ふたご座。アルファ星カストル。ベータ星ポルックス。『新星座巡礼』では1月。
会館 『横寺日記』では丸ノ内のプラネタリウムに行ったことが書かれていますが、「毎日」ではありません。
弥勒 昭和14年から部分的に発表し、昭和21年、最終的に小山書店から『彌勒』を発行。

  このたび上京してから、牛込の片辺りの崖上の旧館に部屋を借りるまでには、約五ヵ月を要した。この樹木の多い旧旗本屋敷町の一廓は、或る日その近くの出版社からの帰途に、抜け道をしようとして通りかかったのだが、なんとなく好きになれそうであった。近辺には蜀山人の旧跡があったし、当座の住いに定めた青蔓アパートの前には、お寺の墓地を距てて、尾崎紅葉の家があった。明治末から大正初めにかけて名を謳われた新劇女優が自ら縊れた所だという樺色の芸術倶楽部も、そのままに残っていた。このならびに、年毎に紙を張り重ねて、今は大きな長方形に膨れ上がった掲け看板に、「官許せうちう」と大書した旧い酒造があって、その表側が濁り酒や焼酎を飲ませる店になっていた。この縄暖簾へ四十年間通い続けたという老詩人の話を、彼は耳にした。その人はいまは板橋の養老院へはいっていたが、少年時代の彼には懐かしい名前であった。閉じ込められている往年の情熱詩人からの便りが、殆んど数日置きに酒屋の主人並びにその愛孫宛に届けられていたが、破れ袴の書生の頃、月下の神楽坂を太いステッキを打ち振って歩いた日々を想い浮べて、詩人が最近に葉書にしたためて寄越したという歌を、彼は縄暖簾の奥の帳場で見せて貰った。「神楽坂めぐれば恋し横寺に鳴らせる下駄は男なりけり」――巴里のカルチエ・ラタンとはこんな所であろうかと、彼は思ってみるのだった。実際、この高台の一角には夢が滞っていた。そしてお湯屋も床屋も煙草屋も一種の余裕を備えていた。ちょっと断わりさえすれば、いつでもよいから、と云って快よく貸売してくれるのだった。

 その日の食べる物にも困る貧しい生活をしながら、足穂は横寺町が大変気に入っていたようです。ここに出て来る老詩人は兒玉花外でしょうか。今でいえばアルコール依存症という状態だったと思いますが、足穂は晩年まで創作をつづけ、昭和52年、数え年78才で京都で亡くなりました。

河出書房新社『新文芸読本 稲垣足穂』(1993年)

一廓 一つの囲いの中の地域。
出版社 新潮社でしょう。
蜀山人 しょくさんじん。大田おおた南畝なんぽの別号。江戸後期の狂歌師・戯作者。
青蔓 あおずる。薬用植物。ツズラフジ科の落葉つる性植物。あるいは単に緑色のつる。
アパート 上図では最左端の黒丸が「最初のアパート」でした。昭和12年、都市製図社の『火災保険特殊地図』ではここは「旺山荘」でした。
縊れた くびれた。縊れる。首をくくって自殺する。
官許せうちう 「官許かんきょ」とは「政府が特定の人や団体に特定の行為を許すこと」。「せうちう」とは「しょうちゅう、焼酎」で、日本の代表的な蒸留酒。焼酎の製造を特に許すこと。
酒造 酒をつくること。造酒。
酒造家 ここに飯塚酒場がありました。上の地図を参照。
濁り酒 発酵は行うが、かすしていないため、白くにごった酒。どぶろく。
縄暖簾 なわのれん。縄を幾筋も結び垂らしたのれん。店先に縄暖簾を下げたことから、居酒屋・一膳飯屋
老詩人 兒玉花外のこと。
板橋の養老院 東京府養育院でしょう。現在は東京都健康長寿医療センターに変わりました。
カルチエ・ラタン Quartier latin。直訳では「ラテン街」。ソルボンヌ大学を始めとする各種大学や図書館があり、学生街としても有名。
貸売 かしうり。け売りと同じ。一定期間後に代金を受け取る約束で品物を売ること。

弥勒|稲垣足穂

文学と神楽坂

 昭和15年、稲垣足穂氏の書いた「弥勒みろく」です。氏は異質の新感覚派の小説家で、昭和12年から昭和20年まで、牛込区(現新宿区)横寺町の東京高等数学塾で暮らしていました。

 結局要求は容れられ、その日の正午まえには、再び元の横寺町へ帰ることができた。青い一廓、青い焔の爆発のようにあちらこちらに噴出した樹々の他に、家のも、内科医院の建物も、用水樽も、申し合わしたようにに青ペンキが塗られていた。只江美留には、人に貰った青い背広がすでに失くなり、これはもう戻ってこないという事情があった。この時にもヒルティー紳土助勢を買って出て、青アパートの横の小路の突当りにある、古い、巨きな空箱のような建物へ話をつけてくれた。私立幼稚園だったが、反対側には「東京高等数学塾」という札が懸かっていた。二方に窓が付いている二階六畳のすぐ下が墓地で、朱塗の山門と本堂が向うにあって、木魚の音が聞えていた。朝になると、子供たちが先生お早うございますと云いながら集つてきて、裏庭でブランコが軋り出す。やがてピアノの音につれて、足踏みと合唱が始まる。階上広間の机と椅子が積上げてある所では、絶えずチョークの音がしていた。同宿の物理学校の学生や受験準備中の者が、黒板に図形を引いているのだった。幼稚園を経営している中年婦人のお父さんが塾長で、もう八十歳だということであったが、見たところは六十にもなっていないようだった。「とにかく俗人じゃないね」と最初の日にその姿を見た友人が洩らしたが、この言葉はいろいろな機会において江美留の前に立証され出した。このK先生は毎朝五時に起きると、水を満した大形バケツを両手にさげて、幾回も廊下づたいに洗面所まで運ぶ。それから教室脇の私室のテーブルに倚りかかって、見台に載せた独逸語の原書に向っているが、その足許の火鉢には年じゅう炭は認められない。夜の九時頃、この老数学者が勝手元でひとりで食事をしているのを、薬罐の水を汲みに行ったついでに見た者があった。「それが煮焚きした、つまり湯気を立てているようなものじゃないんだ」と報告者は先生のおかずについて告げた。「冷たい煮豆のような、それが何であるか判らぬような皿が前に置いてあった」

 東京高等数学塾はここにありました。

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)。東京高等数学塾は赤色で

黄色は東京高等数学塾だった現在の建物。


一廓 いっかく。ひと続きの地域。
 ひさし。家屋の開口部の上にあり、日除けや雨除け用の小型屋根。
江美留 えみる。主人公の名前
ヒルティー カール・ヒルティ(Carl Hilty)。1833年-1909年。スイスの下院議員。著名な文筆家。敬虔なキリスト教徒。著者は『幸福論』『眠られぬ夜のために』など。
ヒルティー紳士 ヒルティが大好きな男性の1読者。
助勢 手助けすること。加勢。
 いらか。屋根の頂上の部分。屋根やねがわら
山門 寺院の門。かつての寺は多く山上にあったから。
木魚 もくぎょ。経を読む時にたたく木製の仏具。禅寺で合図に打ち鳴らす魚板ぎょばんから変化したもの。
足踏み 立ち止まったまま両足で交互に地面や床の同じ所を踏むこと
見台 けんだい。書物をのせて読む台。書見台の略。
勝手元 かってもと。台所。台所のほう。
薬罐 やかん。薬缶。中に水を入れ湯を沸かす調理器具。右図を。