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ライオネル・チャモレー日記|矢来町

文学と神楽坂

 『英国人宣教師 ライオネル・チャモレー師の日記①(1888年ー1900年)』(日本聖公会文書保管委員会編集。聖公会出版。2015年)が出版されています。ちなみに、現在は「聖公会」といいますが、昔は「英国教会」「英国国教会」「イングランド国教会」などと呼んでいました。その最初の本文ページは……

ライオネル・チャモレー日記 1888 (明治21)年

1888 (明治21)年1月1日(日曜日)
 ガンジツ 正月。良く晴れた朝。7時。月が明るく輝き、富士がくっきりと聳えていた。9時、エドワード・ビカステス主教*と私は牛込*の礼拝に向った。出席者は20人ほど。主教が短い説教をした。
 街は年始回りに出てきた兵士、高官、山高帽の紳士たちで賑わっていた。どこでも子供たちが凧を揚げていた。
 我々は英語礼拝*には遅刻したが、説教には間に合った。ロイド師*が説教し、主教がローブを着けて司式した。
 日本標準時が採用されたので、今朝、時間を修正した。時計を20分遅らせた。

(注)ビカステス主教(Edward Bickersteth 1850-1897 東京地方南部伝道区主教)
   牛込(昇天教会)
   英語礼拝(英国人信徒の礼拝)
   ロイド(Arthur Lloyd 1852-1911 英宣教師)

ライオネル・チャモレー Lionel Berners Cholmondeleyです。
牛込 牛込とは昇天教会のこと

 この牛込の昇天教会はいったい どこにあったのでしょうか。現在だと簡単で、新宿区矢来町65番地(右図)です。でも、明治や大正では、どこだったのでしょうか。

 インターネットで調べると、「新刊紹介 牛込宣教120周年記念特別号『光の矢』 日本聖公会 東京教区 牛込聖公会聖バルナバ教会」という記事が見つかりました。

 1873(明治6)年、英国の宣教団体SPG(福音宣布協会)のショーとライトの二宣教師が日本の地を踏んだ。ライト師は明治8年、牛込区四谷①箪笥町22番地に仮会堂を組織し、平日は普通教育、夜は伝道活動の拠点とした。これが聖十字仮会堂で、1878(明治11)年②市ヶ谷本村町に移転して市ヶ谷会堂と呼ばれた。ライト師によって洗礼を受けた牛込区居住者が同区古川町に講義所を設けて、これが同区③水道町2番地の会堂となっていく。聖バルナバ教会の前身となる「牛込昇天教会」である。
 1878(明治11)年5月に献堂式を挙げている。翌年、市ヶ谷会堂が暴風によって倒壊し、この会衆が牛込昇天教会に合流して同教会は大いに興隆した。1897(明治30)年、昇天教会が老朽化したため、牛込④赤城坂下に新会堂を建築、6月12日に「捧堂式」を行い、同時に名称を「聖バルナバ教会」と改めた。
 1945年(昭和20)、教会は空襲による戦火をうけて消失、跡地に建てられた牧師宅で礼拝が行われた。
 52年(昭和27)、現在の新宿区⑤矢来町65番地の地に、木造平屋建ての仮聖堂が建設され、以後約40年間にわたり礼拝が捧げられた。
 1982年(昭和57)、教会の将来計画を検討する「バルナバ特別委員会」が東京教区に設置されて構想を練り、聖バルナバ教会の土地に日本聖公会センターと聖バルナバ教会を共に建設することとなった。90年(平成2)約6億円の予算で建築工事が始まって2年後の92年2月15日に日本聖公会センターの落成式が、3月1日に聖バルナバ教会の献堂式が相次いで行われた。

(広報主事・鈴木 一)

 どうも水道町2番地が牛込昇天教会の場所のようです。下図では赤い四角。

牛込区四谷箪笥町 牛込区四谷箪笥町22番地はなく、牛込区箪笥町22番地の間違いでしょう。
同区古川町 古川町なので、牛込区にはなく、小石川区小日向東古川町か、小日向西古川町なのでしょう。右図で青枠の場所。現在は文京区関口一丁目。
同区水道町2番地 右図で赤い四角。
牛込赤城坂下 聖バルナバ教会の場所はよくわからないのですが、仮に赤城下町とすると④です

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私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑩

 演劇学者で名著『歌舞伎細見』の著者である飯塚友一郎の生家で、別に精米商と質屋をも兼営していた飯塚酒場その坂の右側にあって、現在では通常の酒屋――和洋酒や清涼飲料や調味料の販売店でしかなくなっているが、戦前には官許()()()なるものを飲ませる繩のれんのさがった居酒屋であった。酒の飲めない私もいつか誰かに連れられていって卓の前に坐ったことがあるが、我こそは明日の星よとみずからにたのんだ無名の芸術家たちが、まだ生活水準の低かった労働者と肩を接して安酒の酔いに談論風発していた光景には忘れがたいものがある。
 が、こんど私がそこへ脚をはこんだのは、その横か裏かにあったはずの芸術倶楽部所在地を確認したかったからにほかならない。
 島村抱月坪内逍遥文芸協会と袂を分って我が国最初の新劇団である芸術座を創始したのは大正二年九月で、『サロメ』『人形の家』の上演など主として翻訳劇の紹介に力をつくしたが、翌三年三月帝劇で上演したトルストイの『復活』は、劇中に挿入した中山晋平作曲の『カチューシャの唄』の大流行と相俟って四百回を越える上演記録をうちたてて、演劇の通俗化を批難されるに至った。そのため抱月は研究公演の必要を感じて、四年秋に収容人員二百五十名の小劇場として横寺町十一番地に建築したのが芸術倶楽部であったが、彼は日本全国では死者十五万人に及んだスペイン風邪から肺炎におかされて、大正七年十一月五日に芸術倶楽部の一室で歿した。そして。その死後は彼の愛入で事実上芸術座の舞台の人気を一人でささえていた女優の松井須磨子主宰者となって劇団を維持していたが、八年一月有楽座で『カルメン』公演中の五日未明に、師のあとを追って芸術倶楽部の道具置場で縊死した。
 最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や寺社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので、芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やむなく飯塚酒店に入って三十代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。
 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらぴっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。

官許。かんきょ。政府が特定の人や団体に特定の行為を許すこと
にごり。にごりざけ。発酵させただけで(かす)()していない白くにごった酒。どぶろく
繩のれん。なわのれん。縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。店先に繩のれんを下げた居酒屋・一膳飯屋など
談論風発。だんろんふうはつ。はなしや議論を活発に行うこと
横寺町11番地。間違いです。9番地が正しい。芸術倶楽部で。
主宰。人々の上に立ち全体をまとめること。団体・結社などを運営すること
現場へ行ってとまどった。現在はプレートがあります。

歌舞伎細見 かぶきさいけん。1926年(大正15)に発行した歌舞伎の研究書。「世界」や題材により系統的に整理・分類し、由来や梗概(こうがい)、参考書がついています。系統的、網羅的な作品はほかに類書はなく、歌舞伎研究に重要な業績です。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月(ほうげつ)氏と女優の松井須磨子(すまこ)氏を中心に、主に研究劇を行いました。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成しました。
スペイン風邪 1918年から19年にかけて全世界的に流行したインフルエンザN1H1亜型のこと。

 このへんから早稲田、あるいは大久保通りの先にある若松町一円にかけては明治大正期にわたる文士村の観があって、その詳細はここで追いきれるものではない。が、私は芸術倶楽部の所在地と同時に教えられた尾崎紅葉住居跡だけは、なんとしても尋ねずにいられなかった。それは、私が十数年前に徳田秋声の伝記を出版する以前から果したいと考えていた夢の一つだったからでもある。いや、そう言っては私自身がすこし可哀そうである。私は十数年前にも、そしてつい近年もそのへんを歩いていながら、人様に道をたずねるのがあまり好きではないばかりに、探し当てられなかっただけのことでしかなかった。
 飯塚酒店からさらに二百メートルほど先へ行くと、やはり右側に三孝商店という酒屋がある。横丁をへだてた先隣りは青物商だが、その青物商の前に黒く塗った鉄柵をもつ路地があって、なかは私道だが、その袋路地のゆきどまりの左側が横寺町四十七番地の紅葉旧宅跡で、紅葉時代からの家主であった鳥居家の当主秀敏夫妻が現住している。まず、その家屋の前に掲示されている標識を写しておこう。

新宿区文化財
旧跡 尾崎紅葉旧居跡
明治の文豪尾崎紅葉は、ここに明治二十四年二月から、三十七歳で死去する明治三十六年十月まで住んだ。鳥居家には、今も紅葉が襖の下張りにした俳句の遺筆二枚がある。
   初冬やひげそりたてのをとこぶり 十千万
   はしたもののいはひ過ぎたる雑煮かな 十千万堂紅葉
旧居は十千万堂と呼び、二階建て。階下は八畳、六畳、三畳と離れの四畳半があり、二階は八畳と六畳の二間であった。戦災で焼失したが、庭は当時のままである。
ここで紅葉は、有名な「多情多恨」や未完の「金色夜叉」などを執筆した。
昭和五十一年九月
                 新宿区教育委員会

住居跡。紅葉氏の住居は横寺町47番地でした

早稲田
大久保通り
若松町
早稲田通りは青色、大久保通りは赤色、中央やや下の赤の場所は若松町です。
早稲田通りと大久保通り
文士村 若松町の文化人は、新宿区ゆかりの人物データを使って調べてみると、飯塚友一郎小川未明、岸田国士、国木田独歩、窪田空穂、島田青峰、高田早苗田山花袋、野口雨情、昇曙夢、三宅やす子、宮嶋資夫、矢口達、若山牧水などでした。
三孝商店
青物商
紅葉旧宅跡
この三か所を示します。さらに紅葉氏の塾生が集まった十千万堂塾も出しました。十千万堂塾は箪笥町4~7番地のどこにあるのか、わかりませんが、新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997)で飯野二郎氏が書く「神楽坂と文学」「横寺町四七番地と箪笥町五番地のこと」では5番地だといっています。
標識 現在のプレートを示します。

紅葉旧居跡

 折よくご夫妻が在宅されて、なんの連絡もせずにいきなり訪問した私は茶菓の饗応にまであずかるという、まったく予期せぬ歓待を受けた。その上、標識に記されている二句の現物や、紅葉の本名である尾崎徳太郎と印刷された通常の名刺を縦半分に切断したような細長い名刺や、尾崎家の遺族が記念に印刷して関係者に配布したらしい写真帖などもみせられたが、最大の収穫は桝の大きめな方眼紙に鳥居家当主の手で精緻にえがかれた旧居の間取り図であった。
 紅葉宅に泉鏡花小栗風葉柳川春葉の三人が玄関番として住みこんでいたことは幾つかの書物に記載されているが、私は『徳田秋声伝』を執筆したとき三人の起居した玄関の間が二畳か三畳か確認できぬままに終った。その後『日本文壇史』を書いた伊藤整が「朝日新聞」記者のインタビューに応じて私の書いた通りに語っているのを読んで責任を感じていたが、こんどようやくそれも氷解した。面積は三畳でも、そのうちの奥の一畳分は板敷きになっていたので三畳といえば三畳だが、二畳といえば二畳でもあったのである。
 標識に《当時のまま》と記されている庭も案内されたが、尾崎家の子女が育つにつれて玄関ではしだいに仕事がしづらくなっていた風葉は、鏡花が祖母と榎町で所帯を持ったあと、尾崎家の地からおりていける地つづきに二階建ての貸家が空いたのに眼をつけて、同門の春葉と秋声にそれを借りて文学修業の共同生活をしようと提案した。その勧誘をした場所が前記の万盛庵で、そのうちに他の門下生も集まって来て紅葉の家塾の観を呈したために、彼等が詩星堂と名づけていた合宿寮が文壇では十千万堂塾とよばれるに至った。文学上ではもちろんのこと、物質的にもなにがしかの援助を受けていたために、紅葉の家塾とみなされたのである。が、その援助にも、かぎりはあった。われわれの先輩作家は、一本の巻煙草を二つに千切って分け合うというような暮しぶりをしていたのである。戦後の作家生活とは雲泥の差が、そこにはあった。塾のあった場所の地籍は箪笥町であったが、「ここをだらだらと下ったところにあったんです」と鳥居家の当主が指さしたその地点は、しかし、垂直な崖に変形してしまっていた。
 徳田秋声の昭和八年の短篇『和解』は、自邸の庭続きに新築したアパート「フジハウス」へ、困窮していた泉鏡花の実弟泉斜汀(本名=豊春)が転がりこんできて急死したのを機会に、鏡花が謝意を表するために訪問したところから、師の紅葉をめぐって長年つづいた確執も解消して、打ち揃って十千万堂跡をおとずれるいきさつを叙したものだが、『和解』という表題にもかかわらず、二人のあいだのしこりは完全に氷解したわけではない。そういう屈折した心理を、たんたんとのべているところに味わい深いもののある作品とみるべきであろう。母堂が朝日坂五条坂とよんでいたという話も、私はそのとき鳥居家の当主からきいた。

榎町。えのきちょう。東京都新宿区にある地名
万盛庵。当時は蕎麦屋。後に鳥料理の川鉄になりました
和解。昭和8年3月30日、泉斜汀氏の死亡と葬式があり、徳田秋声氏と泉鏡花氏との曰く言いがたい関係を描く作品
朝日坂。泉蔵院に朝日天満宮があるため。http://kagurazaka.yamamogura.com/asahizaka-2/
五条坂。朝日天神は五条の天神様と呼ばれたため。http://kagurazaka.yamamogura.com/asahizaka-2/

二句の現物

新宿区横寺町交友会、今昔史編集委員会の『よこてらまち』(2000年)で、二句の現物のコピーを見られます。

紅葉の二句で現物

箪笥町 たんすまち。東京都新宿区の町名で、横に長い町です。箪笥町
フジハウス 徳田秋声旧宅は文京区本郷6丁目6−9。フジハウスは6-2です。空襲はなく、当時のままです。フジハウス1
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光を追うて|徳田秋声

文学と神楽坂

 徳田秋声氏が「光を追うて」(1938年)で書いた新宿区(牛込区)の十千万堂塾に入ったいきさつです。

 その時分は後の鳥屋の川鉄、その頃はまだ蕎麦屋であった肴町(さかなまち)の万世庵で、猪口(ちよく)を手にしながら、小栗の小説の結構を聴いていたが、彼も等などの行き方と違って、遣ってつけの仕事はしなかったから、書きたいと思う材料や筋立(すじだて)に軽々しく筆をつけず、懐ろに温めつゝ百方工夫を凝し、(おもむ)ろに練りあげた上、彫心(ちようしん)鏤刻(るこく)の文章で織りあげるのだったが、等は筋を立てず、いきなりに書く方だったので、折角の小栗の話も馬の耳に念仏のような形になってしまった。小栗はその時今日は少し相談があるから乗ってくれないかというので等は傾聴した。
「僕も柳川も先生んとこの玄関じゃ、落著いて書けないんです。第一狭くもあるし、来客は多いし、お嬢さんがちょろちょろと出て来て目障りだし、是からみっちり仕事をしようというには、何とかしなくちゃなるまいと、色々考えた結果、玄関番は交替でやることにして、先生の近所に一軒家を借りようかと思いましてね、それにはちょうど打ってつけの家が一軒、先生の家の裏にあるんです。先生んとこの垣根の一方に囗をつければ、直ぐお庭から降りて行けるような工合になっているんですがね。差当り上の家の女中に手伝いに来てもらって、柳川と僕とで自炊生活をはじめようという話なんですか、君も()うでしよう、加ってもらえませんか知ら。そうしてお互に先生の傍でみっちり勉強しようじやありませんか。」

等:この文章を書いている筆者のこと。
結構。けっこう。全体の構造や組み立てを考えること。その構造や組み立て。構成。
百方。ひゃっぽう。あらゆる方面にわたって
遣ってつけ。いいかげんにやってしまう
懐ろ。ふところ。外界から隔てられた安心できる場所
彫心。ちょうしん。心に刻み込む。
鏤刻。ろうこく。るこく。文章や詩句を推敲すること。
馬の耳に念仏。馬にありがたい念仏を聞かせても無駄。いくら意見をしても全く効き目のないことのたとえ。

 そこは箪笥町の一区画で、通りから石段を上つて横寺町の先生の家の二階から見下されるお寺の墓地の横へ出る、ちよつと高台に蕎麦屋や馬具屋や大工などの立てこんだ人家の路地の奥になつており、風流な枝折(しおり)(もん)と竹で(ゆわ)えた(かなめ)の垣根の外に総井戸があり、赤松やなどの枝をひろげた前庭があり、濡縁のある四畳半が、板戸を締めたまゝに、町中の静かな隠居所といった風で、飛石や下草にも風情があつた。小栗は台所口から上り、崖下の裏庭に面した座敷や、四畳の中の間なども見せ、三畳の玄関から上るようになつている、物置同様の二階へも案内したが、高窓をあけると、真面(まとも)に先生の書斎が見えるのだつた。古いだけに趣があり、健康には悪いが感じは好かった。
「これは借家に建てたものじゃないんですが、間取りが面白いから、借りることにしたんですがね。」
 小栗はそう言って、戸閉めをして外へ出た。小栗は先生のところへ来るまでの、暫くの学生生活のあと、早熟であったゞけに少しぐれていたとみえて、二の腕に女の首の入墨があり、後にそれを消すのに骨折っていたが、生い立ったのは半田(はんだ)堅気(かたぎ)な旧家であり、等から見ると、一廉(ひとかど)の生活者のように見え、細いところに頭脳も能く働いたが、実は底ぬけのロオマンティストであった。

枝折門:枝折戸(しおりど)。折った木の枝や竹をそのまま使った簡単な開き戸。多く庭の出入り口などに設ける
楆:要。カナメ。カナメモチの別称。バラ科の常緑小高木、園芸植物
楓:カエデ科カエデ属の木の総称
濡縁:ぬれえん。外側に雨戸のない縁側。常に雨露にさらされる
飛石:とびいし。日本庭園などで少しずつ離して据えた表面の平らな石

一区画

十千万堂塾はどこにあったのでしょうか。まず徳田秋声氏の年表から

明治二十九年(一八九六) 二十六歳
 十一月、博文館を退社。十二月、小栗風葉の誘いを受け十千万堂塾(詩星堂とも、紅葉宅と裏つづきの家)に入り、柳川春葉を加えた三人で共同生活。やがて田中凉葉、中山白峰、泉斜汀らが加わる。

明治29年明治29年の『牛込区全図』で、赤丸は十千万堂(詩星堂)の場所。したがって、十千万堂塾は箪笥町4から7ぐらいのいずれかでしょう。新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997)で飯野二郎氏が書いた「神楽坂と文学」のうち「横寺町四七番地と箪笥町五番地のこと」では「ここ(箪笥町五番地)は神楽坂とは離れているが、紅葉宅と筆笥町の方は紅葉の庭から崖を下りて続きになったところで『紅葉塾』があったところである。塾の盟主小栗風葉徳田秋声外数人(前述)が同宿し、文学修業と若い文士の育成の場であった。ここに関係した文人たち皆の記録に当れば必ずや神楽坂界隈のことや明治文学の動向を知る資料があろうと思われるが、これは未調査であり後日にしたい」と述べています。しかし、文献はなく、どうして五番地になるのか、私にはわかりません。大家さんの言葉なのでしょうか。
 現在は4番地だけがよさそうに見えます。しかし当時の状況は全くわかりません。十千万堂

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