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牛込華街読本|いい芸妓になる方法

文学と神楽坂

「牛込華街読本」の著者は蒔田耕、出版は牛込三業会、発行は昭和12年(1937年)でした。内容は「華街心得帳その一」、「その二」、「二業側御主人へのお話」、「女中衆へのお話」、「芸妓衆へのお話」、「営業取締規則へのお話」、「どうしたら繁昌するか〔座談会〕」、「牛込華街附近の変遷史」。
 なんというか、この本は非常に公式、正式、本式に書いていますし、きちんと正座して話を聞いていた芸者であれば、高級豪華絢爛な芸者になったと思います。
 これは「芸妓衆へのお話」の一部です。なお、本のルビはほぼやめ、旧漢字は新漢字に変わり、また、多くの「御」は「お」や「ご」に変え、ほかにもあれこれ変更しています。

     営業について

 前段に申し上げましたように芸妓は立派な婦人の職業であり、しかも意義ある営業なのです。皆さんも一たんこの社会に身を投じた以上、立派な芸妓即ち名妓になるということを心がけなければなりません。皆さんが立派な芸妓になれぱ、土地も繁昌するということになるのであります。私どもが皆さんに対し説法じみたことを申上げたり、苦言を呈したりするのも、皆この土地、否、花柳界の繁昌を念願する外、なにものもないのであります。しからばどうすれば立派な芸妓になれるかといいますと……。

     第一 芸を勉強する事

 芸は芸妓の看板でありますから、充分に勉強しなけれぱなりません。芸のあるは、顔や姿は劣りましても、非常に美しく見えます。殊におどりのある妓は身体からだにいろけがあっていいものです。
 お座敷で立派な芸をもっている年増さんなどで「私、流行歌や民謡など出来ないわ」など自慢らしくいっている方がありますが、あれは大変な心得違いです。芸妓は純粋の芸術家ではないのです。つまりサービス・ガールなのですから、お客様本位になんでも、お客様のお望みに応じ、おあわせるという心掛けが肝心です。
 芸術家の芸は、間口がせまく、奥行が深く、芸妓衆の芸は、奥行が浅くとも間口を広くという訳です。もっとも間口も広く、奥行も深ければなお結構です。
 以上のように芸妓に芸は絶対必要でありますが、ただこういうことをよく承知しておいていただきたいのです(これはサービスの項に属するのですが芸に関係をもつのでここに付け加えておきます)。お座敷の場合、お客様は皆さんの上手なおどりを見るよりも、自分で「東京音頭」や「鹿児島小原おはら」を踊る方が、より以上愉快なものです。一流の姐さんの清元きよもと常磐津ときわずを聞くよりも、ご自分で下手な「都々逸どどいつ」を唄う方が愉快なのです。
 でありますから踊なり、うたなり、三味線なりで名取になるのも結構。いや、それを目標に勉強していただきたいのですが、それ以上にお座敷でお客様に唄わせるよう、おどらせるよう「ひきだすこと」。そうしてお客様を「浮きたたせること」。これが芸妓としての至上の芸術であることをお承知置き願います。

芸妓 げいぎ。歌舞や音曲などで、酒宴の座に興を添えた女性。特に芸妓は技芸と教養を併せ持つ洗練された女性。
名妓 名高い芸妓。歌舞などにすぐれた芸者。
 酒席で、音曲・歌舞などをもって客をもてなす女。芸妓。芸者。
年増 としま。娘盛りを過ぎた女性。一般に30歳代半ばから40歳前後までの女性
サービス・ガール  飲食店などで、給仕や接待をする若い女性。
間に合わせる 当座の用にあてる。急場をしのぐ。
鹿児島小原 鹿児島おはら節。代表的な鹿児島民謡。歌い出しは「花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは オハラハー 桜島」
清元 清元節。浄瑠璃(三味線音楽)の流派名。
常磐津 常磐津節。浄瑠璃(三味線音楽)の流派名。
都々逸 俗謡の形式名。最も代表的な座敷歌。典型的な歌謡調七七七五型をもつ。代表歌は〈おかめ買う奴あたまで知れる 油つけずの二つ折り〉〈そいつはどいつだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク〉と調子のよい囃し詞がついている。
名取 芸道で、一定の技能を修得し、家元・師匠から芸名を許された人。

     第二 サービス第一義に心掛けべき事

 サービスと申しますと大変範囲が広い、たとえばおしゃくをするのも、話のお相手をするのも、三味線を弾くのもサービスの内ですが、私の申し上げますのは、主として精神的サービスとでも申しましょうか、臨機応変その時々によりお客様への応対についての心得についてでございます。これは師匠がございませんので、どなたも習ったという方はないのでございます。ほとんど生れつきと申すかも知れませんが、しかし自分の心掛け一つで、ある程度まではうまくなるものです。
 以下それについて御参考にならうかと思う事柄を、項を分けてお話し致します。

     (イ)遊びは気分である
 遊ぴは気分である。即ちお客様は気分を味わいにいらっしゃるのであります。そのお客様を面白おかしくご接待して、満点の気分にしてお帰りしすること。これが営業繁昌の秘訣であります。
 しからばいかにすれば、お客様のご気分を好くし、ご満足を願えるかといえぱ.これは非常にむずかしい。いつもきまったお客様のお相手をするのではなく、多数のお客様にお目にかかるのですから、一々お客様のご気質をのみこんで、そのお心持にそうようにしなけれぱならないのですから、全く難問題でありますが、まずどなたにもご気分よく感ぜられるのはすべてが早いことです。

心得 こころえ。理解していること。常に心がけていなければならないこと。技芸を身につけていること。たしなみ。

     (ロ) スピード時代
 世はスピード時代であるから、早いということが第一要件であると思います。下町からこの土地へ来るのに電車で3, 40分かかったものが、今では円タクで10分か15分で来るし、関西から特急で7、8時聞かかったのが、今日では飛行機で2時間で来るという時代です。
 料理屋なり待合なりへお客様がいらっしやる、二階へお上りになって、おすわりになるかならぬに煙草盆が出る、お茶が出る、ご酒が出る、お盃を取るか取らぬに芸妓が来るというように、トントン拍子に息もっかせぬように早くゆけぱ、お客様は必ずこの所まではご満足なさること請け合いです。
 私どもがカフェーへ遊びにいって見ますと、外にいい所は一つもないと思いますが、腰をかけると同時に美人がサービスする、これだけでお客がくるんだなという感じがいたします。かような訳で、どうしても早いことが必要であります。
 しかるに現在の芸妓衆はこの点はなはだ不熱心であるように思います。
 現に芸妓の来方がおそくていけないというお小言を、お客様からちょいちょい伺います。お出先からも始終苦情がきます。
 全くおそいです。新旧組合合併して検番を創設いたしました時、三業者の取引規定のなかに「芸妓はお座敷を受けて20分を過ぐるも出先に到着せざる場合は、取引を受くるも止むを得ざること」というのがあったために、当時は非常に芸妓のお座敷へ行き方が早かったのです。もっとも現在でもその規定は現存していますが、なれっこになったせいか、ずるずるにおそくなってしまったようです。
 ひどいのになると、お座敷を受けて一時間も一時間半も過ぎてお出先から催促が来る、芸妓家へいくと、お詣りに行って、もう帰って来ると思ふのですが…。一寸そこまで用達しにいったのですが、もう帰ってくると思いますが…。
 おともだちと出かけたが、行先がわからない。
 かみゆいへいって、帰りにコーヒーを飲みによったとか。
 おけいこ帰りに、みつ豆をたべに行っていたとか。
いろいろの場合がある。こんな場合は、本人のわるいことはもちろんですが、家の方の所置もよくない。初めからわかっていることなのですから。受ける時検番へ断るなり、すぐお出先へことわるなりしなければなりません。

円タク 一円均一の料金で大都市を走ったタクシー。東京を走ったのは大正15年。
茶屋 待合茶屋。男女の密会や、芸妓と客との遊興のための席を貸す茶屋。
喫煙盆 喫煙具一式をのせる容器の総称。当初の形が円か楕円形の盆だった。
カフェー 大正・昭和初期で、女給のいる洋風の酒場。
出先 芸者の呼ばれる料亭や待合など。おでさき
検番 芸者と出先(待合・料理屋など)との連絡事務所。
三業者 料理屋・芸者置屋・待合の三種の業者組合。
かみゆい 髪結。髪を結う職人。
所置 処置。その場や状況に応じた判断をし手だてを講じて、物事に始末をつけること。

     (ハ)お座敷へ出るに就て
 お座敷へ出て、お客様にお目にかかる場合、第一印象が一番大切であります。唄にある「一目見た時好きになったのよ」という、あの一目みて好きになってもらうのでなけれぱならない。最初の一目で好い感じをあたえ得なければ、あとで認めていただけるとしても、それは非常な努力と日時を要するし、場合によっては、そのお客様には永久に好きになっていだたくチャンスをつかみ得ないかもしれない。かくの如く、第一印象は大切であるのです。よく心して初めお座敷へ入った時から、態度・言語・動作に注意して、緊張してお座敷を勤めることが肝要であります。
     (ニ)お客の研究
 お客榛の研究と申しますと、何だか失礼のようですが、是非とも必要があるのです。
 多数のお客様の中には、陽気な方もあれぱ、陰気な方もあり、ご身分・ご職業等により種々ご気質の違うものです。またお客様もお遊びばかりでなく、真面目なご相談事などでお出でになる場合もあるのですから、その場面を見分け、お客様のお気持をのみこんで、しかるべくお気に召すようにおもてなしして、ご愉快にお帰しするのが、芸妓衆の一番大切な仕事なのです。
     (ホ)お客様との対話について
 お座敷でお客様とお話をするには、お客様の調子を読まなければならないのです。お客様の話の調子というのは、お客様によって何かのお話を得意になって、お話になる方と、ご自分はあまりお話しにならす.芸妓にしゃべらして、それをお聞きになって、喜んでいらっしゃる方とがあります。
 この得意になってお話しになる方の場合は、上手に相槌を打って、ますます話をはずませるようにすること。ただしこの場合、あまりぎょうぎょうしいおどろき方や、感心の仕方は、いい感じを与えません。そのお話の内容により、真におどろいたよう、感心したよう、面白おかしいよう、共鳴するよう、すべてわざとらしくないようにしなけれぱなりません。
「早慶戦、まア大変な人気ね」
と話し出してみて、お客様が
「お前、どっちが好きだい」
なんて乗り出していらしゃったら、その話を進行すること。
「なに? 野球のことか」
なんて、気のなさそうなご返事をなすっていらっしゃるのに、
「私、早稲田に勝たせたいわ」
なんて話をすすめるから、
「フン」
なんてお客様は、ますます面白くない。鼻の先でお返事をなさることになります。
 また早慶戦といつたような両方対立のような場合には、初めからこのお客様が、早稲田派か慶応派かということを、よく見極めなけれぱならないわけです。
 総じてお客様は、「ヒラバ」の上手な、調子のいい、話上手なねえさんの面白い話を聴くよりも、聞き上手な――相槌をうまくうって話を引き出す――ひとを前に、得意になって喋っている方が、より以上に愉快さを感ずるものです。
     (へ)慎まねばならぬこと
 お座敷において、芸妓同志で、お客様に関係のない、勝手な話をすること、中にも役者や、芸人の話、他のお客様の噂、おかぼれ、、、、の話を暗号でするなどに至っては、最悪のものであります。断然やめて頂きたい。
 なぜいけないかということについて、一言付け加えておきます。こういう場合におけるお客様、否、男の心理というものは、おかしなもので、自分に何の関係もなく、また何の野心も持っていない相手であっても、他の男性をほめるということは、反対に自分が侮辱されたような変な感じがするものです。つまり軽いやきもち、、、、なのです。
 お客様のお相手をするに当り、たとえば、よっぱらっても粗暴な行為をしたり、乱暴な言葉使いをしたりすることは、最も醜態です。お客様に親しむのはいいが、狂れてはいけない。どこまでも、自分は商売でよんでいただいているのであるということを忘れてはいけません。すなわち失礼な言行のないよう心掛けねばなりません。

肝要 非常に大切なこと。最も必要なこと。
ぎょうぎょうしい 仰仰しい。おおげさである。
ヒラバ 平場。芸妓などが客と床を共にしない座敷だけの勤め。
おかぼれ 他人の恋人や親しい交際もない相手をわきから恋すること。

 さらに「お客様との対話について」「慎まねばならぬこと」「心得て置かねばならぬこと」が続きます。

雑誌「ミスターダンディー」➂1974年(写真)

文学と神楽坂

 雑誌「Mr. DANDY」(中央出版、昭和49年)に「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」を出しています。この神社の中や前などにカメラを置いて撮っています。雑誌なのに有名人もタレントもなく、言ってみれば誰も気にしない写真です。ある地元の人は「手抜き企画で、神社ばかり。文化に縁遠い記事」だといっています。現代の人間だと、まず撮らない写真……。でも、変わったものは確かにあるし、それに本文には、ちょっといいこともある。では読んで、そして、見てみましょう。

 飯田橋駅九段口の前に立って、九段の反対側が神楽坂である。
 江戸時代、築土八幡を移すときこの坂で神楽を奏したことから、神楽坂の名が生れたとか穴八幡の神楽を奏したとか、若宮八幡の神楽が聞えてくるとかいろいろあるが、とにかく、その神楽から生れた名であることはまちがいない。
 江戸時代は坂に向って左側が商家、右側が武家屋敷であった。
 明治になり早稲田大学ができ、その玄関口として次第に商店街を形成していったのである。
 昭和10年頃は山の手一の繁華街で、夜の盛り場としても名があり――神楽坂は電気と会社員と芸妓の街である――といわれた。
 神楽坂の芸者、神楽坂はん子の「ゲイシャワルツ」を覚えている人もあるにちがいない。
 また、ここには多くの文人墨客が住んでいた。思いつくままあげてみると、作家泉鏡花(神楽坂2-22)尾崎紅葉(横寺町)北原白秋(2-22)などがある。
 鏡花の“婦系図”は半自叙伝小説で、早瀬は鏡花であり、お蔦は神楽坂芸者で愛人であった桃太郎であり、真砂町の先生は紅葉であるという。
左側が商家 江戸時代は左側も武家屋敷でした。
文人墨客 ぶんじんぼっかく。ぶんじんぼっきゃく。詩文や書画などの風流に親しむ人。「文人」は詩文・書画などに、「墨客」は書画に親しむ人。

 江戸時代、江戸七福神の一つ、毘沙門様が坂を上って左側の善国寺にある。
 東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが最初である。明治、大正にかけて、夜の賑いは大変なもので表通りは人出で歩けないほどであった。
 早稲田通りをでて左へゆくと赤城神社がある。これはこの地の当主牛込氏が建てた神社である。
 築土八幡は一段高く眺望の利く位置にある。
 ここは戦国時代、管領上杉氏の城跡で、八幡宮はその城主の弓矢を祭ったものである。
 ここにある康申塔は、高さ約1.5メートル幅約70センチの石碑で、面にオス、メスの二猿が浮き彫りにされている。
 一猿は立って桃の実をとろうとし、一猿は腰を下して待つところで、アダムとイブを連想される。これを由比正雪が信仰したという説がある。しかし、少々時代のずれがある。
 由比正雪といえば、このあたり、大日本印刷工場の東南から東方一帯が、正雪の旧居跡であった。
 伝説によると、正雪の道場済松寺門前から東榎町、天神町にかけて約5000坪の地所に広がっていたという。
 いずれにせよ、その町の一つの道、一つの坂には、長い歴史の過去があるのである。
 それを思い、あれを思い、ただ急ぎ足に通りすぎるだけでなく、ふと、なにかを振り返りたくなる――そんな静かな気持で、この町を歩いてみるといいだろう。まだまだ、多くのむかしがそこにある。
 そして、そこを吹く風に、秋をみつけたとき、あなたは旅情を知る人になっているにちがいない。
管領 かんれい。室町幕府で将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄した。
八幡宮 八幡神を祀る神社。9世紀ごろ、八幡神を鎮護国家神とする信仰が確立し、王城鎮護、勇武の神、武人の守護神などになった。武士を中心に弓矢の神として尊崇された。
康申塔 こうしんとう。庚申塚に建てる石塔。村境などに、青面金剛しょうめんこんごう童子、つまり病魔、病鬼を除く神を祭ってある塚。庚申の本尊を青面金剛童子とし、三匹猿はその侍者だとする説が行き渡っている。
由比正雪 ゆいしょうせつ。江戸前期の軍学者。慶安事件の首謀者。1651年徳川家光の死に際し,幕閣への批判と旗本救済を掲げて幕府転覆を企てたが、内通で事前に発覚。正雪は自刃した。生年は慶長10年(1605年)、没年は慶安4年7月26日(1651年9月10日)。
時代のずれ 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)の一部では
34、珍らしい庚申塔
(略)この庚申塔は、由比正雪が信仰したものという伝説がある。しかし、正雪は、この碑の建った13年前の慶安四年(1651)に死んでいるのである。(略)

由比正雪 実際は位置不明です。正雪の記載があるのは、新宿区矢来町1-9にある正雪地蔵尊だけですが、正雪との関係を示す史料はありません。
済松寺 新宿区榎町77番地。
東榎町、天神町 ひがしえのきちょう。てんじんちょう。済松寺、東榎町、天神町について図を参照。

全国地価マップ

  • 赤城神社。「赤城神社再生プロジェクト」で新たに本堂などを建て、2010年、終了するので、この写真は昔のものです。

赤城神社(今)

「昭忠碑(大山巌碑)」もありました。明治37~8年の日露戦役を記念し、明治39年に建てられて、陸軍大将大山巌が揮毫しました。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。内容はここに詳しく。

 現在はかわって三社があります。赤城出世稲荷神社、八耳神社、あおい神社です。

三社

  • 神楽坂若宮八幡神社。昭和20(1945)年5月25日、東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。1949年に拝殿、1950年5月に社務所を再度建築。その後、敷地の西側に新社殿を建て、残った部分をマンションにしました。マンションの竣工は1999年です。

若宮八幡神社

現在の若宮八幡神社

  • 善国寺。昭和46年に本堂を建てています。したがって、現在と同じ寺院でした。

 庚申塔もあります。

兵庫横丁は1960年代から…だと思う

文学と神楽坂

 1995年以前は兵庫横丁という横丁はありませんでした。では、この横丁はいつごろできたのでしょうか?

 まず江戸時代は嘉永5年(1852年)❶。下図は神楽坂4丁目に相当します。中央にある線が将来の兵庫横丁です。図は新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から。

❶ 江戸時代。嘉永5年(1852年)嘉永5年(1852年)の神楽坂4丁目

 次は明治29年❷です。元の図は小さく、でも読めます(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』から)。この変形した四角形が上宮比町で、番地は1番地から8番目で、上宮比町は将来の神楽坂4丁目に当たります。町の横丁は上から1本、下から2本です。右や左の横丁はまだありません。

❷ 明治29年明治29年

 次は❸の大正元年「東京市区調査会」(地図資料編纂会編。地籍台帳・地籍地図・東京・第6巻。柏書房。1989年)。上宮比町は同じで、ただし、もっと鮮明です。なお、将来の旅館「和可菜」は7番地になります。

❸ 東京市区調査会、大正元年東京市区調査会、大正元年

 次に新宿区教育委員会がまとめた『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)❹では、芸者と待合が中心で、普通の家はおそらくないといえます。中央の通りには外から上1本、下2本、さらに本多横丁からは2本の路地が中央の通りとつながっています。ここで中央の通りは兵庫横丁とは違います。

❹ 古老の記憶による関東大震災前の形。大正11年ぐらい。〇待合、△芸者、□料理屋

古老の記憶による関東大震災前の形

 関東大地震を大正12年に終えて、約15年後、昭和12年の都市製図社製『火災保険特殊地図』❺です。中央の通りは外から上1本、下3本となり、本多横丁はそのまま。さらに本多横丁から見返り横丁を通って中央の通りとつながっています。ごくぼそ、酔石横丁、紅小路の原型が出てきます。赤い線は崖なので、見返し横丁はこれ以上ははいりません。兵庫横丁もまだ出てきません。

❺ 昭和12年『火災保険特殊地図』昭和12年。『火災保険特殊地図』

 第二次世界大戦の中で、おそらく全てが灰燼になります。戦後、昭和26年には上宮比町から神楽坂4丁目になり、昭和27年❻になると、この町は相当変わってきます。新しい建造物はたくさん出て、また中央の道路も大きく変わっています。図の下から上に歩いて行く場合を考えてみると、まず右向きのカーブ、その後、左向きになっています。神楽坂4丁目の道路は上1本、下2本となり、さらに本多横丁からの1本(見返し横丁)が中央の通りとつながっています。

❻ 昭和27年。1952年。火災保険特殊地図

 参考ですが、この時期、ほとんどは下図のように芸妓置屋(黒)、料亭(灰)、割烹・旅館(薄灰)になっていきます。

神楽坂花街における歴史的建造物の残存状況と花街建築の外観特性。日本建築学会大会学術講演梗概集 。 2011 年。http://utud.sakura.ne.jp/research/publications/_docs/2011aij/7135.pdf

 ❼は昭和38(1963)年、 住宅協会地図部がつくる住宅地図です。中央の通りを見ると、外から上1本、下3本です。

昭和38年。昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③なくなり、本多横丁側は残り、見返し横丁に

❼ 昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③は一部の本多横丁側は残り、見返し横丁に

 ❼はあまり細かく書くと、ぼろがでそうな地図で、多分原っぱや空き地も多かったし、中央の道路はなく、庭なのか、道路なのか、不明です。以前は「四」から①右上方向に向かう通りがあり、これは明治時代からの通りでした。②さらに、左上方にも行き、点線の方向も通れるようになりました。これはやがて、兵庫横丁になります。また、③直接、本多横丁に行くこともできます。しかし、この通りはのちになくなり、本多横丁側だけは残り、見返し横丁になりました。

 次は❽で、1978年(昭和53年)、同じく日本住宅地図出版がつくる住宅地図です。中央の道路が左に凸と変わりました。矢印①がなくなり、矢印②と③の2つが残っています。外から中央の通りに上1本、下3本となり、さらに本多横丁からの1本が中央の通り(兵庫横丁)とつながっています。

❽ 1978年。住宅地図。

 2010年の❾です。ゼンリンがつくる住宅地図です。②は現在と同じ形です。③は行き止まりになり、見返し横丁になります。つまり、外から上1本、下2本が兵庫横丁につながっています。本多横丁から左に行くのは4本。下の2本は流れを変えて神楽坂通りにつながり、中央の1本が見返し横丁で行き止まりになり、上の1本が見返り横丁で、鍵はかかっていて、やはり行き止まりでした。

❾ 2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

 では、以上の経緯❿を見ておきます。下の地図を見てください。

❿ 経緯

 一番はっきりしているのは最下部の赤い四角()で、昭和から平成まで、どこでも4つ角があります。その上は赤い中抜き円()で、ここは階段の最上部で、降り始める場所です。その上は赤丸()で、右に行くと本多横丁にはいります。ところが、1980年以前にこの通りは消え、本多横丁のほうからはいると行き止まり(これは見返し横丁)になりました。次は青い四角()で、閉鎖した旅館「和可菜」です。昭和12年は青四角は中央の通りによりも左側に位置して7番地でした。平成29年には中央に入る通りの位置は右側に変わりますが、7番地の位置は変わりません。

 もうひとつ。一番上の「福せん」「福仙」について。兵庫横丁の出口にあるとすると、変わったのは道路が兵庫横丁の中に入ってからの位置と、兵庫横丁の道幅だけでは、と、そんな疑問もでてきます。でも、福仙の位置も昭和12年と昭和27年、昭和53年では変わっていて、昭和27年では昭和12年に比べて約半分ほど小さく、また昭和53年にはまた大きくなっています。

 つまり、全てを正確に話すことは難しい。絶対どこかにおかしなことがある。兵庫横丁の入口(ごくぼそ、酔石横丁、紅小路)はほぼ正確だとしても、その道幅は大きくなり、出口(福仙)も違うし、4丁目の家々もごちゃごちゃだもんなあ。

 この神楽坂4丁目の横丁も家々も多くは私有地なので、なんでもできる。と書いたところで、いえいえ、国有地もあるし、指定道路もある、といわれました。厳として変えられない部分がある。おそらく「戦後に一部地番が変わった時に位置が決まったと推定」されると地元の人。

 戦前は兵庫横丁という名前はありませんでした。1960年頃になって、ようやく現在の形で出現したと考えています。また、この頃(1960~65年)、石畳もできたと考えています。名前として兵庫横丁が記録されたのは平成7年(1995年)でした。

 最後に4丁目の現在と「古老の記憶による関東大震災前の形」から。

現在と古老の記憶による関東大震災前の形。4丁目。

現在と古老の記憶による関東大震災前の形。4丁目。

婦系図

文学と神楽坂

泉鏡花

泉鏡花

 これは泉鏡花氏の『婦系図』(1907年、明治40年)前篇「柏家」45節で、中心人物のうち3人(小芳、酒井俊蔵、早瀬主税)が出てくる有名な場面です。「いいえ、私が悪いんです…」と言う人は芸妓の小芳で、ドイツ文学者の酒井俊蔵の愛人。小芳から「貴下」と呼ばれた人は主人公の書生で以前の掏摸すり、早瀬主税ちから。「成らん!」と怒る人はドイツ文学者の酒井俊蔵で、主税の先生です。
 もちろん酒井俊蔵のモデルは尾崎紅葉氏、早瀬主税は泉鏡花氏、小芳は芸妓の小えんです。
 小芳が「いいえ…」といった言葉に対して、文学者の酒井は芸妓のお蔦を早瀬の妻にするのは無理だといって「俺を棄てるか、おんなを棄てるか」と詰問します。

いいえ、私が悪いんです。ですから、あとしかられますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」
「成らん! この場に及んで分別も糸瓜へちまもあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、おんなを連れて駈落かけおちをしかねない。短兵急たんぺいきゅうに首をおさえて叩っってしまうのだ。
 早瀬。」
苛々いらいらした音調で、
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支さしつかえん、おんなうらんでも、泣いてもい。こがじにに死んでもい。先生命令いいつけだ、切れっちまえ。
 俺を棄てるか、婦を棄てるか。
 むむ、このほか言句もんくはないのよ。」

婦系図 明治40年に書かれた泉鏡花の小説。お蔦と早瀬主税の悲恋物語が中心で、ドイツ文学者の酒井先生の娘お妙の純情、家名のため愛なき結婚のもたらす家庭悲劇、主税の復讐譚などを書く。
糸瓜 へちま。つまらないものや役に立たないもののたとえ
短兵急 刀剣などをもって急激に攻めるさま。だしぬけに。ひどく急に。
苛々しい いらいらしい。心がいらだつ。いらいらする様子。
先生 自分より先に生まれた人。学問や技術・芸能を教える人。自分が教えを受けている人。この場合は酒井俊蔵。
言句 げんく。ごんく。言葉。ひとくさりの言葉。一言一句。

(どうだ。)とあごで言わせて、悠然ゆうぜんと天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓にひじをついた。
おんなを棄てます。先生。」
判然はっきり云った。其処そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の猪口ちょくと相触れて、カチリと鳴った。
幾久いくひさし、おさかずきを。」と、ぐっと飲んで目をふさいだのである。
 物をも言わず、背向うしろむきになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、
其方そっちの、其方の熱い方を。もう一杯ひとつ、もう一ツ。」
と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物をふところへ、羽織ひもを引懸けて、ずッと立った。
「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」

悠然 ゆうぜん。物事に動ぜず、ゆったりと落ち着いているさま。悠々。
猪口 ちょく。日本酒を飲むときに用いる陶製の小さな器。小形の陶器で、口が広く、底は少し狭くなる。猪口
幾久く いくひさしく。いつまでも久しい。行く末長い。
 ふところ。衣服を着たときの、胸のあたりの内側の部分。懐中。
羽織 はおり。和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。



神楽坂|かくれんぼ横丁

文学と神楽坂

 かくれんぼ横丁はもっとも古い建物が残っている路地裏です。ただし第2次世界大戦で、ことごとく灰になり、すべてが戦後の建物です。しかし、戦後の花街として昭和30年代には繁栄しました。
 かくれんぼ横丁のほどんどは料亭・待合・芸妓屋として残っておらず、割烹、料理店、懐石料理に変わっています。ここで06年9月、日本建築学会で水井氏が「花街建築」の外観的要素として20項目を挙げ、うち料亭・待合は14項目、芸妓屋は9項目が重要だと考えました。(水井七奈子「遺構調査に基づいた花街建築に関する研究(その1)」日本建築学会大会学術講演梗概集。2006)
 が重要な項目です。

項目料亭・待合芸妓屋
庭・庭木あり
庭に松・竹・梅のいずれかあり
石畳か灯篭とうろうを配置
黒塀・木塀か刳貫くりぬきがあるモルタル塀
玄関や門構えが重厚
柱材が細い(3-4寸角)
格子こうしが開口部に設置
玄関戸上部や外壁等に扇や松の型の刳貫や竹材等の細工あり
2階に縁がある場合、擬宝珠ぎぼしが付くか装飾的な浮彫うきぼりがある[擬宝珠付きは1棟のみ]
戸袋とぶくろが装飾的
照明に装飾か屋号入りの照明
装飾的な青銅製のとい
開ロ部に深いひさし[木製庇]
前項に加えて庇裏が装飾的
階高が高いか総2階[2階建てがほとんど]
建具が装飾的
その他、装飾的な細工あり
屋根形状が入母屋いりもや錣葺しころぶき[切妻屋根がほとんど]
のき
屋根のむくり(屋根を凸状に反らす)

 古い花街建築(大震災直後から昭和初期)ほど、より多くの装飾があったといいます。神楽坂は残った家屋がほぼない地域です。したがって戦後にできた新しい建物で、残念ながら装飾は少なくなっています。

かく5

 ここは普通の建物ですが、それでも一番きれいです。左手には黒塀があり、奥の右手では路地と玄関の間に塀で囲まれた木戸を作っています。
 青銅製の樋と入母屋造がはっきりと見えます。かくれんぼ1
かく6

 格子状の意匠があり、左には黒塀があり…
かく4 玄関前の屋号の照明、戸の内部に竹材の細工が見られます。また入口は木戸からさらに奥です。山路は今は一軒家のホテルです。
 ちなみに「拝啓、父上様」で第1話でこの(正確には仲通りの)料亭「千月」とかくれんぼ横丁がでてきました。

仲通り
  を走って「千月」の前に立つ。
  見廻すがテキがいない。
  路地へとびこむ。


千月2かく7

神楽坂の通りと坂に戻る場合は…



芸妓の言葉

文学と神楽坂

三業   さんぎょう。料亭・待合茶屋・芸者屋の3業種。ちなみに二業は料亭と芸者屋
花街   かがい。はなまち。いろまち。芸者屋・遊女屋などが集まっている町。遊郭。花柳街
花柳界  かりゅうかい。芸者・遊女などの社会。遊里。花柳の(ちまた)
料亭   主として日本料理を出す高級な料理屋
置屋   おきや。正確には女郎置屋や芸者置屋。芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
待合   まちあい。待合茶屋。まちあいぢゃや。待ち合わせや男女の密会、客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店。
芸妓   歌や三味線、舞踊など、芸の習得に厳しい稽古を積み、酒宴で披露して客をもてなす女性。遊女とは一線を画す。
見番   けんばん。検番、見番。三業組合の事務所。遊里で芸者の取り次ぎや送迎、玉代(ぎよくだい)の精算などをした所。現在の例は見番横丁で。
箱屋   はこや。三味線などを持って客席に出る芸者に従って行く男衆。見番に属する。箱まわし。箱持ち
半玉   まだ一人前として扱われず、玉代(ぎよくだい)も半人分の芸者。雛妓(おしゃく)とも。踊りと太鼓を演じるが、三味線は弾かない。大半は16歳で芸者に
源氏名  遊女や芸者の妓名。バーのホステスなどの呼び名でも使う、

芸妓と料亭

文学と神楽坂

 神楽坂の花柳界は幕末の安政4年(1857)行元寺の横丁を入ったあたりに神楽坂花街(牛込花街)として出現しました。しかし、本格的に発展したのは明治になってからです。11年後の明治元年(1868)、以降は町人の街となり商業の発展とともに花街も発展していきます。
 しかし、明治の花街はいばらの道でありまして、最初は4流の場所でした。
 夏目漱石の『硝子戸の中』(大正4年)ではこう書いています。

「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入って見た事もないが」
「変ったの変らないのってあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかったので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋ったら、寺内にたった一軒しきゃ無かったもんでさあ。東家あずまやってね。ちょうどそら高田の旦那の真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは」

行元寺

 この(あずま)家は寺内の吾妻(あずま)家のことで、『ここは牛込、神楽坂』でここだと書いています。

 さて西村和夫氏の『雑学神楽坂』によると

日清戦争の始まる前はわずか7~8軒だった待合は戦争の終わる頃には(わずか2年で)15~16軒と倍近くにまで増加した。さらに明治37、8年の日清戦争の景気は神楽坂の待合の数を一挙に50軒に増やし、芸者の数も増えていった。

 大正12年の関東大震災は幸いに神楽坂は火災を免れ、さらに賑わいを増しました。

 昭和初期は神楽坂の検番は旧検と新検との2派に分かれ、旧検は芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒であり、新検は芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒でした。もっとも発展した時期です。

 第2次世界戦争が始まり、昭和30年3月の『新宿区史』では

当然の事乍ら昭和19年に料理店、待合、芸妓置屋、カフエー、バー等に営業停止令が出された。神楽坂、荒木町、十二社の芸妓は女子挺身隊として、軍事工場を重点として各種重要産業部門に向けられた。…4月に入って、13日・14日に160機のB29攻撃を受けて、四谷、牛込、淀橋の大部を焼失した。…5月25日に絨毯爆撃によって、四谷、牛込、淀橋地区の残存の大部を焼失した。そして、29日にはその残りを失ってしまった。

 しかし、戦争後、朝鮮戦争で再び花街のブームに火がつきました。また、1952年(昭和27年)、神楽坂はん子『ゲイシャ・ワルツ』が大ヒット。(『ゲイシャ・ワルツ』は次の動画で聞くことが出来ます)

 しかし、昭和33年、売春防止法以来、環境が急に変化していきます。

 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

高度成長期、接待費がふんだんにある企業がお馴染みさんになって神楽坂の景気を導いた。だからバブルがはじけるとたちまちお馴染みさんとの関係は切れ客足は引いていった。

 平成9年8月には料亭5軒と芸妓25名だけになりました。平成13年は料亭は4軒だけです。

各4軒について

「うを徳」は大正9年創業。25,000円(通常平均)、20,000円(宴会平均)、15,000円(ランチ平均)。

千月」は昭和10年創業。コースは26,250円。

「牧」は21,000円、カウンターは10,500円。

「幸本」は昭和23年創業。10,500円。席料3,150円~(税込)(クレジットだと「一見さんお断りの料亭」でもOKです)。
四軒についてはhttp://www.kagurazaka-kumiai.net/ryotei.html