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田山花袋|転居

新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)「神楽坂と文学」で飯野二朗氏はこう書いています。

花袋は牛込で二十年間を過ごした。明治十九年、十六歳で上京してから貧困時代、苦学時代、尾崎紅葉を訪ねて文学修業を積む習作時代を経て、自然主義文学の金字塔を建てる「蒲団」完成の前年三九年まで、十一回の転居を牛込区内でくり返した。そして牛込を異常になつかしく思い浮かべて「東京の三十年――山の手の空気」を書いている。「」内は原文。 「その時分には、段々開けて行くと言ってもまだ山手はさびしい野山で、林があり、森があり、ある邸宅の中に人知れず埋れた池があったりして、牛込の奥には、狐や狸などが夜ごとに来た。永井荷風氏の「狐」という小説に見るような光景や感じが到るところにあった」
(明治十九年に)上京し①牛込区市谷冨久町120番地に住んだ。次に②納戸町12③甲良町12④内藤町1⑤喜久井町20⑥納戸町40⑦原町2-68⑧若松町137⑨市谷薬王寺町55⑩弁天町42⑪北山伏町38番地と移り、明治39年12月8日に渋谷村代々木山谷132番地に新居を建て、昭和5年5月13日59歳の生涯を終えた作家である。
日本文学史の一時代を面する自然主義文学は、本当の意味では花袋が出発点である。そして、独歩藤村秋声白鳥、そして岩野治明真山青果小杉天外中村星湖も、その上に島村抱月長谷川天渓片上伸ら早稲田文学の人々が自然主義の理論的バックアップをして一世を風靡したといわれる。

岩野治明。正しくは岩野泡嗚でしょう。また本名は美衛(よしえ)でした。

では、牛込区のどこに転居したのでしょうか。④の内藤町以外は1つの地図に落とせます。牛込区といってもかなり転居したんだと思います。

明治28年②

明治39年12月8日、渋谷村代々木山谷132番地に新居を建てたことについては、中村武羅夫氏は『明治大正の文学者』(留女書房1949年、ITmedia名作文庫2014年)にこう書いています。

田山花袋が「蒲団」を書いて大いに人気を得たその少し後で、代々木に住宅を建てたり、柳川春葉が「生さぬ仲」(大正二年―三年)という通俗小説で大いに当てて、夫人の郷里の宇都宮に借家を二戸とか建てた時など、両方ともずいぶん評判で、ゴシップをにぎわしたものである。文士が家を建てるくらいのことは、今では当たり前のことでも、大正の初めのころまでは文壇ゴシップで騒がれるほど、とにかく希有のことだったのだ。

「蒲団」は「新小説」明治40年(1907年)9月号に掲載されました。つまり、実際には「蒲団」よりも早く、明治39年12月に新居を建てていたのです。これについては同じく『明治大正の文学者』では

すなわち文学者としての稼ぎによって建ったものではなく、「蒲団」のモデルとして取り扱った女弟子の実家が金持ちで、そこから借金して建てた家であるというのが、ウルさいゴシップに対する田山花袋の弁解であり、抗議であった。

蒲団|田山花袋

文学と神楽坂

田山花袋 明治40年(1907年)、田山花袋氏が書いた『蒲団』の1節です。

『蒲団』は口語体、文言一致体で書かれています。こんな重大ではない、なんでもない話で、セックスをしたいけれどできないという話で、本当に当時の人は大変だったなあと思いました。

 ちなみに今から60年も前、正宗白鳥氏は『文壇50年』を書き、そのなかでこう書いています。なるほど。

「蒲団」は、清新な作品として敬意を持って読まれるよりも、嘲笑冷罵されるにふさわしいものであったが、それでもそれが、文学史上画期的の作品となったのだ。私はこのごろ回顧して特にそう思うようになった。
 何でもないような事が、フランス革命の動機となった。日本の文学も何とかしなければならぬという気運が漠然と起こりかけているとこへ「蒲団」がその気運に火をつける事になったのである。今読むと「こんな小説が何だ」と思われるような、つまらない小説であるが、このつまらない小説の巻き起した1つの傾向が、綿々と盡くるところなき有様である。

 では本文で神楽坂について書いている場所にいきましょう。

夏の日はもう暮れ懸っていた。矢来酒井の森にはからすの声がやかましく聞える。どの家でも夕飯が済んで、門口に若い娘の白い顔も見える。ボールを投げている少年もある。官吏らしい鰌髭どじょうひげの紳士が庇髪ひさしがみの若い細君をれて、神楽坂かぐらざかに散歩に出懸けるのにも幾組か邂逅でっくわした。時雄は激昂げっこうした心と泥酔した身体とにはげしく漂わされて、四辺あたりに見ゆるものが皆な別の世界のもののように思われた。両側の家も動くよう、地も脚の下に陥るよう、天も頭の上におおかぶさるように感じた。元からさ程強い酒量でないのに、無闇むやみにぐいぐいとあおったので、一時に酔が発したのであろう。ふと露西亜ロシア賤民せんみんの酒に酔って路傍に倒れて寝ているのを思い出した。そしてある友人と露西亜の人間はこれだからえらい、惑溺わくできするならあくまで惑溺せんければ駄目だと言ったことを思いだした。馬鹿な! 恋に師弟の別があって堪るものかと口へ出して言った。

矢来 矢来町です。江戸時代は小浜藩酒井家の牛込矢来やらい屋敷とよぶ下屋敷がありました。明治になって矢来町ができました。矢来屋敷は大きな場所を占めていました。
酒井 小浜藩酒井(さかい)家のこと
鰌髭 伸びた薄い口ひげ
庇髪 髪形の1つ、つめ物を入れて前髪を大きく膨らませ、ひさしのように前方へ突き出して結いました。日本髪よりも簡単に結うことができます。
激昂 身体は酔っているが、感情は逆に高ぶること
惑溺 夢中になって正常な判断ができなくなること。

中根坂を上って、士官学校の裏門から佐内坂の上まで来た頃は、日はもうとっぷりと暮れた。白地の浴衣ゆかたがぞろぞろと通る。煙草屋たばこやの前に若い細君が出ている。氷見世(こおりみせ)暖簾のれんが涼しそうに夕風になびく。時雄はこの夏の夜景をおぼろげに眼には見ながら、電信柱に突当って倒れそうにしたり、浅いみぞに落ちて膝頭ひざがしらをついたり、職工ていの男に、「酔漢奴よっぱらいめ! しっかり歩け!」とののしられたりした。急に自ら思いついたらしく、坂の上から右に折れて市ヶ谷八幡の境内へと入った。境内には人の影もなく寂寞ひっそりとしていた。大きい古いけやきの樹と松の樹とが蔽い冠さって、左のすみ珊瑚樹さんごじゅの大きいのがしげっていた。処々の常夜燈はそろそろ光を放ち始めた。時雄はいかにしても苦しいので、突如いきなりその珊瑚樹の蔭に身をかくして、その根本の地上に身をよこたえた。興奮した心の状態、奔放な情と悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬しっとの念にられながら、一方冷淡に自己の状態を客観した。

中根坂 なかねざか。市谷加賀町と納戸町の境、大日本印刷会社の東を北または南に上がる坂道。中根坂は「左内坂町と加賀町1丁目の間に坂あり、中根坂といふ、以前坂の西側に旧幕府の旗本中根恵三郎の屋敷ありしかば、遂に坂名となる」(『新撰東京名所図会』)。場所はここ。

1857年と1849年の地図 江戸時代では北に上がる坂道(1849年)か南に上がる坂道(1857年)なのか、2つの考え方がありました。田山花袋の『蒲団』では南に上がる坂道だととらえています。区では北に上がる坂道だとしています。写真は北から南に見たもので、北に上がる坂道、逆に言うと南に下がる坂道です。中根坂道標では

(なか)()(ざか)  昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。

と書いてあります。いずれにしても、かつてはVの字のように下って、再び上がる急坂でした。それが現在のようにVの字はなくなり、最下部には橋が架かっています。一見では橋だとはわかりませんが、橋なのです。すべて区道です。
士官学校 江戸時代は名古屋藩徳川家の上屋敷でした。明治に入って陸軍士官学校になり、現在は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地になっています。1970年(昭和45年)11月25日、ここで三島事件が起こりました。日本の作家、三島由紀夫が自衛隊のクーデターを呼びかけ、割腹自殺をしました。
()(ない) 市谷左内町を市ケ谷見附の外濠通りから西北に上る急坂。場所はここ。坂名は「左内坂 市谷田町一丁目の濠端より左内坂町に上る坂あり、左内坂の名に呼ぶ。紫の一本云ふ。おなじく片町のうちなり、此所の名主島田左内といふ。坂の中に屋敷あり、此故に左内坂といふ」(『新撰東京名所図会』)。名主の島田左内氏から左内坂がでたようです。
 この島田左内重次は寛永3年(1626)に外堀端の田地を埋め立てて、市谷田町各町(1丁目から四丁目)に割り、同時に坂上にも町屋をつくり、初めは市谷坂町、後に市谷左内坂町と呼ばれるようになりました。1月3日には江戸城に登城して、年頭御礼の儀に参上しました。明治に至るまで市谷田町、同船河原町、左内坂町、寺町、牛込揚場町の五ヵ町の名主でした。
氷見世 かき氷を食べさせる店
右に折れて 左内坂上の南側に市谷八幡宮の裏参道があります。今では駿台の入口として使っていますが、裏を通り、佐内坂から市谷八幡宮に行く参道があります。下の左側の写真は駿台予備校が見えますが、本来は裏参道です。右側の写真を行くと裏参道です。
八幡宮
入口3
市ヶ谷八幡 市谷亀岡八幡宮です。下からだとすごく高い所にあると思いますが、でも小さいのでびっくりします。八幡宮
常夜燈 一晩中つけておく明かりのこと。街灯として街道の道しるべとして設置するものが多いようです。
珊瑚樹 サンゴジュ。スイカズラ科の常緑高木。庭木になります。千葉県以西まで野生します。市谷亀岡八幡宮で取った写真です。さんごじゅ