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行元寺|縁起

文学と神楽坂

 行元ぎょうがん寺は、明治40年、品川区西五反田に移転しましたが、以前は肴町(現在の神楽坂5丁目)にありました。
さて、江戸幕府は文政9年(1826)から「御府内風土記」の編集を始め、文政12年(1829)に完成しました。ここで史料としては「文政ぶんせい寺社じしゃ町方まちかた書上かきあげ」を提出せさました。江戸の町々や寺社から起立や由来などの詳細な調査した報告書です。総計は寺社方121冊,町方146冊にもなりました。
 行元寺の史料もあり、国会図書館の「牛込寺社書上」のコマ番号38から50です。うちコマ番号45から50は「牛頭山千手院行元寺千手観世音略縁起」です。
この略縁起は、寛政10年(1798)、当時の行元寺住持じゅうじだった法印(つまり、最高の僧位)の海澄が作成し、当寺の起立・由緒、十一面千手観世音立像の効験・霊験などをまとめたものです。ちなみに「住持」とは、一寺を管理する主僧のこと。ここには明確な事実と判断できないものもあります。それでは「牛頭山千手院行元寺千手観世音略縁起」です。なお、この翻訳は新宿区生涯学習財団の「行元寺跡」(平成15年)に多くを担っています。

牛頭山千手院行元ぎょうがん寺千手観世音縁起
武蔵国豊島郡牛込郷牛頭山千手院行元寺ハ、台家たいけ高祖伝教慈覚両大師の開基累代古跡なり、古へ伝教大師東遊して此地に来り、一宇を建て行元寺と号す。所謂祖師当寺を開き、行法修行のもとなるを以てなり、然るに大師開基なりといへども、台家の法いまだ弘らず、寺号のみにして一宇成がたし、其後慈覚大師また此地に来り、先師開基の故を以て再興ありしより相続し、今に至るまで九百余年、台家不易の寺院なり、依之これを開基と申伝る事誠に故ある哉、祖師伝教当寺に於て不動明上ならびにこん迦羅がらせい吒迦たかの二童子を作り給ふ、代々護摩の本尊として今に鎮座まします、霊験古今に是多し、うや/\うしおもんじれば、本堂の千手観世音恵心大僧都の御作なり、むかし千手の示現ありて堂宇を建立し奉る、よりて千手院の名あり

寺院の創立者(開基)は 天台宗を開いた最澄(767~822)で、「行法修行の元」であるという意味から「行元寺」と名づけられました。しかし、名ばかりの寺院となっていたところ、延暦寺の円仁(794~864)は当地に下向し、相続して再興しました。実証はできませんが、開基の時期は9世紀末から10世紀頃。行元寺の本尊である十一面千手観世音立像は恵心僧都源信(942~1017)の作で、当寺を千手院と呼ぶゆえんです。

[現代語訳] 武蔵国豊島郡牛込郷にある牛頭山千手院行元寺は、天台宗の高僧である伝教大師(最澄)と慈覚大師の2人が創立したもので、代を重ね、歴史に残る遺跡になっている。かつて伝教大師は東遊して、ここで下向し、棟一軒を建て、行元寺と呼んだ。いわゆる祖師はこの寺を開き、仏道を修行する元だという。しかし、大師は天台宗の仏法を広められず、家以外には寺号しかなかった。その後、慈覚大師は再びこの土地に来て、伝教大師の創立と聞き、再興をして、名前なども受けついだ。今にいたる900年余、天台宗の変わらない寺である。つまり、寺を創立したのは誠に由緒があるといえよう。伝教大師はこの寺で不動明上と、矜迦羅童子と制吒迦童子2人を作り、代々、護摩堂の仏様として今も鎮座している。神仏などの不可思議な力は古今に数多い。恭しく思えば、本堂の千手観世音は恵心大僧都の作品である。むかし千手観音の示現があり、堂の建物を建立したので、千手院の名がついた。

観世音 かんぜおん。観世音菩薩。世の人々の音声を観じて、その苦悩から救済する菩薩
縁起 仏教用語。社寺の由来。起源、沿革や由来。
台家 たいけ。天台宗の別称。
高祖 仏教。一宗一派を開いた高僧
伝教 伝教大師。でんぎょうだいし。最澄さいちょうの諡号。平安初期の僧。767~822。日本天台宗の祖。諡号しごうとは、生前のおこないをたたえ、死後におくる贈り名。
慈覚 慈覚大師。じかくだいし。円仁の諡号。平安初期の僧。794~864。最澄の業績を発展させ、天台宗の密教化に影響を与えた。
開基 寺院を創立すること。創立した人。開山。
累代 るいだい。古くは「るいたい」。代を重ねること。
古跡 歴史に残る有名な事件や建物などのあと。遺跡。
一宇 いちう。「宇」は軒、屋根のこと。一棟の家・建物。
行法 ぎょうほう。仏道を修行すること。
相続 先代に代わって、家名などを受け継ぐこと。
不易 ふえき。いつまでも変わらないこと。
 幷(ヘイ)の異体字。あわせる。ならぶ。ならびに。
童子 寺院へ入ってまだ剃髪ていはつはなく、仏典の読み方などを習って、雑役に従事する少年
護摩 不動明王などの前に壇を築き、火炉かろを設けてヌルデの木などを燃やして、煩悩を焼却し、併せて息災・降伏ごうぶくなどを祈願する修法。
護摩堂 護摩をたき修法を行うための仏堂。
鎮座 ちんざ。神霊が一定の場所にしずまっていること。
霊験 れいげん。人の祈請に応じて神仏などが示す不可思議な力の現れ
千手観世音 せんじゅかんぜおん。千手観音。千手観音菩薩。すべてのものを同時に見で同時に救う菩薩。
恵心大僧都 平安時代中期の天台宗の僧。942~1017。源信和尚。恵心えしん僧都そうずと尊称。
示現 神仏が霊験を示し現すこと。
堂宇 堂の建物。

その右大将源頼朝公伊豆国石橋山合戦の後、安房 上総をて武蔵にいたり給ふみぎり、当寺の千手尊の霊験あらたなるきこし召、しのび通夜し、願文を宝前こめ、終夜源氏の家運を祈給ふ、願書の大意ハ、頼朝みやこ清水寺の千手尊をあがめてより、信敬此尊にあり、あおぎ願ハくハ千手千眼のちかひを以て坂東八箇国の諸士を幕下に来らしめよ、所願の如く満足せば、永く観音の檀那となり、千手の堂宇并に寺院にいたるまで建立し、仏供料を寄附せんとなり、しかるに千葉 小山 宇都宮をはじめ八州の諸士ことことく来集し、相州鎌倉に入り給ふ、其後富士川に於て源平対陣のきざし、当寺の千手また富士中禅寺の千手に終日いのりありていはく、我引卒する所の二十万兵ハ皆是大菩薩の与へ給ふ軍士なれば、平氏を退けん事掌中にあり、いよいよ加護の御ぼうしを廻し勝事を得しめ給へとなり、其夜平氏の兵十万余水鳥の羽音に驚き退散と云々、夫より鎌倉に帰入ありて、願文の如く観世音の堂宇御再興并境内はう十町と定め、仏供料の地を御寄附あり、其後代かハり時移り、旧規の如くならずといへども、代々の将軍家より御朱印寺領頂戴し今に至れり。≪昔ハ大寺にて惣門ハ今の牛込御門の内、神楽坂ハ寺門の内にて、左右に南天の並木あり、俗に南天寺といひしと也≫

 治承四年(1180年)、源頼朝氏が相模石橋山で敗戦し、養和元年(1181年)、富士川の戦いで、行元寺の千手観音像に源家の家運を祈ると、勝利を収めました。なお、品川区教育委員会の行った文化財調査では、千手観音像は鎌倉末期から南北朝期の作とわかり、現存する千手観音は源信作ではなかったと判明しています。
なお、≪≫は割注で、wordでは簡単に作れますが、htmlでは簡単に作れません。

[現代語訳]その昔、右近衛大将 源頼朝公は伊豆国の石橋山合戦の後、安房、上総をへて武蔵に渡り、ここでこの寺の千手観音の霊験ははっきりと現れると聞き、人目を避けて夜中祈願した。仏の前に願文を置き、泊まり、終夜源氏の家運を祈ったのである。その大意は、頼朝は京都の清水寺の千手尊をあがめ、尊敬できるのはこの仏だけだという。千手千眼の誓いを聞き、関東8か国の諸士を幕下に参集を祈る願文を掲げ、結願した暁には、末永く観音の寄進者となり、千手堂や寺院にいたるまで建立し、仏具料を寄附しようという。すると、千葉・小山・宇都宮をはじめ関東8か国の在武士団が次々に参向し、相模国鎌倉に入った。その後、富士川で源平対陣があり、当寺の千手尊や富士の中禅寺の千手尊に終日祈って、引卒する二十万兵は全員、大菩薩の与えた軍士であり、平氏を退ける兆候があるという。いよいよ加護の御眸を廻し、勝事を決めたいとしたが、その夜、十万余の平氏の兵は水鳥の羽音に驚いて、退散したという。これで頼朝公は鎌倉に帰り、願文の内容と同じように、観世音の建物を再興し、境内は十町四方と定め、仏具料の土地として寄附した。その後、世代が変わり、時が移り、古い規定であるが、代々の将軍家から御朱印の寺領を頂戴して、今にいたっている。≪昔は大きな寺で、正門は現在の牛込御門の内側、神楽坂は寺門(中門)の内側にあり、左右には南天の並木がある。俗に南天寺といった≫

右大将 右近衛大将。右近衛府の長官。武器を持って宮中の警護、行幸の供奉などをつかさどった役所。
 みぎり。とき。ころ。おり。
あらたなる 神仏の霊験がはっきり現れるさま
忍て 人目を避ける。隠れ忍ぶ。
宝前 ほうぜん。神仏の前
籠む 祈念するために社寺に泊まり込む。
信敬 しんけい。信じて心から尊敬すること。
 いや。いよ。いよいよ。ますます。
坂東八箇国 関東地方の古名。相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関東8か国を坂東八国という。
所願 しょがん。神仏に願っている事柄。願い。
檀那 だんな。寺院や僧侶への寄付・寄進、布施。
堂宇 堂の建物
八州 かん八州はっしゅう。江戸時代、関東8か国の総称。
相州 そうしゅう。相模国と同じ
 物事が起ころうとする気配。兆候。
掌中 てのひらの中。自分の勢力の及ぶ範囲。
 ひとみ、目を開いてよく見る。
云々 以下略の意味。
 ほう。正方形の一辺の長さを示す語。
旧規 昔からの規則。古い規定。
朱印 江戸時代、将軍の朱印状で、寺領の年貢が免除された寺院や神社
惣門 外構えの大門。城などの外郭の正門。
寺門 じもん。寺の門。

中比太田備中守入道春苑道灌はじめて江戸の金城を築き、祈願寺を定めんと欲す、時に道灌おもへらく、さいわいに行元寺ハ伝教・慈覚両大師の開基、ことに右大将家祈をかけ源氏擁護の本尊たり、我また同流の源氏なり、祈願寺となすべしとて、金城堅固安鎮の法みな当寺に請て勤めしめ、又金城の落成を賀し、富士見櫓に於て当寺の院主を請じ、種々の布施を給り、自ら愛好する所の挿花瓶名を富士と称する名器を給ふ、所謂わが庵ハ松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見るの歌も此時となん、又当所赤城大明神ハ行元寺の境内にありて鎖守なり。≪其此大寺なればなり≫、応永年中当国六郷の城主松原讃岐守入道沙弥妙讚といふ武士あり、大般若経六百巻を書写せしめ、赤城の神祠に奉納す、応永の初より書写し文安元年甲子十一月七日に納む、時に当寺の現住等当代なり、巻軸ことに奥書して行元寺住持法印等当とあり≪赤城の神祠はもと当寺の鎮守たる故に大般若経今に行元寺に蔵め有之≫。其後天正年中に、小田原北条没落の時、氏直の北の方当寺に御入あり、時に饗応人不慮に失火して古記録等多く焼失せしとぞ、
かたじけなも寛永年中
大猷院殿の御時、右の古跡こせきの趣を聞し召れ、残る所の領地御朱印を下し給ふ、時の住持ハ伝慶なり、

 次は3つ、新しい事実がでています。1つ目は、太田道灌は江戸城の祈願寺は行元寺に決めたこと。2つ目、松原妙讚という城主は大般若経600巻を書写し、行元寺が所蔵していること。3つ目、北条は没落し、奥様は当寺に来たが、この時に料理人が失火したことです。

[現代語訳]太田道灌は初めて江戸に堅固な城を築き、祈願寺を定めようと思った。その時に、幸いに行元寺は伝教・慈覚両大師が創立し、特に源頼朝は家祈をかける擁護の本尊で、私自身も同流の源氏だという。そこで、行元寺を祈願寺にして、金城堅固安鎮の修法を行い、全員行元寺に祈って仏道に勤め、さらに、江戸城の落成を賀して、富士見櫓で行元寺の院主を招き、種々の布施を行い、自ら愛好する生け花の瓶で名を富士という名器も与えよう。いわゆる「わが庵は松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見る」の歌もこの時だろう。また、赤城神社は行元寺の境内にあり、守護神になっている。≪これは大きな寺だからだ≫。応永年間に当国六郷の城主の松原妙讚という武士がいて、大般若経の600巻を書写し、赤城の神祠に奉納した。応永の初めに書写をして、文安元年11月7日に納入した。時に行元寺の住職は等当で、巻軸ごとに奥書して、行元寺の最高僧正は等当だという。≪赤城の神祠はもとはこの寺の守護神で、そこで今でも大般若経は行元寺に収蔵している≫。天正年間に、小田原北条は没落し、その時、氏直の奥様は行元寺にお越しになったが、その時に饗応する人が不注意に失火して、古い記録等は多く焼失した。
かたじけないが、寛永年間に、徳川家光はこの有名な事件を聞き、残りの領地も御朱印とした。その時の主僧は伝慶である。

中比 まったくわかりません。太田道灌か、文章の一部なのか、不明です。
備中守 律令制で定めた岡山県西部の長官
太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。
金城 守りの固い城。堅固な城
祈願寺 神仏に願い事を行う寺社
我が庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る 太田道灌が詠んだ歌。意味は「私の家は松林の続く海の近くにあり、家の軒端からは富士の雄姿を見上げることができる」
安鎮法 あんちんほう。天皇・親王・将軍の住む邸宅の新築などに際し、その建物の安全や除災、国家の平安を祈る密教の修法。
請う 神や仏に祈って求める。
勤める 仏道に励む。勤行ごんぎょうする。仏事を営む。
富士見櫓 皇居東御苑にある三重櫓。唯一残った江戸城遺構。
挿花瓶 花を生ける瓶。生け花の瓶
赤城大明神 現在の赤城神社。
鎖守 一定の地域や施設を守護する神。
松原讃岐守入道沙弥妙讚 松原妙讚が布施をした。
大般若経 大乗仏教の経典。600巻。
現住 現にそこに住んでいる。またはその住居。
住持 じゅうじ。一寺の主僧を務める。その僧。住持職。住職。
法印 ほういん。僧位の最上位。僧正に相当。
北の方 公卿・大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語
饗応人 きょうおう。酒や食事などを出してもてなす人
辱くする かたじけなくする。おそれ多くも…していただく。…していただいてもったいなく思う。
大猷院 だいゆういん。徳川家光の戒名。

そも/\いにしへより今にいたるまで当寺千手観世音の利益を蒙しもの、あげてかぞへがたし。≪右大将頼朝公陣中にて御祈念ありし故、俗に襟懸観音といふ≫、或ハ遠流の罪を蒙りしもの此尊を祈りて速に赦免を蒙り≪貞享年中 山角氏≫、又ハ父の流罪を哀し女、七条の袈裟を自ら縫て住持に贈り護摩を修せしめ、遂に帰国ありて父子相遇ふ事を得たり≪天野氏≫、或ハ重病に沈みし者忽本復し≪上総僧慈観≫、又ハ安産の後絶死せるもの蘇生せしなと≪元禄年中 小笠原氏≫。其外不思議の霊験等住持法印雄賢の記せる本縁起に詳なり、近くハ天明年中にも、与に天を戴ざるの難あるもの、此尊に祈誓し其志を遂げ名を揚し事、諸人のしる所、まのあたりなれば、願ふ所の事一つとして満足せざる事なし、しからばすなハち一心称名観世音菩薩の威神力にハ百千万億衆生の諸苦悩を除き、一たび礼拝供養する輩ハ無量無辺の福徳を得ん事、弘誓深如海歴却不思議の金言疑あるべからず、別してハ武運長久・怨敵退散・諸病悉除・息災延命・諸願成就の霊験響の聲に応じる如し、あおいうやまふへく俯して信ずべしと云尓
寛政十年戊午孟秋   行元教寺現住法印海澄

 最後は効能です。十一面千手観世音を襟懸そでかけ観音というようです。

[現代語訳]そもそも過去から今日まで、当寺の千手観世音の利益を受ける人は、数多い。≪右大将の頼朝公が陣中で祈念をあげていて、俗に襟懸観音という≫。あるいは遠流の罪を受けた人が、この仏を前に祈ると、あっという間に赦免を受けたという ≪貞享年間で山角氏≫。父の流罪を哀しむ女性は、七条の袈裟を縫って、住持に贈り、護摩を焚くと、ついに帰国し、父と子が逢うことができたという ≪天野氏≫。さらに重病の者も治っている ≪上総僧慈観≫。また、出産時に死亡したが、生き返った人もある ≪元禄年間 小笠原氏≫。その外、人間の理解を越える霊験は最高僧正の雄賢の縁起に詳細に書いてある。近くは、天明年間、一緒にこの世に生きられない人は、この仏に祈誓し、その志を遂げ、名を揚げたことは、庶民が知っているところだ。願う所はすべて満足になる。観世音菩薩の威神力には百千万億の衆生が、あらゆる苦悩を除去し、ひとたび礼拝供養する人々は無量無辺の福徳を得て、「弘誓深如海歴却不思議」という金言には疑いはない。特に武運長久、怨敵退散、諸病悉除、息災延命、諸願成就の霊験はひびきの声に応じて、仰いで、うやまい、どうかどうか信ずるべきだという。

 そもそも。改めて説き起こすとき、文頭に用いる語。いったい。だいたい。
弘誓 ぐぜい。衆生を救おうとしてたてた菩薩の誓願。
別して べっして。特別であるさま。とりわけ。
云尓 云爾。漢文で、文章の終わりに用いて、これにほかならない。上述のとおり。

野口冨士夫|かくてありけり

文学と神楽坂

 野口冨士夫氏の『かくてありけり』(昭和53年)は自伝ですが、子供の時、母親と父親は別々に住んでいました。では、冨士夫氏と一緒に住んだ母親は、神楽坂のどこにいたのでしょうか。最初に『かくてありけり』です。

金鱗堂版の江戸切絵図にも行願寺と記されている行元寺は明治三十九年に西大崎へ転移したが、「寺内」という呼び方だけはのこっていて、母の家は一軒の例外もなく待合と芸者屋だけになってしまっていた「寺内」の、ほそい路地を幾まがりかしたいちばんどんづまりの位置にあった。そして、数えでもまだ二十五歳でしかなかった母は、平池という姓から一字取った池本という芸者屋の主人でありながら、自分もふみという名で(ひだり)(づま)を取っていた。

金鱗堂 きんりんどう。金鱗堂板や尾張屋板とも。金鱗堂板の江戸切絵図はもっとも有名。1849(嘉永2)年に発行。武家地が白、町家が灰、神社仏閣が赤、川や堀は青、道路が黄、土手や田畑や原が緑と色分けしています。
切絵図 きりえず。地域別に区切って作った絵図、つまり区分図。
行願寺 きょうがんじ。正しくは「牛頭山千手院行元寺」。天台宗東叡山に属するお寺。明治40年(1907年)の区画整理で品川区西大崎(現・品川西五反田4-9-1)に移転。現在の大久保通りができたのも、この年。ただし、大きな移転で、引っ越しは二~三年前から行われていました。
寺内 じない。かつて行元寺があり牛込肴町と呼ばれた地域。現在の神楽坂5丁目。
待合 まちあい。貸席業。待ち合わせや会合のための場所を提供します。
左褄 ひだりづま。芸者の異名。左手で着物の褄を持って歩くことから

 では母の家は? 最初に昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」ではこうなっています。なにもわかりません。
古老の記憶
 籠谷(かごたに)典子氏の『東京10000歩ウォーキング No 13. 新宿区 神楽坂・弁天町コース』(平成18年)では

大正六年より牛込区肴町53番地で、芸妓屋『池本』を営む母のもとで暮らすことになった

と書いてあります。また、東京都近代文学博物館の『野口冨士男と昭和の時代』(平成8年)でも

大正六年 牛込区肴町五十三番地に居住の生母のもとへ引き取られる

と記載しています。

 では肴町53番地はどこにあるのでしょう。昭和12年の「火災保険特殊地図」で53番地には2軒の家があるとわかります。行元寺
 上の家は「山喜」で、待合なので、違います。下の家は(妓)と書いてあり、まずここでしょう。現在、この一帯はマンション「神楽坂アインスタワー」に完全に覆われてしまいました。

文学と神楽坂

漱石と『硝子戸の中』16と17

文学と神楽坂

 十六

うちの前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があつて、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたつた一度そこで髪をつて貰った事がある。
 平生は白い金巾かなきんの幕で、硝子戸ガラスどの奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立つて、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。
 亭主は私の入つてくるのを見ると、手に持った新聞紙をほうしてすぐ挨拶あいさつをした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私のうしろへ廻つて、はさみをちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼はむか寺町郵便局そばに店を持つて、今と同じように、散髪を渡世とせいとしていた事が解った。
高田の旦那だんななどにもだいぶ御世話になりました」
 その高田というのは私の従兄いとこなのだから、私も驚いた。
「へえ高田を知ってるのかい」
「知つてるどころじゃございません。始終しじゅうとくとく、つて贔屓ひいきにして下すったもんです」
 彼の言葉づかいはこういう職人にしてはむしろ丁寧ていねいな方であった。
「高田も死んだよ」と私がいうと、彼は吃驚びっくりした調子で「へッ」と声をげた。
「いい旦那でしたがね、惜しい事に。いつごろ御亡おなくなりになりました」
「なに、つい此間こないださ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」
 彼はそれからこの死んだ従兄いとこについて、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日きのうの事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。

金巾(かなきん) 金巾平織りの綿。生地は薄く、のぼりの綿はほとんどこの金巾で作成しています。チェーン店の暖簾などでも多く使われています。
寺町 神楽坂6丁目は以前は通寺とおりてら町と呼びました。これと昔から名前は変わらない横寺よこてら町を併せて寺町と呼んでいました。
郵便局 T11郵便局図は大正11年の地図です。郵便局は〒で書かれ、神楽坂6丁目で今でいう新内横丁の西側に建っていました。現在は音楽之友社別館です。
高田の旦那 高田庄吉。漱石の父の弟の長男で、漱石の腹違いの姉・(ふさ)の夫です。
しっきゃ 「しか」。昨日の事と「しか」思われないのに。江戸なまりです。

宅の前 うちはこのころは漱石山房でした。下の地図は明治40年のものです。青い丸で囲んだ場所が漱石山房です。小川は同じく青で書いてあります。「一間ばかり」は1.8メートルぐらいです。赤い丸は橋の候補です。2つあり、下の赤い丸は漱石山房に近く、『ここは牛込神楽坂』第10号に書いてある場所です。もう1つは上の赤い丸で、弁天町に近く、北野豊氏の『漱石と歩く東京』(雪嶺叢書)ででてくる場所です。

M40

 

最初の説は『ここが牛込、神楽坂』第10号の「金之助少年の歩いた道を行く」で書いています。編集発行人の立壁正子氏と、先生、というのは「牛込のさんぽみち」の筆者高橋春人氏のことですが、2人の話があり、区立漱石公園の話に続いて

(漱石公園の)門を出、左へ坂を下ると小さな十字路に出る。「ほら、ここが例の小川だよ」という先生の説明に、え!と『硝子戸の中』を開く。
(『硝子戸の中』の引用文があり)
見逃すところだった。先生は「ここは暗渠になっているはず」と、そばのマンホールを覗きこむ。坂を横切る道の曲がり具合からもなるほどと納得。そして左角の印刷屋さんの先が「そう、床屋があったとこだね」

第2の説は北野豊氏の『漱石と歩く東京』にあり

 当時、漱石山房の東側に弁天堂の裏手を流れてくる小川があり、宗参寺の東側で鍵の手に曲って、早稲田田圃の方へ流れ下りていた。その鍵の手に曲った辺りに、南北に轟橋という小橋が架けられ、この床屋はその向こう側にあった。

第1の説と第2の説と、どちらがいいのでしょう。ここで、浅見潤氏が書いた『昭和文壇側面史』を読むと

“矢来の坂下から榎町通りを真直ぐいって、初めての十字路を左に柳町の電車の停留所の方に折れ、少し行くと右に曲がって弁天橋を渡る狭い路がある。これを少し行って、だらだら坂の途中の右手にあるのが、漱石の晩年に住んでいた、早稲田南町7番地の家である”
 小宮豊隆の言っているこの家だ。
(中略)
 小さな床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていた。

と書かれています。これで第1の説が正しいとわかります。現在は暗渠になっている、橋はなくなった場所が弁天橋の場所でした。

「あのそら求友亭きゅうゆうていの横町にいらしってね……」と亭主はまた言葉をぎ足した。
「うん、あの二階のあるうちだろう」
「えゝ御二階がありましたつけ。あすこへ御移りになつた時なんか、方々様ほうぼうさまから御祝ひ物なんかあつて、大変御盛ごさかんでしたがね。それからあとでしたつけか、行願寺ぎょうがんじ寺内じないへ御引越なすったのは」
 この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。
「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入つて見た事もないが」
「変つたの変らないのつてあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
 私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかつたので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋つたら、寺内にたつた一軒しきや無かつたもんでさあ。東家あずまやつてね。ちょうどそら高田の旦那の真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは」

成金横丁求友亭 きゅうゆうてい。昔は通寺町、今は神楽坂6丁目にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。求友亭の横町は「川喜田屋横丁」のことです。
行願寺 ぎょうがんじ。昔はここあたり一帯は正しくは行元寺(行願寺は誤り)の土地でしたが、ここは行願寺で書いておきます。行願寺は明治40年に品川区に引越ししています。
古老の地図 寺内(じない)へ引っ越し 図は新宿歴史博物館『新宿区の民俗』(5)牛込地区篇から。寺内というのは寺の境内で、ここでは行願寺の境内です。一種の自治集落でした。この高田氏の家は万長酒店の貸し家(家作(かさく))でした。住んだ場所は下の絵に。これは『ここは牛込、神楽坂』の第10号で出ています。今では神楽坂アインスタワーの一角になりました。

待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
肴町 さかなまち。牛込区肴町は今の神楽坂5丁目です。行願寺、高田、足袋屋、誰が袖、東屋などは全て肴町で、かつ寺内でした
足袋屋 昔の万長酒店がある所に「丸屋」という足袋(たび)屋がありました。現在は第一勧業信用組合がある場所です。
誰が袖 たがそで。誰袖とは「匂い袋」のこと。しかし、ここでは、待合「誰が袖」のこと。後に「三勝さんかつ」という名になります。さらに現在は神楽坂アインスタワーの一角に。これを詠んだ漱石氏の俳句…

誰袖や待合らしき春の雨
(岩波書店『漱石全集 第17番』、句番号2344。)

東屋 あずまや。寺内の「吾妻屋」のこと。ここも現在は神楽坂アインスタワーの一角になっています。
御神灯 神に供える灯火。職人・芸者屋などで縁起をかついで戸口につるす「御神灯」と書いた提灯のこと。
 

 十七

私はその東家をよく覚えていた。従兄いとこうちのついむこうなので、両方のものが出入ではいりのたびに、顔を合わせさえすれば挨拶あいさつをし合うぐらいの間柄あいだがらであったから。
 その頃従兄の家には、私の二番目の兄がごろごろしていた。この兄は大の放蕩ほうとうもので、よく宅の懸物かけものや刀剣類を盗み出しては、それを二束三文に売り飛ばすという悪いくせがあった。彼が何で従兄の家にころがり込んでいたのか、その時の私には解らなかつたけれども、今考えると、あるいはそうした乱暴を働らいた結果、しばらくうちを追い出されていたかも知れないと思う。その兄のほかに、まだ庄さんという、これも私の母方の従兄に当る男が、そこいらにぶらぶらしていた。
 こういう連中がいつでも一つ所に落ち合つては、寝そべつたり、縁側えんがわへ腰をかけたりして、勝手な出放題を並べていると、時々向うの芸者屋の竹格子たけごうしの窓から、「今日こんちは」などと声をかけられたりする。それをまた待ち受けてでもいるごとくに、連中は「おいちょっとおいで、好いものあるから」とか何とか云つて、女を呼び寄せようとする。芸者の方でも昼間は暇だから、三度に一度は御愛嬌ごあいきょうに遊びに来る。といつた風の調子であった。
 はその頃まだ十七八だったろう、その上大変な羞恥屋はにかみやで通っていたので、そんな所に居合わしても、何にも云わずに黙ってすみの方に引込ひっこんでばかりいた。それでも私は何かの拍子ひょうしで、これらの人々といっしょに、その芸者屋へ遊びに行って、トランプをした事がある。負けたものは何かおごらなければならないので、私は人の買った寿司すしや菓子をだいぶ食った。
 一週間ほどつてから、私はまたこののらくらの兄に連れられて同じ宅へ遊びに行ったら、例の庄さんも席に居合わせて話がだいぶはずんだ。その時咲松さきまつという若い芸者が私の顔を見て、「またトランプをしましょう」と云つた。私は小倉こくらはかま穿いて四角張つていたが、懐中には一銭の小遣こづかいさえ無かった。
「僕はぜにがないからいやだ」
「好いわ、わたしが持つてるから」
 この女はその時眼を病んででもいたのだろう、こういい、綺麗きれい襦袢じゅばんそででしきりに薄赤くなつた二重瞼ふたえまぶちこすっていた。
 その私は「御作おさくが好い御客に引かされた」といううわさを、従兄いとこうちで聞いた。従兄の家では、この女の事を咲松さきまつと云わないで、常に御作御作と呼んでいたのである。私はその話を聞いた時、心の内でもう御作に会う機会もないだろうと考えた。
 ところがそれからだいぶ経つて、私が例の達人たつじんといつしょに、芝の山内さんない勧工場かんこうばへ行つたら、そこでまたぱつたり御作に出会った。こちらの書生姿にえて、彼女はもうひんの好い奥様に変っていた。旦那というのも彼女のそばについていた。……
 私は床屋の亭主の口から出た東家あずまやという芸者屋の名前の奥にひそんでいるこれだけの古い事実を急に思い出したのである。
「あすこにいた御作という女を知つてるかね」と私は亭主に聞いた。
「知ってるどころか、ありや私のめいでさあ」
「そうかい」
 私は驚ろいた。
「それで、今どこにいるのかね」
「御作はくなりましたよ、旦那」
 私はまた驚ろいた。
「いつ」
「いつつて、もう昔の事になりますよ。たしかあれが二十三の年でしたろう」
「へええ」
「しかも浦塩ウラジオで亡くなったんです。旦那が領事館に関係のある人だったもんですから、あっちへいっしょに行きましてね。それから間もなくでした、死んだのは」
 私は帰って硝子戸ガラスどの中に坐って、まだ死なずにいるものは、自分とあの床屋の亭主だけのような気がした。

二番目の兄 漱石の兄弟は大一(大助)、栄之助(直則)、和三郎(直矩)、久吉(3歳で死亡)の4兄と、さわ、ふさの異母姉、ちか(1歳で死亡)の姉がいました。二番目の兄は栄之助です。大一と栄之助の2人の兄は漱石21歳の時に結核で死亡します。栄之助は漱石の10歳年上です。
庄さん 福田庄兵衛。漱石の従兄で姉婿で、芸者屋「吾妻屋」の旦那です。これは夏目伸六氏の『父・夏目漱石』「漱石の母とその里」に出ています。
芸者 昔は神楽坂は芸者がいっぱいにいました。
竹格子 細竹を組み合わせて作った格子
小倉 「小倉織り」。良質で丈夫な木綿布
例の達人 漱石全集(岩波書店)によれば、「太田(おおた)達人(たつと)。慶応2(1866)~昭和20(1945)年。漱石と達人は明治16年成立学舎で同期となり、17年に大学予備門に入学した。達人は岩手県盛岡生まれ。帝国大学理科大学物理学科卒」と書かれています。
芝の山内の勧工場 勧工場は建物1棟に種々の商品を陳列、販売した所。明治政府から芝の山内全域が芝公園と指定され、東の平地には勧工場(下図)ができました。現在の港区役所と共立薬科大学を併せた巨大な敷地でした、勧工場は明治20~30年代にかけ全盛期を迎えます。しかし、「勧工場もの」という言葉が、安物の代名詞とし広がり始めると、大正3年(1914)にはわずか5か所にまで減り、衰退していきます。かわって高級品を扱うデパートがでてきます。芝公園勧工場
浦塩 ウラジオ。ロシアの日本海岸にあるウラジオストクのことで、日本の札幌市とほぼ同緯度。もとは日本人の居留人が多いところでした。

神楽坂 作家と文化人