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神楽坂1丁目(写真)昭和45年 ID 64

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 64は、昭和45年(1970年)3月、牛込見附(現、神楽坂下)交差点から神楽坂1丁目などを撮ったものです。大きな左向きの矢印は坂下から坂上までの一方通行を示し、街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に「神楽坂通り」の標識と、藤の形の造花がたくさんあります。電柱の上には柱上変圧器があり、また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつできました。横断歩道はここでは2本の直線だけですが、工事で一時的に消されていて、上の1本は自動車の停止線です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 64 神楽坂入口から坂上方向

神楽坂1丁目(昭和45年)
  1. Pachinco ニューバリーパチンコ。
  2. 電柱広告「鮨・割烹 八千代鮨」(本多横丁にある)
  3. 天井に〇RAYA(フルーツパーラー 田原屋)
  4. 清水本店
  5. 生そば(翁庵
  6. 中華料理 信華園
  7. 1丁目の田口屋生花店がビルに。五階建て
  8. パール。ビリヤード。小栗横丁にありました。
  1. 足袋・Yシャツ 赤井商店。吊り看板の「公衆電話」とその下に2台の電話
  2. 津田印店
  3. 原稿用紙 事務用品 山田紙店
  4. FUJIYA 不二家洋菓子
  5. 消火栓標識と消火栓広告「(ふ)とんのひしや(菱屋)」
  6. ビル「軽い心
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック

住宅地図。昭和39年 人文社 日本分県地図地名総覧

神楽坂2丁目(写真)昭和27年頃 ID 28-30

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 28からID 30を見ていきましょう。今日は晴れ。長袖の人が多く、夏以外の季節。撮影の方向は、ID 28からID 29は坂上を、ID 30は坂下を見ています。簡素でまん丸の街灯は電笠もなく、これは昭和28(1953)年以前にあたります。昭和28年、新宿歴史博物館 ID 21には鈴蘭灯がありました。また歩道はどぶ板しかなく、平気で道を歩いています。

新宿歴史博物館 ID 28 神楽坂途中、2丁目付近

 メトロ映画では「情無用の街」という洋画をやっていました。日本の初演では1952(昭和27年)1月19日でした。理髪バンコク館があり、電柱看板「旅館 碧逢」があります。小栗横丁への入口の左側から日光がさしています。中央に横書きで「ニュー」がありますが「ニューイトウ」です。

1952年、火災保険特殊地図

新宿歴史博物館 ID 29 神楽坂途中、2丁目付近

 最左端は「生花や」で、田口屋生花店です。隣には鰻の「志満金」、尾崎屋(靴店)、田金果物店、八食品、大島糸店と続きます。のぼり旗は「歳末大売り出し」で、良く見るとID 28でも確認できます。
 郷土出版社の「新宿区の100年」(2015年)では……

神楽坂、志満金前(昭和20年代後半)
現・神楽坂2丁目。手前が鰻料理の老舗として名高い「志満金」。大売出しの日、各店の人たちが勢ぞろいした一コマ。神楽坂界隈は戦災でほぼ全焼に近い打撃を受けたが、戦前からの馴染み客たちの後援もあって、早くから復興した。志満金は現在もグルメスポットの一店である。

新宿歴史博物館 ID 30 神楽坂途中から坂下方向

 マーサー美容院の巨大な看板「パーマネント」があり、すぐ下には将来の「神楽坂仲通り」があります。右側にも隙間があり、これは「神楽坂仲坂」です。すぐ下には大きな壁面看板があり、太陽堂です。横断幕「火」も出ていますが。「火の用心」でしょう。地元の方は「新宿歴史博物館 ID 28-29には横断幕はなく、逆にID 30には『歳末大売り出し』が見えない。電柱の電線の数(横木の数)はID 30の方が少ない。よってID 30の方が古い写真と思われます」といいます。
 地元の方は「①は神前結婚式を創始した東京大神宮(千代田区富士見)の大神宮会館。結婚式場のはしりでした。②は国鉄飯田橋駅西口駅舎。③は東京ルーテルセンター教会の塔。塔の左側(背後)は暁星学園か、母体の修道院(いずれも千代田区富士見)。④はメトロ映画。⑤はニューイトウ(後に靴店)。⑥はその隣で陶柿苑。写真に写っているような下りの車が誤って突っ込んだわけです。⑦は「喫茶 七福」。良く見ると下の看板にもコーヒーカップの絵が見えます」

新宿歴史博物館 ID 30

 地元の人は「謎が、ようやく解けました。角に『七福』はあったんです。仲通の角が少しへこんでいて(正確には、建物の中に三和土のような場所があり)マーサと七福は入り口を共有していたと思われます。解説図を添付しました。新宿歴史博物館 ID 8 ID 10では七福はなくなっていますが、マーサの入り口が凹んでいるのが分かります」
 しかし、私にとっては「パーマネント」の「ト」の下にマーサー美容院の入口があるとも思えています。

住宅地図。人文社。1962年 喫茶 七福

住宅地図。住宅協会地図部

神楽坂|昭和36、7年(写真)観光案内 vs ID 17

文学と神楽坂

 2枚の写真を比べてみましょう。昭和36年と37年です。最初は昭和36年、1961年です。場所は神楽坂1丁目から2丁目です。図は拡大できます。

県別・写真・観光日本案内 東京都 昭和36年

 右側の前から見ると……

  1. 神楽堂。パンなどの店舗
  2. 何も書いていないけど、紀の善。甘味処です。
  3. MEN’S WEARの前に神楽小路が見える
  4. 白い建物の1階はテーラー和田屋、2階が理容バンコック。MEN’S WEARとWA⚫⚫YA。道路には床屋のサインポール
  5. ダンス。神楽小路の奥にあった小柳ダンス教室
  6. メトロ映画で「江戸っ子肌」公開は1961年2月と「兵六大臣行状記」公開は1961年2月。最初に封切りをする1番館でした。
  7. トリスバー
  8. 「志乃多寿し」
  9. 1軒が間に入り、パチンコマリー

 次は1962年です。昭和37年で、新宿歴史博物館のID 17です。場所は神楽坂1丁目から2丁目です。

新宿歴史博物館 ID 17 神楽坂下から坂上方向 昭和37年頃

 最初は左側の前から後ろに向かっていきます。

  1. 甘味 桜井。ここは1丁目。
  2. パール ビリヤード。現在はないが、小栗横丁にあった。
  3. 小栗横丁に行く小道
  4. 壁面看板の「花 田口屋」。ここから2丁目
  5. 電柱看板で「川島歯科」。現在はないが、藁店にあった。
  6. 志満金

 次は右側の前から後ろにです。場所は2丁目です。

  1. 床屋のサインポール
  2. メトロ映画で「九ちゃん音頭」公開は1962年7月と「男度胸のあやめ笠」公開1962年6月
  3. 白い建物はスナックとバー みなみ
  4. 志乃多寿し
  5. 山一薬品
  6. パチンコマリー

 しかし、1961年と1962年の場合、もう1つ、大きな違いがあります。つまり、街灯が違っているのです。1961年はいわゆる「鈴蘭灯」で、下向きの2つ、上向きが1つの電灯がありました。おそらく1955年ごろから使ったものです。

 これは「神楽坂下の夜景(写真)」でもみられます。

 1962年は極めて簡単で、大きな電灯は1つだけです。

 1961年2月から62年7月までに街灯は変えられたと考えています。

すずらん通り=本多横丁(写真)

文学と神楽坂

 本多横丁はかつて「すずらん通り」といっていました。記憶に頼ると、巨大なアーチ看板もあったと思います。しかし、写真はない。本当にない。そこで新宿歴史博物館に聞いてました。なんと「すずらん通り」がはいった写真は1枚だけで…

昭和20年代。新宿歴史博物館蔵

しかもピンボケ。でも電柱2本に「すゞらん」と書いてある。

すゞらん通り(拡大図)

 ちなみに、下水はこの時点で汲み取りのおかげで、きれいでした。

 新宿歴史博物館はもうひとつ写真を貸してくれました。

 こちらは2階建ての家が少ないことから、時代は少し早く、まだ「すゞらん」と書いていません(と思う)。また、昭和20年代の本多横丁の街灯は、昭和30年代に神楽坂通りで見た街灯(↓)とは少し違っています。

昭和34年。坂下から坂上を見る。『目で見る新宿区の100年』(郷土出版社、2015年)

 まず地図を見ておきます。これは昭和27年の地図です。中央は本多横丁で、一番下は神楽坂通り。

本多横丁(火災保険特殊地図 都市製図社 昭和27年)

 その次は昭和35年の住宅地図しかありません。これは左に神楽坂通りがあり、真ん中が本多横丁です。

住宅地図。昭和35年

 神楽坂通りに近い場所から写真を撮ったもので、では左から…(図は拡大できます)

  1. 「う」でしょうか? おそらく「うなぎ」で、「たつみや」
  2. 「中村屋本店」。戦前からある染め物と洗い張り屋。京染(きょうぞめ)とは京都で染めた、また京都風の染め物の総称。
  3. 「めん類食堂」。海老屋そばでしょう。
  4. 「松月」?。この時代は明月堂ではなかった。
 では右側に移って
  1. 「㐂らく寿司」でしょう。現在もあります。
  2. 「神楽坂グリル」?
  3. 「す」だけがわかります。
  4. 「魚鶴」だといいのですが、違うなあ。しかし、ひさしがある点で、魚屋でもいい。地元の方は「『うを鶴』または『魚▲鶴』(▲は屋号のマーク)と読めそう」といっています。
  5. 「パーマネントみすず」
  6. 「飯田橋 犬猫の診療所」の場所は不明です。
  7. 何か書かれています。濁点(゛)だけがわかります。
  8. 3文字ぐらいのおそらくカタカナも不明です

いつ「本多横丁」になったのか|スタンド看板

文学と神楽坂

 本多横丁の串カツなどの店舗「本多鉄〇てつまる横丁」の前に「本多横丁」について書かれたものがあります。

本多横丁について

本多横丁について

      本 多 横 丁

 その名の由来は、江戸中期より明治初期まで、この通りの東側全域が本多家の邸地てあったことによる。御府内沿革図書第十一巻切絵図説明に、本多修理屋敷脇横町通りとあり、往時は西側にも武家屋敷の立ち並ぶ道筋であった。なおこの本多家は、禄高一万五百石をもって明治を迎えた大名格の武家と伝えられる。
 神楽坂界隈は明治以降、縁日と花柳界で知られる商店街として発展し関東大震災後より昭和初期には、連日の夜店が山の手銀座と呼ばれる賑わいをみせ、この横町も、多くの人々に親しまれるところとなった。
 後の太平洋戦争末期には、この地も空襲により焼土と化したか、いち早く復興も進み、やがて本多横丁の旧名復活を期して商店会発足となった。
 石畳の路地を入れば佳き時代の情緒を伝え、また幾多の歴史を秘めて個性豊かな商店通りとして歩みを続けている。
    昭和60年7月
本多横丁商店会


御府内沿革図書 ごふないえんかくずしょ。江戸の延宝年間から幕末までの地図集。1808年に収集を開始。
本多修理 本多家の三代目の本多修理忠能が神楽坂に移動。元禄五(1692)年以降である。
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
山の手銀座 下町の銀座は銀座です。こう書くのは抵抗がありますが、しかし昔の銀座は典型的に下町でした。一方、山の手の銀座は神楽坂です。関東大震災ごろから言い始めたようですが、2-3年も立たないうちに新宿が大きくなりました。
旧名復活 本多横丁は昭和24年頃「スズラン横丁」に変更し、昭和27年頃、本多横丁に戻しました。

 問題は、この旧名復活です。「スズラン横丁」から「本多横丁」に戻したのですが、それはいつでしょうか。上の「昭和27年ごろ、本多横丁に戻した」というのは、本当でしょうか。

 新宿ルーペでは

昭和24年頃、戦災で焼け残ったスズラン型の街灯にちなみ、「スズラン横丁商店会」として発足。その後、旧名の本多横丁の復活を望む声が多くなり、27年頃「本多横丁商店会」に改名。

と書いてあります。昭和27年に商店会としては「本多横丁商店会」に変えたとしても、「すずらん通り」という大きな街灯看板も残っていました。その街灯看板を変更したのは昭和50年ごろです。たとえば「神楽坂を良く知る教科書」(2015年)では

本多横丁
 名称はこの横丁の東側にあつた徳川家家老「本多対馬守」屋敷に由来する。一時「すずらん通り」と呼ばれたが、昭和50年ごろに戻された。両側に寿司屋、鰻屋、居酒屋等が並び「芸者新道」、「かくれんぼ横丁」などの路地にもつながる賑やかな坂である。

 町をよく知る人は「憶測ですが、街灯には区の補助が出るので正式な名前を変えにくかったのかも知れません。『本多横丁の旧名復活を期して商店会発足』し、その記念にスタンド看板を立てたのが「昭和60年7月」というのが自然に思えます」といっています。