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野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈①


文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)は、昭和44年春から45年秋までの記録で、46年に「改稿東京文学散歩」として刊行し、昭和53年には「その後書き加えた新しい資料も多く、全面的に筆を加えて決定版とした」ものです。
 「牛込界隈」の全部は著作権の関係で、引用できません(と思います)。そこで、そのうち一部を引用します。

   神楽坂
 大江戸成立以来の歴史的地域として牛込の名は明治以後も東京山の手の区名にのこされたが、現在は新宿区に含まれて、遂に地図からもその文字は消されてしまった。しかし、二十年前の敗戦混乱という塀の向うの歴史には牛込の文字がひしめいていて、それを知らねば二十年前の歴史さえ理解出来ないのである。
 牛込から江戸城への入口であった牛込見附跡の石垣は富士見二丁目北寄りの一角に厳然と今も残り、史跡となっている。その牛込見附跡を今日の出発点として、わたくしは中央線を(また)牛込橋を渡り、飯田橋駅南口前から外壕を横切る坂を下った。歩道に生きのこる老柳の陰から、その正面に牛込界隈かいわい第一の繁華街神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る。

富士見二丁目

牛込 東京都新宿区の地域名。旧東京市牛込区。主な地名として神楽坂、市谷、早稲田など。地名の由来は、昔、武蔵野むさしのの牧場があり、多くの牛を飼育したことから。
区名 戦前は牛込区がありました。
富士見二丁目 東京都千代田区の地名。地図は右図に。
老柳 新宿区によれば、現在はハナミズキとツツジ(http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000180899.pdf)。柳は枝葉が下がって通行に支障があり、葉が小さく緑陰に乏しいため街路樹には向きません。

 神楽坂! いつもお祭りの神楽の笛や太鼓の遠音が坂の上から聞えてくるような街の名である。その地名もどうやら神楽に因縁があるらしい。「江戸砂子市谷八幡の祭礼に、神輿(しんよ)、牛込門の橋上に留まりて神楽を奏するより名を得たるとなし、江戸志は、穴八幡の祭礼に此の阪にて神楽を奏するより(なづ)くと云ひ、改撰江戸志は、津久戸社田安より今の地に移るの時、神楽を此阪に奏せしよりの名なりと記す。」と明治の『東京案内』には記されている。いずれにしても神社が多く祭礼が多いのは牛込の繁昌はんじょうを物語るものであろう。江戸以前の牛込氏居城址といわれる所も神楽坂を上ってまた左へ、藁店(わらだな)の坂を辿ったその上の袋町の台地一帯である。神楽坂は牛込氏時代から開かれていた坂道だったに違いあるまい。
 ところで現在の神楽坂は、東の牛込見附に近い坂下の外濠に面して警察署のあるあたりが神楽河岸で、東から西へ坂に沿って一丁目から六丁目まで続き、「神楽坂町」が「神楽坂」何丁目になっている。そのうち一丁目から三丁目までは以前と大した変化もないようだが、その次の四丁目は以前の宮比町、五丁目は(さかな)、そして今もまだ都電が走りつづけている旧肴町の十字路をそのまま西へ越したゆるやかな坂道の六丁目は旧通寺町である。またその先の矢来町の新称早稲田通りに矢来町ならぬ神楽坂という地下鉄駅が最近に開かれたので、神楽坂の名だけが勝手に飴棒のように引きのばされた感じである。自国の歴史認識さえ失った為政者共は、町名や地名を糝粉(しんこ)細工(ざいく)と勧違いして、勝手にいじくるのをよろこんでいるのではなかろうか。そんな感じさえする。

神楽 神をまつるために奏する舞楽。民間の神事芸能。
市谷亀岡八幡宮 いちがや かめがおか はちまんぐう。新宿区市谷八幡町にある八幡神社です。太田道灌が文明11年(1479年)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を守護神として勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して、亀岡八幡宮と称した。江戸城外濠が完成の後、茶の木稲荷のあった当地に遷座。明治5年に郷社に。
神輿 みこし。祭礼の時に、神体を安置してかつぐ輿(こし)
江戸志 写本。明和年間に、近藤義休が編集し、文化年間に、瀬名貞雄が増補改正した。
穴八幡 新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。
改撰江戸志 原本はなく、成立年代は不明。文政以前(1818~1830年)にはあったらしい。
津久戸社田安 元和2年(1616年)、それまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。
『東京案内』 正確には東京市市史編纂係編「東京案内」下巻(裳華房、1907年)。インターネットでは国立図書館の「東京案内」の146コマ目。
牛込氏 当主大胡重行は戦国時代の天文年間(1532~55)に南関東に移り、北条氏の家臣となりました。天文24年(1555)、その子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近などを領有。天正十八年(1590)、徳川家康に家臣となり、牛込城は取壊。
居城址 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)では牛込氏の居城址の想像図を出しています。
警察署 昔は警察署がありました。現在の警察署は南山伏町1番15号に。
神楽河岸 昭和56年の地図で緑の部分。
最近に開かれた 地下鉄の神楽坂駅は、1964年(昭和39年)12月に開業。
飴棒 あめんぼう。駄菓子。棒状につくった飴。
糝粉細工 うるち米を洗って乾かし、ひいて粉にした糝粉を蒸して餅状にし、彩色し、鳥、花、人間などの形にした細工物

  早稲田派の忘年会や神楽坂
という句が正岡子規の明治三十一年俳句未定稿冬の部(『子規全集』巻三)にある。この句は明治時代の神楽坂が当時の東京専門学校後の早稲田大学)のいわゆる早稲田書生の闊歩かっぽする街であったことと、宴会などが盛んに催されるような料亭などが多い街であったことを示している、この句の作られた明治三十一年十月までは、東京専門学校から明治ニ十四年十月創刊以来の第一次「早稲田文学」が発行されていて、坪内逍遙傘下の早稲田派がぼつぼつ文壇に擡頭しつつあった。「早稲田文学」が自然派の拠城として文壇を占拠するまでになり、実際に早稲田派の名が文壇にひろまったのは、島村抱月が逍遙の後を継いで主宰した明治三十九年一月からの第二次「早稲田文学」時代だが、子規のこの一句によって神楽坂はそれ以前から早くも文学的地名になっていたことが伺われる。

東京専門学校 明治15年(1882年)「東京専門学校」が開設し、10月21日、東京専門学校の開校式。明治35年(1902年)9月、「早稲田大学」の改称を認可。
早稲田大学 明治37年(1904年)、専門学校令に準拠する高等教育機関(旧制専門学校)。大正9年(1920年)、大学令による大学となりました。
第一次「早稲田文学」 明治24年10月20日「早稲田文学」の創刊号を発行。明治26年9月、第49号からは誌面が一新。純粋の文学雑誌に転身。明治31年10月まで第一次「早稲田文学」は156冊を出版。
拠城 活動の足がかりとなる領域。
第二次「早稲田文学」 1905年、島村抱月の牽引によって第二次「早稲田文学」を開始。

 神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る、とわたくしは云った。わたくしが神楽坂や早稲田あたりをはじめて歩いたのは昭和四年春からのことで、その後昭和八、九年頃にわたくしは近くの飯田町で貧乏文学青年の生活をはじめていて、毎夜のように神楽坂を歩き廻った。酒をたしなむのでもなく、また用事があるのでもなかったが、日に一度は必ずそこにゆかないと夜もおちおち眠れぬような気持で、ただわけもなく坂の夜店を冷やかしたり、ときには山田とか相馬屋とかの文房具店で原稿用紙を買ったり、友人と顔を合せては田原屋フルーツ・パーラーとか、白十字紅屋などの喫茶店で語りあうのが常であった。神楽坂は大正十二年の大震災で下町方面が焼けた後、一時は銀座あたりの古い暖簾のれんの店が分店を出し、レストランやカフェーなども多くなって牛込というより東京屈指の繁華街であった。牛込銀座などと呼ばれたのもその頃である。わたくしが上京した頃は銀座も既に復興していたが、神楽坂の夜の賑わいなどは銀座の夜に劣るものではなかった。……それが昭和の戦火で幻のように消えてしまったのである。
 戦後二十四年、思い出のフィルターを透してのぞく神楽坂には、必ずしも戦前ほどのうるおいもたのしい賑わいも感じられないが、復興に成功して繁栄を収り戻した街には違いない。わたくしは一丁目に新装した山田紙店の、わざわざ原稿用紙と大きく書いた看板文字をなつかしい気持で眺め、左側の一丁目とニ丁目の境の小路入口、花屋の角で足をとめた。その小路をはいった右側のあたりが、どうやら泉鏡花の住居跡に当るからである。
田原屋フルーツ・パーラー これは神楽坂の中腹、三丁目にあった「果物 田原屋」を指すのでしょう。

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会から

ここは牛込、神楽坂」第17号の「お便り 投稿 交差点」で故奥田卯吉氏は次のように書いています。

 創業時の田原屋のこと。神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた。(略)
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。それは格調高いもので、大理石張りのショーウインドーがあり、店内に入ると夏場の高原調の白樺風景で話題になった中庭があり、朱塗りの太鼓橋を渡ると奥が落ち着いたフルーツパーラーになっていた。突き当たりは藤棚のテラスで、その向こうは六本のシュロの木を植えた庭があり、立派な三波石が据えられていた。これが親父の自慢で『千疋屋などどこ吹く風』だった。」と書いています。

飯田町 現在は飯田橋一丁目から三丁目まで。飯田町は飯田橋一丁目と二丁目からできていました。地図はhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/d8/Chiyodacity-townmap1.png
暖簾 のれん。屋号などを染め抜いて商店の先に掲げる布。信用・名声などの無形の経済的財産。「暖」の唐音「のう」が変化したもの。

神楽坂のほかの町

文学と神楽坂

袋町は神楽坂から一歩離れた場所です。袋町の由来地蔵坂の由来について、さらに地蔵坂の散歩をします。

現在は想像できませんが、桜は非常にきれいだったといいます。

出版クラブ会館の話から、江戸時代に同じ場所にあった新暦調御用所、大正時代では一平荘について、さらにここで死亡したという真っ赤の嘘で有名な幡随院長兵衛について。

新坂正雪の抜け穴光照寺都館と文士切支丹の仏像、活動写真の牛込館を扱います。

盛り場文壇盛衰記|川崎備寛

文学と神楽坂

 川崎備寛氏が書いた「盛り場文壇盛衰記」(小説新潮。1957年、11巻9号)です。「山の手の銀座」は関東大震災から2、3年の間、神楽坂を指して使いました。神楽坂が「山の手の銀座」になった始まりと終わりとを書いています。

 たしか漱石の「坊つちやん」の中に、毘沙門さまの縁日に金魚を釣る話がでていたとおもうが、後半ぼくが神樂坂に下宿するようになつた頃でも毘沙門天の縁日は神樂坂の風物詩として残つていて、その日になるとあちらの横町、こちらの路地から、藝者たちが着飾つた姿でお詣りに来たものである。その毘沙門天と花柳街とを中心とした商店街、それが盛り場としての神樂坂だつたのだが、山ノ手ローカル・カラーというのであろうか、何となく「近代」とは縁遠い一郭を成している感じで、表通りはもちろんのこと、横町にはいってもどことなく明治時代からの匂いが漂つているようであつた。銀座のような派手な色彩や、刺戟的な空氣はどこにも見られなかつた。

 と一歩遅れた神楽坂の光景が出てきます。神楽坂が「山の手の銀座」になるのは、まだまだ先のことです。

坊っちゃん 夏目漱石の小説。 1906年『ホトトギス』に発表。歯切れのよい文体とわかりやすい筋立て。現在でも多くの読者がいます。
毘沙門 善国(ぜんこく)()は新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の()沙門(しゃもん)(てん)は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。
縁日 神仏との有縁(うえん)の日。神仏の降誕・示現・誓願などの(ゆかり)のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
風物詩 その季節の感じをよく表しているもの
藝者 宴席に招かれ、歌や踊りで客をもてなす者
花柳界 芸者や遊女の社会。遊里。花柳の(ちまた)
盛り場 人が寄り集まるにぎやかな場所。繁華街<
山ノ手 市街地のうち高台の地区。東京では東京湾岸の低地が隆起し始める武蔵野台地の東縁以西のこと。四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたりです。
ローカル・カラー その地方に特有の言語・人情・風習・自然など。地方色。郷土色
一郭 同じものがまとまっている地域

 ところが、少し大袈裟だがこの街に突如として新しい文化的な空気が(誇張的にいえば)押し寄せるという事件がおこつた。それは大正十二年の関東大震災だつた。銀座が焼けたので、いわゆる文化人がどつとこの街に集まつて來たからである。文壇的にいえば震災前までは、神樂坂の住人といえばわずかに袋町都館という下宿に宇野浩二氏がおり、赤城神社の裏に三上於莵吉氏が長谷川時雨さんと一戸をもつているほかは、神樂館という下宿に廣津和郎氏や片岡鐡兵氏などがいた程度だつたが、震災を契機に、それまでは銀座を唯一の散歩または憩いの場所としていた常連は一時に神樂坂へ河岸を替えることになつたのだ。しかし何といつても銀座に比べると神樂坂は地域が狭い。だから表通りを散歩していると、きつと誰か彼かに出会う。立話しているとそこへまた誰かが來合わせて一緒にお茶でものむか一杯やろうということになる。そんなことはしよつちゆうあつた。郊外に住んでいるものも、午後から夕方にかけて足がしぜんと神樂坂に向くといつた工合で、言って見れば神樂坂はにわかに銀座の文化をすっかり奪つたかたちだつたのだ。

 つまり「山の手の銀座」はここででてくるのです。「山の手の銀座」は関東大震災の直後に生まれたのですが、繁栄の中心地は2~3年後には新宿になっていきます。

三上於莵吉 『区内に在住した文学者たち』では、大正8年に赤城下町4。大正8年~大正10年は矢来町3山里21号。大正12年は中町24。昭和2年~昭和6年3月は市谷左内町31です。下の図では一番上の赤い図は赤城下町4、左の巨大な赤い場所は矢来町3番地字山里、一番下の赤が中町24です。

赤城下町

関東大震災 大正12年(1923)9月1日午前11時58分に、相模(さがみ)湾を震源として発生した大地震により、関東一円に被害を及ぼした災害。
銀座 東京都中央区の地名。京橋の南から新橋の北に至る中央通りの東西に沿う地域で、日本を代表する繁華街
文化人 文化的教養を身につけている人
袋町 行き止まりで通り抜けできない町。昔はそうだが、今では通り抜けできる。
都館 みやこかん。宇野浩二氏が大正八(1919)年三月末、牛込神楽坂の下宿「神楽館」を借り始め、九年四月には、袋町の下宿「都館」から撤去し、上野桜木町に家を、本郷区菊坂町に仕事場を設けました。いつ「神楽館」から「都館」に変わったのは不明です。関東大震災になったときに宇野浩二氏はこの辺りにはいませんでした。
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社。上野国赤城山の赤城神社の分霊を早稲田弦巻町の森中に勧請、寛正元年(1461)牛込へ遷座。「赤城大明神」として総鎮守。昭和二十年四月の大空襲により焼失。
神楽館 昔、神楽坂2丁目21にあった下宿。細かくは神楽館で。
河岸 川の岸。特に、船から荷を上げ下ろしする所。転じて飲食や遊びをする場所<

 もっと話を聞きたい。残念ながらこれ以上は神楽坂は出てきません。話は宇野浩二氏になっていきます。ここであとは簡単に。

 ぼくは震災前は鎌倉に住んでいたが、その頃でも一週間に一度や二度は上京していた。葛西善藏氏は建長寺にいたので、葛西氏に誘われて上京したり、自分の用事で上京したりした。葛西氏の上京はたいてい原稿ができたときか、または前借の用事のことだつたようだ。そういう上京のあるとき、葛西氏が用事をすました後、宇野浩二氏を訪問しようというので、ぼくがついて行つたことがある。それは前に書いた袋町の都館である。宇野氏はその頃すでに處女作「藏の中」以後「苦の世界」など一連の作品で文壇的に押しも押されもせぬ流行作家になつていたので、畏敬に似た氣持をもつて訪ねたのは言うまでもなかつた。行つて見ると、ありふれた古い安普請の下宿で、宇野氏の部屋は二階の隅つこにあつたが、六疉の典型的な下宿の一室であるに過ぎず、これが一代の流行作家の住居であるかと一種の感慨に打たれたことであつた。しかもその部屋には机もなく、たしか座蒲團もなくて、ただ壁の隅つこに一梃の三味線が立てかけてあるだけであつた。葛西氏はそれでもなんら奇異の念ももたないらしく暫らくのあいだ二人でポソポソと話をしていたが、傍で聞いていたとこでは、何でもその日は宇野氏の新夫人が長野縣から到着する日だとかで、新夫人というのは宇野氏の小説に夢子という名前で出ている諏訪の人だということを、後で葛西氏から聞いたが、そのとき見た一梃の三味線が、いまでもはっきりとぼくの印象に残つている。

建長寺 鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。葛西氏は大正8年から4年間塔頭宝珠院の庫裏の一室に寄宿し、『おせい』などの代表作を書きました。
安普請 あまり金をかけずに家を建てること。そうして建てた上等でない家。
新夫人 大正9(1920)年、芸者である小竹(村田キヌ)が下諏訪から押しかけてきて宇野浩二氏と結婚しました。
夢子 大正8(1919)年、上諏訪で知り合った田舎芸者の原とみを指しています。無口で小さい声で唄を歌い、幽霊のようにすっと帰っていきました。夢子と新夫人とは違った人です。

 後は省略し、最後の結末を書いておきます。

 いずれにしても、すべては遠い昔の想い出として今に残る。『不同調』の廢刊と前後して、廣津氏の藝術社も解散していたが、廣津氏は武者小路全集の負債だけを背負つて間もなく大森に移つて行つた。もうその頃は佐佐木茂索氏もふさ子さんとの結婚生活にはいって矢来から上野の音樂學校の裏のあたりに新居を構えていたし、都館のぬしのように思われていた宇野浩二氏も、とうの昔に神樂坂から足を洗って上野櫻木町の家に引越してしまつていた。有り觸れた言葉でいえば「一人去り、二人去り」したのである。こうして神樂坂は再び、明治以来の神樂坂にかえつたのであつたが、それが今回の戦災で跡方も無くなろうとは、その當時誰が豫想し得たであろうか。
 先日ほくは久しぶりに神樂坂をとおつてみたが、田原屋は僅かに街の果物やとして残り、足袋の「みのや」、下駄の「助六」、「龜井鮓」、おしるこの「紀の善」、尾澤藥局、またぼくたちがよく原稿用紙を買った相馬屋山田屋など懷しい老舗が、今もなお神樂坂の土地にしがみついて、飽くまで「現代」のケバケバしい騷音に抵抗しているのを見たのである。
(了)
田原屋など

昔からの店舗が出ています。一応その地図です。赤い場所です。クリックすると大きくなりますが、あまり大きくはなりません。右からは山田屋、紀の善、亀井(すし)、助六、尾沢薬局、田原屋、相馬屋、みのやです。地図は都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和27年)です。

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不同調 大正14年7月に創刊。新潮社系の文学雑誌で、「文藝春秋」に対抗しました。中村武羅夫、尾崎士郎、岡田三郎、間宮茂輔、青野季吉、嘉村磯多、井伏鱒二らが参加。嘉村の出世作『業苦』や、間宮の『坂の上』などが掲載。昭和4年終刊。
藝術社 1923年(大正12年)32歳。広津和郎氏は上村益郎らと出版社・芸術社を作り、『武者小路実篤全集』を出版。しかし極端に凝った造本で採算が合わなくなり、また上村益郎は使い込みをして大穴を開け、出版は失敗。借金を抱えましたが、円本ブームの波に乗り、無事返済。
武者小路全集 武者小路実篤全集は第1-12巻 (1923年、大正十二年)で、箱入天金革装、装丁は岸田劉生、刊行の奥付には「非売品」で予約会員制出版でした。
戦災 戦争による災害。第2次世界大戦の後です。

文学と神楽坂

安田武|天国に結ぶ恋1

文学と神楽坂

安田武 安田武氏が書いた『昭和 東京 私史』(昭和57年、1982年)のなかの「天国に結ぶ恋」の初めの部分です。

 氏の生年は大正11年11月14日。没年は昭和61年10月15日。上智大在学中の昭和18年、学徒出陣。戦後、戦争体験の継承を訴え、日本戦没学生記念会「わだつみ会」の再建につくして常任理事にも。著作に「戦争体験」「芸と美の伝承」など。

 冬場になると、神楽坂の「田原屋」へカキのコキールを食べに出掛ける。戦争前から往きつけの店というのは、もう数えるほどになったが、田原屋がその数少ない一軒だ。
 神楽坂は「その山の手式の気分と下町式の色調とが、何等の矛盾も隔絶もなしに、あの一筋の街上に不思議にしっくりと調和し融合して」いる、と加能(かのう)作次郎(さくじろう)が書いたのは昭和のはじめだが、半世紀余を経た今も、やはりそのとおりだと思う。
 表通りには、昔ながらの(うま)いもの店や、乾物屋とか漬け物屋とか日用の便があって、一筋入ると柳暗花明の色めいた路地、そしてその奥が、がらりと変わって閑静で気品のある住宅街。巨万の富があって、どこにでも好きに住める身だったら、袋町若宮町でなければ、北町中町南町、あの辺りに小ぢんまりした家がもちたい。

Coquilleコキール フランス語のコキーユcoquilleの英語読み。本来は貝や貝殻のこと。エビ・カニ・魚などを下調理してクリームソースなどであえ、貝殻そのものや貝殻形の器に盛り、天火で表面を焼いた料理。
その山の手… 『大東京繁昌記』「早稲田神楽坂」の「独特の魅力」に書いてあります。ここで
柳暗花明 りゅうあんかめい。柳の葉が茂って暗く,花が明るく咲きにおっていること。美しい春の景色。転じて花柳街。色町。
袋町 牛込袋町、光照寺、近隣の旧武家地などが集まって袋町。昔は風光明媚なところでした。袋町の桜に書いてあります。
若宮町 武家地と町屋。『牛込神楽坂若宮町小史』(若宮会、若宮町自治会、1997年)には「かつて武家屋敷であった若松町は、時代の移り変わりとともに一般住宅、料亭、商店、飲食店などが入り混じって、独特な雰囲気があります」
北町、中町、南町 江戸時代には幕府徒町の大縄(おおなわ)地でした。大縄とは同じ組に属する武士がまとまって一区画の屋敷地をもらうこと。この屋敷地を大縄地といいました。この御徒組大縄地は牛込御徒町と呼ばれ、北御徒町・中御徒町・南御徒町に分かれ、組頭2名と(かち)、あるいは御徒(おかち)28名~30名が住んでいました。徒とは江戸城や将軍の護衛を行う騎馬を許されぬ軽輩の下級武士です。

昭和56年

昭和56年の地図から。今の目で見ると違うことになっている場所もあります。

 ちなみに固定資産税路線価情報を使って、各価格を調べてみました。平成26年の袋町6番13の値段は550,000円/㎡、若宮町29番1は599,000円/㎡、中町32番1は539,000円/㎡です。まあ、関係はないんですが、神楽坂2丁目12番18は1,350,000円/㎡でした。 で、80㎡の土地を買うと、袋町で4400万円、若宮町は4792万円、中町4312万円、神楽坂2丁目は1億800万円がかかります。実際には2倍かかるのではないでしょうか。

袋町の櫻

文学と神楽坂

CCF20140518_0000000.0 『牛込華街読本』(昭和12年)の最初の半分は芸者の心構えが書いてあります。後半は歴史や謂れが書いてあります。この「袋町の桜」の一節は後半の一部で、全く聞いたこともない言葉や熟語がでてきます。でも、辞書を片手に読むと、袋町はなかなか綺麗だったとわかってきました。

遠藤但馬守の館には桜が何十本も植えられて、築山、亭、茶園などを配する庭園があったのでした。現在は普通の家ばかりが並んでいますが、明治時代では、矢来町の酒井家の下屋敷と比べると、遠藤但馬守の下屋敷のほうが遥かによかったのではと思ってしまいます。

実はこれより早く『新撰東京名所図会第42編』に同じ項がかいてありました。でも『牛込華街読本』を引用します。

袋町二十五番地は遠藤但馬守江州三上の藩主一萬三千石)の下屋敷の跡ですが、其地續き及び二十六番地の(ほとり)は光照寺の境内地と幕士宅址でした。明治以後、いたく荒れ果てゝ、人の顧みるものも無かつたのを、牧野(はたす)(故陸軍少將)が此一廓を買取り、修理して庭園といたしました。そして吉野の種を(ここ)に移して、櫻雲搖曳、盆地あり、假山(つきやま)あり、山上に(てい)ありといふ具合に風雅なものにいたしまして、北の方光照寺の墓地に接して()(ゑん)を作り、自ら娯んでゐられたのみか、但馬守の(ふるい)(やしき)に住んでゐられました。開花の候ともなりますと、林泉遊覧を一般に開放して、亭に、(みぎは)に、花を賞して逍遙自在だったといふことです。だか平時(ふだん)は園門を堅く鎖してありました。
明治18-20年

明治18-20年

遠藤但馬守 遠藤但馬守の敷地は青い場所です。邸宅は左下の赤で指した場所なのでしょう。
三上 三上藩。みかみはん。琵琶湖の南東部、滋賀県野洲市を領有した藩。
下屋敷 しもやしき。したやしき。郊外などに構えた控えの別邸
地續き 地続き。じつづき。土地と土地とが、海や川で隔てられることなく続いていること。
幕士 幕府の武士の意味でしょう。
宅址 たくあと。住居の跡。建造物には「址」も使います。
江州 ごうしゅう。近江国(おうみのくに) と同じ。現在の滋賀県。
顧みる 心にとどめ考える。気にかける

尖亭

一廓 いっかく。あるひと続きの地域
吉野 奈良県中部、吉野郡の地名。桜の名所。よしのざくらは、吉野桜で、吉野山に咲くヤマザクラやソメイヨシノの別名。ソメイヨシノの名前は江戸末期に染井(ソメイ)の植木屋が広めた吉野桜から
 ここ。現在の時点・場所を示す語。この時・この場所で。
櫻雲 桜雲。おううん。桜の花が一面に咲きつづいて、遠方からは白雲のように見えること。花の雲
搖曳 揺曳。ようえい。ゆらゆらとたなびくこと
假山 築山(つきやま)と同じ。人工的に作った山
 屋根だけで壁のない休息所。休憩したり、雨や日光を避けて涼んだり、景色や季節の移ろいを眺めたりする。東屋
makinoharadaityoenn茶園 茶を栽培している畑。茶畑。 茶を売る店。茶舗。
娯んで 楽しい、愉しい、娯しい、たのしい。
林泉 りんせん。林や泉水を配して造った庭園
遊覧 ゆうらん。あちこち見物してまわること。
 みぎわ。海・湖などの水と、陸地と接している所。みずぎわ。なぎさ
逍遙 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩
自在 自分の思うとおりにできること

明治二十年頃、始めて神樂町三丁目から中町に通する邸内を横貫する新道を開きましたので、新道開鑿以来、樹木は伐去られ、次第に人家が立て込みましたので、漸く其風致を損ひましたが、牧野氏が引拂つた後は子爵土井家(越前大野の藩主四萬石)この地所を購入され、叉但馬守の邸址に(やかた)を作られました。
 その頃土井家の後園、新道の邊及び近傍に散在した櫻の樹はみな牧野將軍の遺愛の名花で、殊に若宮町に面する土井家の石垣と黒板塀に添って列植せられてあつたものなどは、其數七八十本にも及び、連梢吉野のを呈して、春の眺めは一入だったとのことです。
明治28年

明治28年の地図

開鑿 開削。かいさく。土地を切り開いて道路を作ること。明治28年には新道ができました。
伐去 伐。ばつ。きる。うつ。刃物で木などをきる。 去。きょ。さる。その場から離れていく。「うちさられ」と読むものでしょうか。
風致 ふうち。おもむき。あじわい。特に自然のおもむき。風趣
 旧。きゅう。古いこと
越前 ほぼ福井県中・北部に相当します
後園 こうえん。家のうしろにある庭園や畑
列植 れっしょく。植物を並べて植えること
連梢 連。れん。つれ、仲間、連中。 梢。しょう。こずえ。木の先端。これで「れんしょう」になるのでしょうか。こずえが何本も植わっていること
 えん。色あざやかな、あでやかな
一入 ひとしお。いっそう。ひときわ

神楽坂一平荘

文学と神楽坂

一平荘2015年1月2日から12日まで日本橋高島屋で川瀬()(すい)展が開かれました。そこで「神楽坂一平荘」の木版画も出ていました。「神楽坂一平荘」が出るのはこんな展覧会では初めてだといいます。沢山の木版画の中で小さな画なのにちょっと胸を張って出品していました。日本の作品集にも出たことはないそうです。

大体、こんなことが書いてありました。

「昭和東都 著名料亭百景」
昭和15年8月16日、加藤を仲介として多田に会い、牛込、両国、池之端、神楽坂の料亭「一平荘」を版画として製作した。これが「版元 多田鉄之介」、制作は加藤潤二と考えられる「昭和東都著名料亭百景」である。著名料亭百景とはいえ、実際に制作されたのは巴水の記録から両国、神楽坂、池之端の3図が可能性が高い。

 <神楽坂一平荘> 一般初公開!
写真図版等により作品の存在自体は知られていたが、過去展覧会等に出展した記録はなく、今回の日本橋高島屋の展覧会が一般初公開。

こちらは有名な「芝増上寺」です。芝増上寺

実際の一平荘はここです。

宇野浩二|大正8年3月~9年4月

 宇野浩二氏は大正八(1919)年三月末、牛込神楽坂の下宿「神楽館」を借り始め、九年四月には、袋町の下宿「(みやこ)館」から撤去します。これは「宇野浩二全集 第十二巻 年譜」でそう書かれています。つまり

大正八年(一九一九) 三月末、牛込神楽坂の神楽館に、母と二人で下宿
大正九年(一九二〇) 四月、牛込袋町の都館を去って、江口渙の紹介で、彼の家の真裏にあたる下谷区上野桜木町一七番地に一軒の家を構えた。

 わずか1年で、下宿は2軒になるわけです。では「神楽館」から「都館」に移った時間関係はどうなるのでしょう。水上勉氏の書かれた『宇野浩二伝 上』によると、浩二は五月に「都館」に引越ししたと書き、また新宿区の「区内に在住した文学者たち」では 、大正8年3月~同年4月に神楽町【神楽館】、大正8年5月~大正9年4月に袋町【都館】としています。正しいのでしょうか。水上勉氏著の『宇野浩二伝 上』を横に置いて見てみましょう。

 七年の末から八年はじめまで、浩二は「蔵の中」が発表されるまで、このような仕事をして待機していたわけだが、その金で三月末、牛込神楽坂の「神楽館」の部屋を借りて、赤坂にいた母を呼び寄せていた。浩二は母のために、今度は一と部屋を別にとった。それは来客が多かったせいもあるが、いくばくかの収入があったからでもあろう。ところが間もなく、この下宿へ広津和郎氏がやってきた。広津氏もまた転々していたのである。浩二の母は、浩二と広津氏の下着をいつもいっしょに洗濯した。二人は、お互いの褌をあべこべに使ったりした。
(『宇野浩二伝 上』244頁)

蔵の中 大正8(1919)年、28歳で宇野浩二氏は『蔵の中』を書きました。質屋の蔵で着物の虫干しをした男が書いた女たちの思い出です。これは近松秋江の実話をもとに作った小説でした。
このような仕事 翻訳で下訳すること。下訳者が最初の翻訳を行い、それから翻訳者に渡って、チェックして必要があれば書き直します。
神楽館 神楽坂2丁目にある下宿

 これで「三月末、牛込神楽坂の神楽館に、母と二人で下宿」したんだとわかります。さらに12月に、水上勉氏はこう書いています。

浩二はこの十二月、まだ牛込の「神楽館」にいた。キョウも別室にいた。広津氏も同宿していた。すでにきみ子の自殺(浩二はそのようにいう)が材料になっているので、この作品は死の報が入った後書かれたことが明らかである。浩二にとってきみ子は、ヒステリイ女で重荷ではあったが、物心両面に援けを受けた相手である。(中略)そのきみ子が、別れて二年たつかたたぬまに死んだのだ。しかも自殺である。浩二にとってこれは悲痛な事件である。すくなくとも、大和高田での祖母の死にあれほどの衝撃を受けている浩二にとっては、きみ子の死は他人の死とは思えようはずもない。(『宇野浩二伝 上』251頁)

この十二月 この十二月は大正8年の12月しかありません。大正7年はまだ神楽坂に来ていませんし、大正9年では下谷区にでています。大正8年12月には、依然「神楽館」にいたというのです。
キョウ 宇野浩二の母。
きみ子 伊沢きみ子。宇野浩二氏を悩まします。しかし、横浜で西洋人の家の小間使をしていた時に、猫イラズ入りの団子を食べて死んでいます。

 水上勉氏は正月過ぎにこう書いています。

正月過ぎに東京の「神楽館」へ差出人不明の投書がきて、「ゆめ子はお蔭様にて大評判に候」などとあった。浩二はその下諏訪かららしい投書をみると、また仕事を持って出かけて行くのである。ところが鮎子に会いたし会いにくしといった気持から、いつか鮎子に紹介され、演芸会でも会って話した小竹を呼ぶ。そして小竹が鮎子と違い看板持ちの自由な芸者であることも手つだって、急速に二人の仲は進展してしまうのだ。(『宇野浩二伝 上』274頁)

正月過ぎ これは9年1月です。9年1月にも「神楽館」に連絡したわけです。どこに住んでいるかはわかりません。
ゆめ子 小説ではゆめ子。実生活では鮎子。宇野浩二氏の「山恋ひ」から引用すると『私は原稿を書き疲れると、土地の芸者なぞを呼んでにやにやしてゐたものだつた。その中の一人に、ゆめ子といふ、今年21歳になる、芸者屋の娘兼主人で、養母といふ実の叔母に当る者が別に一軒芸者屋を出してゐて、自分は自分で三人の抱へ子と一人のお酌とを就いて、そして自分も芸者をしてゐるといふ女だつた。何といふことなく私はその女が気に入つたのであつた』
鮎子 本名は原とみ。大正八年九月、浩二は下諏訪の芸者鮎子と初めて会っています。水上勉『宇野浩二伝 上』によれば「当時21歳で、芸妓屋の娘であった。しかし、娘といっても、実の母の妹にあたる叔母の養女となって芸者に出ていた。この芸妓屋には三人の抱え妓がいた。鮎子は当時旦那持で、当歳の子を叔母に預け、芸者はそう好きでもなかったのに座敷へ出なければならない事情にあった。容貌はさして美人というのではないが、かわいらしい受け唇のしゃくれた、小づくりな顔立ちでで、気立てのいい妓だったが、客の前へ出ても自分から喋るというようなことのない無口な性質だった」と書いています。
小竹 本名は村田キヌで、鮎子の姐芸者。28歳。年齢は鮎子より7歳も上になっています。
看板持ち 芸者として置屋から独立して営業すること。置屋の看板を持つ事から俗称「看板持ち」といいました。「自前になる」

 5月、水上勉氏はこう書いています。5月は大正8年5月でしょうか? それとも9年5月でしょうか。残念ながら、9年5月は新しい場所に引っ越ししていますから8年5月しか残りません。

この何度目かの諏訪旅行から浩二が帰って半月目の五月初旬、突然小竹は東京へ来る。浩二は小竹に押し切られて結婚してしまう。鮎子という恋人がありながら、その姐芸者と勢いにまかて結婚してしまう経緯は、「一と踊」(「中央公論」大正十年五月号)に詳しい。

 (略)五月、―――彼女は、彼女の家財道具をひきまとめて、彼女は、もと東京の者であつたが、十年(かん)その町に住んでゐたのである、彼女にとって、十年間の浮世の町、私は今日かぎりさらりと身をあらふのだ、さらば、さよなら、と、惜し気もなくその町をひきあげてきたのである。されば、その秋におこなはれた国の国勢調査の日、彼女は、けろりとした顏をして、生まれた時から私につれそうてゐたやうな顔をして、調査員にむかつて、戸籍にもありますとほり、私はなにがしの妻でございます、としやあしやあとして述べたことにちがひない。彼女は、私の家にきて以来、あんな山の中の町、鬼にくはれてしまへ、と思つて、更にふりむかないのである。

村田キヌが東京へ押しかけてきた先は、江口渙氏の紹介で、氏の家の真裏にあたる下谷区上野桜木町十七番地の一軒へ越していくのである。
(『宇野浩二伝 上』277頁)

5月初旬 五月初旬は今度は大正8年5月です。しかし、下谷区上野桜木町十七番地に移転するのは大正9年4月です。あわてて探したのに11か月も探している。どこか何かがおかしいと思いませんか。
彼女 小竹のこと。
その町 下諏訪のこと
村田キヌ 小竹の本名は村田キヌで、鮎子の姐芸者にあたる。
牛込袋町の都館 牛込袋町は別名藁店わなだな。神楽坂5丁目から南に行くと袋町に行く。図を参照

牛込館と都館支店

左は昭和12年の牛込館と都館支店。右は現在で、牛込館と都館支店はなくなっています。


江口渙 えぐちかん。本名は渙(きよし)。生年は明治20(1887)年7月20日、没年は昭和50(1975)年1月18日。87歳。東京帝大中退。大正、昭和時代の小説家、評論家。夏目漱石門にはいり、「労働者誘拐」で注目。マルクス主義に接近、日本プロレタリア作家同盟中央委員長。戦後は新日本文学会、日本民主主義文学同盟に参加した。

結局、いつから神楽館から都館に入ったのか、私には正確ににわかりません。

都館|文士が多し

文学と神楽坂

サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。話は牛込区の(みやこ)館支店という下宿屋で、サトウハチロー氏が都館に住んでいた宇野浩二氏を崇拝していたと言っています。

牛込郷愁(ノスタルジヤ)
 牛込牛込館の向こう隣に、都館(みやこかん)支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈(けんとう)をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論(もちろん)原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「(これ)を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎(たにざき)精二(せいじ)さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬(そうま)泰三(たいぞう)さんは、襟足(えりあし)へいつも毛をはやしていた、廣津(ひろつ)さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌(こづち)を腰へぶらさげて、その批評家の(うち)のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽(かぐら)(ざか)の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ()()って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。さかなは何やならんと横目で見たら、おそば、、、だった。しかも、かけ、、だった。かけ、、のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月しゅんげつと書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん様と横町よこちょうを隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。

牛込牛込館都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。

牛込館と都館支店

左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。

軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「()(せん)」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。

袋町|日本出版クラブ会館

文学と神楽坂

 日本出版会館と日本出版クラブ会館は牛込城があったとされる光照寺の正面に並んで建っています。

日本出版クラブは、「出版界の総親和」という精神を掲げ、1953年9月に設立されました。

1957年8月、 日本出版クラブ会館が落成しました。創設60周年を迎える2013年、一般財団に移行しました。

この会館は財団法人・日本出版クラブが運営し、一般の方でもレストランや宴会場、会議室など複合施設で利用が可能です。

隣りにあるのは、日本出版会館。財団法人・日本書籍出版協会が入り、著作権の問題や違法コピーへの対策、読書離れなど、高度情報化社会の発展により生じる新たな問題への対応も行っています。

1957年(昭32)、181社が参加して日本書籍出版協会を設立しました。
 出版会館
 ここには大きなイチョウの木がたっています。その前には

新宿区保護樹木
 樹齢250年以上のイチョウの木。戦時中。焼け野原となった街にこのイチョウが焼け残っており、それを目印に被災した人々が戻ってきたといわれています。幹には戦災の時の傷(裂け目)が残っており、そこからトウネズミやケヤキが生えており、生命力を感じさせます。イチョウやシイの木は水分を多く含むため、焼失せず残った木が今も数多く区内に存在しています。(新宿区平和マップより)

その上には、現在は何もないのですが、13年初めまで、この土地の歴史の変遷が書いてありました。

「新暦調御用所(天文屋敷)跡」 新宿区袋町六番地
この土地の歴史の変遷当地は天正十八年徳川家康が江戸城に入府する迄、上野国大胡領主牛込氏の進出とともに、三代にわたる居館城郭の1部であったと推定される。牛込氏の帰順によって城は廃城となり、取り壊されてしまった。正保2年居館跡(道路をへだてた隣接地)に神田にあった光照寺が移転してきた。
 その後、歌舞伎・講談で有名な町奴頭幡随院長兵衛が、この地で旗本奴党首の水野十郎左衞門に殺されたとの話も伝わるが定説はない。享保十六年四月、目白山より牛込・麹町・虎の門まで焼きつくした大火により、この地一帯は火除地として召上げられさら地となった。明和2年当時使われていた(ほう)(りゃく)(れき)の不備を正すため、天文方の佐佐木文次郎が司り、この火除地の1部に幕府は初めて新暦調御用所(天文屋敷)を設け、明和6年に修正終了したが、天明2年近くの光照寺の大樹が観測に不都合を生じ、浅草鳥越に移転した。佐佐木は功により、のちに幕府書物奉行となり、天明7年八十五歳で没す。墓は南麻布光林寺。以降天明年中は火除地にもどされ、寬政から慶応までの間、2~3軒の武家屋敷として住み続けられた。
 弘化年中には御本丸御奥医師の山崎宗運の屋敷もあった。この時代の袋町の町名は、今に至るまで変わることはなかった。近世に入ってからこの地に庭園を構えた高級料亭一平荘が開業し、神楽坂街をひかえ繁栄していたという。昭和二十年の大空襲により神楽坂一帯はすべて焼失し焼跡地となった。
 戦後は都所有地として高校グラウンドがあったが、昭和三十年日本出版クラブ用地となり会館建設工事を進めるうち、地下三十尺で大きな横穴 を発見、牛込城の遺跡・江戸城と関連などが話題となり、工事が一時中断した。昭和三十二年会館完成現在に至っている。
  2007(平成十九)年1月
       平木基治記(元文藝春秋)
        ”天文屋敷とは?”……パンフレット あります。
              出版クラブ受付まで

光照寺 光照寺はここに。
定説 実際は定説があり、ないのが間違い。詳説は幡随院長兵衛について
火除地 火除地について
新暦調御用所 浅草天文屋敷について書いています
一平荘 一平荘について、巴水の絵が綺麗
高校 一平荘は税金が払えなかったため、高校に代わりました
横穴 由比正雪の抜け穴ではと大騒ぎになります。切支丹の仏像について

また『拝啓、父上様』の第10話で、こんなエピソードを書いています。

出版クラブ
  お引き()め。
  集まっている人々。
 り「その日は神楽坂の新年会に当たる “お引き初め”が出版クラブであり、その流れで“坂下”も忙しかった。

テレビででるのはほんとうに一瞬です。
出版クラブ11

文学と神楽坂

袋町|火除明地と新暦調御用所

文学と神楽坂

火除(ひよけ)明地(あきちは、江戸時代、火事の延焼を防ぎ、避難所として設けた空き地です。

幕府は1657年の明暦(めいれき)大火以後、特に享保期(1716~1736)に、多くの火除地を作りました。町民の火除地では当初は防火機能だけでしたが、18世紀には次第に庶民の都市活動の場として火除地の利用は盛んになりました。一方、武家地に立地する火除地では馬場、御放鷹の場、官有稽古場、袋町では御鉄炮稽古場が作られていますが、眺望の良い場所以外には賑わった空間ではなかったようです。

測量
宝暦13年(1763)、日蝕の記載に漏れがあり、明和元年(1764)、幕府は佐々木(ささき)文次郎(もんじろう)天文方(てんもんがた)に任命し、翌2年、光照寺門前の火除明地に「新暦(しんれき)調(しらべ)御用屋敷」をつくっています。いわゆる天文屋敷です。明和8年(1771)「修正宝暦暦(ほうりゃくれき)」を完成しました。しかしこの天文台の木立は茂り、不都合が出て、天明二年(1782)、牛込藁店わなだな(現袋町)から浅草鳥越とりごえに移っています。

北斎浅草天文台は葛飾北斎「富獄百景・鳥越の不二」にも出ています。天文方は編暦・天文・測量・地誌・洋書翻訳を職務として、当時の学問の最先端を行く所でした。この球体は天体の角度などを測定する「渾天儀こんてんぎ」から黄道環こうどうかんを取り、簡略化したもので、「簡天儀かんてんぎ」といいます。

手前の屋根の下には、天体の高度を測定する「象限儀しょうげんぎ」があります。たぶん、牛込藁店もほぼ似たような屋敷だと思います。

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