タグ別アーカイブ: 袖摺坂

大久保通り(筑土八幡町ー神楽坂上ー牛込北町)|拡幅計画

文学と神楽坂

 平成31(2019)年度に、「筑土八幡町」から「神楽坂上」を通り、「牛込北町」までの「大久保通り」が拡張して終了します。幅員は18メートルだったのが、30メートルになります。つまり、小さな小さな道路だったのを、巨大な巨大な都道に変えていくのです。いわばもう1本「外堀通り」ができるのです。神楽坂も大久保通りの北と南、西と東で、かなり違っている可能性があります。

 神楽坂上交差点から飯田橋交差点に行くところでは、店舗がなくなるものもあります。青線が新しい道路ができるはずのことろです。(ただし正確なものはありません。)まず遠くに半分見えるのが消防署です。

 遠くの角にあるフランス料理の「レ・グルモンディーズ FRENCH-DINING」はなくなり、途中の鉄板焼きの「円居-MADOy-神楽坂」やカフェ「ムギマル2」も確実に消滅します。 
 神楽坂通りにある「河合陶器店」「山下漆器店」はすでに消滅し、ケーキ店の「チカリシャスニューヨークアマリージュ」はまだ不明ですが、おそらく方向性は決定しているはず。

 次は反対側で、牛込北町交差点にいくものです。
「牛込神楽坂駅」のすぐ前に大久保通りがやってきます。しかし、これぐらいです。

 新しい建物はできていません。はるか昔からこの話を聞いていたからです。

 問題は袖摺坂の周辺です。南蔵院の墓地はなくなりません。しかし、パン屋の「MAISON KAYSER 神楽坂店」はなくなります。

 最も不思議なS型に上がる道路(私の命名では新蛇段々)です。どうなるのでしょうか。全く改修はないことはありません。小規模、あるいは大規模な改修があるはずです。その場合にはどう変貌するのでしょうか。 この拡幅は数十年前からあったものです。それがようやくできる。感無量です。
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弁天坂|箪笥町

文学と神楽坂

 

 大久保通りに弁天坂という坂があります。例えば、江戸時代の「町方書上」では

同所南蔵院前脇、町内入口小坂弁天坂、是南蔵院地内名高弁才天安置有之、右故里俗唱來り候哉、縁(起)旧記等無御座候

 小さい坂というのもちょっと違うんでは…と考えますが、拡大する前の道路を考えると、まあ、これもありかぁと思います。

 明治20年ごろの拡大図では

 大久保通りの一部に弁天坂があります。また「新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、1906)では

南藏院なんぞうゐんまへより市廛への入口に坂あり、辨天坂べんてんざかといふ、是、南藏院に辨天堂べんてんだうあるに因りて得たる名なり。

市廛 してん。町にある店。店のある町。市街地。

 横井英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)では

新宿区箪笥町、南蔵院前を山伏町のほうへ上る坂。南蔵院には弁天堂がある。

 山伏町は西にありますので、これは正しいと思います。ところが、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

弁天坂(べんてんざか) 芥坂ともいった。箪笥町の南蔵院前旧都電通り、箪笥町四二番南蔵院の道向いを横寺町の南西部に上る小坂。「府内沿革図書」についてみると、この坂は延宝年中から段坂で、現在と形があまり変わらない。(中略)
 その境内に弁天堂があったのが、弁天坂のよび名になったものである。その弁天堂は本尊として尊崇されていたが、戦災後は再建されない。

 これでは弁天坂と袖摺坂を混同しています。これでは袖摺坂と全く同じです。

 東京都も弁天坂の標識をつくっています。ちょうど南蔵院の反対側です。内容は…

 坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には、南蔵院門前にあまざけやおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子が描かれている。
 坂上近くの横寺町四十七番地には、尾崎紅葉が、明治二十四年から三十六年十月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花小栗風葉が玄関番として住み、のちに弟子たちは庭つづきの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称した。

 また「新修新宿区町名誌」(新宿歴史博物館、平成22年)では

南蔵院前脇から町内入り囗への坂は南蔵院に弁財天が安置されていることから、弁天坂と呼ばれる。(町方書上)。

 以上、現在、弁天坂と考える坂は、大久保通りの一部だと考えています。

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ほかの坂

文学と神楽坂

神楽坂上の地図神楽坂周辺の地図

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袖摺坂、弁天坂、五味坂、蛇段々

文学と神楽坂

横関英一氏の『続江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和50年)では袖摺坂は大久保通りから南東へ上る坂、つまり改修した蛇段々だと考えています。

 江戸時代には、袖摺(そですり)坂、袖振坂、袖引坂という坂があったが、これらは、むしろ江戸に少なく、地方に多い坂の名であった。
 袖摺坂というのは、いずれも狭い坂のことで、人と人とが行き交う場合に、狭いので袖をすり合わせるようにしないと、お互いに行き過ぎることができない、というような狭い坂のことをいったのである。鐙摺(あぶすり)坂というのもあるが、これは坂が狭いので騎馬のままでは、行き交う場合、お互いに(あぶみ)をすり合わせるようにしないと通ることができないような狭い坂みちの形容である。現在東京には次の二個所だけに袖摺坂が残っている。両方とも昔は狭い坂であったのだが、今日ではいずれも広い坂みちになっているので、袖摺坂という感じではない。東京の坂である以上、やむをえないことである。
 新宿区岩戸町から、北町と袋町との境を、南へ上る坂が袖摺坂である。しかし、戦後はこの坂道もすっかり改修されて、大きな道幅の広い坂になってしまった。
 この坂について、『御府内備考』は、次のように記している。「坂、登凡十間程、右町内(御箪笥町)東之方肴町境に有之、里俗袖摺坂又は乞食坂共唱中候、袖摺坂は片側高台、片側垣根二而、両脇共至而(イタツテ)、せまく往来人通違之節、袖摺合候……」

石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)でも同じです。

 袖摺坂(そですりざか) 岩戸町の旧都電通りから、北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路で、坂上に南部氏の邸宅があることから最近の住民は南部坂とよんでいる。

つまり、「北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路」を「袖摺坂」と呼んでいました。しかし、江戸時代も明治初期も、この「北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路」はなかったのです。1袖摺坂と年代
明治20年の地図が正しく、袖摺坂(乞食坂)は北に登る坂。五味坂は西に下がる坂。弁天坂は西に上がる大久保通りの坂でした。南東に上がる坂はありませんでした。明治20年の地図
蛇段々ができる明治29年に、ようやく南東に上がる坂ができています。現在のS状のカーブをえがいて南東に上る坂は「新蛇段々」と名付けたいと思っていますが、でもだめだろうな。
袖摺坂(上空)

拝啓、父上様

文学と神楽坂

「拝啓、父上様」はウィキペディアによれば、2007年1月11日から3月22日までフジテレビ系列で毎週木曜22:00~22:54に放送されていたテレビドラマです。東京、神楽坂の老舗料亭を舞台に関わる人々や出来事を描きました。

 2000年頃になると神楽坂に来る人は数倍に増えましたが、「拝啓、父上様」が放送されるとすぐにまたまた増えたといいます。

 「拝啓、父上様」は英語の字幕付きで全巻YouTubeで簡単に出てきます。

袖摺坂|散歩しよう

文学と神楽坂

袖摺坂(そですりざか)に行くのは?
 
袖摺坂は新宿区横寺町と箪笥町の間にあります。地下鉄大江戸線「牛込神楽坂駅」東出口近くです。
 

図で「A」なので、地下鉄の「牛込神楽坂駅」からは一番近いのですが、ほかはかなり離れています。「牛込神楽坂駅」からはA2の出口を使います。なお、袖摺坂は乞食坂ともいいます。

袖摺坂の地図

これから袖摺坂に行くには大久保通りの反対側にでます。

袖摺坂の地下鉄
袖摺坂と牛込神楽坂駅
では到着です。
袖摺坂の標柱
標柱の説明文は

袖摺坂(そですりざか)
俗に袖摺坂と呼ばれ、両脇が高台と垣根の狭い坂道で、すれ違う人がお互いの袖を摺り合わしたという(『御府内備考』)。

袖摺坂と入り口

 右側は黒塀になっています。これは12年、地元のNPO法人「粋なまちづくり倶楽部くらぶ」が、袖摺坂に黒塀を設置したためです。

『拝啓、父上様』では第7話に出てきます。

  歩く2人。
  路地へと曲る。
 り「俺の気持ちは浮き浮き弾んでおり。
  特にナオミさんのその家の方角が、今度俺の住む横寺町のアパートと同じ方角だと判明した時、俺は殆ど叫びそうになった」
  音楽――消えてゆく。

袖摺坂と「拝啓、父上様」

 昔の袖摺坂が出ていますね。上に行くと

袖摺坂の上

 上でも同じ文言が書いてあります。 袖摺坂の上2

 これから右に曲がっていくと「五味坂」です。

 最後に「弁天坂」は平成22年の新宿歴史博物館『新修 新宿区町名誌』によれば、「南蔵院前脇から町内入り口への坂は南蔵院に弁財天が安置されていることから、弁天坂と呼ばれる。(町方書上)」と書かれています。

袖摺坂と坂なお、地下鉄大江戸線「牛込神楽坂駅」から南側のS状の坂を上に上っていくと(反対側ですね)そこにも「そですり坂パーク」がでてきます。理由は? 袖摺坂 北向き、南向き?で答えがわかります。つまり、S状の坂を「そですり坂」と呼んだ時代もあるのです。

神楽坂の通りと坂に戻る

袖摺坂|北向き、南向き?

袖摺坂(そですりざか)です。新宿区の『地図で見る新宿区の移り変わり–牛込編』から取った地図です。新板江戸外絵図(寛文12年、1672年)では神楽坂の袖摺坂はここを示します。現在の袖摺坂と同じですね。1672年の袖摺坂

以下は年代と地図です。右図は簡単な段差があると示します。 段差がある地図

延報7年(1679年)から明治12年(1879年)までは地図ではなく、簡単な絵です。現在の大久保通りから北に上る坂があり、ここは袖摺坂だというがよくわかります。 延報7年(1679年)から明治12年(1879年)までの袖摺坂
明治20年から28年も袖摺坂を示しますが、袖摺坂のほかに左に新たに道ができたのがわかります。この新しく作った坂は五味坂、ゴミ坂と呼んでいるようです。 明治20年と28年までの袖摺坂

さらに下の図は明治20年の絵です。袖摺坂は乞食坂ともいっているんですね。また大久保通りの一部の弁天坂もあります。
明治20年の袖摺坂明治29年はさらに袖摺坂の右下に新しい坂ができます。かなり急な坂だと思います。この坂は「蛇段々」と言われました。蛇段々が実は袖摺坂だという意見もあります。例えば鳥居秀敏さんの『袖摺坂って本当はどの坂?』(「まちの思い出をたどって」第2集)です。しかし蛇段々は明治20年以前にはなかったので、これは難しいと思っています。明治29年と40年の袖摺坂

昭和5年はかわりませんが、昭和16年、さらにもう1つ坂がでます。名前はありません。昭和22年、終戦でもあまり変化がありません。昭和5年から22年までの袖摺坂

さらに進めていき…昭和56年の袖摺坂昭和56年は、まず、昔の急な坂「蛇段々」がなくなり、新しい坂だけが残ります。それから、あれれ、こまった、あれれ、こまった。袖摺坂の位置が違う。新しい坂が袖摺坂になっている。弁天坂も違う。

うーん。うーん、そこで、困った時は新宿歴史博物館。そこで聞きました。答えは

 新宿区が袖摺坂としている根拠について
 『御府内備考』御箪笥町の書き上げに
「坂、上り凡そ十間程、右町内(御箪笥町)東の方肴町境にこれ有り。里族袖摺坂または乞食坂とも唱え申し候。袖摺坂は片側高台片側垣根にして、両脇とも至ってせまく、往来人、通り違いの父子、袖摺合わせ候。」とあります。
 江戸時代、肴町は、当時武家地を間に挟んで5か所に散在する町屋でしたが、明治5年に北部を残して、その大部分は武家地とともに岩戸町に編入され、一部は横寺町に編入されました。
『御府内備考』の示す肴町は、横寺町に編入され「横寺町65番地」となったところです。
 袖摺坂の位置については、『御府内備考』の内容の解釈違いによるものと思われます。
 以上が、新宿区が袖摺坂を特定している根拠です。
 なお、坂の位置は新宿区教育委員会発行の『地図で見る新宿区の移り変わり』牛込編 で確認できます。

新宿歴史博物館 佐藤

なるほど。これでまったくいいようです。新宿歴史博物館の佐藤氏に感謝します。でも、そうじゃないとおかしいよなあ。昔の絵図には現在の地図と全く違わない坂があるからなあ。以上、現在のほうが正しく、昭和56年の地図は間違いでした。 また『地図で見る新宿区の移り変わり 牛込編』の矢代氏が書いた「土地に刻まれた歴史」で「袖摺坂」は「蛇段々」とそれを新しくした坂の間違いだと思います。

土地に刻まれた歴史                矢代和也

袋町の高台から現在の大久保通りに向って、急峻な段坂が屈折しながら下っていた。石段や敷石の部分を除くと、雨の時には足を滑らせそうな細々とした坂道で、両側には階段状に小さな家々が建っていた。「袖摺坂」である。(違います。じつは蛇段々の坂です。)この坂道は「安政絵図」にも、それ以後の絵図・地図にも表記されていず、一八九六(明治二九)年の「東京市牛込区全図」、「帝都復興東京市全図」(『新宿区地図集』)に道路拡張の予定地としてはじめて記されている。しかし、この程度の道幅の段坂でも、たとえば、柳町の通りの寿司屋の角から甲良町の方へぬける名もない段坂が、すでに「安政絵図」に表記されているので、きわめて不思議な坂道に思われる。 私の小学校の上級のころ、「袖摺坂」の道路拡張の工事がはじまった。家屡が立退かされ、赤土の高い崖が露出した。悪童たちの絶好の遊び場が一つ増えることとなった。学校の禁を犯して、急崖をすべり下り、また上る、泥のぶつけ合い。中腹に糾めに生えた木にのぼって、ユサユサとゆすって、下級生に悲鳴をあげさせたり、親の洗濯の苦労も知らずに、頭の天頂まで、泥まみれになって遊んだものである。 やがて、太平洋戦争もはじまろうというころ、砂利敷ではあるが、現況のような道路が姿をあらわし、一九四一(昭和一六)年の『牛込区詳細図』に、拡張道路として表記されることになった。(こちらはS状の名前はない坂か、新蛇段々の坂です)

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