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平田禿木|神楽坂

文学と神楽坂


 平田禿木(とくぼく)氏の『禿木随筆』(改造社、1939)です。氏は英文学者兼随筆家で、東京高等師範学校を卒業、30歳で英国オックスフォード大学に留学し、帰ってから、女子学習院、第三高等学校の教授を歴任、のちに翻訳に専心しました。

 この随筆を書いた年は昭和9年、61歳でした。

 神樂坂

 見附から見ると神樂坂は可成り急である。あの坂を見るたびに、自分はいつも羅馬の街を憶ふ。羅馬にはあゝした坂がとても多いのである、そして、登りつめたとこに、きまつてオベリスクの塔と噴水がある。自分が羅馬に遊んだのは桐の花散る初夏の候であつたが、その見物にあゝした坂を幾つも登つていくのに實に骨の折れたことを憶ひ出す。羅馬七丘の上に立つといふが、東京も髙臺が多いので、山の手となると坂道が多いのである。
 友達が矢來の交番近くにゐたので、自分はよく以前の神樂坂を知つてゐる。神樂坂は震災後ずつと繁華になつたらしい。菓子屋に壽徳庵船橋屋の名が見えるが、これ等は何れも河向ふ江東の老鋪で、あの折一時此處へ移つて来て、そのまゝ根城を据ゑたものであらうか。兩側に大抵の店が揃つてゐて、何でも手近で間に合ふやうである。自分は往日(むかし)日本橋東仲通り邊へ、東京の住居をおいたらうと思つたことがあるが、今ではあの邊はとてもごたごたしてゐ、それに、震災後の復興で、自分などにはまるで西も東も分らぬやうになつてゐる。矢來までの途中は相當賑やかであるが、ちよつと横町へ入ると、神樂坂は可成り靜かであるらしい。山の手のその靜かさと下町の調法さを兼ねてゐるとこは、廣い東京にも珍しいと思ふ。あすこの何處ぞの小さな煙草屋の店でも買つて、二階で物を書いたり、假名がきの書道の指南でもしたらと、今も時々思ふことがある。
 菓子屋には和洋のそれを賣る紅谷がある。あの窓に見る瀟洒なや趣向を凝らしたは、遺ひ物としても手軽で格好である。自分には何より嬉しい海産物の店も一二軒あるらしく、魚屋の店にも、季節には北陸の蟹が堆く積まれてゐる。客があつて、ちよつとお壽司を取つても、土地柄だけによい物をすゝめられると、 遞信省時代に中町に住んでゐた五島駿吉君の話であつたが、神樂坂は實に調法な處である。


オベリスクの塔

見附 現在「神楽坂下」という交差点は昔は「牛込見附」と呼びました。
羅馬 イタリアの首都、ローマです。
オベリスクの塔 古代エジプトの太陽の神を象徴する石柱。その形をした記念碑。欧米の主要都市の中央広場などにも建設、その地域を象徴する記念碑になっている。
桐の花 4~5月で紫色の花をつけます。右図。
ローマの七丘(しちきゅう) ローマの市街中心部からテヴェレ川東に位置し、ローマの基礎をつくった七つの丘。
河向う 川向こう。隅田川の東側。
根城 活動の根拠とする土地・建物
調法 ちょうほう。重宝。便利で役に立つこと。
假名がき 仮名で書くこと。一般には平仮名で書くこと。
 かご。竹で編んだかご。
 かご。服や食料を入れる、竹製の四角いカゴ)
遺い物 つかいもの。贈答品。贈り物。進物。
格好 ちょうどよい。適当。
五島駿吉 生年は明治15年(1881年)。郵便局長。鉱物学者。

 田原屋は銀座、日本橋邊の一流の店にも劣らぬ、優れた果物を賣る家らしく、そこの二階での洋食はあの邉の呼び物と聞いてゐるが、まだ試みたことはない。以前矢來の友達を訪ねると、いつもきまつて坂の途中を左へ入つた明進軒といふ家へ案内してくれた。雅樂寮伊太利人か、商大の佛蘭西人の肝煎りで店を出したとかで、そこの佛蘭西風の料理は下町でも味へないものであつた。近くにゐた英吉利の貴族名門出のチヤモレエ師なども、始絡パトロナイヅしてゐた。日本間の別室があつて、坐つてゆつくり食事の出來るのも嬉しく、そこには、これも來つけの人達と見えて、尾崎氏や齊藤松洲晝伯の色紙、短冊が懸つてゐた。
 この頃舊幕の旗本水野十郎左衛門邸跡三樂莊といふ料亭ができて、泉石の美を誇るその庭を見せるといふことで、暮近くなつたら一夕友達と年忘れでもしてみたい、それには何んとか、一應その樣子を探つて見ておかうと思つて、見附内の某大學へ客分として手傳ひに一 週二三囘出向いてゐるその歸るさ、或る日の午後、今講じて來たエリザ朝の花形サア・フィリップ・シドネーステラの歌の定本や、トッテル氏雑纂などの入つた重い包みを下げ、新聞の廣告で教はつた通り、牛込館の横を入つて行くと、待合や小料理屋がずらりと軒を並べてゐ、今日(けふ)何かの寄り合ひでもあるものか、見番の前には、近くの女將や主人、女中達が盛装して立ち列んでゐる。突き當つて訊いて見ると、坂を上つて右へ行き、それからまた後へ戻るのだといふ。その通り進んで行くと、住宅地のやうなとこへ出て仕舞つた。何だか狐につままれたやうな氣がしてゐるとこへ、小春日和に外套を着てゐたので、汗ばんでさへも來るのである。三樂莊といふのに日本料理、支那料理とのみあるのは、他の一つ場所柄だけに化生の者でも出て來るといふ謎か、水野邸とあるからには、幡隨院もどきに湯殿でやられでもしては堪らぬと、えつちらをつちらと、もと來た途を戻つて、表通りへ出て仕舞つた。

雅楽寮 ががくりょう。うたつかさ。律令制で宮廷音楽をつかさどった役所。明治維新後、宮内省式部職楽部(がくぶ))に改組し、1908年(明治41年)、現在の宮内庁に引継した。
肝煎り  きもいり。肝入り。双方の間を取りもって心を砕き世話を焼くこと。
伊太利、佛蘭西、英吉利 それぞれイタリア、フランス、イギリスのこと。
チヤモレエ 英国人宣教師ライオネル・チャモレー師(Lionel Berners Cholmondeley)。岩戸町25番地に住んでいました(右図)。
パトロナイヅ パトロナイズ。patronize。ひいきにする。後援する。
来つける きなれる。来慣れる。ふだんよく来て慣れている。通い慣れる。
尾崎 尾崎紅葉氏のこと。
斎藤松洲 さいとうしょうしゅう。日本画家。明治3年(1870)大阪生。鈴木松年の門に学び、特に俳画に長ずる。昭和9年(1934)存、歿年不詳。
三楽荘 場所はわかりません。次の段落では「三樂莊は横寺町にあるらしい」と書いてありますが、新宿区横寺町交友会の今昔史編集委員会『よこてらまち』(2000年)によれば、昭和10年頃の地図ではもう三楽荘はなくなっています。
泉石 せんせき。泉水と庭石。庭園。
帰るさ かえるさ。「さ」は接尾語。帰る時。帰る途中。かえさ。
サア・フィリップ・シドネー サー・フィリップ・シドニー(Sir Philip Sidney)。16世紀のエリザベス朝の英国の詩人、廷臣、軍人。
ステラの歌 原題『Astrophel and Stella』。英語で書かれた有名なソネット連作の最初のもの。
トッテル氏雑纂 リチャード・トッテル。Richard Tottel。当時のエリザベス朝詩のアンソロジー「歌とソネット」(1557)を編集、「トッテル詞華集」として知られるようになった。「雑纂(ざっさん)」とは雑多な記録や文章を集めることや、編集した書物。
見番 三業組合の事務所。三業組合とは料亭・待合茶屋・芸者屋の3業種をまとめていいました。しかし、この当時、見番は芸者新路にできていました。牛込館は藁店にできていて、この2つの場所は違います。
他の一つ 日本料理、支那料理に、他の料理があって、つまり、3つの料理があって初めて三楽という名前になる方が普通ではないでしょうか。
小春日和 晩秋から初冬にかけての暖かな日和。小春とは、旧暦十月の異称。
場所柄 藁店(わらだな)では化け地蔵が出たという言い伝えがありました。
化生の者 化けること。化け物。妖怪。
 三樂莊は横寺町にあるらしい。横寺町といふと、今からはもう何十年か前の夏、大野洒竹と一緒に同じ町のその居に尾崎紅葉氏を訪ねたことを憶ひ出す。洒竹のゐた谷中から二人乘の人力車(くるま)で神樂坂下まで來、それからぼつぼつ歩き出したが、盛夏のことでとても暑く、道を訊いてから、とある井戸端で水を汲んで汗を拭き、それから漸く探ね當てゝ案内を請ふた。早速二階の書齋へ通されて尾崎氏も直ぐ出て來たが、薄茶色の縮みの浴衣にメリンス兵古帶といふ服装(なり)で、いかにもさつぱりとしてゐたのは意外だつた。部屋も硯友社の他の人達のそれのやうに、箪笥に長火鉢をおいて、人形を飾つてゐるやうなことはなく、茶道具だけは紫檀の棚に載つてゐて、たぎらした湯を階下(した)から取り寄せ、主人自ら茶をいれるのであつた。
 その時、拭巾を取つて、額へ八の字を寄せながら、ぐいぐいと盆を拭くその姿が、今もありありと目に殘つてゐる。話はそれからそれと大分にはづんだが、小説のことになると、もう閉口だと、顏を曇らしてうつ向きになつたことを今に覺えてゐる。歸り際に、夫人もちよつと姿を見せられたが、いかにも靜かな、貞淑の方のやうに見受けられた。玄關には、「青葡萄」が讀賣へ出てから程經つてのことだから、秋聲氏や鏡花氏でなく、次の代の方々がゐたのだと思ふ。尾崎氏の訃は外遊中オックスフオードでこれを聞き、洒竹氏には歸つてから一度、築地本願寺で一葉さんの法事の折に逢つたぎりで、氏も早く他界して仕舞つた。
 肴町電車道を横切つて矢來近くへ來ると、右側に洋風の骨董を賣る小さな店や、萬年青や蘭、新春(はる)には梅の小型の盆栽を窓へ飾つてゐる家があり、交番近くへ來ると、左側に水盤や煎茶風の竹の花生けを賣つてゐる古い店があり、それ等を眺めながら、御苦勞にも自分は矢來下の停留場まで來て、そこから電車へ乘つて歸つて來る。その電車がいつも空いてゐて感じが好く、車掌までがのんびりして、親切だからである。(昭和九年十一月)

横寺町 新宿区の北東部に位置し、神楽坂に接する町。
谷中 東京都台東区の地名。下谷地域の北西に位置し、文京区(千駄木・根津)や荒川区(西日暮里・東日暮里)との区境にあたる。
案内 ここでは「人の来訪や用向きを伝える」こと。取り次ぎ。
縮み ちぢみ。縮織り。ちぢみおり。()りの強い横糸を用い、織り上げ、温湯でもんでちぢませ、布面全体にしぼを表した織物。

メリンス メリノ種の羊毛で織って、薄く柔らかい毛織物。
兵古帯 兵児帯。へこおび。和服用帯の一種。並幅または広幅の布で胴を二回りし、後ろで結んで締める簡単な帯。
硯友社 けんゆうしゃ。文学結社。 明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校)の学生尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、高等商業学校の丸岡九華の4人で創立。同年5月機関誌『我楽多文庫』を発行し、たちまち明治文壇の一大結社に。
たぎらす 滾らす。沸騰させる。煮え立たせる。たぎらかす。
貞淑 ていしゅく。女性の操がかたく、しとやかなこと。
築地本願寺 東京築地にある浄土真宗本願寺派の別院の通称。
電車道 以前は大久保通りに都電が走っていました。
万年青 おもと。常緑の多年生草本。学名はRohdea japonica Roth。
矢来下の停留場 市電(都電)の 停留場は江戸川橋通りにありました。

昭和5年.矢来下の停留場

神楽坂矢来の辺り|尾崎一雄

文学と神楽坂

尾崎一雄 尾崎一雄氏が書く『学生物語』(1953年)で「神楽坂矢来の辺り」の一部です。これは(1)になります。
 氏は小説家で、生年は明治32年12月25日。没年は昭和58年3月31日。早大卒。志賀直哉に師事。昭和12年、「暢気眼鏡」で芥川賞。戦後は「虫のいろいろ」「まぼろしの記」など心境小説を発表。昭和50年、自伝的文壇史「あの日この日」で野間文芸賞受賞を受賞しました。

神楽坂矢来の辺り 学校の近くに下宿してゐた。早稲田界隈から最も手近な遊び場所と云へば、どうしても神楽坂である。そこには、寄席も活動小屋も飲み屋もカフェーも喫茶店も洋食屋もあった。牛込郵便局(当時の)あたりから肴町をつっ切り、見附に逹する繁華な遊歩街には、両側に鈴蘭燈がつき、夜店も出た。両側の商店も名の通った家が多かった。
 神楽坂が最も繁華を誇ったのは、例の関東大震災のあとだったらう。(略)
 十二年の九月一日に大震災である。(略)
 牛込区は大体無事だった。神楽坂にも被害は無かった。丸焼けの銀座方面から神楽坂へ進出する店があり、また客も神楽坂へ移ったやうであった。
牛込郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば「矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。」となっています。右の「大正11年の東京市牛込区」の郵便局の記号は丸印の中に〒で、通寺町30番地でした。現在は神楽坂6-30で、会社「音楽の友社」がはいっています。

大正11年 東京市牛込区

大正11年 東京市牛込区

肴町 さかなまち。現在は神楽坂5丁目です。
見附 牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。これが原義ですが、しかし、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、神楽坂通りと外堀通りが交差する所を「牛込見附」と言ったりするのも正しいようで、ここでは交差点の「牛込見附」でしょうか。
鈴蘭燈 すずらんとう。鈴蘭はユリ科の高原の草地に生える多年草。高さ約30センチの花茎を出し、五、六月ごろ鐘形の白花を十数個下垂します。鈴蘭燈は鈴蘭の花をかたどった装飾電灯。左は昭和30年代の神楽坂の写真の1部ですが、こんな具合に見えたわけです。
鈴蘭燈

 それは、――私がこの神楽坂プランタンに出入りしてゐた時分、或る夜のこと、寺町通りを坂の方へ元気よく歩いてゆくと、向うから、背の高い長髪の人物が、手下を四五人引き連れて悠々とやって来るのを見つけたのである。――ははん、広津和郎だな、と思った。雑誌の口絵写真で見知ってゐるし、それに、学校へ講演で来たこともあったから、その時見覚えたに違ひないが、確かに広津氏である。は、すれ違ひざまに凝っと見て、それを確かめた。
 二三間行過ぎてから、心を決めて取って返し、
「失礼ですが、広津さんですか」
 さう声をかけた。
 長身の広津氏は、うん? といふふうにこっちの顔を見下して、立止まり、
「広津ですが――」お前は? といふ顔をした。その時私は、学生服に、学帽をつけてゐた。すでにどこかで少し飲んでゐたが、当時の私は二本や三本飲んでも、全然外見に変りはなかったから、広津氏の目には、普通の(大体真面目な)早稲田の学生とうつっただらう。
「私は、早稲田の文科の者で、尾崎と云ひます。実は、ちょっとお話をうかがひたいことがあるのですが――志賀さんについて」
「あ、さう、志賀さんのこと……」
 広津氏は、目をぎょろりとさせ、ちょっと考へるふうだったが、連れの人たちに向って、
「ぢやあ、先に行ってゐてくれたまへ、僕ちょっと――」
 四五人の、いづれも髮の長い連中が、うなづき合って歩き出した。広津氏は、来た方ヘ大跨に戻ってゆくので、私も大跨について歩いた。どこへ行くのかな、と思ってゐると、肴町の電車道をつっきると間もなく右手に折れて、神楽館といふ下宿へ入っていった。二階だったか階下だったか忘れたが、六畳位の部屋に通された。そこには、二十いくつといふ女の人がゐだ。夫人だなと思った。
寺町通りを… 神楽坂6丁目を交差点「神楽坂上」に向かって
 尾崎一雄です。
電車道 路面電車が敷設されている道路。ここでは大久保通りのこと。
神楽館 昭和12年の地図の『火災保険特殊地図』ではっきりわかります。神楽坂2丁目21でした。細かくは神楽館で。

「早稲田の尾崎君」
 広津氏が云ふと、夫人はお叩頭をした。私もイガグリ頭を深く下げた。
 広津氏は、こまかい紺絣着流しで、きちんと坐ってゐた。私も制服の膝を正しく折ってゐた。
「あの、『志賀直哉論』といふのをお書きになりましたが……」と云って、ちよっとつまった。
「ええ、書きましたが――」
 大きな目をして、凝っとこっちを見てゐる。で、それが? とうながされる思ひで、私はうろたへて、
「あれを拝見したのですか、あれは、――良いと思ひました」
「あ、さう」
 この時、夫人が茶をすすめた。しかし、私はそれに手を出してゐる余裕がなかった。あれも云はう、これも云ひたい、と頭の中はいっぱいなのだが――いや、いっぱいな筈なのだが、まるでこんぐらかってしまって、焦れば焦るほど、言葉が見つからなくなった。私は、確かに寒い時だったにかかはらず、汗をじとじと感じた。
 広津氏が、言葉少なに何か云ったが、それがどういふことだったか覚えてゐない。私自身の云ったことも覚えてゐない。志賀さんの小説か大好きで、全部熟読してゐるし、志賀さんに関する批評も落ちなく読んでゐる――といふやうなことを、どもりどもり云ったぐらゐのところであらう。
 とにかく、広津氏を呼び留めた時の元気は更に無く、私は逃げ出すやうにいとまを告げたのである。
イガグリ頭 いがぐり(毬栗)とは、いがに包まれた栗。イガグリ頭は髪を短く、丸刈りにした頭。
イガグリ頭紺絣 こんがすり。紺地に絣(かすり)を白く染め抜いた文様。その織物や染め物。かすりは文様の輪郭部がかすれて見えるから
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 「お対」とも。「つい」とは長着と羽織りを同じ布地で仕立てたもの。
着流し 男性の羽織、袴をつけない略式のきもの姿のこと。きものだけの楽な姿のこと。

 この一件は、思ひ出すたびに冷汗の種で、すでに三十年近い昔のことながら、実は私は誰にも話さなかった。先日、ある雑誌の記者にふと話して一と笑ひしたら、何となく気が済んだ思ひがした。勿論広津氏にも話さない。もっとも広津氏は当事者の一人、と云ふより被害者なのだから、(おぼ)えて居られるとすれば改めて苦笑されるかも知れない。しかし、公平に見て、広津氏としては、左ほどの大被毒ではないし、もともとさっぱりした人だから忘れて居られるかも知れない。だが、私は忘れることが出来なかった。広津氏には、再々お逢ひしてゐるくせに、私はどうもこの昔話を持ち出す気がしなかったのである。
 広津氏が、仮りにあの件を覚えてゐるとしても、あの無邪気な文科生が、この私だったとは思って居られぬだらう。私は、そんなことがあってから少くとも二年位経って、初めての同人雑誌を持ったのである。――茫々三十年。私も純真なる文学青年であった。
茫々 ぼうぼう。広々としてはるかな様子

あの日この日|尾崎一雄

文学と神楽坂

尾崎一雄 尾崎一雄は明治32(1899)年12月25日に生まれ、早稲田大学文学部国文科を卒業。志賀直哉の親戚の同級生に紹介を頼み、志賀に師事。昭和12(1937)年、37歳で、短篇集『暢気眼鏡』で第5回芥川賞を受賞。これで作家的地位を確立しました。貧乏ユーモア小説、心境小説などで有名。1983年3月31日、83歳、自宅にて死亡。
 これは『あの日この日』下巻で昭和6年の話です。ほかに『學生物語』の「神樂坂矢來の邊り」という短編があります。

 六年一月の、ひどい寒い曰の午後、勤めを終へて市電肴町停留場辺を見附の方へ歩いてゐると、うしろから声をかけられた。振り返ると、尾崎士郎精悍な顔があつた。
「やア」
「久しぶりだったな。奈良に居ると聞いたが……
「半年ほど前、舞戻つたんです」
「さうか。で、今、どうしてる?」
牛込区役所につとめてます」
「つとめてる? 区役所に?」
「それも税務課ですよ、面白いでせう」
「そ、そいつは――」と尾崎士郎が吃って、「ここぢや話ができない。ちよつといいだらう」連れ込まれたのは紅屋の二階だった。
士郎氏は、コーヒーを注文すると、私の顔を正面から見て、突如といつたふうに、囗を切った。
「尾崎一雄が不遇なのは――」
「いや」
ピシャリと音を立てる感じでそれをさへぎつて、
「僕は、何も書いてゐないのだから、遇も不遇もありませんよ」
士郎氏は、うッと咽喉がつまつたやうな顔をしてから、うろたへ気味に、
「そ、それはさうだ」と言った。
謂はば毒気を抜かれたかたちと見えた。あと彼は文学談めいたものには全く触れず、自分の近況を簡単に話すと、私の勤め工合など面白さうに聞いたのち、そのうちゆつくり飲まうと言つて別れ去つた。新潮社へ何かの用で行つた帰りだと言つてゐた。

肴町停留場 (さかな)(まち)の市電・都電の停留場。現在の大久保通りで、神楽坂5丁目にありました。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は千代田区富士見2丁目の地点にあり、江戸城の「江戸城三十六見附」のひとつです。寛永16年(1639年)に建設開始。ただし、見附にはこの江戸城の城門の意味以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所を「見附」と呼ぶ場合や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。
精悍 動作や顔つきが鋭く力強いこと
牛込区役所 牛込区役所は箪笥町15番地にあり、現在は牛込箪笥地域センターがあります。

毒気を抜かれる 相手をやり込めようと勢い込んでいた人が予想外の出方をされたために気勢をそがれ、おとなしくなる。