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資生堂[昔]|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では、関東大震災後の資生堂は、今の椿屋珈琲店にあったようです。地図はここに
椿屋珈琲店2

今ではこの地に立っていた建物をまとめると……
① 昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」では、おそらく大正11年頃で、荒物屋と白十字。
④ 「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」で、関東大震災後の一定時間に、資生堂がはいります。
③ 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)で岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、昭和5年頃、蒲焼こめや。
④ 都市製図社の「火災保険特殊地図」で、昭和12年で、明治食堂と白十字堂。
⑤ 都市製図社の「火災保険特殊地図」で、昭和27年で、堀田肉店
⑥ 1960年の「神楽坂三十年代地図」(『まちの手帖』第12号)でレストラン神楽坂と神楽坂フードセンター。
⑦ 国立図書館で住宅協会の新宿区西部[1960]では神楽坂フードセンター
⑧ 国立図書館で渋谷逸雄氏が新宿区1970年度版を作成し、それでは神楽坂フードセンターですが、
⑨ 国立図書館で日本住宅地図出版が出版した新宿区1973では、おおとパチンコになり、1980年ではおおとりパチンコになりました。

「肴町よもやま話③」の絵のほうが簡単にわかりやすく、でています。資生堂は白十字になり、明治食堂と一緒になって、堀田肉店になり、これはパチンコおおとり、パチンコ・スロットのゴードンになって、現在は椿屋珈琲店です。

Gold-On

今はないGold-On

安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では

○白十字――(はく)()の神樂坂分店で、以前は(さか)(あが)(ぐち)にあったものです。他の白十字同樣(どうやう)喫茶、菓子、(かる)い食事等。
 サラリーマン、學生が多く、二階は(しづ)かに落ちつけますので御同伴(ごどうはん)や、商談客に()に入られてゐます。(なん)となく、クラシツクな氣分(きぶん)の家。
○こめや――蒲焼料理、一寸(ちよつと)氣のきいた日本風の構へですが、蒲焼(かばやき)、うな丼、柳川各(卅錢)と、大衆をそらさぬやり方です。

神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では

相川さん その大田の半襟屋の隣が荒物屋さんだったね。それで、その隣が米屋さんのあとへ「明治食堂」っていう食堂が来た。その食堂のある時分に明治製菓が借りて、そのあとへ「白十字」が来た。白十字は戦争の最中にあったんだよ。
馬場さん そうです。白十字はありました。
山下さん 六丁目の本屋っていうのは、やっぱり白十字か何かなかったですか? あのへんに何か。
馬場さん あそこには「ビクトリア」っていうロシア菓子屋があった。そうすると、荒物屋さんは明治食堂に変わって、堀田さんになった。
相川さん そうそう。
馬場さん それから、大田さんの半分の方が「亀沢菓子店」?
相川さん いや、この明治製菓のところが亀沢の菓子屋。
相川さん(ママ) だから、大田さんは半分ずつでしょう。広くないんだから。亀沢の菓子屋のあとは資生堂が来たわけ?
相川さん そうそう。
馬場さん 資生堂が来て、明治製菓になって、白十字になった、と。で、白十字のときには、隣はまだ明治食堂じゃなかった?
相川さん 明治食堂。
馬場さん だから、白十字と明治食堂がいまのオオトリさんのところにあって、それで戦災にあっているわけだ。終戦後は、「メイカ」が来てたよ。
相川さん メイカって明治製菓じゃないですよ。食堂、食堂。権利が残っていだからでしょ。
馬場さん それで「神楽坂食品」が出たけど失敗したりして。
相川さん それで、そのあとへ堀田さんが来た。堀田の肉屋がね。
馬場さん そのあとに堀田さんか来たの? ふーん、それで失敗して。
相川さん そのあとへパチンコ屋さん。
馬場さん それでオオトリさん。
相川さん オオトリさんだって、いまのオオトリさんの前が二つぐらい違うのがあるものね。同じパチンコ屋でも。
高須さん ああ、そうですか。
相川さん うちの中が違ってもね。

本家鮒忠|神楽坂

文学と神楽坂

本家鮒忠は、なんと3階大宴会場を使うと、80人の宴会も大丈夫です。また、3階は部屋を3つに分けられるので40名や20名までの宴会も可能。おそらく神楽坂で最大の宴会場でしょう。地図はここに。

宴会4名様個室~80名様の室ご用意します。料理2100円から。飲み放題1400円2時間。
串焼、うなぎがメインで季節ごとにおすすめメニューで旬の味をお楽しみいただけます。

本家鮒忠
昔、関東大震災後には銀座の村松時計店もここにはいっていました。細かくはここを。

たとえば1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』の商店繁昌記では

ただ震災後に新しく出来たやや著名な店としては、銀座の村松時計店と資生堂との二支店位だが、これは何れも永久的のものらしく、場所も神楽坂での中心を選び、毘沙門の近くに軒を並べている。そしてこの二軒が出来たために、あの附近が以前よりは明るく綺麗に、かつ品よく引立ったことは事実だ。(ところが、この二店ともその後間もなく閉されて了った――後記)

場所は「本家鮒忠」になっています。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では

相川さん この「船橋屋」というのはお汁粉屋。これは、戦争中に「シンセイ堂」っていう薬局があったんです。船橋屋のあとに。そのあとが小間物屋。小間物屋さんが店を閉めるについて、一時、銀座の「村松時計店」が大きくあそこに入っていた。これも銀座の方に新しく(店舗が)できたからってんで引き上げた。そのあとに船橋屋が来た。
馬場さん それから薬屋で、戦災で焼けたときにはなんだったんですか?
相川さん 薬屋でおしまいになったんでしょ。
馬場さん 嘘だよ、薬屋じゃないよ。焼けるときは薬屋じゃなかったよ、ここは
>山下さん それで、戦後はどうですか?いちばん最初は「ノーブル」?
相川さん 「ノーブル」。喫茶をやっていた。
馬場さん ノーブルさんのあとへすぐ鮒忠ですか?
相川さん そうですね。

石版東京圖繪|永井龍男

文学と神楽坂

永井 龍男 永井龍男氏の『石版東京圖繪』のある章「バラック」です。関東大震災で下町はやられましたが、神楽坂はほとんど無傷でした。

 氏は小説家で鎌倉文学館の館長でした。生年は明治37(1904)年5月20日。没年は平成2(1990)年10月12日。大正7年、一ツ橋高小卒。大正9年、文芸誌「サンエス」に「活版屋の話」が当選。昭和2年、文芸春秋社入社。14年「文芸春秋」編集長、20年退社。戦後は創作が中心で、昭和24年、「朝霧」で横光利一賞受賞。格調高い文章で知られる短編の名手といわれました。

 関東大震災の被害は、東京の下町にはなはだしく、そのほとんどの地域を(かい)(じん)と化した。下町気質(かたぎ)とか、下町風と呼ばれた風俗も、この時以来東京から消滅した。(略)
「仕事をするにも、この焼けっ原じゃあ」
「だから、おれ達の天下がくる。細かい話は、今夜ゆっくりだ。おれのいま居るところは、牛込の軍隊仲間の家だ。なあに、見渡す限り焼けっ原のようだが、神楽坂を上ってみろ。昔のまんま東京が残ってる。なんなら池の端あたりまで歩いてみるか」(略)
「いいか、下町はみんな焼けちまって、牛込麻布と、山の手は大した景気だ」(略)
 卯之吉が云った通り、飯田橋を一つ渡って神楽坂にかかると、昔のままの東京があった。
 商店は軒並み落着いて商売をしていたし、浴衣(ゆかた)で町を歩いている女達も、どこということはないが、「ああ、東京へかえってきた」と思わせる、(あか)抜けした風俗であった。(略)
「神楽坂の待合なんぞも、表向きは遠慮しているが、裏にまわると、結構陽気に商売をはじめている。立ちおくれは禁物だ」(略)
 神楽坂には、日本橋で焼けた三越松屋、銀座の村松資生堂、さてはカフエー・プランタンなどが、出店を開くような繁昌振りで、東京一の盛り場にのし上った。
 夜店が両側に軒を連ね、人の出盛りには肩をぶつけんばかりの賑やかさで、その中を座敷着(おんな)が、横丁から横丁へ人をかきわけながら抜けて通る。
 毘沙(びしや)門さまあたりが中心になるが、その石の鳥居の手前を入って真直(まつす)ぐ、待合や小料理屋の前を過ぎると、急に闇が濃くなる。
池の端 「池之端」は東京都台東区の地名で、「池の端」は一般に池がある端。池は壕や堀の同義語ではありません。おそらく「池之端」を指すのでしょう。
牛込麻布 写し間違いはありません。麻布は港区です。下町は壊滅的な被害を受けましたが、山の手と麻布十番周辺は被害も少なかったようです。ここは「牛込・麻布」になるのでしょう。
手前 毘沙門横丁でしょう。

灰燼:灰や燃え殻。建物などが燃えて跡形もないこと
下町気質:人情深くて、祭りと喧嘩好き。何かと世話を焼きたがる。兄貴肌か姉御肌。
垢抜け:容姿、性格などが洗練され、素人っぽさや野暮臭さがなくなる
立ちおくれ:着手する時機を失うこと
座敷着:芸者や芸人などが客の座敷に出るときに着る着物
妓:酒席で、音曲・歌舞などをもって客をもてなす女。芸妓。芸者
待合:客と芸妓の遊興などのための席を貸して酒食を供する店

文学と神楽坂

神楽坂|大東京案内(1/7)

文学と神楽坂

 (こん) 和次郎(わじろう)編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年。再版はちくま学芸文庫、平成13年)で「神楽坂」です。

 今氏は早稲田大学理工学部建築学科助手から大正9年(1920年)には教授になった民家研究家、民俗学研究者でした。「考現学」を提唱し、服装研究家としても著名でした。

山の手銀座-この言葉(ことば)も今は新宿(しんじゆく)お株(うば)はれたが發祥の地はこゝである。神樂坂は(ひる)よりも(よる)の盛り場だ。(しか)も市内名うての盛り場の多くが、電車(でんしや)自動車(じどうしや)殺人的(さつじんてき)往來によって脅威(けふゐ)されてゐるのにこゝばかりは()ともし頃から十時頃迄、車馬一切の通行止(つうかうどめ)、安全を保證(ほしよう)された享樂第一のプロムナードを現出する。
 (よる)神樂坂(かぐらざか)通は人の神樂坂だ。その(おびただ)しい人出の中を、なまめかしい 座敷着(ざしきぎ)の藝者が()つて歩く情景(じやうけい)は、この町通りの一大異色。云はずと柳暗花明(りゆうあんかめい)歓楽境(くわんらくきやう)が横町から横町に展開(てんかい)されてゐることがわかるだらう。

山の手銀座「山の手銀座」は関東大震災になってから使いました。昭和2年の『大東京繁昌記』では「山の手の銀座?」という章が出てきます。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」には

大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた。

と書いています。関東大震災後、神楽坂は3~4年間に繁栄しましたが、あっという間に繁栄の中心地は新宿になっていきます。『雑学神楽坂』の西村和夫氏は

市内で焼け出された多くの市民が山手線の外周、そこから延びる東横、小田急などの私鉄沿線に移り住んだことによるものだ。

と説明します。
 その仲間・社会で評価を得ていること。その評価。
名うて 有名な。評判が高い
脅威 強い力や勢いでおびやかすこと。また、おびやかされて感じる恐ろしさ
灯ともし頃 ひともしごろ。日が暮れて、明かりを点し始める頃。
享楽 きょうらく。快楽を味わうこと。
プロムナード 散策。散歩道。遊歩道。自動車を気にすることなく、ゆっくりと散策を楽しめる。 フランス語promenadeから。
夥しい おびただしい。非常に多い。
なまめかしい あでやかで美しい。色っぽい。女性の身振り、しぐさや表情に、性的な魅力がある。
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物
縫う ぬう。この場合は事物や人々の狭い間を抜けて進むこと。人々や事物の間を衝突しないように曲折しながら進むこと。 「仕事の合間を縫って来客と会う」「雑踏を縫って進む」
異色 普通とは異なり、目立った特色のあること
柳暗花明 りゅうあんかめい。柳の葉が茂って暗く,花が明るく咲きにおっていること。美しい春の景色。転じて花柳街。色町。
歓楽境 かんらくきょう。楽しく遊ばせてくれる所。花街や遊興の場所

大震災(だいしんさい)直後(ちよくご)、幸運にも火災から免れたばかりに、三越の分店、松屋臨時賣場(りんじうりば)、銀座の村松時計店(むらまつとけいてん)資生堂(しせいだう)の出店さてはカフエ・プランタン等々、一夜に失はれた下町の繁華(はんくわ)が一手に押し寄せた觀があった。その後三年四年の間にこれらの大支店も次々に影をひそめ、今は從前(じうぜん)の神樂坂氣分に立ち返った。復興(ふくこう)市街地(しがいち)勃然(ぼつぜん)たる生氣と形態(けいたい)はなくとも、いつかは徐々にそここゝの店舗(てんぽ)が新時代風に變貌(へんぼう)する。なによりも誇るものは坂下から坂上までの立派な(しん)()石道アスフアルト道だ。坂の部分が洗濯板聯想(れんさう)させるのも愉快(ゆくわい)な滑稽である。
松屋 不明です。ただし、銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではありません。株式会社松屋総務部広報課に聞いたところでは、はっきりと本店、支店ともに出していないと答えてくれました。日本橋にも松屋という呉服店があったようですが、「日本橋の松屋が、関東大震災の直後に神楽坂に臨時売場をだしたかどうかは弊社ではわかりかねます」とのことでした。
カフエ・プランタン 最初は明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように店とその名前が変わりました。昔の岩戸町二十四番地、現在は岩戸町一番地です。

 

明進軒

明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように名前が変わりました。図は昭和12年の火災保険特殊地図(都市製図社)です

アスファルト道 ニッポン「道路舗装」史では

アスファルトの利点は、①工事費が安く、②施工後、数時間で使える点でした。

さらに

コンクリは①寿命が長く、②轍ができない、さらに③原料の石灰石は国産可能というメリットもありました。

また、国交省の『道路統計年報2013』では

現在の日本の道路総延長は1200万キロ。そのうち未舗装が19%で、コンクリート舗装はわずか4.5%。残りはすべてアスファルト舗装になっています。
洗濯板 洗濯衣類を洗うときに使う道具。水をつけてこすりつけるようにして洗います。

勃然 ぼつぜん 急に、勢いよく起こるさま
鋪石道 ほせきみち。道路に敷いてある石。しきいし

文学と神楽坂

大東京繁昌記|早稲田神楽坂10|商店繁昌記

文学と神楽坂

商店繁昌記
商店繁昌記

どこかでビールでも飲んで別れようといって、私達は再び元の人込の中へ引返した。この頃神楽坂では、特にその繁栄策として、盆暮の連合大売出しの外に、毎月一回位ずつ定時の連合市なるものをはじめたが、その日も丁度それに当っていて、両側の各商店では、一様に揃いの赤旗を軒先に掲げて景気をつけていた。だがこの神楽坂では、これといって他に誇るべき特色を持った生え抜きの著名な老舗しにせとか大商店とかいうものがほとんどないようだ。いずれも似たり寄ったりの、区民相手の中以下の日用品店のみだといっても大したおしかりを受けることもないだろう。震災直後に三越の分店や日本橋の松屋の臨時売場などが出来たが、何れも一時的のもので間もなく引揚げたり閉鎖されたりしてしまった。そして今ではまた元の神楽坂に戻ったようだ。ただ震災後に新しく出来たやや著名な店としては、銀座の村松時計店資生堂との二支店位だが、これは何れも永久的のものらしく、場所も神楽坂での中心を選び、毘沙門の近くに軒を並べている。そしてこの二軒が出来たために、あの附近が以前よりは明るく綺麗に、かつ品よく引立ったことは事実だ。(ところが、この二店ともその後間もなく閉されて了った――後記)
 酒屋の万長、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢、糸屋の菱屋、菓子屋の紅谷、果物屋の田原屋、これらはしかし普通の商店として、私の知る限りでは古くから名の知れた老舗であろう。紅谷はたしか小石川安藤坂の同店の支店で、以前はドラ焼を呼び物とし日本菓子専門の店だったが、最近では洋菓子の方がむしろ主だという趣があり、ちょっと風月堂といった感じで、神楽坂のみならず山の手方面の菓子屋では一流だろう。震災二、三年前三階建の洋館に改築して、二階に喫茶部を、三階にダンスホールを設けたが、震災後はダンスホールを閉鎖して、二階同様喫茶場にてている。愛らしい小女給を置いて、普通の喫茶店にあるものの外、しる粉やお手の物の和菓子も食べさせるといった風で学生や家族連れの客でいつも賑っている。
松屋 不明です。ただし、銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではないようです。株式会社松屋総務部広報課に聞いたところでは出していないとはっきりと答えてくれました。日本橋にも松屋という呉服店があったようですが、「日本橋の松屋が、関東大震災の直後に神楽坂に臨時売場をだしたかどうかは弊社ではわかりかねます」とのことでした。
尾沢 カフェー・オザワは神楽4丁目の「カフェ・ベローチェ」にありました。詳しくはここで
菓子屋ではまだこの外に二、三有名なのがある、坂上にある銀座木村屋の支店塩瀬の支店、それからやや二流的の感じだが寺町の船橋屋などがそれである。だが私には甘い物はあまり用がない。ただ家内が、子供用又は来客用としてその時々の気持次第で以上の諸店で用を足しているまでだが、相馬屋と、もう一軒坂下の山田という紙屋では、私は時々原稿紙の厄介になっている。それから私に一番関係の深い本屋では、盛文堂機山閣、寺町の南北社などが大きい方で、なおその外二、三軒あるが、兎に角あの狭い区域内で、新刊書を売る本屋が六、七軒もあって、それ/″\負けず劣らずの繁昌振りを見せているということは、流石さすがに早稲田大学を背景にして、学生や知識階級の人々が多く出る証拠だろう。古本屋は少く、今では岩戸町の電車通りにある竹中一軒位のものだ。以前古本専門で、原書類が多いので神田の堅木屋などと並び称せられていた武田芳進堂は、その後次第に様子が変って今ではすっかり新本屋になってしまった。
 その代り夜の露店に古本屋が大変多くなった。これは近頃の神楽坂の夜店の特色の一つとして繁昌記の中に加えてもよかろう。もっともどれもこれも有りふれた棚ざらし物か蔵払い物ばかりで、いい掘り出し物なんかは滅多にないが、でも場所柄よく売れると見えて、私の知っている早稲田の或古本屋の番頭だった男が、夜店を専門にして毎晩ここへ出ていたが、それで大に儲けて、今は戸塚の早大裏に立派な一軒の店を構え、その道の成功者として知られるに至った。
 ついでに夜店全体の感じについて一言するならば、総じて近頃は、その場限りの香具()的のものが段々減って、真面目な実用向きの定店が多くなったことは、ほかでは知らず、神楽坂などでは特に目につく現象である。
塩瀬 塩瀬菓子店はちょうど山田洋傘の対面になります。現在はナカノビルでしょうか。喫茶店「Broxx」などが入っています。
船橋屋 神楽坂6丁目です。詳しくはここで
盛文堂 元祖寿司昭和初期、盛文堂は現在の「元祖寿司」がある場所に建っていました。(昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」を参照)。しかし、盛文堂の場所はもっと色々な場所に建っていました。助六履物から下に行った場所も1つ。また野口冨士男氏の「私のなかの東京」の中で
「ついでに『神楽坂通りの図』もみておくと、シャン・テのところには煙草屋と盛文堂書店があって、後者は昭和十年前後には書店としてよりも原稿用紙で知られていた。多くの作家が使用していて、武田麟太郎もその一人であった」
と書いています。
機山閣 ゴールドフォンテン昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」では神楽坂5丁目にありました。現在は貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」です。
南北社
昭和5年「牛込区全図」

昭和5年「牛込区全図」

寺町は通寺町のことで、現在は神楽坂6丁目に変わりました。『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』「大正期の牛込在住文筆家小伝」では筑土八幡町9番地の南北社はあり、さらに『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」に「通寺14に系列の南北社の南北書店があった」と書いてあります。その後、通寺町14を南北社にしています。赤い四角で書いてあります。『南洋を目的に』『悪太郎は如何にして矯正すべきか』『恋を賭くる女』など、かなり本を出版したようです。現在、通寺町14は神楽坂6-14の「センチュリーベストハウジング」に。

竹中 『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。青い四角でした。現在は東京シティ信用金庫。
武田芳進堂 新泉戦前の武田芳進堂は神楽坂5丁目の三つ角(神楽坂通りと藁店)から一軒左にありました。場所は「ISSA」と「ブラカイルン神楽坂」に挟まれて、以前は「ゑーもん」でしたが、2014年、閉店し、現在は神戸牛と和食の店「新泉」になっています。一方、戦後の武田芳進堂は三つ角にありました。『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では『芳進堂。金刺兄弟出版部。肴町32。「最新東京学校案内」「初等英語独習自在」など。現在の芳進堂ラムラ店』と出ています。現在では飯田橋駅のラムラに出しています。

大東京繁昌記 早稲田神楽坂