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牛込の文士達④|神垣とり子

文学と神楽坂


 藤森秀男という詩人がよく来た。目的はやはり間宮茂輔をふった京都生れの女子大生にあるらしかった。「こけもも」という詩集をくれたが朝の九時頃から夜までいて、彼女のことばかり話すので弱った。お相手をしているけど「雀のお宿」じやないからお茶にお菓子、お土産つづらというわけにもいかず、河井酔若が尋ねてきたのでこれ幸いと神楽坂へ出かけて「オザワ」で食事をした。
 「オザワ」は毘沙門の向う側で薬局をやっていて地内の芸者やへ通りぬける小路があって芸者が声をかけてゆく。その奥と二階で洋食やをやっていた。「田原や」は果物やでここも裏でフランス料理をやっていたが、味も値段も銀座並みなので、お客のなりたねも違っていた。文士連も芥川竜之介菊池寛今東光の「新思潮」や慶応の「三田文学」の連中が常連で、とりまきをつれて肩で風を切って神楽坂を歩っていた。
 坂上の料理屋には芸者も入り、神検・旧検に別れている。待合松ヶ枝が幅をきかせていた。毘沙門横丁には「高しまや」という芸者やに、松蔦・寿美蔵なんて役者の名にちなんだ芸者がいた。ロシヤ芸者の松子なんていう毛色の変ったのもいた。

藤森秀男 ふじもりひでお。正しくは秀夫。ドイツ文学者。東京大卒。詩人、童謡作家。慶大や金沢大などの教授を歴任し、ゲーテやハイネを研究。訳詞としては「めえめえ児山羊」(ドイツのわらべ歌)。生年は明治27年3月1日、没年は昭和37年12月20日。享年は満68歳。
こけもも 1919年、藤森秀夫氏は『こけもゝ 詩集』を文武堂から発行しています。
雀のお宿 童謡『すずめのおやど』の歌詞は すずめ すずめ/おやどは どこだ/ちっちっち ちっちっち/こちらでござる/おじいさん よくおいで/ごちそう いたしましょう/お茶に お菓子/おみやげ つづら/ 作詞は不詳、作曲はフランス民謡で、昭和22年に作られました。
つづら 葛籠。蓋つきの籠の一種。後に竹を使って縦横に組み合わせて編んだ四角い衣装箱。
河井酔若 かわいすいめい。詩人。「文庫」の記者として詩欄を担当し、多くの詩人を育てる。生年は明治7年5月7日、没年は昭和40年1月17日
地内 現在は「寺内」というのが普通
なり 形。身なり。服装。なりふり。風体。
たね 血筋。血統。
新思潮 文芸雑誌。第1次は1907年~08年、小山内 (おさない) 薫が主宰し、演劇を中心とする外国文学の翻訳紹介。第2次は10年~11年で、小山内の他、谷崎潤一郎,和辻哲郎,後藤末雄等の東京大学の同人誌。第3次は14年2月~9月で、山本有三,豊島与志雄、久米正雄、芥川龍之介、松岡譲、菊池寛等が創刊。第4次は16年~17年で、久米、芥川、松岡、菊池等が再刊。全同人が文壇への登場を果し、第3次と第4次の同人を『新思潮』派と呼ぶ。以後、十数次に及ぶ。
三田文学 文芸雑誌。1910年5月、永井荷風を中心に森鴎外、上田敏を顧問として創刊。三田文学会機関誌。自然主義の「早稲田文学」に対した耽美主義の立場をとった。久保田万太郎・佐藤春夫・水上滝太郎・西脇順三郎らが輩出。断続しつつ現在に至る。
神検・旧検 昭和10年頃、神楽坂花柳界に政党関係の内紛があり、神楽坂三業会(神検、新番)と牛込三業会(旧検、旧番)に別れた。神検は民政派、旧検は政友会だった(松川二郎「全国花街めぐ里」誠文堂、1929年)。戦後の昭和24年、合併して東京神楽坂組合に。
待合 花街における貸席業。客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店。
高しまや 毘沙門横丁に「分高島」があります。ここでしょうか。なお「分」「新」「金」などが名前についている場合は「分家」のことが普通です。

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会

 坂の途中で「ルーブル紙幣」が5銭10銭と売れていた。塩瀬の最中が一つ買える金額で「100ルーブル」の所有者になれ、ふたたび帝政ロシヤの夢を見るには安いのでよく売れた。売れたといえば毘沙門さまの境内にしんこ細工の屋台店があった。このしんこ細工でよせ鍋や、お櫃(ひつ)の形をつくって2銭で売っていた。葛西善蔵は子供をつれて上京するときっと泰三の家へ来るのでよく買ってやった。
 原稿紙は相馬や山田やのがいいっていって遠くから買いにきていた。坂下の「たぬきや」瀬戸物店では新婚の連中がよく買物をしていた。足袋やの「みのや」は山の手では一流店で手縫だった。銀座の「大野屋」と同じ位の値段だった。本多横丁の小間物やも「さわや」より少し落ちるが品物が多く、徳田秋声山田順子とベタベタしながら買いものをしていた。

帝政ロシヤ 1721年から1917年までのロシア帝国。日露戦争は1904年から1905年まで。
しんこ細工 新粉細工。新粉(うるち米を粉にしたもの)を水でこねて蒸し、それをついたものが新粉餅。これでさまざまな物の形をつくるのが新粉細工。
お櫃(ひつ) 炊いた飯を釜から移し入れておく木製の器。めしびつ。おはち。
きっと 確実にそうなるだろうと予測しているさま。自身の事柄に関しては決意を、相手に対しては強い要望を表す。必ず。あることが確実に行われるさま。必ず。
たぬきや 「古老の大震災の前」では神楽坂2丁目北側の「瀬戸物・タヌキ堂」です。「しのだ寿司」から「オアシス」になっていきます。
大正11年頃
古老の大震災の前
昭和5年頃
新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年
昭和12年
火災保険特殊地図
昭和27年
火災保険特殊地図
昭和35年
住宅地図
平成22年
住宅地図
神楽坂2丁目・坂上
絵草紙屋松来軒中華11空き地パチンコマリー第2カグラヒルズ
山本甘栗店11
茶・山下山下園茶店11
山本油店クスリ山一オアシススロットクラブ
瀬戸物・タヌキ堂ワコー喫茶キッサしのだすし
銘仙屋大木堂パンキッサ空き地コーヒーリオン
バー沙羅
第1カグラヒルズ
夏目写真館夏目写真館11メトロ映画館メトロ映画館
瀧歯科医濫長軒皮膚科医院
棚橋タバコ屋隼人屋煙草タバコ
吹野食料品富貴野食品〇〇〇ヤ
大畑バン店大畑菓子店キッサパチンコバンコク理容バンコック大内理容店
坂下

小間物や 「ここは牛込、神楽坂」第5号(平成七年)32頁には本多横丁の神楽坂四丁目に「小間物・桔梗屋」があったといいます。ここでしょうか?

 横寺町飯塚は近くに質やもやっていて、土蔵のある親質屋で牛込きっての金持とかいわれ坪内博士令嬢息子が嫁にもらって評判だった。公衆食堂がそのそばにあった。この店は近所の人達まで利用した。ごま塩が食卓にあるので労働者に喜ばれた。横寺、通寺は「めし屋」がない所で、この公衆食堂の前に天ぷらやが出来、15銭の天丼を売って出前をするので、芸術クラブ住人に重宝がられた。
 松井須磨子が首をつった二階の廊下は格子がはまって明りとりになって吹きぬけになっていた。その部屋を見に行く学生があった。そこの前に小さな雑貨屋があり、お湯やに行く人に石鹸や垢すりを売っていた。その家には娘が3人いて上の子が15~6で、抱月が須磨子と歯みがきなんか買いにきてよく顔をしっていたけどそんなに偉い女優とは知らなかったという。

令嬢 写真家の鹿嶋清兵衛と後妻ゑつの長女くにを6歳の時に養女にしています。
天ぷらや 一軒家か屋台です。新宿区横寺町交友会、今昔史編集委員会の『よこてらまち』(2000年)でも、1997年の新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』でも昭和10年頃になると、なくなっていました。
格子 細い角材や竹などを、碁盤の目のように組み合わせて作った建具。戸・窓などに用いる。
明りとり 光を取り入れるための窓。明かり窓。外の光の取り入れぐあい。採光。
小さな雑貨屋 2000年の『よこてらまち』でも1997年の新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(下図)でも不明です。

よこてらまち

神楽坂界隈

お湯や 藤の湯でした。

三孫質店[昔]|神楽坂二丁目

文学と神楽坂

 神楽坂2丁目に質屋の三孫がありました。お店の地図はここ。『まちの手帳』第3号の水野正雄氏の『新宿・神楽坂暮らし80年』で

一家で神楽坂に越してきて、祖父は神楽坂2丁目の「三孫(さんまご)」という質屋の通い番頭、長男は質屋に奉公、次男は質屋に婿養子、三男は着物の整理屋へ奉公に出ていたのを、三男だった親父を呼び戻して39年「湯のし屋」を始めた。

「さんまご」と読み、「さんそん」とは読まないようです。

 邦枝完治氏が書いた「恋あやめ」 (朝日新聞、1953年)には

 牛込見附の石垣に弁慶蟹が這って、飯田町駅を出た甲武鉄道の汽車の煙が、夕焼空に吸われて行った六時近く、神楽坂裏の質屋三孫ののれんをくぐったのは、ふろしき包を小脇に抱えた、四十がらみの肥ったおかみさん。

弁慶蟹 弁慶蟹はイワガニ科で海岸の湿地にすみ、約3センチ。本州中部以南に分布。今では蟹はこのあたりにはいません。
質屋三孫 質屋「三孫」(さんまご)の場所は下図で。現在はポルタ神楽坂になりました。

三猿(さんまご)質店

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年

手帳|同時代の作家たち

文学と神楽坂

広津和郎 広津ひろつ和郎かずお氏が書いた『同時代の作家たち』(岩波書店)の「手帳」(昭和25年)です。

 氏は生まれは1891年(明治24年)12月5日。没年は1968年(昭和43年)9月21日。文芸評論家、小説家、翻訳家です。

 氏は先輩作家の近松秋江氏の質草の話を新潮社の社長から聞き、まだ売れていない宇野浩二氏に書かせると面白いと考えます。

が小説を書いて文壇に出るようになったのは大正六年であるが、たしかその翌年の初夏の頃であったと思うが、或日新潮社をたずねると、当時の同社社長の佐藤義亮(ぎりょう)氏との間に近松秋江の話が出、氏の口から秋江の逸話を幾つか聞かされた。秋江はなかなかあれで自分の肉体美が自慢で、丁度神楽坂毘沙門前の本多横丁の角に、後にヤマモトという珈琲を飲ませる店になったが、昔そこに汁粉屋があり、その汁粉屋のおかみさんがちょっとイキな女だったので秋江はそれに興味を持ち、自分の肉体美をそのおかみさんに見せたくなり、その家の裏側に風呂屋があったので、秋江は赤城神社の境内の下宿屋からわざわざそこまで風呂に入りに行き、しかも風呂に入る前にその汁粉屋に寄って、そこでおかみさんの前で浴衣に著更(きが)えて自分の肉体美をおかみさんに見せようとしたというのである。

 広津和郎氏です。
新潮社 文芸書を初めとした大手出版社。1896年に新聲社として創立
新潮社
本多横丁 「神楽坂最大の横丁」で、飲食店をなど50軒以上の店舗があります。この名前は、江戸中期から明治の初期まで、この通りの東側全域が本多家の屋敷であり、 「本多修理屋敷脇横町通り」と呼ばれていたことに由来します。
ヤマモト 『ここは牛込、神楽坂』第5号の「戦前の本多横丁」にでていた松永もうこ氏の絵です。サトウハチローとドーナツについてはここに
本多横丁戦前
風呂屋 この近くの風呂屋は「第2大門湯」だけです。青で書いてあります。下の山本コーヒーの想像図は赤で書いています。現在の大門湯は理科大の森戸記念館の一部になりました。なお地図は都市製図社製の『火災保険特殊地図』( 昭和12年)です。大門湯
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社。
下宿屋 この矢印は昔の「清風亭」の場所で、赤丸で囲んだ清風亭とは違っています。近松秋江は赤い矢印のここに住んでいました。清風亭1

 それから秋江はまた非常に著物(きもの)が好きで、季節季節には新しく著物を作るが、貧乏なので直ぐそれを質屋に持って行ってしまう。それで次にその季節が来たらその著物を出して著れば好いのに、そうはしないでまた新たに著物を作る、しかし直ぐまたそれも質屋にはこんでしまう、そんな風にして質屋に預けた著物がいっぱい溜ってしまったが、虫干頃になると秋江は質屋の番頭がどんな虫干の仕方をするかとそれが信用が出来ずに、自分で質屋に出かけて行き、自分で質屋の蔵の中に細引を引きまわして自分の質物を懸けつらね、その下にそれも彼が入質した蒲団を敷いてその上に横たわり、自分の著物を頭上に眺めながら悠々と昼寝をして来るというのである。……そんな話を義亮氏の口から聞きながら、私は通寺町の路地の洋食屋で、秋江が芸妓に電話をかけて、「この間は散財した、あれだけあれば米琉が出来るんだのに」といっていた例の電話を思い出した。あの時にはあれがやりきれなく厭味に感じられたが、しかしこんな話を聞きながら今になって思い出すと、いかにも秋江の秋江らしさとして頬笑まれて来るのである。そしてその時佐藤義亮氏から聞いた話を、「これは面白い。これは小説になる。しかし自分に向く材料ではない。多分これは宇野浩二なら書けるだろう」と考えたものであった。
 宇野はその時はまだ文壇に出ていなかったが、私は彼にその話をして、「君なら書けるだろう」というと、「うん、僕なら書ける」と彼は答えた。それから一、二ヶ月後に宇野は実際にそれを小説に書いた。それが宇野の文壇的処女作となった「蔵の中」であるが、その事については私は以前「蔵の中物語」という文章に詳しく書いた事がある。

著物 着物のこと。この時代には「著物」と書いたんですね。
質屋 品物を担保(質草)として預かり、代わって品物の価値にみあう金銭を融資する商売
虫干 日光に当て,風を通して湿りけやかび,虫の害を防ぐこと。日本で6~7月のつゆ明けの天気のよい日に行います。
番頭 商店などの使用人の長。主人に代わり店の一切のことを取りしきる者
細引 ほそびき。麻などをより合わせてつくった細目の縄。
通寺町 現在は神楽坂6丁目のこと
洋食屋 上から下に神楽坂を下って左側にある洋食屋はわかりません。
米琉 よねりゅう。米琉(つむぎ)、正確には米沢(よねざわ)琉球(りゅうきゅう)(がすり)(つむぎ)。山形県米沢地方で生産される紬織物。米沢紬の中で、琉球絣に似た柄のもの
蔵の中物語 これは同じ本『同時代の作家たち』で「『蔵の中』物語――宇野浩二の処女作」という1章になって出ています。

文学と神楽坂