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善国寺(写真)昭和44年頃 ID 14126-28

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14126~28は、善国寺の写真を撮ったものです。撮影の年月日は「昭和44年頃か」と書かれています。
 この時期、善国寺には昭和45年 ID 8299-ID 8300昭和44年 ID 8271-ID 8272などがあり、これらを元として解説します。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14126 善国寺

 境内の隅から斜めに撮影しています。手前右側の四角い石はおそらく建物の基礎で、戦前にはこの場所には建物があり、東京名所絵図(明治37年)の挿絵には賽銭箱なども描かれています。その奥の建物は基礎がない仮設の小屋と思われ、商店街のセールの福引所などに使われました。
 T字に並んだ敷石は参道です。戦前のものと思われ、凹凸が目立ちます。左手間は毘沙門横丁側の門につながり、左側は本堂(毘沙門堂)に、右は正門に続いています。
 参道の向こうに四角い石があります。このあたりも戦前は建物があったので、礎石の一部かもしれません。左には屋外灯と旗の掲揚塔。さらに左は石虎で、土台に「奉」の一文字が掘られています。
 その奥の手すりは、写真には写っていない石造滑り台から降りてくる子どものための安全柵です。黒っぼい角柱は日よけの支柱で、その足元は砂場。ベンチの広告は「ビタ明治牛乳」。いずれも区立毘沙門児童遊園の施設です。
 最も左奥の建物には「易占えきせん/毘沙門天/易断所」という看板がかかり、そこで易者が占っていました。
ビタ明治牛乳 ビタミンなど栄養強化系の加工乳でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14127 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14128 善国寺

 ID 14127とID 14128は、いずれも北側の正門の外から本堂を見ています。左側にはベンチと、わずかに見えるくじ引き用の抽選器。その上には「餅花もちばな」を模した小さな正月向けの飾り。本来は餅が柔らかいうちに団子にして、花に見立てて木の枝につける冬の風習でした。軒下には提灯が並びます。
 中央の5列の敷石は参道。右は門柱で、大きく欠けているようにも見えます。いずれも戦前から残存したものでしょう、
 屋外灯、石虎、中央奥には本堂と鈴紐すずのお、賽銭箱には右書きで「奉納」と「神楽坂振興会」。石虎の右奥は、背もたれが独特なベンチでしょう。
 参拝者はコートを着ています、時期は年末で「陽差しから見ても、ID 8299と同時撮影でしょう。本堂は昭和46年に再建されるので、その建築前、おそらく昭和44年の年末でしょう」と地元の方。

善國寺。住宅地図。1970年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

善國寺(写真)昭和54年 ID 11865

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11865は、昭和54年1月、毘沙門天善國寺を撮ったものです。これは[A]とします。

[A]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11865 善国寺

 同じく昭和54年1月に善國寺を撮ったもの[B]があり、それが下のID 11830です。2つとも昭和54年1月の撮影ですが、いくつか違いがあります。

[B]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

 また、ID 9909は昭和50~51年に撮ったもので、これを[C]として3つを比較します。

[C]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9909 善国寺

 立て看板[A]は「歳旦祝祷祈願会」、[B]は「歳旦初寅祈願会」です。
 歳旦さいたんの「歳」は地球が太陽を一周する時間で1年間、「旦」は朝になり、つまり「元日の朝」。
 祝祷しゅくとうとは宗教行事の終りに会衆や人物に祝福を求める祈り。初寅はつとらとは新年になって最初の寅の日、あるいは、その日に毘沙門天へ参詣すること。祈願きがんとは神仏などに祈り願うこと。
「毘沙門天は寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻にこの世にお出ましになったことから、寅毘沙と呼ばれる」(善国寺公式サイト)とされ、寅の日を大事にしました。
 昭和54年(1979年)の初寅は1/11(木)でした。[B]は11日以前、[A]はそれ以降の撮影と想像できます。
[A]と[C]には、のぼり旗「奉献開運大毘沙門天」があがっています。添え書きとして[A]は「神楽坂興隆会」、[C]は「神楽坂」しか見えませんが同じものでしょう。「神楽坂興隆会」は地元の方によると「善国寺の応援を主目的にした地元の団体。後に、この団体が中心になって現在の赤い山門を寄進した」とのこと。確かに今の山門には「神楽坂興隆会」の銘板があります。

神楽坂興隆会

[B]にのぼり旗がないのは正月休み中の撮影だったからかも知れません。
[A][B]とも賽銭箱には「志納」とあります。志納しのう金とは信仰心から社寺に納める金、または拝観料です。
[A]は階段脇に一対の提灯があって、「毘沙 善國寺」と書かれています。本堂の長押なげしの中央は正月飾りがあります。その奥の内陣には山号の「鎮護山」。ガラスケースに入っているのは、日蓮宗の祭礼で使うまといでしょうか。ガラスケースの前にも賽銭箱があり、「浄心」と筆書で書かれているようです。

善國寺(写真)昭和54年 ID 11829-11831

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11829~11831は、昭和54年1月、毘沙門天善國寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11831 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿  b」ID 11829 善国寺毘沙門寄席

 善国寺の境内の石囲いには複数の門があります。当時(昭和54年)は神楽坂通りに三門が開いていました。向かって左側が他の店舗などの門(たとえばスゴオ洋菓子店)、中央は本堂に続く正門(ID 11830「神楽坂」とID 11831「毘沙門天」)、右側は庫裏に続く門(ID 11829「善國寺」)です。ちなみに、毘沙門横丁の側、出世稲荷の奥にも別の通用門があります。今は石囲いの一部を壊して駐車場にしていて、アルミの扉になっています。
「神楽坂」の門には「昭和四十六年五月十二日 児玉誉士夫建(之)」と書いてあります。また、本堂の柱には「来る十一日 歳旦初寅祈願会」の告知看板が出ています。なお、歳旦さいたんの「歳」は地球が太陽を一周する時間で1年間、「旦」は朝になり、つまり「元日の朝」。初寅はつとらとは新年になって最初の寅の日、あるいは、その日に毘沙門天へ参詣すること。賽銭箱には「志納」が書いています。志納しのう金とは信仰心から社寺に納める金、または拝観料です。
 ID 11829 の門柱脇には、蛍光灯のついた常設の「神楽坂毘沙門寄席 月例興行」の案内があります。昭和46年に完成した本堂の1階部分(内陣の下)は「毘沙門ホール」になっています。戦前にもあった寄席の復活の意味で、このホールで定期的に落語の興業がありました。
 撮影時の顔ぶれは「五日六時開演 千円 創作落語会 桂米丸 三遊亭金馬 三遊亭圓歌 林家三平 春風亭柳昇 都合で当分の間 圓右休演」と「廿五日 六時開演 七百圓 金馬いななく会 三遊亭金馬二席他 落語漫才多数助演」でした。
 落語ブームの今では考えられない、かなり豪華な顔ぶれです。なお、林家三平(初代)は1979年(昭和54年)正月に脳溢血で倒れ、翌年にがんで亡くなっています。この落語会に出られたかどうか分かりません。

善国寺(写真)昭和20年代後半 ID 9503

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9503は、昭和20年代後半、毘沙門天善國寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9503 神楽坂 毘沙門天

 善国寺は昭和20年5月25日夜半から26日早朝にかけて大空襲で焼失、昭和26年、木造の毘沙門堂が再建されました。昭和46年に今の本堂を建てています。
 ID 8245は昭和44年(1969年)頃の写真ですが、違いは確かにあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8245 善国寺

 前の写真(ID 9503)では鴨居の高さを神前幕で覆っています。賽銭箱は同じ場所にありますが、ID 9503では中央に文様がひとつです。
 向かって左側には礎石の上に防火用と思われる水盤があります。屋根の雨樋の降水を受ける位置にあるようです。また「毘沙門天」の石碑の右側は柵で若木を保護しているように見えます。
 ID 8245では賽銭箱は別のもので「奉納 神楽坂振興会」と書いてあります。鈴紐すずのおが垂れ、本坪鈴ほんつぼすずを鳴らすようになっています。
 正面左右には一対の境内灯が立ち、向かって右側に文化財の木札があります。水盤はなくなり、境内灯の足元に撤去した礎石や壊れた石囲いらしきものがまとめて置いてあります。「毘沙門天」の石碑の右側は藤棚になっています。

善国寺(写真)昭和44年 ID 8245

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8245を見ましょう。撮影は1969年(昭和44年)頃で、毘沙門堂の善国寺です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8245 善国寺

 ここで見られる一代昔の善国寺ですが、蓮秀寺(市谷薬王寺町)に移築され、今も健在です。
 賽銭箱には「奉納 神楽坂振興会」と書かれています。神楽坂振興会は後の神楽坂通り商店会です。
 右上に屋外灯があり、手前にもポールが立っています。下の1965年の写真(池田信「1960年代の東京」毎日新聞社、2008年)を見ると、堂の前に向かい合わせに鈴蘭すずらん灯が立っているのが分かります。

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

 ID 5189ID 5190の神楽坂通りの街灯と比べると、照明部分の形状、柱のすその広がり具合や途中の飾り金物の位置が酷似しており、おそらく同じものでしょう。
 この写真の撮影当時の街灯は大型蛍光灯に更新されています。鈴蘭灯の使用期間は昭和28年(1953)~37年(1962)と短かったので、あるいは更新時に程度のいい鈴蘭棟を毘沙門天の屋外灯に再利用したものかもしれません。

 善國寺住職も「昭和20年の東京大空襲は、当山も灰燼に帰するところとなった。 しかし、同26年には毘沙門堂を再建、46年には威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成し、戦災後の復興が果たされたのである」と書いていました。

 さらにその前の、戦前の善國寺です。

新撰東京名所図会第四十一編(明37)善国寺毘沙門堂縁日の図 明治37年

(A)毘沙門天(B)善国寺
善国寺は池上本門寺で同宗宗録所であった。毘沙門天はその本尊で殊に賽者が多い。「牛込区史」昭和5年

中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)