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赤城神社|赤城元町

文学と神楽坂

 牛込区赤城元町〔新宿区赤城元町〕の赤城神社は始めは赤城明神。『江戸名所図会』では

赤城神社

赤城神社


あか明神社
同所北の裏通にあり、牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野国赤城山と同神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。往古そのかみ おおうじ深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫重泰しげやす、当国に移りて、牛込に住せり。又大胡を改めて、牛込を氏とし、(其居住の地は牛込わらだなの辺なり。先に弁ず。)祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり。(当社始めて勧請の地は、目白の下関口領の田の中にあり。今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり。)

[現代語訳。一部は新宿歴史博物館「江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり」平成12年から]牛込の鎮守で、神社の境内の寺は天台宗東覚寺。祭神は上野国赤城山と同じで、本地仏は将軍地蔵菩薩という。昔、大胡氏がこの神を深く信仰し、始めは領地に祀って近戸明神と称した。その子孫重泰が武蔵国に移って牛込に住み、姓を改めて牛込氏とし(城館は牛込藁店の辺。前述した。)代々信仰してきたこの神を移し祀ったものである。祭礼は9月19日。始めに祀った場所は目白の下関口領の田圃の中であった。今も少しばかりの木立があり、これを赤城の森と呼んでいる。

江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌。神田雉子町の名主であった斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代の調査によって作成。名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪旦による絵入りで解説。7巻20冊。前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版
別当 別当寺。神社の境内にあり、供僧が祭祀・読経・加持祈禱を行い、神社の管理経営を行った寺。

 正安年(1300年)、群馬県赤城山赤城神社の分霊を早稲田の田島村(現在の新宿区早稲田鶴巻町、元赤城神社)に勧請。寛正元年(1460年)、牛込へ移動。明治6年に郷社に。郷社とは神社の社格で、府県社の下、村社の上に位置する神社。例祭日は毎年9月19日。

新撰東京名所図会』牛込区(明治37年)では

赤城神社は赤城元町十六番地に鎮座す。社格郷社、石の鳥居あり、表門は南に面す、総朱塗、柱間二間、左に門番所あり、間口一間半奥行二間半、門内甃石一條、左に茶亭あり、赤城亭と稱し、参拝人の休憩所に充てたり。側らに藤棚一架及び桜を植ゑたり、右に卜者の宅並に格子造に住みなしたる家一と棟あり。更に進む事二十餘武、右に末社北野神社、出世稲荷、葵神社の小祠宇あり(中略)
本社間口三間奥行二間半、社の後、石の玉垣を繞らす慶応二丙寅年十一月築造する所。此辺樹木、鬱として昼猶暗し。皆年経たるなり。即ち境内の北隅、崖に臨んで清風亭あり。

新撰東京名所図会 「新撰東京名所図会」64冊(山下重民他編、明治29年9月~42年3月、「風俗画報」臨時増刊、東陽堂)
赤城亭 最近は2005年7月、神饌しんせん(お供え物)料理店が開店。2008年3月、閉店。
甃石 しきいし。道路・庭などに敷き並べた平らな石
祠宇 しう。やしろ。神社。
繞らす めぐる。周りを回る。とりまく。
慶応二丙寅年 1866年です。
 もみ。マツ科の常緑大高木。

 清風亭は貸座敷で、江戸川へ移り、あとは下宿の長生館でした。明治36年、近松秋江氏は清風亭で慟く大貫ますと同棲し、明治40年6月、ますに赤城元町七番地で小間物屋を経営させていました。明治42年8月、ますに去られ、氏は『別れたる妻に送る手紙』(大正2年)を刊行。氏は大正2年10月から長生館に下宿しています。

神楽の由来は?

この神楽(かぐら)の由来は区の標柱では

  1. 坂の途中にあった穴八幡御旅所(おたびしょ)で神楽を奏したから(江戸名所図会、大日本地名辞書)
  2. 津久戸明神が移転してきた時にこの坂で神楽を奏したから(江戸名所図会、新編江戸志)
  3. 若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから(江戸名所図会、江戸鹿子)
  4. この坂に赤城明神の神楽堂があったから(望海毎談)

がありますが、どれがいいのか、江戸時代にもうわからなくなっています。ほかにも

  1. 市谷八幡の祭礼に、神輿(みこし)は牛込御門前の端の上に止まり、神楽を奏したから(江戸砂子
  2. 軽子(かるこ)坂にあわせてかくら坂になった(新宿区教育委員会「新宿区文化財」)
  3. 穴八幡の旅所がここに来る以前から、祭礼のときはこの場所で神楽を行っていた。その後、穴八幡の旅所ができて、さらに神楽をおこなうので神楽坂と呼んだ(牛込町方書上)。あるいは
  4. 築土明神揚場坂(あげばさか)で御輿が重くなり、この地に供物を備え神楽を行い、揚場坂は神楽坂といった(牛込町方書上)
  5. 猿楽練習説(神楽坂界隈20周年記念号、みずのまさを)
  6. 「かぐら」は高く聳えているものを見上げるときに命名する。断崖のこと。(班目文雄「神楽坂は神楽に非ず」『ここは牛込、神楽坂』)
  7. カミクラ坂(カミは神、クラは谷・崖)だったのが江戸弁でミがなくなった。

hatimanここで御旅所(おたびしょ)とは神社の祭礼で、祭神が巡幸するとき、仮に神輿(みこし)を鎮座しておく場所。神輿が本宮から旅して仮にとどまるところです。穴八幡の御旅所は、毘沙門天とは遠くない場所にありました。(ただし穴八幡の正確な位置は地図によって違います)。この『江戸名所図会』の前半10冊は天保5年(1834)、後半10冊は天保7年に書かれています。

寛政1789寛政1789年

1818文政文政1818年


ここは渡辺功一氏の後を追いかけ、7番が一番よさそうですが、しかし、(単数か複数の)誰が「祭礼のときは神楽を行っていた」のかはわかりません。まあ、仕方ないのですが。

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