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神楽坂の地図と由来

文学と神楽坂

神楽坂の地図と、路地、通り、横丁、小路、坂と石畳を描いてみました。

名前の由来は……
軽子坂 軽子がもっこで船荷を陸揚した場所から
神楽小路 名前はほかにいろいろ。小さな道標があり、これに
小栗横丁 小栗屋敷があったため
熱海湯階段 パリの雰囲気がいっぱい(すこしオーバー)。正式な名前はまだなし
神楽坂仲通り 名前はいろいろ。「仲通り」の巨大な看板ができたので
見番横丁 芸妓の組合があることから
芸者新路 昔は芸者が多かったから
三年坂 迷信から。神楽坂からはちょっと離れています
本多横丁 旗本の本多家から。「すずらん通り」と呼んだことも
兵庫横丁  兵庫横丁という綺麗な名前。兵庫町とは違います
寺内横丁 行元寺の跡地を「寺内」と呼んだことから
毘沙門横丁 毘沙門天と三菱東京UFJ銀行の間の小さな路地
地蔵坂 化け地蔵がでたという伝説から
神楽坂の通りと坂でさらに多くをまとめています

 ほかに横寺町、矢来町、袋町をまとめました。

東京の路地を歩く|笹口幸男③

文学と神楽坂

さらにこの路地の東側に、枝路地を二本もつ、より変化に富んだ迷路的な路地が走っている。お座敷てんぷら〈天孝〉をはじめ、〈高藤〉〈金升〉〈さがみ〉〈なが峰〉〈和光〉などの料亭や旅館、酒房などが占拠する、いかにも「花街」らしい一画だ。さっき、京都の町並みのようであると言ったが、ここもまさに伝統に富む京都に一脈通ずる品のよい都市空間を保っている。よそで見たならば、なんの変哲のない、犬を連れた老人の散歩ですら、ここでは絵になる、といったあんばいである。

路地 現在、かくれんぼ横丁と呼んでいます。

神楽坂の地図

神楽坂の地図

天孝 天孝、高藤、金升、さがみ、なが峰、和光のうち天孝だけが同じ店として生き延びています。他は全て閉店しました。右は1985年の「神楽坂まっぷ」で、この頃は全部が開店しています。また2007年には「わかまつ」で出火し、右隣りの「志のだ」に延焼しました。
かくれんぼ横丁
高藤金升さがみなが峰和光 全て閉店

さらにこの路地の東側に、枝路地を二本もつ、より変化に富んだ迷路的な路地が走っている。お座敷てんぷら〈天孝〉をはじめ町並みのよさに加えて、私にとっての神楽坂のもう一つの魅力といえば、食の名店が多いことである。JR飯田橋駅に近いほうから思いつくままに挙げれば、甘味どころの〈紀の善〉。戦前は寿司屋だったこの店、あんもミツもともに自家製という。その横丁を入った左側には、手打ち蕎麦の〈志な乃〉がある。昼飯どきには、店の外まで人があふれている。量の多い太打ちの田舎そばは、ややヘビーに感じる向きもあるようだ。坂の右手途中には、ジャンボ肉まんで有名な中華料理の〈五十番〉、毘沙門天の先にある洋食の〈田原屋〉、牛肉ステーキが自慢の酒場〈河庄〉などなど、店に事欠かない。

紀の善 「ぜん」は文久・慶応年間(1861-1868年)に口入れ屋、つまり職業周旋業者として創業しました。建物は第二次世界大戦で焼失し、甘味処「紀の善」に変わりました。最後の名前の変更は戦後の昭和23年(1948)のこと。
紀の善
志な乃 現在も同じ場所の神楽小路で営業中。
志な乃
五十番 創業は昭和32年(1957年)。肉まんや中華料理が有名です。肉まんはほかのと比べて生地が厚くて、肉はちょっと少ない。2016年3月には本多横丁に向かって右側だったのが、左側になりました。
五十番

田原屋 19世紀末ごろ牛鍋屋として開業。その後、洋食屋とフルーツの店に変わりました。2002年2月に閉店。
田原屋
河庄 場所は不明です。

さらにこの路地の東側に、枝路地を二本もつ、より変化に富んだ迷路的な路地が走っている。お座敷てんぷら〈天孝〉をはじめなかでも〈田原屋〉は歴史を秘めた洋食屋である。一階が果物店で、レストランは二階。明治の中期、神楽坂のなかほどに牛鍋屋として創業されたこの店が、現在地に移ったのは大正三年だという。客のなかには、夏目漱石菊池寛佐藤春夫サトウハチローがいたようだ。さらに島村抱月松井須磨子も来たようだし、永井荷風の『断腸亭日乗』のなかにも、たびたび田原屋へ出かけたという記述が見られる。昼飯どきでも、この店には静かな落ち着きかあり、ゆったりと食事を楽しむ年配の客を多く見かける。

断腸亭日乗 だんちょうていにちじょう。永井荷風の日記で、1917年(大正6年)9月16日から、死の前日の1959年(昭和34年)4月29日まで、激動期の世相と批判をつづったもの。

文学と神楽坂

本多横丁の路地|神楽坂

文学と神楽坂

 神楽坂通り(大通り)を入ったところが横丁で、横丁を入ったその奥は路地だと考えれば、全部路地になるのですが、ところがどっこい、違います。やはり路地は路面が狭くないとだめ。

本多横丁2

 本多横丁から東側に行くのは2本の路地があります。神楽坂通りに近い路地から「芸者新路」、「かくれんぼ横丁」です。

 最も近い道は「芸者新路」で、この路地から入っていきます。

本多-1

 遠い道は「かくれんぼ横丁」で、この路地から入っていきます。

本多-2

 西側には4本の路地があります。神楽坂通りに近い路地は「紅小路」で、その次の道は名前はなかったのですが、石畳になり、その結果、「裏紅小路」と仮の名前をつけました。その次の袋小路の道は「見返し横丁」、最後の袋小路の道は「見返り横丁」です。この4本は非常に短い。なお、東側と西側の6本はすべて私道です。なお、本多横丁は区道、神楽坂通りは都道です。

 紅小路は神楽坂通りの「楽山」と「みずほ銀行」の間に入り、しばらくそのまま進み、それから右の直角に曲がって、本多横丁の「海老屋」とスペイン料理「エルプルポ」の間に出てきます。通りから離れていくと石畳がきれいです。神楽坂通りに入っていく場合、「楽山」も赤い色が使ってあるし、「みずほ銀行」も赤い壁の色で、ゆえに紅小路です。
本多1

 しかし、楽山は立替で赤い色ではなくなりました。現在の写真は…。

 見返し横丁と紅小路の間に「名無し」がありました。このまま、本多横丁から東に行くと南に曲がる狭い路地があり、その先は紅小路になります。実際は2017年までには、ここも石畳で覆われましたので、とりあえず「裏紅小路」としておきます。

 以前はコンクリートで覆ってありました。

本多2

 見返し横丁は本多横丁の「鳥静」と「がく屋」の間に入り、昔はわずかにSに曲がりました。見返し横丁は見返り横丁よりも新しく出来て、言葉のあやでこんな名前になりました。石畳もあるし、高層マンションを真正面に見て、やがて袋小路になります。昔は兵庫横丁にでていくこともできました。

本多3

 見返り横丁は本多横丁の「ヘア ラ・パレット」と「はじめの一っぽ」の間に入り、高層マンションを横に見て、旅館「和可菜」の裏で袋小路になります。これも昔は兵庫横丁まででていくことができました。

路地5

 本多横丁の「地図」では「紅小路」や「見返し横丁」を堂々と書いています。ふーん、紅小路はいかにもそれらしいし、「見返し」も昔の名前のようです。いい名前をつけた『ここは牛込、神楽坂』の日本路地・横丁学会の坂崎、井上、阿久津先生とパウワウの林さんに大感謝。

路地|一番狭く細い路地は

文学と神楽坂

路地は家と家との間の狭い通路です。では一番狭い路地はどこなのでしょうか? 「ごくぼそ」の路地で、これはよくわかっています。では2番目、3番目の狭い路地は? 幅2メートルより狭い路地はどれほどあるのでしょう。

① 1番狭い路地は、ご存知、毘沙門向かいの細い路地、「ごくぼそ」の路地で、幅91cmです。地図で見てみましょう。上宮比町は将来の神楽坂4丁目になるところです。明治28年の町には何もありませんが、明治29年、ここに路地がでてきます。(新宿区『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』)
M28と29神楽坂4丁目神楽坂の夜店は明治20年に始まっているのでこれと相まってでてきたのでしょうか。大正12年(1923)関東大震災が起きます。日中戦争が始まった昭和12年には、現在とほぼ同じ大きさになります。下の左側です。昭和27年、まだ第2次世界大戦の影響が残っているのでしょうか、1つの建物が消え、路地は巨大になります。(新宿歴史博物館『新宿区の民俗』平成13年)
S12とS27s神楽坂4丁目
現在、「ごくぼそ」の路地も石畳なのですが、大きな板製の石畳になり、扇の文様ではありません。ビルのあいだなのですが、ちゃんと居酒屋もあります。
ちなみにストックホルム旧市街のMårten Trotzigs Gränd (モーテン・トロッツィグス・グレンド)という最小の路地は幅70cmです。
神楽坂通りから見た路地とその反対側は…ごくぼそ
距離5
なお、ここではBosch(ボッシュ)のレーザー距離計GLM50 Professionalを計測では使っています。

② では2番目の路地はどこ? ふくねこ堂の横の「紅小路」で、最小で141cmです。石畳は扇の文様です。しかし、どちらも路地は小さすぎる感じがします。もう少し大きい路地のほうがよくはないでしょうか。
G


距離4
③ 毘沙門横丁と三つ叉横丁を結ぶ路地は名前はないのですが、狭いところで、148cmです。扇の文様です。人間はそんなに多くはいない場所なので、特に148cmでは多くはなく、下の石畳を眺めていると、かなり気分がいい場所なのです。

距離8④ 別亭鳥茶屋横の階段「熱海湯の階段」は最小160cmで、この階段の上は石畳ですが、扇の文様ではありません。階段はコンクリート製です。和食やバーがあります。

面白いのは坂の両端は2メートル以下ですが、階段がある場所はむしろ横幅は大きくなっていることです。258cmもある所です。事故があるとやはり小さくはできないということでしょうか。

距離9

距離7⑤ 兵庫横丁の和可菜前173cm、料理幸本前は172cmです。北から来ると、路地は曲がり、それまでは大きな路地が急に先が見えなくなります。この先はどうなっているのか、興味深々です。でもなかにはなにもありません。先が見えない路地はこことかくれんぼ横丁だけです。

以上、幅2メートル以下の路地でした。


神楽坂|かくれんぼ横丁とから傘横丁の由来

文学と神楽坂

この路地裏が「かくれんぼ横丁」という名前になったのは2つの、まあいえる理由があります。

一つは、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』では、

この路地内に都で初の五つ子の母の実家があり、実家の路地でこの五つ子がかくれんぼ遊びをしていたので祖父、森川安男さんは「かくれんぼ横丁」と呼んだ

というものです。

もう1つは、山口則彦氏の

やはり料亭街のこの名前は、子供たちがかくれんぼをして遊んだからという説もあるんですが、お忍びで遊びに来たような人を後ろからつけていても、横にちょっと入るといきなり目の前から消えてしまうから、というのが本当のようです。

というものです。

西村和夫氏は『雑学 神楽坂』では

入り組んだ街中で突然前方を歩く人が、家並に隠れて見えなくなるという町に遊び心から地域の住人が付けた愛称である

「神楽坂まちの手帖」第15号の座談会「路地歩きAtoZ」では……。なお、持田氏はかくれんぼ横丁在住49年のアマチュア写真家。金原氏は法政大学教授。平松氏は手帖の編集長です。

持田 うちの路地をみんな「かくれんぼ横丁」って呼ぶんですけど、あれは住んでる人間が知らないうちに名前がついてたんですね。
金原 誰がつけたんでしょうね。
持田 二十四、五年前に、うちの奥の森川さんって家に五つ子ちゃんが生まれたんです。日本テレビがずっと追いかけて番組を作ったんですけど、その時に森川さんのおじいさんが名付けたそうです。孫たちとかくれんぼして遊ぶから、かくれんぼ横丁って。それがテレビで広まったんですね。
平松 勝手に名前がついちゃうっていうのは、そこに住んでる側としていやなものですか。
持田 べつに悪い名前じゃないですし、愛称があったほうが親しみやすいと思いますよ。

やはり『森川安男さんが「かくれんぼ横丁」と呼んだ』ほうが正しいようです。

なお、『ここは牛込、神楽坂』では「寿司幸」のある路を『から傘横丁』と名前をつけています。理由は傘がほしてあったから。なるほど。かくれんぼnew

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