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春の嵐|野田宇太郎氏『灰の季節』|東京大空襲

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『灰の季節』(修道社、昭和33年)は、第二次世界大戦中から大戦以降を綴った日記です。たとえば、1945年4月12日、昼食前にフランクリン・ルーズベルト大統領が脳卒中で死去し、これを受けて、野田氏は4月13日の日記で簡単に書き留めています。その翌日、神楽坂にとっては東京大空襲を受けた日でした。

四月十四日

 単機あて帝都、関東東部、東北部等に侵入、主として帝都は爆弾焼夷弾取り混ぜの攻撃をうけた。熱を押して仕方なく起きる。都心の焼けのこりの部分を中心に空が東北へかけてまつかになつてゐる。そして中央線ぞひに爆発音が近まり、むくむくと黒煙が立ちのぼる。爆弾の無気味な落下音も幾度となくきこえ、敵機が撃墜されるのも数機みる。あとで機数約百七十、四十機位撃墜の発表あり。……眠る。
 中央線は荻窪までであとは不通のため帝都線で渋谷に出、地下鉄で神田に出る。下車しようとすると、どつと乗り込む避難者の群に押し返される。皆真青な顔をして相手が見えないやうなうろたへ方である。やつとの思ひで外に出て神田の河出書房仮事務所まで歩く。
 神田から飯田橋まで見透しに焼け落ちてゐる。飯田橋で不発弾の爆発にあふ。筑土八幡のあたりから新小川町 大曲もずらりと無残に焼けてゐる。神楽坂も家が大半なくなり、飯田橋交叉点から電車通を牛込肴町へ行く途には電線がばらばらに切れ落ち、まだごんごんと音を立てて燃えのこりの家が焔をあげてゐて、焦熱地獄のやうにあつい。そこら中形容し難い悪臭がむんと鼻をつく。人間の焼ける臭ひも混つてゐるやうだ。息をとめて一気に通りぬけようとするが駄目で、途中で立停り、叉熱気のなかを走つた。平時は賑やかな肴町交叉点通寺町側にトタン板が落ちてゐて、何気なく歩きながら蹴ると、下に屍体がかくしてあつた。防護団員の姿もみえず、地獄のなかでも歩いてゐる白昼夢のやうな気持。
 其儘足を早めて大日本印刷に行つた。近づくと今度は大日本印刷が一面の火焔に包まれて、盛んにまだ燃えつゞけてゐる。しまつた! と思ひ、第四中学の焼跡前から夢中で坂を下りて正面に出ると、焔の背後に印刷会社の建物はどうやら無事なやうである。燃えてゐるのは前庭に置かれた軍用の洋紙の山だけである。玄関にゆくと、防護団服を着た人が一人佇んでゐる。思はず「大丈夫ですか」と叫ぶやうに云うと、「ありがたうござゐました。工場の方は大丈夫です……」とその人は私に礼を云つた。あとで重役だつたと判る。消火する人手がなくて焼けるにまかせてゐるのだといふ。
 事務所に入ると、さすがに人はすくないが工場の方は動き続けてゐるやうなので、やつと安心した。これでまだ文藝は出せると思ひ、すぐに火野氏の「」を四月号の組版に廻してもらふ。
 まだ熱があつて、ふらふらとする。避難者の列に加り、やうやく渋谷に出て帝都線で夕暮に家にかへり着いた。
 この日は板橋、豊島、足立方面の被害がとくにひどく、明治神宮本殿も遂に焼失した。また宮城、大宮御所、赤坂離宮の一部にも火災が起つた。

単機 編隊を組まないで、単独で飛行する軍用機。単独飛行。
あて 配分する数量・割合を表す。あたり。送り先・差し出し先を示す。
焼夷弾 敵の建造物や陣地を焼く爆弾
帝都線 京王井の頭線のこと。渋谷と吉祥寺を結んだ。
河出書房 文芸書や思想書を中心に販売する出版社。1945年(昭和20年)の東京大空襲で被災、千代田区神田小川町に移転する。
見透し さえぎるものがなく遠くまで見えること。その場所
飯田橋、筑土八幡、新小川町、大曲、牛込肴町、肴町交叉点、通寺町、大日本印刷 下図を参照。牛込肴町と肴町交叉点は現在「神楽坂上」交差点、通寺町は現在神楽坂六丁目
防護団 軍部の強い指導のもとで満州事変勃発ごろから地域住民の防空業務(灯火管制、警報、防火、防毒、交通整理、救護等)を行わせる防護団と称する組織が全国各地に設立された。
第四中学 現在は牛込第3中学校です。
文藝 1944年11月創刊。発行所を改造社から河出書房に移して継承した雑誌。第2次世界大戦下のほぼ唯一の文芸雑誌。戦後は戦後派の作家を起用。86年からは季刊誌。
火野 火野葦平。ひのあしへい。日中戦争で従軍前に「糞尿譚ふんにょうたん」で芥川賞受賞。生年は明治39年12月3日、没年は昭和35年1月24日で自殺。享年は満53歳
 「海南島記」(改造社 1939年)。国立国会図書館デジタルコレクションとして入手可。

昭和22年の神楽坂

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈⑥

文学と神楽坂

   紅葉十千万堂跡

 飯塚酒店藝術倶楽部の思い出を右にしてそのまま南へまっすぐに横寺町を歩くと、左に箪笥町への道がわかれ、その先は都電通りに出る。その道の右側に大信寺という罹災した古寺があり、その寺の裹が丁度ちょうど尾崎紅葉終焉の家となった十千万堂の跡である。十千万堂というのは紅葉の俳号で、戦災焼失後は紅葉の家主だった鳥居氏の住宅が建てられた。その表入口は横寺町の通りにあって、最近新らしく造られた鉄製の透し門の中に、新宿区で今年の三月に新らしく建て直したばかりの「尾崎紅葉旧居跡」と書いた、史跡でなく旧跡の木札標識がある。そこへ入った奥の左側の、鳥居と表札のある家の屋敷内が、ほぼ十千万堂の跡に当る。
 紅葉が祖父の荒木氏と共に横寺町四十七番地にそれぞれ隣りあわせて一軒ずつの貸家を借りて住みついたのは、明冶二十四年二月頃である。
 明冶二十二年の新著百種第一冊『二人比丘尼色懺悔』が作家としての出世作となった紅葉ではあったがすでにその頃は硯友社を率いる新進作家と云ってよかった。樺島喜久を妻に迎えたのは明治二十四年三月、横寺町に移って間もなくの二十五歳のときである。(中略)

都電通り 大久保通りです。
大信寺 新宿区横寺町にある浄土宗寺院です。図では赤い矢印。詳しくはここに
終焉の家 図では「尾崎紅葉旧居跡」です。
今年 昭和44年です
木札標識 現在は「新宿区指定史跡」になりました。詳しくはここで
新著百種 1889年に吉岡書籍店で刊行しました。
二人比丘尼色懺悔 ににんびくにいろざんげ。尾崎紅葉氏の出世作。ある草庵に出逢った2人の尼が過去の懺悔として語る悲しい話。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈④

 

 去り難い気持であったが、わたくしはそのまま崖沿いの道を西へ歩いた。するとすぐに若宮町の一角の若宮八幡宮の境内に入る。戦災後昔の面影を失い、境内は附近の児童の遊園地になっている。そこを横切って道路に出るとそのまま右へ辿ることにした。その先は(とら)の日(うま)の日縁日でも知られた神楽坂毘沙(びしや)門天(もんてん)の脇から神楽坂通りに出るからである。
 毘沙門天の境内は、折から桜の花の真盛りで、子供連れの女のお詣り姿も見える。しかし境内でどうやら戦前からの面彫を残しているのは、表通りに面したコンクリートの玉垣位である。玉垣には寄進者の名が刻まれて、そのまま貴重な街の記録となっているが、正面入口の玉垣を見ると「カフエー田原屋」の文字がある。カフエーという名は大正時代からの記録で、戦前の神楽坂をわたくしに思い出させた。(中略)
 高い石段のある筑土八幡宮はその左側の筑土神社並んでいたが、今は筑土神社は少し離れた西側の白銀町に移り、八幡宮だけがどうやら昔の面影をのこLている。面影と云ってもそれは正面の高い石段だけで、それを登った境内は大きな銀杏(いちょう)の根株と、その前の猿の絵を浮彫りした古碑や、鉄の用水鉢以外は、本堂も社務所も戦後の再建である。その東側には津久土町の厚生年金病院のビルが、八幡宮を威圧するように高く(そび)えている。
 久しぶりに筑土八幡宮の石段を登りながら、わたくしはこの八幡宮下の柿ノ木横丁にあった薙城(なぎしろ)という下宿屋に、尾崎紅葉文学塾を出て読売新聞に勤めることになった徳田秋聲が、明治三十二年(一八九九)二月からしばらく下宿したことなど思い出していた。しかし柿ノ木横丁という小路など、もう今では夢物語にすぎない。ようやく登り着いた境内の片側に小学唱歌の「金太郎」その他のいわゆる言文一致唱歌の作詞作曲家だった「田村虎藏先生をたゝえる碑」がある。花崗かこう岩の表には「まさかりかついできんたろう」の五線譜が刻まれ、またその下に「田村先生(一八七三~一九四三)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職、言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され、また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」と碑文がある。田村と筑土八幡のゆかりがわからないので、折から社務所から出て来た宮司らしい老人に(たず)ねると、田村虎蔵は晩年八幡宮の裏側高台に住んでいたから、有志によって四年前の昭和四十年に、この碑がここに建てられたのだとわかった。

寅の日 十二支の寅の日。12日ごとに巡ってくる吉日で、特に最も金運に縁がある日
午の日 十二支のうしにあたる日。
縁日 神仏との有縁の日のこと。神仏の縁のある日を選び、祭祀や供養を行う日。東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治二十年以後で、ここ毘沙門天がはじまり。
玉垣 たまがき。皇居・神社の周囲に巡らした垣。垣が二重にあるときは外側のもの。
寄進者の名が刻まれて 現在はありません。昔はありました。写真は池田信氏の「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社)から。玉垣には寄進者の名前が載っていました。昭和46年に今の本堂を建て、そこでなくなったのでしょう。   玉垣には寄進者の名前でしょうか、何かが載っていました。しかし、下の現在、左右の玉垣ではなにもなくなっています。写真では左の玉垣を示します。

カフエー田原屋 5丁目の田原屋(1階は果物屋、2階はレストラン)か、三丁目にあった「果物 田原屋」のどちかでしょう。
筑土神社 天慶3年(940年)、江戸の津久戸村(現在は千代田区大手町一丁目)に平将門の首を祀って塚を築いたことで「津久戸明神」として創建。元和2年(1616年)、江戸城の拡張工事があり、筑土八幡神社の隣接地に移転。場所は新宿区筑土八幡町。「築土明神」と呼ばれた。1945年、東京大空襲で全焼。翌年(昭和21年)、千代田区富士見へ移転。
白銀町に移り その事実はなさそうです。
厚生年金病院 新宿区津久戸町5−1にあります。現在は東京新宿メディカルセンターと改称。図で右側のビル。左は筑土八幡神社。
柿ノ木横丁 新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』「揚場町」(平成22年)では「(揚場町と)下宮比町との間を俗にかき横丁よこちょうといった。この横丁の外堀通りとの角に、明治時代まで柿の大樹があり、神木としてしめ繩が張ってあった。三代将軍家光が、この柿の木に赤く実る柿の美しいのを遠くからみて、賞賛したので有名になり、そのことから名付いたという」
薙城館 不明です。東京旅館組合本部編「東京旅館下宿名簿」(大正十一年)ではありません。
文学塾 詩星堂とか十千万堂塾と呼ばれました。
宮司 神社に仕え、祭祀、造営、庶務などをつかさどる者の長。
八幡宮の裏側高台 筑土八幡町31番地に田村虎蔵旧居跡があります。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈③

   白秋と「物理学校裏」

 マスコミにかまけて俗物繁栄時代の文学界では、純粋で高度の文学者の研究は立ち遅れ気味で、北原白秋ほどの卓越たくえつした詩人さえ、もう歿後二十七年というに、まだ完全な年譜も見当らない。いくらか良心的と思われるもっとも新らしい白秋年譜で、例えば牛込山伏町から神楽坂二丁目に移った年代を調べようとすると相変らず明治四十二年十月末となっている。これは昭和十八年六月発行の雑誌「多摩」北原白秋追悼号に、側近の人々によってかなり詳しく書かれた年譜をよく検討せずにそのまま孫引している結果らしい。わたくしは昭和二十六年に『新東京文学散歩』で神楽坂の白秋を書いたとき、石川啄木の日記によって「明治四十一年十月の末近く」と訂正しておいた。それは啄木の四十一年七月二十七日の日記に「北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。」とあり、また同年十月二十九日には「北原君から転居のハガキ」「北原君の新居を訪ふ」として、やがて白秋が「物理学校裏」という詩を作ることになった神楽坂二丁目の家のことが、あたかもその詩の情景を裏書きでもしたように詳しく記録されているからであった。戦後に一応は流布るふした筈の『石川啄木日記』やわたくしの『新東京文学散歩』も、近頃の研究家にはもう活用されていないのであろう。
 わたくしは神楽坂をニ丁目から三丁目へようやく坂の頂上近くまで登り着き、三丁目と二丁目の境に当る左側の横丁に折れた。その三丁目角は戦前しばしば寄ったことのある田原屋というフルーツ・パーラーの跡で、今は山本という薬店になっているが、表口を注意して見ると、まだフルーツ・パーラー時代のモザイク模様のタイル敷きの断片がのこっている。その横丁の小路をそのまま南へ辿ってゆけば旧物理学校東京理科大学裏の崖上に出る。それは戦前の地図も現在の地図も同じである。小さなアパートや小料理店などが両側に並んで、小型自動車一台がやっと通れるほどのトンネルのような小路を、わたくしは北原白秋の「物理学校裹」という詩を切れぎれに思い出しながら歩いた。
 「物理学校裏」は大正二年七月刊行の白秋第三詩集『東京景物詩及其他』に収められ、「明治四十三年三月」作となっている。白秋は九州柳河の実家の破産問題などがあって明治四十二年秋にはもう神楽坂を去って本郷動坂に移り、翌四十三年二月には牛込新小川町に移るというあわただしい時代を迎えたが、創作慾はいよいよ(さか)んで、またその頃はパンの会もようやく隆盛期に入っていたから、「物理学校裏」は市街情調詩として新小川町で書きあげた名作の一つに違いないが、内容はあくまでも初夏の神楽坂の強烈な印象である。(この章は以下略)

41年7月27日の日記 石川啄木の日記から。

 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍つて、耳が――左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴つてゐた。
 いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言つてゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなつてから辞した。途中まで送つて、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。
 北原君は十一円の家賃の家に住つて、老婆を一人雇つてゐる。
 その時は余程頭に余裕が出てゐた。
 神楽坂の中腹のトアル氷屋に入つた。夕日の光で、坂を上る人も下る人も、長い長い影法師を逆まに坂に落して歩いてゐた。ガツカリした気持でそれを眺めてゐて、やがて遣瀬もない“放浪”の悲みを覚えた。そこを出て間もなく、卜ある店の時計を覗くと、恰度午後六時を示してゐた。
同年10月29日 石川啄木の日記から。

 九時頃起きると直ぐ吉井君が来た。吉井君も小説をかくと言つてゐる。一緒に昼飯を食つてると、北原君から転居のハガキ。二時頃、栗原君へ小説の予告文をかいて手紙。それを投函し乍ら二人で平野君を訪ふたが不在。
 吉井君とは別れて帰つた。何となく気が落付かぬ。堀合君へ行つて一円借りて、出かけた。大学の前で横浜工学士に逢つた。北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行つてゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上つた。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒つてるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。
 一日の談話につかれてゐてすぐ床についた

かまける あることに気を取られて、他のことをなおざりにする。
歿後二十七年 北原氏は昭和17年に死亡し、それから27年も時が経ち、現在は昭和44年です。
山本 小路の直後は山本漬物店(山本薬局)でした。細かくは3丁目南側最東部で。
横丁の小路 おそらく右の無名の小路です。
トンネルのような小路 おそらく小栗横町でしょう。
本郷動坂 本駒込4丁目と千駄木4丁目の境
新小川町 1982年から単独町名。「丁目」は消えている。詳しくは地図の新小川町
情調 その物のかもし出す雰囲気。心にしみる趣。感覚に伴って起こるさまざまな感情。

 以下の文章はここでは省略。それでも注釈はあります。

この詩 この詩は「物理学校裏」で細かく書いています。
深い 原文は「うすい」
Cadence (詩の)韻律,リズム。(朗読の)抑揚、 (楽章・楽曲の)終止形。楽曲の終わり特有の和声構造。汽車が停まる音でしょうか。
浮彫 平らな面に模様や形が浮き出すように彫り上げた彫刻。あるものがはっきりと見えるようにすること
甲武鉄道 御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿を経由、八王子に至る鉄道を保有・運営した。1889年(明治22年)新宿と立川で開業。1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により10月1日に国有化。
飯田町駅 1895年(明治28年)、中央本線を敷設した甲武鉄道の東京側のターミナル駅として開設。
牛込駅 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近。細かくは牛込駅
明星 1900年(明治33年)4月、同人結社東京新詩社の機関誌として、与謝野鉄幹が主宰となり創刊。詩歌を中心とする月刊文芸誌。1908年(明治41年)11月の第100号で廃刊。
スバル 1909年から1913年まで発刊。創刊号の発行人は石川啄木。他に木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載。スバル派と呼ばれた。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈①


文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)は、昭和44年春から45年秋までの記録で、46年に「改稿東京文学散歩」として刊行し、昭和53年には「その後書き加えた新しい資料も多く、全面的に筆を加えて決定版とした」ものです。
 「牛込界隈」の全部は著作権の関係で、引用できません(と思います)。そこで、そのうち一部を引用します。

   神楽坂
 大江戸成立以来の歴史的地域として牛込の名は明治以後も東京山の手の区名にのこされたが、現在は新宿区に含まれて、遂に地図からもその文字は消されてしまった。しかし、二十年前の敗戦混乱という塀の向うの歴史には牛込の文字がひしめいていて、それを知らねば二十年前の歴史さえ理解出来ないのである。
 牛込から江戸城への入口であった牛込見附跡の石垣は富士見二丁目北寄りの一角に厳然と今も残り、史跡となっている。その牛込見附跡を今日の出発点として、わたくしは中央線を(また)牛込橋を渡り、飯田橋駅南口前から外壕を横切る坂を下った。歩道に生きのこる老柳の陰から、その正面に牛込界隈かいわい第一の繁華街神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る。

富士見二丁目

牛込 東京都新宿区の地域名。旧東京市牛込区。主な地名として神楽坂、市谷、早稲田など。地名の由来は、昔、武蔵野むさしのの牧場があり、多くの牛を飼育したことから。
区名 戦前は牛込区がありました。
富士見二丁目 東京都千代田区の地名。地図は右図に。
老柳 新宿区によれば、現在はハナミズキとツツジ(http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000180899.pdf)。柳は枝葉が下がって通行に支障があり、葉が小さく緑陰に乏しいため街路樹には向きません。

 神楽坂! いつもお祭りの神楽の笛や太鼓の遠音が坂の上から聞えてくるような街の名である。その地名もどうやら神楽に因縁があるらしい。「江戸砂子市谷八幡の祭礼に、神輿(しんよ)、牛込門の橋上に留まりて神楽を奏するより名を得たるとなし、江戸志は、穴八幡の祭礼に此の阪にて神楽を奏するより(なづ)くと云ひ、改撰江戸志は、津久戸社田安より今の地に移るの時、神楽を此阪に奏せしよりの名なりと記す。」と明治の『東京案内』には記されている。いずれにしても神社が多く祭礼が多いのは牛込の繁昌はんじょうを物語るものであろう。江戸以前の牛込氏居城址といわれる所も神楽坂を上ってまた左へ、藁店(わらだな)の坂を辿ったその上の袋町の台地一帯である。神楽坂は牛込氏時代から開かれていた坂道だったに違いあるまい。
 ところで現在の神楽坂は、東の牛込見附に近い坂下の外濠に面して警察署のあるあたりが神楽河岸で、東から西へ坂に沿って一丁目から六丁目まで続き、「神楽坂町」が「神楽坂」何丁目になっている。そのうち一丁目から三丁目までは以前と大した変化もないようだが、その次の四丁目は以前の宮比町、五丁目は(さかな)、そして今もまだ都電が走りつづけている旧肴町の十字路をそのまま西へ越したゆるやかな坂道の六丁目は旧通寺町である。またその先の矢来町の新称早稲田通りに矢来町ならぬ神楽坂という地下鉄駅が最近に開かれたので、神楽坂の名だけが勝手に飴棒のように引きのばされた感じである。自国の歴史認識さえ失った為政者共は、町名や地名を糝粉(しんこ)細工(ざいく)と勧違いして、勝手にいじくるのをよろこんでいるのではなかろうか。そんな感じさえする。

神楽 神をまつるために奏する舞楽。民間の神事芸能。
市谷亀岡八幡宮 いちがや かめがおか はちまんぐう。新宿区市谷八幡町にある八幡神社です。太田道灌が文明11年(1479年)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を守護神として勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して、亀岡八幡宮と称した。江戸城外濠が完成の後、茶の木稲荷のあった当地に遷座。明治5年に郷社に。
神輿 みこし。祭礼の時に、神体を安置してかつぐ輿(こし)
江戸志 写本。明和年間に、近藤義休が編集し、文化年間に、瀬名貞雄が増補改正した。
穴八幡 新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。
改撰江戸志 原本はなく、成立年代は不明。文政以前(1818~1830年)にはあったらしい。
津久戸社田安 元和2年(1616年)、それまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。
『東京案内』 正確には東京市市史編纂係編「東京案内」下巻(裳華房、1907年)。インターネットでは国立図書館の「東京案内」の146コマ目。
牛込氏 当主大胡重行は戦国時代の天文年間(1532~55)に南関東に移り、北条氏の家臣となりました。天文24年(1555)、その子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近などを領有。天正十八年(1590)、徳川家康に家臣となり、牛込城は取壊。
居城址 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)では牛込氏の居城址の想像図を出しています。
警察署 昔は警察署がありました。現在の警察署は南山伏町1番15号に。
神楽河岸 昭和56年の地図で緑の部分。
最近に開かれた 地下鉄の神楽坂駅は、1964年(昭和39年)12月に開業。
飴棒 あめんぼう。駄菓子。棒状につくった飴。
糝粉細工 うるち米を洗って乾かし、ひいて粉にした糝粉を蒸して餅状にし、彩色し、鳥、花、人間などの形にした細工物

  早稲田派の忘年会や神楽坂
という句が正岡子規の明治三十一年俳句未定稿冬の部(『子規全集』巻三)にある。この句は明治時代の神楽坂が当時の東京専門学校後の早稲田大学)のいわゆる早稲田書生の闊歩かっぽする街であったことと、宴会などが盛んに催されるような料亭などが多い街であったことを示している、この句の作られた明治三十一年十月までは、東京専門学校から明治ニ十四年十月創刊以来の第一次「早稲田文学」が発行されていて、坪内逍遙傘下の早稲田派がぼつぼつ文壇に擡頭しつつあった。「早稲田文学」が自然派の拠城として文壇を占拠するまでになり、実際に早稲田派の名が文壇にひろまったのは、島村抱月が逍遙の後を継いで主宰した明治三十九年一月からの第二次「早稲田文学」時代だが、子規のこの一句によって神楽坂はそれ以前から早くも文学的地名になっていたことが伺われる。

東京専門学校 明治15年(1882年)「東京専門学校」が開設し、10月21日、東京専門学校の開校式。明治35年(1902年)9月、「早稲田大学」の改称を認可。
早稲田大学 明治37年(1904年)、専門学校令に準拠する高等教育機関(旧制専門学校)。大正9年(1920年)、大学令による大学となりました。
第一次「早稲田文学」 明治24年10月20日「早稲田文学」の創刊号を発行。明治26年9月、第49号からは誌面が一新。純粋の文学雑誌に転身。明治31年10月まで第一次「早稲田文学」は156冊を出版。
拠城 活動の足がかりとなる領域。
第二次「早稲田文学」 1905年、島村抱月の牽引によって第二次「早稲田文学」を開始。

 神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る、とわたくしは云った。わたくしが神楽坂や早稲田あたりをはじめて歩いたのは昭和四年春からのことで、その後昭和八、九年頃にわたくしは近くの飯田町で貧乏文学青年の生活をはじめていて、毎夜のように神楽坂を歩き廻った。酒をたしなむのでもなく、また用事があるのでもなかったが、日に一度は必ずそこにゆかないと夜もおちおち眠れぬような気持で、ただわけもなく坂の夜店を冷やかしたり、ときには山田とか相馬屋とかの文房具店で原稿用紙を買ったり、友人と顔を合せては田原屋フルーツ・パーラーとか、白十字紅屋などの喫茶店で語りあうのが常であった。神楽坂は大正十二年の大震災で下町方面が焼けた後、一時は銀座あたりの古い暖簾のれんの店が分店を出し、レストランやカフェーなども多くなって牛込というより東京屈指の繁華街であった。牛込銀座などと呼ばれたのもその頃である。わたくしが上京した頃は銀座も既に復興していたが、神楽坂の夜の賑わいなどは銀座の夜に劣るものではなかった。……それが昭和の戦火で幻のように消えてしまったのである。
 戦後二十四年、思い出のフィルターを透してのぞく神楽坂には、必ずしも戦前ほどのうるおいもたのしい賑わいも感じられないが、復興に成功して繁栄を収り戻した街には違いない。わたくしは一丁目に新装した山田紙店の、わざわざ原稿用紙と大きく書いた看板文字をなつかしい気持で眺め、左側の一丁目とニ丁目の境の小路入口、花屋の角で足をとめた。その小路をはいった右側のあたりが、どうやら泉鏡花の住居跡に当るからである。
田原屋フルーツ・パーラー これは神楽坂の中腹、三丁目にあった「果物 田原屋」を指すのでしょう。

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会から

ここは牛込、神楽坂」第17号の「お便り 投稿 交差点」で故奥田卯吉氏は次のように書いています。

 創業時の田原屋のこと。神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた。(略)
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。それは格調高いもので、大理石張りのショーウインドーがあり、店内に入ると夏場の高原調の白樺風景で話題になった中庭があり、朱塗りの太鼓橋を渡ると奥が落ち着いたフルーツパーラーになっていた。突き当たりは藤棚のテラスで、その向こうは六本のシュロの木を植えた庭があり、立派な三波石が据えられていた。これが親父の自慢で『千疋屋などどこ吹く風』だった。」と書いています。

飯田町 現在は飯田橋一丁目から三丁目まで。飯田町は飯田橋一丁目と二丁目からできていました。地図はhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/d8/Chiyodacity-townmap1.png
暖簾 のれん。屋号などを染め抜いて商店の先に掲げる布。信用・名声などの無形の経済的財産。「暖」の唐音「のう」が変化したもの。

文豪の素顔|森鴎外(9)

文学と神楽坂

 もうひとつかきそえておきたいのは例のパンの会のことである。パンの会は僕らの青春の旗みたいなものである。野田宇太郎君の好著「パンの会」の記述は、まことにきれいごとでけつかうだが、やはりあらゆる芸術運動がさうであつたやうに内部的には感情の疎隔や嫉妬反ぜいがあつた。木下杢太郎君や石井柏亭君のやうなユニークな存在がなかつたらあんなけんらんとした足跡を大正芸術史に残したかどうか疑がはしい。
 今思ひ出してもパンの会の帰りが凄まじかつた。みんな泥酔して深夜の街頭を放浪して歩く。女郎屋へでもいかなけりや興奮の捨て場所がない。吉井勇君はその晩洲崎の遊廓へいきたがつて、味噌ッかすのぼくに金を出せとおどかす。たつた十三銭しか残つてゐなかつたので正直にそつくり出すと吉井君は忽ち例の無頼漢と化していきなりぼくの手をひつぱたいた。
 僕もさうさう卑屈になつてはゐられないのでやにはに彼を路上へ突き倒して下駄でぶンなぐつた。杢太郎君がとんできてひき分けてくれる。
 いつの間にか別れ別れになつて、僕は北原白秋君と二人ッきりになつてしまつた。白秋は腰がぬけちまつてやたらところぶ。ころびながら「空に真紅な雲の色」を胴間声で歌つては、おい幹彦ッ、おれを家までおぶつて帰れッといばりくさる。僕は唯々だくだく路傍にあつた荷車へ彼をのせて懸命に引つぱつていつた。白秋家は神楽坂下なのでいくら若い臂力でもそこまで曳いていけるものぢやない。途中でほッたらかして遁げようとすると白秋はおいおい泣きだして、幹彦お前はいい奴だ、おれを捨てるなとかじりついてきて生温い舌でぺロペロなめる。
 僕も胸がいつぱいになつてやつと人力車を一台さがしてそれへ乗せて帰してやつた。街燈の光で彼の財布をしらべてみると、なんと彼は三円なにがしか隠しもつていやがるのである。車代を先払ひしてあとは僕がねこババきめてやつた。

反ぜい はんぜい。反噬。動物が恩を忘れて、飼い主にかみつくこと。転じて、恩ある人に背きはむかうこと。恩をあだで返すこと
石井柏亭 いしい はくてい。版画家、洋画家、美術評論家。生年は1882年(明治15年)3月28日。没年は1958年(昭和33年)12月29日
けんらん 絢爛。華やかで美しい。詩歌や文章の表現が、豊富な語彙や凝った言い回しなどで美的に飾られていて、華麗な印象を与える様子。
洲崎 すさき。東京都江東区東陽一丁目の旧町名
味噌ッかす みそっかす。味噌っ滓。子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。
空に真紅… 白秋の「邪宗門」のなかにある詩です。玻璃は「はり」と読み、ガラスのことで、ガラス製の器に酒を注いだ事を意味します。またこの詩はパンの会の会歌にもなっています。

 「空に真赤な」
(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。
玻璃(はり)真赤(まつか)(さけ)(いろ)。
なんでこの()(かな)しかろ。
(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。
   明治四一年五月作

胴間声 どうまごえ。調子はずれの太く濁った下品な声。
唯々だくだく 唯唯諾諾。いいだくだく。 何事にもはいはいと従うさま。他人の言いなりになるさま
神楽坂下 神楽坂1丁目の全てと2丁目の部分。白秋はここに
臂力 ひりょく。うでの力

 僕だつて行きどころがないのだ。そこへあひにく阪本紅蓮洞が幽霊のやうに横町から現はれてきた。酔ひがさめてみると吉原の女郎屋の二階で寝てゐた。夜が明けてゐる。その時分吉井君たちと女郎屋へ泊ると紅蓮洞と版画家の伊上凡骨がいつも勘定の代りに居残りをさせられる。その朝はあの老残の紅蓮洞が可哀想になつて僕自身が始末屋へさがつた。始末屋といふのは札つきのコロンボがやつてゐる車宿のことである。勘定不足の客には入墨をしたあんちやんがダニのやうにくッついてくる。
 僕は本郷の質屋へいつて身ぐるみぬいで八円こしらへた。学生のくせに親父の洋服屋をだまかしてこしらへさせた自慢の背広を店先でぬいで、前に入れてあつた袷に着かへ革のバンドをしめてやつと家へ帰つた。
 その晩雷門前のヨカ楼で飲んでゐると高村光太郎君と市川猿之助君に逢つた。べろんべろんに酔つてまた吉原である。金が足りないのでワリ床といふやつである。びとつの部屋を古屏風で仕切つて寝るのである。夜が明けるまでカンカンガクガクの芸術論をたたかはしてゐるので、女郎たちが怒つて、女同士で寝てしまつた。やはり今のやうにさかんにパリを謳歌する時代だつたが、象徴派や後期印象派の論議ばかりでキンゼイ報告のやうなえげつない話はしなかつた、みづみづしかつたわけである。高村君はパリにゐた間この黄色い皮膚と高い頬骨が恥かしくて町が歩けなかつたなぞといつて、エクゾティシズ厶をかきたてた。
 僕は背広をなくしたので早稲田大学の制服をきてゐた。あの変テコな角帽が制定されたころで、あれを文学科で真先にかぷりだしたのは猿之助君と長谷川時雨の弟の虎太郎君と僕と三人であつた。

 酒と女では実に難行苦行したものである、谷崎潤一郎君が文化勲章をもらひ、吉井君が芸術院会員、高村君は高名な彫刻家、みんなずゐぷん年季を入れて古さびてしまつたもんである。
 今では名前も顔も忘れ果てたあの時分の一夜泊りの安女郎たちがもし生きてゐたらキラ星のごときお歴々の壮観にさぞかしおッ魂消ることであらう。
 それにしてもあの清純そのものであつた杢太郎君の姿が最前列にみえないのは何んとしてもさびしい。生きてゐたら第二の鷗外としてもてはやされたであらうのに。

伊上凡骨 神田の木版師。中沢、三宅氏等の水彩画を版画にし、ぼかしに長じていました。
始末屋 遊里で遊興費の不足した客を引き受け勘定を取り立てる商売
ゴロンボ ごろつき、ならずもの
車宿 くるまやど。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。
ヨカ楼 高村光太郎氏が書いた「ヒウザン会とパンの会」によれば

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、(よろい)(ばし)(わき)の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである

また、野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」で「よか楼」は

雷門前竝本通りにあつた三階建の塔のやうなレストラン

でした。細かくは東京紅團の「パンの会 -2-」で。
高村光太郎 高村光太郎たかむらこうたろう。詩人・彫刻家。1883年(明治16年)3月13日 – 1956年(昭和31年)4月2日。欧米に留学。ロダンに傾倒。帰国後、「パンの会」に加わり、「スバル」に詩を発表。岸田劉生らとフュウザン会を結成。詩集「道程」「智恵子抄」「典型」、翻訳「ロダンの言葉」、彫刻に「手」など
市川猿之助 いちかわえんのすけ。2世の歌舞伎役者。1888年(明治21年)5月10日 – 1963年(昭和38年)6月12日)。劇団春秋座を結成。多くの新舞踊・新歌舞伎を上演
ワリ床 割床。ワリドコ。何人もの人が屏風などで一室を仕切って寝ること。女郎屋で廻し部屋もふさがつている時、一つの部屋を屏風で仕切つて客を入れること
エクゾティシズ厶 exoticism。現在は「エキゾチシズム」のほうがよさそうです。異国趣味、異国情緒。異国の文物に憧れを抱く心境

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

晩年のノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

ノエル・ヌエット著「東京 一外人の見た印象」第2集、昭和10年

ノエル・ヌエット著「東京一外人の見た印象」第2集、昭和10年、表紙の挿絵

 1971年(昭和46年)、野田()太郎(たろう)氏の「改稿東京文學散歩」でも詩人で画家のノエル・ヌエット氏がでてきます。

 野田氏は1909年10月に生まれ、詩集を作り、1951年、日本読書新聞に「新東京文學散歩」を連載します。「文學散歩」は実際に文学で起こった場所を調べています。

 一方、ノエル・ヌエット氏はフランスで1885年3月30日に生まれています。ヌエット氏は寺内公園にある『神楽坂』を描き、その版画を案内板に載せています。

     ヌエットと「濠にそひて」
 フランスの詩人でもあるヌエットさんにはじめて会ったのは、昭和二十一年だった。その頃は出版社勤めだったわたくしは、ヌエットさんが皇居周辺の江戸城の面影を丹念にスケッチしたものと、江戸城に関する解説及びクローデルの詩や自分の詩をあつめて『Autour du Palais Impérial』と題した画文集を『宮城環景』と訳して出版した。それにはヌエットさんともっとも親しい山内義雄氏が美しい和訳文をつけられた。――実はわたくしがクローデルの「江戸城内濠に寄せて」(註・初訳は「江戸城の石垣」)につよい関心を抱きはじめたのも、この本の出版からと云ってよい。

クローデル Paul Claudel。フランスの詩人・劇作家・外交官。 1890年外交官試験に首席合格。日本、アメリカ、ベルギー駐在大使。大正10年駐日フランス大使として着任。昭和2年離任。生年は1868年8月6日。没年は1955年2月23日。享年は満86歳。
山内義雄 大正昭和のフランス文学者。早大教授。日仏文化交流に貢献して昭和16年レジオン-ドヌール勲章。生年は明治27年3月22日。没年は昭和48年12月17日。享年は満79歳。

 野田宇太郎氏はヌエット氏と初めて会ったのは、昭和21年なので、1946年です。野田氏は37歳、ヌエット氏は61歳でした。

それからもヌエットさんとは時折会っていたが、すでに日本にフランス文学の教師として二十数年間をすごし、戦争中のきびしい外人圧迫にも耐えて日本を愛しつづけたヌエットさんも老齢には勝てず、ゴンクール兄弟と日本美術の研究で東大から博士号を贈られると、祖国フランスへ、肉親たちの待つパリヘ帰ることになった。
 それを人伝てに知ったわたくしは、まだ江戸城址の内部を見ていなかったので、宮内廳に見学許可を申し込み、ついでにヌエットさんを誘うた。ヌエットさんは日本を去る前に皇居の内苑を()ることをよろこばれるに違いないと思ったからであった。
 ヌエットさんは、わたくしが江戸城と皇居について書くことにしていたサンケイ新聞社の車ですぐにやって来た。
「コンニチワ、ノダサン、イカガデスカ」位しか日本語を(しやべ)らないヌエットさんと連れ立って、わたくしがはじめて皇居内に入り、本丸跡から天皇のお住居のある吹上御苑以外の場所を半日がかりで殆んど(くま)なく歩いたのは、昭和三十四年二月十二日のことである。

ゴンクール兄弟 Frères Goncourt。フランス・パリの自然主義作家。エドモン(Edmond Louis Antoine de Goncourt)(1822‐96)とジュール(Jules Alfred Huot de G.)(1830‐70)は、つねに一体となって制作した。

 昭和34年は1959年で、この時の野田氏は50歳、ヌエット氏は73歳でした。

 二重橋も新らしく架け替えられ、その奥の江戸城西ノ丸に当るところには(ぜい)を尽くした新宮殿も四十三年暮に完成した。あいかわらず見物客の群がる二重橋前をすぎ、桜田門を内側から潜ると、左手は凱旋濠と土手の石垣の向うに日比谷交叉点が見える。右手は広々とした辨慶濠だが、わたくしの持参した最近の地図には桜田濠と記されている。水鳥が点々とのどかに浮遊している光景も昔のままだが、白い軍艦のように胸を張った大白鳥が二羽、ゆうゆうと水を滑っているのは、まさに戦後からの光景である。
 警視廳本館の陰気な色の建物の前からお濠沿いに西へ歩きはじめると、もうそのあたりのお濠の対岸は高い芝生の崖で、クローデルの「右手、つねに石垣あり」の光景は消える。それに替ってヌエットの「濠にそひて」の山内義雄訳が思い浮んでくる。

   過ぎにし時のかげうつす
   ここの宮居の濠にそひ
   愛惜、のぞみ、()ひまぜて
   はこびし夢のかずかずよ!

後の詩文は省略し

この詩は作者の心を心としたすぐれた詩人の訳者にしてはじめて成し得た名訳である。ヌエットさんがいかに江戸文化の、とくに安藤廣重の錦絵版画「江戸百景」などの美術に心を傾けていたかは、先の『宮城環景』の絵でもわたくしは理解したが、この詩を読むと、江戸城周辺の歴史的自然美に対するヌエットさんの(こま)やかな愛情が、ひしひしと伝わってくる。その頬や肩を()でたお濠端の柳の糸、雪のように音もなく水面をとび立つゆりかもめの群、大内山に面した江戸城西側のお濠の斜面で、小さい彭のように毎年きまった季節に草刈る人々の姿まで、見逃かしてはいない。
 ヌエットさんは東京が戦災に打ちのめされ、ようやくたたかいが収まったとき、帰国を思い立っていた。この詩は、そのときに書いた詩である。しかし、その後、ヌエットさんのやるべき仕事が出来て、又しばらく帰国をのばすことになった。十年がたち、わたくしがヌエットさんと二人で皇居内をめぐり歩くことが出来たのも、その留任のためであった。しかし、すでに八十歳になったヌエットさんは、その翌年、ついに東京に別れを措しみながら去って行った。東京都はヌエットさんに名誉都民の称号を贈り、ヌエットさんは再び永久にパリ人となったのである。「濠にそひて」の詩をのこして。

安藤広重 歌川広重と同一。江戸後期の浮世絵師。代表作は「東海道五十三次」
江戸百景 『名所江戸百景』は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)2月から同5年(1858年)10月にかけて制作した連作浮世絵名所絵。

「すでに八十歳になったヌエット」と書かれていますが、正確には東京からフランスに向かった日は1962年(昭和37年)5月12日で、77歳でした。

数日後、また偶然にお濠端を通ってみると、その土手にはもうあざやかな朱色はなく、一面淡緑に被われていた。その間に雨が降り、花を落したあとに、 緑の茎だけがすくすくとのび立っていたのである。生き地獄のようにさえ思われた東京にも、本当の自然かあることを知っただけでも、そのときのわたくしは幸福を感じた。ヌエットさんにも、そう云って見せたかった光景だと、今にして思うが、あるいはもう江戸城西側の季節のうつろいのはかなさを知っていたのかも知れない。

 一方、西條(ふたば)()氏は『父西條八十』(中央公論社、昭和50年)の「英文学から仏文学へ」でこう書いています。

その頃、偶然の機会にのちに東京で著名な仏語教授、さわやかな筆致のペン画で東京風景をスケッチして有名であった詩人ノエル・ヌエッ卜氏と親交を結んで沢山のフランス詩人を知った。彼は父の帰朝後まもなく日本を慕って東京へきて幼い私の玩具遊びの相手をしてくれたこともあったが、後年、四十年近く滞在した日本を離れる時、見送りに横浜の船まで行った父や私の顔も見わけられないほど呆然自失したような深刻な無表情が痛々しく私たちの胸にのこった。

 日本を離れる時は77歳。どうして呆然自失したのでしょうか。痴呆があったのでしょうか。しかし、高橋邦太郎氏は「本の手帖」(第61号、1967年2月号73頁)で、1966年、81歳のパリのヌエット氏を書いています。

去年四月、ぼくはパリの寓居にヌエットさんをたずねた。ヌエットさんはアパートの一階、質素な一室で、『もう、わたしも老いた。再び東京を見ることはあるまい』
といいながら自作の弁慶橋の版画を示した。
 弁慶橋の上には高速道路がかかり、もう、そこに描かれた時の風景ではない。しかし、ぼくは、ヌエットさんには、破壊され、旧態はここに留められているだけだとは言いかねた。

 ヌエット氏の没年月日は1969(昭和44)年9月30日、84歳でした。

小林アパート(旧芸術倶楽部)|横寺町

 この芸術倶楽部の主が死亡すると、新たに「高等下宿」として生まれ変わります。つまりアパートです。『まちの手帖』第6巻で大月敏雄氏が「牛込芸術倶楽部と同潤会江戸川アパート」のなかでこう書いています。

高等下宿に関する唯一と言っていいくらいの文献が、住宅改良会発行の月刊誌『住宅』の大正八年十月号「共同住宅特集号」である。この特集号の中で関口秀行という人が書いた「東京の共同住宅」という記事が、当時の高等下宿の有様を丁寧に伝えてくれる。

 さらに、その「東京の共同住宅」の記事を引用して

大久保新宿線の肴町の停留所から約二町で横寺町になる。通りの右側に少し引つ込んだ三階建ての洋館が芸術倶楽部である。この倶楽部の名を知らない人は少ないであろう。新劇界に大革命を起こしたかの芸術座の事務所であり研究所であったのである。同座開放後、松井須磨子の実兄小林放蔵氏が引き受けて、内部を改造して現今の如き共同小住宅としたのである。此処が共同小住宅として提供されたのは大正八年三月で、まだ日が浅い。併しながら改造中から申し込みが多く、工事修了と同時に満員の有様であった。今も続々と申込者が引きも切らぬ有様であるが、空室がないという始末。

 なんとこの小林アパート、申し込みは多く、空室もなかったようです。

 しかし、昭和に入ると、変わります。昭和26(1951)年6月、日本読書新聞社から野田宇太郎著『新東京文学散歩』として刊行されたものでは

その飯塚酒場の左の露路を入った正面に、この附近で誰知らぬものもない、大きな軒の傾いた、中を覗くと如何にも無気味にほの暗くて荒れすさんだ小林アパートというのがあった。この小林アパートには如何に貧書生の私も一寸住む気持にはならなかったが、極端に貧乏な若い画家たちがそこの住人で、その連中は隣の飯塚で安いにごりをひっかけ、秋の日でも尚一枚の湯上りだけしか持たず、竹皮の草履をはき、ぶらぶらと神楽坂を散歩する人種あった。そういう、本当に無一物の、ただ未来に大芸術家の夢ばかりを描いて生きている青年たちが住むにもって来いの家らしかった。
「松井須磨子の幽霊がいますよ」
と誰かが私に教えてくれた。松井須磨子といえば、少年の頃からカチューシャの唄以来その名はよく知っていた。尚よく聞いてみると、その家が芸術座の本拠、芸術倶楽部のあとで、主宰者の島村抱月をしたって自殺した須磨子を幽霊にして、例の貧乏画家たちが、天井に悪戯をしたのであった。

 この小林アパート、まるでお化けアパートに変わったようです。しかし、第2次大戦ではここも焼け野原になります。なにも残っていません。『新東京文学散歩』では

「そう云えば、何処も焼けてしまったけれど、昔の芸術倶楽部の、小林アパート、あれはどの辺でしたかな」
「芸術倶楽部の跡はそこです」
と青年の指さし教える所は、私の想定通りこの飯塚酒場の横の、焼けあとのかなりな広場の奥の部分であった。(中略)
 私は荒涼とした芸術倶楽部あとに転がる昔の建物の台石と思われる石の上に立ったり、ぐるぐると瓦礫の散乱する敷地の跡をわけもなく巡ったりした。在りし日の抱月と、名花須磨子の幻を私は追っているのかも知れなかった。
    カチューシャ可愛や別れのつらさ
    せめて淡雪とけぬまに
    神に誓いをララかけましょか
 そんな歌が、私の母の口から漏れ、いつのまにか、私の口に移っていた、あのなつかしい少年時代のことを私は思い出していた。

 戦後すぐに、この小林アパートはなくなり、瓦礫だけになっています。さらに時間が経ち、野口冨士男氏の「私のなかの東京」(初出は昭和53年、1978年)では

最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や神社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やもなく飯塚酒店に入って30代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。
 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらびっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。