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野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈⑦

文学と神楽坂

   赤城の丘

 昨年秋、パリのモンマルトルの丘の街を歩いていたわたくしは、何となく東京の山の手の台地のことを思い出していた。パリほどに自由で明るい藝術的雰囲気はのぞめないにしても、たとえばサクレ・クール寺院あたりからのパリ市街の展望なら、それに似たところが東京にもあったと感じ、先ず思い出したのは神田駿河台、そして牛込の赤城神社境内などだった。規模は小さいし、眼下の市街も調和がなくて薄ぎたないが、それに文化理念の磨きをかけ、調和の美を加えたら、小型のモンマルトルの丘位にはなるだろうと思ったことであった。
 パリでのそうした経験を再び思い出しだのは、筑土八幡宮の裏から横寺町に向うために白銀町の高台に出て、清潔で広々とした感じの白銀公園の前を通ったときであった。
 ところで、駿河台の丘はしばしば通る機会もあるが、赤城神社の丘はもう随分長い間行ってみない。まだ戦災の跡も生々しい頃以来ではなかろうか。横寺町から矢来町に出たわたくしは、これも大正二年創立以来の文壇旧跡には違いない出版社の新潮社脇から、嘗ては廣津柳浪が住み、柳浪に入門した若き日の永井荷風などもしばしば通ったに違いない小路にはいり、旧通寺町の神楽坂六丁目に出て、その北側の赤城神社へ歩いた。このあたりは神社を中心にして赤城元町の名が今も残っている。

モンマルトル Montmartre。パリで一番高い丘。パリ有数の観光名所。
サクレ・クール寺院 Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre。モンマルトルの丘に建つ白亜のカトリック教会堂。ビザンチン式の三つの白亜のドームがある。
パリ市街の展望 右の写真は「サクレクール寺院を眺めよう!(3)」から。サクレクール寺院からパリを眺たもの。
神田駿河台 御茶ノ水駅南方の地区。標高約17mの台地がある。由来は駿府の武士を住まわせたこと。江戸時代は旗本屋敷が多く、見晴らしがよかった。
赤城神社境内 現在はビルが建築され、なにも見えません。左の写真は戦争直後の野田宇太郎氏の「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)から。
白銀町の高台 右図は筑土八幡宮から白銀公園までの道路。白銀公園の周りを高台といったのでしょう。
小路 広津柳浪氏や永井荷風氏は左図のように通ったはずです。青丸はおそらく広津柳浪氏の家。しかし、現在は右図で真ん中の道路はなくなってしまいました。そこで、道路をまず北に進み、それから東に入っていきます。  

 戦災後の人心変化で信仰心が急激にうすらいだせいもあろうが、わたくしが戦後はじめて訪れた頃に比べて大した変化はない。変化がないのはいよいよさみしくなっていることである。持参した『新東京文学散歩』を出してみると「赤城の丘」と題したその一節に、そのときのことをわたくしは書いている。――「赤城神社と彫られた御影石の大きな石碑は戦火に焼けて中途から折れたまま。大きな石灯籠も火のためにぼろぼろに痛んでゐる。長い参道は昔の姿をしのばせるが、この丘に聳えた、往昔の欝蒼たる樹立はすつかり坊主になって、神殿の横の有名な銀杏の古木は、途中から折れてなくなり、黒々と焼け焦げた腹の中を見せてゐる。それでもどうやら分厚な皮膚だけが、銀杏の木膚の色をみせてこの黒と灰白色とのコントラストは、青い空の色をバックにして、私にダリの絵の構図を思ひ出させる。ダリのやうに真紅な絵具を使はないだけ、まだこの自然のシュウルレアリスムは藝術的で日本的だと思つた。」
 無惨に折れていた赤城神社の大さな標石が新らしくなっているほかは、石灯籠も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変らず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたくしの記憶の通りと云ってよい。戦前までの平家造りの多かった市街と違って、やたらに安易なビルが建ちはじめた現在では、もう見晴らしのよいことで知られた時代の赤城神社の特色はすっかり失われたのである。それまで小さなモンマルトルの丘を夢見ながら来た自分が、恥かしいことに思われた。戦後は見晴らしの一つの目印でもあった早稲田大学大隈講堂の時計塔も、今は新らしいビルの陰にかくれたのか、一向にみつからない。

ダリ スペインの画家。シュルレアリスムの最も著名な画家の一人。生年は1904年5月11日、没年は1989年1月23日。享年は満88歳。
シュルレアリスム 超現実主義。芸術作品から合理的、理性的、論理的な秩序を排除し、代りに無意識の表現を定着すること。

 それでも神殿脇の明治三十七、八年の日露戦役を記念する昭忠碑の前からは急な石段が丘の下の赤城下町につづいている。その石段上の崖に面した空地は、明治三十八年に坪内逍遙が易風会と名付けた脚本朗読や俗曲の研究会をひらいて、はじめて自作の「妹山背山」を試演した、清風亭という貸席のあったところである。その前明治三十七年十二月には、雑誌「文庫」の「新体詩同好会」も開かれた家であったが、加納作次郎が昭和三年刊の『大東京繁昌記』山手篇に書いた「早稲田神楽坂」によると、明治末年からはもう清風亭は長生館という下宿屋に変り、「たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てゝ小石川の高台を望んだ静かな家」であった長生館には、早稲田大学の片上伸や、近松秋江や、加納作次郎自身も一時下宿したことがあったという。その前の清風亭はつぶれたのではなく、その経営者があらたに江戸川べりに新らしい清風亭を構えて移っていて、坪内逍遙の文藝協会以来の縁故からでもあったろうが、江戸川べりに移った清風亭では、島村抱月松井須磨子が逍遥の許を去って大正二年秋に藝術座を起した、その計画打合せなどがひそかに行われたらしい、とこれも加納作次郎の「早稲田神楽坂」に書かれている。
 清風亭はもちろん、長生館も戦災と共に消えた。赤城の丘から赤城下町へ、急な石段を下りてゆくと、いきなり谷間のような坂道の十字路に出た。そこから右へだらだらと坂が下り、左は曲折をもつ上り坂となる。わたくしは左の上り坂を辿って矢来町ぞいの道を右へ折れた。左は崖上、右の崖下には赤城下町がひろがっている。崖下の小路の銭湯から、湯上りの若い女が一人、赤い容器に入れた洗面道具を小腋こわきに抱いて、ことことと石段を上って来たかと思うと、そのままわたくしの前を春風に吹かれながらさも快げに歩き、すぐ近くの、崖下の小さいアパートの中に姿を消した。
 赤城の丘ではかなく消えていたモンマルトルの思い出が、また何となくよみがえる一瞬でもあった。

日露戦役 明治37年2月から翌年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州の支配をめぐって戦った戦争。
昭忠碑 日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫した昭忠碑。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。
貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷。それを業とする家。
文庫 明治28年(1895年)、河井醉茗が詩誌『文庫』を創刊。伊良子清白、横瀬夜雨などが活動。
新体詩 明治時代の文語定型詩。多くは七五調。
江戸川の谷 江戸川橋周辺から江戸川橋通りにかけての低地。
江戸川べり 江戸川は現在神田川と呼びますが、その神田川で石切橋の近く(文京区水道町27)に清風亭跡があります。
坂道の十字路 正確には十字路ではないはず(右図)。ここに「赤城坂」という標柱があります。
左の上り坂を辿って… 下図を参照
銭湯 1967年の住宅地図によれば、中里町の金成湯でしょう。北側の小路には銭湯はなく、中里町13番地にありました。

赤城神社|赤城元町

文学と神楽坂

 牛込区赤城元町〔新宿区赤城元町〕の赤城神社は始めは赤城明神。『江戸名所図会』では

赤城神社

赤城神社


あか明神社
同所北の裏通にあり、牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野国赤城山と同神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。往古そのかみ おおうじ深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫重泰しげやす、当国に移りて、牛込に住せり。又大胡を改めて、牛込を氏とし、(其居住の地は牛込わらだなの辺なり。先に弁ず。)祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり。(当社始めて勧請の地は、目白の下関口領の田の中にあり。今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり。)

[現代語訳。一部は新宿歴史博物館「江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり」平成12年から]牛込の鎮守で、神社の境内の寺は天台宗東覚寺。祭神は上野国赤城山と同じで、本地仏は将軍地蔵菩薩という。昔、大胡氏がこの神を深く信仰し、始めは領地に祀って近戸明神と称した。その子孫重泰が武蔵国に移って牛込に住み、姓を改めて牛込氏とし(城館は牛込藁店の辺。前述した。)代々信仰してきたこの神を移し祀ったものである。祭礼は9月19日。始めに祀った場所は目白の下関口領の田圃の中であった。今も少しばかりの木立があり、これを赤城の森と呼んでいる。

江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌。神田雉子町の名主であった斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代の調査によって作成。名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪旦による絵入りで解説。7巻20冊。前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版
別当 別当寺。神社の境内にあり、供僧が祭祀・読経・加持祈禱を行い、神社の管理経営を行った寺。

 正安年(1300年)、群馬県赤城山赤城神社の分霊を早稲田の田島村(現在の新宿区早稲田鶴巻町、元赤城神社)に勧請。寛正元年(1460年)、牛込へ移動。明治6年に郷社に。郷社とは神社の社格で、府県社の下、村社の上に位置する神社。例祭日は毎年9月19日。

新撰東京名所図会』牛込区(明治37年)では

赤城神社は赤城元町十六番地に鎮座す。社格郷社、石の鳥居あり、表門は南に面す、総朱塗、柱間二間、左に門番所あり、間口一間半奥行二間半、門内甃石一條、左に茶亭あり、赤城亭と稱し、参拝人の休憩所に充てたり。側らに藤棚一架及び桜を植ゑたり、右に卜者の宅並に格子造に住みなしたる家一と棟あり。更に進む事二十餘武、右に末社北野神社、出世稲荷、葵神社の小祠宇あり(中略)
本社間口三間奥行二間半、社の後、石の玉垣を繞らす慶応二丙寅年十一月築造する所。此辺樹木、鬱として昼猶暗し。皆年経たるなり。即ち境内の北隅、崖に臨んで清風亭あり。

新撰東京名所図会 「新撰東京名所図会」64冊(山下重民他編、明治29年9月~42年3月、「風俗画報」臨時増刊、東陽堂)
赤城亭 最近は2005年7月、神饌しんせん(お供え物)料理店が開店。2008年3月、閉店。
甃石 しきいし。道路・庭などに敷き並べた平らな石
祠宇 しう。やしろ。神社。
繞らす めぐる。周りを回る。とりまく。
慶応二丙寅年 1866年です。
 もみ。マツ科の常緑大高木。

 清風亭は貸座敷で、江戸川(現、神田川)の文京区水道町27(芳賀善次郎著『新宿の散歩道』三光社、昭和47年)に移ります。そのあとは下宿の長生館でした。明治36年、近松秋江氏は清風亭で慟く大貫ますと同棲し、明治40年6月、ますに赤城元町七番地で小間物屋を経営させていました。明治42年8月、ますに去られ、氏は『別れたる妻に送る手紙』(大正2年)を刊行。氏は大正2年10月から長生館に下宿しています。

アルバム 東京文學散歩|野田宇太郎

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏が描く「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)です。

 神樂坂

 神楽坂は明治大正昭和にかけての東京に住む文学者のふるさとのやうなところである。この界隈が文学者に縁を持つやうになつたのは、横寺町尾崎紅葉が住み、矢来町広津柳浪が住み、そこに通ふ若い文人の数も多かつたのにはじまるとも云へるが、又赤城神社の境内の清風亭と云ふ貸席坪内逍遥の芝居台本朗読会や俗曲研究会が催されたり、その他の大小の文学関係の会合が行はれたりしてゐたこともその一つであらう。その清風亭がやがて長生館と云ふ下宿屋に変ってからは、片上伸や後には近松秋江なども住んだことがあつた。

貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷や家。

 大正時代になると矢来町に飯田町から移って来た新潮社が出来、新潮社を中心にこの附近には色々な文士が集つた。同時に島村抱月芸術座が旗上げして芸術倶楽部が出来たのが横寺町である。逍遥や片上伸や抱月などの早稲田大学の教授連の名が出たことでも判るやうに、大正初期になるとこの界隈は早稲田の学生で賑ひはじめた。そこから多くの現代文学の詩人や作家が出たことは今更喋々もあるまい。わけても神楽坂は毘沙門天を中心に花柳粉香の漂ふ町でもあり、ロマンチシズムに胸ふくらませた明治大正の清新な青年文士と、紅袂の美女とのコントラストは如何にも似つかはしいものとなった。
 泉鏡花がすず夫人との新婚生活を営んだのもこの神楽坂であつた。それは明治三十六年頃からのことであるが、その場所は今の牛込見附から神楽坂を登らうとする左側の小路の奥であつたらしい。だが、もはや街は全貌を変へてしまつたので偲ぶよすがとてない。

飯田町 右図で描いたのは昭和16年頃の飯田町です。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月氏と女優の松井須磨子氏を中心に、主に研究劇を行いました。
喋々 ちょうちょう。しきりにしゃべる様子。
 かなめ。ある物事の最も大切な部分。要点。
毘沙門天 仏教で天部の仏神。神楽坂では毘沙門天があり、正式には日蓮宗鎮護山善国寺。
花柳 かりゅう。紅の花と緑の柳。華やかで美しいもの。 遊女。芸者。
粉香 ふんこう。おしろいの匂い。女性の色香。
紅袂 「こうべい」「こうへい」「こうまい」でしょうか。国語辞典にはありません。赤いたもと。女性のたもと。
牛込見附 この場合は神楽坂通りと外堀通りを結ぶ4つ角。現在は「神楽坂下」に変更。
小路の奥 神楽坂二丁目22番地で、北原白秋が住んだ場所と同じでした。現在はが立っています。

東京理科大学(物理学校)裏。「アルバム 東京文學散歩」から

 北原白秋の詩に「物理学校裏」と云ふのがある。物理学校の講義の声と、附近のなまめいた街からきこえる三味や琴の音とを擬音風にとりあつかつて、牛込見附の土手下を走る今の中央線の前身の甲武線鉄道カダンスなどのことをも取り入れた、有名な詩である。白秋は神楽坂二丁目のニ十二番地に明治四十一年十月からしばらく住んでゐたのだが、それが丁度今の東京理科大学、以前の物理学校の裏に当る崖の上であつた。
「物理学校裏」と云ふ詩などは特別で、とりたてて神楽坂を文学の題材とした名作が多いと云ふわけではないが、この界隈は震災で焼け残つて以来、ぐんぐんと発展して、一時は山の手銀座とも称され、カフエーや書店をはじめ、学生や文士に縁の深い有名な店が沢山出来たものである。それに夜店が又たのしいものであつた。平和な昭和時代には真夜中かけてそこを歩きまはつた思ひ出が私などにもある。
 何と云つても神楽坂の生命はあの坂である。あの坂を登るとたのしい場所がある、と云ふやうな期待が、牛込見附の方からゆく私には、いつもあつた。
 戦後の荒廃がひどいだけに、神楽坂は又幻の町でもある。

神楽坂より牛込見附を望む

甲武線鉄道 正しくは甲武鉄道。明治時代の鉄道事業者。御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿から八王子に至りました。1870年(明治3年)に開業。1906年(明治39年)に国有化
カダンス 仏語から。詩の韻律、リズム。
震災 大正12年の関東大震災です。
山の手銀座 銀座は下町。神楽坂は山の手。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では「大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた」と書いています。詳しくは山の手銀座を参照。
カフエー 喫茶店というよりも風俗営業の店。 詳しくはカフェーを参照。
 
 

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑪

文学と神楽坂

 朝日坂を引き返して神楽坂とは反対のほうへ進むと、まもなく右側に音楽之友社がある。牛込郵便局の跡で、そのすぐ先が地下鉄東西線神楽坂駅の神楽坂口である。余計なことを書いておけば、この駅のホームの駅名表示板のうち日本橋方面行の文字は黒だが、中野方面行のホームの駅名は赤い文字で、これも東京では珍しい。
 神楽坂口からちょっと引っこんだ場所にある赤城神社の境内は戦前よりよほど狭くなったようにおもうが、少年時代の記憶にはいつもその種の錯覚がつきまとうので断言はできない。近松秋江の最初の妻で『別れたる妻に送る手紙』のお雪のモデルである大貫ますは、その境内の清風亭という貸席の手伝いをしていた。清風亭はのちに長生館という下宿屋になって、「新潮」の編集をしていた作家の楢崎勤は長生館の左隣りに居住していた。

神楽坂の方から行って、矢来通を新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れると、私の生れた家のあった横町となる。(略)その横町へ曲ると、少しだらだらとした登りになるが、そこを百五十メートルほど行った右側に、私の生れた家はあった。門もなく、道へ向って直ぐ格子戸の開かれているような小さな借家であった。小さな借家の割に五、六十坪の庭などついていたが、無論七十年前のそんな家が今残っている筈はなく、それがあったと思うあたりは、或屋敷のコンクリートの塀に冷たく囲繞されている。

 広津和郎の『年月のあしおと』の一節である。和郎の父柳浪『今戸心中』を愛読していた永井荷風が処女作(すだれ)の月』の草稿を持参したのも、劇作家の中村吉蔵が寄食したのもその家で、いま横丁の左角はコトブキネオン、右角は「ガス風呂の店」という看板をかかげた商店になっている。新潮社は、地下鉄神楽坂駅矢来町口の前を左へ行った左側にあって、その先には受験生になじみのふかい旺文社がある。

朝日坂 北東部から南西部に行く横寺町を貫く坂
牛込郵便局 通寺町30番地、現在は神楽坂6-30で、会社「音楽之友社」がはいっています。
別れたる妻に送る手紙 家を出てしまった妻への恋情を連綿と綴る書簡体小説
貸席 かしせき。料金を取って時間決めで貸す座敷やその業
長生館 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に。
今戸心中 いまどしんじゅう。明治29年発表。遊女が善吉の実意にほだされて結ばれ、今戸河岸で心中するまでの、女心の機微を描きます。
簾の月 この原稿は今でも行方不明。荷風氏の考えでは恐らく改題し、地方紙が買ったものではないかという。

音楽之友社 音楽之友音楽出版社。本社所在地は神楽坂6-30。1941年12月、音楽世界社、月刊楽譜発行所、管楽研究会の合併で設立。
神楽坂口 神楽坂口地下鉄(東京メトロ)東西線で新宿区矢来町に開く神楽坂駅の神楽坂口。屋根に千本格子の文様をつけています。昔はなかったので、意匠として作ったはずです。
赤城神社 赤城神社新宿区赤城元町の神社。鎌倉時代の正安2年(1300年)、牛込早稲田の田島村に創建し、寛正元年(1460年)、太田道灌により牛込台に移動し、弘治元年(1555年)、大胡宮内少輔が現在地に移動。江戸時代、徳川幕府が江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集めました。
或屋敷 佐藤自宅「ある屋敷」というのは新潮社の初代社長、佐藤義亮氏のもので、今もその祖先の所有物です。
コトブキネオン やらい薬局と日本風呂現在は「やらい薬局」に変わりました。なお、コトブキネオンは現在も千代田区神田小川町で、ネオンサインや看板標識製作業を行っています。
ガス風呂 enefit「有限会社日本風呂」です。現在も東京ガスの専門の店舗、エネフィットの一員として働き、風呂、給湯設備や住宅リフォームなど行っています。「神楽坂まちの手帖」第10号でこの「日本風呂」を取り上げています。

 トラックに積まれた木曽産の丸太が、神楽坂で箱風呂に生まれ変わる。「親父がさ、いい丸太だ、さすが俺の目に狂いはないなって、いつもちょっと自慢げにしててさあ。」と、店長の光敏(65)さんが言う。木場に流れ着いた丸太を選び出すのは、いつも父の啓蔵(90)さんの役目だった。
 風呂好きには、木の風呂なんてたまらない。今の時代、最高の贅沢だ。そう言うと、「昔はみんな木の風呂だったからねえ。」と光敏さんが懐かしむ。啓蔵さんや職人さん達がここ神楽坂で風呂桶を彫るのを子供の頃から見て育ち、やがて自分も職人になった。
新潮社 新潮社1904年、佐藤義亮氏が矢来町71で創立。文芸中心の出版社。佐藤は1896年に新声社を創立したが失敗。そこで新潮社を創立し、雑誌『新潮』を創刊。編集長は中村武羅夫氏。文壇での地位を確立。新潮社は新宿区矢来町に広大な不動産があります。
旺文社 旺文社1931年(昭和6年)、横寺町55で赤尾好夫氏が設立した出版社。教育専門の出版社です。
 そして、その曲り角あたりから道路はゆるい下り坂となって、左側に交番がみえる。矢来下とよばれる一帯である。交番のところから右へ真直ぐくだった先は江戸川橋で正面が護国寺だから、その手前の左側に講談社があるわけで、左へくだれば榎町から早稲田南町を経て地下鉄早稲田駅のある馬場下町へ通じているのだが、そのへんにも私の少年時代の思い出につながる場所が二つほどある。

交番 地域安全センターと別の名前に変わりました。下図の赤い四角です。
矢来下 酒井家屋敷の北、早稲田(神楽坂)通りから天神町に下る一帯を矢来下といっています。
江戸川橋 えどがわばし。文京区南西端で神田川にかかる橋。神田川の一部が江戸川と呼ばれていたためです。
護国寺 東京都文京区大塚にある新義真言宗豊山派の大本山。
榎町 えのきちょう。下図を。
早稲田南町 わせだみなみちょう。下図を。
馬場下町 ばばしたちょう。下図を。

講談社 講談社こうだんしゃ。大手出版社。創業者は野間清治。1909年(明治42年)「大日本雄辯會(ゆうべんかい)」として設立
矢来下

矢来下

 矢来町交番のすこし手前を右へおりて行った、たぶん中里町あたりの路地奥には森田草平住んでいて、私は小学生だったころ何度かその家に行っている。草平が樋口一葉の旧居跡とは知らずに本郷区丸山福山町四番地に下宿して、女主人伊藤ハルの娘岩田さくとの交渉を持ったのは明治三十九年で、正妻となったさくは藤間勘次という舞踊師匠になっていたから、私はそこへ踊りの稽古にかよっていた姉の送り迎えをさせられたわけで、家と草平の名だけは知っていても草平に会ったことはない。
 榎町の大通りの左側には宗柏寺があって、「伝教大師御真作 矢来のお釈迦さま」というネオンの大きな鉄柱が立っている。境内へ入ってみたら、ズック靴をはいた二人の女性が念仏をとなえながらお百度をふんでいた。私が少年時代に見かけたお百度姿は冬でも素足のものであったが、いまではズック靴をはいている。また、少年時代の私は四月八日の灌仏会というと婆やに連れられてここへ甘茶を汲みに来たものだが、少年期に関するかぎり私の行動半径はここまでにとどまっていて先を知らなかった。
 三省堂版『東京地名小辞典』で「早稲田通り」の項をみると、《千代田区九段(九段下)から、新宿区神楽坂~山手線高田馬場駅わき~中野区野方~杉並区井草~練馬区石神井台に通じる道路の通称》とあるから、この章で私が歩いたのは、早稲田通りということになる。

中里町 なかざとちょう。下図を。
岩田さく 藤間勘次。森田草平の妻、藤間流の日本舞踊の先生でした。
榎町 えのきちょう。上図を。
お百度 百度参り。百度(もう)で。ひゃくどまいり。社寺の境内で、一定の距離を100回往復して、そのたびに礼拝・祈願を繰り返すこと。
甘茶 アマチャヅルの葉を蒸してもみ乾燥したものを(せん)じた飲料

森田草平が住んだ場所と宗柏寺

森田草平が住んだ場所と宗柏寺

住んで 森田草平が住んだ場所は矢来町62番地でした。中里町ではありません
宗柏寺 そうはくじ。さらに長く言うと一樹山(いちきさん)宗柏寺。日蓮宗です。
本郷区丸山 樋口一葉が死亡する終焉の地です。白山通りに近くなっています。何か他の有名な場所を捜すと、遠くにですが、東大や三四郎池がありました。

一葉終焉

灌仏会 かんぶつえ。陰暦4月8日の釈迦(しゃか)の誕生日に釈迦像に甘茶を注ぎかける行事。花祭り。 L
東京地名小辞典 小さな小さな辞典です。昭和49年に三省堂が発行しました。

漱石山房の推移1

文学と神楽坂

 浅見淵氏が書いた『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「漱石山房の推移」の一部です。

早稲田界隈の盛り場

 そういう世相だったので、一方では景気がよくて学生が俄かにふえたのだろう、さて早稲田に入って下宿屋探ししてみると、早稲田界限から牛込の神楽坂にかけては、これはという下宿屋は満員で非常に払底していた。辛うじて下戸塚法栄館という小さな下宿屋の一室か空いていたので、ひとまずそこへ下宿した。大正末期に川崎長太郎が小説が売れだしたので、のちに夜逃げするに到ったが、偶然とぐろを巻いていた下宿屋である。朝夕を戸山ヶ原練兵場を往復する兵隊が軍歌を歌って通り、またその頃の学生には尺八を吹く者が多く、神戸の町なかに育ったぼくは、当座、なんだか田舎の旅宿に泊っているような心細さを覚えたものだ。

下戸塚

新宿区教育委員会。「地図で見る新宿区の移り変わり 戸塚・落合編」昭和57年


豊多摩郡戸塚町大字下戸塚は淀橋区になるときは戸塚町1丁目になりますが、新宿区ができる時に戸塚町1丁目はばらばらになってしまいます。そのまま戸塚1丁目として残った部分①と、西早稲田1、2、3丁目②~⑤になった部分です。
戸山ヶ原 とやまがはら。江戸時代には尾張徳川家の下屋敷で、今も残る箱根山は当時の築山で東京市内で最高地の44.6メートル。箱根山に見立てて、庭内を旅する趣向にしていました。明治以降は陸軍戸山学校や陸軍の射撃場・練兵場に。現在は住宅・文教地区。
練兵場 れんぺいじょう。兵隊を訓練する場所。陸軍戸山学校の練兵場は下図に。
現在と明治43年の戸山学校練兵場。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』

現在と明治43年の戸山学校練兵場。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』

払底 ふってい。すっかりなくなること。乏しくなること。
法栄館 東京旅館組合本部編の『東京旅館下宿名簿』(大正11年)ではわかりませんでした。
とぐろを巻く 蛇などがからだを渦巻き状に巻く。何人かが特に何をするでもなく、ある場所に集まる。ある場所に腰をすえて、動かない。

 当時は早稲田界隈の盛り場というと神楽坂で、新宿はまだ寂しい場末町だった。新宿が賑やかになりだしたのは、大正十二年の関東大震災以後である。新学期が始まるとぼつぼつ学生が下宿屋の移動をはじめ、まもなくぼくは神楽坂界隈の下宿屋に引越した。その下宿屋は赤城神社の境内にあって、長生館といった。下宿してから知ったのだが、正宗白鳥近松秋江などの坪内逍遙門下がよく会合を開いていた貸席の跡で、下宿屋になってからも、秋江は下宿していたことがあるということだった。出世作「別れた妻に送る手紙」に書かれている、最初の夫人と別れた後のどん底の貧乏時代だったらしく、夏など、着た切り雀の浴衣まで質屋へいれてしまって、猿股一つで暮らしていたこともあるという、本当か嘘か知らぬがそんなエピソードまで残っていた。それから少し遅れて、片上伸加能作次郎なども下宿していた。のち、太平洋戦争の頃、「新潮」の編集者だった楢崎勤を所用あって訪ねたら、長生館がいつかなくなってしまっていて、その跡に建った借家の一軒に住んでいて意外な気がした。楢崎君はそこで戦災を蒙ったのである。

赤城神社 新宿区赤城元町にある神社
貸席 かしせき。料金を取って時間決めで貸す座敷
別れた妻に送る手紙 正しくは「別れたる妻に送る手紙」。情痴におぼれる自己を赤裸々に描く作品。もっと詳しくはここで。