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長田幹彦の『文豪の素顔』|有島武郎①

文学と神楽坂

長田幹彦氏

 長田幹彦氏の『文豪の素顔』(要書房、昭和28年)で有島武郎の卷です。長田氏の生まれは明治20年で、北海道に渡ったのは、おそらく明治42年ごろ。2年間位、北海道にいて、帰った後の明治45年に発表した小説「みお」で有名になりました。

 有島武郎氏の生まれは明治11年。北海道で以下の出来事が起こったのは明治42年だとすると、長田幹彦氏は22歳、有島武郎氏は31歳でした。

 ひよいとみると、窓に近いテーブルには、農科大学の制服をきた青年が十人ばかり腰をかけて、しきりにわいわい騒いでゐる。昔の札幌農学校が大学と改称したばつかりの時代のことであるから、学生の風もまるで一高の学生のやうに素朴そのものであつた。
 その正面のところに、先生らしい三十がらみの男が、これはハイカラなの背広をきて、片手で顎へつッかい捧をしながらにこにこ笑つてゐる。どつちかといふと痩せぎすの、短い口鬚のはえた、理性の勝つたやうな、それでゐてちょいと不敵なところもあるやうな顔つきの男であつた。何にしろスッキリした背広の着つきがばかに眼にたつた

札幌農学校 北海道大学の前身。明治5年、東京芝に開拓使仮学校として開校。明治8年、札幌に移転、翌年札幌農学校となる。アメリカのマサチューセッツ農科大学学長ウィリアム・スミス・クラークを教頭として招き、北海道開拓に必要な人材を養成し、内村鑑三・新渡戸稲造・宮部金吾ら多くの人材を出した。
 しま。2種以上の色糸を使って織り出した縦や横の筋か、織物。
つっかえ棒 物と物との間に差し挟んで、倒れたり不要に近づいたりしないように支えるための棒
不敵 敵を敵とも思わないこと。大胆でおそれを知らないこと。
着つき 「着付け」と同じか? 「着付け」は着なれていること
目に立つ 人の目を引く。目立つ

      2
 僕は、学生たちのグループが、先生を中心に何か談話会でも開いてゐるのだらうと思つた。カギヤではよくそういつた会合に出ッくはした。僕は別に気にもとめずに、隅の方でぼんやりコーヒーをすすりながら菓子をたべてゐた。とてもストーブが熱つすぎた。
 こつちはたつた一人ッきりである。あんまり所在がないもんだから、ついやつぱり学生たちの話に注意がむく。はじめのうちは何が話題になつてゐるのだか、ちよいとつかめなかつたが、だんだん聞いてゐると、それは米国の詩人ホイットマンのことである。正面に坐つた先生は、眼を生々させながら、英語で詩の一章を、朗吟してきかせる。ずつと暗記してゐるのであらう。抑揚がいかにも自然でよどみがない。発音もアメリカ風である。
 学生たちはだんだん話題をさらはれた形で、制服の両腕をくみ、深刻な顔をして、先生の口のところばかり凝視してゐる。その時の話の内容はむろん記憶してゐないが、かなり調子の高い話しかたであつた。尤もホイットマンであるから、ロマンテイックな、色彩の豊かな感しはしなかつた。われわれは、ベルレーヌや、ユイズマンで熱をあげてゐた時代であるから、そんなアメリカの百姓詩人なんかには少しも関心がなかつた。
 それから偶然にもツルゲネーフゴルキーの話になつて、ロシアの農奴開放問題に及ぶ。先生の口調はますます熱をおぴて、学生たちはワクワクしてゐるらしかつた。能弁ではなかつたが声には幅があつて、魅力があつた。
 一時間ばかりすると、先生はひよいッと立ちあがつて、藪から捧に、
「じや諸君、時間がきたから、今夜はこれで散会しよう。この次の研究題目はマコーレイの『コンペンセーション』、永松君が原書をもつてるからみんなで回読してもらふんだな。尤も図書館にはあるだらうから、誰れか索引を調べてみて下さい。今井君、君がいいだらう。一番マメだから。はゝゝゝゝ。」
 学生たちはどやどやとたちあがつて、みんなポケットに手を突ッ込んで、銅貨や銀貨をかぞへながら会費を払つてゐる。彼らもやつぱり僕同様、三十銭そこいらの割り当てらしかつた。
 学生たちがお互に、がやがやいいながら出ていつてしまふと、先生は何んと思つたか、オーバーへ片手をつッ込みながら、だしぬけにつかつかッと僕のところへやつてきた。例の不敵な眼つきで、
「失礼ですが、あなた長田さんぢやありませんか。」と、声をかける。笑ひもしない。
 僕はあんまり意外だつたので、いささか面食つて、坐つたまま、
「そうです。」と、ぶつきらぼうにこたへる。

カギヤ 長田幹彦氏が少し前の部分でこう書いています。

 三丁目の角のところに、明るい灯のともつたカギヤといふ菓子ホールがある。それは札幌独特の店で、その時分は珍しいショートケーキを焼いて売つてゐた。店の横手がホールになつてゐる。そこでカッフエみたいなサービスもしてゐた。酒は出さなかつたが、焼豆くさい甘いコーヒーを飲ましてくれた。

所在がない 手持ちぶさたである。することがなく退屈だ。
ホイットマン 米国の詩人。Walter Whitman。1819年―1892年。大工を兼業とする農家に生れ、1841年から新聞記者。以後ほぼ20年に及ぶジャーナリスト生活が始まる。奴隷制問題などをめぐって激しい抗争の渦中にあった当時のアメリカ社会の中で、ホイットマンは一貫して民主党進歩派の立場を守った。自由な形式で、強烈な自我意識、民主主義精神、同胞愛、肉体の賛美をうたった。
ベルレーヌ フランスの詩人。Paul Verlaine。1844年―1896年。放蕩無頼の生活の中から不安と憂いを抒情味豊かにうたう。象徴派の始祖。
ユイズマン ジョリス=カルル・ユイスマンス。Joris-Karl Huysmans。1848年―1907年。フランスの19世紀末の作家。イギリスのオスカー・ワイルドとともに、代表的なデカダン派作家。
ツルゲネーフ ツルゲーネフ。Ivan Sergeevich Turgenev。Ива́н Серге́евич Турге́нев。1818年―1883年。ロシアの小説家。社会問題を取り上げる一方、叙情豊かにロシアの田園を描いた。
ゴルキー ゴーリキー。Maksim Gorkiy。Максим Горький。1868年―1936年。ロシア・ソ連の小説家、劇作家、社会活動家。
農奴解放 農民を農奴の地位から解放し、自由民とすること。封建社会から近代社会への転換期に、各国で行われた。
マコーレイ Rose Macaulayでしょうか。不明。
コンペンセーション compensation。償い、賠償、代償

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長田幹彦の『文豪の素顔』|有島武郎②

有島武郎氏


「あの、僕は、あなたを知つてゐるんですよ。あなた與謝野さんの新詩社のメンバーでせう。『明星』にかいとられたですね。」
と、あんまり好意をもつてゐない、眼の輝きである。
 僕は相手が誰れだか一向に見当がつかないので、もじもじしてゐると、
「僕はね、ここの農大の教師をしてゐるんですが、毎月一回か二回、ここで文学の研究会をやつてゐるんですよ。かう雪が深くなると寂しいもんですからね。」
「さうですか。道理でホイットマンが……」といひかけると、先生は眼だけで笑つて、
「長田さんはどんな詩をお好きなんですか。」
 僕が新詩社のメンバーなら、大がい傾向は知れてゐるだらうに、わざと冷評かすやうにいふのが、かちんときた。今更ベルレーヌなどといふのを業腹なので、僕はいつもの臍曲りを発揮して、
「さあ、僕は口ングフェローがすきですね。」と、そつぽをむくと、先生はこいつといふやうな皮肉な笑ひかたをして、
「たとへば、ロングフェローのどんな詩ですか。」
 僕は言下に、
「僕はルーシー・グレイが一番好きです。アンデルセンの「リットル・マッチ・ガール」みたいに、深い雪のなかでルーシーが凍え死ぬところはいいですね。北海道へきてから、この雪をみて、一層感じが深いです。」
 先生は口鬚をふるはしながら、
「はゝゝゝッ、あなたは、さういふ観方で北海道をみとられるんですか。はゝゝ。」といかにも甘いなといふやうな露骨な軽蔑である。
 僕もその前々年に一度札幌へやつてきて親友の穂積貞三(穂積重遠氏の弟)と二人で、ひと夏農学校の農場で、あの輓馬つきのモウナークローバー刈りをやつた経験があるので、北海道の自然と生産の問題ぐらゐは些少なりと心得てゐた。僕は、しかし、そんなことはおくびにもだしたくなかつた。
 先生は本を包んだ風呂敷包みを小脇にかかへながら、せかせかして、
「長田さん、僕は、実はあなたのゐる家の先隣のT教授の家に仮寓してゐるんですがね。あなたがみえてから、Tの家ぢや非常によろこんでゐるんですよ。あなたが夜おそくまで電燈をつけてかいてをられるでせう。だから物騒でなくて、ほんとにいい。細君なんか安心して寝られるつていつてるんです。あなたは三条界隈じや有名ですよ、はゝゝゝ。」さういひながら先生は帽子をかぶつて、それなり外へ出ていつてしまつた。

明星 明治33(1900)年、新詩社は機関誌「明星」を創刊
冷評かす おそらく「ひやかす」でしょう。「冷やかす」。冷淡な態度で批評すること。
業腹 非常に腹が立つこと。しゃくにさわること
臍曲り へそまがり。ひねくれていて素直でないことや人。偏屈。
ロングフェロー ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー。Henry Wadsworth Longfellow。1807年―1882年。米国の詩人。ヨーロッパ文学をアメリカに紹介し、教授詩人として並々ならぬ名声を確立した。
ルーシー・グレイ Lucy Gray。全文はここに
アンデルセン デンマークの童話作家・小説家・詩人。Hans Christian Andersen。1805年―1875年。小説「即興詩人」「絵のない絵本」、童話「親指姫」「マッチ売りの少女」などで世界的に有名。
リットル・マッチ・ガール マッチ売りの少女。アンデルセンの童話。1848年発表。大みそかの夜、貧しいマッチ売りの少女が寒さに耐えかねてマッチを擦ると、さまざまな美しい幻が現れる。最後に亡き祖母が現れ、少女を天国へと導く。
穂積重遠 ほづみしげとお。民法学者。穂積陳重のぶしげの子供。東京大学教授、貴族院議員、最高裁判所判事を歴任。生年は明治16年4月11日。没年は昭和26年7月29日。享年は満68歳。
輓馬 ばんば。車やそりを引かせる馬。
モウナー mower。草刈り機、芝刈り機
クローバー シロツメクサの別名。右図を。
仮寓 一時的に住むこと。その家。かりずまい
それなり その状態のまま。そのまま。それきり。

 長田氏はむかむかしますが、宿に戻っています。

「ねえ、小林さん。この先隣りにTつて家ありますか。」と、たうとう口をきつた。主人には黙つてゐようと思つてゐたが、ついやつぱりさつきのことがむしやくしや胸につかへてたらしい。
「え、Tつて、大学の先生のお宅でせう。ありますとも。」
「そこから、僕のかりてゐるこの部屋の灯がめえますかね。」
「そりや夜になりやめえるでせう。尢もかう雪が深くなつちやむりですかな。どうしてですか。」
「いや、別に何んでもないんだが……そのTさんの家には、大学の先生たちが合宿でもしてるんですかね。」
「べつに合宿じやないですがね。ひとりやつぱり若い先生が同居してゐますよ。何んでも東京の大金持の息子さんとかで、長いことヨーロッパやアメリカへ留学してた方で、よく出来る先生なんださうですよ。あなたと同じやうにやつぱり文学をなさる方ださうです。」
「何んていふ名前ですか。」
有島武郎。武郎とかいて、タケオとよむんださうです。」
 僕はそんな名の作家や評論家は一人もしらなかつた。一躰どこの馬の骨なんだらう。じゃきつと奴さんも我々同様、やつぱり文学青年の三下奴なんだな、と、僕はすつかり気をよくしてしまつた。文学青年だけがもつあの一種の反撥である。
「その有島つてのは、大学で何を教へてゐるんですか。」
「私もよくは知りませんが、なんでも予科で英語と、倫理を教へてゐるらしいですね。英語がよく読めるんで、小説でも何んでもペラペラなんださうです。」
「さうですか、倫理でも教へさうな、変に思ひあがつた男ですね。実は、さつきカギヤで逢つたんですよ。あなた、ひよつとしたら、私のことをTさんの家の人にでも話したことありませんか。」
 気のいい、小林さんは頭をかいて、てれたやうに笑ひながら、
「あります。実は、こないだあなたの為替をとりに郵便局へいつたでせう。あの時局でT先生の奥さんに出ッくはしちやつたんですよ。さうしたらね、奥さんがね、お宅じやこの頃、夜半の二時までも、三時までも電燈をつけていらつしやいますねつておつしやるから、私もつい口が滑つちやつて、実は東京からこれこれで、文士の方がみえてるんです。夜どほしかきものをなさるんでつて、うつかりしやべつちやつたんですよ。実はこの為替も、原稿料らしいんで……」と、小林さんはむしろ得意さうな顔つきである。

小林 宿の主人です
三下奴 さんしたやっこ。博打打ちの仲間で、最も下位の者。三下。
夜どほし よどおし。夜通し。夜の間ずうっとすること。一晩中。

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文豪の素顔|森鴎外(1)

文学と神楽坂

 長田幹彦氏は1953年の66歳の際に書かれた『文豪の素顔』です。氏は1887年3月1日に生まれ、没年は1964年5月6日なので、これは21歳に起きたことです。この日、森鴎外氏、上田敏氏、夏目漱石氏が一か所に集まったのです。これはその時の話です。

  森鴎外

 今夜の青楊会の会合は午後六時の開宴である。今は丁度三時だ。まだ彼これ三時間間があるわけである。はその間に何んとかして兄秀雄と二人分の会費を算段してこなくてはならないのである。二人で十円あれば、悠々と会へ出られるのだが、打つてもみしやいでも僕のガマロには五十銭玉がたつたひとつしか残つてゐない。まことにお寒い昨今である。兄秀雄は昨夜七時すぎに吉井勇と落合つて家を飛び出してしまつたきり、例によって膿んだでもなけりやつぶれたでもない。きつと又あのまま神楽坂の小待合へでも溺没してしまつたのであらう。きつと会がはじまる頃に、白粉くさくなつて、ひよろりと現はれるに相違ない。
 何よりも困つたのは、僕が虎の子のやうに愛蔵してゐた、あの「ゾラ全集」と「ゴンクール全集」をまんまと持ち出されてしまつたことである。兄貴のこの頃の御乱行は実さい眼にあまるものがあつた。悪友勇と一しよになると、手あたり次第に何んでもかでも持ち出してしまふ。一昨日なぞは親父の外套をきていつてしまつたので、親父は患家へ回診に出かけることも何も出来ず診察室でぷんぷん代診たちに当りちらしてゐた。真正直な温良な、実にいい親父であるだけに、僕はすつかり義憤を発して、もし深夜に兄貴が酔つぱらつて帰つてきたら今夜こそとたんにひつぱたいてやらうと思つて手ぐすねひいて待つてゐた。僕はボートできたへた腕なので、腕力では誰れにもまけない自信があつた。

森鴎外森鴎外 明治・大正期の小説家、評論家。軍医総監。医学博士・文学博士。本名は(もり)林太郎(りんたろう)。生年は1862年2月17日(文久2年1月19日)。没年は1922年(大正11年)7月9日。明治41年に行った上野精養軒の会合は46歳になっていました。
青楊会 せいようかい。森鴎外氏が作った送別会などの、文学者の宴会です。「鷗外日記」によれば明治41年(1908年)「四月十八日(土) 夜上野の青楊會に往く。夏目金之助等来会す」と書いています。また、これは3回目の青楊会でした。4月25日の上田敏宛の手紙では「君を送りまつりし會より生れし青楊會の三度目に又々夏目君などと出逢い候」と書いています。
 長田幹雄。ながたひでお。小説家。東京の生まれ。生年1887年3月1日、没年は1964年5月6日。秀雄の弟。「明星」「スバル」に参加。小説「(みお)」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名。この日は21歳でした。
秀雄 長田秀雄。ながたひでお。詩人・劇作家。生年は1885年(明治18年)5月13日。没年は1949年(昭和24年)5月5日。東京の生まれ。明治大学で学ぶ。幹彦の兄。「明星」「スバル」に参加。新劇運動に加わり、史劇で新分野を開きました。この時は23歳。
みしやい 「みしゃぐ」でしょうか。押しつぶす。ひしゃぐ
吉井勇 吉井勇よしいいさむ。歌人・劇作家。生年は1886年(明治19年)10月8日。没年は1960年(昭和35年)11月19日。東京の生まれ。早稲田大学中退。耽美派の拠点となる「パンの会」を結成。歌集は「酒ほがひ」「祇園歌集」「人間経」、戯曲は「午後三時」「俳諧亭句楽の死」など。22歳。
膿んだ ()む。化膿(かのう)すること
溺没 できぼつ。おぼれて沈むか、死ぬこと
虎の子 虎は自分の子をかわいがって育てる。それと同じで、大切に持ち続けて手放さない。
ゾラ Émile Zola。フランスの小説家。生年は1840.4.2。没年は1902.9.29。「実験小説論」を著し、自然主義文学の方法を唱道。
ゴンクール Edmond & Jules Huot de Goncourt。フランスの兄弟の小説家。自然主義の小説を合作。また、日本の浮世絵の研究・紹介にも努めました。
代診 担当の医師に代わって診察すること

 秀雄はたうとうその晩も帰つて来ず、昨日の正午頃、親父の外套は質にぶちこんだらしくふらりと帰つてきて、そのまま飯もくはずに二階へあがつて夜着をひつかぶつて寝てしまつた。実さい呆れ返つて、口がきけない。
 夕方になると、勇が叉現はれて、僕がちよつと出た留守に、二人でくだんの全集をひつかつぎ出したものに相違ない。四ケ月も五ケ月も学資の残余をこつこつためて、やつと買つた全集であるだけに、まんまとシテやられた口惜しさ! さすがの僕も腹をすゑかねた。弟のものはおれもの、おれのものはおれのもの式な、兄貴のわがままな横暴さが骨髄に徹して僕はどうしてくれようかと、全く切歯扼腕したのであつた。一たい兄貴のやうなぐうたらな土性骨のない人間はその時分でも珍らしかった。親父ももう此頃では、持余して、毎日心の中では血の涙をのんでゐるらしかった。
 さうかといって、今夜の会費だけは何んとかしてこしらへておいてやらないと、僕までが皆の前で恥ぢをかかなくちやならない。今夜は珍らしく森鴎外、上田敏夏目漱石の三先生がみえるといふので、われわれ文学青年にとつては、又とないかき入れの会合であつた。
 僕は万策つきて、たつた一枚しかないオーバーで金をこしらへるより外に手段はなかつた。幸ひ行きつけの質屋が、本郷にあるので、電車でそこへいつて、店先でオーバーをぬいで、やつと五円紙幣を二枚うけとつた。もう四月も十日過ぎ、桜の花もぽつぽつ咲きそろふ頃なので、薄地の背広一枚でもさうたいして寒くなかった。

切歯扼腕 せっしやくわん。歯ぎしりをし腕を強く握り締めること。残念や怒ったりすること
土性骨 どしょうぼね。性質・性根を強めて、ののしっていう語
上田敏 うえだ びん、文学者、評論家、翻訳家。生年は1874年(明治7年)10月30日。多くの外国語に通じて名訳を残しました。明治38年、訳詩集「海潮音」を刊行。明治41年、欧州へ留学し、帰国後、京都帝大教授に。没年は1916年(大正5年)7月9日。死亡は41歳でした。この日は34歳でした。
夏目漱石夏目漱石 なつめ そうせき。小説家、評論家、英文学者。生年は1867年2月9日(慶応3年1月5日)。没年は1916年(大正5年)12月9日。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を教え「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になりました。41歳。

 僕はその足で白山の御殿町にゐる木下杢太郎が一番鵬外先生に親 近してもゐたし、信用も一番あつたので、木下杢太郎のところへ廻つた。といふのは杢太郎が先生のお宅へ誘ひにあがつて、ごいつよに会場である上野の精養軒へお連れするのではないかと思つたからであった。もしかさうだつたらかねがねから近づきがたい先生にたつたひと言でも話しかけてみたいと、柄にもない念願をおこしたからであった。
 その時分の一しよのグループであった北原白秋、木下杢太郎、吉井勇の面々の間で、僕は年も二つや三つ下だし、それよりも第一秀 雄の舎弟とあっては一向に頭角を現はすわけにいかない。皆さうさうたる売り出しの詩人達であるから僕のやうな才の薄い散文家は、いつも卑屈な立場に立たされた。上眼づかひをしながら心にもないおベンチャラをいつてゐるしか手がない。だから秘蔵の書籍なんか遊蕩費がはりに持ち出されても実さいは、先輩や兄貴を張り倒すわけにもいかない退け目があつたわけである。お前はまだ処女膜が破けてゐねえんだなぞと人前でボロクソにいはれて、三下奴でへこへこしながらくッついて歩いてゐる情なさといったら全くなかった。一度なぞは勇が幹さん、その時計をかせッと叫んで僕の袴の紐へ手をかけて、何んともいへぬ貧ランな殺気をみせた。つまり僕の時計で金をこさへてもうひと晩吉原へいかうといふのである。僕はこれが文学のうへの先輩でなければ、むろん地面へ叩きつけてやつたに相違ない。僕だつて反面は狭量な一徹者であつたから、酔つてフラフラしてゐる勇ぐらゐひッぱたくのはへいちやらであつた。
 しかし彼の「酒ほがひ」にある一連の名歌を思ふと、碌すつぽなものもかけない自らを省みて何としても彼の頭へ鉄拳を加へるなんていふ勇気は、いつの間にかへなへなと消し飛んでしまふのである。しかし心の中ではいつも今にみやがれッと絶叫して虎視たんたんとしてゐたのは事実である。全くあの時分の吉井勇は名詮自称、無頼漢であり、智能人にすぐれてゐるくせに、手のつけられぬ洛陽の酒徒であった。秀雄、勇の徒は自分で質屋で金をこさへてくると、こっそり一人遊びをやるし、他人が金をもつてゐると弟だらうが先輩だらうが卜コトンまでタカつて素裸にしてしまふ。古風な蕩児らしいエゴイズムと残忍さをつぶさに身につけてゐた。

御殿町木下杢太郎御殿町 白山御殿町。町の大部分は白山御殿の跡です。左手に東京大学付属の小石川植物園があります。
木下杢太郎 きのした もくたろう。詩人、劇作家。後に東京大学医学部皮膚科教授。生年は1885年(明治18年)8月1日。没年は1945年(昭和20年)10月15日。本名は太田正雄。23歳。
精養軒 明治期の上野精養軒せいようけん。東京都台東区上野恩賜公園内にある最も古い西洋料理の店。図は明治期の上野精養軒
北原白秋 北原白秋きたはら はくしゅう。詩人、童謡作家、歌人。生年は1885年(明治18年)1月25日。没年は1942年(昭和17年)11月2日。23歳。
三下奴 さんしたやっこ。博打(ばくち)打ちの仲間で下っ端の者。
貧ラン どんらん。貪婪。とんらん。ひどく欲が深いこと
一徹者 いってつもの。思いこんだことはあくまで押し通す人
酒ほがひ さかほがひ。吉井勇の歌集。 1910年刊。718首を収録した第1歌集。青春の挫折感から酒と愛欲に耽溺した境地をうたったものが多く祇園を舞台とした歌が特に有名。「ほかう」は望む結果が得られるようなことばを唱えて神に祈ること。後世には濁って「ほがう」の形になりました。
虎視たんたん 虎視眈眈。こしたんたん。虎が鋭い目つきで獲物をねらっている様子。転じて、じっと機会をねらっているさま
名詮 みょうせん。仏語。名がそのものの性質を表していること
洛陽 後漢は、前漢(西漢)の都である長安から東の洛陽に遷都したため、洛陽を「東京」と呼びました。洛陽に京都という意味もありますが、吉井勇氏は東京生まれなので、この場合は洛陽は東京でしょう。
蕩児 とうじ。正業を忘れて、酒色にふける者

文学と神楽坂

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文豪の素顔|森鴎外(7)

文学と神楽坂

 きちんと二十分お邪魔をして、それから千駄木の裏坂を根津権現
の方へおりていつた。もう夕暮れで、あの崖下の町はすつかりたそ
がれかかつてゐる。豆腐屋のラッパがあつちでも、こつちでも聞え
て、吹く風も寒々としてゐる。
 とある横丁の角を曲ると、そこに二階建ての、こぢんまりした下
宿屋がある。ずらりと並んだ二階障子に赤黄い灯がともつて、樹影
からすけてみえる崖上の灯影の重なりをみてゐると、旅にゐるやう
な情趣と哀愁が限りなく湧いてくる。
「ねえ、杢さん。あすこにみえてゐるあの灯が鷗外先生のお書斎ぢ
やないですか。」と、いふと、杢さんは脊丈のびをして、
「さうだ。あれメートルの書斎だ。わりに近くみえるね。」
「僕、この下宿へ移つて来ようかしら。」といふよりも早く、もう
僕の決断はたちどころに極つていきなり入口の硝子戸をあけて入る
と、髪の毛のふさふさしたおかみさんか応対に出てくる。二階の四
畳半が賄つきで、月十一円五十銭だといふ。幸ひ千朶山房の真下に
窓があいてゐる部屋なので、私は一も二もなくその場で契約をきめ
てしまつた。玄関の土間へつッたつて待つてゐた杢さんの大学生姿
が、きつとおかみさんの信用をかつたのであらう。僕一人だつたら、
或は断わられたかもしれなかつた。何にしろもう十二月にかからう
といふのに、寸のつまつた一枚、よれよれになつた繩のやうなボ
ロ兵児帯といふ僕のかつかうは、決して、見よい風態ではなかつた。
三寸以上もある長髪を蓬々とちぢらして頬骨のつッぱつた血色のよ
くない顔に、鉄ぶちの眼鏡をかけてゐようといふのであるから、ど
うみたつてヤクザな文学青年か、雑誌ゴロ以上にはふめなかつた。
根津権現 ネズゴンゲン。根津神社。東京都文京区根津にある神社。地図では緑色で描いてあります。
千朶山房と根津神社

千朶山房(赤い矢印)と根津神社(緑)

賄つき 賄い付き。まかないつき。下宿・寮などで、食事も付いていること
千朶山房 せんださんぼう。1年2か月ほど暮らし、地名である千駄木に由来して「千朶山房」と呼びました。また夏目漱石もここに居を構え、このときは「猫の家」と言われています。この家屋は愛知県犬山市にある「明治村」に移築、公開されています
あわせ。裏地のある和服。10月から5月までの間に着るもの
兵児帯 へこおび。男子、子供用の帯。並幅の布を胴に2、3重に回し、うしろで結ぶ。
蓬々 ほうほう。髪やひげがのびて乱れているさま
ゴロ 「ごろつき」の略。あちこちをうろついて他人の弱みにつけこんで嫌がらせをする悪者のこと
ふむ 前もって見当をつける。見積もりや値ぶみなどをする

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(8)

文学と神楽坂

 その晩、杢さんは久しぶりだからといつて永代橋畔の都川と
いふ鳥屋へ連れていつて、ふんだんに飲ましてくれた。盃の間
にも鷗外先生がああいつてくれたのだから、北原や吉井とは、
別な方面から先生の支持をつけるやうにしたらどうだと親切に
アドバイスしてくれる。君はいつも自分でミソッカスだといつ
て、好んで卑屈な態度に出るからいかんのだ、詩なんかつくれ
なくたつて、何も文学の道は外にいくらだつてある。
 僕は心の中で涙をおさへて、
「ねえ、杢さん、さつきも鴎外先生がいつとられたが、兄貴の
『司祭と猫』つていふものは、ほんとにそんなにいい詩なんで
すか。どうか本当のことをいつて下さい。」僕はせめてそれで
自分に自信をつけたかつた。
 杢さんはカツカツと舌を嗚らして、
「いい詩だつたよ。多分に性的な皮肉が歌はれていて、けんら
んなものだつた。白秋もおれは震駭したといつてたな。しかし
秀さんらしからぬ、光沢のありすぎる詩だつたよ。」
「兄貴はなんていつてゐるんですか。ほめると、何か反撥しま
すか。」
「うむ、おれはデーメルを捨てゝもう一度ヴェルレーヌからや
り直すといつてるんだ。『司祭と猫』みたいなものを今後、い
くつもかくと興奮してゐたな。」
都川 都川京橋区(現在の中央区)の隅田川の川縁、永代橋に近くにあった料理屋。この図は東京紅團(東京紅団)の『パンの会を歩く』 http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm からとりました。
ミソッカス みそっかす。味噌っ滓。子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。
震駭 しんがい。驚いて、ふるえあがること
デーメル リヒャルト・フェードル・レオポルト・デーメル。Richard Fedor Leopold Dehmel。ドイツの詩人。1863年11月18日 – 1920年2月8日)
ヴェルレーヌ ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)(1844年3月30日 – 1896年1月8日)は、フランスの詩人。日本語訳では上田敏による「秋の日のヰ゛オロンのためいきの……」が有名
 すると、あのノートの中にはまだ『民族の果樹園』や『黒と
金の饗宴』『夜の円舞曲』なんていふのが、七つも八つも残つ
てゐるから、それが兄貴の署名で一つ一つ些細な原稿料に化け
るかもしれない。それとも、もう僕が北海道から帰つてきたか
ら、これでやめるかな。
 さう僕は秀雄と杢さんの友情を思ふと、それから先のことは
何んにもいへなかつた。まつたくいふに忍びなかつたのである。
それほどに杢さんは清潔な芸術家であつたし、立派な人格であ
つた。
 すぐ下の隅田川では、曳船の小蒸汽船がしつきりなしに含み
声なスクリューの音を水にこもらせてどんどん溯上してゐる。
月がゆらゆらほの白く砕けてゐるところをみると、丁度今上げ
潮らしい。川口の方では模糊とした月光の果てに、大島通いの
東京丸がぼつッぼつッと汽笛を吹嗚してゐる。もうぢき出航す
るのであらう。
 その汽笛の音を聞いてゐると、僕の眼には宝蘭港の月夜や、
吹雪の小樽港が今みるやうにまざまざと浮んでくる。空きッ腹
に、幾度かうした、うら寂しい汽笛の音を聞き送つたことか。
考へれば佗びしい二ヶ年にあまる旅路ではあつた。僕は涙がボ
ロボロ溢れて、とめどがなかつた。
『民族…』の3編 残念ながらこの名前を使って小説になっているものはありません。
曳船 ひきふね。水路に浮かべた船を水路沿いの陸路から牽引すること。 曳舟(ひきふね)は東京都墨田区東向島の地名
溯上 流れをさかのぼっていくこと
川口 川口市(かわぐちし。埼玉県南東部の荒川北岸にある人口約57万人の市
宝蘭港 宝蘭港はありません。室蘭港ではないのでしょうか。むろらんこう。北海道室蘭市にある港湾です
小樽港 北海道小樽市にある港湾

小樽

 その晩、僕は本田といふ品川の友だちのところへ帰るにして
は、とても酔ひすぎてゐたので、杢さんと一しよに、さつき契
約をきめたばかりのあの根津の下宿屋へいつて、むりやりに泊
めてもらつた。夜具がないので、おかみさんに頼んで、近辺の
貸布団屋からやつとひと組コスメチック臭い木綿夜具を借りて
もらつた。もう午前の一時すぎであつた。おかみさんはいやな
顔もせず、親切に世話を焼いてくれた。
 あとから聞いて、さすがの僕もひと縮みになつてしまつたか、
それは村松梢凰氏の伯母さんだつたのださうである。
 それを聞いたのは、彼れこれ二十年もたつてからであるが、
いろいろ御迷惑をかけた昔日のことを思ふと、何ともかとも慚
愧にたへない思ひである。
 翌朝、味噌汁の煮える匂ひで眼を覚ましてみると、案外落着
いたいい部屋である。手拭から歯みがきまで一々買つてもらつ
て、近所の銭湯へいつて、湯だけは浴びてきたが、何分にも綻
びの切れた、銘仙の袷が、垢でピカピカひかつてゐて、どうに
も見すぼらしくつて、気がひけてならない。早速親父の家へい
つて、ひと先づ机や行李や本の類を人力車にのせて運んできた。
親父は、古い瀬戸ものの火鉢をひとつくれて、今度はしつかり
やれと愛情をこめて激励してくれた。親父は兄貴よりも、僕に
むろん全幅の信頼をかけてゐたのである。
コスメチック 化粧品・頭髪用化粧品の総称
村松梢凰 むらまつ しょうふう。小説家。1889年(明治22年)9月21日 – 1961年(昭和36年)2月13日。
慚愧 ざんき。自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること
銘仙 めいせん。玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物
 すつかり家具のおきどころをきめてから、その下宿ではじめ
ての夕飯をくつた。塗膳には牛肉のすき焼きなんかがついてゐ
て、その時分にしてはとても扱ひのいい賄いであつた。一本つ
けてもらつて時間をかけてゆつくり飲んだ。こんな穴ぼこみた
やうなところであるから、杢さんさへ黙つてゐてくれれば、誰
れにもかぎつけられることはあるまい。秀雄や吉井勇なぞから
全く隔絶して、僕は僕自身の道を歩こうと、深くふかく決心を
きめた。
 北窓をあけると、すぐ真上は鴎外先生のお書斎の窓である。
 先生は午前の二時までも三時までも仕事をなさるらしく、い
つみても黄色い灯が窓のカーテンにほのめいてゐる。それが消
えるまで、僕は決して寝なかつた。僕はそこで出世作といはれ
る『零落』を、中央公論にかかしてもらつてやつと大正文壇に
華々しくデビューしたのである。
 こないだ僕のところの近辺の娘さんが小堀杏奴女史のところ
へ伺つたら、僕がそこの下宿の窓から汚いドテラを着て、よく
顏を出してゐたのを、子供心に覚えてゐるといはれたさうであ
る。申す迄もなく、杏奴女史は鴎外先生の令嬢である。
 その時分おいくつ位だつたかしらないか、あのお宅におかつ
ぱ頭の可愛らしいお嬢さんがゐられたとは想像も出来ない。そ
れほどに先生の千朶山房は粛殺とした、冷厳な印象を僕に与へ
てゐる。それが先生の持つてをられた雰囲気そのものであつた。
零落 れいらく。落ちぶれること。大正元年、長田幹彦氏は旅役者の生活を描いた『澪』『零落』で作家としてデビューしました。
小堀杏奴 こぼり あんぬ。森鴎外と志げの次女。随筆家。生年は1909年(明治42年)5月27日。没年は1998年(平成10年)4月2日。
粛殺 しゅくさつ。厳しい秋気が草木を枯らすこと

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(2)

文学と神楽坂

 その間にあつて、杢太郎ばかりは、いはゆる朱に染まない、純真
な学徒であり、芸術家であつた。僕のやうな三下奴が心ひそかに敬
慕もし、頼りにするのは当然の話であつた。
 杢太郎の家へいくと、彼はもうきちんと大学の制服にきかへてゐ
て、にやにやしながら「今君の親父の家へ電話かけたら、秀さんは
昨夜つから帰らんといふぢやないか。吉井と一しよなら、どうせ悪
所だな。あのディオ二ソスにも困つたもんだよ。はゝゝゝ。」と真
四角な口をあけて、歯並のそろつた歯を出して大きく笑ふ。意志的
な、英知の表情である。
 僕がソラやゴンクールが消えた話をすると「そいつは愉快だなア、
彼らにはソラやゴンクールは、およそ猫に小判だからね。仕様がな
いな。幹さん、そば杖で大損害だつたね。しかし秀さんも勇も、何
んにも読まずに、徒らにヴィナスバッカスばかり追つかけてるの
はつまらんな、今にアルチザン以上のものにはなれんぞ。」と、い
つになく、生真面目な顔になる。一たい杢さんの顔の皮膚は血行が
不安定で、笑ふとみずみずしい赤色を呈してくるが、渋面つくると、
毛細管が皺にそうて収縮するかして、黄色い太い線を残すのが特徴
であつた。
 僕は今更ら秀雄や勇の愚痴をいふのも馬鹿くさいので、鷗外先生
の方へ話をもつていくと、杢さんは例のくせの鼻をクンクン鳴らし
て、
悪所 悪いところ。花街でしょう。
ディオ二ソス Dionysos。ギリシャ神話で、酒の神。バッカス。
猫に小判 貴重なものを与えても、本人にはその値うちがわからないことのたとえ
そば杖 喧嘩のそば(づえ)。他人の喧嘩のとばっちりをうけること。
ヴィナス ビーナス。Venus。ローマ神話の愛と美の女神。
バッカス Bacchus。ローマ神話のワインの神。ディオ二ソスの異名バッコスがラテン語化してバックス、英語化してバッカス。
アルチザン artisan。技術的には熟練し精妙な腕を発揮しながらも,芸術的感動に乏しい作品を作る人々を批判的にいう言葉。
「いや、千駄木町のメートルはね、陸軍省から、真直に精養軒へい
くといつてたよ。だから、もし幹さんがいくんなら、精養軒へずつ
と一しよにいかうか。」と、すつかり当てがはずれたことになつて
しまふ。
 僕は杢さんと一しよに歩くだけでもむろん楽しいので、二人肩を
並べて、戸外へ出た。杢さんはとてもよく歩く人で、白山の停車場
へきても、電車に乗らうとはいはない。追分の方へどんどん歩いて
いく。どうやら向岡へ出て、上野までぽくぽく歩いていくつもりら
しい。
 僕も何んにもいはずに、歩いていつた。
 杢さんはしきりに鼻をクンクンやる。さういふ時には、至極御機
嫌なのである。
「ねえ、幹さん、君一昨日蒲原さんのところをベズーフしたさうだ
ね、君はよくいくんだね。」
「え、僕、とつても、有明先生が好きになつちやつたんですよ。あ
のビンズル尊者はお顔をみてるだけでも、深遠で、神聖で、頭がさ
がりますね。」
「僕らはもつと、有明を勉強しなくちやいかんな。上田敏や白秋の
けんらんもいいが、技巧ばかりで内容は稀薄だね。」
「さういふ感じがしますね。」
メートル フランス語maîtreから。先生。親方。長。この場合は森鴎外です。
白山、追分
向岡
白山は現在の「白山上」、追分町は「本郷追分」、向岡は当時の「向ケ丘弥生町」で、これは現在の「弥生町」の方が現在の「向丘」よりもいいと思います。ここを通って精養軒に行くわけです。
精養軒

最新大東京案内図 昭和17年(1942年)から

蒲原 Kambara_Ariake蒲原(かんばら)有明(ありあけ)。詩人。東京生れ。生年は1875年(明治8年)3月15日。没年は1952年(昭和27年)2月3日。複雑な語彙やリズムを駆使した象徴派詩人で、薄田泣菫と併称し、北原白秋、三木露風たちに影響を与えました。
ベズーフ ドイツ語でBesuch(ベズーフ)は「訪問」「訪問する」
有明 上を参照
ビンズル 賓頭盧(ビンズル)。釈迦の弟子。十六羅漢の第一
「何か面白い話あつたの。」
「例によつて、アーサー・シモンズでもちきりで、とても僕、興奮
しちやつた。一たい先輩つてものは、やけにわれわれに布教したが
るもんですけど、有明先生ばかりは御自分の傾向にあふやうなこと
ばかりひとりでしづかにアーサイドしてゐて、ちつとも教化しませ
んね。いやならそッぽむいてろつて調子で、妙に相手を突き放して
ゐる態度が僕、立派だと思ふんです。青年にちつとも媚びませんか
らね。」
「君は散文的なみかたをするから、リアルをみるんだね。」
「今度の『河岸蔵』の詩なんか、まるで印象派の画だな。魂に黒点
を印しますよ。僕はね正直のところ、北原君や吉井君のあの朗々
すべき声調つていふかな、ああいふのは才気だけの問題であつて、
もうぢき飽きられやしないかと思ふんですがね。」
「いや、さうでもないよ。あれはあえかな青春といふものにつなが
つてるからね。人間が不朽のリリシズムを謳歌する以上、やはりあ
の浪曼主義は、亡びないね。はゝゝゝ。但しちと甘いがね。」と、
杢さんはいたずららしくちよいと舌の先を出す。
 池の端へ出ると、東照宮五重塔がぼやッと夕靄にとけて、縮緬
皺の無数によつた不忍池には、立ちおくれた真鴨が暖かさうに浮ん
でゐる。ぬくたい夕風がほこりッぽく顔を撫でてくる。
アーサー・シモンズ  Arthur William Symons。英国のデカダン詩人。生年は1865年2月28日。没年は1945年1月22日。「デカダン詩人」は長田幹雄氏自身の『青春時代』解説による評価で、「デカダン」は退廃的なという意味です。
アーサイド あまりいい英語やフランス語はありません。arsideはあればいいのですが、ありません。asideは英語もフランス語もわきへ、かたわらに、離れて
リアル real 。真実の
河岸蔵 かしぐら。河岸に建っている倉庫
ぎん。声を出して詩や歌を歌うか作ること
黒点 太陽の光球面に出現する黒い斑点
北原 北原白秋。詳しくはここに
あえか か弱く、頼りない。きゃしゃで弱々しい
リリシズム lyricism。叙情詩的な趣や味わい
浪曼主義 Romanticism。ロマン主義。主として18世紀末から19世紀前半にヨーロッパや諸地域で起こった運動。感受性や主観に重きをおいた運動。恋愛を賛美し、民族意識を高揚し、中世への憧憬があります。その反動として写実主義・自然主義などを出てきました。
東照宮 上野東照宮(とうしょうぐう)。東京都台東区上野恩賜公園内にある神社。旧正式名称も東照宮。他の東照宮との区別のために上野東照宮と名前を付けています。
五重塔 元々は上野東照宮の五重塔でしたが明治の神仏分離によって寛永寺の帰属となり、戦後は東京都が管理。現在、上野動物園の中にあります。
夕靄 ゆうもや。夕方に立ちこめるもや
縮緬皺 ちりめんじわ。縮緬のように一面に細かく寄ったしわ。
不忍池 上野公園南西部にある池。台地の谷間に入り込んだかつての海が潟湖として残りました
ぬくたい (ぬく)い。ぬくとい。あたたかい。
「どつだい、池の水が白く光つてゐるところへ蓮の枯れた幹がによ
きによき突つたつてゐる効果はちょいとオツじやないか。日本の風
景にだつてなかなかいいニュアンスがあるんだよ。なにも、パリま
で出かけなくたつていいさ。」と、自嘲の調子でいつたかと思ふと、
藪から捧に、「ああ、こんな風が吹くと長崎へいきたくなるな。あ
の支那寺ドラが聞きたくなるよ。はゝゝゝゝ。」
と、板ッ片をぶッつけるやうに笑ひだして、急に大股にとつとと歩
きだす。これは杢さんの一流のくせであり、発想法であつた。












藪から捧 藪から棒。やぶからぼう。予期せぬことが唐突に起こること。また、出し抜けに物事を行うことのたとえ。
支那寺 支那寺長崎市鍛冶屋(かじや)町にある黄檗(おうばく)崇福寺(そうふくじ)のこと。聖寿(しょうじゅ)山と号し、俗に福州寺(ふくしゅうでら)あるいは支那寺(しなでら)とよばれます
ドラ 銅鑼。中国の楽器。dora_zildjian
板ッ片 「いたっぺん」と読むのでしょうか。板の切れ端。

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(6)

文学と神楽坂

 僕は二年間の旅をおわつて、又風のごとくにへうへうと東京
へ帰つてきた。明治四十四年の秋である。親父の家へ帰り度く
ても何だか敷居が高くて、帰りにくい。とにかく僕は、早稲田
大学で相当真剣に勉強をしてゐて、決して学生として恥ずべき
行為はしてゐなかつたにも拘らず、父がたうとう最後の手段と
して兄貴にの勘当をくはした。僕も実はそのそば杖をくつて、
勘当の同伴を命じられたわけである。それといふのも僕の母親
が秀雄を糞ッ可愛がり可愛がつてゐたので、親父への面当てに
僕も追ひ出してしまへといふことになつたのである。こんな不
条理な、封建的なことが平気で親子の間で行はれた時代が、日
本にもごく最近まであつたのである。
 僕は窒息しさうな汚濁の雰囲気を離脱してたつた一人で北海
道へ渡つてしまつた。二年間の放浪でずゐぶん苦労もしたので、
人生の甘くないこともしみじみ感じとつてゐた。もう二度とふ
た度ああいつた詩人のグループなんかへ帰つていく気はしない。
多愛のない芸術至上主義なんてものか、阿呆ッくさくみえてた
まらなかつた。
 何にしろ長い間、東京を留守にしたのであるから、再び生活
の根拠をきづきあけるのにひと骨折りをしなければならなかつ
た。当分の間は、収入の道が全くないのであるから、やむを得
ず、友人の家をごろごろして歩くより外に暮らしやうがない。
へうへう 「へうへう」と書いて「ひょうひょう」と読みます。漢字では「飄飄」。足元がふらついているさま。また、目的もなくふらふらと行くさま。
たうとう 「たうとう」と書いて「とうとう」と読みます。物事が最終的にそうなるさま。ついに。結局
「おさ」でも「ちょう」でも。多くの人の上に立ち、統率する人。
面当て つらあて。快く思わない人の面前で、わざと、あてこすりを言ったり意地悪をしたりすること。また、その言動。あてつけ
汚濁 よごれること。にごること。
多愛のない 他愛無い。たあいのない。しっかりした考えがない。また、幼くて思慮分別がない
芸術至上主義 芸術のための芸術を主張し、芸術の社会的・道徳的効用を否定する思潮
さういふ場合詩人たちは全然頼りにならなかつた。酒を飲むと
きには莫逆の友になるが、いざ生活のことになると、実さい酷
薄をきはめたものであつた。尤も自分自身が既に無能力者で、
手も足も出なかつたからであらう。いつの世にもさうだが、詩
人の生活なんていふものは、溝川に消えてゆくあぶくのやうな
頼りないものである。
 そこにまた美しさがあるのかもしれない。
 僕はある日杢さんを訪ねていつた。いつも変らなかつたのは、
杢さんひとりである。
「やあ、よく帰つてきたね。たびたびおたよりありがたう。今
度はほんとにいい経験をしたな。はゝゝゝゝ。」と、心から温
情を示してくれる。
 さしづめ兄貴のゐどころが分らないので、それを聞くと、
「秀さんかね。秀さんは相変らず、あの浜町の桶屋の二階にく
すぶつてるよ。一昨日もちよつと永代橋附近をスケッチして歩
いたんでその帰りに寄つたがね。あすこは相変らす、梁山泊だ
な。今にあの天井裏のサロンもやがて壊滅するね。秀さんには、
生活能力なんてものは全くないんだからな。」
「吉井君は。」
「吉井は下谷あたりに隠れてるらしいね。この頃ちつともパン
の会も出て来ないがね。」といつて杢さんはぶきつちよな手つ
きで煙草に火をつけながら、「とにかく北海道のくさい匂ひ
のぬけないうちに、何かいいものをかくんだな。幹さん、今が
チャンスだよ。」
莫逆 ばくげき。 心に逆らうこと()しの意で、非常に親しい間柄。ばくぎゃく。
酷薄 こくはく。残酷で薄情なこと。
溝川 どぶがわ、どぶかわ。雨水・汚水などが流れる小さな川。どぶのように汚い川
浜町 日本橋浜町。下図を参照
永代橋 隅田川に架かる橋。中央区新川と江東区永代とを結ぶ。
梁山泊 りょうざんぱく。豪傑や野心家の集まる場所
下谷 したや。東京都台東区の町名。地図では赤くて長い場所

橋名前

ニシン。鰊とも。全長約30センチ。北太平洋に広く分布し、沖合を回遊。春季、産卵のために接岸する。卵は数の子です。
「さういつてもらうとほんとにうれしいんですが、……実はひ
とつかいたものがあるんで「スバル」の編集へ届けてあるん
ですがね。」
 杢さんは思ひ出したやうに、
「あ、それかね。平出君は推せんしてゐるが吉井が反対なんで、
のせられないんださうだね。もつともあの連中は、散文は分ら
ないからね。」
 僕はそんな消息は全く初耳なのである。とにかく僕のかいた
ものが、編集で一応問題にはなつてゐるのだなと思ふと、胸が
熱くなつてきた。
 杢さんはしばらくすると、とにかく久振りだから何処かへ出
ようといふ。例の小型のスケッチ・ブックをポケットヘ押し込
んで、大学の制帽を眼深かにかぷつて、自分が先に格子戸を出
る。
 追分のところまで来かかると、杢さんはふつと立ち止つて、
「ねえ、幹さん、ちよつと千駄木町のメートルのところへ伺候
してみようぢやないか。」といつて「今日は日曜だからむろん
家にをられるだらう。」
 僕は願つたり、叶つたりである。鴎外先生にお眼にかかれや
うなんていふことは、北海道以来考へたこともなかつた。最近
のお作を拝見すると、何んだかあまりにも底光りがしてゐて、
全くこわれわれ青年には近づき難かつた。
スバル 「明星」の後進の詩歌雑誌。平出修が経営。同人平野万里、石川啄木、吉井勇が交互に編集。スバルは森鴎外の命名。
平出 平出修平出(ひらいで)(しゅう)。評論家、小説家、歌人、弁護士。浪漫主義系の文学者。生年は1878年(明治11年)4月3日。没年は1914年(大正3年)3月17日。明治法律学校卒業。「明星」の同人として活躍し,その廃刊後は石川啄木や吉井勇らと「スバル」を刊行。一方で神田神保町に法律事務所を開業するリベラルな弁護士でもあり、幸徳事件(大逆事件)で弁護人をつとめました。
消息 動静。様子。状態
眼深か めぶか。目が隠れるほど、帽子などを深くかぶるさま。
千駄木町 千駄木町。東京都文京区の町名。ここに森鴎外が住んでいました。本郷ほんごう駒込こまごめせん町57番地。現在は文京区向丘2丁目20番7号です。

猫の家

伺候 しこう。目上の人のご機嫌伺いをすること
底光り そこびかり。うわべだけの飾った輝きではなく,その物の本質に根ざした光
 千駄木町のお宅へいつてみると何のこともない、先生は無雑
作に御自分で玄関へ出てみえて、
「やあ、木下君、今日は生憎仕事をやり出したんでね、長くは
逢つてゐられないが、まあ二十分位ならいいだらう。」と、笑
つて奥へ入つていかれる。
 すぐ下に崖地のみえる八畳で先生と対座した時には僕はもう
いくらか気持が落ちついてゐた。うつかりしたことをしゃべつ
て、軽蔑されては大変だと思ふせいか、つい言葉も淀みがちで
ある。両肩はしきりにこつてくる。喉は乾いてくる。
 先生は夜来のお仕事で疲労してゐられるとみえ、お顔色も冴
えないし、眼も濁つてゐた。はじめは杢さんと、何か独逸語で、
医学上の話をしてをられたが、やがて僕の方をむいて、煙草の
火をみながら、
「長田君、君は長田フイスとでも呼ぶべきだね。ジュマフイス
のフイスだ」と、かうかふやうに笑つて、「昨日、平出君がき
てね。今度君は大変にいいものを「スバル」にかいたやうだね。
どういふもんだ。いづれ北海道の材料なんだらう。」
 僕はどもりながら、煙草をもつ手をふるはして、
「室蘭でみてきた事実なんです。」
「なるほどね。噴火湾の夜景が実によくかけてゐるといつて、
平出君が激賞しとつたよ。君は詩をやめて、小説をかくんだな。」
 杢さんは自分のことのやうによろこんで、
フイス アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils)。フランスの劇作家、小説家。小さな世界をしっとりと描くのが作風。高級娼婦(クルチザンヌ (英語版))マリー・デュプレシと出会い、1848年2月、24歳の時に思い出を小説『椿姫』として書き上げて出版し、これが代表作です。
室蘭 北海道南西部の市。内浦湾(噴火湾)に突き出す絵鞆(えとも)岬と地球岬がある
噴火湾 内浦湾。うちうらわん。北海道渡島(おしま)半島東側にあるほぼ円形の湾。実際は噴火ではないと考えられる。

噴火湾

「僕も常にそれをいつとるんです。われわれとはテムペラメン
トのうへでも、幹さんは既に異端者なんだから。はゝゝゝゝゝ。
ゾラと懸命にとッ組んでゐるのはいいことですよ。」
「ゾラヘ入つていくのか。フローベルは何を読んだ。」
「『ボバリー』と『感情教育』と『セント・アントアヌの誘惑』
です。」
「フランス語でよんどるのかね。」
「とんでもない。むろん英訳です。」
「ふむ。君は早稲田だつたね。」
「は、英文科です。」
「坪内君のシェークスピアの講義は面白いといふぢやないか。」
「は、声色入りで、寄席へいくより面白いです。」と、答へて、
私は苦いお茶をいただきながら、
「いつでしたか『マクベス』をやつとられてあんまり歌舞伎調
の台詞が神に入りすぎたんで、学生たちがうつかりわッと拍手
喝釆をしたんです。ところが先生は激怒されて、それつきり講
義はふいになつてしまひまして。」
 鴎外先生はさも可笑しさうに、大笑されて
「はゝゝゝゝ。面白いね。僕はシェークスピアのやうなクラシッ
クでもやはり現代語で訳した方がいいんぢやないかと思ふんだ。
それで何かい、君はもう早稲田を出たのかね。」
「いいえ、これから論文を出して、むりにも卒業させてもらは
うと思つてゐるんです。」
テムペラメント temperament。気質、気性。character は特に道徳的・倫理的な面における個人の性質。personality は対人関係において行動・思考・感情の基礎となる身体的・精神的・感情的特徴。individuality は際立った個人特有の性質。temperament は性格の基礎をなす主として感情的な性質
ゾラ エミール・フランソワ・ゾラ。Émile François Zola。フランスの小説家。生年は1840年4月2日。没年は1902年9月29日。自然主義文学の方法を唱道。その実践として「居酒屋」「ナナ」「大地」などの作品を含む「ルーゴン‐マッカール叢書」20巻を発表しました。
フローベル ギュスターヴ・フローベール。Gustave Flaubert。フランスの小説家。生年は1821年12月12日。没年は1880年5月8日。ルーアンの外科医の息子として生まれ、てんかんの発作を起こしたことを機に文学に専念。1857年、4年半の執筆を経て『ボヴァリー夫人』を発表、ロマンティックな想念に囚われた医師の若妻が、姦通の果てに現実に敗れて破滅に至る様を怜悧な文章で描き、文学上の写実主義を確立した。
ボバリー ボヴァリー夫人 。田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリーが、不倫と借金の末に追い詰められ自殺するまでを描いた作品で、作者の代表作。1856年10月から12月にかけて文芸誌『パリ評論』に掲載、1857年に風紀紊乱の罪で起訴されるも無罪判決を勝ち取り、同年レヴィ書房より出版されるやベストセラーに
感情教育 19世紀も半ば、2月革命に沸く動乱のパリを舞台に多感な青年フレデリックの精神史を描く。小説に描かれた最も美しい女性像の一人といわれるアルヌー夫人への主人公の思慕を縦糸に、官能的な恋、打算的な恋、様々な人間像や事件が交錯。
セント・アントアヌの誘惑 聖アントワヌの誘惑。フローベールが30年の歳月をかけて完成した夢幻劇的小説。紀元4世紀頃、テバイス山上にて隠者アントワヌは、一夜の間に精神的生理的抑圧によって見たさまざまな幻影に誘惑されながら、十字架の許を離れず、生命の原理を見出して歓喜する。
坪内 坪内逍遥坪内逍遥。つぼうち しょうよう。小説家、評論家、翻訳家、劇作家。生年は1859年6月22日(安政6年5月22日)。没年は1935年(昭和10年)2月28日。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』とシェイクスピア全集の翻訳
シェークスピア ウィリアム・シェイクスピア。William Shakespeare。イングランドの劇作家、詩人。洗礼日は1564年4月26日。没年は1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日)。「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」、「ロミオとジュリエット」、「ヴェニスの商人」、「夏の夜の夢」、「ジュリアス・シーザー」など多くの傑作を残しました
マクベス 荒筋は11世紀スコットランドの勇敢な武将マクベスは魔女の暗示にかかり王ダンカンを殺し悪夢の世界へ引きずり込まれていくというもの。
「北海道にをつた間、休んでをつたのかい。」
「さうです。」
「論文は何をかく。」
「思ひ切つてスカンヂナビアの文学をやつてみようと思つてゐ
ます。」
「イプセンか、ストリンドベリーかい。」
「いいえ、僕はビヨルンソンです。」
 先生はさも意外さうに、
「ビヨルンソンとは不思議なものを掘り出してきたね。何を読
んだの。」
「『マンサナ大尉』や『母の手』『ソルバッケン』」
 先生は煙草の吸殻をぽいと放つて、
「まあ、とにかく勉強することだね。小説は四十過ぎてからか
いて丁度いいんだから、あせる必要はない。君の兄さんが此間
何かにかいとつかね。『司祭と猫』といふ詩さ。あれはいいも
のだつたね。」
 杢さんは傍から口を入れて、
「ありやいい詩でしたね。秀雄にしちや珍らしく色感のすぐれ
たもんでしたね。」
「まるで白秋そつくりだつたね。」
スカンヂナビア スカンジナビア(Scandinavia)。ヨーロッパ北部の半島。西をノルウェー、東をスウェーデンが占めます
イプセン ヘンリック・イプセン。Henrik Johan Ibsen。ノルウェーの劇作家、詩人、舞台監督。生年は1828年3月20日。没年は1906年5月23日。近代演劇の創始者であり、「近代演劇の父」。シェイクスピア以後、世界でもっとも盛んに上演されている劇作家る。代表作には『ブラン』『ペール・ギュント』『人形の家』『野鴨』『ロスメルスホルム』『ヘッダ・ガーブレル』など。
ストリンドベリー ユーアン・オーグスト・ストリンドバーリィ。Johan August Strindberg。スウェーデンの作家。生年は1849年1月22日。没年は1912年5月14日。
ビヨルンソン ビョルンスティエルネ・ビョルンソン。Bjørnstjerne Bjørnson。ノルウェーの作家。生年は1832年12月8日。没年は1910年4月26日。1903年にノーベル文学賞を受賞。
意外 実は鴎外が訳したものもあるのです。これから22年ほど先の1913年、「新一幕物 人力以上」です。
マンサナ大尉 原語ではKaptejn Mansana。英語訳はCaptain Mansana。日本語訳はなさそうです
母の手 不明です。
ソルバッケン Wikipediaの訳書では「アルネ シンネエヴェ・ソルバッケン 手套」。英語ではSynnøve Solbakken。農夫の物語
司祭と猫 本当にあったのでしょうか。ほとんどの詩集には出ていません。不思議です。
 僕はぎよッとしてしまつたのである。兄貴はあの『司祭と猫』
まで自分のものにかきかへて世間へ出してゐるのかと思ふと、
僕は腹がたつよりも、兄貴の生活の窮迫さが眼にみえるやうで、
脊筋がひやッこくなつてきた。『司祭と猫』はわづか二枚ほど
の散文詩で、僕はノートの隅へかきつけて机の抽出しへ放り込
んでおいたのである。道理でそのノートは、今度かへつてきて
調べてみると、いつの間にか紛失してしまつてゐた。僕が北海
道へいつてゐた間ぢゆう、僕の机と木箱は親父の家へ頂かつて
もらつてゐたのである。その机の抽出しから持出したものらし
い。











文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(3)

文学と神楽坂

 精養軒へあがると、玄関のホールのダイバンのところには、
もうちやあんと秀雄と勇が一足先にやつてきて、ビールなん
か飲んでゐる。秀雄の方は宿酔とみえ顔も何も土気色をして
ゐたが、フラフフラたつてきて、杢さんと挨拶をかはしたあ
とで、駄々ッ子のやうに、「杢さん、ちよつと。」と、眼顔
で合図をする。
 杢さんは秀雄と一しよに奥廊下の入口まで入つていつたが、
頭をかきながら帰つてきて「あひにく、僕は余分なラルジャ
ンをもつとらんのだよ。」と、赤い顔をしてゐる。
 ははア、こりや二人とも杢さんに会費をタカるつもりだな
と気づくと、僕は恥かしくなつて、耳たぶが熱くなつてきた。
 早速帳場へいつて、僕は秀雄と自分のと二人分払つた。た
しか三円だつたから六円払つたと思ふ。と、秀雄はそれをみ
てゐて、
「おい、幹さん、吉井のも払はなけやダメぢやないか。」と、
口を尖らかして、そんなことは当りまへだといふやうにカサ
にかかつていふ。
 僕は忌々しいとは思つたが、年少の人のよさでいはれると
ほり潔よく払つた。あと一円しか殘らない。外套をころして、
人の分まで払はせられるとは、全く情けなかつた。そのオー
バーも今入れたんぢや、今年の十二月まではむろん出せッこ
ないのはわかつてゐる。
ダイバン ダイバンには大盤、台盤、台板などがあるようです。大盤は食物や水などを入れるための大きな器。台盤は、食卓の一種で、食物を盛った(さら)をのせる台のこと、台板は物や人をのせる板のこと。
土気色 つちけいろ。土のような色。生気を失った人の顔色
ラルジャン l’argent。銀貨のこと
たかる (たか)る。人に金品をせびる
かさにかかる 嵩にかかる 威圧的な態度でのぞむ
ころす 質屋の担保(質草)に入れる
 そこへあまり脊丈のたかくないひとりの軍人が、かちやかちや
剣鞘をつきならしながら颯爽と入つてきた。鷗外先生であつた。
声望隆々たる陸軍軍医局長であるから、昭和時代ならむろんピカ
ピカした四万台の自動車で、威風堂々あたりを払つて御入来とい
ふところであらう。しかし明治四十何年かのことであるから、電
車でさへも珍らしい時代であつた。先生は山下の広小路まで市電
でみえて、あれから人力車に乗られたんぢやないかと思ふ。上田
敏先生も、夏目漱石先生も辻待ちの人力車であつた。鷗外先生は
まつ先に杢さんをみつけて、片頬でにつこり笑つて、無雑作に会
釈をされる。頭も軍人風のイガ栗ではなくうすい髮毛を分けてゐ
られるので、何んだかちつとも軍服がイタにつかない感じである。
ただ少し右の肩がいかつてゐるのが、いかにもきかぬ気らしい
ヒョウ悍さをみせてゐる。その時分、雑誌ゴロか、暴力団か何か
が、陸軍省の玄関先で先生に失礼なことをいひかけて、突き倒さ
れたとか、殴られたとかいふデマが盛んにとんでゐた。とにかく
日露戦争からずつとつなかつてゐる初期軍国主義的気分が社会に
ほうはくしてゐる時代であつた。
 杢さんは例の真赤な顔でいんぎんに挨拶をしたが、吉井勇はに
やにやするばかりで、たちもしなかつた。それでゐて気嫌をとる
でもなく、お愛想をするでもなく、にいッと唯笑うだけのそのか
ねあひが、実に勇の名演技中の名演技であつた。やはり伯爵の御
曹子だけの貰祿はあつて、誰れでも勇のこの表情にはころりとま
ゐらせられたものである。薩摩人らしいおほらかな怜悧さである。
剣鞘 けんしょう。剣の刀身の部分を納めておく筒
颯爽 さっそう。姿や態度・行動がきりっとして、見る人にさわやかな印象を与える
四万台 4万円台と書き換える以外にいい方法はなさそうです。
辻待ち つじまち。人力車などが道ばたで客を待つこと
板につく 経験を積んで、動作や態度が地位・職業などにしっくり合う
きかぬ気 人に負けたり、人の言うなりになったりすることを激しく嫌う性質
ヒョウ悍 剽悍。ひょうかん。すばやい上に、荒々しく強いこと
雑誌ゴロ ゴロは「ごろつき」の略。無職・住所不定で人の弱点につけいる、ならずもの
ほうはく 磅礴。広がり満ちること。満ちふさがること
怜悧 れいり。賢いこと。利口なこと
 鴎外先生もこつちへ歩いてみえて、
「吉井君、昨日與謝野君から手紙をもらつたよ。」と、笑ひ
ながら煙草に火をつけられる。
 勇はコップをもつたまま、例のコツで、
「さうでしたか。僕もこの頃は御無沙汰してゐるんです。」
と、極めて素朴な青年らしさをみせる。
「與謝野君は晶子さんが歌集を出すさうだから、何かかいて
くれといふんだが。」
「さうですか。何かかいてやつて下さい。お願ひします。」
「しかし僕は、今ひどく忙かしいんでね。もし君逢つたら、
うまく断つといてくれないかね。」
 さういひながら鴎外先生は杢さんと二人で、食堂の控室の
方へ入つていつてしまはれた。僕はていねいにお辞儀をした
が、一顧にも値しなかつたらしく、むろん黙殺である。
 寂しかつた。急にウイスキーががぶ飲みしたくなつた。







與謝野 与謝野寛晶子与謝野鉄幹。詩人・歌人。本名は(ひろし)。生年は1873年(明治6年)2月26日。没年は1935年(昭和10年)3月26日。新詩社を創立し、「明星」を創刊。妻晶子とともに明治浪漫主義に新時代を開きました。
晶子 与謝野晶子。よさの あきこ。歌人、作家、思想家。生年は1878年(明治11年)12月7日。没年は1942年(昭和17年)5月29日。
一顧 いっこ。ちょっと振り返って見ること。ちょっと心にとめてみること

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(9)

文学と神楽坂

 もうひとつかきそえておきたいのは例のパンの会のことである。パン
の会は僕らの青春の旗みたいなものである。野田宇太郎君の好著「パン
の会」の記述は、まことにきれいごとでけつかうだが、やはりあらゆる
芸術運動がさうであつたやうに内部的には感情の疎隔や嫉妬反ぜいがあ
つた。木下杢太郎君や石井柏亭君のやうなユニークな存在がなかつたら
あんなけんらんとした足跡を大正芸術史に残したかどうか疑がはしい。
 今思ひ出してもパンの会の帰りが凄まじかつた。みんな泥酔して深夜
の街頭を放浪して歩く。女郎屋へでもいかなけりや興奮の捨て場所がな
い。吉井勇君はその晩洲崎の遊廓へいきたがつて、味噌ッかすのぼくに
金を出せとおどかす。たつた十三銭しか残つてゐなかつたので正直にそ
つくり出すと吉井君は忽ち例の無頼漢と化していきなりぼくの手をひつ
ぱたいた。
 僕もさうさう卑屈になつてはゐられないのでやにはに彼を路上へ突き
倒して下駄でぶンなぐつた。杢太郎君がとんできてひき分けてくれる。
 いつの間にか別れ別れになつて、僕は北原白秋君と二人ッきりになつ
てしまつた。白秋は腰がぬけちまつてやたらところぶ。ころびながら
「空に真紅な雲の色」を胴間声で歌つては、おい幹彦ッ、おれを家まで
おぶつて帰れッといばりくさる。僕は唯々だくだく路傍にあつた荷車へ
彼をのせて懸命に引つぱつていつた。白秋家は神楽坂下なのでいくら若
い臂力でもそこまで曳いていけるものぢやない。途中でほッたらかして
遁げようとすると白秋はおいおい泣きだして、幹彦お前はいい奴だ、お
れを捨てるなとかじりついてきて生温い舌でぺロペロなめる。
パンの会 パン(Pan)はギリシャ神話の半獣神。明治末期の耽美派の青年芸術家グループの懇談会。反自然主義を掲げました。山本鼎・石井柏亭ら美術雑誌「方寸」の洋画家と木下杢太郎・北原白秋ら雑誌「スバル」の詩人が交流をはかりました。
野田宇太郎 野田宇太郎詩人・評論家。生年は1909年(明治42年)10月28日。没年は1984年(昭和59年)7月20日。第一詩集『北の部屋』を刊行後、上京して終戦前後期の文芸誌『新風土』『新文化』『文芸』の編集者として活躍。「文学散歩」シリーズで近代文学研究の新分野を開きました。
反ぜい はんぜい。反噬。動物が恩を忘れて、飼い主にかみつくこと。転じて、恩ある人に背きはむかうこと。恩をあだで返すこと
石井柏亭 いしい はくてい。版画家、洋画家、美術評論家。生年は1882年(明治15年)3月28日。没年は1958年(昭和33年)12月29日
けんらん 絢爛。華やかで美しい。詩歌や文章の表現が、豊富な語彙や凝った言い回しなどで美的に飾られていて、華麗な印象を与える様子。
洲崎 すさき。東京都江東区東陽一丁目の旧町名
味噌ッかす みそっかす。味噌っ滓。子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。
空に真紅…

白秋の「邪宗門」のなかにある詩です。玻璃は「はり」と読み、ガラスのことで、ガラス製の器に酒を注いだ事を意味します。またこの詩はパンの会の会歌にもなっています。

 「空に真赤な」

(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。
玻璃(はり)真赤(まつか)(さけ)(いろ)。
なんでこの()(かな)しかろ。
(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。

   明治四一年五月作
胴間声 どうまごえ。調子はずれの太く濁った下品な声。
唯々だくだく 唯唯諾諾。いいだくだく。 何事にもはいはいと従うさま。他人の言いなりになるさま
神楽坂下 神楽坂1丁目の全てと2丁目の部分。白秋はここに
臂力 ひりょく。うでの力
 僕も胸がいつぱいになつてやつと人力車を一台さがしてそれへ乗せて
帰してやつた。街燈の光で彼の財布をしらべてみると、なんと彼は三円
なにがしか隠しもつていやがるのである。車代を先払ひしてあとは僕が
ねこババきめてやつた。
 僕だつて行きどころがないのだ。そこへあひにく阪本紅蓮洞が幽霊の
やうに横町から現はれてきた。酔ひがさめてみると吉原の女郎屋の二階
で寝てゐた。夜が明けてゐる。その時分吉井君たちと女郎屋へ泊ると紅
蓮洞と版画家の伊上凡骨がいつも勘定の代りに居残りをさせられる。そ
の朝はあの老残の紅蓮洞が可哀想になつて僕自身が始末屋へさがつた。
始末屋といふのは札つきのコロンボがやつてゐる車宿のことである。勘
定不足の客には入墨をしたあんちやんがダニのやうにくッついてくる。
 僕は本郷の質屋へいつて身ぐるみぬいで八円こしらへた。学生のくせ
に親父の洋服屋をだまかしてこしらへさせた自慢の背広を店先でぬいで、
前に入れてあつた袷に着かへ革のバンドをしめてやつと家へ帰つた。 
 その晩雷門前のヨカ楼で飲んでゐると高村光太郎君と市川猿之助君に
逢つた。べろんべろんに酔つてまた吉原である。金が足りないのでワリ
床といふやつである。びとつの部屋を古屏風で仕切つて寝るのである。
夜が明けるまでカンカンガクガクの芸術論をたたかはしてゐるので、女
郎たちが怒つて、女同士で寝てしまつた。やはり今のやうにさかんにパ
リを謳歌する時代だつたが、象徴派や後期印象派の論議ばかりでキンゼ
イ報告のやうなえげつない話はしなかつた、みづみづしかつたわけであ
る。高村君はパリにゐた間この黄色い皮膚と高い頬骨が恥かしくて町が
歩けなかつたなぞといつて、エクゾティシズ厶をかきたてた。
阪本紅蓮洞 Sakamoto_Gurendoさかもと ぐれんどう。慶応出。明治・大正期の文芸評論家、放浪生活者。生年は1866年(慶応2年)9月。没年は1925年(大正14年)12月16日。のらりくらりと放浪生活に身をやつし、酒に酔っては毒舌を弄し、窮乏のうちに死亡しました。明治36年(1903年)に与謝野鉄幹が主催する新詩社に入り、鉄幹より「紅蓮洞」の名をもらいました。歌人の吉井勇を誘い出して飲み歩くようになり、数々の奇行が始まり、文壇の名物男として知れ渡るように。吉井 勇より20歳年上。
伊上凡骨 神田の木版師。中沢、三宅氏等の水彩画を版画にし、ぼかしに長じていました。
始末屋 遊里で遊興費の不足した客を引き受け勘定を取り立てる商売
ゴロンボ ごろつき、ならずもの
車宿 くるまやど。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。
ヨカ楼

高村光太郎氏が書いた「ヒウザン会とパンの会」によれば”

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、(よろい)(ばし)(わき)の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである

また、野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」で「よか楼」は

雷門前竝本通りにあつた三階建の塔のやうなレストラン

でした。細かくは東京紅團の「パンの会 -2-」で。http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm

高村光太郎 高村光太郎たかむらこうたろう。詩人・彫刻家。1883年(明治16年)3月13日 – 1956年(昭和31年)4月2日。欧米に留学。ロダンに傾倒。帰国後、「パンの会」に加わり、「スバル」に詩を発表。岸田劉生らとフュウザン会を結成。詩集「道程」「智恵子抄」「典型」、翻訳「ロダンの言葉」、彫刻に「手」など
市川猿之助 いちかわえんのすけ。2世の歌舞伎役者。1888年(明治21年)5月10日 – 1963年(昭和38年)6月12日)。劇団春秋座を結成。多くの新舞踊・新歌舞伎を上演
ワリ床 割床。ワリドコ。何人もの人が屏風などで一室を仕切って寝ること。女郎屋で廻し部屋もふさがつている時、一つの部屋を屏風で仕切つて客を入れること
エクゾティシズ厶 exoticism。現在は「エキゾチシズム」のほうがよさそうです。異国趣味、異国情緒。異国の文物に憧れを抱く心境
 僕は背広をなくしたので早稲田大学の制服をきてゐた。あの変テコな
角帽が制定されたころで、あれを文学科で真先にかぷりだしたのは猿之
助君と長谷川時雨の弟の虎太郎君と僕と三人であつた。

 酒と女では実に難行苦行したものである、谷崎潤一郎君が文化勲章を
もらひ、吉井君が芸術院会員、高村君は高名な彫刻家、みんなずゐぷん
年季を入れて古さびてしまつたもんである。
 今では名前も顔も忘れ果てたあの時分の一夜泊りの安女郎たちがもし
生きてゐたらキラ星のごときお歴々の壮観にさぞかしおッ魂消ることで
あらう。
 それにしてもあの清純そのものであつた杢太郎君の姿が最前列にみえ
ないのは何んとしてもさびしい。生きてゐたら第二の鷗外としてもては
やされたであらうのに。









長谷川時雨 長谷川時雨はせがわしぐれ。劇作家・小説家。1879年(明治12年)10月1日 – 1941年(昭和16年)8月22日。雑誌や新聞を発行して、女性の地位向上の運動を開きました。

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(4)

文学と神楽坂

 さて食堂でどんなことかあつたか、さすがに今では一々記憶して
ゐないが、秀雄は二度立つてきて、底光りのする眼でおどかすやう
に、
「おい、幹さん。金もつてないか。」と、酒くさい口でしつこくこ
だはつた。それからすぐ斜向ふで、上田先生が、自分の煙草の煙に
むせながら、ルノアールの話をしてをられたのを、はつきり覚えて
ゐる。あの角刈りの頭を横にふつて、煙草のやにで黒くなつた歯を
出してあッはッはッはッとあけッぱなしに笑はれる顔を思ひ出すと、
今でもとてもなつかしい。上田先生はなかなかの男前であつた。
 夏目先生は、一番むッつりであつた。面白くなささうな白ばッく
れた顔をして腕ぐみばかりしてをられた。『猫』のクシヤミ先生が
鼻毛をぬいてゐるかつかうそつくりである。
 鷗外先生はお酒をあがると、つやつやしたお顔になつた。細い鬚
をふるはして、感慨深さうに何かしきりに杢さんに話してをられる。
 ひよいとした拍子に、「センズリ」といふ言葉が、かなり高調子
にはつきりと先生のお口から洩れたので、一座の人たちはぎよッと
したらしかつた。さうした露骨な下品な表現は、その時分の文壇で
は許されなかつたものである。あんまり唐突であり、しかも先生は
笑ひもせずに話してをられるので、若いわれわれが聞き耳をたてた
のはむりもあるまい。
ルノアール ピエール・オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)。フランスの印象派の画家。生年は1841年2月25日。没年は1919年12月3日。
白ばッくれた しらばくれる。知っていて知らないさまを装う。しらばっくれる
センズリ 千摺り。 男性の自慰。手淫。
 だんだん伺つてゐると、やつと話の経緯がわかつてきた。何んのき
つかけからか性的事実の話題がもちあがつて、先生はつまりキンゼイ
報告のやうなものを、平気でしやべつてをられるのであつた。或ひは
軍医学上の観点から兵営に於ける兵士たちの性生活に関する()()()()
を傾けてをられるらしくも思はれた。何にしろさながら試験管中の現
象について語るごとくに、いかにも平静に、しかも科学的に、露骨な
固有名詞を用いて滔々と諭じてをられるので、私たちはうつかり笑ふ
ことも出来ない。みんな息をつめて、厳粛な顔をして傾聴してゐた。
 その中で今でも覚えてゐるのは、某師範学校の女子部の寄宿舎にお
ける夜中の自瀆行為の描写であつた。若い女教員の卵たちが性慾の悩
みにたへかねて、いろんな不自然な行為をするのが、私たちの好奇心
を極度にそそつた。深夜突如、非常呼集をやつて、女学生たちのベッ
トを一々視察してみたら、実に意外な性器具を発見した。なかでも一
番傑作だつたのは、宵のうちに校外から焼芋をかつてきて、さんざ食
ひ散らかしたあげく、そのあまりをつぶして、克明にコンドームヘつ
め、それを体温で温めて用いてゐたといふ実例である。
 夏目先生もその話の時はくすくす笑つてをられた。腕組が一層堅つ
くるしくなつた。
「どうも、手数のかかつた、浅間しいことをやるもんだなあ。」と、
感嘆してをられたが、それは数の少い発言の中の一番出色のものであ
つた。その晩は夏目先生の、胆汁質な、対抗意識みたいなものばかり、
僕はみせつけられた。
キンゼイ報告 米国の動物学者キンゼイ(A.C.Kinsey)が全米の男女を対象に行った性行動に関する調査の報告書。1948年に男性編、53年に女性編を発表。Sexual Behavior in the Human Male。キンゼイ報告はまだこの時代では発表されていないので、「ようなもの」なのです。
うんちく 蘊蓄。薀蓄。蓄えた深い学問や知識。
滔々 とうとう。次から次へとよどみなく話すさま
堅苦しい かたくるしい。気楽なところがなくて窮屈
 上田先生は知らん顔で、誰れかと巴里のオペラの話をしてを
られた。先生のとこまでは聞えなかつたらしい。
 誰れだつたか、へうきんな調子で、
「ねえ、先生。僕がきいたところでは、電燈のグローブなんか
も用ゐるさうですね。」
 鷗外先生は尢もらしく鬚をひねるかつかうをしながら、
「いや、それは何処でもやるらしいね。敬天堂病院の医員にき
くと、一遍腟内で破裂して早速手術をしたんだが、手術が不成
功に終つてたうとう死んだといふ実例もあるさうだよ。」
「いよいよもつて、浅間しき限りですね。」
「腟内で粉々に破裂したんぢや処置なしだよ。危いことをやる
もんさ。」
 それから性病の話になつて、モウパッサン脳梅毒の話にま
で発展していつた。勇はしかめッ面をして、わざと大向うめあ
てに、
「われわれも慎しむべきだなア。」なんて、場あたりめかしい
ことをのめのめといつて、わあッと皆を笑はせる。
 と鴎外先生は、
「ほんとに気をつけないといかんよ。吉井君なんざその方にか
けちや猛者中の猛者だからなあ。長田秀雄君の『歓楽の鬼』の
テーマもそれだからな。」
 秀雄は盃をふくみながらジロリと僕の方を睨んだ。
胆汁質 ヒポクラテスの体液説に基づく気質の4分類の一。激情的で怒りっぽく攻撃的な気質。胆液質。
パリ フランス共和国の首都。パリ盆地の中心にあり、セーヌ川が貫流。川中島のシテ島を中心に同心円状に発展。
グローブ globe。電灯の光をやわらかく広く散らすための、ガラスなどで作った球状の覆い。
モーパッサン アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant)。フランスの自然主義の作家、劇作家、詩人。生年は1850年8月5日。没年は1893年7月6日。先天性と後天性梅毒があったと考えています。
脳梅毒 梅毒第三期に主として神経系がおかされた状態。
歓楽の鬼 明治43年、長田秀雄はイプセンの影響を受けて戯曲「歓楽の鬼」を発表、 翌年小山内薫の自由劇場で上演、新進劇作家として注目されました。「歓楽の鬼」の主人公は洋行したパリで性病になりますが、この時代では脳梅毒などが大きな原因でした。
 小山内薫氏が自由劇場で演出した兄貴のあの有名な『歓楽の鬼』は、今だ
から白状するけれど、あれは実は僕がかいたものなのである。僕は一生懸命
に苦心をして、脳梅毒の末期の患者を主題として、『暗い血の谿谷』といふ
ひと幕ものの習作をかいてゐた。僕がそれを朗読して聞かせると、兄貴はド
ラマツルギーとしては成つてゐないなぞと、酔つぱらつてさんざんコキ下ろ
したくせに、いつの間にかその原稿が僕の机の抽出からふつと姿を消してし
まつた。
 兄貴の『歓楽の鬼』は、三田文学に掲載されたものである。兄貴は度はづ
れの怠けものなので、折角三田文学から執筆を頼まれてゐながら、どうして
も締切に間に合はない。そこで苦しまぎれに僕の『暗い血の谿谷』を『歓楽
の鬼』と改題して、僕に断りもしないで「三田文学」へ送つたわけである。
むろん自己流にだいぶ手は入れてあつたが、台詞なんか、利きぜりふは僕の
ほとんどそのままそつくり使つてゐた。しかしさすがに兄貴だけあつて、幕
切れなんかあの通り、実にうまく改作してあつた。
 後年小山内薫氏が僕のことを罵倒して秀さんは『歓楽の鬼』をかいてすぐ
れた芸術的純粋さを示したが、幹さんは依然としてセンチメンタルメロド
ラマチストだと面と向つて僕を批難したのには、まことに恐入つた。それ以
来僕は批評家といふものを心から信じることか出来なくなつたのである。
 それからも秀雄は僕のものでしばしば原稿料をかせいだ。第二次世界大戦
の初まる頃まで兄弟義絶して、十数年間遂にお互に仲直りをしなかつたのも、
兄貴のあまりにも放埒な破廉恥な所業が原因をなしてゐるのである。兄貴は
自分の債務のためにしばしば僕の家へまで執達吏をよこした。僕は肉親を超
えた芸術家として兄貴の背徳行為を今でもいいことだとは思つてゐない。
自由劇場 2世市川左団次と小山内薫が主宰。 1909年11月イプセン作の『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を有楽座で2日間試演。10年間に9回の公演と試演を断続的に行い、日本の新興脚本や新興演劇術のために一つの道を開いた。
ドラマツルギー 戯曲の創作や構成についての技法。作劇法。戯曲作法。演劇に関する理論・法則・批評などの総称。演劇論。
抽出 ひきだし。引き出し、引出し、抽き出し、抽斗。たんす・机などの,物をしまっておくための抜き差しできるようになっている箱。
三田文学 文芸雑誌。 1910年5月創刊。森鴎外、上田敏の斡旋で新帰朝の永井荷風を慶應義塾大学教授に迎え、同大学文科の発展を期して創刊された。
利きぜりふ 普通の会話、リアルな言葉のやり取りの中に、金言や格言のようなセリフを入れること
センチメンタル 感じやすく涙もろい。感傷的
メロドラマチスト メロドラマとは音楽の伴奏が入る娯楽的な大衆演劇から、今日では、通俗的、感傷的な演劇、映画、テレビドラマなど。メロドラマチストはその作者、演者など
債務 借金を返すべき義務。
執達吏 執行官の旧称。国の代理人として、強制執行の具体的作業を取り仕切る人
 だから故久米正雄氏が、「新潮」にかかれた『文壇会合史』なるも
のをよんだ時には、ひそかに哄笑するより外はなかつた。世の中には
裏の裏までみぬく人はないものである。僕は久米氏に「不徳のいたす
ところ」などとまるで筋遠ひなことをいはれても、いささかも俯仰天
地恥ぢない。通俗作家が不道徳で純文芸の作家はみんな清節の士のや
うにいつたあの時分のヘナチョコなヒロイズムほどあべこべに文壇を
毒したものはあるまい。『会合史』は僕に関する限り相当出鱈目なも
のであることを、数々の資料によつて実証することが出来る。














久米正雄 久米正雄小説家・劇作家。生年は1891年(明治24年)11月23日。没年は1952年(昭和27年)3月1日。第三、四次「新思潮」同人。のち感傷的作風の通俗小説に転じ流行作家となりました。
新潮 佐藤義亮が新潮社を興し、1904年、『新潮』は創刊。100年以上も続いています。
文壇会合史 『微苦笑随筆』という本の「文士會合史」を読んでいますが、この「文士會合史」では「不徳のいたすところ」と話す場面はありません。おなじ通俗作家とレッテルを張られた人同士、久米正雄氏が長田幹彦について話すときに、あまり悪意は感じられません。
哄笑 こうしょう。大口をあけて笑う。どっと大声で笑う。
俯仰天地… ふぎょうてんちにはじず。俯仰天地に愧じず。孟子の言葉で「かえりみて、自分の心や行動に少しもやましい点がない」

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂