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大正期の神楽坂通り(写真)

文学と神楽坂

 1枚の写真があります。大正から昭和に撮られたものですが、店舗などは全くわかりません。インターネットではこの写真を2人があげていますが、出典を書く人ではない人もあり、結局わかりませんでした。不明のまま来たのですが、しかし、見つけました。新宿区教育委員会「新宿と文化」(昭和43年)の5頁です。

 しかし、これでは解像度は悪い。原典を探しましょう。で、探しました。原典は野沢寛著「写真・東京の今昔」(昭和30年、再建社)でした。中古でも綺麗な本で、60年以上経っているとは考えられない本です。
 この写真の右端は切れています。「写真・東京の今昔」の写真は全く小さくなってはいないので、写真の原典の原典があり、「新宿と文化」の原典と「写真・東京の今昔」の原典はわずかに違っているようです。しかし、この原典の原典は国立国会図書館のコピーしかなく、解像度は悪いと予想され、ここで諦めました。

「写真・東京の今昔」の註は「神楽坂。明治40年版の『東京案内』に、『区内に於ける最も繁昌の地なり』とあるが、この写真はその頃の神楽坂で、繁昌の度合が今日とは大分ちがうようである」と書いてあります。
 では、写真の詳細を見ましょう。最初は「名産 支那 甘栗」「一粒撰 風味絶佳」「々軒」「中華名産甘栗 来々軒」。
 来々軒が甘栗を売っているんだとわかります。「絶佳」は「ぜっか」で、「すぐれていて、形が整い美しいこと」
 古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」(昭和45年、新宿区教育委員会)では来々軒という中華料理はありません。でも、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市 神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では山本甘栗店がでています。昭和5年にはあったのです。

 次の2店です。「西洋〇〇〇」の大きな文字の下に「〇月〇」のおそらく店名があります。次の店名には「雑誌」と書いてあります。

 さらに奥に行くと「金物製造」と書かれているようです。武を〇で囲んだような文字もあります。

 では反対側は「タングス電球」が見えます。

 以上で手がかりは全てです。野沢寛著「写真・東京の今昔」では大正12年3月にこの写真は出たと書かれています。これから神楽坂2丁目にあるとしか考えられません。登っている場所は神楽坂2丁目か3丁目でしかなく、まず2丁目です。甘栗は昭和5年でしか売られていません。また、雑誌と金物が2つ並んで売っているのは大正11年から昭和5年ぐらい。
 こういったことを考えて、2丁目でも最も急になった坂道の直前にカメラをおいて撮ったものだと思います。

昭和5年は岡崎公一「神楽坂と縁日市」新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)から。大正11年は古老の記憶による関東大震災前の形『神楽坂界隈の変遷』(昭和45年)から

神楽坂2丁目(2021/5/14)

小品『草あやめ』①|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花作「草あやめ」(明治36年)の最初の1節です。当時の神楽坂2丁目の様子がわかります。まだこの辺りは華街にはなっていなかったのですね。

 二丁目にちやうめ借家しやくや地主ぢぬし江戸兒えどつこにて露地ろぢとざさず裏町うらまち木戸きどには無用むようものるべからずとかたごとしるしたれど、表門おもてもんにはとびらさへなく、けても通行勝手つうかうかつてなり。たゞ知己ちかづきひととほけ、世話せわもを素通すどほ無用むようたること、おもひかはらずりながら附合つきあひ五六けん美人びじんなきにしもあらずといへどみだり垣間見かいまみゆるさず、のき御神燈ごしんとうかげなく、おく三味さみきこゆるたぐひにあらざるもつて、頬被ほゝかぶり懐手ふところで湯上ゆあがりのかた置手拭おきてぬぐひなどの如何いかゞはしき姿すがたみとめず、華主とくいまはりの豆府屋とうふや八百屋やほや魚屋さかなや油屋あぶらや出入しゆつにふするのみ。
[現代語訳] 二丁目の私の借家の地主は、江戸っ子であり、門などは閉めない。裏町の木戸には無用の者は入ってはいけないと型どおりに書いている。しかし、表門を見ると、扉はなく、夜が更けても誰でも勝手に通行できる。ただし、近くの人の通り抜けはよくない。一般的な言葉を使うと、素通り、つまり、立ち寄らずに通り過ぎる人は、いらないと私は考えている。
お付き合いした五六軒を見ると、美人もいるが、やはり、みだりにのぞき見はいけない。待合のように提灯はかかっておらず、奥には三味線の音も聞こえてこない。さらに、ほおかぶり、懐手、湯上りの肩に置手拭といったいかがわしい姿もない。あるのは、得意客を回る豆腐屋、八百屋、魚屋、油屋が出入する音だけだ。

二丁目 神楽坂2丁目22番地のこと。泉鏡花は明治36年から39年まで、ここを借りていました。
露地を鎖さず 「ろじをとざさず」。露地は覆いがない土地。これを戸・門などでしめない。
通行勝手 勝手に通行できる。
素通り 立ち寄らずに通り過ぎる。
かはらず 変わらず。変わることないが。そう考えているが。
お附合 「お付き合い」。人と交際すること
美人なきにしもあらず 「なきにしもあらず」とは「無きにしも非ず」。ないわけではない。美人ではないわけではないが
垣間見 間からからこっそり見ること。のぞき見。
御神燈 芸者屋などで縁起をかついで戸口につるした提灯。
三味の音 芸者さんは午前中から三味線の練習をしました。
類にあらざる 同類ではない。似ていない。芸者さんとかは来ていない。
頬被 手ぬぐいなどで頭から頰にかけて包み、顎のあたりで結ぶこと。
懐手 手を袖から出さずに懐に入れていること。傍観者の立場という感じでしょうか
置手拭 手ぬぐいを畳んで、頭や肩にのせること
如何はしき いかがわしい。怪しげだ。疑わしい
豆府屋 行商の豆腐屋はラッパを鳴いて売り歩いていました。行商の八百屋、魚屋、油屋もありました。

 あさまだき納豆賣なつとううり近所きんじよ小學せうがくかよをさなが、近路ちかみちなればいつたもとつらねてとほる。おはなやおはな撫子なでしこはな矢車やぐるま花賣はなうりつき朔日ついたち十五日じふごにちには二人ふたり三人さんにんくなり。やがて足駄あしだ齒入はいれ鋏磨はさみとぎ紅梅こうばい井戸端ゐどばた砥石といしゑ、木槿むくげ垣根かきね天秤てんびんろす。目黑めぐろ(たけのこ)うりあめみの若柳わかやなぎ臺所だいどころのぞくもゆかや。
[現代語訳] 早朝、納豆を売る人が出てくる。近所の小学校に通う幼児も近道をとおり、五人や六人、一緒に歩いている。お花を売る姿も見える。撫子の花や矢車の花を売り、月の一日や十五日になると、二人三人呼びあって、皆で買うようだ。やがて行商の足駄の歯入やハサミ研ぎが出てくる。紅梅の井戸端に砥石をそろえ、木槿の垣根に天秤を下ろす。目黒の筍売屋は雨の日に蓑を着て、若い女性が台所にいるのを見ている。これもいい感じだ。

朝まだき 早朝
小学 竹内小学校です。場所はここ。明治20年の地図ではここ。平成9年の『ここは牛込、神楽坂』第4号16頁によれば、「『近所の小学』というのは、現在、東京理科大学の一部になっている所にあった私立竹内小学校のことで、公立の津久戸小学校が創立されるまで、付近の子供たちはほとんど、ここに通っていたと聞きました」と書いてあります。実は津久戸小学校ができてもただちに竹内小学校が消えたのではなさそうです。津久戸小学校が作られたのは明治37(1904)年4月。ほぼ20年後の大正11(1922)年になっても、東京逓信局編纂『東京市牛込区』では、この2つの小学校は依然同時にあります。大正12年、関東大震災が起こり、それから、ようやく昭和5(1930)年には竹内小学校は消えています。また、昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ると、私立竹内小学校はかなり大きな敷地を占めていました(下図)。

竹内小学校

上は津久戸小学校。下は竹内小学校。

古老の記憶による関東大震災前の形
現在は理科大のキャンパスです。竹内小学校
幼き おさなき。年齢がごく若い。未熟だ。
袂を連ねて 袂とは和服の袖付けから下の、袋のように垂れた部分。袂を連ねる人と行動を共にする。
撫子 なでしこ。ナデシコ科の多年草。
矢車 やぐるまぎく。キク科の一年草。
足駄 あしだ。下駄の一種。東日本では歯の高い差歯(さしば)の下駄をアシダと呼んでいる。
歯入 はいれ。下駄の歯を入れ換えること。その職業。
鋏磨 ハサミ研ぎ。
紅梅 こうばい。ウメのこと。
木槿 ムクゲ。アオイ科の落葉低木。写真は左からなでしこ、やぐるまぎく、むくげ 藁(わら)を編んで作られた雨具の一種。
若柳 若い柳。ここは美人のことだと思います。たとえば、柳眉とは柳の葉のように細く美しい美人の眉をさします。同じではないでしょうか。
床し 気品・情趣などがある。

加能作次郎|作家

文学と神楽坂

加能作次郎2 加能(かのう)作次郎(さくじろう)は1885年(明治18年)生まれ。 日本の小説家、評論家、翻訳家。石川県志賀町出身。

 早稲田大学文学部英文科を卒業した後、博文館に入社し、『文章世界』の主筆として翻訳や文芸時評を発表。1918年(大正7年)に私小説「世の中へ」で認められ、著作家として活躍。1940年(昭和15年)、「乳の匂ひ」を発表。1941年(昭和16年)、クループ性急性肺炎のために享年満56歳で死去。

 なんと言っても、氏の『早稲田神楽坂』で一部の人には有名です。一部の人というのは神楽坂や早稲田を色々読んでいる人のこと。『早稲田神楽坂』は、1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」の一部で、作者の年齢は42歳でした。

『詩人』|金子光晴

文学と神楽坂

金子光晴

 金子かねこ光晴みつはるは、詩人で、暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科も東京美術学校日本画科も慶應義塾大学文学部予科もすべて中退です。
 生年は1895年(明治28年)12月25日。没年は1975年(昭和50年)6月30日で79歳。

 大正10(1921)年1月末(満25歳)に欧州から日本に帰国しました。

 しかし、ぼつぼつと、友人達と再会の顔を合わせ、むかしの生活がまたじぶんのものとして戻ってくるような思いになっていった。送別会をやってくれた時の、ほぼおなじ連中が、歓迎会をしてくれた。その歓迎会は、やはり、神田の牛肉屋だった。福士幸次郎が、サトウ・ハチローをつれてきていた。ハチローはまだ十八歳の少年で、赤いジャケツを着て、神妙にひかえていた。メンバーは、惣之助富田佐佐木茂索平野威馬雄井上康文中条辰夫等で、その人たちの顔をみて僕は、はじめて、本当に日本へかえってきたなと納得した。

    処女詩集の頃

 歓迎会がすんでから、福士、富川、井上、サトウの四人といっしょに、神田の牛肉屋から、九段坂をあがって、牛込見附に出て、神楽坂から赤城元町の家まであるいた。二階の八畳で五人は、殆ど夜通ししゃべってから、ゴロ寝をした。彼らは僕がヨーロッパで、どんなしごとをしてきたかに、多少の興味があるらしかった。僕は、蒐集品でもこっそりみせるように、『こがね蟲』のノート、まだ推敲の余地のたくさんのこっている一冊を、富田にみせた。まだ『こがね蟲』という題名はなく、紺色の裏紙の二百枚位を綴ったノートだった。富田は、しばらくそれをみていたが、
「こりゃあ、君、アルベール・サマンじゃないか。福士君にみせた方がいい」
と言って福士にわたした。社会詩人の富川の心では、間男の子が生れたようなあて外れだったのだろう。『太陽の子』で社会詩人とも有縁(うえん)におもわれていた福士は、丁度、その頃から、フランス伝統派の批評家ブルンティエールに傾倒しはじめていて、僕の『赤土の家』には不満だったので、富田から渡された詩稿を、はじめは迷惑そうに手にとってめくっていたが、そのうち、一人、横の方へ行って熱心によみはじめた。
「金子君、これは、もう一度ゆっくりよませてもらいたいから、一日貸して……」(中略)
 一日おいて、福士は、ハチローをつれて、僕一人のところへまたあらわれた。
「この詩は、君、すばらしいよ。日本でははじめての試みだとおもう。富田君は、サマンと言ったが、サマンじゃない。手法は、パルナシアンだと思う」
 福士はさすがに目がたかかった。僕のパルナシアン巡歴の痕跡をみぬいていた。


送別会 1918(大正7)年12月、養父の友人とともに欧州遊学に旅立ちました。
歓迎会 大正10年1月末に欧州から帰国。
神田の牛肉屋 神田「今文」で開催。「今文」は小川町通りのすき焼料亭で、1990年頃までは店は続きますが、諸事情で閉店に
惣之助 佐藤惣之助(そうのすけ)。生年1890年12月3日。没年1942年5月15日。詩人、作詞家。古賀政男と組み、多くの楽曲も
富田 富田(とみた)砕花(さいか)。生年1890(明治23年)年11月15日。没年1984年10月17日。詩人、歌人。大正詩壇で社会主義に傾き民衆詩派の詩人として活躍
平野威馬雄 ひらのいまお。生年1900年(明治33年)5月5日。没年1986年(昭和61年)11月11日。詩人・フランス文学者。たジャン・アンリ・ファーブル関係の著作を翻訳
井上康文 いのうえやすぶみ。生年1897(明治30)年6月20日。没年1973年。詩人。大正7年、福田正夫の「民衆」に参加、主要同人として編集を担当。「新詩人」「詩集」「自由詩」を創刊。
中条辰夫 日比谷図書館児童部に勤務。生没年不明。
九段坂 くだんざか。九段下交差点から靖国神社の南側に上る坂
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。牛込見附は江戸城の城門の1つを指しますが、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができるとその駅(停留所)も指し、さらにこの一帯の場所も牛込見附と呼びました。
神楽坂 東京都新宿区で早稲田通りの一部。外堀通りの「神楽坂下」交差点から、大久保通りの「神楽坂上」交差点を通って、神楽坂6丁目に至る坂
赤城元町 東京都新宿区の町名。

「神田の牛肉屋から、九段坂をあがって、牛込見附に出て、神楽坂から赤城元町の家まであるいた」。書いて見ました。40分ぐらいはかかりますが、地下鉄もタクシーもまだない明治時代の人はこれぐらいは簡単に歩けます。

神田から赤城元町に

神田から赤城元町に

こがね蟲 1922(大正11)年3月、ベルギーで書きためた詩を推敲し、翌年7月、詩集『こがね蟲』を出版。
アルベール・サマン Albert Samain。1858年、フランス生まれ。象徴派の詩人。繊細な詩風
有縁 互いに関係のあること
ブルンティエール ブリュンティエール。Ferdinand Brunetière。1849~1906。フランスの批評家・文学史家。自然主義・印象主義には否定的。
パルナシアン Parnassiens。高踏派。ロマン主義の自意識過剰な抒情性に対して、唯美主義的で形象美と技巧を重んずる



サトウハチロー|木々高太郞など

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。右端は神楽坂上から左端は早稲田(神楽坂)通りと牛込中央通りの交差点までにあった店や友人の話です。推理小説の大家、木々高太郞もこのどこかに住んでいたようです。まずサトウハチローの話を聞きましょう。

 (さかな)(まち)電車通りを越して、ロシア菓子ヴィクトリア(よこ)(ちょう)を入ったところに昔は大弓場だいきゅうじょうがあった。新潮社の大支配人、中根駒十郎大人(たいじん)が、よくこゝで引いていた。僕も少しその道の心得があるので弓で仲良くなって詩集でも出してもらおうかと、よく一緒に()()をしぼった。弓はうまくなったが詩集は出してもらえなかッた。ロシア菓子の前に東電(とうでん)がある。神楽(かぐら)(ざか)の東電と書いてある、お手のものゝイルミネーションが、家の前面(ぜんめん)いっぱいについている。その(うち)で電球のないところが七ヶ所ある。かぞえてみる()()もないだろうが、何となくさびしいから、おとりつけ下さいまし。郵便局を右に見てずッと行く。教会がある。その先に、ちと古めかしき(あゝものは言いようですぞ)洋館、林病院とある。院長林熊男とある。僕はこゝで林熊男氏の話をするつもりではない。その息子さん林(たかし)こと木々(きぎ)(たか)()(ろう)の話をするつもりである。この病院の表側の真ン中の部屋に、その昔の木々高太郎はいたのである。ケイオーの医科の学生だった、万巻の書を(ぞう)していた。僕たちは金が必要になると彼のところへ出かけて行ってなるべく高そうな画集を借りた。レムブラントも、ブレークも、セザンヌもゴヤも、こうして彼の本箱から消えて行った。人のよい木々博士(はかせ)は(そのころは博士じゃない、また博士になるとも思っていなかった)その画集が、どういう運命をたどるかは知っていながら、ニコニコとして渡してくれた。僕たちは(なぜ複数で言うか、いくらか傷む心持ちが楽だからである)それをかついで岩戸(いわと)(まち)竹中書店へ行った。肴町から若松町のほうへ十二、三げん行った右側だ。竹中のおやじから金を受けとると、おゝ一、新(もう言わなくともよかろう)……木々高太郎博士の温顔おんがんを胸に浮かべつゝ、早稲田へと向かう。

肴町 現在、肴町は神楽坂5丁目に変わりました。
電車通り 昔は市電(都電)が通っていました。現在の大久保通り。
ロシア菓子ヴィクトリア どこにあったのか、不明です。
 岡崎弘と河合慶子が書いた『ここは牛込、神楽坂』第18号の「神楽坂昔がたり 遊び場だった『寺内』」は下図までつくってあり、明治時代の非常に良く出来たガイドなのですが、これをよく読んでもわかりません。本文で出てくる「ロシア菓子ヴィクトリアの横町」は「成金横町」でしょう。成金横町の入り口は向かって左の明治時代はタビヤ(足袋屋か)、現在は和菓子の「菓匠清閑院」、右の現在はポストカードなどを売る「神楽坂志葉」です。
 また『ここは牛込、神楽坂』第3号の西田照見氏が書いた「小日向台、神楽坂界隈の思い出」では

 洋菓子は(パン屋にあるカステラ程度のもの以外では)神楽坂の『ヴィクトリア』(東西線を少し東へ下ったあたりの南側)まで行かねばなりませんでした。小日向台へ配達もしてくれました。『ヴィクトリア』の並びに、三越本店の写真部に勤めていたヴェテランがはじめた「松兼」という、気のきいた写真屋がありましたが、いずれも戦災で姿を消しました。

松兼はタビヤ(足袋屋なのでしょう)とカンコーバ(勧工場でしょう)の間の「シャシン」でしょうか。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」では

山下さん 六丁目の本屋っていうのは、やっぱり白十字か何かなかったですか? あのへんに何か。
馬場さん あそこには「ビクトリア」っていうロシア菓子屋があった。

この六丁目の本屋さんは「文悠」(神楽坂6丁目8、「よしや」の東)です。これがロシア菓子ヴィクトリアだったのでしょうか。下の地図では「カンコーバ(文明館)」(現在は「よしや」)と「シャシン」(現在は「とんかつ大野」)との間に「ロシア菓子ヴィクトリア」が入ることになります。

神楽坂6丁目
大弓場 この『ここは牛込、神楽坂』第18号で大弓場は出てきます。ただし、簡単に
岡崎氏:成金横丁の白銀町の出口に大弓場があったね。
だけです。しかしこの上図には絵がついているのでよくわかります。
東電 東京電力。どこにあるのか、消えてしまって、不明です。本文の「ロシア菓子の前に東電がある」からすると、東京電力はおそらく神楽坂通りの南側で、向かって左は布団などを売る「うらしま」、右は美容室「イグレッグパリ」です。
郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば

 矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。

となっています。郵便局の記号は丸印の中に〒です。下の地図「昭和16年の矢来町」ではさらに赤い丸で囲んであります。

昭和16年の矢来町

昭和16年の矢来町

教会 教会の場所は上の地図では青緑の四角で示しています。「牛込誓欽会」と書いているのでしょうか。
林病院 昭和12年の「火災保険特殊地図」で「林医院」がありました。林医院は矢来町124番(赤い四角でした。別の地図2葉もありました。東西に延びる「矢来の通り」と南に延びる「牛込中央通り」に接し、現在では「マクドナルド 神楽坂駅前店」から「Family Mart」になっています。

林医院

昭和5年「牛込区全図」

林医院

昭和12年「火災保険特殊地図」

木々高太郞

「マクドナルド 神楽坂駅前店」。現在は「Family Mart」。左手の先は地下鉄「神楽坂駅」

木々高太郞 推理小説家です。大正13年、慶応医学部を卒業。昭和4年、慶応医学部助教授となり、7年、条件反射で有名なパブロフのもとに留学。9年、最初の探偵小説『網膜脈視症』を「新青年」に発表。10年、日本大学専門部の生理学の教授になり、さらに、11年、最初の長編『人生の阿呆』を連載し、昭和12年2月、これで第4回直木賞を受賞。昭和21年、慶応医学部教授になります。
竹中書店 これも『ここは牛込、神楽坂』第18号に出ています。地図は一番上の図、つまり、大弓場と同じ地図に出ています。また『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。木々高太郞全集6「随筆・詩・戯曲ほか」(朝日新聞社)の作品解説で詩人の金子光晴氏は

 僕の住んでいた赤城元町十一番地、(新宿区牛込)と林君の家とは、ほんの一またぎだった。おなじ「楽園」(同人雑誌)の仲間でしげしげとゆききをしたのは林君だったのも、その家が近いという理由が大きかった。それにしても、一日二日と顔を合せないと、落しものがあるように淋しかった。そのくせ、僕と林君とは、意見やその他のことが一つというわけではなかった。「楽園」の責任者は僕だったが、もともとは、福士幸次郎のはじめた雑誌だった。福士の友人が、義理で後援者ということになっていた。広津和郎や、宇野浩二斎藤寛加藤武雄などいろいろ居たが、いちばん近いところに増田篤夫がいた。増田と福士はもともと、三富火の鳥のグループにいた。「楽園」の若い同人たちは、福士派と増田派と、どちらにも親しい人とがいたが、林君は屈託のない人で、そのどちらにも親しい人に属していた。しかし、今度、林君の詩の韻律についての克明な仕事をみて、同人中で福士幸次郎にうちこんで、その仕事の熱心な祖述者であった人は、林君ともう一人佐藤一英君ぐらいであることを知って、いまさらのように僕はおどろいている。

赤城元町11番地 この場所は上図(相当上の図です)の「昭和16年の矢来町」の青紫の四角で書きました。確かに「ほんの一またぎ」で来ます。
斎藤寛 さいとう ひろし(あるいは、かん、ゆたか)。雅号は斎藤青雨。詳細は不明。
加藤武雄 かとう たけお。1888年(明治21年)5月3日~1956年9月1日。小説家
増田篤夫 ますだ あつお。1891(明治24年)年4月9日~1936年2月26日。詩集を遺さなかった詩人。
佐藤一英 さとう いちえい。1899年(明治32年)10月13日~1979年(昭和54年)8月24日。詩人
岩戸町 現在も同じ岩戸町です。

泉鏡花|南榎町

文学と神楽坂

 泉鏡花(みなみ)(えのき)(ちょう)に住んでいたことがあります。寺木定芳氏が書いた『人・泉鏡花』(昭和18年、再販は日本図書センター、1983年)では

大塚から牛込の南榎町に居を移したのは、たしか明治三十四年頃だったと思ふ。今は家が建てこんで到底其の面影もないが、その家は町の名の如き大榎が立ちこめて、是が東京市内の牛込區かと疑はれる程、樹木鬱蒼、野草蓬々、荒れに荒れた、猶暗い、古寺の荒庭のやうな土地に圍まれたすさみきつた淋しい二階家で、上下三間か四間の小い古びた家だつた。六疊の二階が先生の書斎で、下の六疊が令弟斜汀君の居間になつてゐた。
来客があまり多くて仕事の出來ない時なぞは、よく紅葉山人が、此の二階に來て仕事をしてゐた。又時に同門の面々や師匠も交つて、句會なぞを催した事も多く、壁に紅葉、鏡花、風葉春葉なぞの寄せ書きの樂書きなども殘つてゐた。此のおどろおどろした境地で、かの神韻渺茫たる『高野聖』や『袖屏風』『註文帳』などが物されたのだつた。同時に妖艶読む目もあやな『湯島詣』なども此時代の作物だつた。

大榎 おおえのき。ニレ科エノキ属の落葉高木
鬱蒼 うっそう。樹木が茂ってあたりが薄暗いさま。
蓬々 ほうほう。草木の葉などが勢いよく茂っているさま。
 昼の旧字体。
鬱蒼 うっそう。樹木が茂ってあたりが薄暗いさま。
神韻 しんいん。芸術作品などの人間の作ったものとは思われないようなすぐれた趣。
渺茫 びょうぼう。遠くはるかな。広く果てしないさま
高野聖 こうやひじり。泉鏡花の短編小説。泉鏡花の代表的作品の一つで幻想小説の名作。当時28歳の鏡花の小説家としての地歩を築いた出世作。高野山の旅僧が旅の途中に道連れとなった若者に、自分がかつて体験した不思議な怪奇譚を聞かせる物語。蛇と山蛭の山路を切り抜け、妖艶な美女の住む孤家にたどり着いた僧侶の体験した非現実的な幽玄世界が、豊かな語彙と鏡花独特の文体で綴られていました。
袖屏風 そでびょうぶ。泉鏡花の短編小説。占い師と観世物と娘の物語。
註文帳 泉鏡花の短編小説。無理心中を果たせず一人死んだ遊女の怨霊が、研ぎたての剃刀にとりついて起こる雪の夜の惨劇。
妖艶 あでやかで美しい。人を惑わすようなあやしい美しさ。
あや 物の表面に表れたいろいろの形・色合い、模様。言葉や文章の飾った言い回し。表面上は分かりにくい入り組んだ仕組み。
湯島詣 泉鏡花の小説。芸者蝶吉が主人公。華族の令嬢を妻にした青年神月梓を配し、梓が狂人となった蝶吉とついに心中するというお話。

泉鏡花。南榎町。

泉鏡花。南榎町。2014年7月

新宿区文化登録史跡も出ています。

新宿区登録史跡 (いずみ)鏡花(きょうか)(きゅう)(きょ)(あと)

所在地 新宿区南榎町二十二番地
登録年月日 平成七年二月三日


 このあたりは、明治から昭和初期にかけて、日本文学に大きな業績を残した小説家泉鏡花が、明治三十二年(一八九九)から四年間住んでいたところである。
 鏡花は本名を鏡太郎といい、明治六年(一八七三)石川県金沢市に生れた。十六歳の頃より尾崎紅葉に傾倒し、翌年小説家を志し上京、紅葉宅(旧居跡は新宿区指定史跡・横寺町四十七)で玄関番をするなどして師事した。
 この地では、代表作『湯島詣』『高野聖』などが発表された。鏡花はこのあと明治三十六年(一九〇三)に神楽坂に転居するが、『湯島詣』はのちに夫人となった神楽坂の芸妓によって知った花街を題材としており、新宿とゆかりの深い作品である。
  平成七年三月

東京都新宿区教育委員会

ヌエットと泉鏡花

文学と神楽坂

『婦系図』などの作者、泉鏡花氏は明治32(1899)年秋から明治36(1903)年2月、(みなみ)(えのき)(ちょう)に住んでいたことがあります。

 泉鏡花氏が南榎町22に住んだ約50年後、詩人兼画家のノエル・ヌエット氏は、1952年(67歳)、()(らい)町の小さな家に住み、1961年(76歳)、フランスに戻るまで住んでいました。ヌエット氏は神楽坂の寺内公園で一部の人に有名な版画『神楽坂』を作っています。

 えっ、どこにつながりがあるの。実はこの二人の家、非常に近いのです。

ヌエットと泉鏡花 地図は昭和5年「牛込區全圖」から

ヌエットと泉鏡花 地図は昭和5年「牛込區全圖」から

 左の小さい22番は泉鏡花氏の家で、右の大きい12番はヌエット氏などの数軒がありました。

 南榎町22は江戸時代には「御先手同心大縄地」と呼ばれていました。ここで「(ご )(せん)(て )」とは先頭を進む軍隊、先陣、先鋒のことで、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤め、平時は江戸城の各門の警備、将軍外出時の警護、江戸城下の治安維持等を務めました。「同心」は江戸幕府の下級役人のこと。「(おお)(なわ)(ち )」とは与力や同心などの拝領地のことで、敷地内の細かい区分ではなく一括して一区画の屋敷を与え、大縄は同役仲間で分けることで、その屋敷地を大縄地と呼びました。今の公務員団地。これを明治政府はまた細分化したので、この場所には小さな小さな家がたくさん建っています。

 一方、矢来町12は明治時代では「矢来町3番地 (あざ) 山里」と呼ばれました。「山里」は庭園の跡があるという意味ですが、実際には江戸時代にはこの場所では酒井家の武士が住んでいました。



都館|文士が多し

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。話は牛込区の(みやこ)館支店という下宿屋で、サトウハチロー氏が都館に住んでいた宇野浩二氏を崇拝していたと言っています。

牛込郷愁(ノスタルジヤ)
 牛込牛込館の向こう隣に、都館(みやこかん)支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈(けんとう)をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論(もちろん)原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「(これ)を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎(たにざき)精二(せいじ)さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬(そうま)泰三(たいぞう)さんは、襟足(えりあし)へいつも毛をはやしていた、廣津(ひろつ)さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌(こづち)を腰へぶらさげて、その批評家の(うち)のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽(かぐら)(ざか)の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ()()って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。さかなは何やならんと横目で見たら、おそば、、、だった。しかも、かけ、、だった。かけ、、のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月しゅんげつと書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん様と横町よこちょうを隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。

牛込牛込館都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。現在は牛込館はLiberty houseと神楽坂センタービルに、都館支店はLog Salonに当たります。

牛込館と都館支店

左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。

軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「()(せん)」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。

晩年のノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

ノエル・ヌエット著「東京 一外人の見た印象」第2集、昭和10年

ノエル・ヌエット著「東京一外人の見た印象」第2集、昭和10年、表紙の挿絵

 1971年(昭和46年)、野田()太郎(たろう)氏の「改稿東京文學散歩」でも詩人で画家のノエル・ヌエット氏がでてきます。

 野田氏は1909年10月に生まれ、詩集を作り、1951年、日本読書新聞に「新東京文學散歩」を連載します。「文學散歩」は実際に文学で起こった場所を調べています。

 一方、ノエル・ヌエット氏はフランスで1885年3月30日に生まれています。ヌエット氏は寺内公園にある版画『神楽坂』などを描いています。その死亡後、その版画は寺内公園の案内板に載りました。

     ヌエットと「濠にそひて」
 フランスの詩人でもあるヌエットさんにはじめて会ったのは、昭和二十一年だった。その頃は出版社勤めだったわたくしは、ヌエットさんが皇居周辺の江戸城の面影を丹念にスケッチしたものと、江戸城に関する解説及びクローデルの詩や自分の詩をあつめて『Autour du Palais Impérial』と題した画文集を『宮城環景』と訳して出版した。それにはヌエットさんともっとも親しい山内義雄氏が美しい和訳文をつけられた。――実はわたくしがクローデルの「江戸城内濠に寄せて」(註・初訳は「江戸城の石垣」)につよい関心を抱きはじめたのも、この本の出版からと云ってよい。

クローデル Paul Claudel。フランスの詩人・劇作家・外交官。 1890年外交官試験に首席合格。日本、アメリカ、ベルギー駐在大使。大正10年駐日フランス大使として着任。昭和2年離任。生年は1868年8月6日。没年は1955年2月23日。享年は満86歳。
山内義雄 大正昭和のフランス文学者。早大教授。日仏文化交流に貢献して昭和16年レジオン-ドヌール勲章。生年は明治27年3月22日。没年は昭和48年12月17日。享年は満79歳。

 野田宇太郎氏はヌエット氏と初めて会ったのは、昭和21年なので、1946年です。野田氏は37歳、ヌエット氏は61歳でした。

 それからもヌエットさんとは時折会っていたが、すでに日本にフランス文学の教師として二十数年間をすごし、戦争中のきびしい外人圧迫にも耐えて日本を愛しつづけたヌエットさんも老齢には勝てず、ゴンクール兄弟と日本美術の研究で東大から博士号を贈られると、祖国フランスへ、肉親たちの待つパリヘ帰ることになった。
 それを人伝てに知ったわたくしは、まだ江戸城址の内部を見ていなかったので、宮内廳に見学許可を申し込み、ついでにヌエットさんを誘うた。ヌエットさんは日本を去る前に皇居の内苑を()ることをよろこばれるに違いないと思ったからであった。
 ヌエットさんは、わたくしが江戸城と皇居について書くことにしていたサンケイ新聞社の車ですぐにやって来た。
「コンニチワ、ノダサン、イカガデスカ」位しか日本語を(しやべ)らないヌエットさんと連れ立って、わたくしがはじめて皇居内に入り、本丸跡から天皇のお住居のある吹上御苑以外の場所を半日がかりで殆んど(くま)なく歩いたのは、昭和三十四年二月十二日のことである。

ゴンクール兄弟 Frères Goncourt。フランス・パリの自然主義作家。エドモン(Edmond Louis Antoine de Goncourt)(1822‐96)とジュール(Jules Alfred Huot de G.)(1830‐70)は、つねに一体となって制作した。

 昭和34年は1959年で、この時の野田氏は50歳、ヌエット氏は73歳でした。

 二重橋も新らしく架け替えられ、その奥の江戸城西ノ丸に当るところには(ぜい)を尽くした新宮殿も四十三年暮に完成した。あいかわらず見物客の群がる二重橋前をすぎ、桜田門を内側から潜ると、左手は凱旋濠と土手の石垣の向うに日比谷交叉点が見える。右手は広々とした辨慶濠だが、わたくしの持参した最近の地図には桜田濠と記されている。水鳥が点々とのどかに浮遊している光景も昔のままだが、白い軍艦のように胸を張った大白鳥が二羽、ゆうゆうと水を滑っているのは、まさに戦後からの光景である。
 警視廳本館の陰気な色の建物の前からお濠沿いに西へ歩きはじめると、もうそのあたりのお濠の対岸は高い芝生の崖で、クローデルの「右手、つねに石垣あり」の光景は消える。それに替ってヌエットの「濠にそひて」の山内義雄訳が思い浮んでくる。

   過ぎにし時のかげうつす
   ここの宮居の濠にそひ
   愛惜、のぞみ、()ひまぜて
   はこびし夢のかずかずよ!

 後の詩文は省略し

 この詩は作者の心を心としたすぐれた詩人の訳者にしてはじめて成し得た名訳である。ヌエットさんがいかに江戸文化の、とくに安藤廣重の錦絵版画「江戸百景」などの美術に心を傾けていたかは、先の『宮城環景』の絵でもわたくしは理解したが、この詩を読むと、江戸城周辺の歴史的自然美に対するヌエットさんの(こま)やかな愛情が、ひしひしと伝わってくる。その頬や肩を()でたお濠端の柳の糸、雪のように音もなく水面をとび立つゆりかもめの群、大内山に面した江戸城西側のお濠の斜面で、小さい彭のように毎年きまった季節に草刈る人々の姿まで、見逃かしてはいない。
 ヌエットさんは東京が戦災に打ちのめされ、ようやくたたかいが収まったとき、帰国を思い立っていた。この詩は、そのときに書いた詩である。しかし、その後、ヌエットさんのやるべき仕事が出来て、又しばらく帰国をのばすことになった。十年がたち、わたくしがヌエットさんと二人で皇居内をめぐり歩くことが出来たのも、その留任のためであった。しかし、すでに八十歳になったヌエットさんは、その翌年、ついに東京に別れを措しみながら去って行った。東京都はヌエットさんに名誉都民の称号を贈り、ヌエットさんは再び永久にパリ人となったのである。「濠にそひて」の詩をのこして。

安藤広重 歌川広重と同一。江戸後期の浮世絵師。代表作は「東海道五十三次」
江戸百景 『名所江戸百景』は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)2月から同5年(1858年)10月にかけて制作した連作浮世絵名所絵。

「すでに八十歳になったヌエット」と書かれていますが、正確には東京からフランスに向かった日は1962年(昭和37年)5月12日で、77歳でした。

数日後、また偶然にお濠端を通ってみると、その土手にはもうあざやかな朱色はなく、一面淡緑に被われていた。その間に雨が降り、花を落したあとに、 緑の茎だけがすくすくとのび立っていたのである。生き地獄のようにさえ思われた東京にも、本当の自然かあることを知っただけでも、そのときのわたくしは幸福を感じた。ヌエットさんにも、そう云って見せたかった光景だと、今にして思うが、あるいはもう江戸城西側の季節のうつろいのはかなさを知っていたのかも知れない。
 一方、西條(ふたば)()氏は『父西條八十』(中央公論社、昭和50年)の「英文学から仏文学へ」でこう書いています。
 その頃、偶然の機会にのちに東京で著名な仏語教授、さわやかな筆致のペン画で東京風景をスケッチして有名であった詩人ノエル・ヌエッ卜氏と親交を結んで沢山のフランス詩人を知った。彼は父の帰朝後まもなく日本を慕って東京へきて幼い私の玩具遊びの相手をしてくれたこともあったが、後年、四十年近く滞在した日本を離れる時、見送りに横浜の船まで行った父や私の顔も見わけられないほど呆然自失したような深刻な無表情が痛々しく私たちの胸にのこった。

 日本を離れる時は77歳。どうして呆然自失したのでしょうか。痴呆があったのでしょうか。しかし、高橋邦太郎氏は「本の手帖」(第61号、1967年2月号73頁)で、1966年、81歳のパリのヌエット氏を書いています。

 去年四月、ぼくはパリの寓居にヌエットさんをたずねた。ヌエットさんはアパートの一階、質素な一室で、『もう、わたしも老いた。再び東京を見ることはあるまい』
といいながら自作の弁慶橋の版画を示した。
 弁慶橋の上には高速道路がかかり、もう、そこに描かれた時の風景ではない。しかし、ぼくは、ヌエットさんには、破壊され、旧態はここに留められているだけだとは言いかねた。

 ヌエット氏の没年は1969(昭和44)年9月30日、84歳でした。

ノエル・ヌエット|矢来町12

文学と神楽坂

 ヌエットノエル・ヌエット氏(Noël Nouët、1885年3月30日生まれ)は、フランス、ブルターニュ出身の詩人、画家、版画家で、40歳から75歳までの約36年間、日本でフランス語教師として諸学校で教えました。戦後になって、1952年(67歳)、牛込に小さな家を買い、教師の傍ら執筆活動を行っています。1961年(76歳)、フランスに戻り、1969年10月2日(85歳)、死亡しました。氏は神楽坂5丁目の寺内公園の説明で『神楽坂』という版画を描いています。

 Nouëtのtは多くは無音なので、フランス語で本来は「ヌエ」と読みます。実際に与謝野寛氏は、フランスで覚えてきたそのままで「ヌエ」を使っています。
 英語には「ヌエト」「ヌエット」などの発音があり、日本でも英語風になすと「ヌエト」「ヌエット」になります。さらに「ヌエ」には妖怪「鵺」の言葉があります。与謝野寛から12年後、フランス語教授兼友人の西條八十氏や木下杢太郎氏は「ヌエト」しか使っていません。
 日本に行くとそれが「ヌエット」となります。

 ヌエット氏は矢来町12に住んでいました。これは昭和22年の地図です。どこでもある普通の町でした。また左上は現在の地図で、同じ矢来町12に10軒内外が住んでいます。この地域のうち、ヌエット氏の家もあったはずです。

昭和22年の矢来町12。左上は現在。



与謝野寛とノエル・ヌエット

文学と神楽坂


与謝野寛晶子

 『巴里より』はパリのあれこれをまとめたもので、歌人の与謝野寛、与謝野昌子が共著で、大正3年、出版しています。1911年(明治44年)、寛はパリへ行き、明治45年5月、晶子も渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪し、晶子は10月に帰国、寛は大正2年に帰国します。
 この本のうち「飛行機」の章で、フレデリツク・ノエル・ヌエがでてきます。彼はフランス人の詩人でした。なお、この「飛行機」の章は初めて昭和45年、与謝野寛氏が単独で執筆しています。

 二人でリユクサンブル公園の裏の下宿へ和田垣博士を誘ひに寄ると、博士はフレデリツク・ノエル・ヌエ君と云ふ巴里(パリイ)の青年詩人を相手に仏蘭西(フランス)語の稽古をして()られる処であつた。僕はヌエ君の新しい処女詩集に(つい)てヌエ君と語つた。詩はまだ感得主義(サンチマンタリズム)を脱して居ないが、ひどく純粋な所がある。甚だ孝心深い男で、巴里の下宿の屋根裏に住んで語学教師や其外の内職で自活し乍ら毎週二度田舎の母親を()ふのを(たのし)みにして居る。ヌエ君と下宿の(かど)で別れて三人は自動車に乗つた。

サンチマンタリズム センチメンタリズム。sentimentalism。感情面を重んじ、知性よりも内的心情に支配される傾向。

 明治45年6月なので、与謝野氏は39歳、ヌエ氏は27歳です。2人が話をする場合もあります。
 しかし、この名前ヌエは鵺(ヌエ)と同じ日本語です。この鵺という言葉は妖怪のことで、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足、ヘビの尾を持っていました。これも変える必要もあったのでしょうか、15年後、ヌエ氏の日本の呼び名はノエル・ヌエット氏になっています。このヌエット氏は神楽坂の寺内公園の中では『神楽坂』という版画を作る詩人兼画家でした。
 次は大正元年12月。

     火曜日の()
 夕方ノエル・ヌエ君が訪ねて来た。貧乏な若い詩人に似合はず何時(いつ)も服の畳目(たゝみめ)の乱れて居ないのは感心だ。僕が薄暗い部屋の中に居たので「何かよい瞑想(めいさう)(ふけ)つて居たのを(さまた)げはしなかつたか」と問うたのも謙遜(けんそん)(この)詩人の問ひ相な事だ。「いや、絵具箱を掃除して居たのだ」と僕は云つて電燈を()けた。壁に掛けて置いたキユビストの絵を見附けて「あなたは這麼(こんな)(もの)を好くか」と云ふから、「好きでは無いが、僕は何でも新しく発生した物には多少の同情を持つて居る。(つと)めて()れに新しい価値を見出さうとする。奇異(きい)を以て人を刺激する所があれば其れも新しい価値の種でないか」と僕が答へたら、ヌエは苦痛を額の(しわ)(あらは)して「わたしには(わか)らない絵だ」と云つた。ヌエは内衣囊(うちがくし)から白耳義(ベルジツク)の雑誌に載つた自分の詩の六頁折の抄本を出して(これ)を読んで呉れと云つた。日本と(ちが)つて作物(さくぶつ)が印刷されると云ふ事は欧洲の若い文人に取つて容易で無い。況して其れで若干かの報酬を得ると云ふ事は殆ど不可能である。発行者の厚意から其掲載された雑誌を幾冊か貰ふのが普通で、其雑誌の中の自分の詩の部分の抄本を幾十部か恵まれるのが最も好く酬いられた物だとヌエは語つた。僕は其れを読んだ。解らない文字に()(くは)す度にヌエは傍から日本の辞書を引いて説明して呉れた。七篇の(うち)で「新しい建物に」と云ふ詩は近頃の君の象徴だらうと云つたら、ヌエは淋し相に微笑(ほゝゑ)んで頷いた。君が前年出した詩集の伊太利(イタリイ)に遊んだ時の諸作に比べると近頃の詩は苦味(にがみ)が加はつて来た。其丈(それだけ)世間の圧迫を君が感ずる様に成つたのだらうと僕は云つた。

畳目 紙・布などをたたんだときにできる折り目
キュビスム 20世紀初頭、ピカソなどが始めた革新的な美術表現。ルネサンス以来の遠近法で現実を再現するのではなく、複数の視点から眺めた姿を平面上に合成して表現しようとしている
内衣囊 洋服の内側にあるポケット。内ポケット。
白耳義 ベルギー
圧迫 押さえつけること

 このころから既にノエル・ヌエット氏はフランス語の個人教師をしていたのです。


西條八十とノエル・ヌエット

西条八十氏西條(さいじょう)()()氏は1892年(明治25年)1月15日に生まれ、詩人、作詞家、仏文学者で、大正12年(1923年)、フランスに留学しソルボンヌ大学で学び、帰国後早稲田大学仏文学科教授になりました。「唄を忘れた金絲雀(かなりや)は」で始まる「かなりや」は有名な童謡です。

 昭和36年(1961)、西日本新聞に西條八十氏は『我愛の記』という連載を書いています。これは『西條八十全集』第17巻、随想・雑纂の中で読むことができます。さて、その中の「リルケ」ではこう書かれています。

振返ってみてぼくのいちばん楽しかったのは、パリのカルティエ・ラタンの学生宿にいて、朝から晩までフランスの詩に読みふけった時代だ。ぽくは一五、六世紀から現代までの、あらゆる詩人の詩集を買いあさり、終日辞引片手に読みふけった。そして、どうしても意味の難解な詩句には、鉛筆でアンダーラインしておいて、いちいち知り合いのむこうの詩人をたずねて解釈してもらった。現在ずっと日本に住んでいる「ラ・ミューズ・フラソセーズ」の詩人ヌエル・ヌエット氏などは、その中でも、もっともぼくに協力してくれた人だ。冬になると、パリは午後三時ごろに日が暮れた。さむざむとした下宿の中庭に、黒つぐみの鳥が遊んでいた。そういう時、小さな電気スタンドをつけて、ヌエット氏から詩を学んでいた若い自分がしみじみなつかしい。近ごろあまり本を読まなくなったのは、きっと老眼鏡が重くてうるさいせいだ。
 そうだ、ことしは思いきって、きれいな声でぼくの代わりに好きな本を音読してくれる誰かを雇おう。そしてリルケの愛した図書室の高い澄んだ空気を孤独の身辺に築こう。

 現在、ヌエル・ヌエット氏というよりはノエル・ヌエットと書くようです。ノエル・ヌエット氏は寺内公園に版画の『神楽坂』を描いています。氏は当時パリにいた日本人をかなり知っていたようです。そして、その後、氏は日本にやってきます。

西条とノエル 1959年、NHKの「黄金(きん)の椅子」でヌエット氏を見ることもできます。前列左側からノエル・ヌエット氏、サトウ・ハチロー氏、佐伯孝夫氏、西條八十氏が出ています。これは西条八束著、西条八峯編『父・西條八十の横顔』にあった写真の一部です。本文では

一九九三年三月のことである。父と姉の蔵書を神奈川県立近代文学館が受け入れてくださることになり、それらを整理していると、姉が持っていたおびただしい数の写真が出てきた。その中に、一九五九年一月十六日から四回にわたってNHKテレビの「黄金(きん)の椅子」という番組の百回記念として放映された、「西條八十ショウ」の写真があった。その一枚には、堀口大學、サトウハチローなど多数の有名な方がたに交じって、ノエル・ヌエットさんも写っていた。パリに留学した父がフランス語を習っていた詩人である。

 最初は西條八十氏の家に宿泊したようです。

ヌエットさんは一九二六(大正十五)年、父が日本に帰国して間もなく、父の招きもあって来日し、晩年に帰国されるまで、親しくおつき合いしていた。ものしずかでやさしい人だったが、日本語はいつまでもうまくならなかった。
 ヌエットさんは初めて日本に来て、しばらくはわが家に滞在したらしいが、母をはじめ、欧米の生活をまったく知らぬ私の家族は、彼の食事その他にとても苦労したらしい。その頃父の家に身を寄せて家事を手伝ってくれていた叔母が、ヌエットさんのために新宿の中村屋までパンを買い行かなければならなかったことなど、よく話していた。

 内藤濯氏もノエル・ヌエット氏と一緒に働いていました。しかし、西條八十氏のほうがかなり一緒になって働いているといえそうです。

星の王子さまとノエル・ヌエット

文学と神楽坂

内藤濯 内藤(あろう)氏は『星の王子さま』を翻訳した人で、最後は一橋大学の教授になっています。生まれは明治16年(1883年)。明治40(1907)年、東京帝国大学文科大学フランス文学科へ進学。フランス近代詩の翻訳を発表します。
 この時こんなエピソードも残しています。なお、この筆者、内藤初穂氏は内藤濯氏の息子です。

(内藤濯は)大学二年にすすんだぱかりの分際で「印象主義の楽才」と題する一文を『音楽界』九月号に発表、ドビュッシーの存在を日本に初めて喧伝した。
「種本」のあることなど知らぬ顔をしていた。が、知る人は知る。第二高等学校の三年先輩に当たる太田正雄、医学の分野で業績をあげる一方、木下杢太郎の筆名で詩・劇作・美術史の分野でも名をあげた人物が、詩集『食後の唄』(大正八・一二)の序文で父の論説を容赦なく切り捨てた。
「まだ聴いたこともないDebussyを評論する、出過ぎた批評家」(1)
 この酷評から三年後、父はパリ遊学中に杢太郎と出会い、親交を得る。
 父自身は、杢太郎の謡を白秋以上のものと評価していた。父の話では、杢太郎は一徹にも、白秋が売名のために童謡を濫作しているといって、10年ほども交わりを絶っていたらしい。が、白秋が太平洋戦争二年目の秋に死去するその三年ほど前には、一切のこだわりを捨てて旧交を暖めたという。
 杢太郎は、戦後まもなく胃癌をわずらって他界したが、その詩を愛しつづけた父は、昭和31年10月21日、JR伊東駅に近い川畔の伊東公園でおこなわれた詩碑「ふるき仲間」の除幕式に出席、父が晩年に勤めた昭和女子大学や地元の西小学佼・伊東高等学校の女子学生たちに山田耕筰作曲のその詩を歌わせ、タクトをふった。
内藤初穂著『星の王子の影とかたちと』(筑摩書房) 2006年
以下引用文献は同一。

 話を元に戻します。内藤が大学を卒業したのは明治43(1910)年。フランス語教官として陸軍幼年学校に勤務。大正9年、母校・第一高等学校の教授になり、文部省在外研究員として、大正11-14(1922-25)年、パリに留学。
 パリに留学したのは38歳からです。留学中に内藤は日本人の友人を作ります。

 折竹がパリの見どころを案内する間、東京帝国大学の四年後輩で明年四月から同大学で教鞭をとるという辰野隆が初対面の挨拶にあらわれ、つづいて音楽エッセイを何度か投稿した雑誌『音楽界』の主幹、小松耕輔が姿を見せる。

 またフランス人の友人、ノエル・ヌエー氏も話し相手でした。ノエル・ヌエーは1885年に生まれており、内藤と2歳しか違いません。

 加えて辰野はノエル・ヌエーという物静かな詩人を父に引き合わせ、会話力の鍛錬かたがた文学講義の話し相手とした。

 このノエル・ヌエーって誰のことなのか、わかりますか? 結果はすぐ後で。1924年帰国後、内藤は東京商科大学(現在の一橋大学)教授となります。当時の教え子に伊藤整など。内藤が日本に帰って見ると、1926(昭和元)年、ノエル・ヌエーも日本にやってきました。

 ルナアルの文章は、単純なようでいながら間違いやすく、ひと癖あるようで最高に正しいフランス語だという定評がある。その翻訳に当たって、父は疑問の個所をノエル・ヌエーに質すことにした。ヌエーは静岡高等学校で三年の契約をすませたのち、いったんフランスに帰ったが、日本を忘れられぬまま東京外国語学校の要請に応じて一ツ橋の校舎に着任したばかりのところであった。日本ではヌエーの末尾サイレントを発音してヌエットと呼んでいたが、父はフランスいらいの「ムッシュー・ヌエー」を押し通した。
 大森の家によく姿を見せていたように覚えている。ほどよく髭をたくわえた四角の顔に眼鏡をかけ玄関の式台に座って靴をぬいだあと、さらに二重にはいた靴下の外側をぬいで靴に押しこんでから上がってくるのが珍しかった。父によれば「日本語を覚えようとしない日本贔屓のフランス人」で、二人の交わすフランス語が音楽のように書斎から流れていた。

 つまり、ノエル・ヌエー、フランス語ではNoël Nouëtで、この日本語名はノエル・ヌエットで、神楽坂の寺内公園案内板に彼が描いた絵が描いてありますが、その絵を描いた画家兼詩人がヌエットでした。ヌエットが日本に2回目に訪問した時は1930(昭和5)年です。
 1953(昭和28)年、内藤濯訳で「星の王子さま」を出版。ノエル・ヌエットは1962(昭和37)年、日本からフランスに帰国します。昭和44(1969)年、ヌエットは84歳で死亡。昭和52年(1977年)、内藤が死亡。94歳でした。

(1) 木下杢太郎の『食後の唄』の序(大正七年九月四日版)ではここはこうなっています。この批評家は本当に内藤濯だったのでしょうか。まあ、息子がそういっているので…そうするか。

 さう云ふ情緒も又無論同時の詩的氣稟から見逃されてはゐなかつた。新に西洋から歸つた洋畫家の中には、まだ人の瞳が靑く見える習慣のままで、お酌の踊を畫かうとするのもあったが、我我はその中でも、蒲原有明氏の「朝なり」から大なる感激を受けた。無論そんなしやれた心持は少しも分らないで、子どものおしめの心配や、下宿屋での月末の苦勞を記述する、牛込邊の文士團體もあるにはあつたが、然し一方にはまだ聽いたこともないDEBUSSYを評論する、出過ぎた批評家もあつたのである。
 街頭の張札(あふいつしゆ)を愛し、料理屋の色紙の印刷を愛し、モンマルトル畫家の漫畫(きやりきやちゆる)を愛し、隆達、弄齋、竹枝、山歌(しやんそんねつと)を愛するを知つた予が、こいつを一番小唄でやらうと考へたのは惡い思ひ付きであつた。當時小傳川町の廣重、淸親ばりの商家のまん中に、異樣な對照をなして「三州屋」と云ふ西洋料理屋があつたが、是れは我我の屢「パンの會」を催した會場であつた。その頃椅子に腰をかけて三味線をひいた五郎丸、ひさ菊、お松つさんなどいつた女たちは今はどこにどう四散してゐることやら。
木下杢太郎著『食後の唄』序



『スバル』第一巻第二号の消息|石川啄木

文学と神楽坂

小生とは石川木のことです。「スバル」の2月号、短歌は六号活字となりました。小さいのです。

スバル消息
◎本誌の編輯は各月当番一人宛にてやる事に相成、此号は小生編輯致し候。随つて此号編輯に関する一切の責任は小生の負ふ所に候。

『スバル』第一巻第二号を編集するのは石川木だけだといっています。さらに

締切までに小生の机上に堆積したる原稿意外に多く為めに会計担任者と合議の上、紙数を増す事予定より50頁の多きに達し、従つて定価を引上るの(やむ)なきに到り候ひしも、(なほ)(かつ)その原稿の全部を登載する(あた)はず、或は次号に廻し、或は寄稿家に御返却したるものあり。謹んで其等執筆諸家に御詫申上候。
◎また本号の短歌は総て之を六号活字にしたり。此事に関し、同人万里君の抗議別項(119頁)にあり。(ここ)に一応短歌作者諸君に御詫び申上候。
◎万里君の抗議に対しては小生は別に此紙上に於て弁解する所なし。つまらぬ事なればなり、唯その事が平出君と合議の上にやりたるに非ずして全く小生一人の独断なる事を告白致置候。平出君も或は紙致を倹約する都合上短歌を六号にする意見なりしならむ。然れども六号にすると否とは一に小生の自由に候ひき。何となれば、各号は其当番が勝手にやる事に決議しありたればなり。
◎活字を大にし小にする事の些事までが、ムキになって読者の前に苦情を言はれるものとすれば、小生も亦左の如き愚痴をならべるの自由を有するものなるべし。
◎小生は第一号に現はれたる如き、小世界の住人のみの雑誌の如き、時代と何も関係のない様な編輯法は嫌ひなり。その之を嫌ひなるは主として小生の性格に由る、趣味による、文芸に対する態度と覚悟と主義とに由る。小生の時々短歌を作る如きは或意味に於て小生の遊戯なり。
◎小生は此第二号を小生の思ふ儘に編輯せむとしたり。小生は努めて前記の嫌ひなる臭味を此号より駆除せむとしたり。然れどもそは遂に大体に於て思つただけにやみぬ。雑録に於て、口語詩、現時の小説等に対する小生の意見を遠慮なく発表せむとしたれども、それすら紙数の都合にて遂に掲載する(あた)はざりき。遺憾この事に御座候。僅かに短歌を六号活字にしたる事によりて自ら慰めねばならぬなり。白状すれば、雑録を五号にしたるも、しまひに付ける筈なりし小生の『一隅より』を五号にするため、実は前の方のも同活字にしただけなり。(あへ)て六号にすれば遅れますよと活版屋が云つた為にあらず。それは一寸した口実なり。
◎愚痴は措く。兎も角も毎号編輯者が変る故、毎号違つた色が出て面白い事なるべく候。
◎末筆ながら、左の二氏より本誌の出版費中へ左の通り寄附ありたり。謹んで謝意を表しおき候。
一金五円也 上原政之助氏
一金一円也 相田蕗村氏
(校了の日 印刷所の二階にて 木生)

[『スバル』第一巻第二号 明治四十二年二月一日]


スバル 森鴎外、()()()(ひろし)鉄幹(てっかん))、与謝野晶子(あきこ)が協力して発行し、石川木、平野(ひらの)万里(ばんり)吉井(よしい)(いさむ)が編集し、この3人に加えて、木下(きのした)杢太郎(もくたろう)高村(たかむら)光太郎(こうたろう)北原(きたはら)白秋(はくしゅう)らが活躍しました。反自然主義的、ロマン主義的な作品が多く、同人はスバル派と呼びました。創刊号の発行人は石川啄木で、創刊時から1年間、発行名義人です。スバルは1913年まで続きました。
消息 人や物事の、その時々のありさま。動静。状況。事情
六号活字 横約3ミリで、英語の8ポイント活字と比べると、わずかに小さい
万里 平野万里。当時は24歳。1905年東京帝大工科大学に進み、「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表しました。石川木、吉井勇の三人で交替に『スバル』の編集に当たりました。
平出 平野の間違いでは。もう少し調べて見ます。

木下杢太郎「南蛮寺門前」

文学と神楽坂

木下杢太郎」 木下(きのした)(もく)()(ろう)に「南蛮寺門前」の中で石川啄木のことを書いている場面があります。昭和5年4月『冬柏』第2号に投稿したもので、木下杢太郎全集第14巻によっています。
 小さな6号活字がここでも問題になっています。
 1年前、北原白秋や木下杢太郎はこの小さな活字に怒ったことや、ほかの理由もあり、与謝野寛のもとから脱退し、『明星』も第100号で廃刊。以来、与謝野寛氏にとっては失意が続きます。また、木下杢太郎が石川啄木をどうやってみているかもわかります。
 明治42年(1909年)1月には、森鴎外は47歳、伊藤左千夫は44歳、与謝野鉄幹と上田敏は35歳、斎藤茂吉は26歳、平野万里と北原白秋は24歳、木下杢太郎氏と石川啄木は23歳、吉井勇と古泉千樫は22歳でした。

 今でも僕は殘念に思つてゐるのだが、それは僕の戲曲の第一作の「南蠻寺門前」をば、先生が校正の時添削して下さるといふのを、その時の第2號の編輯を引受けてゐた石川偏執からその機會を失したことである。此事は同じ名の僕の戲曲集のにも書いて置いたが、も一度回想して見る。
 時は明治42年の1月2月の頃である。その時分には「パンの會」と「觀潮樓歌會」とが屡〻有つた。たとへばその歳の1月の9日には午後からパンの會があり僕等は6時半にそれを濟まして、夜森先生の御宅の短歌會に出た。その時の出席者は昴の第2號に據ると、主人の他與謝野寛上田敏伊藤左千夫小泉千樫、石川木、斎藤茂吉平野萬里及び僕で、題は「舞」「清」「吝」「構」「或」であつた。僕の日記には「雲降る。10時過帰宅。」と書いてある。

 スバル。森鴎外、()()()(ひろし)鉄幹(てっかん))、与謝野晶子(あきこ)が協力して発行し、石川啄木、平野(ひらの)万里(ばんり)吉井(よしい)(いさむ)が編集し、この3人に加えて、木下杢太郎、高村(たかむら)光太郎(こうたろう)北原(きたはら)白秋(はくしゅう)らの文芸雑誌。詩歌中心で、新浪漫主義思潮の拠点になった。。反自然主義的、ロマン主義的な作品が多く、同人はスバル派と呼びました。創刊号の発行人は石川啄木で、創刊時から1年間、発行名義人です。スバルは1913年まで続きました。
偏執 かたよった考えをかたくなに守って他の意見に耳をかさないこと。
 ばつ。書物や書画の終りに,その来歴や編著の感想・次第などを書き記す短文。あとがき。
パンの会 明治末期の青年文芸・美術家の懇談会。反自然主義、耽美的傾向の新しい芸術運動の場。1908年(明治41年)12月、第1回会合は隅田川の右岸の両国橋に近い矢ノ倉河岸の西洋料理「第一やまと」で。高村光太郎はやや遅れて参加、上田敏、永井荷風らの先達もときに参会し、耽美派のメッカに。白秋の『東京景物詩』、杢太郎の『食後の唄』はこの会の記念的作品です。
観潮楼歌会 観潮楼かんちょうろうとは森鴎外が住む家のことで、森鴎外が『青年』『雁』『高瀬舟』など数々の名作を著しました。観潮楼歌会はここでの歌会のこと。場所は文京区千駄木1-23-4。
屡〻 「しばしば」。何度も。たびたび。〻は二の字点、ゆすり点で、主に縦書きの文章に用い、上の字の訓を重ねて読むときに使います。現在は「々」で代用。
短歌会 観潮楼歌会と同じ。
古泉千樫 こいずみ ちかし。木下杢太郎氏は小泉と書いていますが、正しくは古泉。左千夫が脳溢血により50歳で急逝すると、千樫はアララギ派の中心的歌人として多くの秀歌を残しています。
平野万里 ひらの ばんり。1905年東京帝大工科大学に進み、「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表。石川啄木、吉井勇の三人で交替に『スバル』の編集に当たりました。

 1月13日の水曜日も雲であつた。午後4時から上野精養軒で「靑楊會」があつた。是れは第何回のものであつたか。靑楊會とは、上田敏先生の洋行送別會が上野の精養軒であつたのを第一の機曹としてその後その家で時々催されたものである。僕の日記には唯「上田氏怪氣焰。永井荷風。」と記してあるばかりである。然しかう云ふ斷片的のものから當時の文學的雰圍氣を通つて來たものには直ぐいろいろの聯想が附くことと思ふ。
 その1月の間に僕は南蠻寺門前の小戲曲に着手し、前半はわけもなく出來たが、後になるに從つて思想が纏めらなくて閉口した。
 當時の交友は新詩社を中心とした諸君で、1月17日の日曜日には午後2時本郷森川町の蓋平館本店といふ下宿に石川木を訪ねた。石川が昴二月號の編輯をやつてゐたことは既記の如くである。そこに吉井勇が居た。吉井と共に寓居に歸り、夜はまた南蠻寺にかかつた。あと五六枚のところで煩悶してゐたのである。
 1月18日も午後から雪となった。さんざ苦しんだ揚句豫期しなかつた着想を得て、膝を打ち、午後4時半に至つて到頭書き上げた。そして女中に糊入の美濃紙を買はして、大急ぎで淨書し、森先生の御宅へ電話をかけると、來てもよいといふ返事であつた。
 晩餐の後直ぐ家を出たが、その途中ふと追分なる島村盛助の宿へ立ち寄つて此原稿を見せた。
 談後島村が批評を始めて、中々言葉が切れない。こちらは氣が氣でなかつたなどといふことも思ひ出される。

青楊会 せいようかい。靑楊會の場所は上野(せい)(よう)(けん)で。食べながら話を聞いたり歌を詠んだりなどしたのでしょう。
新詩社 しんししゃ。正式には東京新詩社。1899(明治32)年、与謝野鉄幹を中心に創設。1900年創刊の機関誌《明星》は08年廃刊まで浪漫主義文学の拠点でした。妻晶子を始め、高村光太郎、平野万里、北原白秋、木下杢太郎、石川啄木、吉井勇ら新人が輩出しました。
美濃紙 岐阜県美濃市で()かれている和紙の総称
島村盛助 しまむら もりすけ。24歳。英文学者、翻訳家、教育者で、明治42年に東京帝国大学英文科を卒業しました。岩波の英和辞典の編纂者の一人です。

 森先生は直ぐ僕の原稿を讀み始められた。僕は傍から今どの邊が讀まれてゐるかを眺めた。
 森先生はそれを讀み了ると、はははははと笑つた。そしてだいぶいろんなものか並べてあるねと揶揄せられた。
 その時どう云ふ批評をされたか。餘り細くは批評せられなかつたやうに思ふ。今も覺えてゐることは、劇的のZuspitzung(これは獨逸語で言はれた)が足りない。それから修辭がまづいと斷ぜられたことである。森先生は當時ユリウス・バツブを讀んで居られ、その説に同感して居られるやうに見えた。それで僕はとに角校正の時は見てやらうと先生をして言はしむるまでに成功した。
 平野萬里君もあとから見えたので、一緒に森邸を辭した。その時は雪は已に息んでゐた。

Zuspitzung 激化、先鋭、先鋭化、尖鋭
修辞 しゅうじ。言葉を美しく巧みに用いて効果的に表現する技巧や技術。レトリック(rhetoric)。
ユリウス・バツブ Julius Bab。ドイツの劇作家と劇場批評家。『演劇社會學』の著者。

 1月19日。火曜日の朝は7時からのバツフさんの佛蘭西語の講義を一時間聽き、8時⒛分に石川木の宿に行き、その寐てゐるのを起して、疇昔の原稿の掲載方を頼んだ。そこに北原白秋も來り、二人で午食の振舞を受け、夜は與謝野さんの御宅に往き、原稿中の經文に振假名をして貰つた。この時は北原、石川も多分一緒であつたらう。「電車を四谷にて下り、天ぷら屋にて酒を飮み、藝術の事を談ず。」と日記に書いてある。
 1月22日、金曜日に石川の處に行くと、吉井君、平野君とも一人の人がそこに居た。當時石川は平野君に對して反感を有してゐた。その主な原因は昂をば短歌を主とすること明星の如くはせず、短歌をば六號活字で組まうと論じ、平野君の反對を受けたことにあるらしい。その不平をば三間ばかりの長い手紙に書いてよこした。その後この手紙を捜したが、どこかに行つてしまつて見つからなかつた。
 この頃僕に多大の感激を與へた本リヒヤルド・ムウテルの佛國印象晝派とゲオルグ・ブランデスの19世紀思潮論であつた。またアアサア・シモンズマアテルリンクが流行で僕も之を拾ひ讀んだ。
 1月23日の土曜日にはまたパンの會があつた。人が集まらないで、明治座の山崎紫紅の破戒曾我を立見をしたりなどした。その日のパンの會には石井柏亭、北原白秋、長田幹彦、平野萬里、栗山茂等が集まつた。
 島村抱月の洋行土産の欧洲近代繪畫論は面白いが、肝腎の畫そのものは少しも分つてゐないのだと皆が判定した。予はその批評を書く役になつて、翌日その原稿を石川の處に持つて行くと平野萬里君が来た。

疇昔 ちゅうせき.過去のある日。昔。疇は「以前」の意味
六號活字 六号活字。縦横約3ミリで、8ポイント活字と比べると、わずかに小さく、約7.5ポイント
リヒヤルド・ムウテル リヒャルト・ムーテル。Richard Muther。ドイツの批評家と芸術の歴史家
ゲオルグ・ブランデス ゲーオア・ブランデス。Georg Brandes. デンマークの評論家。ヨーロッパ文芸を痛烈に批評。
アアサア・シモンズ アーサー・シモンズ。Arthur William Symons. 英国の詩人、文芸批評家、雑誌編集者。
マアテルリンク モーリス・メーテルリンク。Maurice Maeterlinck。ベルギーの詩人、劇作家、随筆家
山崎紫紅 やまざき しこう。34歳。劇や歌舞伎の作家。主な作品は「破戒曾我」など
石井柏亭 いしい はくてい。 27歳。版画家、洋画家、美術評論家。東京美術学校洋画科を中退。
長田幹彦 ながた みきひこ。22歳。小説家、作詞家。早稲田大学英文科卒業。
栗山茂 くりやま しげる。23歳。東京帝国大学卒業。外務省入省。日本の元最高裁判所判事。

 2月になつて昴の第2號が出た。成程短歌は皆6號活字で組んであつた。そして早野君の「抗議」が插人してあり、「短歌を6號にした事に就ては僕は一言の相談も受けなかつた。組んで來たのを見て僕は驚いて了つた。云々」と書いてある。それに對して石川君がまた「消息」といふ處でむきになって應戰してゐる。「小生は第1號に現はれたるが如き、小世界の住人のみの如き雜誌は嫌ひなり。その嫌ひなるは主として小生の性格に由る、趣味による、文藝に對する態度と覺悟と主義とに由る。小生の時々短歌を作るが如きは或意味に於て小生の遊戲なり。」云々。
 さう云ふ木が後來短歌によつて世評を得たのは、今考へると中々面白い。
 ところが僕の南蠻寺の原稿は少しも直つて居なかつた。あとで木を責めると、時日が切迫して森先生の處へ校正を廻すことが出來なかつたのだと言って辯解したが、僕は心の中ではそれは口實だと考へざるを得なかつた。木は何にでもかんにでも反感を持つ男で、自らは大家の添削を受けるなどといふことを好まなかつたので、僕の意を蹂躪したのであらう。その故に僕は千載一遇の機を失したのであつた。

蹂躪 じゅうりん。ふみにじること
千載一遇 せんざいいちぐう。千年に一度しかめぐりあえないほどまれな機会


小笠原島夜話①|北原白秋

文学と神楽坂


      一

 (しま)自然(しぜん)(くわん)乃至(ないし)はその住民(ぢゆうみん)状態(じやうたい)()いて、(なに)(はな)せとお(つしや)るのですか。それなら差当(さしあた)()笠原(がさわら)(じま)のお(はなし)でもさしていただきませうか。
()いて極楽(ごくらく)()地獄(ぢごく)』と(まを)しますが、(けつ)してああいふ(はな)(じま)などに内地(ないち)(ひと)が、(なが)()めるものではありません。
 ()笠原(がさわら)(じま)(もと)随分(ずゐぶん)極楽島(ごくらくじま)だつたと、()(のこ)りの黒人(くろんぼ)(ぢい)などが、ある(ばん)(ばん)溜息(ためいき)()いて(わたし)(はな)して()れましたが、それは(あるひ)はさうだつたかも()れません。その(ころ)あの(しま)()もまた(わらべ)のやうな(うま)れた(まゝ)(しま)で、そこには(あか)(がけ)(りよく)(しよう)(しよく)岩壁(がんぺき)や、(たか)椰子(やし)や、林投樹(しんとうじゆ)や、モモタマ()(やぶ)などが、()(とほ)つた瑠璃(るり)(いろ)(そら)海水(かいすゐ)とに、強烈(きやうれつ)()熱帯(ねつたい)色彩(しきさい)耀(かゞ)やかしてゐる(ほか)には、あの、図抜(づぬ)けて阿呆(あはう)らしい信天翁(あはうどり)や、四()婉転(ゑんてん)として(うぐひす)瑠璃鳥(るりてう)()()れてゐるばかりで、毒虫(どくちう)一つゐず、太陽(たいやう)(おほ)きく耀(かゞ)やかしく、(つき)(おほ)きく(ほが)らかであり、(ほし)(おほ)きく光芒(くわうぼう)()いて、(ひる)()もただ燦爛(さんらん)とした自然(しぜん)(さう)()(つゞ)けてゐたのでした。


林投樹 アダン(阿檀、Pandanus odoratissimus)は、タコノキ科タコノキ属の常緑小高木。小笠原なのでアダンではなく、タコノキなのでしょう。ただし、戦後大量に固有種の「タコノキ」が都道の周りに植えましたがすべて純正品かは判りません。
モモタマ モモタマのジュズサンゴではなく、モモタマナ(桃玉菜。Terminalia catappa Linn、別名:コバテイシ、シクンシ科 )のことでしょう。巨大な葉が有名です。
瑠璃 やや紫みを帯びた鮮やかな青。16進表記で #2A5CAA 
信天翁 アホウドリ(信天翁、阿房鳥、阿呆鳥)はミズナギドリ目アホウドリ科キタアホウドリ属です。
婉転 美しくまわり動いていること。
瑠璃鳥 オオルリ(大瑠璃、学名Cyanoptila cyanomelana)はヒタキ科オオルリ属です。青い小鳥です。
光芒 細長く伸びる一筋の光。尾を引くように見える光のすじ。
燦爛 光り輝いてあでやかなさま、まばゆくきらびやかなさま
 たまたま、天明(てんめい)(ねん)土州(としう)船頭(せんどう)(にん)(おな)じく八(ねん)肥前(ひぜん)(ぶね)の十一(にん)寛政(くわんせい)元年(ぐわんねん)日向(ひゆうが)志布志(しぶし)(うら)船頭(せんどう)(えい)右衛()(もん)とその船子(かこ)の四(にん)都合(つがふ)十七(にん)(おな)じ一つの無人島(むじんたう)漂流(へうりう)して、(なが)いのは十二(ねん)(みじ)かくて七八(ねん)(つぶ)さに漂人(へうじん)としての辛苦(しんく)艱難(かんなん)(とも)にする(うち)に、その(なか)幾人(いくにん)かは病死(びやうし)し、やつと(のこ)りの人数(にんず)だけで、覚束(おぼつか)ない小舟(こぶね)(つく)つて、やつとの(こと)でハ丈島(ぢやうしま)まで()ぎついたといふ(こと)もありました。その(しま)(いま)でいふ鳥島(とりじま)かと(おも)はれますが、ああいふ(かぎ)りの()麗光(れいくわう)(なか)()つても、人間(にんげん)(けつ)して人間(にんげん)社会(しやくわい)(はな)れて()きてゆけないと()大事(だいじ)痛切(つうせつ)(かん)じられたに(ちが)ひありません。

天明 天明五年は1785年。 杉田 玄白、伊能 忠敬、大田 南畝などがいた時代です。
土州 土佐(とさ)国の異称
肥州 現在の佐賀県と長崎県(ただし壱岐(いき)対馬(つしま)を除く)。
寛政 寛政元年は1789年。寛政の改革は1787(天明7)年から1793(寛政5)年にかけて松平(まつだいら)定信(さだのぶ)が老中になり、大規模な幕政改革を行いました。
日向志布志浦 日向(ひゅうが)国の志布志(しぶし)湾。現在は湾、以前は浦。違いは湾は単に地形。浦は「湾」のうち「磯」や「断崖」ではなく、浅瀬の砂浜のこと。
船子  水夫。船子(フナコ)船長(ふなおさ)の指揮下にある。
辛苦艱難 かんなんしんくのほうが普通。人生でぶつかる困難や苦労
鳥島 伊豆諸島の無人島。特別天然記念物アホウドリの生息地としても有名。
麗光 美しい光
 母島(はゝじま)伝説(でんせつ)()りますと、(かつ)てその(しま)漂流(へうりう)した内地(ないち)(じん)(うち)で、()(のこ)つたはただ船頭(せんどう)とその(つま)と、(わか)船子(かこ)との三(にん)でした。無人島(むじんたう)(をとこ)二人(ふたり)(をんな)一人(ひとり)です。1人(ひとり)(をんな)自然(しぜん)二人(ふたり)(つま)になつて(しま)ひました。其処(そこ)無人島(むじんたう)です。人間(にんげん)社会(しやくわい)(ほか)です。(かんが)へて(くだ)さい。その三(にん)にはその(とき)、ただ(ひと)つの共同(きようどう)()(まも)(こと)(なに)より神聖(しんせい)な、また痛切(つうせつ)緊要事(きんえうじ)でした。船頭(せんどう)とその(つま)とが洞窟(どうくつ)(よる)(ねむ)(とき)(わか)船子(かこ)は、一(ばん)(ぢう)その(そと)()つて、その()(まも)らなければなりませんでした。そしてまた、(わか)船子(かこ)自分(じぶん)(つま)とが(よる)(ねむ)(とき)船頭(せんどう)は、しよぼしよぼと()をしぱだたきながら、また一(ばん)(ぢう)洞窟(どうくつ)(そと)(かゞ)んで()(まも)らなければなりませんでした。船頭(せんどう)()いてゐる。船子(かこ)(わか)い。人間(にんげん)(つひ)人間(にんげん)です。船頭(せんどう)はある深夜(しんや)突然(とつぜん)激怒(げきど)嫉妬(しつと)()られて(おも)はず、自分(じぶん)(まも)つてゐた薪火(たきび)岩壁(がんぺき)にたたきつけて(しま)ひました。()()えて了ひました。その三(にん)生死(せいし)()が。

 (うずくま)る。(つくば)う。かがむ。しゃがむ。
 所謂(いはゆる)黒船(くろふね)提督(ていとく)ペルリ浦賀(うらが)()て、太平(たいへい)(たう)帝国(ていこく)(おびや)かして、一(たん)本国(ほんごく)(かへ)ると(しよう)して(みなみ)()つた(のち)再交渉(さいかうせふ)()北上(ほくじやう)したその(あひだ)は、(かれ)(かれ)艦隊(かんたい)()笠原(がさわら)(じま)父島(ちゝじま)(とゞ)めてゐたのだと()ひます。本国(ほんごく)へなぞは(かへ)つてゐなかつたらしいのです。(かれ)はその(しま)開墾(かいこん)し、石炭(せきたん)貯蔵庫(ちよざうこ)()て、部落(ぶらく)(つく)り、(のち)には整然(せいぜん)たる(とう)政治(せいぢ)()いたと申伝(まをしつた)へます。さういふ(ふう)にささやかでも人間(にんげん)同志(どうし)社会(しやくわい)組織(そしき)成立(せいりつ)すると、ただ絶海(ぜつかい)無人島(むじんたう)として、(ひと)をして(おそ)れしめ(すさ)まじがらせたその島々(しま〲)にも(はじ)めて(あたゝ)かな人間(にんげん)愛情(あいじやう)心音(しんおん)とが()()つて()ました。人間(にんげん)もまた、その燦爛(さんらん)とした自然(しぜん)麗光(れいくわう)(はじ)めて、安心(あんしん)して()にし(みゝ)にし、()れ、()ぎ、(した)しみ()した(こと)も、非常(ひじやう)(かんが)ふべき(こと)だらうと(おも*)ひます。無論(むろん)人間(にんげん)はゐなかつた(とき)も、一人(ひとり)二人(ふたり)漂流(へいりう)した()(とき)も、部落(ぶらく)ができ一(せう)社会(しやくわい)(かたちづく)つた(のち)も、その自然(じぜん)本体(ほんたい)には(すこ)しの異動(いどう)があつた(はず)はありません。そこへゆくと(さび)しいのは人間(にんげん)です。大勢(おほぜい)(あつ)まつて、(あい)道義(だうぎ)礼節(れいせつ)相互(さうご)扶助(ふじよ)とで()()はねば()きてゆけないのです。(なに)ものの麗光(れいくわう)感知(かんち)する(だけ)余裕(よゆう)()ちあはせないのです。

ペルリ マシュー・ペリー。ペルリ提督。米国の海軍軍人。1794~1858。東インド艦隊司令長官として、嘉永6年(1853)軍艦4隻を率いて浦賀に来航。日本に開国をせまり、翌年再び来航、日米和親条約を締結
石炭貯蔵庫 大正時代に大村にペリーの残した貯炭所があったといわれる。青野正男氏の『小笠原物語』によると、大正時代オガサワラビロウの古い屋根の下に炭が山積みになっていたという。昭和初期には屋根はなく石炭はただ野積みになっていた。
三頭政治 3人の実力者による政治体制
燦爛 華やかで美しいこと
 ペルリの艦隊(かんたい)()つた(のち)も、(のこ)るものは(のこ)つたし、それに(ふね)から()(あが)つた黒人(こくじん)奴隷(どれい)密猟(みつれふ)船員(せんゐん)家族(かぞく)などが相変(あひかは)らず共同的(きようどうてき)安楽(あんらく)生活(せいくわつ)(つゞ)けてゐました。大統領(だいとうりやう)もゐました。無論(むろん)共和(きようわ)政治(せいぢ)です。(しか)しただ部落(ぶらく)(ちひ)さな(ひと)つの部落(ぶらく)()ぎませんでした、それだけ山野(さんや)食物(しよくもつ)豊富(ほうふ)なり、(して)して開墾(かいこん)せずともバナナもあれば椰子(やし)()もあり、自然(しぜん)恩恵(おんけい)少数(せうすう)(ひと)()にとつては()()るほど充実(じうじつ)してゐました。それに外界(ぐわいかい)との小面倒(こめんだう)交渉(かうせふ)()し、不純(ふじゆん)権勢(けんせい)からも圧迫(あつぱく)されず、ただ自然(しぜん)(とゝの)つて()秩序(ちつじよ)無文律(むぶんりつ)道義的(だうきせき)制裁(せいさい)とが、その社会(しやくわい)をおのづからな(うつく)しいものに(そだ)ててゆきました。それで(ひと)()もしぜんと珍草(ちんさう)奇木(ぶらく)愛翫(あいぐわん)したり、(はたけ)(つく)つたり、(たがひ)遊楽(いうらく)したり、自由(じいう)恋慕(れんぼ)()つたりしたらしいのでした。空腹(ひも)じくなる(ころ)には、工合(ぐあひ)よくまたぺルリの(はな)して()いたのちに、しぜんと繁殖(はんしよく)した(ぶた)群集(ぐんしふ)(やま)()りては部落(ぶらく)檳榔(びんらう)(ぶき)小屋(こや)(ちか)くに()いて()たさうです。それを甘蔗(いも)焼酎(せうちう)()()(なが)ら、厨房(コツクば)から鉄砲(てつぱう)()つたものだと()ひます。正覚坊(しやうがくばう)にしてからが、その(ころ)随分(ずゐぶん)湾内(わんない)游泳(いうえい)してゐたものださうで、二時間(じかん)丸木舟(まるきぶね)()(まは)れば、三(とう)や四(とう)無雑作(むざふさ)手捕(てど)りにする(こと)ができたし、(まつた)くその(ころ)小笠原(をがさはら)(じま)は一(しゆ)極楽(ごくらく)(たう)だつたに(ちが)ひありません。

大統領 共和国の元首
共和政治 特定の個人ではなく、全構成員の利益のための政治体制
檳榔 ビンロウ。学名はAreca catechu。ヤシ科の植物、太平洋、アジア、東アフリカの一部に。
正覚坊 しょうがくぼう。アオウミガメのこと

小笠原島夜話②|北原白秋

文学と神楽坂

       二

 それが明治(めいぢ)になつて日本(にほん)版図(はんと)になると、すつかり根柢(こんてい)から破壊(はくわい)されて(しま)ひました。警察権(けいさつけん)行政権(ぎやうせいけん)とを一(しよ)()ねた王様(わうさま)のやうな島司(たうじ)()(もの)()る。サアベルがガチヤガチヤ()る、小面(こづら)(にく)驕慢(けうまん)小役人(こやくにん)がのさばる。こすつからい()いつめ(もの)小商人(こしやうにん)()()む、繁雑(はんざつ)文明(ぶんめい)余弊(よへい)と、官僚的(くわんれうてき)階級(かいきふ)思想(しさう)瀰漫(びまん)する、(しま)民主的(みんしゆてき)極楽境(ごくらくきやう)は一(ぱう)から()へぱ(ほとん)滅茶(めちや)々々()になって(しま)ひました。それで(いま)まで自由(じいう)開墾(かいこん)()土地(とち)制限(せいげん)され、あまつさへ花畑(はなばたけ)野菜(やさい)(ばたけ)()()げられ、()(ちゞ)められて、以前(いぜん)島民(たうみん)(つひ)には(しま)の一(ぱう)()ひつめられて、(から)うじて生命(せいめい)をつなぐ(だけ)生活(せいくわつ)しかできなくなつて(しま)ひました。以前(いぜん)はただ物々(ぶつ/″\)交換(かうくわん)だつたのが、一にも二にも(かね)()くてはならなくなる。遠海(ゑんかい)漁猟(ぎよれふ)厳禁(げんきん)される。さうなると、優越(いうゑつ)人種(じんしゆ)としての彼等(かれら)倨傲(きよがう)(しん)満足(まんぞく)さすべき、(なん)らの生活(せいくわつ)をも保持(ほぢ)する(だけ)自由(じいう)さが全然(ぜんぜん)(うしな)はれて(しま)つたのです。彼等(かれら)帰化(きくわ)せねばならなくなりましたが、彼等(かれら)帰化人(きくわじん)(ぐらゐ)みぢめなものはありますまい。

版図 はんと。一国の領域、領土
島司 とうし。明治以降の地方行政官。勅令で指定された島地を知事の指揮監督を受けて管轄した。大正15年(1926)廃止
驕慢 きょうまん。おごり高ぶって人を見下し、勝手なことをすること
余弊 よへい。何かに伴って生じる弊害
瀰漫 びまん。広がること。はびこること。蔓延(まんえん)すること
開墾 かいこん。山野を切り開いて農耕できる田畑にすること
倨傲 きょごう。 おごり高ぶること
帰化人 きかじん。海外から渡来して日本に住みついた人々

内地人(ないちじん)()()み、人口(じんこう)()えるとまた(しま)全般(ぜんぱん)(わた)つてもいよいよ繁雑(ややこ)しくなりました。遊女屋(いうぢよや)出来(でき)るし、警察(けいさつ)出来(でき)るし、裁判所(さいばんしよ)()てば監獄(かんごく)()つ、(したが)つて罪人(ざいにん)(しやう)ずる。
それでもまだ(はじ)めの(ころ)呑気(のんき)(ばん)なものだつたさうでした。たとへば、骨牌(かるた)など()いて監獄(かんごく)にぶち()まれた(もの)(ども)が、()になると()()して、(はま)()(たまご)()みに(あが)つた正覚坊(しやうがくばう)()つとらへ、それを()()ばして、その(かね)遊女(いうぢよ)(かひ)をして、夜明(よあけ)には()まして獄窓(ごくそう)(なか)(かへ)つてゐる。まるでお(はなし)のやうですが実際(じつさい)だつたさうです。流石(さすが)太平洋(たいえいやう)真中(まんなか)だからそこは内地(ないち)(ちが)ひます。
 (わたし)がその(しま)(わた)つたのは、それから四十(ねん)(のち)(こと)です。その(しま)(あが)ると、(わたし)(だい)一に()熱帯(ねつたい)強烈(きやうれつ)(ひかり)(ねつ)と、熾烈(しれつ)色彩(しきさい)と、(かつ)()(こと)()南洋(なんやう)植物(しよくぶつ)怪異(くわいい)形態(けいたい)とその豊満(ほうまん)薫香(くんかう)とで()卒倒(そつたう)しさうになりました。()いでは、南洋(なんやう)(しき)丸木(まるき)(ぶね)(おどろ)き、砂浜(すなはま)髪毛(かみのけ)(しらみ)をむしりつぶしてゐる肥満(ひまん)した黒人(こくじん)(ばゞ)(おどろ)き、(あか)豆畑(まめばた)(おほ)きな眼鏡(めがね)をかけ灰色(はひいろ)のジヤケツに(あか)いスカートを穿()いた白皙はくせき(じん)金髪(きんぱつ)(おどろ)き、以前(いぜん)(ひと)()つたといふ(ろう)黒奴(こくど)神妙(しんめう)奉仕(ほうし)してゐる魔法(まはふ)使(づか)ひのやうな西班牙(すぺいん)貴族(きぞく)癩病(らいびやう)(ばゞ)(おどろ)き、丸太(まるき)(ぶね)(おほ)きなお(しり)(ふた)つに()つたといふ山羊(やぎ)(かひ)黒坊(くろんばう)(むすめ)(おどろ)き、ヂョーヂ、ワシントンと()久留米(くるめ)(がすり)単衣(ひとへ)()(くろ)(ばう)青年(せいねん)(おどろ)きました。()いでは、また陽物(やうぶつ)(かたち)した白檀(びやくだん)()(かぶ)ばかり(ひろ)(あつ)めたり、珊瑚(さんご)信天翁(あはうどり)羽根(はね)と一(しよ)に、北斎(ほくさい)広重(ひろしげ)版画(はんぐわ)(なか)雑魚寝(ざこね)したりしてゐる伝説中(でんせつちう)太平(たいへい)(らう)逸民(いつみん)()(おどろ)き、(つい)ではまた(すた)()てた監獄(かんごく)(には)()(さか)つてゐるビーデビーデの(はな)(あか)(いかり)(ぐさ)仏草花(ぶつさうくわ)絵模様(ゑもやう)(おどろ)き、二三(ずん)(ほこり)がたまつて子供(こども)たちの芝居(しばゐ)舞台(ぶたい)になつてゐる裁判所(さいばんしよ)法廷(はふてい)()ては(おどろ)き、それからすばらしく瀟酒(せうしや)白尖塔(はくせんたふ)教会(けうくわい)()(おどろ)き、それからまた完美(くわんび)した植物園(しよくぶつゑん)と、(だう)()とした大理石(だいりせき)島司(たうじ)頌徳(しようとく)()(おどろ)き、役所(やくしよ)(うぐひす)()(あは)せをやつたり、午後(ごご)からは(はま)()(ぼら)ばかり()つてゐる呑気(のんき)至極(しごく)役人(やくにん)(たち)(おどろ)き、煙草(たばこ)だけは現金(げんきん)(ねが)ひます、()現金(げんきん)でお()(くだ)さる(かた)には二割引(わりびき)(いた)しますと()いた商家(しやうか)張札(はりふだ)(おどろ)き、質屋(しちや)乞食(こじき)見当(みあた)らず、(わか)(をんな)()つぱらひの()えぬのに(おどろ)き、(しま)全体(ぜんたい)共産(きようさん)(でき)なのにも(おどろ)きました。
 それにまた、(まむし)その()害虫(がいちう)もゐず、(かへる)もゐなければ蛞蝓(なめくぢ)もゐず、ただ油虫(あぶらむし)(あり)猛勢(まうせい)なのには(おどろ)きましたが、(すずめ)(からす)もゐず、(うぐひす)ばかりが内地(ないぢ)(すずめ)ほどに()(きそ)つてゐる麗明(れいめい)さにも(おどろ)きました。それに(けだもの)としては山奥(やまおく)にペルリの(はな)した鹿(しか)子孫(しそん)とかが二(ひき)ゐるばかり、あとは(うし)山羊(やぎ)(ねこ)(ねずみ)(せう)()だと()ふのにも(おどろ)きました。

獄窓 ごくそう。牢獄の窓。転じて、牢獄の中。獄中
熾烈 しれつ。勢いが盛んで激しいこと
薫香 よいかおり。芳香
丸木舟 1本の木の幹をくりぬいて造った舟
白皙 はくせき。皮膚の色の白いこと
久留米絣 くるめがすり。筑後国(福岡県)久留米で作った。綿糸を絣染めにした特色のある織物
単衣 たんい。ひとえの着物。ひとえもの。 1枚の着物
白檀 びゃくだん。甘い芳香が特徴。香木として利用。小笠原諸島では固有種のムニンビャクダン( S. boninense)がある
太平 たいへい。世の中が平和に治まり穏やかなこと
逸民 いつみん。隠者。野に隠棲する人
ビーデビーデの花 ムニンデイゴ。語源はハワイ語。沖縄の「デイゴ」と同じ種類。
碇草 イカリソウ。花は赤紫色。春に咲く。4枚の花弁が距を突出し錨のような特異な形をしている
仏草花 ブッソウゲ。正しくは仏桑華。ハイビスカス
瀟酒 すっきりとあか抜けしている
頌徳碑 しょうとくひ。偉い人をほめたたえる碑
啼き競う メジロは良い声で鳴き、江戸時代からメジロを鳴き合わせる(競争)道楽の対象だった。まるで同じことがウグイスで起きたようだ

かう()へばまるで極楽(ごくらく)世界(せかい)のやうですが()()れて()ると、流石(さすが)(しま)(しま)でした。せせこましい(せう)地獄(ぢごく)
 (だい)一にみじめなのは帰化(きくわ)(じん)部落(ぶらく)で、(なに)もかもが幻滅(げんめつ)悲哀(ひあい)(そこ)()ちこんで、生気(せいき)()ければ(かね)()く、()うや()はずで南洋(なんやう)のグワム(たう)あたりに移住(いぢゆう)するのが相次(あひつ)有様(ありさま)でした。(のこ)つたものは(ほとん)日本(にほん)(くわ)して(しま)つて、日本(にほん)(じん)(むすめ)結婚(けつこん)する(こと)(なに)よりの光栄(くわうえい)として、その鼻息(びそく)ばかりを(うかゞ)つてゐました。監獄(かんごく)裁判所(さいばんじよ)とが荒廃(くわいはい)したのは東京(とうきやう)のそれらと合併(がつぺい)したので、罪人(ざいにん)一人(ひとり)()れば巡査(じゆんさ)遥々(はる〲)一人(ひとり)()いて上京(じやうきやう)するので、(たか)煙草(たばこ)()(まい)発見(はつけん)されても東京(とうきやう)地方(ちほう)裁判所(さいばんしよ)(まは)される。つまりは莫大(ばくだい)巡査(じゆんさ)旅費(りよひ)だけが()えて()るといふややこしい(こと)になって(しま)つてゐたのでした。それに島司(たうじ)頌徳碑(しようとくひ)島司(たうじ)自身(じしん)島民(たうみん)()ひて自身(じしん)(まつ)らせたので、いつぞやは巡検(じゆんけん)侍従(じじゆう)(まへ)赤恥(あかはぢ)()いたといふ(はなし)もあります。
 (しま)(わか)(むすめ)がゐないのは、たゞ一()虚栄(きよえい)(はし)つて都会(とくわい)(そら)(あこが)れて奉公(ほうこう)出払(ではら)つて(しま)つたので、()つぱらひがゐないのは(かね)()いので(さけ)()まれず、たまたま夫婦(ふうふ)喧嘩(けんくわ)でもした()役人(やくにん)が、その(ばん)すぐと(いう)(ぢよ)()()びこめば、とくの(むかし)にその喧嘩(けんくわ)次第(しだい)相手(あひて)(をんな)()れて()り、質屋(しちや)()いのは(しち)()れれば、たちまち(しま)(ぢう)()れわたる。乞食(こじき)になりかけると、直様(すぐさま)内地(ないち)()(ぱら)はれる。共産(きようさん)(てき)面白(おもしろ)いと(おも)へば、すべての利潤(りじゆん)(おほ)生産業(せいさんげふ)(ほとん)島庁(たうちう)事業(じげふ)で、うまい(しる)島司(たうじ)()つて、あとはたゞ(つら)奉公(ほうこう)といふだけだし、(なに)さま島中(たうちう)総現金(そうげんきん)が二千(ゑん)といふ(あは)れさで、そのせち(から)さは想像(さうざう)にもつかないだらうと(おも)ひます。

鼻息びそく(うかが)う  相手の意向・機嫌を気にしてさぐる。はないきをうかがう。

商店(しやうてん)現金(げんきん)割引(わりびき)もつまりは現金(げんきん)()いからです、(ほとん)どが(ぶつ)()交換(かうくわん)習慣(しふくわん)(のこ)つてゐるので、(なに)もかもカケで、現金(げんきん)(ふね)()(とき)(ばら)ひ。だから買人(かひて)()つてにも品物(しなもの)()つても、商人(しやうにん)はただ()りませんの一(てん)(ばり)、これでは繁昌(はんじやう)する目当(めあて)はありません。ですから(しよ)商売(しやうばい)(すべ)痺靡(ひび)して(ふる)ひつこは()いのです。
 漁師(れうし)にしても、どうせ人口(じんこう)には(かぎ)りがあるので、沢山(たくさん)()れば()(やす)くなる、それで(あは)てて(すくな)()つてすぐ()(かへ)す、(はや)いが()ちですから、漁業(ぎよげふ)(さか)んになるわけもありません。
(しやう)()悧巧(りかう)()るさとも頂上(ちやうじやう)です。(ふゆ)最中(さいちう)茄子(なす)南瓜(かぼちや)()つても、わざと(ちい)さいのを東京(とうきやう)高価(かうか)(おく)つて(しま)ふ。だから(しま)()はうと(おも)へば(すべ)東京(とうきやう)相場(さうば)で、()()()るほど(かた)いので、自分(じぶん)(はたけ)でも()たない(かぎ)りは、バナナーつでも容易(ようい)には(くち)(はひ)りません。
 正覚坊(しやうがくばう)にしてからがすぐに(ころ)して缶詰(くわんづめ)にして(おく)()す。(しま)(もの)漁師(れうし)()(かぎ)りお(すそ)わけはしてもらへません。(うし)を一ケ(げつ)に一(ぴき)(ころ)しても(ころ)した()()()つて(しま)ふので、(おそ)市場(いちば)()つたものは()(そこな)ふ。一ケ(げつ)に一()牛肉(ぎうにく)がこれだから、市場(いちば)はまるで餓鬼(がき)(だう)(さわ)ぎです。
 鶏卵(けいらん)()べようと(おも)へば(とり)からして東京(とうきやう)から()()せねばならず、豆腐(とうふ)()べようと(おも)へば、一週間(しうかん)(ぜん)約束(やくそく)して()く。ランプのホヤ(こは)れれば、(べつ)のランプを()はねば、()()(くら)でゐなくてはなりません。
 商人(しやうにん)狡猾(かうかつ)奸譎(かんきつ)とは、(ほとん)日本中(にほんぢう)(さが)しても、あれほどのところはありますまい。物価(ぶつか)東京(とうきやう)の三(だい)以上(いじやう)だし物資(ぶつし)欠乏(けつぼふ)してゐる。たまに予定(よてい)に三()(おく)れて内地(ないち)からの(ふね)()れば、その以前(いぜん)()や、(しま)には(こめ)()けれぱ味噌(みそ)醤油(しやうゆ)()く、菓子(くわし)()ければ(さけ)()い。島民(たうみん)半死(はんし)半生(はんしやう)です。

痺靡 しびれて衰える。萎靡(いび)
餓鬼道 がきどう。天、人、修羅(しゆら)畜生(ちくしよう)、餓鬼、地獄を六道と言い、行いの善悪によって六道の中で生死を繰り返すのが輪廻(りんね)。この人生で食物の欲望の強い人、むさぼりの心のつよい人は死後、餓鬼道に落ちる。生きながら餓鬼道に落ちると言い、子どもは普通食欲が旺盛で子どもを餓鬼と呼んだりする
ホヤ 火屋。火舎。ランプやガス灯などの火をおおうガラス製の筒
奸譎 かんけつ。かんきつ。姦譎。よこしまで、心にいつわりが多いこと

小笠原島夜話③|北原白秋

文学と神楽坂

       三
 だから(つき)に一()内地(ないち)からの定期(ていき)(せん)(はひ)つて()()(さわ)ぎと()つたらありません。その(ふね)新聞(しんぶん)雑誌(ざつし)書簡(しよかん)小荷物(こにもつ)流行唄(りうかうた)、あらゆる文明(ぶんめい)(しん)消息(せうそく)をもたらして、この無聊(ぶれう)倦怠(けんたい)しきつた(しま)をまるで戦場(せんぢやう)のやうに緊張(きんちやう)させ、亢奮(かうふん)させて(しま)ひます。島民(たうみん)物質的(ぶつしつてき)にも精神的(せいしんてき)にも()()つてゐるのです。(ふね)がいよいよ()くといふ()(あさ)などは海抜(かいばつ)一千(じやく)船見山(ふねみやま)絶巓(ぜつてん)(のぼ)つて、水天(すゐてん)のかなたに一(まつ)(けむり)(のぼ)つてから(ほとん)ど四五時間(じかん)といふのは(すわ)つたきりで凝視(ぎようし)してゐます。(ちか)づいた(ふね)がその(みさき)の一(かく)(まが)つて、いよいよその湾口(わんこう)(はひ)りかけて、ぽうと汽笛(きてき)()らす(とき)深厳(しんげん)さもありません。それをきくと、島中(たうちう)がまた、たゞ()()(こゑ)をあげる。

消息 しょうそく。その時々のありさま。動静。状況。事情
無聊 ぶりょう。退屈なこと
絶巓 ぜってん。山の絶頂。いただき
水天 すいてん。1.水と天。水と空。2 水に映る天
深厳 重々しく、威厳がある

島中(たうちう)(もの)が、白皙(はくせき)(じん)黒奴(くろんぼ)(かほ)黄色(きいろ)日本人(にほんじん)(すべ)てが波止場(はとば)(むらが)つて、巨大(きよだい)万年青(おもと)竜舌蘭(りうぜつらん)(かげ)から()しあひへしあひ、新来(しんらい)(きやく)覗見(のぞきみ)したり、批評(ひひやう)()つたりしてゐます。たゞ(わけ)もない憧憬(しようけい)好奇(かうき)(こゝろ)()つて、その(とき)はまるで島中(しまぢう)小娘(こむすめ)のやうにワクワクしてゐます。
 (ふね)()()つて(しま)ふと、(しま)はまたぐつたりと(つか)れて、()()えたやうです。さうして(せま)(はな)(じま)天地(てんち)が、それからはまた一(そう)(せま)(ちひ)さく(ちゞ)こまつて(しま)ひます。

白皙 はくせき。皮膚の色の白いこと
黒奴 こくど。黒人の奴隷。黒色人種を卑しめていう語
万年青 おもと。関東、沖縄、中国の暖地にはえるユリ科の常緑多年草。
竜舌蘭 りゅうぜつらん。リュウゼツラン科の常緑多年草。メキシコの原産。メキシコではテキーラを作る。

新来(しんらい)内地(ないち)(じん)(むか)つては、その(はじ)好奇(かうき)憧憬(しようけい)とを()せてゐた(こゝろ)が、()()理由(りいう)のない敵意(てきい)となり反感(はんかん)となり嫉妬(しつと)となり憎悪(ぞうを)となり迫害的(はくがいてき)推移(すゐい)して()るのも、一(しゆ)島人(たうじん)根性(こんじやう)です。(こと)(しま)官権(くわんけん)は、それらの(ひと)()(むか)つて、全然(ぜんぜん)(しま)平和(へいわ)(がい)する擾乱(ぜうらん)(しや)とし、侵入者(しんにふしや)とし、罪人視(ざいにんし)し、極端(きよくたん)(これ)拒避(きよひ)しようとかかる傾向(けいかう)があります。
 (わたし)(つれ)女性(ぢよせい)一人(ひとり)紫色(むらさきいろ)羽織(はおり)()てゐるといふので、(しま)(わか)(もの)性慾(せいよく)刺戟(しげき)する()しからぬとその(すぢ)(うつた)()(もの)もありました。

擾乱 じょうらん。入り乱れて騒ぐこと。秩序をかき乱すこと。騒乱
拒避 拒否と同じ

(こと)島民(たうみん)の『肺病(はいびやう)』を(おそ)るゝ(こと)極端(きよくたん)です。(さう)してその(おそ)るべき病毒(びやうどく)伝播(でんぱん)(しや)(すべ)てが内地(ないち)からのそれら旅人(りよじん)にあるとさへ(おも)()めてゐます。(もつと)肺病(はいびやう)患者(くわんじや)おほくが、南方なんぽう極楽島(ごくらくたう)とし、理想郷(りさうきやう)として、充分(じうぶん)保養(ほやう)目的(もくてき)に、その()小学(せうがく)教員(けうゐん)郵便(いうびん)局員(きよくゐん)などに転任(てんにん)させて(もら)つて()るのも(おほ)いのです。(しか)駄目(だめ)です。その肺病(はいびやう)患者(くわんじや)が八丈島(ぢやうしま)あたりに寄港(きかう)する(ころ)は、もう電報(でんぱう)小笠原(をがさはら)(じま)まで()んでゐます。
 ハイビヤウナンニンユクチウイセヨ

極楽島 安楽で何の心配もない島。天国
ハイビヤウナンニンユクチウイセヨ 肺病何人ゆく 注意せよ

だから(たま)りません。その(ひと)(しま)へ上る頃にはもう島中(しまぢう)()(わた)つてゐて、宿屋(やどや)でも(ことわ)れば飲食(いんしよく)(てん)でも(ことわ)る、理髪(りはつ)(てん)()つても『肺病(はいびやう)(ことわ)り』と()いてある。仕方(しかた)なく()きの(なみだ)磯浜(いそはま)や、洞穴(どうけつ)(なか)にバナナの()でも()いて()(あか)し、()()をあさり、(つひ)には三()とゐたたまれずに(かへ)りの(ふね)()(ぱら)はれて(しま)ふ。さういふ(とき)島中(しまぢう)()です。中には宿屋(やどや)から(ことわ)られ、(こま)つて、土地(とち)()(いへ)()つて、いざその(いへ)這入(はひ)らうとすると、周囲(しうゐ)から立退(たちのき)請求(せいきう)です。自分(じぶん)(うち)自分(じぶん)()さへ()くに()かれず、(くさ)()し、荒磯(あらいそ)()ね、やつと(つぎ)便船(びんせん)(かへ)るには(かへ)れたが、その途中(とちう)()()いて()んで()(ひと)もありました。さうなると島民(たうみん)惨酷(ざんこく)(せい)頂上(ちやうじやう)です。

惨酷 ざんこく。残酷(惨酷、残刻)はまともに見ていられないようなひどいやり方

(わたし)肺病(はいびやう)だった(わたし)(まへ)(つま)と、その友人(いうじん)(おな)じく肺病(はいびやう)だった女性(ぢよせい)と、その(いもうと)とを()れて、(ほとん)命懸(いのちが)けに()()()して、保養(ほやう)()(もと)めに()きました。ところがさういふ(ふう)です。(わたし)たちは(こゝろ)(そこ)から(ふる)(あが)つてただ(かほ)(かほ)とを見合(みあは)せました。秘密(ひみつ)! 秘密(ひみつ)! どうにでも極秘(ごくひ)にしなければ四(にん)とも()(じに)惨虐(ざんぎやく)()にあはねば()みません。その(あひだ)(わたし)心労(しんらう)といふものは()かつたのです。(わたし)(つま)ももう一人(ひとり)のも幾度(いくたび)()()きました。そのうちに健康(けんかう)だつたもう一人(ひとり)のも肋膜炎(ろくまくえん)になつて(しま)ひました。丈夫(ぢやうぶ)なのはたった(わたし)一人(ひとり)です。医者(いしや)にも()せられません。()(もら)つたら、すぐに(はい)患者(くわんじや)だと()(こと)島中(しまぢう)()れて(しま)ふのです。空気(くうき)乾燥(かんさう)する、島中(しまぢう)白眼(はくがん)(もつ)意地(いぢ)わるく追求(つゐきう)する。病人(びやうにん)はわるくなる、それを極秘(ごくひ)にしなければ(いのち)にかかはる。――この(あひだ)(わたし)たちはまた一(もん)なしになって(しま)ひました。(わたし)小笠原(をがさはら)渡海(とかい)をただ詩人(しじん)好奇的(かうきてき)遊楽(いうらく)(おも)つて、(いろ)()(わら)つてゐた(ひと)()内地(ないち)にはありましたが、(いま)だからすつかりお(はなし)します。そんな呑気(のんき)(こと)では()かつたのです。

顫える ふるえる。恐れや興奮から発作的に震える
白眼 冷たい目つき

そのうちに(おな)じく肺患(はいくわん)秘密(ひみつ)にしてゐた小学(せうがく)教員(けうゐん)が、その(やまひ)(おも)くなると一(しよ)露見(ろけん)して、()(ぱら)はれる。(おな)じやうな郵便(いうびん)局員(きよくゐん)()にかゝる。それを内地(ないち)から看護(かんご)(はる)()()母親(はゝおや)()ぬ。――()()てられぬ悲劇(ひげき)()()ぎに私達(わたしたち)周囲(しうゐ)には(おこ)ります。今日(けふ)(ひと)()明日(あす)自分(じぶん)()(うへ)といふ、その(おそ)ろしい絶望(ぜつぼう)(こく)()私達(わたしたち)(あを)くして()る。たまらなくなつて、やつと(かね)工面(くめん)をして二人(ふたり)だけは内地(ないち)(かへ)し、一(たん)(つま)居残(ゐのこ)りましたが、その(つま)をもまたニケ(げつ)(すゑ)(かへ)し、いよいよ最後(さいご)一人(ひとり)となつて()(とゞ)まつた(とき)(わたし)はそれこそ一(もん)なし。(ところ)絶海(ぜつかい)(はな)(じま)です。人情(にんじやう)冷酷(れいこく)(かね)()し、これからの(くる)しさは(まつた)くお(はなし)はできませぬ。そののち一と(つき)()つて(わたし)はまたやつとの(こと)帰航(きかう)(ふね)()(あが)りました。さうして(かへ)つて()ると、(つま)はもう貧乏(びんばふ)がいやになつたから(わか)れたいと()ひます。(なん)()めに(わたし)はその二三(ねん)(いのち)()()して(くる)しんだか。――その()(わたし)(まつた)く、一()(ぜん)世界(せかい)女性(ぢよせい)(のろ)つて(しま)ひました。
 この(こと)()つて、(わたし)()きます。

露見 秘密や悪事など隠していたことが表にでて、ばれること。

(わたし)(しま)()(ころ)に、その粟粒(あはつぶ)ほどの小天地(せうてんち)にも、(おそ)ろしい一騒動(さうどう)(おこ)りました。島司(たうじ)排斥(はいせき)爆発(ばくはつ)です。それが()めに(わたし)までがその渦中(くわちう)()きこまれて、(ほとん)どその煽動(せんどう)(しや)がの(ごと)島司(たうじ)()から(にく)まれました。暴虐(ばうぎやく)圧政(あつせい)自派(じは)擁護(ようご)と、それらを、(つゞみ)()らして駁撃(ばくげき)する所謂(いはゆる)正義派(せいぎは)なるものも、()()(はな)小島(こじま)正義派(せいぎは)です。佐倉(さくら)宗吾(そうご)気取(きど)りの(ぼう)()(ごと)きも結局(けつきよく)(あは)れな(せう)名誉(めいよ)(しん)傀儡(くわいらい)です。と(おも)ふと()(どく)でもあり、をかしくもあり、迷惑(めいわく)でもありました。
 (おそ)ろしい(こと)には、反対派(はんたいは)一人(ひとり)二人(ふたり)がたゞ何気(なにげ)なく山路(やまぢ)()()はして一言(ひとこと)二言(ふたこと)(なに)かささやいた、それさへ、その()には役所(やくしよ)へも島中(しまぢう)にも()(わた)つてゆく(こと)です。

島司排斥 小笠原の清瀬公園には古い石碑が建っています。この碑はほとんど文字が擦り切れて読めなくなっていますが、「小笠原島島司阿利君紀功碑」です。小笠原の島司だった阿利孝太郎を讃えています。在任期間は明治29年10月から大正5年4月までの20年6か月。この碑は、自分が在任中の明治39年6月に自分で建立したものです。この碑文を長谷川馨氏が翻訳しています。

 阿利君は、人柄明るく太っ腹でしかも切れ味鋭く、島や島民の利害損失についてはかなり敏感である。この島の行政を推進していくについては非常に勤勉意欲的で、徹夜をしても少しも疲れたふうがない。
 今、阿利君治頭十年の業績を上げてみるならば、教育機関を整備して島民の能力開発に努力したこと、小笠原航路について船舶の向上便数の増加等充実を図り、また島内の道路河川等の整備を行って産業振興の条件整備を行ったこと、民有地を整理して土地台帳を整備したこと、山方石之助に委託して『小笠原島志』を発刊し小笠原の発見から今日までを確り記録したこと、日露戦役を記念して荒蕪に帰していた島の各地に植林したこと、などなど枚挙にいとまない。
 考えてみるに阿利君の島司在任十年、その間彼は島民の幸福ということを第一に心掛け、そしてその考えは周到にして綿密であった。目前の効果に目を奪われず、島にとっての真の利益、長期的な利益について肺肝を摧いた。
 島の人々はその人徳に感服し、かつその功績に感謝して、碑を建てて阿利君の業績を後世に伝えようと相談ができあがり、代表者がきて私にその碑文を書くように依頼された。そこでこの文章を認め且つ阿利君を称える詩を作って言おう。
  公平無私の潔さ 古武士の如き阿利島司
  一所懸命その努力 この島のためひとのため
  島びとこぞって慕い寄る 君のお蔭の大いさよ
  嗚呼この詩よ栄えあれ 世の牧民の鑑なれ

この文章の通りなら高潔無私の大島司です。そうでなくても、自分を褒めちぎる巨大な碑を、池の中の築地に二見港を睥睨するかの如く建てたというのも相当な人物です。当然、大正時代になると、マスコミに追求され、刑事事件の告発もあって、ついに辞職しました。
以前はこの碑は東京電力家族寮の敷地にありましたが、移転してこの場所に移ってきます。
駁撃 ばくげき。他人の言論・所説を非難・攻撃すること
佐倉宗吾 下総国(千葉県)印旛郡の名主・佐倉宗吾が佐倉藩の重税に苦しむ農民を代表して将軍に直訴、租税は軽減したが、宗吾夫妻は磔になった。この話が正しいのかは不明。講釈師は講談「佐倉義民伝」を使って百姓一揆のさかんな土地で佐倉宗吾の伝記を語った。
傀儡 他者の手先となって思いのままに利用されている人物や組織の比喩

そればかりでなく、その(あさ)電報(でんぱう)為替(がはせ)何円(なんゑん)(たれ)それに(おく)つて()たと()(こと)もその(ひる)には(しま)商家(しやうか)にはチヤーンと()(わた)つてゐます。(わたし)もやつと(かね)(おく)つて(もら)つて一息(ひといき)つけるともう、(かた)(ぱし)からせびり()られて(しま)ひました。そしてまた(もと)の一(もん)なしで煙草(たばこ)(ひと)()へなくなりました。  (しま)浮世(うきよ)(はな)れてゐるやうで、(かへつ)て、浮世(うきよ)それ自身(じしん)を、縮図(しゆくづ)してゐます。
 (しま)自然(しぜん)麗色(れいしよく)など(いう)()鑑賞(くわんしやう)してゐられるものですか。かうなると自然(しぜん)人間(にんげん)から(おも)ふさま()みにじられて(しま)つて()ます。
 文明(ぶんめい)()ふのも中途(ちうと)半端(はんぱ)ではよしあしです。

麗色 れいしょく。美しくのどか

油虫|小笠原小品|北原白秋

文学と神楽坂

油虫
 ()(がさ)(はら)父島(ちゝじま)大村(おほむら)、牧師ヂョセ・ゴンザレスの旧宅(きうたく)、今は、内地から移住してゐる若い詩人Kが仮寓(かぐう)、その(コツク)()挿 話(ヱピソード)
         *
 (うら)らかな麗らかな何ともかとも云へぬ瑠璃(るり)(いろ)黄昏(たそがれ)である。
 (コツク)()のありとあらゆる静物(せいぶつ)は、今日はことに日が()れても安らかであつた。而して、ただ在りの(まゝ)に、暮れてゆくばかしである。
 (うす)(あかり)は流しの上の欄間(らんま)と、向つて食堂への通路(つうろ)と、同じく開けつ(ぱな)しになった庭の方の出口(でぐち)と、この三方から、何時(いつ)までも何時までも夢のやうに忍び込んで来た。
 殊に欄間(らんま)隙間(すきま)から青い縞目(しまめ)になって這入ってくる光のうつくしさ、俎板(まないた)の上の大きな()ぎたての甘藍(キヤベツ)や皿や肉刺(フオク)などはまるで生物(いきもの)のやうに青い縞をつけられて、今にも(をど)り出しさうに見えた。
 その上に幽霊の手首(てくび)のやうにいくつも(ゆは)へて吊るされてゐたのはまだ青い小さなバナナの房であつた。
 黒く焦げついたフライ鍋や、(ざる)や、()つ切り庖丁やがその隅つこにあつた。
 また向つて食堂(しよくだう)()りの隅の方にも棚がある、その棚に焜炉(こんろ)と、焜炉には華奢(きやしや)(ぎん)いろの湯沸(ゆわかし)が載つてゐた。その背後(うしろ)薬味(やくみ)や、酢、醤油の玻璃(がらす)(びん)はもうよほど暗くなつて薄い光の放射(ほうしや)だけしか認められない。
 出口の外は真白(まつしろ)い砂地である。井戸の白い流しも向うに見える。砂の白い反射(てりかへし)が、今出口を通して土間(どま)にどかりと(ほう)り出された大きな野菜巃を劃然(くつきり)と浮び上らせ、()ぢぎるゝばかり積め込まれた赤いトマトの山をまだ(あか)るく染め出してゐる。
 その土間には色々のものが散らばつてゐるやうだが、さだかでない。ただ云つて置きたいのは奥の(くら)いところに土竈(へつつい)があつて、それに不釣合(ふつりあひ)に大きな鉄鍋(てつなべ)がかゝり、鎬の中には驚くほど仰山に瀬戸物の食器や(さじ)やコップがごつたかへしてゐる事である。これは肺結核の黴菌を殺す為に、食前に必ず一度はくらくらと煮沸(しやふつ)さる可きものとしてある。
 それにまだひとつ(めう)なものがある。それは足の長い()(がさ)(はら)(たこ)(でつ)かいのがぬるりと一本その上の(はり)からぷら下つてゐる事である。死物(しにもの)ではあるしことに()熱帯(ねつたい)の暑い空気の中で、風も吹かねば、そよとも動くことではない。何の事はない、()げ損つた(よい)()盗賊(どろぼう)片足(かたあし)屋根(やね)から踏み破つて、その儘日が暮れたといふかたちである。
 何れも(せい)あるものではない。(たゞ)し、凡てが恍惚(うつとり)と暮れてゆく。ただ()りの儘に今しも(かす)かに暮れてゆきつゝある。
         *
 此家(こゝ)の家族は若い主人と内地(ないち)から一緒に来た若い三人の女性と、島で雇った女中が一人、都合(つがふ)五人である。
 こゝに(ちう)をして置く可き事は連の三人の女性は皆病人で、二人は肺結核の初期、一人は肋膜炎の徴候がある事である。女中は若いけれども白痴(はくち)である。真に健康なのは主人一人であるが、之が極めて快活で一番無邪気である。
 病気に対する予防は充分にしてゐる。真実で健康な主人は大丈夫伝染(うつ)りはしないと平気でゐるけれど、女達(をんなたち)がさうはさせない。先づ食前食後には必ず石炭酸で手を消毒する事、食前には(また)(かなら)ず一切の食器を一時間大鍋に入れて煮沸する事に(さだ)められてある。女中(ぢよちう)は白痴だし、ハイカラのお(ぢやう)さん(たち)脾弱(ひよわ)我儘(わがまゝ)だし、それに煩瑣(はんさ)なかういふ余計の仕事(しごと)があるので、三度の食事は中々に時間通りにゆかない、時には一()(ぐらゐ)は抜かす事がある、それは病人には何でもない事であるけれども、主人のやうに強壮な胃袋を持った青年には(なに)より(みぢ)めな事である。白痴(はくち)の女中もよく食ふ。或は主人以上に食慾は貪婪(どんらん)であるかも知れない。それで二人はいつも腹を()かしてゐる。
 主人は非常にトマトが好きだ。小笠原(をがさはら)のトマトは殊に新鮮でまるで鶏肉(かしは)のやうな味がする、主人はトマトに正覚坊(しやうがくばう)の肉さへあれば御飯(ごはん)なぞはどうでもいいと云ふ(くらゐ)である。だからトマトばかり買ひ込んで居る。八百屋もトマトばかり持つて来る。
         *
 今日も八百屋がトマトの極上(ごくじやう)といふところを沢山(どつさり)かつぎこんだ。八丈女の狡猾(わるごす)いあの手んぼうの内儀(をかみさん)まで、磨古木(すりこぎ)(やう)になった片方(かたつぽう)の肘でこりこり籠の黒い茄子やトマトを掻き廻はしては、無理強(むりし)ひにいくつもいくつも畳の上に(ころ)がして行つた。
 それで晩餐(ばんさん)存外(ぞんぐわい)簡単に済むだ。昼餐が(おそ)かつたので、女達は麺麭(パン)とパウリスタアの珈琲、主人は腸詰(ちやうづめ)にトマト、それ位にして、それから(めづ)らしく四人でうち連れて外出した。そのあとは森閑(しんかん)たるものである。留守(るす)(ばん)の女中までが()()けずに出て行つたまままだ帰つて見えない。(コツク)()の戸も(なに)()けっぱなしである、而して主人から早速貯蔵(しまつ)て置くやうにとあれほど命令(いひつ)かつた大切(たいせつ)のトマトも矢張(やは)り籠のまゝで土間に放り出された儘になってゐる。
 而して日が暮れた。
         *
 時は聖晩餐(せいばんさん)の夜である。
 日曜学校の若い先生アレキサンダア・ゼセ・アカマン・ツウクラブ君は軽い背広に夏帽子で(コツク)()の前の垣根の外を通つてゆく。而してお(となり)真白(まつしろ)な教会堂に赤や黄の(かざり)硝子(がらす)を透かしてパツと()(とも)るとバナナ畑を近景(きんけい)にした教会堂の(うす)(あかり)益々(ます〱)瀟洒(せうしや)な光景になる。先程まで裏の赤い畑に(くわ)()つてゐた牧師のヂョセ・ゴンザレスも今は黒い僧服に身を改めて、しづしづと椰子(やし)檳榔(びんらう)の葉ずれを(あふ)ぎながらその石段をのぼつてゆくのである。
 暫時(しばらく)あつて、お祈禱(いのり)の言葉がきこえ、静かに静かに讃美歌の合唱がはじまる。例のキンキン声を頭の尖端(てんぺん)から出してゐるのは帰化人上部(ウエブ)辺理(ヘンリ)の娘のモデの妹のセデのそのまた妹の悪戯(いたづら)(むすめ)のリデヤらしい。此家の三人の(をんな)たちの声もするやうである。
 ハレルヤ……ハレルヤ……
 その時、(コツク)()の屋根の暗い檳榔(びんらう)の葉裏に何かしら()いて出るやうな(かす)かな(かす)かな響がした。それが次第(しだい)次第()濃密(こまやか)になって蕭々と秋雨(あきさめ)のふるけはひとなり、響は響に重なり、密集してまた更に四方の羽目(はめ)にふり灑いでくる……と、(はり)にぶら下った大蛸の吸盤(きふばん)のひとつが薄暗(うすくら)い空の中でピカリと光つた。かと思ふとつるつるつると見る間にその光が()びてくる。(あと)から(あと)からと光りながら絶間(たへま)もなく光つてゆく……蛸が(かす)かに生きかへつて()()した。と又、俎板(まないた)の上の甘藍も庖丁も肉刺(フオク)も筒の中の赤いトマトもフライ鍋も何かしら色が(かは)つて来た、雨の音がそこにもここにもし出した。はては(いよ〱)驟雨(しうう)のやうな響となつて、異様な動物性の臭気(しうき)がそこら一面に満ちわたつた。
 何か異変(いへん)が起りさうである。
 隣ではヂョセさんの覚束(おぼつか)ない日本語のお説教が始まった。
         *
 一(たん)、暗く落ちついた瑠璃(るり)いろの空の光は暫らく()つと(ほん)のりとまた(あか)るくなってゆく様である。見る()に明るくなつてゆく。それは檳榔(びんらう)の葉ずれや鳳梨(ハイナツプル)の匂のする、砂糖焼酎や、乾草(ほしぐさ)や、腐れたバナナのにほひのする(つき)の出しほの(うす)あかりである。(には)のタマナの葉がてらてらと光り、白い砂地の明りが更に白く潤味(うるみ)を帯びて、風がさらさらとわたると、豆畑や赤い斜面の玉蜀黍(たうもろこし)の中で鶯がまたささ鳴きをはじめる。
 ――ヨウ――、月夜闇夜(つきよやみよ)と、ナ、云はずにおぢやれ、いいつもバナナのかあげはやあみい……。
 シヨメ、シヨメといふ八丈節(はつじやうぶし)の流しがきこえる、浜はいま太平洋の横雲が霽れて、大方(おおかた)昨夜(ゆふべ)のやうな麗らかな()(まる)い大きな大きな月が瑠璃(るり)や緑の浜桐や護謨(ごむ)の葉越しにゆらゆらとせり(あが)つてきたのであらう。リデヤの父親(ちゝおや)辺理(ヘンリー)が大きな独木舟(カヌー)の櫂をかついで今また垣根の外を通る、
 ――Good night
 ――今晩は。

 (コツク)()欄間(らんま)(そと)が水をうつたやうに静かになつた。これから昼のやうに明るくなるのである。
 ふと、カサカサといふ音がした。甘藍が動いたやうである。月光の下、(かさ)み合つた(あを)球菜(たまば)の間から褐色の大きな(ひか)るものが(すべ)り出した。その物は爽かな野菜の香気を(しみ)()嗅ぎ惚れてでもゐるやうに暫時(しばらく)、その水のやうな燐光(りんくわう)の中にぢつとしてゐたが、またするすると(くら)い影を曳いて辷り落ちた。油虫(あぶらむし)である。と見ると、見る間に、その油虫が一つまた一つ、二匹、三匹、四匹、五匹、はては(かず)(かぎ)りもなく、葉と葉の(あひだ)から(すべ)り出した。まるで()きた甘藍(キヤベツ)の心の心から()いてで出るやうだ、走り(まは)る、葉裏(はうら)へ乗り越す、蕭々とまた(コツク)()一杯に驟雨(しうう)の来るけはひがする、油虫が愈匍ひ廻るのだ。
 大きな、小笠原特有の油虫である。内地ののやうに(あや)しい(ひほい)こそ立てないが、居るわ居るわ、屋根裏、羽目(はめ)卓子(テーブル)の下、赤い詩集の表紙の上、男女の別ちもなく油さへ塗つてあれば(あたま)の髪の中へまでも、忍び込み、着物(きもの)は噛り菓子皿は嘗める、おしまひには(はね)を開いて飛び廻る、縦横無尽である。それが今(つき)()(しほ)の暗まぎれに時を得顔(えがお)に跳梁する。
 忽ち、甘藍(キヤベツ)褐色(かつしよく)の塊となった。つるつると光り、ゆらゆらと()れ、底の底から無数(むすう)の微かな音響(おんきよう)を立て、輝く光の塊となつて燃えあがつた。動く、動く、一(せい)に動く。油虫が動くのでない。生きた野菜が自分から(ゆら)めき出したのである。と、俎板(まないた)が動く。菜つ切り庖丁が動く。ナイフや肉刺(フオル)はまた豊麗な饗宴の夢でも見るやうに(をど)り出す、まるで貪り足らぬ人間の「食慾」が亡霊となって、肉を切り、マカロニを(すく)ひ上げるやうに、それをがつがつ(をど)らすのである。鍋の中の皿や茶碗は勿論、棚の上の薬味(やくみ)、ソースの(びん)まで生きかへつたやうに音を立て、手が出、足が出て、(それ)()一塊(ひとかたまり)の大きな大きな褐色の虫となつて燃え上る、自分達の重さに傾きかかつた籠の中のトマトは(るゐ)()と一つ一つに(はね)が生へて(ころ)がり出し、箭までが()ぢきれさうに(せい)一杯(いつぱい)の力を出して(ゆら)めき出した。月の光は(いよ〱)らぢゆうむのやうにそれらに新らしい生活力を与へ、露を()らし、素朴な風味と芬香とを(そゝ)ぎかける。欄間(らんま)から流れ込む青いその光が又俎板(まないた)にいつぱい(たか)つてゐる油虫の集団に美くしい幾条(いくすぢ)かの縞目(しまめ)(ゆら)めかした。その縞目が又()えず流動し、蠢動する。
 静物の世界が今色も(にほひ)も響も一緒に真実一念に燃え上がつたのである。
 ――Tonka John! Tonka John!
 甲高(かんだか)なキンキン声を出して、教会との隔ての垣根から誰やら呼ぶ。女の子の声である。リデヤだ。
 ――Tonka John! Tonka John! 居るかい。
 垣根を向うからどんどんと敲く。(たれ)家内(なか)から返事する者がない。油虫の運動がちよとたじろいた。野菜や食器がひたと静止する。
 (そと)は実に麗らかな良夜である。リデヤは垣根の上から真白な(あご)だけしやくつて延び上った。十二三の、鼻の高い、眼の迫つた、髪の赤い、如何(いか)にも悪戯者(いたづらもの)らしい顔付である。
 ――Tonka居ないか、いいもの見せやうか、Tonka!
 Tonka Johnとはこの家の若い主人の幼な名である。南国(なんごく)の生れで、郷里が長崎(ながさき)に近いだけ阿蘭陀(オランダ)なまりがあつて、日本人の名にしてはをかしいけれども、ここではその(はう)が調子よく唇く、それで自身もこのトンカジョンで通してゐる。この青年がこの島に()いて三日(みつか)()の朝、人間よりも大きい(はま)万年青(おもと)が並木のやうに続いて、(にく)の厚い竜舌蘭(マニヲ)(むらがり)が強烈な日光の中に滅法界(めつぱふかい)に大きい海蟹(うみかに)の足の如な()(えふ)を八方に(ひら)いてゐる傍で、砂浜に曳き上げられた黒い()()()の上に竝んで腰を掛けながら、初めて逢つたその娘は()いた、
 ――お前の名は何ていふの、
 ――Tonka John.
 ――Tonkaかい、(あたい)の名はRydia.
 さうして猫のやうに()()()を躍り()えながら、
 ――遊びにお出でよ、(あたい)んとこに白い()(ちやう)が居るよ。
 と云つた。而して手に持った貝殻を矢庭に砂の上に(たゝ)きつけて、()け去つた。それからこのリデヤとトンカジョンは、(だい)仲善(なかよ)しになった。
 今もTonka.Tonkaとキンキン(ごゑ)で呼んでるが、(だれ)も返事をしない。リデヤは(もど)かしくなつたか、ヒラリと垣根に()ぢ上つた。而して片足を掛けながら、乱暴にも乗り越して来る。髪をお下げに()らして、ツンツルテンの浴衣(ゆかた)を着てゐる、而して赤ちやんのやうに桃色の三尺を(うしろ)にダラリと(むす)んでゐるのである。それが片手(かたて)(ちひ)さな亀の子を糸に(つる)して下げてゐる。
 そのまま、()けて来て、(コツク)()(のぞ)いたが、(だれ)もゐない。食堂の硝子窓を覗いたが(だれ)も居ない。今度(こんど)は庭を廻つて(うしろ)から応接間の方を覗きに行つたやうである。
 (あか)るいバナナの向うから、
 ――Tonka.Tonkaの馬鹿やい、ヂヨネの伯父(をぢ)さんが南洋から帰つたの知つてるかい、()つちやな玳瑁(たいまい)()を見せてあげるから()てお出で、正覚坊(しやうがくばう)の児なんかとまるで違ふんだよ、ホーラ。
 リデヤ()、中々のお悪戯(いた)さんだ。今度は裏庭(うらには)のバナナのかげから、
 ――ヂヨセ、油虫の化物、教会に亀の子持つてたつて、(なに)がいけないんだい、たゞの(かめ)の子ぢやないんだぞ、玳瑁(たいまい)の子なんだぜ、馬鹿(ばか)肺病(はいびやう)やみ、見てゐろ、お前の(とんが)り鼻に今に()みつかせてやるから、イヒ……
 リデヤ()(なか)()のお悪戯(いた)さんだ。油虫の化物と云つたので、(コツク)()の油虫は一(せい)にヒヤリとしてカサカサ、カサカサと影にかくれた。
 リデヤが()つて了ふと再び(コツク)()の活劇がはじまる。
         *
 野菜や食器の感覚は常に新鮮である。(さかん)に貪婪な油虫にその葉や肉心(にくしん)を蚕食されながら、甘藍(キヤベツ)とトマトは愈フレツシユな滴汁(しづく)滴吹(しぶ)き、香ひを放ち、愈清く(かな)しくなつてゆく。食器は盛んに()められ乍ら、西洋皿は又た盛んに(こうし)や雲雀やアスパロガスの(しゆ)()の豊満な献立(こんだて)を愈白い瀬戸の光沢の(うへ)()り上げ、ナイフは(をど)つて腸詰(ちやうつめ)を切り、フオクは盛んに幻想界にそれを突き刺し乍ら、(いよ〱)光りに光つてゆく。
 月光は愈(コツク)()いつぱいに円弧燈(アークライト)のやうな水々(みづ〲)しい紫色を浴ぴせかけた。新鮮と素朴(たと)ふるものなしである、静かなこの夜の光の(なか)(のこ)るところなく照らされて油虫は一斉に全身を極めて神経過敏に顫はし乍ら、活動し、蠢勤し、集散し、反撥し、時に鏡のやうに反射(てりかへ)し、雪のやうに湧き、焼酎(せうちう)のやうに沸騰し、雨のやうに蕭々(せう〱)と音を降らしつつある。而して見る間に死んだ大蛸の片足を甦らしめ、又見る()
査古体(チヨコレート)(いろ)の甘藍を俎板(まないた)の上に躍らし、トマトをつやつやと(ころ)げさせ、脂じみた食器を微細に光らせ、愈光らせ舞踏(ぶたふ)させ輪舞させつつある。而してロには盛んに大牢(たいらう)の滋昧に(した)(づゝみ)をうち乍ら、霊魂(たましひ)は幽かに法悦三昧境に入りつつある。
 かくてまた一時間が過ぎる……
         *
 ばたばたと窓の外に足音がした。
 油虫はぱつと八方に散乱しながら逃げ走る。ほんの一瞬時である。半は夢のやうに半は感傷的に躍動しつつあつた凡ての静物ははたと静止した。
 油虫が消えて了へば、幻想も消える。澄みに澄む月の光に照らさるる静物は矢張り元の静物である。ただトマトと甘藍(キヤベツ)は全く哀れであつた。散々(さん〲)に食ひ荒らされたトマトは新しい傷口(きずぐち)の痛みから光沢(くわうたく)を失ひ、()半分(はんぶん)になり三角になり、或は(はち)の巣のやうに吸ひ()ぶされ、ギザギザとなり、今は籠の中から躍り出づる力もなく、染々(しみ〲)と残りのセンチメンタルな漿液(しやうえき)()らしつつある。甘藍(キヤベツ)はなほさら、葉をむしられ、(しん)()み破られ、色も風味(ふうみ)もなく、悄然(せうぜん)と欄間の青い影と光の縞目(しまめ)に縞づけられて僅かに()めたい残りの葉で胸を掻き合はしてゐる。そして、()面から湧き上つた真青(まつさを)な初一念も何処(どこ)へやら今は白く(ころ)がり放しである。
 足音がぱつたり(とま)つたと思ふと、ふいとその欄間(らんま)のところに、思ひがけない真黒(まつくろ)な顔が現はれた。奥村(おくむら)(此処から十町ほど離れた帰化人の部落)の黒人娘(くろんぼむすめ)のベネの(かほ)である。何で差し(のぞ)くのか暫く閴寂(ひつそり)とした家内の様子(やうす)を窺つてゐたが、ただそつと首肯(うなづ)いて、欄間(らんま)の隙から燃え立つばかりの真紅(まつか)なアマリリスの花を一(ぽん)差入(さしい)れて、又そつと消えて行った。しとしとと砂を踏む足音がする……、而してまたその足音も(かす)かに幽かに消えて行つた。
 油虫はたちまちにその赤い花に密集した。花が又忽ち真黒(まつくろ)になつた。而して苦痛に(をど)り出す……。
         *
 さあて、(いよ〱)油虫の世界である。
 屋根裏(やねうら)の檳榔の葉を伝ふ(かず)(かぎ)りもない油虫が一時に驟雨(しうう)の走るやうな音を立てる。羽目(はめ)の隅から隅まで駈け廻る。焜炉(こんろ)(へり)を辷り上る、(ぎん)いろの湯沸をまつくろくする。コップの(なか)の腐つた牛乳を()める。フライ(なべ)(あぶら)(たか)る。野菜には飽いたか()つたらかして、今度は愈結核菌(けつかくきん)煮沸用(しやふつよう)の大鍋の中に一斉襲撃をする。油虫、油虫、恐ろしい肺病の黴菌がそこにはうぢやうぢや繁殖してゐる真最中(まつさいちう)だぞ、()めたら大変(たいへん)、みんな肺病になって了うぞよ。
 油虫は考へない。ありとあらゆる(もの)に対してただ無闇(むやみ)に密集する。見る間に(コツク)()一杯油虫となるまで満月の光を飽迄も悪用する、人さへゐなければ縦横無尽である。
 油虫は、月に光つては(さゞなみ)の寄せる如く屋根裏(やねうら)から羽目の隅々(すみ〲)、窓、棚、あらゆる静物の上にまた一としきり驟雨(しうう)のやうに走り廻る。誇張すればシネマトグラフの西洋の化物(ばけもの)ホテルのやうに窓の硝子がくるくる廻り、流しが歩行(ある)き、土間が天上(てんじやう)し、はてはくるくると(コツク)()全体(ぜんたい)が廻り出す。さながらさういふ光景である。
 トマトも甘藍(キヤベツ)も今はあったものかは。
 ハレルヤ……ハレルヤ……
 教会では愈おしまひの祈祷(いのり)が済むだと見えて、また平和な讃美歌の合唱がはじまつた。
 今、(コツク)()は全く油虫の世界である。家がゆらゆら動く……
        *
 程もあらせず、(そと)にガヤガヤペチヤペチヤと人間の声がする。(とほ)り過ぎるかと思ふと、さうでなし。ばたぱたぱたぱたと()()むで玄関の戸の把手(とりて)(ねぢ)るが早く、パツとマツチを()る、応接間(おうせつま)にはラムプが(とも)される。人の影が障子にちらつく、やがてガチヤンと(ゆれ)椅子(いす)に腰を(おろ)した(おと)がして、元気な男の声で、
――お(なか)()いた、早くトマトを()つといで。

1915(大正4)年4月1日「ARS」創刊号に発表。

三浦しをん『舟を編む』|神楽坂

文学と神楽坂

 三浦しをん著の『舟を編む』(光文社、2011年)では神楽坂の『月の裏』という料理屋が出てきます。主人公の馬締(まじめ)光也の妻、()()()が営む料理屋です。さて、ここはどこにあるのでしょう。本の163頁では

 神楽坂の入り組んだ細い道を行き、たどりついたのは、狭い石畳の路地のどんづまりにある、古くて小さな一軒家だった。軒下(のきした)に四角い外灯がついている。オレンジ色のやわらかな光を投げかける外灯には、『月の裏』と書かれていた。
 格子戸を開けると、板前の恰好をした青年が折り目正しく迎えてくれた。たたきで靴を脱ぐ。
 上がってすぐに、板張りの一間がある。広さは十五畳ほどだろうか。左手に白木のカウンターがあり、そのまえに五脚ほど木の椅子が置かれている。ほかに、四人がけのテーブル席が四つ。席は八割がた埋まっていた。接侍中のサラリーマンもいれば、自由業ふうの若い男女もいた。
「いらっしゃいませ」
 カウンターのなかから声をかけてきたのは、女性の板前だった。四十になるかならないかぐらいに見える。黒い髪をうしろでひとつにまとめた、すごくきれいなひとだ。
 青年に案内され、辞書編集部一行は玄関の右手にある階段を上った。二階は八畳の和室で、簡素な床の間にウツギの花枝がいけてあった。あとは廊下を隔てて、お手洗いの戸と店員の控え室らしき戸が並んでいるだけだ。
(中略)
「『月の裏』を営んでおります、(はやし)()()()です。今後もどうぞごひいきに」

210頁では

 神楽坂の夜の闇は、いつも濡れたような輝きを帯びている。
 石畳の小道をたどり、片辺は『月の裏』へ宮本を案内した。格子戸を開けると、「いらっしゃいませ」と香具矢がカウンターの向こうから挨拶を寄越す。精一杯、愛想よくしようと心がけているようだが、実際にはなめらかな頬の皮膚がちょっと動いただけだ。これ以上ないほど繊細に包丁を操るくせに、あいかわらず生きることに不器用そうなひとだ。

 つまり、『月の裏』は神楽坂の「狭い石畳の路地のどんづまりに」あり、「古くて小さな一軒家」で、「石畳の小道をたどり、格子戸を開け」、さらに「たたきで靴を脱」ぎ、「板前」がでてくる。「板前」なので「日本料理」で、フランス料理屋やイタリア料理屋、中国料理屋ではありません。

 石畳は神楽坂中にあるというのではありません。意外と少ないのです。赤い道がピンコロの石畳です。

石畳

石畳

 これで「路地のどんづまりに」ある、つまり、袋小路にある場合は1つだけで、「見返し横丁」だけです。ほかは袋小路ではなく、一方が入り口、別の1方が出口です。では、見返し横丁でいいのでしょうか。困ったことがあり、それは「格子戸を開け」て、「たたきで靴を脱ぎ」「板前がでる」ことはできないのです。「見返し横丁」のどんづまりには海鮮居酒屋『ろばた肴町五合』と最近できたイタリアンレストラン『Artigiano(アルティジャーノ)』があります。アルティジャーノは小さな店舗ですが、イタリアンだし、ろばた肴町五合はろばた焼きで、『月の裏』とは違う場所の気がします。

 それでは「かくれんぼ横丁」ではどうでしょうか。石畳の小道をたどり、格子戸を開け、たたきで靴を脱ぐ。ぜんぶ出来ます。しかし、ここにも問題が。場所は『レストランかみくら』が一番いいのですが、これはフランス料理屋なのです。それでは最近できた和食の『千』や割烹の『越野』でしょうか。しかし、どれも「どんづまり」ではなさそうです。

見返しとかくれんぼ

 まあ、結局、小説だからなあ。「路地のどんづまり」、「古くて小さな一軒家」、「格子戸を開け」、「たたきで靴を脱ぐ」のひとつやふたつがちゃんとあっても、全部はありえない。嘘で空想だし。でも、こんな料理屋があると、本当にはいいのになと思います。

『新宿区町名誌』と『新修新宿区町名誌』

文学と神楽坂

『新宿区町名誌』は昭和51(1976)年、新宿区教育委員会が発行し、『新修新宿区町名誌』は平成22(2010)年、新宿歴史博物館が発行したものです。『新修新宿区町名誌』によれば、2つの違いは

一、本書は、昭和51年(1976)に新宿区教育委員会から刊行された『新宿区町名誌』の内容を再調査し、全面改訂を行ったものである。
一、地域区分は『新宿区町名誌』を踏襲し、古い村を単位とした十区域(①牛込東部、②牛込西部、③牛込北部、④市谷、⑤四谷、⑥新宿と周囲、⑦大久保・百人町、⑧西早稲田・高田馬場、⑨落合・中井、⑩北新宿・西新宿)に分けた。項目は原則として現在の町名を立項し、その町域内にあった過去の町名は小項目として立項している。項目の配列も原則として前書を踏襲したが、読みやすさを考慮し、広域の地名解説を各章の最初に記述した部分もある。

 たとえば、神楽坂1丁目を『新宿区町名誌』では

 神楽坂一丁目は、牡丹(ぼたん)屋敷跡とその周辺の武家地跡である。八代将軍吉宗は、享保14年(1729)11月、紀州からお供をしてきた岡本彦右衛門を、武士に取り立てようとしたが、町屋を望んだので外堀通りに屋敷を与えた。岡本氏はそこにボタンを栽培し、将軍吉宗に献上したので、岡本氏屋敷を牡丹屋敷と呼んだのである。岡本氏は、また牡丹屋彦右衛門と呼ばれた。
 宝暦11年(1761)9月、岡本氏はとがめを受けることがあって家財没収され、屋敷はなくなった。その跡、翌12月老女(大奥勤務の退職者)飛鳥(あすか)井、花園等の受領地となって町屋ができた。

『新修新宿区町名誌』では

 牛込御門に近い外堀端沿いの地域で、江戸時代には武家地と、牛込(うしごめ)牡丹(ぼたん)屋敷(やしき)という拝領町屋があった。
牛込牡丹屋敷 豊島郡野方領牛込村内にあったが、武家屋敷になった。八代将軍吉宗の時代、岡本彦右衛門が吉宗に供して紀伊国(現和歌山県)から出てきた際、武士に取りたてようと言われたが、町屋が良いと答えこの町を拝領した。屋敷内に牡丹を作り献上したため牡丹屋敷と唱えた。その後上り屋敷となり、宝暦12年(1762)12月24目に地所を三分割し、そのうち一ケ所が拝領町屋となった(町方書上)。

 一番正確な町名誌でしょうか。

北原白秋の転居|神楽坂

文学と神楽坂

北原白秋

 北原白秋は千駄ヶ谷から移り、1907(明治40)年12月から翌08(明治41)年10月まで牛込区北山伏町33番地、翌09 (明治42)年8月までは牛込区神楽坂2丁目22番地に住んでいました。8月からは本郷区ですが、再び10(明治43)年2月、牛込区新小川町3丁目14番地に、9月、青山原宿に転居します。

 地図はここに。赤い3つが住んでいた場所です。

昭和5年の牛込神楽坂の地図(赤は北原白秋の住居)

 この「パンの会」は、雑誌『スバル』の詩人、北原白秋木下杢太郎長田秀雄吉井勇たちと、美術同人誌『方寸』に集まっていた画家、石井柏亭、山本鼎、森田恒友、倉田白羊たちが、反自然主義、耽美的傾向、浪漫派の新芸術を語り合う目的で作りました。

 木下(きのした)杢太郎(もくたろう)氏の『パンの会の回想』(1926年)によると

何でも明治四十二年頃、石井、山本、倉田などの「方寸」を経営してゐる連中と往き来し、日本にはカフエエといふものがなく、随つてカフエエ情調などといふものがないが、さういふものを一つ興して見ようぢやないかといふのが話のもとであつた。当時我々は印象派に関する画論や、歴史を好んで読み、又一方からは、上田敏氏が活動せられた時代で、その翻訳などからの影響で、巴里の美術家や詩人などの生活を空想し、そのまねをして見たかつたのだつた。
「木下杢太郎全集 第一三巻」岩波書店 1982(昭和57)年
北原白秋『東京景物詩』

北原白秋『東京景物詩』口絵 木下杢太郎画

 高村光太郎はやや遅れて参加、上田敏、永井荷風らの先達もときに参会しました。長田秀雄、吉井勇、小山内薫、さらに俳優の市川左団次、市川猿之助らも顔を出しています。

 月に数回、東京をパリに、大川(隅田川)をパリのセーヌ川に見立て、隅田河畔の西洋料理店(大川近くの小伝馬町や小網町、あるいは深川などの料理店)に集まりました。1908年末から1913年頃まで続きました。

 白秋の『東京景物詩及其他』や木下杢太郎の『食後の唄』はこの会の記念的作品です。

『東京景物詩及其他』については「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団」がこう解説しています。

処女詩集『邪宗門』(明治42年刊)、『思ひ出』(明治44年刊)、『東京景物詩』(大正2年刊)には、「パンの会」時代に書かれた東京を中心とした官能的、唯美的傾向の詩が収められている。
 第2詩集『思ひ出』が、郷土や幼少への愛着が基底となっていたのに対し、『東京景物詩』は、表題どおりに都会や青春に対する情緒が中心となっており、享楽的な面も多い。しかし、その享楽は『邪宗門』ほどには濃厚でもどぎつくもなくて、よりやわらかく軽く、ダンディなものである。近代的な東京風物をモチーフとしたり、一時代前の江戸情緒的要素を加味して下町的な気分を表現したりすることにより生まれたもので、白秋が多用した新俗謡体は、民謡、歌謡のスタイルでより情緒的に都会を描写するのに適していた。(中略)
 白秋自身、<この詩集は種々雑多の異風の綜合詩集であり、何ら統一はない>と言っている。しかしそこには白秋の東京への深い思い入れが感じられる。


石川啄木|砂土原町

文学と神楽坂


石川啄木

 石川(たくぼく)は明治19年2月20日、岩手県に生まれました。東京には5回上京しています。
 最初の上京は明治32年(13歳)夏。上野駅勤務の義兄を頼っての上京です。上野の杜と品川の海を見て帰ります。
 2回目の上京は明治35年(16歳)。10月、「明星」に歌1首が載り、そこで10月31日、盛岡中学を中退し、上野行きの列車に乗りました。11月1日、東京に着き、2回目の上京で、1回目の長期の上京です。小石川区小日向台町に住み、新詩社に出ていますが、何せ金はなく、翌36年1月『下宿を着のみのままで逐出され』、神田錦町の見も知らぬ佐山という人の安下宿に入り、紋付きを質屋に入れたりして金を作り、一膳飯屋で1日に1度か2度食いつないでいました。年が明け、2月、病気になり、郷里から来た父と一緒に帰郷します。
 3回目の上京は明治37年10月31日(18歳)。2回目の長期の上京です。向ヶ岡弥生町三に止宿。元気はいっぱい、屈託はなく、勝ち気で、明るく、飄然として、木の妹光子の話によれば、ここでも「いつも大きな法螺を吹いて」いたようでした。
 11月8日、神田駿河台袋町八に転居、11月28日、牛込区砂土原(さどはら)町3丁目22、井田芳太郎方に転居。砂土原町3丁目22は現在「朝霞荘」になっています。

朝霞荘

 金田一京助全集の第13巻「石川啄木」(三省堂)では、

 12月の初めに(或は11月分の宿料が出ない為めに、屈託をしてではなかったとも思う)、『今度の日曜に、お逢いしたい、こんな所だから』と地図まで書いたハガキを貰ったようだった。それを片手に、小石川の砂土原町を尋ねて行った。坂を上った角が、埼玉学舎で、その隣の井田という家だった。
 玄関へ入った瞬間に、何か、私を待ちながら、その私の噂を、相宿の男へでもしていた様な石川君の声(と私は睨んだが)で、『文科大学生ですよ、ええ』というのが聞えて、すぐ沈黙した。女中に通されて、その室へ入ると、石川君は、床を敷いていて、その中から、立ち上って迎えてくれたのはよいが、袴をつけて紋付羽織を着たまま寝ていたもので、羽織は、くしゃくしゃ。それよりも驚いたのは、仙台平がもう、折目がすっかり無くなって、袋を穿()いているよう。恐らくは、寝ても起きても、どこへ行くにも、朝から晩まで、この袴をつけていたものでもあろうか、1ヶ月にしかならないのに、縞なりに、もう切れて、裾からは、ぼろが下がっていたのである。
 その云うことが、振っている。一々の言葉の端は覚えていないけれど、大体こういうことだった。
 感冒(かぜ)をひいて、寝てしまって、退屈でつまらないから、蟇口を出して、倒にして振って見たら、バラッと落ちたのは、全財産、大枚十銭五厘。女中を呼んで、これで、みんな葉書を買って来いと云いつけて、葉書を買ってもらって、みんなへ手紙を書いた。一枚余った葉書を、誰へ出そうと考えた。ムム大隈伯へ出して見ようと考えついて、
『あなたのような世界の大政治家と、私のような無名の(陋巷の?)一小詩人と、一堂に会してお話をして見たら、どんなに愉快でしょう』
と書いてやったという。
 私も、呀っとばかり、開いた口が塞らなかったが、この人にしては、有りそうなことだと、興味に釣られて、『そしたら?』と聞くと、『返事が来ましたよ』『え? 大隈さんから?』と私が驚くと、『大隈さんの字ではないんでしょう。自分で書かれないそうだから、やはり代筆でしょうけれど……』『何て云って来たの?』『面白い、兎に角逢おう、やって来い、と来ましたよ』『それでは行くの?』『だってもう、電車賃も無いんですもの』。
 先程からの話で、当然すぎる程、それは当然だった。『一文も無い、それァ困るなあ』と云いながら、私は蟇口を出して、畳の上へボロンボロンと揮って、月末の勘定の残りが3円なにがしがころころ転がったのを切半して帰って来た。
 前後、幾年、凡そ私が石川君に用立てた金は、どうやら此の様な行きさつで私の手から渡るもののようだった。

仙台平 せんだいひら。宮城県仙台市特産の絹の高級袴地「精好仙台平」の通称。
大隈伯 大隈重信。おおくま しげのぶ。政治家としては参議、大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣、貴族院議員などを歴任し、早稲田大学の初代総長。

 この上京では長詩をたくさん作っています。詩人として名前は高くなりますが、生活は全くできない。3月10日、牛込区払方町25の大和館に転宿。5月10日、詩集『あこがれ』をだし、上田敏氏の序詩、与謝野氏の(ばつ)(後書き)。しかし、これが売れない。印税で家族を養うはずだったのに。金はなく、縁故もなく、スポンサーもパトロンもない。5月20日、帰郷の途に就きます。
 ここで牛込区砂土原町3丁目22と牛込区払方町25の場所を見ておきます。青で書いてある場所です。現在も変わっていません。牛込区払方町25についてはここに詳しく書いてあります。

啄木の場所

 なお、右の青の隣り、薄緑の場所は現在はマンション数棟ですが、以前は埼玉学生誘掖会埼玉寮でした。100人を超える寮生が生活していました。「誘掖」とは、導き助けるという意味だそうです。
 四回目の上京は明治39年6月。第2詩集を相談するため、また、父の問題で東京の宗務局に行きますが、宗務局の運動はだめ。よかったのは「俺だって書ける」と考えて帰ったこと。これが四回目の東京行きです。
 五回目は明治41年(22歳)。長期の上京としては三回目。北海道を離れ、4月28日、東京に到着。4月29日、金田一京助氏を訪ね、金田一氏の下宿に住んでいます。
 石川木と金田一京助の住所は文京区ですが、しかし(しん)()(しゃ)の友人、1歳上の北原白秋氏は北山伏町33番と神楽坂2丁目に住んでいました。木はここを訪れています。なお、新詩社とは明治32(1899)年、()()()鉄幹(てっかん)が設立した詩歌結社で、翌年、機関誌「明星」を創刊、多くの新人を育てましたが、41年に解体しています。

 明治41年7月27日 木の日記から。

 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍って、耳が-左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴ってゐた。
いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言ってゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなってから辞した。途中まで送って、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。

 もうすこし駅に近い場所がよかったのでしょうか。北原白秋氏は物理学校のそばに転居します。

 明治41年10年29日 木の日記から。

 北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行ってゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上った。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒ってるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。
 一曰の談話につかれてゐてすぐ床についた。

 物理学校は現在の東京理科大学です。私立大学で本部は新宿区神楽坂1-3。北原氏は明治41年10月にここ神楽坂2丁目に転居し、一年後の明治42年10月、本郷動坂に転居します。北原氏はここで「物理学校裏」という詩をつくっています。

 また木は、相馬屋の原稿用紙を買っています。これから2か月半後の4月13日、死亡しました。

 明治45年1月30日。木27歳の日記から。

 夕飯が済んでから、私は非常な冒険を犯すやうな心で、俥にのって神楽坂の相馬屋まで原稿紙を買ひ出かけた。帰りがけに或本屋からクロポトキンの『ロシア文学』を二円五十銭で買つた。寒いには寒かつたが、別に何のこともなかった。
 本、紙、帳面、俥代すべてゞ恰度四円五十銭だけつかつた。いつも金のない日を送ってゐる者がタマに金を得て、なるべくそれを使ふまいとする心! それからまたそれに裏切る心! 私はかなしかつた。

ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン Пётр Алексе́евич Кропо́ткин (1842/12/9-1921/2/8)。ロシアの革命家、政治思想家、地理学者、社会学者、生物学者。近代アナキズムの発展に尽くした人物で、無政府共産主義を唱えた。

 これについては金田一京助氏は『啄木の美点』でこう書いています。

死ぬ直前、金も米もつきたところへ、朝日新聞社から編集長の好意の見舞金が届いた。何を買うかと思ったら、人力車に乗って神楽坂の本屋にいって本をあさり、結局、彼が人間性の可能の限界をきわめる最高の哲学だとするクロポトキンを買って帰った。この熱度、この真剣さ、妥協を拝する一本気と貧苦にめげない強気と、それに恩愛にすら束縛を感じ、童貞にも圧迫をおぼえる鋭い内省、ついに病の小康とともに天才主義から民衆主義へ、百八十度の転換を完成して、しばらくぶりに長詩ができた6月下旬、やはりしばらくぶりに、二人の間の久しい難問解決の喜びを分かちに来てくれたあの最後の訪問、恩讐(おんしゅう)をこえた、二人の交遊の総決算のような美しい訪問、啄木のこんな真実性に目をふさいで、伝記学者、地下の啄木にそれですむか。



いろは[昔]|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 牛肉「いろは」は6丁目にありました。泉鏡花氏が書いた「神楽坂七不思議」で「いろは」のことがでています。

神樂坂七不思議

奧行おくゆきなしの牛肉店ぎうにくてん。」
(いろは)のことなり、()れば大廈たいか嵬然(くわいぜん)としてそびゆれども奧行おくゆきすこしもなく、座敷ざしきのこらず三角形さんかくけいをなす、けだ幾何學的きかがくてき不思議ふしぎならむ。
        明治二十八年三月

「いろは」の五色ガラス
 単に
大廈 たいか。大きな建物。りっぱな構えの建物。
嵬然 かいぜん。高くそびえるさま。つまり、外から見ると大きな建物なのに、内部は三角形で小さい。

 島崎藤村ほかの『大東京繁昌記 山手篇』(講談社)で加能作次郎氏の「早稲田神楽坂」ではこう書きます。

 その頃、今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所に、いろはという牛肉屋があった。いろはといえば今はさびれてどこにも殆ど見られなくなったが、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青のいろガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立っていた。或時友達と二人でその店へ上ったが、それが抑々そもそも私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金がかかるかと内心非常にびく/\しながら(はし)を取ったが、結局二人とも満腹するほど食べて、さて勘定はと見ると、二人で六十何銭というのでほっと胸を撫で下し、七十銭だしてお釣はいらぬなどと大きな顔をしたものだったが、今思い出しても夢のような気がする。

 では、どこにあったのでしょうか。『ここは牛込、神楽坂』第18号の『遊び場だった「寺内」』では、

岡崎(丸岡陶苑) でも、ほんとうに遊ぶのは、安養寺の方で、狭いとこに駄菓子屋が二軒あったんで、そっちの方がわりあいにぎやかだった。安養寺の境内の往来に面したところに街灯があって、あそこはクルマ(人力車)がいつも二、三台、年中たむろしていたから。そこに「いろは」があった。牛鍋屋の。

地図1

「岡崎さんがお話ししながら描いてくださった明治40年前後の記憶の地図を描きおこしました」と書いてあり、図のような神楽坂の6丁目(昔の通寺町)の絵が書いてあります。図の左端の半分に「トケイ」や「安養寺」と書いてあり、その下に「いろは」が書いてあります。

 昭和12年の「火災保険特殊地図」を見てみるとかなり今とは違います。

神楽坂上2

「いろは」は昭和12年「火災保険特殊地図」の「精進寮」と同じ場所です。よく見ると三角形で、ここで名残をとどめています。このほかの建物はここにでています。

 しかし、まったく違ったように見える写真が出てきました。下右端の建物は「第十八いろは」(牛込区寺町)です。(「第六いろは」は神田区連雀町なので、違います)。

 最初は、上の写真でいうと、建物「3」と思っていました。困っていましたが、よくよく見ると、写真の左側には道路はありません。つまり、上図の右中央から見た写真、つまり「精進寮」の方から見た写真だと思っています。

第六いろは


島村抱月(1/2)

文学と神楽坂

島村抱月
 島村抱月について書こうと思います。抱月は明治4(1871)年1月10月、誕生し、明治24(1891)年10月、東京専門学校文学科(現在の早稲田大学)に入学し、明治27(1894)年7月卒業。明治28(1895)(いち)子と結婚(数えで抱月は25歳、市子は21歳でした)。
 明治31(1898)年、26歳の時に読売新聞や早稲田中学などで働いています。
 明治35(1902)年3月8日、32歳で、英国に出発し、5月7日、ロンドン着、オックスフォードに行き、明治37(1904)年、ドイツに渡り、明治38(1905)年9月12日、3年半で帰国しました。10月、35歳で早稲田大学英文科講師になります。

 明治39(1906)年1月「早稲田文学」再刊。「囚はれたる文芸」などの評論を書いています。3月島崎藤村が「破戒」を刊行します。

 明治40(1907)年、37歳になり、英文学科教務主任になります。現在の教授です。
 抱月の論評は英文科のいくつかの分野を対象にしています。
 しかしここでは抱月が重要だと思ったものを見ていきます。最初は美学です。美学は哲学の1分野で、美しいものを研究する……だけではありません。

◇美学(哲学の1分野)抱月 説明2
 知識ある批評(右図も)
 今の文壇に奇異なる現象の一つは、創作界が却つて知識に少なからぬ尊敬を拂ふに反して、批評界が甚しく知識の権威を蔑視せんとするの事実である。
(明治40年『早稲田文学』)

『早稲田文学』の論評は主幹自ら(つまり抱月が)行っているものもあります。たとえば、書評では……

◇書評
 『破戒』はたしかに我が文壇に於ける近来の新発現である。予は此の作に対して、小説壇が始めて更に新しい廻転期に達したことを感ずるの情に堪えぬ。欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に傅はった生命は、此の作に依て始めて我が創作界に対等の発現を得たといってよい。十九世紀末式ヴヱルトシュメルツの香ひも出てゐる。
(明治40年『早稲田文学』)

 また自然主義の文学については、陣頭にたって、かつ理論的に行いました。

◇自然主義
 今の文壇と新自然主義
 技巧無用論は、言ふまでもなく一の自然主義である。自然を忠実に写さんがため、技巧を人為不自然として斥ける。此の点からいへば自然主義の対照は技巧主義である。但し吾人は更に他に1つの対照を有する、それは情緒主義である。
(明治49年『早稲田文学』)

 演劇の評論も盛んに行っています。

◇演劇
 演芸雑談
 目下欧州の文芸全体の範囲で尤も活動して居るのは演劇であらうと思ふ。…
 が要するに国民音楽の尤も特色あつて且つ尤も近代的であるのは独逸である。
(明治39年『新小説』)

 抱月が文学者として一番熱心に行ったものは美学や自然主義ではなく、もちろん、抱月自分のあくびで有名な大学の講義でもなく、やはり演劇だと考えられます。逍遥もそうではないでしょうか。早稲田大学では演劇は今でも文学科の1コースとして行われています(文学部文学科演劇映像コース)。
 しかし、演劇を鑑賞するだけではなく、総監督として演出し、さらには劇場をつくり、劇中歌の作曲も行い、しかも大ヒットとなり、最後に多額のお金まで儲かったというのは、周りはあーあ、こけるよ、としか見てなかったようなので、ただただ驚きです。

竹久夢二|神楽坂

文学と神楽坂

筒井筒直言
 1905年(明治38年)6月18日(20歳)、夢二の最初の絵「勝利の悲哀」が「直言」(「平民新聞」の後継)に掲載されました。世に出た夢二の最初の作品のコマ絵です。白衣の骸骨と泣いている丸髷の女が寄り添う姿で、日露戦争の勝利の悲哀を描いています(左図)。 一方、「中学世界」増刊号には竹久夢二の投稿挿絵「筒井筒」が出ます(右図)。1905年10月(21歳)、竹久夢二は『神楽坂おとなの散歩マップ』によると、神楽坂3丁目6番地の上野方に住んだといいます。『竹久夢二 子供の世界』(龍星閣 1970)の『夢二とこども』で長田幹彦氏は

 “東京の街から櫟林の多い武蔵野の郊外にうつらうと云ふ、大塚の或淋しい町で”と、いうのは、当時、明治三十八年十一月号の『ハガキ文学』に、絵葉書図案が一等で当選して居り、その図版の傍に印刷されて″小石川区大塚仲町竹久夢二″というのがあるから、明治三十八年頃大塚にいたことのあるのはたしかである。掲載の前月の十月には、“神楽坂町三ノ六上野方ゆめ二”という手紙を出しており、翌々月の十二月の『ヘナブリ倶楽部』二号には“詩的エハガキ交換希望”として名前が出ているが、その住所は“東京淀橋柏木一二八竹久夢二”となっている。まことにめまぐるしい転々さである

 江戸時代、3丁目6番地はもともとは松平家の敷地で、大きさは他の敷地(1番地など)と比べて10倍以上もありました。しかし、翌月はもう場所が変わっています。実際に下宿はこれから何回も変えています。

 1907年(明治40年)1月(22歳)、竹久夢二はたまき(戸籍上は他満喜)24歳と結婚して「牛込区宮比(みやび)(ちょう)4に住んだ」と書いている本が多いようです。しかし、明治、大正時代には宮比町はありません。(今もありません。全くありません)。

 あるのは(かみ)宮比町と(しも)宮比町の2つです。台地上を上宮比町、台地下を下宮比町と呼んでいました。昭和26年、上宮比町は神楽坂4丁目になります。下宮比町は変わらず同じです。

 新宿区の『区内に在住した文学者たち』では「上宮比町であるか下宮比町であるかは不詳」と書いています。一方、けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』では「竹久夢二がたまきと結婚し下宮比町に住む」と書いています。三田英彬氏の 『〈評伝〉竹久夢二 時代に逆らった詩人画家』(芸術新聞社、2000年)では

 二人は二ヶ月余り後に結婚する。夢二が彼女の兄夫婦を訪ね、結婚の申し込みをし、許しを得たのは明治四十年一月。牛込区宮比町4に住んだ。たまきによると「神楽坂の横丁下宮比町の金さん」という職工の家の2階の6畳を借りたのだ。

 実際に岸たまきも「夢二の想出」(『書窓』 昭和16年7月)でこう書いています。

 当時夢二は神楽坂の横町下宮比町の金さんという造弊の職工に通い居る息子のある頭の家でした。二階の六畳に一閑張の机が一つあるきりの室でした。

 では、上宮比町四はないのでしょうか。明治40年4月7日、夢二氏は「府下荏原郡 下目黒三六六 上司延貴様」に葉書をだして(二玄社『竹久夢二の絵手紙』2008年)

四月七日 さきほどは突然御じゃま いたし御馳走に相成候 奥様へもよろしく御伝へ 下され度候  上宮比町四   幽冥路

 と書いています。 神楽坂3丁目6番地と上宮比町四と下宮比町四については、下図を。結局、上宮比町がいいのか、下宮比町がいいのか、どちらもよさそうで、本人は上宮比町、妻は下宮比町と書いています。わからないと書くのがよさそうです。

 明治41年(1908)2月(23歳)、長男虹之助が生まれます。 明治42年5月(24歳)、たまきと戸籍上離婚。12月15日(25歳)には、「夢二画集」春の巻を出版。これがベストセラーになります。

 明治43年6月(25歳)、大逆事件関係者の検挙が続く中で、夢二は2日間、警察に拘束。警察から帰るとすぐに有り金を持って、九十九里方面に逃避します。 明治44年1月(26歳)、大逆事件で幸徳秋水らが処刑され、夢二はあちこち引越しをくりかえしています。そのころ自宅兼事務所兼仕事場として牛込東五軒町に住んだこともあります。竹久夢二自書の『砂がき』では

 その頃私は江戸川添の東五軒町の青いペンキ塗りの寫眞屋の跡を借りて住んでゐた。恰度前代未聞の事件のあつた年で、平民新聞へ思想的な繪をよせてゐたために、私でさへブラツク・リスト中の人物でよくスパイにつけられたものだつた。夢に出て來る「青い家」は、たしか東五軒町の家らしい。その家は恐らく今もあるだらう。夢の中の橋は、大曲の白鳥橋だと思はれる。

明治40年夢二がいた場所 一番上の赤い四角が東五軒町の一部です。江戸川添なので、川のそばにあったのでしょう。

 その下は下宮比町4です。

 その下で最小の長四角は上宮比町4です。

 最後の赤い多角形は神楽坂3丁目目6番地で、ここは巨大です。

籠谷典子編著『東京10000歩ウォーキング』

文学と神楽坂

 籠谷氏の「籠谷」は恐らく「かごたに」、「かこたに」、「かごや」、あるいは「こもりや」と読みますが、明治書院の読み方によれば「かごたに」です。氏は明治書院の 『東京10000歩ウォーキング 』の編集者で、1冊目の「千代田区」から30冊目の「三鷹市」にいたるまで読者は1冊わずか800円で購入できます。ほとんどの区立図書館にその区のことを書いた1冊はあると思います。これは同じような傾向が好きな人は絶対買うべき本です。問題は、何をしている人なの? ほかの本はあるの?

 探しました。東京都高等学校国語教育研究会編の『東京文学散歩』(平成4年)の編集責任者に「籠谷典子」と書いてありました。おそらく高校の国語の先生だったんだ。明治書院も「高等学校の国語の教科書・副教材を扱っている出版社です」と書いてありました。

 調べていくと、本の内容が違っている場合もあります。「神楽坂・弁天町コース」では大田南畝の住居跡は北町ではなく、現在は中町だと考えられています。他にも間違いかなと思える点がありますが、それでもすごくすごく優秀な本です。

漱石と『硝子戸の中』16

文学と神楽坂

 十六

うちの前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があつて、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたつた一度そこで髪をつて貰った事がある。
 平生は白い金巾かなきんの幕で、硝子戸ガラスどの奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立つて、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。
 亭主は私の入つてくるのを見ると、手に持った新聞紙をほうしてすぐ挨拶あいさつをした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私のうしろへ廻つて、はさみをちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼はむか寺町郵便局そばに店を持つて、今と同じように、散髪を渡世とせいとしていた事が解った。
高田の旦那だんななどにもだいぶ御世話になりました」
その高田というのは私の従兄いとこなのだから、私も驚いた。
「へえ高田を知ってるのかい」
「知つてるどころじゃございません。始終しじゅうとくとく、つて贔屓ひいきにして下すったもんです」
 彼の言葉づかいはこういう職人にしてはむしろ丁寧ていねいな方であった。
「高田も死んだよ」と私がいうと、彼は吃驚びっくりした調子で「へッ」と声をげた。
「いい旦那でしたがね、惜しい事に。いつごろ御亡おなくなりになりました」
「なに、つい此間こないださ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」
彼はそれからこの死んだ従兄いとこについて、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日きのうの事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。

宅の前 うちはこのころは漱石山房でした。下の地図は明治40年のものです。青い丸で囲んだ場所が漱石山房です。小川は同じく青で書いてあります。「一間ばかり」は1.8メートルぐらいです。赤い丸は橋の候補です。2つあり、下の赤い丸は漱石山房に近く、『ここは牛込神楽坂』第10号に書いてある場所です。もう1つは上の赤い丸で、弁天町に近く、北野豊氏の『漱石と歩く東京』(雪嶺叢書)ででてくる場所です。2つの説があるわけです。
M40

 一番の説は『ここが牛込、神楽坂』第10号の「金之助少年の歩いた道を行く」で書いています。編集発行人の立壁正子氏と、先生、というのは「牛込のさんぽみち」の筆者高橋春人氏のことですが、2人の話があり、区立漱石公園が始まります。

 その先の坂を下りかけた左手が区立漱石公園。ここは「漱石山房」…漱石が最後に住んだ住居跡で(家は貸家だった)、中央に、漱石の胸像、右手後ろに石を積み重ねた猫の墓がある。これは漱石の死後、鏡子夫人が『吾輩は猫である』の主人公や犬、文鳥などを供養するために建て、戦災で焼けたのを修復したもの。これだけが当時をしのぶよすがとなっている。
 ここで漱石は『坑夫』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』などを次々執筆した。木曜日には弟子たちが集まって山房は文学サロンとなった。でも、園内はひと気もなくそんな面影はない。「漱石終えんの地」という文字ももの悲しい。本来なら漱石記念館などあってしかるべきなのに。
 門を出、左へ坂を下ると小さな十字路に出る。「ほら、ここが例の小川だよ」という先生の説明に、え!と『硝子戸の中』を開く。
“宅の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度其処で髪を刈ってもらった事がある。”
 見逃すところだった。先生は「ここは暗渠になっているはず」と、そばのマンホールを覗きこむ。坂を横切る道の曲がり具合からもなるほどと納得。そして左角の印刷屋さんの先が「そう、床屋があったとこだね」

 第2の説は北野豊氏の『漱石と歩く東京』にあり

 当時、漱石山房の東側に弁天堂の裏手を流れてくる小川があり、宗参寺の東側で鍵の手に曲って、早稲田田圃の方へ流れ下りていた。その鍵の手に曲った辺りに、南北に轟橋という小橋が架けられ、この床屋はその向こう側にあった。

 第1の説と第2の説と、どちらがいいのでしょう。ここで、浅見潤氏が書いた『昭和文壇側面史』を読むと

“矢来の坂下から榎町通りを真直ぐいって、初めての十字路を左に柳町の電車の停留所の方に折れ、少し行くと右に曲がって弁天橋を渡る狭い路がある。これを少し行って、だらだら坂の途中の右手にあるのが、漱石の晩年に住んでいた、早稲田南町7番地の家である”
 小宮豊隆の言っているこの家だ。
(中略)
 小さな床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていた。

と書かれています。これで第1の説が正しいとわかります。現在は暗渠になっていて、橋はなくなっていた場所が弁天橋の場所でした。

金巾(かなきん) 平織りの綿。生地は薄く、のぼりの綿はほとんどこの金巾で作成しています。チェーン店の暖簾などでも多く使われています。
金巾
寺町 神楽坂6丁目は以前は通寺とおりてら町と呼びました。これと昔から名前は変わらない横寺よこてら町を併せて寺町と呼んでいました。
郵便局 図は大正11年の地図です。郵便局は〒で書かれ、神楽坂6丁目で今でいう新内横丁の西側に建っていました。現在は音楽之友社別館です。
T11郵便局
高田の旦那 高田庄吉。漱石の父の弟の長男で、漱石の腹違いの姉・(ふさ)の夫です。
しっきゃ 「しか」。昨日の事と「しか」思われないのに。江戸なまりです。

「あのそら求友亭きゅうゆうていの横町にいらしってね……」と亭主はまた言葉をぎ足した。
「うん、あの二階のあるうちだろう」
「えゝ御二階がありましたつけ。あすこへ御移りになつた時なんか、方々様ほうぼうさまから御祝ひ物なんかあつて、大変御盛ごさかんでしたがね。それからあとでしたつけか、行願寺ぎょうがんじ寺内じないへ御引越なすったのは」
 この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。
「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入つて見た事もないが」
「変つたの変らないのつてあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
 私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかつたので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋つたら、寺内にたつた一軒しきや無かつたもんでさあ。東家あずまやつてね。ちょうどそら高田の旦那の真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは」

求友亭 きゅうゆうてい。昔は通寺町、今は神楽坂6丁目にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。求友亭の横町は「川喜田屋横丁」のことです。
成金横丁
行願寺 ぎょうがんじ。昔はここあたり一帯は正しくは行元寺(行願寺は誤り)の土地でしたが、ここは行願寺で書いておきます。行願寺は明治40年に品川区に引越ししています。
古老の地図 寺内(じない)へ引っ越し 図は新宿歴史博物館『新宿区の民俗』(5)牛込地区篇から。寺内というのは寺の境内で、ここでは行願寺の境内です。一種の自治集落でした。この高田氏の家は万長酒店の貸し家(家作(かさく))でした。住んだ場所は下の絵に。これは『ここは牛込、神楽坂』の第10号で出ています。今では神楽坂アインスタワーの一角になりました。
待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
肴町 さかなまち。牛込区肴町は今の神楽坂5丁目です。行願寺、高田、足袋屋、誰が袖、東屋などは全て肴町で、かつ寺内でした
足袋屋 昔の万長酒店がある所に「丸屋」という足袋(たび)屋がありました。現在は第一勧業信用組合がある場所です。
誰が袖 たがそで。誰袖とは「匂い袋」のこと。しかし、ここでは、待合「誰が袖」のこと。後に「三勝さんかつ」という名になります。さらに現在は神楽坂アインスタワーの一角に。これを詠んだ漱石氏の俳句…

誰袖や待合らしき春の雨
(岩波書店『漱石全集 第17番』、句番号2344。)

東屋 あずまや。寺内の「吾妻屋」のこと。ここも現在は神楽坂アインスタワーの一角になっています。
御神灯 神に供える灯火。職人・芸者屋などで縁起をかついで戸口につるす「御神灯」と書いた提灯のこと。

道草庵|漱石公園

文学と神楽坂

道草庵(みちくさあん)は漱石や山房の資料を展示しています。
正面には漱石の書籍が復刻本で7冊並んでいます。
復刻本
7冊について「春陽堂刊行『複製品』 夏目漱石著  橋口五葉 装丁」は全部同じです。

1.(うずら)(かご)   明治40年(1907)1月
『坊っちゃん』『草枕』『二百十日』の三篇を収めています
2.(くさ)(あわせ)   明治41年(1908)9月
朝日新聞に連載された『坑夫』と、「ホトトギス」に発表した『野分』の二篇を収めています
3.()()(じん)(そう) 明治41年(1908)1月
朝日新聞社に入社して最初に書いた作品です。連載中に、ここ漱石山房に転居して来ました。
4.(さん)()(ろう)  明治42年(1909)5月
『それから』『門』へと続く三部作の第一作。一人の青年を通じて当時の欧化主義を批判して注目されました。
5.()(へん)   明治43年(1910)5月
『文鳥』『夢十夜』『永日小品』『満韓ところヾ』という四篇の短篇や紀行文を収めています。
6.(もん)    明治44年(1911)1月
親友の妻を奪った主人公・宗助は、易者に過去の罪を指摘され驚きます。人の心の中に内在する罪の意識を描いた作品で、題名は小宮豊隆が命名しました。
7.()(がん)(すぎ)(まで) 大正元年(1912)9月
明治43年8月の修善寺の大患(胃潰瘍)を克服し、療養生活から復帰した漱石が、約2年ぶりに執筆した長篇小説。春陽堂からは最後の出版となりました。

橋口はしくち五葉ごようは版画家・装丁家で、明治14年(1881)~大正10年(1921)。 本名 橋口清。鹿児島市生まれ。鹿児島中学卒業後上京し、橋本雅邦に入門します。黒田清輝の白馬会研究所で洋画を学び、東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二らに師事しました。明治37年10月から、熊本で漱石に師事した実兄・橋口貢の推薦で「ホトトギス」に口絵・挿絵を掲載。翌年2月に『我輩は猫である』続編で挿絵を担当して漱石から賞賛され、単行本や「漱石山房」の原稿用紙のデザインを手掛けました。

また、壁のボードの正面は5枚並んでいます。左から
1.新宿ゆかりの明治の文豪 夏目漱石
2.主な作品
3.夏目漱石の生涯
4.漱石山房に集った人々
5.漱石山房に集った人々

新宿ゆかりの明治の文豪 夏目漱石
日本を代表する文豪「夏目漱石」は、慶応3年(1867)に牛込馬場下横町(現新宿区喜久井町)に名主の末子として生まれました。松山・熊本、英国留学など経て、大正5年に現在の新宿区早稲田南町の「漱石山房」で生涯をとじました。
英国留学を終えて帰国後、「吾輩は猫である」「坊っちゃん」などを発表し、山房に移ってから「三四郎」や「それから」「門」「こころ」、そして最後の作品となる「明暗」(未完)など多数の作品を執筆しました。
山房は空襲で全焼し、現在、その跡の一部が漱石公園となっており、猫塚や漱石の胸像などがあります。
2007年に夏目漱石の生誕140年を迎えるにあたり、新宿ゆかりの文豪「夏目漱石」と、住まいとなった「漱石山房」を皆様にご紹介したします。
主な作品
発表年  執筆年齢     作品
1905年   37歳     『我輩は猫である』
      37歳     『倫敦塔』
1906年      39歳     『草枕』
      39歳     『坊っちゃん』 
       39歳     『二百十日』
1907年   39歳     『野分』
漱石山房で執筆した作品 
*漱石が早稲田南町の家(のちの漱石山房)に引越したのは、1907年9月。
       40歳     『虞美人草』  
 1908年   40歳     『坑夫』    
        41歳     『夢十夜』   
        41歳     『文鳥』    
        41歳     『三四郎』   
 1909年    42歳     『それから』  
 1910年   43歳     『門』     
 1912年   44歳     『彼岸過迄』  
          45歳     『行人』    
 1914年   47歳     『こころ』   
 1915年   47歳     『硝子戸の中』 
       48歳     『道草』    
 1916年   49歳     『明暗』(未完)

夏目漱石の生涯。ここにはいろいろな活動を書いていますが、ここは写真だけ。(ダブルクリックで拡大)。テキストは別のHTMLで。

「漱石山房に集った人々」は2つに分けてリストされます。

高浜虚子  たかはま きょし   明治7年~昭和34年(1874~1959)
俳人・小説家     愛媛県松山市出身
伊予尋常中学校で級友の河東碧梧桐を介して正岡子規に師事し、虚子の号を与えられる。明治30年、松山で創刊された俳句雑誌『ホトトギス』の経営を引き継ぎ、翌年東京に移る。漱石との親交は続き、神経衰弱に悩む漱石に小説を書くことを勧めたのも虚子であった。こうして「吾輩は猫である」と「坊っちゃん」は、『ホトトギス』に発表された。
寺田寅彦  てらだ とらひこ   明治11~昭和10年(1878~1935)
物理学者・随筆家   東京市麹町区(現、千代田区)出身
熊本の第五高等学校時代の教え子で、漱石の新婚家庭を訪ねて俳句の手ほどきを受けている。明治32年、上京し東京帝国大学物理学科に入学。卒業後は物理学者として活動するかたわら、科学と文学を調和させた随筆を数多く発表している。漱石の最古参の弟子であり、『吾輩は猫である』の寒月のモデルにもなっている。
小宮豊隆  こみや とよたか   明治17~昭和41年(1884~1966)
評論家・ドイツ文学者 福岡県京都郡犀川村(現、みやこ町)出身
明治38年、東京帝国大学独文科入学時に、従兄の紹介で漱石を訪ね、以後親交を結ぶ。卒業後は漱石の紹介で、森田草平らとともに朝日新聞の「文芸欄」で活躍する。漱石没後は全集の編纂に携わり、また、東北大学教授・附属図書館長として漱石文庫の受入れに尽力した。これにより漱石の蔵書は戦災を免れることができた。
森田草平  もりた そうへい   明治14~24年(1881~1940)
小説家        岐阜県稲葉郡鷺山村(現、岐阜市)出身
東京帝国大学英文科卒業。明治38年に発表した処女作『病葉』の感想を漱石に求めたのをきっかけに漱石門下となる。明治41年3月、草平は平塚明子(雷鳥)と塩原で心中未遂を起こした際、漱石は草平を自宅に迎え、醜聞の渦中から彼を守った。この体験を書いた小説『煤煙』は、朝日新聞の「文芸欄」第一回に掲載された。

鈴木三重吉  すずき みえきち  明治15~昭和11年(1882~1936年)
小説家・児童文学者 広島県広島市出身
東京帝国大学英文科卒業。在学中に自作「千鳥」を漱石に送り、その推薦により『ホトトギス』に掲載されたことを機に漱石門下となる。多忙な漱石に「木曜会」を提案したのは彼であった。大正7年、児童文学誌『赤い鳥』を創刊、児童文学運動をリードした。
安部能成   あべ よししげ   明治16~昭和41年(1883~1966年)
評論家・哲学者   愛媛県松山市出身
第一高等学校で漱石に師事し、東京帝国大学哲学科卒業後、森田草平・小宮豊隆らと朝日新聞の「文芸欄」で活躍する。後に第一高等学校校長、文部大臣、学習院院長を務める。喜久井町の漱石生誕の地の記念碑の題字は、能成の筆によるものである。
内田百閒   うちだ ひゃっけん 明治22~昭和46年(1889~1971年)
小説家・随筆家   岡山県岡山市出身
第六高等学校在学中に『老猫』という作品を漱石に送り、評価される。東京帝国大学独文科在学中、長与胃腸病院に入院中の漱石を訪ね、木曜会への出席を許される。
和辻哲郎   わつじ てつろう  明治22~昭和35年(1889~1960年)
哲学者・文化史家  兵庫県神崎郡仁豊野(現、姫路市)出身
第一高等学校時代には、教室の窓の外から授業を聞くほど漱石に心酔した。東京帝国大学哲学科卒業後、漱石門下となる。『古都巡礼』『風土』などの著作で知られる。
芥川龍之介  あくたがわ りゅうのすけ 明治25~昭和2年(1892~1927年)
小説家       東京市京橋区(現、中央区)出身
大正4年、漱石の死の前年に、東京帝国大学英文科の同級生である久米正雄と共に漱石山房を訪れる。漱石は『鼻』を絶賛し、龍之介を感動させた。

高浜虚子を除き、全員東京帝国大学の生徒です。安部能成は文部大臣(これは驚き)や学習院院長を勤めあげています。 右側の壁には「猫塚」と「漱石山房」、「『漱石山房』に関する新宿区の取組み」が出てきます。

猫塚(ねこづか)
漱石没後の大正8年(1919)、『吾輩(わがはい)は猫である』のモデルとなった猫の十三(じゅうさん)(かい)()にあたり、漱石山房の庭に建てられた供養塔(くようとう)。『文鳥』という作品で、その死が描かれた文鳥など、夏目家のペットの合同供養塔であった。
九重の層塔(そうとう)で、意匠(いしょう)は漱石作品の装丁(そうてい)も手がけた画家の津田(つだ)青楓(せいふう)による。なお、現在の供養塔は、昭和28年(1953)12月に復元(ふくげん)されたものである。
猫塚を清掃する早稲田小学校の児童たち(昭和42年12月9日)
「猫塚」復元除幕式
この写真は、昭和28年(1953)12月9日、漱石山房跡(現在の漱石公園)で行われた「猫塚」復元除幕式の様子を撮影したフィルムから構成したものです。戦災で倒壊した猫塚が、漱石の37回目の命日に再建されたもので、式典には鏡子夫人や長男の純一氏、弟子の小宮豊隆・安部能成らが出席しており、その姿がフィルムに収められています。
夏目(なつめ) 鏡子(きょうこ) 明治10~昭和38年(1877~1963)
夏目漱石の妻。戸籍(こせき)名はキヨ。貴族院書記官長・中根(なかね)重一(じゅういち)の長女として広島県に生まれる。
明治28年(1895)漱石と見合いをし、翌年熊本の第五高等学校に赴任(ふにん)していた漱石と結婚した。2男5女(筆子、恒子、栄子、愛子、純一、伸六、ひな子)をもうける。漱石の没後、夫との生活ぶりを口述(こうじゅつ)し、長女・筆子の夫で漱石の弟子でもあった松岡(まつおか)(ゆずる)筆録(ひつろく)した『漱石の思い出』が出版されている。
漱石山房
夏目漱石は、明治40年(1907年)、早稲田南町に引越してきました。漱石は、この場で多くの有名な作品を生み、大正5年、49歳で「明暗」執筆中に亡くなるまで住み続けました。この、漱石が晩年を過ごした家と地を「漱石山房」といいます。
「漱石山房」の家はベランダ式の回廊のある広い家で、奥に板敷きの洋間がありました。漱石は、この洋間に絨毯を敷き紫壇の机と座布団をしつらえて書斎としていました。
漱石は面会者がとても多かったので、面会日を木曜日と決め、その日は午後から応接間を開放し、訪問者を受け入れました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」は、近代日本では珍しい文豪サロンとして、若い文学者たちの集いの場所となり、漱石没後も彼らの精神的な砦となりました。
「漱石山房」の変遷と漱石公園の整備

 

3.「猫塚」復元除幕式の映像。ビデオです。見たい場合は頼んでみましょう。約20分。漱石号
漱石山房の小冊子4.小冊子。「漱石山房秋冬」と「漱石山房の思い出」はただでもらえます。ただし、残りは僅かだと聞いています。

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