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小品『草あやめ』①|泉鏡花

文学と神楽坂

泉鏡花作「草あやめ」(明治36年)の最初の1節です。当時の神楽坂2丁目の様子がわかります。まだこの辺りは華街にはなっていなかったのですね。

二丁目にちやうめ借家しやくや地主ぢぬし江戸兒えどつこにて露地ろぢとざさず裏町うらまち木戸きどには無用むようものるべからずとかたごとしるしたれど、表門おもてもんにはとびらさへなく、けても通行勝手つうかうかつてなり。たゞ知己ちかづきひととほけ、世話せわもを素通すどほ無用むようたること、おもひかはらずりながら附合つきあひ五六けん美人びじんなきにしもあらずといへどみだり垣間見かいまみゆるさず、のき御神燈ごしんとうかげなく、おく三味さみきこゆるたぐひにあらざるもつて、頬被ほゝかぶり懐手ふところで湯上ゆあがりのかた置手拭おきてぬぐひなどの如何いかゞはしき姿すがたみとめず、華主とくいまはりの豆府屋とうふや八百屋やほや魚屋さかなや油屋あぶらや出入しゆつにふするのみ。

[現代文] 二丁目の私の借家の地主は、江戸っ子であり、門などは閉めない。裏町の木戸には無用の者は入ってはいけないと型どおりに書いている。しかし、表門を見ると、扉はなく、夜が更けても誰でも勝手に通行できる。ただし、近くの人の通り抜けはよくない。一般的な言葉を使うと、素通り、つまり、立ち寄らずに通り過ぎる人は、いらないと私は考えている。
 お付き合いした五六軒を見ると、美人もいるが、やはり、みだりにのぞき見はいけない。待合のように提灯はかかっておらず、奥には三味線の音も聞こえてこない。さらに、ほおかぶり、懐手、湯上りの肩に置手拭といったいかがわしい姿もない。あるのは、得意客を回る豆腐屋、八百屋、魚屋、油屋が出入する音だけだ。

二丁目 神楽坂2丁目22番地のこと。泉鏡花は明治36年から39年まで、ここを借りていました。
露地を鎖さず 「ろじをとざさず」。露地は覆いがない土地。これを戸・門などでしめない。
通行勝手 勝手に通行できる。
素通り 立ち寄らずに通り過ぎる。
かはらず 変わらず。変わることないが。そう考えているが。
お附合 「お付き合い」。人と交際すること
美人なきにしもあらず 「なきにしもあらず」とは「無きにしも非ず」。ないわけではない。美人ではないわけではないが
垣間見 間からからこっそり見ること。のぞき見。
御神燈 芸者屋などで縁起をかついで戸口につるした提灯。
三味の音 芸者さんは午前中から三味線の練習をしました。
類にあらざる 同類ではない。似ていない。芸者さんとかは来ていない。
頬被 手ぬぐいなどで頭から頰にかけて包み、顎のあたりで結ぶこと。
懐手 手を袖から出さずに懐に入れていること。傍観者の立場という感じでしょうか
置手拭 手ぬぐいを畳んで、頭や肩にのせること
如何はしき いかがわしい。怪しげだ。疑わしい
豆府屋 行商の豆腐屋はラッパを鳴いて売り歩いていました。行商の八百屋、魚屋、油屋もありました。

あさまだき納豆賣なつとううり近所きんじよ小學せうがくかよをさなが、近路ちかみちなればいつたもとつらねてとほる。おはなやおはな撫子なでしこはな矢車やぐるま花賣はなうりつき朔日ついたち十五日じふごにちには二人ふたり三人さんにんくなり。やがて足駄あしだ齒入はいれ鋏磨はさみとぎ紅梅こうばい井戸端ゐどばた砥石といしゑ、木槿むくげ垣根かきね天秤てんびんろす。目黑めぐろ(たけのこ)うりあめみの若柳わかやなぎ臺所だいどころのぞくもゆかや。

[現代文] 早朝、納豆を売る人が出てくる。近所の小学校に通う幼児も近道をとおり、五人や六人、一緒に歩いている。お花を売る姿も見える。撫子の花や矢車の花を売り、月の一日や十五日になると、二人三人呼びあって、皆で買うようだ。やがて行商の足駄の歯入やハサミ研ぎが出てくる。紅梅の井戸端に砥石をそろえ、木槿の垣根に天秤を下ろす。目黒の筍売屋は雨の日に蓑を着て、若い女性が台所にいるのを見ている。これもいい感じだ。

小学 竹内小学校です。場所はここ。明治20年の地図ではここ。平成9年の『ここは牛込、神楽坂』第4号16頁によれば、「『近所の小学』というのは、現在、東京理科大学の一部になっている所にあった私立竹内小学校のことで、公立の津久戸小学校が創立されるまで、付近の子供たちはほとんど、ここに通っていたと聞きました」と書いてあります。実は津久戸小学校ができてもただちに竹内小学校が消えたのではなさそうです。津久戸小学校が作られたのは明治37(1904)年4月。ほぼ20年後の大正11(1922)年になっても、東京逓信局編纂『東京市牛込区』では、この2つの小学校は依然同時にあります。大正12年、関東大震災が起こり、それから、ようやく昭和5(1930)年には竹内小学校は消えています。また、昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ると、私立竹内小学校はかなり大きな敷地を占めていました(下図)。

古老の記憶による関東大震災前の形竹内小学校
現在は理科大のキャンパスです。竹内小学校

朝まだき 早朝
幼き おさなき。年齢がごく若い。未熟だ。
袂を連ねて 袂とは和服の袖付けから下の、袋のように垂れた部分。袂を連ねる人と行動を共にする。
撫子 なでしこ。ナデシコ科の多年草。
矢車 やぐるまぎく。キク科の一年草。
足駄 あしだ。下駄の一種。東日本では歯の高い差歯(さしば)の下駄をアシダと呼んでいる。
歯入 はいれ。下駄の歯を入れ換えること。その職業。
鋏磨 ハサミ研ぎ。
紅梅 こうばい。ウメのこと。
木槿 ムクゲ。アオイ科の落葉低木。写真は左からなでしこ、やぐるまぎく、むくげ 藁(わら)を編んで作られた雨具の一種。
若柳 若い柳。ここは美人のことだと思います。たとえば、柳眉とは柳の葉のように細く美しい美人の眉をさします。同じではないでしょうか。
床し 気品・情趣などがある。

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加能作次郎|作家

文学と神楽坂

加能作次郎2 加能(かのう)作次郎(さくじろう)は1885年(明治18年)生まれ。 日本の小説家、評論家、翻訳家。石川県志賀町出身。

 早稲田大学文学部英文科を卒業した後、博文館に入社し、『文章世界』の主筆として翻訳や文芸時評を発表。1918年(大正7年)に私小説「世の中へ」で認められ、著作家として活躍。1940年(昭和15年)、「乳の匂ひ」を発表。1941年(昭和16年)、クループ性急性肺炎のために享年満56歳で死去。

 なんと言っても、氏の『早稲田神楽坂』で一部の人には有名です。一部の人というのは神楽坂や早稲田を色々読んでいる人のこと。『早稲田神楽坂』は、1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」の一部で、作者の年齢は42歳でした。

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『詩人』|金子光晴

文学と神楽坂

金子光晴

金子光晴

 金子かねこ光晴みつはるは、詩人で、暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科も東京美術学校日本画科も慶應義塾大学文学部予科もすべて中退です。

 生年は1895年(明治28年)12月25日。没年は1975年(昭和50年)6月30日で79歳。
 大正10(1921)年1月末(満25歳)に欧州から日本に帰国しました。

 しかし、ぼつぼつと、友人達と再会の顔を合わせ、むかしの生活がまたじぶんのものとして戻ってくるような思いになっていった。送別会をやってくれた時の、ほぼおなじ連中が、歓迎会をしてくれた。その歓迎会は、やはり、神田の牛肉屋だった。福士幸次郎が、サトウ・ハチローをつれてきていた。ハチローはまだ十八歳の少年で、赤いジャケツを着て、神妙にひかえていた。メンバーは、惣之助富田佐佐木茂索平野威馬雄井上康文中条辰夫等で、その人たちの顔をみて僕は、はじめて、本当に日本へかえってきたなと納得した。

    処女詩集の頃

 歓迎会がすんでから、福士、富川、井上、サトウの四人といっしょに、神田の牛肉屋から、九段坂をあがって、牛込見附に出て、神楽坂から赤城元町の家まであるいた。二階の八畳で五人は、殆ど夜通ししゃべってから、ゴロ寝をした。彼らは僕がヨーロッパで、どんなしごとをしてきたかに、多少の興味があるらしかった。僕は、蒐集品でもこっそりみせるように、『こがね蟲』のノート、まだ推敲の余地のたくさんのこっている一冊を、富田にみせた。まだ『こがね蟲』という題名はなく、紺色の裏紙の二百枚位を綴ったノートだった。富田は、しばらくそれをみていたが、
「こりゃあ、君、アルベール・サマンじゃないか。福士君にみせた方がいい」
 と言って福士にわたした。社会詩人の富川の心では、間男の子が生れたようなあて外れだったのだろう。『太陽の子』で社会詩人とも有縁(うえん)におもわれていた福士は、丁度、その頃から、フランス伝統派の批評家ブルンティエールに傾倒しはじめていて、僕の『赤土の家』には不満だったので、富田から渡された詩稿を、はじめは迷惑そうに手にとってめくっていたが、そのうち、一人、横の方へ行って熱心によみはじめた。
「金子君、これは、もう一度ゆっくりよませてもらいたいから、一日貸して……」(中略)
 一日おいて、福士は、ハチローをつれて、僕一人のところへまたあらわれた。
「この詩は、君、すばらしいよ。日本でははじめての試みだとおもう。富田君は、サマンと言ったが、サマンじゃない。手法は、パルナシアンだと思う」
 福士はさすがに目がたかかった。僕のパルナシアン巡歴の痕跡をみぬいていた。

送別会 1918(大正7)年12月、養父の友人とともに欧州遊学に旅立ちました。
歓迎会 大正10年1月末に欧州から帰国。
神田の牛肉屋 神田「今文」で開催。「今文」は小川町通りのすき焼料亭で、1990年頃までは店は続きますが、諸事情で閉店に
惣之助 佐藤惣之助(そうのすけ)。生年1890年12月3日。没年1942年5月15日。詩人、作詞家。古賀政男と組み、多くの楽曲も
富田 富田(とみた)砕花(さいか)。生年1890(明治23年)年11月15日。没年1984年10月17日。詩人、歌人。大正詩壇で社会主義に傾き民衆詩派の詩人として活躍
平野威馬雄 ひらのいまお。生年1900年(明治33年)5月5日。没年1986年(昭和61年)11月11日。詩人・フランス文学者。たジャン・アンリ・ファーブル関係の著作を翻訳
井上康文 いのうえやすぶみ。生年1897(明治30)年6月20日。没年1973年。詩人。大正7年、福田正夫の「民衆」に参加、主要同人として編集を担当。「新詩人」「詩集」「自由詩」を創刊。
中条辰夫 日比谷図書館児童部に勤務。生没年不明。
九段坂 くだんざか。九段下交差点から靖国神社の南側に上る坂
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。牛込見附は江戸城の城門の1つを指しますが、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができるとその駅(停留所)も指し、さらにこの一帯の場所も牛込見附と呼びました。
神楽坂 東京都新宿区で早稲田通りの一部。外堀通りの「神楽坂下」交差点から、大久保通りの「神楽坂上」交差点を通って、神楽坂6丁目に至る坂
赤城元町 東京都新宿区の町名。

「神田の牛肉屋から、九段坂をあがって、牛込見附に出て、神楽坂から赤城元町の家まであるいた」。書いて見ました。40分ぐらいはかかりますが、地下鉄もタクシーもまだない明治時代の人はこれぐらいは簡単に歩けます。

神田から赤城元町に

神田から赤城元町に

こがね蟲 1922(大正11)年3月、ベルギーで書きためた詩を推敲し、翌年7月、詩集『こがね蟲』を出版。
アルベール・サマン Albert Samain。1858年、フランス生まれ。象徴派の詩人。繊細な詩風
有縁 互いに関係のあること
ブルンティエール ブリュンティエール。Ferdinand Brunetière。1849~1906。フランスの批評家・文学史家。自然主義・印象主義には否定的。
パルナシアン Parnassiens。高踏派。ロマン主義の自意識過剰な抒情性に対して、唯美主義的で形象美と技巧を重んずる

文学と神楽坂

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サトウハチロー|木々高太郞など

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。右端は神楽坂上から左端は早稲田(神楽坂)通りと牛込中央通りの交差点までにあった店や友人の話です。推理小説の大家、木々高太郞もこのどこかに住んでいたようです。まずサトウハチローの話を聞きましょう。

(さかな)(まち)電車通りを越して、ロシア菓子ヴィクトリア(よこ)(ちょう)を入ったところに昔は大弓場だいきゅうじょうがあった。新潮社の大支配人、中根駒十郎大人(たいじん)が、よくこゝで引いていた。僕も少しその道の心得があるので弓で仲良くなって詩集でも出してもらおうかと、よく一緒に()()をしぼった。弓はうまくなったが詩集は出してもらえなかッた。ロシア菓子の前に東電(とうでん)がある。神楽(かぐら)(ざか)の東電と書いてある、お手のものゝイルミネーションが、家の前面(ぜんめん)いっぱいについている。その(うち)で電球のないところが七ヶ所ある。かぞえてみる()()もないだろうが、何となくさびしいから、おとりつけ下さいまし。郵便局を右に見てずッと行く。教会がある。その先に、ちと古めかしき(あゝものは言いようですぞ)洋館、林病院とある。院長林熊男とある。僕はこゝで林熊男氏の話をするつもりではない。その息子さん林(たかし)こと木々(きぎ)(たか)()(ろう)の話をするつもりである。この病院の表側の真ン中の部屋に、その昔の木々高太郎はいたのである。ケイオーの医科の学生だった、万巻の書を(ぞう)していた。僕たちは金が必要になると彼のところへ出かけて行ってなるべく高そうな画集を借りた。レムブラントも、ブレークも、セザンヌもゴヤも、こうして彼の本箱から消えて行った。人のよい木々博士(はかせ)は(そのころは博士じゃない、また博士になるとも思っていなかった)その画集が、どういう運命をたどるかは知っていながら、ニコニコとして渡してくれた。僕たちは(なぜ複数で言うか、いくらか傷む心持ちが楽だからである)それをかついで岩戸(いわと)(まち)竹中書店へ行った。

肴町 現在、肴町は神楽坂5丁目に変わりました。
電車通り 昔は市電(都電)が通っていました。現在の大久保通り。
岩戸町 現在も同じ岩戸町です。

ロシア菓子
ヴィクトリア
 どこにあったのか、不明です。
 岡崎弘と河合慶子が書いた『ここは牛込、神楽坂』第18号の「神楽坂昔がたり 遊び場だった『寺内』」は下図までつくってあり、明治時代の非常に良く出来たガイドなのですが、これをよく読んでもわかりません。昭和になってから「ロシア菓子ヴィクトリアの横町」は「成金横町」に変えています。成金横町の入り口は向かって左の明治時代はタビヤ(足袋屋か)、現在は和菓子の「菓匠清閑院」、右の現在はポストカードなどを売る「神楽坂志葉」です。ロシア菓子ヴィクトリアは多分この2店のどちらかでしょうか。
 また、『ここは牛込、神楽坂』第3号の西田照見氏が書いた「小日向台、神楽坂界隈の思い出」では「洋菓子は(パン屋にあるカステラ程度のもの以外では)神楽坂の『ヴィクトリア』(東西線を少し東へ下ったあたりの南側)まで行かねばなりませんでした。小日向台へ配達もしてくれました。『ヴィクトリア』の並びに、三越本店の写真部に勤めていたヴェテランがはじめた「松兼」という、気のきいた写真屋がありましたが、いずれも戦災で姿を消しました」。松兼はタビヤ(足袋屋なのでしょう)とカンコーバ(勧工場でしょう)の間の「シャシン」でしょうか。
  神楽坂6丁目
大弓場 この『ここは牛込、神楽坂』第18号で大弓場は出てきます。ただし、簡単に
岡崎氏:成金横丁の白銀町の出口に大弓場があったね。
だけです。しかしこの上図には絵がついているのでよくわかります。
東電 東京電力。どこにあるのか、消えてしまって、不明です。現在の反対側は向かって左は布団などを売る「うらしま」、右は美容室「イグレッグパリ」です。
郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば
「矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。」
となっています。郵便局の記号は丸印の中に〒です。下の地図「昭和16年の矢来町」ではさらに赤い丸で囲んであります。
昭和16年の矢来町

昭和16年の矢来町

教会 教会の場所は上の地図では青緑の四角で示しています。「牛込誓欽会」と書いているのでしょうか。
林病院

昭和12年の「火災保険特殊地図」で「林医院」がありました。林医院は矢来町124番(赤い四角でした。別の地図を書いておきます。東西に延びる「矢来の通り」と南に延びる「牛込中央通り」に接し、現在では「マクドナルド 神楽坂駅前店」などができています。

林医院

昭和5年「牛込区全図」

林医院

昭和12年「火災保険特殊地図」

木々高太郞

現在の「マクドナルド 神楽坂駅前店」。左手の先は地下鉄「神楽坂駅」

木々高太郞 推理小説家です。大正13年、慶応医学部を卒業。昭和4年、慶応医学部助教授となり、7年、条件反射で有名なパブロフのもとに留学。9年、最初の探偵小説『網膜脈視症』を「新青年」に発表。10年、日本大学専門部の生理学の教授になり、さらに、11年、最初の長編『人生の阿呆』を連載し、昭和12年2月、これで第4回直木賞を受賞。昭和21年、慶応医学部教授になります。
竹中書店 これも『ここは牛込、神楽坂』第18号に出ています。地図は一番上の図、つまり、大弓場と同じ地図に出ています。また『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。

 木々高太郞全集6「随筆・詩・戯曲ほか」(朝日新聞社)の作品解説で詩人の金子光晴氏は

僕の住んでいた赤城元町十一番地、(新宿区牛込)と林君の家とは、ほんの一またぎだった。おなじ「楽園」(同人雑誌)の仲間でしげしげとゆききをしたのは林君だったのも、その家が近いという理由が大きかった。それにしても、一日二日と顔を合せないと、落しものがあるように淋しかった。そのくせ、僕と林君とは、意見やその他のことが一つというわけではなかった。「楽園」の責任者は僕だったが、もともとは、福士幸次郎のはじめた雑誌だった。福士の友人が、義理で後援者ということになっていた。広津和郎や、宇野浩二斎藤寛加藤武雄などいろいろ居たが、いちばん近いところに増田篤夫がいた。増田と福士はもともと、三富火の鳥のグループにいた。「楽園」の若い同人たちは、福士派と増田派と、どちらにも親しい人とがいたが、林君は屈託のない人で、そのどちらにも親しい人に属していた。しかし、今度、林君の詩の韻律についての克明な仕事をみて、同人中で福士幸次郎にうちこんで、その仕事の熱心な祖述者であった人は、林君ともう一人佐藤一英君ぐらいであることを知って、いまさらのように僕はおどろいている。
赤城元町
11番地
この場所は上図(相当上の図です)の「昭和16年の矢来町」の青紫の四角で書きました。確かに「ほんの一またぎ」で来ます。
斎藤寛 さいとう ひろし(あるいは、かん、ゆたか)。雅号は斎藤青雨。詳細は不明。
加藤武雄 かとう たけお。1888年(明治21年)5月3日~1956年9月1日。小説家
増田篤夫 ますだ あつお。1891(明治24年)年4月9日~1936年2月26日。詩集を遺さなかった詩人。
佐藤一英 さとう いちえい。1899年(明治32年)10月13日~1979年(昭和54年)8月24日。詩人

文学と神楽坂