飯田橋」タグアーカイブ

飯田橋駅東口2(写真)昭和51年 ID 480とID 494

文学と神楽坂

 新宿区立新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の写真ID 480とID 494は、昭和51年8月に飯田橋駅東口と飯田橋交差点を撮った写真です。
・飯田橋駅東口(写真)ID 481~483
・失われた新宿区(写真)ID 484
の撮影で、おそらく再開発前の同地区の様子を記録したものでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 480 揚場町、飯田橋駅前

 ID 480は、飯田橋交差点の西側からを東側を狙っています。左右方向が外堀通り。手前の横断歩道は大久保通り。左側の高架の下が目白通りです。
 歩道橋の右、日除けテントの古い建物はこの当時、新宿区に属していました。後に区境変更で千代田区になります。
 その右は取り壊されて空地になり、フェンスで囲まれています。フェンス越しに見えているのは外堀の向こう岸にある飯田橋駅駅舎の2階部分。その上にはホームの屋根が左右に続いています。駅舎の手前、右の平屋は東京燃料林産の建物でした。一番奥の数棟のビルも千代田区です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 494 飯田橋駅ガード下

 ID 490は、ID 480の左側の歩道橋の上から飯田橋駅の高架ホームを撮影しています。JRの発足は1987年(昭和62年)4月なので、撮影当時は「国電」でした。高架橋の案内看板には「JNR(日本国有鉄道) 飯田橋駅→」と書かれています。駅前のタクシー乗り場は、今も同じ場所にあります。
 飯田橋駅のホームは、この写真の右側に200メートルほど移転し、2020年7月12日に新しく開業しました。今も高架橋は変わっていませんが、すでに写真の部分はホームとしては使われていません。
 撮影位置は新宿区の最も外れで、写っているのはすべて千代田区です。
 なお、現在の飯田橋駅の出入口は、始めの一か所から、変遷の末、北東の出入口と南西の出入口になりました。北東の出入口を東口、南西は西口と呼び、さらに現在は無数の改札があります。

飯田橋駅の東口と西口

  1. 道路標識(最高速度40)大型貨物自動車等通行止め(大型貨物自動車等通行止め)
  2. 陸橋。道路標識「大型最徐行」
  3. JRのプラットホーム。中央線 JNR 飯田橋駅
  4. タクシーのりば
  5. 新聞売り場
  6. チラシ「催眠療法。赤面対人恐怖どもり」
  7. 歩道橋。当時は「エ」の形をしていた。
  8. 交差点。名前は「飯田橋」。縦に並んだ信号機があるが、理由は不明。
  9. 店舗。シームレス(後ろ中央に縫い目のない婦人用長靴下)を販売。
  10. 店舗。立喰いそば 富士
  11. 空地、
  12. 立て看板「〇くださ(い)/ゴミをすてて(は)/いけません/〇〇)
  13. 飯田橋駅駅舎(二階建ての家)
  14. 歩行者用信号機
  15. 東京燃料林産(一階建ての家)

神楽坂1丁目(写真)令和元年 ID 13318

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13318は、令和元年(2019)6月、牛込橋あたりから神楽坂入口を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13318 神楽坂入口

 四つ角は神楽坂下交差点、左右に流れる道路は外堀通り、前後に流れる道路は神楽坂通りです。手前の舗装が違う部分は牛込橋です。戦前からの石橋を、平成8年(1996年)に鉄橋に掛け替えました。道路との間に黒いゴムを挟んでいて、小さな段差があるように見えます。おそらくコンクリートで舗装しています。歩道の縁石は一定間隔で黄色と無彩色に塗り分け、意味は「駐車禁止」。
 縁石に近い歩道から左右で上を向いて茶色に塗った街灯があります。新宿区の街灯とは違うので、千代田区の街灯でしょう。

街灯。Google

 次に「神楽坂通り」がここから始まり、さらに道路標識が続きます。

高 田 馬 場
Takadanobaba
市 谷
Ichigaya

飯田橋
Iidabashi
◀━   外堀通り  ━▶
牛込橋→神楽坂1丁目(令和元年)
  1. ▶街灯
  2. ▶神楽坂通り
  3. ▶道路標識
  4. 部屋探し/(mini) mini/xx9-x532(賃貸物件仲介)
  5. ▶消火栓
  6. 名刺 印鑑(「はんこ屋さん」)
    ――神楽坂下交差点
  7. (STARBUCKS COFFEE)
  8. (エイブル)
  9. モスバーガー
  10. 屋上広告「いちごナビ 「ねぇ 15pay 知ってる?」「いちごナビ求人」(風俗求人情報)「(インターネッ)ト (まんが喫)茶」(向かいのカグラヒルズに入居)「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」(会田ビル)(翁庵=そば屋)
  11. 駅前留学 NOVA 子ども駅前留学 NOVA KIDS(三経 第22ビル)
  12. 志満金(うなぎ)

▶がある場合は歩道上で車道寄りに、ない場合は直接店舗に広告があった、

  1. ――神楽坂下交差点
  2. ▶街灯。横断幕「神楽坂まち舞台・大江戸めぐり 2019年 宵祭 5月11日(土)本祭 5月11日(日)」
  3. (車両進入禁止)が2つ
  4. カグラヒル(ズ)「ひとりぼっちの まる まる生活 TVアニメ NOW ON AIR」「カラオケ(の鉄人)」「インター(ネット) まんが(喫茶 自遊空間)」「マツモト(キヨシ)」
  5. 遠くの高層ビルは「ヴァンテ・アン神楽坂」(3丁目・マーサ美容室跡/10階建て、1998年完成)と「神楽坂アインスタワー」(5丁目・寺内地区再開発/26階建て、2003年完成)

地下鉄工事とその後

文学と神楽坂

 加藤八重子氏の「神楽坂と大〆と私」(詩学社、昭和56年)です。加藤氏は大阪寿司「大〆おおじめ」を経営する娘で、父は大正6年(1917年)4月、通寺町(現、神楽坂6丁目)に大〆を開店。100年後の平成29年(2017年)7月、息子が閉店しています。これは、昭和39年12月、神楽坂に地下鉄の東西線が開通して、その前後の状況です。

 前にも一寸述べたように、鉄筋店舗を新築して3年目には既に地下鉄工事が始まった
 最近では、沿線の住民も慎重になって、先々の被害もその補償も事前に十分研究して、団結の力も強くなりそう安々と承諾しないと云う話である。
 この営団地下鉄との交渉では、何しろ経験のない事ではあり、公共事業ではあるし、不本意ながら承諾の判を押したような事であった。
 飯田橋から矢来町へかけて通る予定の路線工事の為、店に隣接する貸地二軒と、向い側の二軒の家はそれぞれ取り壊しとなり、仮住居へ移転した。
 大〆の店は幸か、不幸か取り壊されずに済んだ。当時は、仮店舗等の面倒もなくそのまま営業を続けていられると喜んでいた。
 処が、いざ工事が始まると思わぬ被害が出始めた。工事の際の建物の下受けの不備が原因か、とにかく鉄筋の建物の一部が二十糎余りも沈下して傾いた。
 この為の外壁、内壁の亀裂や傾斜等の被害を営団側では手直しと云う名目で修理はすると云う。
 店舗だけでなく、店舗の裏と横に面して建っている木造家屋も土台がずれて、この方がむしろ危険な状態になった。
 これも手直しはすると云うだけでは、実際に修理した家屋がこの先何年保つか不安である。
 この際、思い切って費用のかかるのは覚悟の上で、アパート併用の木造住宅を建てたのが、地下鉄工事が終って二年目の昭和40年であった。
 店舗の補修については、それ以上に被害も出ないだろうと手直しで我慢する事にした。
 その翌年、店の隣りに車庫と仕込場を作ってやっと一段落ついた。
 この地下鉄工事では、不安と焦燥の中で予期しなかった建物の被害のために、修理や普請が引き続き、こんなに疲れた事はなかった。
 考えて見るのに、如何に無駄な家屋の取り壊しや、建て直しを何度もやって来た事であろう。
 私達の代になってから今までに費した建築の費用をもってすれば、優に何階建てかの高層建築が出来ていた事であろう――
 しかし、此の地下鉄東西線が開通し、その後に有楽町線が通るようになって、益々交通の便がよくなって神楽坂近辺は地価も上昇するばかりのようである。
鉄筋店舗を新築 昭和35年1月でした。
地下鉄工事が始まった 「東京地下鉄道東西線建設史」(帝都高速度交通営団、昭和53年)によれば「昭和35年8月東西線中野・東陽町間の建設計画を決定し、昭和37年10月19日建設工事に着手した」
路線工事 昭和40年の住宅地図は下図。赤い線で書かれた店舗が大〆。

昭和40年 住宅地図。

工事が始まる 東西線はありませんが、有楽町で次の写真があります。

有楽町線 飯田橋-市ヶ谷間工事「有楽町線建設史」(平成8年)東京メトロアーカイブより

下受け 下請。したうけ。元請業者や元請負人の引き受けた仕事の全部や一部を、さらに請け負うこと。反意語は元請け。
営団 公共的事業経営のため特殊な非営利的な企業。第2次世界大戦中に多くの営団が設置。戦後、廃止か公団に改組、平成16年(2004)4月に、最後に残った帝都高速度交通営団は東京地下鉄株式会社(東京メトロ)に改組・民営化し、営団はなくなった。
地下鉄工事が終って 「東京地下鉄道東西線建設史」では「高田馬場・九段下は昭和39年12月23日に…運輸営業を開始した」と書いてあります。
普請 ふしん。道・橋などの土木工事。のち、建築工事一般もいう

大久保通り(写真)昭和20年代後半 ID 9492

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9492は、昭和20年代後半、神楽坂5丁目(昭和26年までは肴町)や大久保通りをねらっています。左側の同栄信用金庫は神楽坂5丁目に、右側の帝都信用金庫は岩戸町にあり、どちらも建築中。現在、同栄信金は合併で「さわやか信用金庫」となり、支店は神楽坂6丁目の東西線神楽坂駅の隣に移転。帝都信金は合併で「東京シティ信用金庫」となり、同じ場所に支店があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9492 大久保通り 神楽坂五丁目付近(現牛込神楽坂駅付近)

 歩道は大きく、車道は自転車やリアカーが走り、中央では路面電車が出て、新宿と飯田橋をつないでいます。電柱からは街灯として笠のついた電球が出ています。柱上変圧器もあり、パンタグラフ用の架線も沢山あります。江畠不動産は岩戸町7にありました。

神楽坂5丁目と岩戸町(昭和20年代後半)
  1. 看板「(神楽)坂警察署/(肴町)巡査派出所」
  2. (同)榮信用金庫牛込支店建築場
    (不)在 箪笥町新宿生活館□□□□営業中 電話□□XX XXXX
  3. 架設柱 小さな電灯「神楽坂肴町医師 松村孝市
  4. 電柱看板「江畠不動産」
  5. 建築材料
  6. きそば
  7. 電柱看板「江畠不動産」
  1. 店の前に自転車が一杯
  2. 高級 注文洋服 大野
  3. 帝都信(用)金庫本店建築場
  4. 電柱看板「宮本産婦人科」
  5. 電柱看板「神楽坂大場医院」「川島歯科」

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年1月。

キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂

文学と神楽坂

「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」という雑誌「Mr. Dandy」(中央出版、昭和49年)での写真です。中扉、いろいろな場所、さらに数枚の神社仏閣ですが、ここでは中扉を扱います。
 有楽町線「飯田橋」はまだ未開通です。しかし道路は開削し、上に鉄板を並べるところまで来ています。ただし、埋め戻しは開通後です。標識「神楽坂通り/美観街」も出ています。街灯は円形の蛍光灯一つだけで、これは昭和36年(1961年)以降です。その下に看板「神楽坂通り」。柱上変圧器もあります。

キミが一生に一度も行かない所 神楽坂S47

神楽坂1丁目(昭和49年)
  1. 田原屋。Tawarayaのyaが見える。
  2. 元祖 貸衣装 清水本店。
  3. 生そば。は「楚」のくずしかな、は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。ここに「翁庵」がある。
  4. 信華園(中華)
  5. 志満金」(うなぎ)
  1. 山田紙店。シャッターで閉鎖中。下に三角フェンス(バリケード)と土嚢。土嚢は雨水流入防止の常備品。地下鉄有楽町線「飯田橋駅」の出口で、利用開始寸前。ファサード看板は「山田紙」店。袖看板は「紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店」。さくらカラーの看板。地下鉄の出口に店を半分、譲渡。現在は「のレン」(お土産店)
  2. 不二家洋菓子。FUJIYA コーヒーショップ。不二家洋菓子
  3. 紀の善
  4. 床屋のサインポール
  5. 屋上広告看板の「3F 麻雀 桜。2F 喫茶室 軽い心。1F パブ ハッピージャック」。袖看板は「軽い心
  6. 建築中の陶柿園

神楽坂1丁目(写真)昭和6年 牛込橋 ID2

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 2は、昭和6年(1931年)頃、飯田橋駅付近より坂上方向を撮った写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 2 飯田橋駅付近より坂上方向

 街灯は中央やや左に一個あります。解像度が悪いので識別しにくいですが、「神楽坂通り 街灯の研究(戦前編)」とは違うもののようです。外堀通りの左側には「均一」という大きな文字と、その上に丸い屋号らしき看板があり、昔の「100円ショップ」である「10銭ストア」等でしょうか。右側でも大きな横文字の看板が見えます。
 牛込橋に向かって男性3人が同じ学生帽をかぶって歩いています。3人の他に多くの人も車道を歩いていて、歩道を歩く人は少数です。歩道には桜の木が何本も大きくなっています。歩道と車道を区切る縁石もあります。
 これは明治・大正名所 探訪記絵はがきの写真とよく似ています。特に外堀通りにある2店ではまず同じですが、ただ牛込橋の左側の桜の木は1本しか写っていないように見えます。絵はがきの方が時代が新しく、何らかの理由で失われたのかもしれません。

牛込神楽坂通

 早乙女勝元氏の『東京空襲写真集』を見ると左端の大きな木は葉が茂っていますが、神楽坂寄りの木は折れたようになっています。手前の木は戦後も生き残り、ID 55-56では太くなった特徴的な三股が確認できます。

 写真のキャプションでは……。なお、旧仮名づかいはすべて現代仮名づかいに代えています。

神楽坂 新宿が今日の繁昌をいたす以前は神楽坂は山の手の銀座として繁栄をうたわれたものである。しかし今日といえども早稲田という背景をもつがために決して衰微はしない。夜の神楽坂は露店と早稲田学生とそしてその中を彩る神楽坂芸者の艷しい姿でにぎやかだ。

 新宿歴史博物館によると、この本は仲摩照久編『日本地理風俗大系 第二巻 大東京篇』(新光社、昭和6年)だそうです。さっそく国立国会図書館からコピーをとってもらいました。

神楽坂と市ケ谷
 主要交通路は早稲田から飯田橋に至る路並に新宿から同じく飯田橋に行く線は、他の区でも同様であるが、都会の商業、事務の中心から放射状に出ているもので最も重要である。これに交わる電車の通されていない多少広い道路が次に重要な交通線である。尤も矢来町には途中まで電車が敷設された。それ等の中で殊に神楽坂附近はその最も盛な場所であって、関東大震災直後には大商店の分店がここに集って山の手銀座の名があったが、災害地の復興と新宿の繁栄などのために、一時程ではなくなった。
 この区は一般に住宅地で、大工場や大商店はあまりない。牛込区が東京市の一部分としての形態を備へ始めたのは極めて最近のことである。元禄の頃には現在の江戸川橋より西方は全く田であり、明治に入っても明治十七年参諜本部陸軍部測量局の測量の東京五千分一の地形図によって見ても、早稲田附近は全く田であり、当時の小日向新古川町附近までは今日の郊外のやうな人家の配列をなし、矢来町附近にも畑や竹藪が多かった。早稲田大学で人家が立並んだのは大正に入ってからのことである。
 その住宅地の間に陸軍関係の学校、その他が割合に広い面積を占めている。南部の市ヶ谷本村町には陸軍士官学校があり、河田町には陸軍経済学校戸山町陸軍幼年学校戸山学校近衛騎兵連隊がある。
 市ケ谷には市ケ谷刑務所があって、未決被告及び被疑者を収容している。
 病院の大きなものに済生会病院衛戌病院至誠病院などがある。
 市ケ谷八幡宮は士官学校の東隣にあって、文明年間太田道灌が築城の際に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものである。台地上にあって眺望がよい。

主要交通路 2つだそうです、一つ目は飯田橋から早稲田に行く道路、2つ目は新宿に行く道路です。

大正8年 東京市電。東京都交通局「かが街 わが都電」平成3年、東京都交通局

電車が敷設 矢来町から新橋までの都電の線路は敷設されていた。

昭和15年 東京市電。東京都交通局「かが街 わが都電」平成3年、東京都交通局

関東大震災 1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に起きた。
大商店の分店 今 和次郎編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年。再版はちくま学芸文庫、平成13年)では「三越の分店、松屋の臨時賣場、銀座の村松時計店と資生堂の出店さてはカフエ・プランタン等々一夜に失はれた下町の繁華が一手に押し寄せた観があった」。なお、松屋といっても銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではありません。
江戸川橋 飯田橋付近から関口大洗堰までの神田川はかつては「江戸川」でした。 この江戸川にかかった、東京都文京区関口一丁目を渡る橋は「江戸川橋」と呼びました。
明治十七年参諜本部陸軍部測量局 参諜本部の業務は「機務密謀に参画し地図政誌を編輯し並に間諜通報等の事を掌る」です(明治4年、兵部省陸軍部内条例)。
全く田であり 明治17年の参諜本部陸軍部測量局では小日向西古川町から早稲田大学までは本当に田んぼでした。

明治17年参諜本部陸軍部測量局

小日向新古川町 小日向区東古川町と西古川町。現在の文京区関口1丁目の東の半分。

東京都文京区教育委員会編「ぶんきょうの町名由来」文京区教育委員会。1981年

矢来町附近 やはり矢来町附近は田んぼや畑が多かったといいます。

明治17年参諜本部陸軍部測量局 矢来町

陸軍士官学校 旧日本陸軍の現役将校養成学校。明治7年(1874)東京市ケ谷に設置。
陸軍経済学校 陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育や経理官への上級教育を行った。現在は東京女子医科大学の一部。
陸軍幼年学校 陸軍将校志願の少年に士官学校の予備的教育を施した学校。東京陸軍地方幼年学校の生徒数は約50名で、13歳から16歳で入校し3年間の教育が行われた

昭和5年。牛込区全図。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年。335頁

戸山学校 陸軍戸山学校。旧日本陸軍で、学生に体操、剣術、喇叭らっぱ譜などの訓練を施した学校。
近衛騎兵連隊 宮城の守護や儀仗ぎじょうを任務とした旧日本陸軍の師団のうち、主に騎兵の連隊。現在は学習院女子大学、戸塚第一中学校、戸山高校など
市ケ谷刑務所 刑務所で、大正11年から昭和12年まで東京市牛込区市谷富久町にあった
済生会病院 戸山3丁目にあり、牛込恩賜財団済生会病院(済生会病院麹町分院が改称)が移転した病院。
衛戌病院 えいじゅびょういん。旧日本陸軍の衛戍地(軍隊が長く駐屯して防衛する重要地域)に設置された病院。陸軍病院の旧称。陸軍本病院は陸軍省の管轄であり、昭和4年(1929年)3月 新宿区戸山町(現在地)に移転。その後、国立東京第一病院から現在は国立国際医療研究センターに。
至誠病院 東京女医学校(現在の東京女子医科大学)の学長、吉岡弥生氏は関東大震災の後に下宮比町の至誠病院を入手し、繁栄したが、昭和20年4月、空襲で全焼した。今は東京厚生年金病院から東京新宿メディカルセンターとして発展中。
市ケ谷八幡宮 正しくは市谷亀岡八幡宮。新宿区市谷八幡町にある神社。鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったもの。「鶴岡」に対して「亀岡」八幡宮としている。
太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。

路地・小路・神楽坂

文学と神楽坂

村松友視

 村松友視氏がエッセイ集「風の町 夢あるき」(徳間書店、1984年、文庫版 1987年)のなかで「路地・小路・神楽坂」を書いています。
 氏は小説家で、中央公論社で「小説中央公論」「婦人公論」「海」などを編集、1980年「私、プロレスの味方です」で流行作家に。1982年「時代屋の女房」で第87回直木賞を受賞。生年は1940年4月10日。

〽あなたのリードで 島田もゆれる チークダンスの悩ましさ……子供のころ、神楽坂はん子が映画に出ているのをよく見た。あの当時、ばんじゅんの主演するハチャメチャ映画に芸者が出てくれば、久保幸江か神楽坂はん子が出てきたものだ。久保幸江の方は、トンコ節を歌ってニッコリ笑っているだけだったが、神楽坂はん子は何やら芝居めいたシーンもあり、色気の部分を受けもってウィンクなどをやっていた。ウィンクをすればお色気というのだから、まことに戦後的という感じだが、高島田で芸者姿のウィンクも捨てたもんじゃなかった、とまあ、言っておこう。
 神楽坂というくらいだから坂だろうと思ってやってくると、やはり神楽坂は坂だった……こんな感想を抱きながら、飯田橋からの坂道をのぼったのは今から二十年ほど前、私は大学の三年だった。
 京都から出て来た叔父が、よく神楽坂の旅館へ泊っていて、私はその叔父をたずねてはじめて神楽坂の坂をのぼった。叔父は東映京都のシナリオライター、仕事の打合せや執筆のため使っていたのが、その旅館だった。あのころ祖父と祖母をたてつづけに失った私に、叔父はいくらかの小遣いをくれたようにおぼえている。その小遣いが楽しみで、私は何度か神楽坂をのぼったのである。
 大学を出て出版社につとめた私は、文芸雑誌に配属されると同時に、野坂昭如さんの担当を買って出た。「買って出た」という言い方は、この業界ではピンとくるのだが、読者諸君にはにおちないかもしれない。ま、いろいろあるけれど、野坂昭如さんという作家は、原稿を入手するまでがなかなか大変だという通説があって、その通説は事実と符合していたということでございます。
 だが、「エロ事師」からはじまって「ほねとうげ死人ほとけかずら」にいたる野坂昭如さんの作品に、私などは完全にしびれていた。つまり、野坂昭如さんの担当を「買って出る」意味は、私の中には十分すぎるほどあったのだった。
 で、それから私の編集者時代を思うとき、ぜったいに抜くことのできない、野坂昭如さんという作家とのライブが始まった。私は、編集者と読者のあいだにある決定的なちがいは、作家とのライブの時間の有無にあると思っている。編集者が鋭い読者であるという見方は、私の場合は当っていなかった。すくなくとも鋭い読者は、それこそゴマンと存在したはずだ。だが、どんな鋭い読者にもないもの、それは編集者である私の、野坂昭如さんとの特権的なライブの時間なのだ。
〽あなたの 1952年「ゲイシャ・ワルツ」の歌詞。一番は「あなたのリードで島田もゆれる チークダンスのなやましさ みだれる裾もはずかしうれし ゲイシャ・ワルツは思い出ワルツ」
島田 島田髷。日本髪の代表的な髪形。
チークダンス 和製英語でcheek+dance。男女が互いにほおを寄せ合って踊るダンス。
伴淳 伴淳三郎。俳優。大衆演劇を転々とし、1927年日活に入社。1951年、驚きを表す〈アジャ・パー〉のせりふが大流行し、一躍人気コメディアンに。
久保幸江 くぼゆきえ。日本コロムビア社の新人歌手になり「トンコ節」が大ヒット曲に。
トンコ節 1949年1月に久保幸江と楠木繁夫のデュエットとして日本コロムビアから発売された曲。歌詞は「あなたのくれた 帯どめの 達磨の模様が チョイト気にかかる」
叔父 村松道平。父方のおじ。脚本家
神楽坂の旅館 「和可菜」です。
野坂昭如 小説家。早稲田大学仏文科退学。童謡「おもちゃのチャチャチャ」でレコード大賞作詞賞。小説は「エロ事師たち」直木賞受賞作の「火垂るの墓」「骨餓身峠死人葛」「真夜中のマリア」など。生年は昭和5年10月10日、没年は2015年12月9日。享年は満85歳。
エロ事師 エロ事師たち。性にまつわる人間たちの悲喜劇を描く。お上の目をかいくぐり、世の男どもにあらゆる享楽の手管を提供する、これすなわち「エロ事師」の生業なり――享楽と猥雑の真っ只中で、したたかに棲息する主人公・スブやん。他人を勃たせるのはお手のもの
骨餓身峠死人葛 九州の入海をながめる丘陵で最も峻嶮な峠「骨餓身」。昭和初期、その奥にある葛炭坑を舞台に繰り広げられる近親相姦の地獄絵、異常な美の世界。磨き上げられた濃密な文体で綴られる野坂文学の極致。
ライブ ラジオ・テレビなどの、録音・録画でない放送。生放送。生演奏。

 そんなライブの時間帯の断面に、神楽坂のという旅館が浮上してくる。締切がすぎて覚悟をきめると、野坂昭如さんは自ら神楽坂の旅館へこもって執筆をする。そこへ、担当編集者であった私も追いかけていって部屋を取って泊る……ま、張り込みですわな。
 神楽坂の中腹にある毘沙門びしゃもんさまを背に道の反対側をながめると、紳士服専門のテーラーと、婦人洋品店がならんでいる。その二軒のあいだに、これはもう路地というよりスキ間という趣きの通りみちがあり、そこを入ってゆく。向うからヒトがひとり来れば躯を斜めにしなければ行きちがえないほどの小路だが、いかにも神楽坂界隈かいわいといった風情だ。両側に黒板塀のある極端に細い小路……写真にでも撮れば、なまじちゃんとした路地なんかより神楽坂っぽいというあんばいだ。
 これを見て私は、三島由紀夫家のロココ調を思い出した。ミニチュア、盆栽的スケールの口ココ調なのに、写真に撮れば立派なロココ調という感じの三島家に、私は一度だけうかがってそんなことを感じていた。そう言えば、三島由紀夫さんは、野坂昭如さんの才能をもっとも認めていたヒトのひとりだっけ……そんな思いを胸に、極端にせまい小路をあるき、二、三度段々を降りるようにして進むと、右手に黒板塀のWがある。原稿は果して何枚……期待と不安をはかりにかけるようにして戸をあけるのが、つい一年ちょっと前までつづいた。
 81年の10月に出版社をやめた私は、何だか知らないけれどやたらに忙しい身の上となり、やめた直後に、“いかにしたらヒマをつくれるか”という方策を思案する始末だった。そしてまた一年たったが、やはりそのテーマは解決されず、同じテーマを二年目にもちこそうとしている。そんな矢先に、住んでいた古家の柱は腐りすきま風は吹き雨はもるといった状態を解決しようと、思い切って建て直すことにしてしまった。それはいいのだが、仕事のできる場所がなければ……思いあぐねた私は、またもや神楽坂へやってきた。
 この東京で、私が旅館のヒトと顔見知りなのはWしかない。で、頼み込んで二週間ほどとうりゅうすることになったが、野坂昭如さんをカンヅメにした旅館で、わりに平然と仕事をしている自分の性格にもどこか欠落があるなと感じつつ、やはり平然と原稿などを書いている。これはもう、持って生れた私の鈍感さ、図々しさであり、これがまた皆の衆の前で仕事をする立場には多少は便利だという、実にどうも困ったものでございます。
 ま、それはともかく、私は何度目かの神楽坂体験をしているわけだ。引っ越しまがいに荷物をもち込んだ私の部屋は、旅館のカンヅメの風景というより、逃亡中の犯人の仮の宿といったふうになっている。テレビを見るためにはかなり無理をして首を回さなければならず、座椅子に腰かけて切り炬燵ごたつに足をつつ込んでいる。目の前には小さなスタンドと原稿用紙、こうなれば仕事をするしかないという、まことに便利というか野暮な設定である。
紳士服専門のテーラーと、婦人洋品店「テーラー島田」と「あわや」です。

1984年。住宅地図。

ロココ調 バロックに続く時代の美術様式を指す。豪壮・華麗なバロックに対して、優美・繊細なロココという
盆栽的スケール 篠山紀信氏の「三島由紀夫の家」(美術出版社、2000年)では、庭園に小さな石像があり、内装の優美さと比べて、玄関も応接室も食堂も、家そのものが小さいのです。

篠山紀信「三島由紀夫の家」美術出版社、2000年

篠山紀信「三島由紀夫の家」美術出版社、2000年

切り炬燵 床に炉を切って、下に火入れを作った炬燵。

 ある朝、私は人声で目をさました。すると、「ヨーイ、スタート!」とか、「はい、カット!」とかいう言葉が聞え、私は窓を開けようかとも思ったが、面倒くさくなってやめていた。朝めしのとき旅館のヒトに聞くと、「何か、山本陽子さんが門から出てくるところを撮りたいって言うんで……」私は、旅館のヒトの言葉と朝めしのぜんを置きざりにして窓をあけ、写真に撮れば極め付という小路を上からながめたが、当然、あとのまつりだった。
 深呼吸をして座椅子へもどり、朝めしにとりかかろうとして、私はハシを宙に浮かせたままになった。さっき窓をあけて上からながめた小路のたたずまいを、私はずっと以前にも見たことがあるような気がしたからだった。
「あの、東映でシナリオ書いてたムラマツという者をごぞんじですか……」
 私の向けた言葉に、旅館のヒトはおどろいてしばらく口を手でおさえていた。私が学生時代に小遣いを楽しみにやってきた旅館は、このWだったのだ。あらためて窓をあけた私は、写真に撮れば極め付の神楽坂の小路を、ながいこと見おろしていた。ときどき、目の下を急ぎ足のヒトが行き来する。そんな師走らしい光景は、写真に撮らなくても極め付だった。

山本陽子

山本陽子 女優。1942年生まれ、東京都出身。日活ニューフェイスとして芸能界へ。清楚な顔立ちと高い演技力で、清純な女性から悪女までを幅広く演じ女優としての地位を確立。

都電・飯田橋(写真)1960年代

文学と神楽坂

 小川峯生・生田誠共著「東京オリンピック時代の都電と街角」 (アルファベータブックス、2017年)では

5方向からここに都電たちが集ってきた
3・13・15系統
飯田橋

 江戸城の北西にあたる飯田橋は、江戸時代には「牛込見附」が置かれた場所で、現在は外堀通りが通り、JR中央・総武線の飯田橋駅の両側で、早稲田通り神楽坂通り)と目白通りと交差している。また、早稲田通りから分かれて西に延びる大久保通りが存在し、現在は地下鉄各線が通る、この地域の交通の要となっている。
 明治から昭和戦前期の飯田橋付近には、「陸軍造兵廠東京工廠」が置かれ、国鉄の牛込、飯田町駅が存在した。現在のJR飯田橋駅は、1928(昭和3)年に牛込駅飯田町駅が統合された、比較的新しい駅である。2駅のうち、国電の始発駅だった飯田町駅は、統合後も長距離列車発着用のターミナル駅が残り、その後は貨物駅となって1999(平成11)年まで存在した。

外堀通り JR山手線やJR総武中央線に沿って皇居のまわりを一周する最大8車線の都道
早稲田通り 千代田区九段北の田安門交差点(靖国通り)から新宿区西早稲田、中野区中野などを経由し、杉並区上井草(青梅街道)に至る道路区間。
神楽坂通り 始点は神楽坂下交差点で、神楽坂上交差点を通り、神楽坂6丁目の終点辺りまで。早稲田通りの一部。
目白通り 千代田区の靖国通りから、練馬の関越自動車道の練馬インターに至る延長16kmの2~6車線の都道
大久保通り 飯田橋交差点から、牛込神楽坂駅を経て、JR高円寺駅付近の環七通りの大久保通り入口交差点に至る延長9kmの主に往復2車線の東西方向の都道

飯田橋の通り

陸軍造兵廠ぞうへいしょう東京工廠 陸軍の兵器・弾薬・器材などの考案・設計・製造・修理などをする施設。小石川の旧水戸藩邸跡に建設した。
飯田町駅 明治28(1895)年、飯田町駅は開業。場所は水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近でした。1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業。右は飯田町駅、左は甲武鉄道牛込駅、中央が飯田橋駅。2020年6月、飯田橋駅は新プラットホームや新西口駅舎を含めて使用を開始。

飯田橋駅、牛込駅、飯田町駅

 この飯田橋を通る都電は、3系統、13系統、15系統の3路線が存在した。山手線の南端にあたる品川駅前を出て、四ツ谷駅前から外堀通りを通って、はるばる飯田橋駅前へやって来たのが3系統である。ここが起終点の停留場だったから、残る2系統の路線とは接続していなかった。
 一方、高田馬場駅から南下して、新目白通り、目白通りを経由して、飯田橋へやって来た15系統は、九段下から神保町、大手町を通り、茅場町へ至る路線だった。また、新宿駅前からの13系統は、河田町から神楽坂を通って飯田橋に来て、御茶ノ水、岩本町を通り、終点の水天宮前に向かった。これらの路線は現在、東京メトロ東西線、南北線、有楽町線、都営地下鉄大江戸線に受け継がれている。

3路線 下図を参照

石堂秀夫「懐かしの都電」(有楽出版社、2004年)

東京オリンピック時代の都電と街角
【飯田橋】1968年。傘を手にした背広姿の会社員の列が見える雪の日の朝、飯田橋駅前の風景である。ようやくやってきた15系統の都電に乗ろうと、安全地帯に駆け寄る男たちもいる。まだ、神田川・外濠の上に首都高速道路は架かっていなかった。

1967年 飯田橋

飯田橋駅前の風景 15系統の都電が見える。ほかに正面のビルには左から右に

  1. 巨大なビルは東海銀行
  2. 酒の黄梅きざくらとカッパは三平酒造
  3. パーマレディ
  4. カッパ(合羽?)
  5. ミカワ薬局
  6. 時計
  7. 銀座土地
  8. つるやコーヒー
  9. 松岡商店

飯田橋2

【飯田橋】1962年。新宿駅前を出て、牛込柳町、神楽坂とたどってきた13系続の都電が坂道を下って、飯田橋までやってきた。坂の途中に見える建物は、1933(昭和8)年に完成し、戦災をくぐり抜けた新宿区立津久戸小学校の校舎である。この13系統は、手前の交差点を左折して外堀通りを水道橋の方向に進んでいった。

1960年。人文社。住宅地図。

 最左端は書店「文鳥堂」で、「小説新潮」「蛍雪時代」などを販売。その右に「田原屋」。洋酒を売っていた。「キャラメル」は「菓子 飯田橋 園」でしょう。「都 しるこ」は写真でははっきりしない。「都 寿司」はよくわかる。「ビヤホール 飯塚」もわかる。停留場「飯田橋」がその前にあり、おそらく都電は停車中。
 
 「新宿区立津久戸小学校」は中央の大きな建物。「新宿区立愛日小学校 津久戸分校」は間借りしていた。

1965年。日本住宅地図出版。住宅地図。

 広告板「酒は両関」は稲垣ビルで、東京ガス飯田橋サービスステーションなどがはいる。地元の人は「その後、隣の第一銀行と一緒になって現・第一勧銀稲垣ビル。1974年11月に竣工。『第一勧銀』の名を残す稀な例」だといいます。その右の2階は「ネアロンコーヒー」でしょう。その隣は「日鶴園飯田橋」で、おそらく酒に絡んだ商売をしている。「明治」はおそらく「山口製パン」がつくっている。

 また「文春オンライン」で同じようなものもでています。

1960年代の飯田橋 首都高もビルもない
 飯田橋駅のホームから神田川を眺める。64年当時は、バスと都電が走っていた。都電はここから、日本橋、茅場町へと向かう。高層ビルがほとんどなく、首都高もなく、青空が広がっているのが、今見ると印象的だ。

飯田橋と牛込区筑土方面遠望(写真)大正8年頃

文学と神楽坂

 この絵葉書は個人が所蔵するものですが、最初に雑誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」に出たときは低解像度で、もっと解像度が高くないと発表には向かないと思っていました。最近、石黒敬章氏の「明治・大正・昭和 東京写真大集成」(新潮社、2001年)を見ていると、初めて大きな写真を発見し、さらに「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)でも発見しました。
 まず何台かの電車が走っていますが、全て路面電車です。つまり道路上を走る市電や都電です。現在ではバスに代わり、なかには地下鉄に代わっています。JR(国鉄、省鉄)とは違います。路面電車の駅もバス停や地下鉄の駅に代わりました。

 林順信氏の「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)は

飯田橋の変則交差点 大正8年頃
 左に見える小さな鉄橋が飯田橋、右に見えるのは江戸川に架かる船河原橋である。江戸川がここで外濠に落ちるとき、どんどんという響きをたてていたので、通称「どんどん」と呼ばれていた。外濠に沿った左手を神楽かぐら河岸がしといい、目の前の町を揚屋あげやちょうという。諸国の物資を陸掲げした頃の名前である。船河原橋上を渡るのは、外濠線の環状線の➈番と新宿と万世橋とを結ぶ③番の電車、それと交差するのは、江東橋から江戸川橋に通う⑩番である。飯田橋は、昔から変則的五差路で交通の難所である。
飯田橋 東京都千代田区の地名
江戸川 ここでは神田川中流のこと。昭和40年以前に、文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を江戸川と呼んだ。
揚屋町 正しくは揚場あげば町です。
環状線の➈番 あっという間に市電の線路番号は変わります。これは大正4年に市電の系統でしょう。
万世橋 千代田区の神田川に架かる橋。秋葉原電気街の南端にある。
江東橋 墨田区の地名。墨田区で大横川に架かる橋
江戸川橋 目白通りにあって神田川を架かる橋。東京メトロ有楽町線江戸川橋駅前にある。

 五差路と視線の方向です。

牛込区の地形図。大正5年第一回修正測図。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』昭和57年)

 石黒敬章氏の「明治・大正・昭和 東京写真大集成」(新潮社、2001年)の説明は……

【飯田橋と牛込区筑土方面遠望】
現在は飯田橋交差点になり面影はない。左の鉄橋が飯田橋。右は船河原橋で、電車は新宿―万世橋間の③番と環状線の⑨番で、左の飯田橋を渡る電車は江東橋―江戸川橋間を走る⑩番だそうだ(『東京・市電と街並み』による)。⑩番の電車の奥の道は大久保通り。堀に沿って左に行けば市谷方面。現在も飯田橋交差点は変則的な五叉路で複雑である。

 最後は「かぐらむら」の文章です。「今月の特集 記憶の中の神楽坂」でおそらく2009年に出ています。

飯田橋界隈(大正時代/絵はがき、個人所蔵〉
複雑な地形で判り辛いが、左横の鉄橋が飯田橋である。市電外濠線が走っている。市電が停車している橋は、神田川に架かる船河原橋である。斜め上方に延びている道路は現在の大久保通りで、九段下から江戸川橋方面に行く市電が通っていた。通り沿い右奥の白い瀟洒な建物は、下宮比町1番地の吾妻医院という個人病院である。大正12年に売りに出されていたのを、関東大震災で九段下の至誠医院を失った吉岡弥生が購入し、至誠病院として多くの患者を集めたが、昭和20年4月14日空襲で全焼した。その後、東京厚生年金病院となり今日に至っている。
左上、ひときわ大きな灰色の屋根が、津久戸小学校である。この写真が撮られたのは(推測だが)自転車や人力車の様子から、大正の中期~後期ではないか。車両の前後がデッキ型の市電は、明治36年~44年に製造された。夏目漱石はじめ神楽坂を訪れた当時の文化人達が利用したのがこの車両である。1枚の絵はがきによって、古き飯田橋の「日常の一瞬」を垣間見ることができる。

吾妻医院 東京女子医科大学「東京女子医科大学80年史」(東京女子医科大学、昭和55年)では……

 吾妻病院は、大正5年(1916)まで順天堂の産科部長をしていた吾妻勝剛が、そこを辞めて、下宮比町に開業したとき建てた病院である。当代一流の産科医であった吾妻は最新の設備を備えた産科病院を建て、隆盛を極めたが、好事魔多しの譬えどおり大震災の日、熱海の患家で家の下敷となり、圧死したのであった。
 吾妻病院は火をかぶらなかったものの、地震で建物のあちこちが痛んでいた。しかし産科婦人科専門の弥生にとっては願ってもない病院であった。それを入手し、修理し、この年11月23日からここを第二東京至誠病院として再開した。この場所が牛込区下宮比町(現在の厚生年金病院の場所)であることからその後はここを学校のある“河田町”に対し“宮比町”と呼ぶのが内部での慣わしとなった。
 現在は名前は変わり、東京新宿メディカルセンターです。
吉岡弥生 医者。済生学舎(現日本医科大学)を卒業、東京で開業。明治33年(1900)東京女医学校(現在の東京女子医科大学)を創立。昭和27年、東京女子医科大学の学頭に就任。生年は明治4年3月10日(1871年4月29日)、没年は昭和34年5月22日。享年は満88歳
デッキ deck、vestibule(USA)。車内への出入口があり、客室との間に仕切戸が設けてある車端部の空間。鉄道車両で客室への出入口の部分。

昭和40年代の神楽坂(写真)

文学と神楽坂

神楽坂 加藤倉吉氏作の銅版画『神楽坂』(昭和47年)(植村峻氏『日本紙幣肖像の凹版彫刻者たち』、2010年)

  1. 看板「神楽坂通り」
  2. 街灯の途中から斜めに筒が出ていて、季節ごとに飾りや旗を差し込む。この時期は餅花みたいなものを飾っている。そこからぶら下がった提灯が割れてしまったように見える。
  3. 「山田」紙店
  4. 街灯
  5. FUJIYA 不二家洋菓子
  6. FUJIYA コーヒーショップ
  7. 不二家洋菓子
  8. おしるこ 紀の善
  9. 床屋のサインポール。2階が理容バンコック
  10. 1階がテーラー和田屋。
  11. 軽い心
  12. 神楽坂通り
  13. 美観街
  14. 文字のない飾り
  15. 街路灯に看板の「神楽坂通り」
  16. 軽い心
  17. 山一薬品
  18. 街路灯に看板の「神楽坂通り」
  19. 陶柿園
  20. パチンコマリー
  21. 菱屋
  22. MAXFACTOR(さわや)
  23. ニューイトウ(靴)
  24. 柱上変圧器
  25. (カネ)ボウ毛糸(ダイヤ)モンド毛糸 特約(店)。大島糸店
  26. うなぎ/割烹 志満金

神楽坂入口から坂上方向 新宿歴史博物館 ID 65

昭和48年2月。神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 65 から

  1. 赤井商店
  2. カレーショップ ボナ
  3. ここと4の間に山田紙店があるはずだが、この時は地下鉄出口の建設中。
  4. 不二家洋菓子。ウロコ張りの洋館風。店の横が見えている
  5. 紀の善。切妻の屋根
  6. 理容バンコックのサインポール
  7. 3F 麻雀 桜。2F 喫茶室 軽い心。1F パブ ハッピージャック
  8. 神楽坂通り。美観街。文字のない飾り。
  9. 牛込見附
  10. 昔は段差が見えた
  11. 質。大久保質屋。神楽坂仲通りにあった質屋
  12. 斉藤医院。小栗横丁と見番横丁、神楽坂通りで囲んだ医院(下図)。なお、神楽坂4丁目8番地の斉藤医院は戦前にはありましたが、戦後はなくなっています。

    1970年 住宅地図

  13. パチンコ ニューパリー
  14. 将来の有楽町線「飯田橋」。道路を開削し、上に鉄板。埋め戻しは開業後。





神楽坂下から揚場町まで

文学と神楽坂

 1960年代の外堀通りの神楽坂下交差点を見ていきます。これは以前の牛込見附交差点でした。「牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした」と地元の方。まず、1962年、外堀通りに接する場所は、人は確かに来ない、でも普通の場所だったと思います。でも、ほかの1つも忘れないこと。まず写真を見ていきます。池田信氏が書いた「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社。2008年)です。

外堀通り

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」毎日新聞社。2008年。


➀ 三和計器  ➁ 三陽商会  ➂ モルナイト工業  ➃ ジャマイカコーヒー  ➄ 佳作座  ➅ 燃料 市原  ➆ 靴さくらや  ➇ 赤井  ➈ ニューパリーパチンコ  ➉ 神楽坂上に向かって  ⑪ おそらく神楽坂巡査派出所

1962年。住宅地図。店舗の幅は原本とは違っています。修正後の図です。

 綺麗ですね。さらに加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)の写真を見ても、ごく当たり前な風景です。

1960年代の東京

 おそらくこれは「土辰資材置場」を指していると思います。地図では❶でしょう。

1965年。住宅地図。

 ➋はその逆から見たもの。

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 このゴミはどうしてたまったの。そこで、本をひもときました。
 渡辺功一氏は『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)で

 飯田濠の再開発計画
(略)飯田橋駅前には駅前広場がないことや、糞尿やごみ処理船の臭気で困ることなど指摘されていた。このことが神楽坂の発展を阻害しているのではないか。それらの理由で飯田濠の埋め立て計画がたてられた。

 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)「町名探訪」で

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 ここで「臭気」や「廃棄物」が、ごみの原因でしょうか。地元の人は「飯田壕の埋め立てと再開発は、外堀通りに面している低層の倉庫街をビル街にしたら大もうけ、という経済的理由だと思います」と説明します。「神田川が臭かったというのは、ゴミ運搬のせいではなくて、当時の都心の川の共通点つまり流れがなく、生活排水で汚れていたからです」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう」
「廃棄物の積み出し」では「後楽橋のたもとと、水道橋の脇にゴミ収集の拠点があって住宅街から集めてきたゴミをハシケに積み替えていました。電車から見る限り、昭和が終わるぐらいまで使っていたように記憶します」

 神田川のゴミ収集

 また、このゴミで飯田濠が一杯になっていたと考えたいところですが、それは間違いで、他には普通の堀が普通にあり、ゴミは主にこの部分(下図では右岸の真ん中)にあったといえると思います。他にもゴミはあるけど。

神楽河岸。「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

山の手と下町の同居-軽子坂と揚場町

文学と神楽坂

 揚場町って、どんな町なんでしょうか。そこで、津久戸小学校PTA広報委員会の「つくどがみてきた、まちのふうけい」(新宿区立津久戸小学校、2015年)をまず広げてみました。これはPTA制作の簡単にわかる小冊子で、揚場町もこの学区なのです。「まちの風景」を開き、「津久戸町」はこの学校があるところ、揚場町はその隣町です。次は「牛込見附・飯田橋」。あれっ、でない。さらに次を見ましょう。「新小川町」「東五軒町、西五軒町」「神楽坂」「赤城元町・赤城下町」「白銀町」「矢来町・横寺町」「袋町」「若宮町・岩戸町」「市谷船河原町」、これで終わり。揚場町はどこでもない。なぜ、でないの?
 2017年、ウィキペディアで揚場町の世帯数と人口は54世帯と105人。こんな小ささだったんだ。ちなみに、津久戸町のほうが小さくて98人。揚場町にはマンションがあるから、津久戸町に人口的には勝っている。しかし、揚場町には本当に大きな地域で、沢山の人がいるはずなのに、どうして少ないの? 標高が低い揚場町は倉庫と職場だけで、標高が高い地域では第一流の豪邸だけ、どちらも人口密度は低い。
 つまり、揚場町の中に「山の手と下町」が同居していると、地元の方。以下は地元の方の説明です。

 神楽坂は、よく「山の手の下町」と言われます。かつては城西地区で唯一の花街だったし、台地の上の住宅街に隣接して下町の賑やかさがあるからでしょう。それとは別の意味で山の手と下町の同居を感じさせるのが、神楽坂通りの裏手の軽子坂と揚場町です。
 昭和50年ごろまで、牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした。地名で言うと西側は神楽坂一丁目と揚場町、東側は神楽河岸です。名画の佳作座の前を過ぎると人の往来がぐっと減り、あとは、いま「飯田橋升本ビル」になっている升本酒店の本店とか、反対側の材木商とか、自動車の整備工場とか、役所の管理用の建物とか。そのほか普通の人にはなじみがない建材や産業材の会社兼倉庫みたいなものが立ち並んでいました。そういえば一時期、大相撲の佐渡ケ嶽部屋が古い建物に入居していたこともありました。都心の大通りなのにオフィス街でも商店街でもなく、倉庫街みたいな感じでした。
 神楽坂通りでは昭和40年代から、4-5階建てのビルがドンドンできていたんですが、外堀通り沿いは平屋か2階建てばかり。だから「メトロ映画」とか「軽い心」が飯田橋駅からよく見えたと言います。神楽小路の出口のギンレイホール大きな看板がついたのも、前にある建物が低かったからです。
 揚場町をちょっと入ったところの升本さんの倉庫は広場みたいになっていて、近所の子どもの遊び場でした。その先の路地の奥には生花市場がありました。割と早くに他の市場に統合されたのですが、もし今も残っていたら「市場横丁」なんて呼ばれたかも知れません。こういう場所でしたから、江戸時代に荷揚げ場があって、人夫が荷を担いでいたという歴史が納得できました。

城西地区 江戸城、現在の皇居を中心にして、西側の方角にある地域。6区があり、新宿区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、練馬区。
花街 遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。遊郭。花柳街。いろまち。はなまち。
軽子坂と揚場町 下図参照。

1912年、地籍台帳・地籍地図

牛込見附の交差点 現在は「神楽坂下」交差点
神楽河岸 下図参照。新宿区の町名で、丁目の設定がない単独町名。飯田橋駅の西側に位置する小さな町域があり、駅ビル「飯田橋セントラルプラザ」の建設のため、神楽河岸の形やその区境は変更している。

昭和58年「住宅地図」、区境などを変更

升本酒店の本店 酒問屋の升本総本店です。図の左側の「本店」は升本総本店のことです。

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

反対側の材木商 「大郷材木店」はラムラ建設で津久戸町に移転しました。「材木横丁」と呼んでいる場所です。

大郷材木店。https://blog.goo.ne.jp/kagurazakaisan/e/873ba776487429d0e755425fc61ee9ce

自動車の整備工場 神楽河岸の大郷材木店の北(右隣)にあって、1980年代には「ボルボ」という喫茶店を併設していました。残念ながら1965年の地図には載っていません。
役所の管理用の建物 地図を参照

1965年「住宅地図」

佐渡ケ嶽部屋 おそらく部屋の建て替え中に、佳作座の先の「三和計器」の跡に仮住まいしていたようです。「三和計器」は、1985年9月、飯田橋駅前地区再開発で、千葉県船橋市に工場を移転し、「三和計器」のあとには、1988年に「神楽坂1丁目ビル」が完成しました。その間に佐渡ケ嶽部屋ができました。部屋は現在、千葉県松戸市で、それ以前は墨田区太平で稽古していました。
生花市場 飯田生花市場です。花市場は建物の隣の何もないところが本来の場所で、そこに切花の入った大きな箱を並べて取引します。

 そんな倉庫街が、軽子坂を上りはじめると一変します。坂の左側に佐久間さんのお屋敷。右には升本さんの広大な本宅。坂の上の、いまノービィビルが建っているところには石造りの立派な洋館がありました。ここが誰の持ち物か忘れられていて、あまりに生活感がないので、失礼ながら「お化け屋敷」と呼ばれていました。その周辺も50坪、100坪といった庭付き一戸建てばかりで、今ほど土地が高くなかったにせよ、庶民には高嶺の花でした。
 少し大げさかも知れませんが、現場労働の「下町」と名声・財力の「山の手」が鮮やかに隣接していた。それが軽子坂であり、揚場町だと思うのです。今は再開発が進みましたが、それでも揚場町の「山の手」部分のお屋敷町の面影が、わずかに残っています。

升本さんの広大な本宅 下図を参照。

軽子坂。1963年(昭和38年)「住宅地図」

石造りの立派な洋館 これは鈴木氏の邸宅だといいます。安居判事の邸宅とも。「住宅地図」では1970年、更地になり、1973年、駐車場になっています。「神楽坂まちの手帖」12号の「神楽坂30年代地図」では

 津久戸小学校から仲通りに向かう左側の「セントラルコーポラス」。初期の分譲住宅で、中庭と半地下の広い駐車場のあるぜいたくなつくりは、マンション(豪邸)という呼ぶにふさわしい。当時、ここに住むこと自体にステータスがありました。もともとは石黒忠悳石黒忠篤という名士の豪邸だったようです。
 神楽坂に縁の深い政治家に田中角栄がいます。その生涯の盟友であった二階堂進は、セントラルコーポラスにずっと住んでいました。入り口にポリスボックスがあり、警備の巡査が常駐していました。二階堂さんは自宅のほかにマスコミ用の部屋を借りていたそうで、政治部の記者が常時、出入りしていたと聞きます。そうした記者が神楽小路の「みちくさ横丁」あたりでヒマつぶしをしていたので、こんな話が地元に伝わるのです。
 セントラルコーポラスの並びには警察の官舎があるのですが、ここには署長クラスでないと住めないのだとウワサで聞いています。やはり高級住宅の名残りなんでしょう。
 揚場町の「下町」部分、外堀通り沿いは、すっかりビルが建ち並びました。ただ神楽坂の入り口に近い一丁目にはパチンコ「オアシス」はじめ、低層の建物が残っています。そこも再開発の計画が動き出したと聞きます。いずれ高い建物が建てば、裏通りになる神楽小路みちくさ横丁も大きく姿を変えるでしょう。

仲通り 正確には神楽坂仲通り。

1984年「住宅地図」

セントラルコーポラス マンション。築年月は1962年10月。地上6階。面積帯は80㎡~109㎡台。
石黒忠悳ただのり 子爵・医学博士・陸軍軍医総監。西洋医学を修め、大学東校(のちの東大医学部)の教師。その後、陸軍本病院長、東京大学医学部綜理心得、軍医総監、貴族院議員。生年は弘化2年。没年は昭和16年。享年は97歳。シベリアを単騎横断した福島安正氏が陸軍軍医寮の空家を無料で借りられるよう世話をしたことがあるという。
石黒忠篤 忠悳の長男。農林官僚、政治家。東京帝大卒。15年農相。農業団体の要職を歴任。戦後、農地改革を推進。「農政の神様」といわれた。生年は明治17年。没年は昭和35年。享年は76歳。
名士の豪邸 最初の地図で「石黒邸」

二階堂進

二階堂進 昭和21年、衆議院自民党議員。田中角栄の腹心。昭和47年、第1次田中内閣で官房長官。のち党の副総裁などを歴任。昭和51年のロッキード事件では灰色高官。生年は明治42年10月16日。没年は平成12年2月3日。享年は90歳。
警察の官舎 警視庁神楽坂荘。築年月は1978年2月。4階建。


大下水|市谷~牛込

文学と神楽坂

 江戸時代、市ヶ谷から飯田橋にかけて「大下水」がありました。
 この時、下水には3種類があったのです。自宅の前にある小下水、小下水を集める横切下水、横切下水を集めて最終的に落口から川にもっていく大下水です(新宿区教育委員会『紅葉堀遺跡』平成2年)。大下水は石垣で構築され、その普請修復は公的資金で行いました。
 この大下水は、昭和初期にあんきょ、つまり、地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路になっていました(本田創編著「東京『暗渠』散歩」洋泉社、平成24年)。それ以前にはかいきょ、つまり、ふたはない水路になっていました。

新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4。神楽坂界隈の変遷』(1970年)から

 まぁ、昔の下水のほんどは、雨水でした。屎尿は汲み取り式なので、下水に便や尿が混入することはなく、米のとぎ汁は拭き掃除に使い、最後は植木にまくわけです(ミツカン。水の文化。排水の歴史)。
 では、牛込の大下水について、『御府内備考』はどう見えていたのでしょう? この『御府内備考』は江戸幕府が編集した江戸の資料集です。これを編纂した『御府内風土記』は、1872年(明治5年)、皇居火災で焼失しましたが、『備考』は残っています。なお、≪≫は割注で、本来は一行の中に二段構えで表示する補注です。

大下水

大下水と外濠。正保年中江戸絵図から。正保元年(1644)頃。垂直に川が2本流れるように見えるが、左側は大下水の水、右側が外濠の水で、どちらも本当の川ではない。

 大下水は市ヶ谷田町より牛込揚場町を歴て船河原橋脇にて江戸川に合す。此下水の成し年代等詳ならざれと寛永十八年堀千之助御手傅にて石垣を築きしよし傅ふれば古き下水なら事なし。此下水の上流尾州表門より外を柳川と唱へそれより上を拾川と唱ふるよし。よりて下流まてを通して紅葉川など書しものあり。その実は無名の大下水なり。改撰江戸志云紅葉堀の名は市谷左内坂の名主草名の名主といふ》家に蔵するふるき帳にも見へしといふ。坂光淳の説に四谷御門をそのかみ紅葉御門といひにといふによれはそれらの名よりおこりしや。此御門にはその比よき紅葉のありしかはかくいひしにやと

[現代語訳]大下水は市ヶ谷田町から牛込揚場町を経て、船河原橋脇にて神田川に合流する。この下水が成立した年代などはわからないが、寛永18年(1641年)、堀千之助は土木工事を行い、石垣を築いたという。古い下水なので議論しても仕方がない。この下水の上流は尾張国上屋敷の表門からの外に流した部分を柳川といい、それより上を拾川という。下流までを通して紅葉川など書いたものもあるが、その実は、無名の大下水である。改撰江戸志によれば、紅葉堀の名は市谷左内坂の名主(草体の署名が有名な名主)の家にあった古い帳簿でも見える。18世紀の歌人・坂光淳の説によれば、四谷御門をその昔、紅葉御門といったので、その名から名前がついたという。その時分、この御門には美しい紅葉があったので、そう名前がついたのではないか。

 正保年中江戸絵図(上図、1644年頃)には、大下水を越えて市谷と牛込を渡る橋は市谷御門だけです。牛込御門から神楽坂までは大下水のため直接渡れませんでした。

正保年間の大下水。拾川、柳川、紅葉川なども大下水と同じ意味で、図では外濠の上に大下水がありました。

正保年間の大下水。拾川、柳川、紅葉川は大下水と同じ意味。

 一方、明暦江戸大絵図(下図、1658年頃)では、市谷御門と牛込御門2つになっています。また、大下水の幅は、正保年中江戸絵図で神楽坂1丁目と同じぐらいと考えると約30m、一方、明暦江戸大絵図では一部に家などができているのか、幅は少なくなっていますが、それでも一間、つまり、約1.8mもあったと、『御府内備考』「揚場町」は述べています。

明暦江戸大絵図。http://collegio.jp/?page_id=154 (明暦は1655~8年)。大下水と外濠の距離が遠くなり、あいだには家もありそうだ。

明暦江戸大絵図(明暦3~4年頃、1657~8年)。大下水と外濠の距離が遠くなり、あいだには家もありそうだ。

『新修新宿区町名誌』から

『新修新宿区町名誌』から

市ヶ谷田町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば、「豊島郡市谷領布田ふた新田と称す場所に、元和六年(1620)頃から百姓町屋を立てていた。同九年、外堀造成の御用地として召し上げられたため、左内坂下に小屋場を設けて仮住まいをしていた。外堀完成後、旧址が堀になってしまったため、旧地近くの堀端に町屋取立てを願い出たが、既に武家屋敷となったために願いは却下され、替地として佐渡殿原(現市谷砂土原町周辺)、赤坂御門前の二か所を提案された。しかし両所ともに馴れ住んだ場所から離れた所だったので佐渡殿原の土を引きならして武家地に仕立てることを願い出、また堀端通りの田地にこの佐渡殿原や浄瑠璃坂下、逢坂辺りの土を落として埋立てた。寛永三年(1626)にこの埋立地を町割りし、南から順に市谷田町一丁目、上二丁目、下二丁目、三丁目とし、四丁目のみ市谷御門の南西側、現在の外堀通りと靖国通りとの分岐点にあたる場所に作られた。この地を開発した草創名主は島田左内である」。また、『新修新宿区町名誌』の絵(右図)では、南端は左内坂だと描いています。
牛込揚場町 新宿区北東部の町名。北は下宮比町に、東は神楽河岸に、南は神楽坂二丁目に、西は津久戸町にそれぞれ接する。江戸時代では神楽河岸の一部を含む。
船河原橋 旧江戸川(現神田川の上流)の橋。現在は、さらに外濠のお堀、さらに神田川も結ぶ橋(ここに最近の図)。
江戸川 現在は神田川。昔は堀と合流する上流を江戸川と呼びました。
寛永十八年 1641年
堀千之助 越後村上藩の堀干介直定。寛永15年(1638)、父直次が25歳で死亡し、寛永18年(1641)、幕府の命令で、6歳で御手伝普請を行い、家臣に市谷水道石垣の普請浚工したため賜物を与えた。翌年、死亡し、そのため後継者はなく、断家した。
御手伝 御手伝普請。おてつだいぶしん。豊臣政権や江戸幕府が大名を動員して行った土木工事。
 ゆ。さとす。相手の不明点や疑問点をといて教える。
尾州 びしゅう。尾張おわり国の異称。
柳川 「暗渠さんぽ」では、尾張国上屋敷(現、防衛省)から下流部分を指すという。名前は川沿いに柳が植えられていたため。
拾川 同じく「暗渠さんぽ」では、尾張国上屋敷(現、防衛省)から上流部分を指す。
紅葉川 「暗渠さんぽ」では、『全体をさす名称として、「紅葉川」「楓川」「長延寺川」「外濠川」などがみられます』
紅葉堀 「暗渠さんぽ」では、大下水のこと。
左内坂の名主 名主は島田左内です。
草名 そうみょう。そうな。草体の署名。特に、二字を合わせて一字のように書いたもの。その傾向が進むと、字を変形あるいは合体させて特殊な形をつくる花押かおうとなる。
坂光淳 18世紀の歌人。自書は『用心私記』
四谷御門 四谷見附門。千代田区麹町6丁目。現在のJR四ッ谷駅麹町口付近。初代長州藩主の毛利秀就が普請した


船河原橋と蚊屋が淵

文学と神楽坂

 神楽河岸、飯田橋、船河原橋、蚊屋が淵の4つは「新撰東京名所図会」第41編(東陽堂、1904年)で書いてありました。

    ●神樂河岸
神樂河岸は、牛込門外の北岸にして、神樂町一丁目より揚場町及び下宮比町の一部なる前面に横る一帯の河岸地をいふ。もとは市兵衛河岸●●●●●叉は市兵衛雁木●●●●●●と稱したり。そはむかし此所に岩瀬市兵衛●●●●●の屋敷ありしに因る。
牛込警察署は此河岸地の南端に在り。
目下當地の北端より飯田町の方に煉瓦にて基底を作り、新橋を架設し居れり。是は市區改正の計畫に據るものにして、下宮比町より津久戸前町等を貫通して開創すべき道路と連絡せむが爲めなりといふ。
    ●飯田橋
飯田橋は、神樂河岸の北端卽ち下宮比町の東隅なる河岸より、飯田町九段阪下の通りに連絡する架橋をいふ。今より凡そ十七八年前に架設したるものなり。前項の新架橋落成せぱ撤去せらるべきか。

[現代語訳]
    ●神楽河岸
 神楽河岸は、牛込御門外の北岸で、神楽町一丁目から、揚場町と下宮比町までの、一帯の河岸地をいう。もとは市兵衛河岸や市兵衛雁木といったが、昔、ここに岩瀬市兵衛の屋敷があったからだ。
 牛込警察署もこの河岸地の南端にある。
 当地の北端から飯田町の方に向かって煉瓦で基礎を作り、目下、新しい橋をかけようとしている。これは市区改正の計画によるもので、下宮比町から津久戸前町などを貫通して、新しい道路に連絡するためだという。
    ●飯田橋
 飯田橋は、神楽河岸の北端、つまり下宮比町の東隅の河岸から、飯田町九段阪下までの道路に連絡する橋をいう。今からおそよ17、8年前、架橋ができたが、前項の新しい橋が落成するとこの橋も撤去するべきといえないか。

 神楽河岸については、新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」によると

 明治の終りか大正の始めまで神楽河岸の地名はなかった。揚場河岸の続きとしていたらしい。今も見附際の所にペンキ塗りの元牛込警察署があり柳の並木と共に明治らしい面影がある。戦後警察は牛込警察署として南山伏町16に移っている。警察が河岸地にあった時分は明治5年第3大区5~6小区の巡査屯所として発足したのが始めで、明治14年第二方面牛込区神楽町警察署と改められた。その年3月牛込警察署と改名された。

昔の船河原橋と飯田橋。神楽河岸。

昔の船河原橋と飯田橋。神楽河岸。新道路も開始予定。明治28年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

河岸 川の岸。特に、船から荷を上げ下ろしする所。
牛込門 江戸城の外郭につくった城門。「牛込見附」「牛込御門」と同じ。
揚場町 町名は山の手で使用する商品を運送する荷を揚げる物揚場になったため
しも宮比みやび 江戸時代は武家地。明治2年、武家地を開いて宮比町に。宮比神社を祀る祠を建てたので宮比町と。ただし、この宮比神社は現在ない。明治5年、付近の武家地跡を合わせ、台地上を上宮比町(昭和26年からは神楽坂四丁目)、台地下は下宮比町である。下宮比町の変更はない。
雁木 がんぎ。船着き場や桟橋さんばしの階段。
基底 基礎となる底面。
架設 橋や電線などを支えを設けて一方から他方へかけ渡すこと。
市区改正 東京市区改正事業。明治時代から大正時代の都市計画。明治21年(1888年)東京市区改正条例が公布。道路を拡幅し、路面電車の開通し、上水道の整備などを行った。
據る よる。たよりとなる足場とする。よりどころ
津久戸前町 津久戸明神前にあるため、津久戸前町と呼ばれた。明治2年、牛込西照院前と併合し、牛込津久戸前町となり、明治44年、さらに津久戸町となる。
開創 かいそう。初めてその寺や事業を開くこと。
架橋 橋を架けること。その橋。
明治の終りか大正の始めまで 明治28年の「東京実測図」(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)では、ここを神楽河岸と呼んでいました。明治中旬でもう神楽河岸に呼称が変わったのです。一方、明治20年「神楽坂附近の地名」(新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』、1970年)では、明治20年以降に神楽河岸に呼称が変わったとしています。つまり、明治20年代に変わったのでしょう。
南山伏町16 新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)「大正11年 東京市牛込区」を見ると、南山伏町16は大久保通りに直接接していませんでした。南山伏町1番地から2番地までは確実に移動したのでしょう。なお、牛込警察の住所は1番15号です。

    ●船河原橋
船河原橋は、牛込下宮比町の角より、小石川水戸邸、卽ち今の砲兵工廠の前に出る道路を連絡する橋をいふ。俗にドンド橋或は單にドンドンともいふ。江戸川落口にて、もとあり。水勢常に捨石激して淙々の音あるに因る。此橋を仙臺橋とかきしものあれども非なり。仙臺橋は水戸邸前の石橋の稱なるよし武江圖説に見えたり。松平陸奥守御茶の水開鑿の時かけられしには相違なしといふ。
    ●蚊屋が淵
蚊屋かやふちは船河原橋の下をいふ。江戸川の落口にて水勢急激なり。或はいふ。中之橋隆慶橋の間にて今おほまがといふ處なりと江戸砂子に云。むかしはげしき姑、嫁に此川にて蚊屋を洗はせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。

[現代語訳]
    ●船河原橋
 船河原橋は、牛込区下宮比町の角から、小石川区の旧水戸邸、つまり今の砲兵工廠の前に出る道と連絡する橋をいう。俗にドンド橋、単にドンドンともいう。江戸川が落下する場所に堰があった。水の勢いは、投石に激しくぶつかり、常に高く、ドンドンという音がしていた。この橋を仙台橋と書いたものあるが、これは間違いだ。武江図説では、仙台橋は旧水戸邸前の石橋だと書いてある。旧松平陸奥守の「御茶の水」の橋は開削の時に、架橋して、現在はない。
    ●蚊屋が淵
 船河原橋の下面を蚊屋が淵という。神田川中流が落下する場所であり、水勢が急激だ。江戸砂子では、別の説を出し、中之橋と隆慶橋の間に相当し、現在は大曲という場所がそれだという。昔、ひどい姑がいて、嫁にこの川で蚊帳を洗わせていたが、浅瀬は速く、水に蚊帳をとられ、嫁はその蚊帳に巻かれて死亡したという。

船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。文京区後楽2丁目、新宿区下宮比町と千代田区飯田橋3丁目をつなぐ橋。船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。

台紙に「東京小石川遠景」と墨書きがある。牛込見附より小石川(現飯田橋)方面を望んだ写真らしい。明治5年頃で、江戸時代と殆ど変化がないように思える。遠くに見える橋は俗称「どんと橋」と呼ばれた船河原橋であろう。堰があり手前に水が落ちている。しかし水 位は奥の方が低く、水は奥へと流れているらしい。堀は外堀である飯田堀で、昭和47年、市街地再開発事業として埋め立てられ、ビルが建った。内川九一の撮影。六切大。(石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

 「旧」の旧字。
砲兵工廠 ほうへいこうしょう。旧日本陸軍の兵器、軍需品、火薬類等の製造、検査、修理を担当した工場。1935年、東京工廠は小倉工廠へ移転し、跡地は現在、後楽園球場に。
道路 現在は外堀通り。
ドンド橋 船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちて、どんどんと音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原ふながわら橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
落口 おちぐち。滝などの水の流れの落下する所
 せき。水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた場所。
捨石 すていし。土木工事の際、水底に基礎を作ったり、水勢を弱くしたりするために、水中に投げ入れる石。
激して 激する。げきする。はげしくぶつかる。「岩に激する奔流」
淙々 そうそう。水が音を立てて、よどみなく流れるさま
仙臺橋 仙台橋。明治16年、参謀本部陸軍部測量局の東京図測量原図(http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2275675-16.html)を使うと、おそらく小石川橋から西にいった青丸で囲んだ橋が仙台橋でしょう(右図)。
武江図説 地誌。国立国会図書館蔵。著者は大橋方長。別名は「江戸名所集覧」
開鑿 かいさく。開削。土地を切り開いて道路や運河を作ること。
蚊屋が淵 「半七捕物帳」では「蚊帳ケ淵」と書かれています。
中之橋 中ノ橋。なかのはし。神田川中流の橋。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
大曲り おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。
江戸砂子 えどすなご。菊岡沾涼著。6巻6冊。享保 17 (1732) 年刊。地誌で、江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。
はげしき 勢いがたいへん強い。程度が度を過ぎてはなはだしい。ひどい。
蚊屋 かや。蚊帳。蚊を防ぐために寝床を覆う寝具。


春の嵐|野田宇太郎氏『灰の季節』|東京大空襲

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『灰の季節』(修道社、昭和33年)は、第二次世界大戦中から大戦以降を綴った日記です。たとえば、昭和20年(1945年)4月12日、昼食前にフランクリン・ルーズベルト大統領が脳卒中で死去し、これを受けて、野田氏は4月13日の日記で簡単に書き留めています。その翌日、神楽坂にとっては東京大空襲を受けた日でした。

四月十四日

 単機あて帝都、関東東部、東北部等に侵入、主として帝都は爆弾焼夷弾取り混ぜの攻撃をうけた。熱を押して仕方なく起きる。都心の焼けのこりの部分を中心に空が東北へかけてまつかになつてゐる。そして中央線ぞひに爆発音が近まり、むくむくと黒煙が立ちのぼる。爆弾の無気味な落下音も幾度となくきこえ、敵機が撃墜されるのも数機みる。あとで機数約百七十、四十機位撃墜の発表あり。……眠る。
 中央線は荻窪までであとは不通のため帝都線で渋谷に出、地下鉄で神田に出る。下車しようとすると、どつと乗り込む避難者の群に押し返される。皆真青な顔をして相手が見えないやうなうろたへ方である。やつとの思ひで外に出て神田の河出書房仮事務所まで歩く。
 神田から飯田橋まで見透しに焼け落ちてゐる。飯田橋で不発弾の爆発にあふ。筑土八幡のあたりから新小川町 大曲もずらりと無残に焼けてゐる。神楽坂も家が大半なくなり、飯田橋交叉点から電車通を牛込肴町へ行く途には電線がばらばらに切れ落ち、まだごんごんと音を立てて燃えのこりの家が焔をあげてゐて、焦熱地獄のやうにあつい。そこら中形容し難い悪臭がむんと鼻をつく。人間の焼ける臭ひも混つてゐるやうだ。息をとめて一気に通りぬけようとするが駄目で、途中で立停り、叉熱気のなかを走つた。平時は賑やかな肴町交叉点通寺町側にトタン板が落ちてゐて、何気なく歩きながら蹴ると、下に屍体がかくしてあつた。防護団員の姿もみえず、地獄のなかでも歩いてゐる白昼夢のやうな気持。
 其儘足を早めて大日本印刷に行つた。近づくと今度は大日本印刷が一面の火焔に包まれて、盛んにまだ燃えつゞけてゐる。しまつた! と思ひ、第四中学の焼跡前から夢中で坂を下りて正面に出ると、焔の背後に印刷会社の建物はどうやら無事なやうである。燃えてゐるのは前庭に置かれた軍用の洋紙の山だけである。玄関にゆくと、防護団服を着た人が一人佇んでゐる。思はず「大丈夫ですか」と叫ぶやうに云うと、「ありがたうござゐました。工場の方は大丈夫です……」とその人は私に礼を云つた。あとで重役だつたと判る。消火する人手がなくて焼けるにまかせてゐるのだといふ。
 事務所に入ると、さすがに人はすくないが工場の方は動き続けてゐるやうなので、やつと安心した。これでまだ文藝は出せると思ひ、すぐに火野氏の「」を四月号の組版に廻してもらふ。
 まだ熱があつて、ふらふらとする。避難者の列に加り、やうやく渋谷に出て帝都線で夕暮に家にかへり着いた。
 この日は板橋、豊島、足立方面の被害がとくにひどく、明治神宮本殿も遂に焼失した。また宮城、大宮御所、赤坂離宮の一部にも火災が起つた。



単機 編隊を組まないで、単独で飛行する軍用機。単独飛行。
あて 配分する数量・割合を表す。あたり。送り先・差し出し先を示す。
焼夷弾 敵の建造物や陣地を焼く爆弾
帝都線 京王井の頭線のこと。渋谷と吉祥寺を結んだ。
河出書房 文芸書や思想書を中心に販売する出版社。1945年(昭和20年)の東京大空襲で被災、千代田区神田小川町に移転する。
見透し さえぎるものがなく遠くまで見えること。その場所
飯田橋、筑土八幡、新小川町、大曲、牛込肴町、肴町交叉点、通寺町、大日本印刷 下図を参照。牛込肴町と肴町交叉点は現在「神楽坂上」交差点、通寺町は現在神楽坂六丁目
防護団 軍部の強い指導のもとで満州事変勃発ごろから地域住民の防空業務(灯火管制、警報、防火、防毒、交通整理、救護等)を行わせる防護団と称する組織が全国各地に設立された。
第四中学 現在は牛込第3中学校です。
文藝 1944年11月創刊。発行所を改造社から河出書房に移して継承した雑誌。第2次世界大戦下のほぼ唯一の文芸雑誌。戦後は戦後派の作家を起用。86年からは季刊誌。
火野 火野葦平。ひのあしへい。日中戦争で従軍前に「糞尿譚ふんにょうたん」で芥川賞受賞。生年は明治39年12月3日、没年は昭和35年1月24日で自殺。享年は満53歳
 「海南島記」(改造社 1939年)。国立国会図書館デジタルコレクションとして入手可。

昭和22年の神楽坂


外濠線にそって|野口冨士男②

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆『私のなかの東京』のなかの「外濠線にそって」は昭和51年10月に発表されました。その2です。

 早稲田方面から流れてきた江戸川飯田橋と直角をなしながら、後楽園の前から水道橋お茶の水方向に通じている船河原橋の橋下で左折して、神田川となったのちに万世橋から浅草橋を経て、柳橋の橋下で隅田川に合する。反対に飯田橋の橋下から牛込見附に至る、現在の飯田橋駅ホームの直下にある、ホームとほぽ同長の短かい掘割が飯田堀で、その新宿区側が神楽河岸である。堀はげんざい埋め立て中だから、早晩まったく面影をうしなう運命にある。
 飯田橋を出た市電は、牛込見附まで神楽河岸にそって走った。その河岸の牛込見附寄りの一角が揚場(あげば)とよばれた地点で、揚場町と軽子坂という地名もいまのところ残存するように、隅田川から神田川をさかのぼってくる荷足船の積荷の揚陸場であった。幕末のことだが、夏目漱石の姉たちは、牛込馬場下の自宅から夜明け前にここまで下男に送られてきて屋根船で神田川をくだったのち、柳橋から隅田川の山谷堀口にあたる今戸までいって、猿若町の芝居見物をしたということが『硝子戸の(うち)』に書かれている。
 むろん、私の少年時代には、すでにそんな光景など夢物語になっていたが、それでもその辺には揚陸された瓦や土管がうずたかく積まれてあって、その荷をはこぶ荷馬車が何台もとまっていた。そして、柳の樹の下には、露店の焼大福などを食べている馬方の姿がみられたものであった。

神田川
江戸川 神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原ふながわら橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼びました。
飯田橋 「江戸川は飯田橋と直角をなしながら」というのは「江戸川はJR駅の飯田橋駅と直角をなしながら」という意味なのでしょう。
後楽園、水道橋、お茶の水、万世橋、浅草橋、柳橋。神田川。隅田川。 上図で
船河原橋 本来は江戸川(現、神田川)西岸と東岸を結ぶ橋だった。その後、飯田町東南岸と西北岸を結ぶ飯田橋ができ、また船河原橋から飯田町に行く南向き一方通行の橋(これも船河原橋の一部)もできた。
飯田橋 本来は外濠の外部と内部を結ぶ橋。
飯田堀 牛込堀と神田川を結ぶ堀。1970年代に飯田堀は暗渠化。現在はわずかな堀割を除いて飯田橋セントラルプラザが建っています。%e3%81%ab%e3%81%9f%e3%82%8a%e8%88%b9
神楽河岸 かぐらがし。現在の地域は左下の地図で。過去の地図は右下の図で
揚場 あげば。 船荷を陸揚げする場所。 転じてその町。
荷足船 にたりぶね。小型の和船で、主として荷船として利用しました。
揚場と神楽河岸
 その電車通りからいえば、神楽坂は牛込見附の右手にあたっていて、神楽坂を書いた作品はすくなくない。坂をのぼりかける左側の最初の横丁、志満金という鰻屋のちょっと手前の角に花屋のある横丁を入っていくと、まもなく物理学校――現在の東京理大の前へ出る。そのすぐ手前にあたる神楽町二丁目二十三番地には新婚当時の泉鏡花が住んでいて、徳田秋声の『』 には、その家の内部と鏡花の挙措などが簡潔な筆致で描叙されている。
 また、永井荷風の『夏姿』の主舞台も神楽坂で、佐多稲子の『私の東京地図』のなかの『』という章でも、彼女が納戸町に住んでいたころの神楽坂が回想されている。

大地震のすぐあと、それまで住んでいた寺島の長屋が崩れてしまったので、私は母と二人でこの近くに間借りの暮しをしていた。

 と佐多は書いているが、その作中の固有名詞にかぎっていえば、神楽坂演芸場神楽坂倶楽部牛込会館や菓子屋の紅谷もなくなってしまって、戦災で焼火した相馬屋紙店、履物屋の助六、果物屋の奥がレストランだった田原屋というようななつかしい店は復興している。
 私はつい先日も少年時代の思い出をもつ田原屋の二階のレストランで、女房と二人で満六十五歳の誕生日の前夜祭をしたが、震災で東京中の盛り場が罹災して東京一の繁華をほこった昔日の威勢は、いまの神楽坂にはない。


寺島 墨田区(昔は向島区)曳舟の寺島町
 『黴』は明治44年(1911年)8―11月、徳田秋声氏が「東京朝日新聞」に発表した小説です。実際には「その家(泉鏡花の家)の内部と鏡花の挙措」を書いたものは、この下の文章以外にはなさそうです。氏は泉鏡花氏、0氏は小栗風葉氏、笹村氏は徳田秋声氏をモデルにしています。

 そこから遠くもない氏を訪ねると、ちょうど二階に来客があった。笹村はいつも入りつけている階下したの部屋へ入ると、そこには綺麗なすだれのかかった縁ののきに、岐阜提灯ぎふぢょうちんなどがともされて、青い竹の垣根際にははぎの軟かい枝が、友染ゆうぜん模様のようにたわんでいた。しばらく来ぬまに、庭の花園もすっかり手入れをされてあった。机のうえにうずたかく積んである校正刷りも、氏の作物が近ごろ世間で一層気受けのよいことを思わせた。
     三十
 客が帰ってしまうと、瀟洒しょうしゃな浴衣に薄鼠の兵児帯へこおびをぐるぐるきにして主が降りて来たが、何となく顔がえしていた。昔の作者を思わせるようなこの人の扮装なりの好みや部屋の装飾つくりは、周囲の空気とかけ離れたその心持に相応したものであった。笹村はここへ来るたびに、お門違いの世界へでも踏み込むような気がしていた。
 奥にはなまめいた女の声などが聞えていた。草双紙くさぞうしの絵にでもありそうな花園に灯影が青白く映って、夜風がしめやかに動いていた。
「一日これにかかりきっているんです。あっちへ植えて見たり、こっちへ移して見たりね。もういじりだすと際限がない。秋になるとまた虫が鳴きやす。」と、氏は刻み莨をつまみながら、健かな呼吸いきの音をさせて吸っていた。緊張したその調子にも創作の気分が張りきっているようで、話していると笹村は自分の空虚を感じずにはいられなかった。
 そこを出て、O氏と一緒に歩いている笹村の姿が、人足のようやく減って来た、縁日の神楽坂かぐらざかに見えたのは、大分たってからであった。

私の東京地図|佐多稲子⑤

文学と神楽坂

 佐多稲子氏の『私の東京地図』の「曲り角」には牛込駅が出ています。

 このときから二十年の月日が流れている。それなのに、飯田橋から九段下へ出る電車に乗ってそこを通り過ぎるとき、私はときおりふいと九段の方を見上げることがある。飯田橋から九段へ出る電車通りはいつも埃をかぶったようにくすんでいて見栄えのしない道だ。魚屋だの八百屋だのの毎日の商い屋に混って、わが家で何かの企業をしているといったようなのが目につく。神田の方へ道の岐れた二股の突っ先の角には自動車の修理をするあけっぴろげな工場があって、円タクの町に流れていたころはよく、ガラスのみじんにひび破れた車などが修理場へ持ち込んであった。片側は九段上なので、そばやの角などから石畳の狭い坂が上へ登っている。家と家との間から高台の石垣ののぞいているところもある。かつての昔、私の生活が結びついていたのは、この辺りなのだと思う。何だか遠い悪夢でも思い出したように、半ば信じられない。この辺りの土地のことを自分の利害で、区劃整理があるらしい、飯田橋の駅が中央線の起点になるらしいなどという夫の話に私も相手になっていた。飯田橋の駅が大きくなれば、あのへんの地価はずっと上るのだという。そのころ飯田橋の駅は貨物駅で、電車の客は牛込見附寄りにあった牛込駅で乗り降りしていた。その飯田橋駅の長々とした歩廊は味気ないが、桜の花の散る濠の前にあった牛込駅は愛らしく、ハイカラな玩具の停車場のようなおもむきだった。駅の隣は貸ボート屋だなんて。今だからこそ私はこんなことをいっている。飯田橋駅が中央線の始発駅になるというとき、九段下のあたりまで旅館ができたり、大きな商店のたち並ぶのを頭に描いてみたのであった。

 このとき。大正13年(1924)頃です。また『私の東京地図』は昭和24年(1949年)に出ています。

飯田橋 市電の飯田橋停留場です。下の図で。
九段下 下の図で。市電で飯田橋から目白通りを通って九段下に行くときに目に入ってきた情景です。

飯田橋と市電

飯田橋と市電。明治40年の地図。人文社「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」。2003年

電車 もちろん、JRではなく、市電(都電)です。
見栄えのしない道 飯田町1丁目の写真です。この写真を撮った日時は不明ですが、この路線の都電は昭和43年に廃止されていますので、それ以前に撮った写真でしょう。

飯田町1丁目

飯田町1丁目(東京都交通局『わが街 わが都電』アドクリエーツ社、平成3年)

二股 明治40年の地図にはありませんが、下の昭和6年の地図でははっきり2股になっています。
九段上 下の地図を。
私の生活 佐多稲子氏の住所は麹町区飯田町6丁目24番地でした。上の赤い場所です。

昭和6年の飯田町

昭和6年の飯田町

区画整理 宅地などの区画を整形して新たに道路や公園を造る事業。
中央線の起点 明治27年(1894年)に新宿から牛込駅まで、28年には飯田町駅までが開通。37年に御茶ノ水駅が完成。昭和3年(1928年)、飯田橋駅が完成し、牛込駅は廃駅、飯田町駅は本線の駅は廃駅に、代わりに南側の貨物駅だけが残りました。1999年(平成11年)、この駅も廃止。
貨物駅 明治28年、現在大和ハウス東京ビルとなっている場所に飯田町駅が開通。昭和3年、飯田橋駅が発足、飯田町駅は電車線の駅から外れ、南側の貨物駅に。
牛込駅 明治27年から昭和3年まで(1894~1928年)、牛込駅がありました。
貸ボート屋 平成8年、水上レストラン「カナルカフェ」が開業しました。それよりも昔、西村和夫氏は『雑学神楽坂』のなかで

 牛込停車場のホームは牛込橋の下、市谷寄りにあった。駅舎は現在の駅舎の反対側早稲田通りの下にあった。乗客は神楽坂下から水上レストランのわきを通って駅舎に入り、濠を渡ってホームへ出た。昭和の初めまで使われていた駅舎は、牛込橋の下、メガネドラッグの後ろで、現在はJRの用地として空地になっている。
 駅舎前には桜が植えられていて、東京の夜桜の名所として知られ、桜の満開の時期は、わざわざ路面電車でやってくる夜桜の見物人が出た。牛込停車場の乗降客は桜のトンネルをくぐるようにしてホームに出た。
 ここに水上公園が出来て、ボートが浮かべられたのは震災後間もない頃だった。若い男女がパラソルをかざして語り合う絶好の場所になり、休日には親子連れが集まる憩いの場になっていた。大戦後、外堀通りには東京オリンピックを前に市電が廃止された後、桜が植えられた。

 また加能作次郎氏は『大東京繁昌記』のなかの「早稲田神楽坂」「牛込見附」で

 あの濠の上に貸ボートが浮ぶようになったのは、(ごく)近年のことで確か震災前一、二年頃からのことのように記憶する。あすこを埋め立てて市の公園にするとかいう(うわさ)も幾度か聞いたが、そのままお流れになって今のような私設の水上公園(?)になったものらしい。

『大東京繁昌記』は昭和2年に発行し、一方、『雑学神楽坂』は平成22年に発行し、筆者の西村和夫氏は昭和3年生まれです。それから考えると「震災前一、二年頃から」のほうが正しいと思います。
 実際には大正7年(1918年)に東京水上倶楽部ができたそうですが、古いインターネットでははっきり書いてあったのに、新版でなくなっています。

神楽坂|大東京案内(2/7)

前は大東京案内(1/7)です。

神楽坂の表玄関は、省線飯田(いいだ)(ばし)駅。裏口に当るのが市電肴町(さかなまち)停留場。飯田橋駅を、牛込見附口へ出て、真正面にそそり立つやうな急坂から坂上までの四五丁の間が所謂(いわゆる)神楽坂(かぐらざか)の盛り場だが、もう少し詳しく云へば、神楽町上宮比(かみみやび)肴町岩戸町通寺町(とおりてらまち)等々で構成(こうせい)され、この最も繁華(はんくわ)な神楽坂本通り(プロパア)は神楽町、上宮比町、肴町の三町内。さうしてその中心は、(おと)にも高い毘沙門(びしやもん)さま。その御利益(ごりやく)もあらたかに、毎月寅と午の日に立つ縁日(えんにち)書き入れの賑ひ。

省線 現在のJR線。1920年から1949年までの間、当時の「鉄道」は政府の省、つまり鉄道省(か運輸通信省か運輸省)が運営していました。この『大東京案内』の発行も昭和4年(1929)で、「省線」と呼んでいました。

肴町

大正12年、牛込区の地形図。青丸が肴町停留場


市電 市営電車の略称で、市街を走る路面電車のこと。
肴町停留場 市営電車の停留場で、現在の四つ角「神楽坂上」(昔は「肴町」四つ角)で、大久保寄りの場所にたっていました。現在の都営バスの停留所に近い場所です。
神楽町 現在の神楽坂1~3丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
上宮比町 現在の神楽坂4丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
肴町 現在の神楽坂5丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
岩戸町 大久保に向かい飯田橋からは離れる大久保通り沿いの町。神楽坂通りは通りません。以上は神楽町は赤、上宮比町は橙、肴町はピンク、通寺町は黄色、岩戸町は青色に書いています。
通寺町 現在の神楽坂6丁目です。昭和26年に現在の名前に変わりました。

昭和5年 牛込区全図から

昭和5年 牛込区全図から

プロパア proper。本来の。固有の。
善国寺 ぜんこくじ。善国寺は新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の毘沙門天は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。
縁日 神仏との有縁(うえん)の日。神仏の降誕・示現・誓願などの(ゆかり)のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
書き入れ 帳簿の書き入れに忙しい時、商店などで売れ行きがよく、最も利益の上がる時。利益の多い時。

ショウウインドーの(まばゆ)さ、小間物店、メリンス店、(いき)な三味線屋、下駄傘屋、それよりも(うるさ)いほどの喫茶店、(うま)いもの屋、レストラン、和洋支那の料理店、牛屋(ぎゆうや)、おでんや、寿司屋等々、宵となれば更に露店(ろてん)數々(かずかず)、近頃評判の古本屋、十銭のジャズ笛屋、安全カミソリ、シヤツモヽ引、それらの店の中で、十年一夜のやうなバナナの叩き売り、それらの元締なる男が、また名だゝる 若松屋(わかまつや)近藤某(こんどうぼう)

小間物 こまもの。日用品・化粧品などのこまごましたもの。
メリンス スペイン原産のメリノ種の羊毛で織った薄く柔らかい毛織物。同じ物をモスリン、muslin、唐縮緬とも。
牛屋 牛肉屋。牛鍋屋。
露店 ろてん。道ばたや寺社の境内などで、ござや台の上に並べた商品を売る店。
ジャズ笛屋 ジャズで吹く笛。トランペットなどでしょうか。
シヤツモヽ引 「シャツ・パンツ」の昔バージョン。
元締 もとじめ。仕事や集まった人の総括に当たる人。親分。
名だたる なだたる。名立たる。有名な。評判の高い。
若松家 「神楽坂アーカイブズチーム」編『まちの想い出をたどって』第4集(2011年)で岡崎公一氏が「神楽坂の夜店」を書き

神楽坂の夜店を復活させようと当時の振興会の役員が、各方面に働きかけて、ようやく昭和三十三年七月に夜店が復活。私か振興会の役員になって一番苦労したのは、夜店の世話人との交渉だった。その当時は世話人(牛込睦会はテキヤの集団で七家かあり、若松家、箸家、川口家、会津家、日出家、枡屋、ほかにもう一冢)が、交替で神楽坂の夜店を仕切っていた

 若松家はテキヤの1つだったのでしょう。なお、テキヤとは的屋と書き、盛り場・縁日など人出の多い所に店を出し商売する露天商人のことです。

文学と神楽坂