飯田濠」タグアーカイブ

千代田区(写真)神楽河岸埋立 昭和51年 ID 11468

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11468は昭和51年8月、飯田濠と神楽河岸、飯田橋駅西口、牛込橋周辺を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11468 神田川 神楽河岸から飯田橋駅西口、牛込橋方向

 実際には飯田濠の周囲は十分説明してあります。なお、これは飯田濠で、写真説明にある神田川の支流にあたります。
 左上のビル群はまだ説明していません。左端の少しだけ屋根が見えているのは日本歯科大学体育館です。その右が9階の東京警察病院で、屋上には「東京警察病院」と書いてあります。警察病院前の黒い建物と立木は富士見町教会ですが、よく見えません。その右は6階の飯田橋会館で1階は郵便局でした。次は暗く見える前田建設工業別館で、中に三井住友銀行が入っています。多分「前田建設工業」と書いてあるはずです。次は石原産業東京ビルで、ここも何かビルに書いてあります。その次はフジボウ会館で、最上階は下よりも広くなっています。その右は前田建設工業でした。
 約30年後の写真が以下の2枚です。富士見町教会が建て直されたのを除けば、建物はほとんど変わっていません。

千代田区遺産 飯田橋サクラパーク 再開発地区全体 撮影日:平成20(2008)年6月

千代田区遺産 飯田橋サクラパーク 再開発地区全体 撮影日:平成20(2008)年6月

飯田橋ラムラの「せせらぎ」

文学と神楽坂

地元の方からです

 叙情的なフォークソング『神田川』(昭和48年リリース)が流行していた頃、流域の住人のひとりとして、よくも悪臭漂うドブ川をこんな歌詞に仕立てたものだと作詞家の創造力に感心しました。
 子供時代、神田川の橋にさしかかると手前で深呼吸をひとつして、息を止めて渡ったものです。飯田橋から上流の隆慶橋や石切橋、下流の小石川橋や俎橋(日本橋川)など、どこも悪臭は同じでした。水面が近い橋ほど臭く、橋が高い位置にあって頭上を高速道路が覆わない牛込橋や新見附橋は、むしろ臭くない橋であったと思います。ドブ川に対する地域住民の最大の関心は、大雨で神田川が増水してあふれてしまうことでした。
 要するに、当時の都市河川は「迷惑で、消し去りたい存在」でした。再開発計画で飯田濠の埋め立てが始まった時にも注目されず、一部地権者の反対で再開発が長期に停滞したことで逆に変な関心を集めたように思います。

飯田濠遠景(1977 気まぐれ本格派 9話)この状態で数年間放置された

 再開発に反対した大郷材木店は、かなり前から津久戸町の移転予定地(後の「材木横丁」)を確保していたそうです。その点でも、よく分からない反対運動でした。

ラムラ 基礎工事風景と鉄骨組み立て風景

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)29頁 ラムラ 基礎工事風景と鉄骨組み立て風景

 

「自然景観を守れ」という反対派の声に押される形で、東京都は1984年(昭和59年)に完成した再開発ビルの前に「せせらぎ」を設けてラムラの目玉にしました。飯田濠の暗渠の上に清流を模した浅い流れを再現したものです。牛込橋側の小さな滝から水道水を流し、飯田橋側で排水する仕組みでした。小さな中の島や、外堀通りの歩道から流れに下りられる階段も設けました。

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年) 「地区の概況」1頁

ラムラの「せせらぎ」。Google

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)38頁。現在「滝」は流れていません。

 しかし、この「せせらぎ」に実際に水が流れていたのは、わずかな期間(最初の数年間?)だったように思います。それまでの飯田濠はゴミを運ぶ「はしけ」のたまり場で、川に親しむような場所が求められていたわけではありませんでした。また人工の「せせらぎ」は水道水を多量に使うため、ラムラの店舗や周辺住人の理解を得にくかったようにも思います。
 現在では、せせらぎは石貼の川底がずっと見えている状態です。中の島や歩道につながる階段は今もあります。しかし成長した街路樹の中に埋もれてしまっているように見えます。
 神田川の水質はその後、劇的に改善しました。下水処理場の能力が上がり、きれいな「高度処理水」を多量に川に流すことで淀みをなくしたためと言われます。悪臭も感じられなくなり、実際に神田川に下りられる「親水テラス」が別の場所に作られました。
 飯田濠の再開発反対運動が、都市河川浄化のきっかけになったようには思えません。しかしラムラのせせらぎのコンセプトは、親水テラスの先駆的なものであったとは言えそうです。

悪臭漂う飯田濠を再開発(昭和45-56年)

文学と神楽坂

 昭和45年、朝日新聞に飯田堀は臭いし汚い、との記事が出ました。

 ゆううつな季節
 お堀はゴミ捨て場 

 中央線飯田橋駅。近くの住民は憂うつな思いで夏を迎えようとしている。ホームのすぐ前に広がる通称「飯田堀」の臭気のためだ。この堀は神田川水系の1つで江戸川橋からお茶の水方面に流れる神田川の遊水池的な役割を持っている。しかし流れがごくゆるやかで水も少なく実情はゴミ捨場兼汚水だめと化している。
 住民は口々に憤まんをぶつける。「東京の真中の駅が、いまや一番汚ない駅になっているんです」「飯田橋を渡ってごらんなさい。妊婦なら絶対に吐きますよ」「ナマの汚物が流れ込み、たまっているんですよ」「住民もよくがまんしたけれど、役所もよく放っておいたもんだ」。駅でも弱っている。窓をあけたら食事ものどを通らない。
 堀は公有水面だから国のものだが、管理は都の責任である。とうとう地元、牛込地区連合町会(升本喜兵衛会長)が一万三千人の署名を集めて浄化清掃を都知事などに訴えることになった。新小川町青年部も決議した。「今や世界の東京として誇りを持ち近代化された東京都は誠に結構なことである」という皮肉たっぷりな書出しで始っている。
朝日新聞。1971年12月24日

 そこで飯田濠を再開発する計画が出てきます。渡辺功一氏の神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007年)では…

昭和45年(1970)6月に、あらためて都議会へ(飯田濠再開発への)請願が出された。このころの飯田濠は、汚水がたれ流されてドブ川と化し、汚濁と悪臭の発生源となっていた。

 平松南氏の「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」では……

 神楽河岸はかつてそこに飯田濠があり、JR飯田橋駅のホームに立つと西側の目の前に大きく広がっていた。ちょうどいまのJR市ヶ谷駅ホームやお茶の水のような景観だった。
 ただ濠の水は汚れに汚れていて臭いもあった。

 さて渡辺功一氏の同書によれば…

 飯田濠再開発計画の実態は、千代田区飯田橋、新宿区揚場町、神楽河岸にまたがる飯田橋地区市街地再開発である。都市計画決定は昭和47年7月。計画区域は、飯田濠を埋め立て約千平方㍍を含む2万3千平方メートル。都が地上20階の事務棟と16階の住居棟の高層ツインビルを建設するほか、緑地帯や道路を造成するというものである。

 昭和48年3月31日 飯田濠の埋め立て工事を完了し、さて、再開発を始めましたが、あらゆることがうまくいきません。最初に昭和53年6月、鯉の大量死がありました。

 17日朝、都が再開発事業を進めている国電飯田橋駅わきの飯田濠(ぼり)から神田川にかけて、約1万匹のコイが浮き上がる騒ぎがあったが、付近の住民で作っている「飯田濠を考える会」の千代田区側のメンバーは「これは行政による人災。逃げ遅れたコイに気の毒」と怒っている。一方、新宿区側のある商店主は「コイはこの日照りで酸欠死したのであって、工事とは関係ない」と語るなど、住民たちはコイの大量死にも複雑な反応を示していた。(中略)
 都公害局では、水質検査などを行って原因を調べているが、毒物などは検出されず、飯田濠に入り込んだコイが、潮が引いた際に濠の水位が下がって取り残されて、酸欠状態に陥ったものとみている。
読売新聞 昭和53年6月18日朝刊

東京都建設局再開発部「飯田橋夢あたらし」平成8年。

 大郷材木店は神楽河岸再開発による立ち退きを拒否し、それに対して都が強制代執行するという話まで出ました。

 予定地内の材木店の強い反対で工事が大幅に遅れているが、都は27日までに、この材木店に対し、都市再開発法に基づく異例の強制代執行を発動する方針を固めた。
読売新聞 昭和56年5月28日朝刊

強制代執行 強制執行しっこうとは公法や私法上の義務を国家権力によって強制的に実現する行為。代執行とは、行政庁が義務者に代わってその行為をし、あるいは第三者に行わせ、そのため要した費用を義務者から徴収する行為。

地権者の一人が反対  飯田濠再開発 大喜びの「守る会」
 都の高層ビル建設計画に反対して、「埋め立てられたお濠(ほり)を復元して」と訴えている「飯田濠を守る会」に強力が援軍が現れた。新宿区神楽河岸、材木業大郷実さん(45)で、都の再開発事業にかかる民間地権者3人のうち1人。この大郷さんが事業反対の立場を最終的に表明したからだ。(中略)
(大郷さんの)自宅の裏庭からは、すぐに埋め立てられた飯田濠。わずかに水路が残っているが、そこには都心ではめずらしいわき水があり、水鳥が飛んでくる。「再開発が進められて高層ビルが減っては、こうした光景も……」。守る会の「お濠復活。公園建設」の主張にもつながっていく。守る会側では、大郷さんの姿勢に「百万の援軍だ」と大喜びである。
朝日新聞 昭和53年10月25日朝刊

 しかし、10年に及ぶ抗争はあっという間に終わっていきます。渡辺功一氏の同書では……

 昭和56年(1981)10月20日に、東京都は立ち退きを拒否している新宿区神楽河岸の大郷義道、実親子に対して、10月29日から11月10日にかけて強制代執行をおこなうとの代執行命令書を郵送した。彼らは、話し合いを何十回と重ねてきたか、進展は見られない。これ以上工事を運らせれば事業費がかさみ、公共の福祉に反し、請負業者との契約解除に追い込まれる、と説明する。
 これを受けて大郷側は27日午後、この代執行命令書処分の収り消しと執行停止をもとめる訴訟を東京地裁民事三部に起こした。提訴に対し、泉裁判長は同日午後四時すぎ、大郷実と都側の井手建設局再開発部長ら双方の当事者を同地裁に呼んで事情聴収をおこなった。
 この結果、午後5時すぎ「再開発事業にともなうこのような強制代執行は前例がない」などの判断から、双方の話し合いをもとめ職権によって和解を勧告した。

 朝日新聞(S56/10/30)も読売新聞(S56/5/29)も決着まで詳しく書いています。

せせらぎ12㍍幅に
大郷さん「問題提起果たした」

 都市における「水辺の景観」をめぐって熱い論争の続いていた江戸城の外堀、飯田堀を埋め立てる再開発事業問題が29日、一応の決着をみた。これまでかたくなに都市計画決定は変えられないといい続けてきた都が、わずか8分の1とはいえ堀を残すことに同意。ただ一軒、立ち退きを拒否していた材木商、大郷義道・実さん親子も内容が不満だとして「和解拒否」の形はとりながらも、自主的に立ち退くことを決めた。都の強制代執行の期日が迫る中、最も心配されていた力と力の衝突は完全に回避された。(後略)
朝日新聞 昭和56年5月30日朝刊
 全国初の強制代執行が直前で回避された飯田橋地区市街地再開発事業について、都は28日、代執行の対象だった大郷材木店(大郷義道社長)の支援グループ、飯田濠(ぼり)再開発対策会(川端淳郎代表)と話し合いを行い、飯田濠の一部を開きょとして残す案を提示した。(中略)
 開きょ案は(中略)飯田濠を約50㍍、そのまま残し、一部残っている玉石護岸も生かそうというもの。さらに、この開きょ部分からは、同ビルの前庭地区の下を暗きょで通すが、暗きょの真上に人工せせらぎを作る二重河川方法にする案を示した。大郷さん側が和解の条件とした「堀の水辺の景観を残す」意向を受けたもので、同会議と大郷さん側も、ほぼ同案を受け入れる見通しだ。
読売新聞 昭和56年5月29日朝刊

開きょ 開渠。上部をあけはなしたままで、おおいのない水路。
玉石 たまいし。川や海に産する丸い石。
護岸 ごがん。 海岸、河岸かし、堤防の水流に沿った所を保護して洪水や高潮などの水害を防ぐこと。そのための施設。
暗きょ 暗渠。地下に埋設し、地表にあってもふたをした導水路。

 昭和59年2月、事前の「大規模小売店法(第3条)に基づく事前商業活動調整協議会(商調協)」は結審し、4月、住宅と事務所に入居、9月、セントラルプラザ「ラムラ」は開店。昭和61年3月、事業はすべて完了しました。
 しかし、これだけで終わったわけではありませんでした。平松南氏の同書では……

 そんな日々の中、その中核の拠点である大郷材木店が、強制代執行をさけて市谷に移転を決めてしまった。支援の人たちには寝耳に水の出来事だった。
 いま大郷さんは、神楽坂近くの大久保通りに木材店をもち、市谷駅前には大郷ビルという駅前ビルをたてているが、この移転交渉のいきさつは伝わっていない。
 ただ大郷さんを支援してきた市民運動のグループや労組の外人部隊のひとたちにとっては、自分たちの拳のやり場が消失してしまったわけである。
 藤原さん(当時の東京都環境保全局員)にきくと「地元より外人部隊が多かったから、大郷さんも仕方なかったのかもしれないなあ」と、20年たったいまは淡々とかたった。

 しかし、全くわからなかったという人もいます。坂本二朗氏(「神楽坂まちづくりの会」会長)の「まちづくり うたかたの、語り部」は…

 たった四人の反対の声は、運動と呼べるほどのものではなかったが、濠の場所に土地を持つ地権者が反対側に加わったことで、反対運動は俄然現実味を帯びてきた。近隣住民や労組、学生などさまざまな外部団体が反対派に加わってきて、反対派の勢力は大きな力を得ていた。やがて運動は激しさを増し、強制代執行による機動隊との衝突も想定される事態となっていた。加藤登紀子さんや美濃部亮吉さんも応援に駆けつけていた。代執行の前夜、飯田濠の現場は、ドラム缶に火がたかれ、仮設舞台も用意され、ものものしい雰囲気に包まれていた。たった四人ではじめた小さな反対の声は、大きな時代の渦に呑み込まれつつあった。
 ところがまずいことに、私はこの事態になじめなくなり、さらに具合の悪いことに、当日昼間に自分の結婚式を控えていた。(中略)
 そして一週間の北海道旅行(=新婚旅行)から帰ってきたら、反対運動はすべて終わっていた。もちろん、機動隊との衝突は回避された。私はいまだにその後に何が起こったのか知らない。仲間にも聞きそびれてしまった。

飯田濠(写真)昭和27年頃 ID 16566

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16566は、飯田橋の橋から飯田ぼり、遠くは牛込橋周辺までを見たものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16566 牛込神楽河岸

 発表日時は不明ですが、新宿歴史博物館「新宿の歴史と文化」(平成25年)によれば「昭和27年頃」です。よく似たものとして新宿区役所「新宿區史」(昭和30年)があります。はしけ船の数などから撮影時期は違いますが、周囲の様子はほぼ同じに見えます。

 この当時、神楽河岸には建設廃材の集積所があり、神田川経由で東京湾に運びました。中央に見える掘に突きだした三角と、その向こうの斜めに掘に崩れているように見えるのは、この拠点だった土辰資材置場でしょう。右端の建物は東京都牛込清掃事務所と思われます。
 資材置場の奥には倉庫らしき建物が何棟も並び、その先には大郷材木店もあると思われますが、よく見えません。
 掘にははしけ船をつなぎとめる竹竿のようなものがたくさん立っています。左奥の水面が白く、さざ波が広がるように見えるのは牛込橋の下の「どんどん」から水が落ちているためです。
 中央やや右、屋根より高い位置にメトロ映画の甲板が見えます。その右の建物の屋根にも大きな看板があり、さらに右には2階屋くらいの壁が見えます。
 この2階屋は、位置関係からみて田口氏が撮影した升本酒店の隣の建物であるかもしれません。だとすれば隣に見える大きな看板は軽子坂に面した映画館「銀鈴座」である可能性があります。
 メトロ映画は昭和27年(1952年)1月に開業。「銀鈴座」は昭和33年12月に火災で全焼し、5階建ての銀鈴会館が昭和35年ごろ完成しました。この写真では銀鈴会館は見えないので、撮影時期は昭和27~33年ごろと考えられます。

住宅地図。昭和38年

遠くの看板(写真)ID 6998、ID 68、ID 94、ID 486

文学と神楽坂

 地元の方から情報です。

古い写真の街の風景には、撮影者が意図した被写体とは別の思い出が残ることがあります。新宿歴史博物館の「写真で見る新宿」から、そんなものをいくつか拾ってみました。

写真 ID:6998(昭和30年代後半)は「東京厚生年金病院前 進む地下鉄工事」のキャプションのように、大久保通り筑土八幡町交差点から飯田橋交差点にかけての下り坂、地下鉄東西線の建設風景です。

6998 東京厚生年金病院前 進む地下鉄工事

開削工法の路面が木材でフタをされ、中央を都電の軌道が走っています。道路の上には都電の架線が張り巡らされていて、かなりうるさく感じます。

年金病院(現・東京新宿メディカルセンター)は建て替え前のもので、上空から見るとY字になった美しい曲線を持つ特徴的なデザインでした。日本武道館なども手がけた著名な建築家の作品だったそうです。Y字マークは病院のシンボルだったようで、薬の袋などに印刷されていた記憶があります。

病院の前を走るタクシーは、日産買収前のプリンス自動車の初代グロリアでしょうか。写真の右の「川島ガラス」「東衣装店」は今も同じ場所で営業中です。

写真の中央、病院の並びに「第一銀行」が見えます。戦後に進出した支店で、その後は「第一勧業銀行」、「みずほ銀行」と合併を繰り返し、神楽坂通りの「三菱UFJ銀行」のライバルとして今もこの場所に店を構えています。

東京厚生年金病院 昔の新宿区津久戸町の総合病院の名前。現在はJCHO(Japan Community Healthcare Organization、ジェイコー)東京新宿メディカルセンターに。

JCHO東京新宿メディカルセンター

開削工法 地表面から掘り下げてトンネルをつくる垂直掘削方式のひとつ
Y字になった美しい曲線を持つ特徴的なデザイン 石田竜次郎・和歌森太郎共書の「県別・写真・観光日本案内 東京都」(修道社、昭和36年)で、東京厚生年金病院が書かれています。

モダンな厚生年金病院  飯田橋の筑土八幡近くにあるこの厚生年金病院は四階建て総ガラス張り、Y字型のみるからに明るいモダンな病院であり、昭和28年に完成した。

東京厚生年金病院

このデザインについては他でもでています。

2014年4月、東京新宿メディカルセンターに変更しました。
著名な建築家 山田守氏の設計。1917年、東京帝国大学建築学科を卒業、逓信省営繕課に入り、電信局・電話局の設計を行う。1945年、逓信省を退官し、1951年、東海大学工学部建設工学科教授。建築物は東京中央電信局、東京厚生年金病院、日本武道館、京都タワーなど。生年は1894年4月19日、没年は1966年6月13日。享年は満72歳。
初代グロリア 昭和34年(1959年)の4ドアセダン。写真と比べて私にはちょっと違う気がする。

川島ガラス 新宿区揚場町2-17。ガラス工事を行う。
東衣裳店 新宿区揚場町2−21。洋服や和服を貸す。

店を構えて 最終的には「みずほ銀行 飯田橋支店」です。上図を参照。

写真ID:68(昭和48年5月22日)は、飯田橋西口前から神楽坂を見た写真です。

68

68 飯田橋駅付近より坂上方向

右側は神楽坂警察の古い建物で、この頃は使われず、飯田濠再開発の取り壊しを待っていたのではないでしょうか。道の左側は神楽坂1丁目の一部で、いくつかの店は商店会にも加盟していました。店のある左側だけ、神楽坂と同じ街灯が設置されているのが分かります。その向こうの双葉社のビルには、大ヒットした上村一夫の『同棲時代』の大きな広告が見えます。

写真中央、パチンコ店の上のヨコ看板「イーグルボウル」は下宮比町にありました。今はマンションになっています。また神楽坂通りのひときわ高い場所に見えているのは三菱銀行の看板です。

もうひとつ、パチンコ店の左上に見える大きな「B」は、大久保通り沿いの岩戸町にある教育出版の文英堂です。今も同じ場所に新しいビルがあります。写真の当時、旧ビルの地下に郵便局がありました。もともと4丁目にあった「神楽坂郵便局」(現在は楽山)が昭和40年頃に移転したのです。諸事便利な神楽坂の商店街ですが郵便は岩戸町まで行く必要があり、ちょっと不便でした。「神楽坂郵便局」が4丁目に新築したオザワビル(旧尾沢薬局)に戻ってきたのは1988年(昭和63年)でした。

文英堂とイーグルボウル

イーグルボウル 下宮比町2-27の一部にありました。

1973年。住宅地図。

写真ID:94(昭和54年1月17日)は牛込見附(神楽坂下)交差点から揚場町の方を写したものです。

94

94 神楽坂入口近く外堀通り

写真左から赤井商店のテント、さくらや靴店、市原燃料店、ヤマザキパン、名画の佳作座ミッシェルズコーヒーショップ、すべて閉店しました。神楽坂飯店は営業中です。

懐かしいのは、正面の街路樹の枝の隙間から「東海銀行」が見えること。下宮比町の交差点角に支店がありました。今はスーツカンパニーです。その左のヨコ看板は残念ながら判読できません。

下宮比町の交差点 「飯田橋交差点」です。
写真ID:486(昭和56年頃)でも、はるか遠くに下宮比町の交差点が見えます。

486 江戸城外堀跡

中央のこんもりした森は、東京日仏学院(現、アンスティチュ・フランセ東京)やその近隣のお屋敷の庭木でしょう。その向こうに熊谷組の本社が見えます。

外堀通り沿いには出版大手の「家の光」や「研究社」、その向こうには理科大の複数の校舎が並んでいます。遠く横に走っている首都高速が左側に隠れるあたりの黒っぼい建物が東海銀行の支店。さらに左、一段高い大きなハートのマークの看板が、東京厚生年金病院の並びにある第一勧業銀行(現みずほ銀行)の支店です。

①熊谷組
②家の光
③研究社
④⑤⑥理科大
⑦第一勧業銀行
⑧東海銀行


こうして見ると銀行業は、看板に大きな投資をしていますね。

神楽坂と神楽河岸 松沢光雄 昭和43年

文学と神楽坂

 昭和43年、地図協会の雑誌「地図の友」に松沢光雄氏の「神楽坂と神楽河岸」があります。その神楽河岸の中に東京都の清掃事務所があると言っていますが、これはかつての糞尿の集荷所でした。理由が不明ですが、近所から反対されて、この糞尿集荷所はなくなったと書いてあります。

 国電飯田橋を出るとがある。この堀にかかっている橋が飯田橋で、これを渡ると揚場町である。揚場町というのは、舟から荷を揚げる場所という意味で、神楽河岸はそこにある。かつてはこの堀を舟が往来して海から荷を運んでいた。いまもお茶の水までは舟が来る。この神楽河岸は浅くなって舟が上れなくなったし、それにその必要もなくなっている。
 神楽河岸には土砂や石や木材の材料の施設が集っている。これは江戸時代からの材料荷揚場残象である。
神楽河岸 もとは、各地から舟で材料が運ばれてきた。いまもつづいている材料屋の土万の主人にきくと、この主人の子供のじぶんには舟で浦安からシジミが運ばれてきたという。
 舟で2杯も3杯ものシジミがきた。これを山手一帯の乾物屋が買出しに集った。こんなふうで、良種の物品が舟で揚げられた。
 酒の白鷹の総本店の升本はいまもここにある。中央大学の総長になった升本氏の生家である。升本の酒倉は道をはさんで現在もいくつも並んでいる。これも河岸のものである。
 いまの清掃事務所は、かつては糞尿の集荷所で、ここから舟で各地に運んでいた。都市化のすすむにつれて近所から反撃されて、ついに糞尿集荷を止めて事務所になったのである。新宿区役所の土木部の材料もここに置いてある。水道局の工事材料もここにある。各地からトラックで運ばれてくる。
 土万のいまの主人は二代目で、ここに陣取って100年近い土砂材料屋である。この河岸に生まれてここに育ち、ここで河岸の変遷を見つめてきた。
 神楽河岸に揚げられた材料は荷車と馬力車で神楽坂を引きあげられた。とにかく急な坂だからこれをあげるにはたいへんである。
 当時は飯田橋の上に「たちんぼう」がたくさんいた。失業者で臨時の労働をまっている連中である。これが神楽坂をあがるのあとをおして、5厘か一銭をもらっていた。

 外濠(外堀、そとぼり)のうち飯田濠。

東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

神楽河岸 昭和63年に初めて神楽河岸という名前に。以前は揚場あげばの一部だった。
江戸時代 これは「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」で。
荷揚場 にあげば。船から積荷を陸に揚げる場所。陸揚げ場。
残象 ただしくは残像。外部刺激がやんだあとにも残る感覚興奮のこと。
土万 図では土萬土砂置場。
乾物 かんぶつ。野菜、海藻、魚介類などを、保存できるように乾燥した食品。
白鷹 白鷹はくたか株式会社は兵庫県西宮市に本社を置く酒造会社。生粋の灘酒。
升本 ますもと。江戸時代に牛込揚場・神楽河岸で創業した酒類問屋。日本酒の銘酒「白鷹」で有名。
中央大学の総長 四代目の升本喜兵衛。養子。大正8年、中央大学法学部卒業。昭和37年、中央大学総長・理事長。昭和43年、学園紛争で中央大学理事長・総長・学長を退任。生年は明治30年、没年は昭和55年。享年は満83歳。
清掃事務所 神楽坂のある地元の人は「神楽河岸にゴミの積み替え拠点はなさそうです。砂利や土石(建築残土)は運んでいたかも知れません」といい、また、後楽橋のゴミについては、この「ゴミの詰め替え場は臭かったですよ。だって収集車のフタをあけて、中のゴミをハシケに移す(落とす)んですもの。そのハシケを夢の島の埋め立て地までタグボートで曳航するんです。そりゃ苦情も出ますよ。」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう。」といっています。さらに「資材倉庫や廃材置き場だった神楽河岸の開発が遅れた」と「古くは「糞尿」処理をしていた(らしい)」との2つを並べて「両者をないまぜにせず、きちんと区別しないと不正確になりそうです」。つまり、かつての飯田壕は臭くても、他の川と比べると同じ程度だと結論しています。
神楽坂を引きあげられた 神楽坂ではなく、軽子坂を引きあげられたのでしょう。
たちんぼう 坂の下に立って荷車が通れば押すのを手伝って駄賃を貰う職業。明治から大正にかけて多かった。
 自動車ではなく、大八車だと思います。西山松之助氏「江戶の生活文化」(1983年)では江戸の山の手には急な坂道が多いと書きます。

神楽坂下から揚場町まで 1960年代

文学と神楽坂

 1960年代の外堀通りの神楽坂下交差点を見ていきます。これは以前の牛込見附交差点でした。「牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした」と地元の方。まず、昭和37年(1962年)、外堀通りに接する場所は、人は確かに来ない、でも普通の場所だったと思います。でも、ほかの1つも忘れないこと。まず写真を見ていきます。池田信氏が書いた「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社。2008年)です。

外堀通り

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」毎日新聞社。2008年。


➀ 三和計器  ➁ 三陽商会  ➂ モルナイト工業  ➃ ジャマイカコーヒー  ➄ 佳作座  ➅ 燃料 市原  ➆ 靴さくらや  ➇ 赤井  ➈ ニューパリーパチンコ  ➉ 神楽坂上に向かって  ⑪ おそらく神楽坂巡査派出所

1962年。住宅地図。店舗の幅は原本とは違っています。修正後の図です。

 綺麗ですね。さらに加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)の写真を見ても、ごく当たり前な風景です。

1960年代の東京

 おそらくこれは「土辰資材置場」を指していると思います。地図では❶でしょう。

1965年。住宅地図。

 ➋はその逆から見たもの

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 このゴミはどうしてたまったの。そこで、本をひもときました。
 渡辺功一氏は『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)で

 飯田濠の再開発計画
(略)飯田橋駅前には駅前広場がないことや、糞尿やごみ処理船の臭気で困ることなど指摘されていた。このことが神楽坂の発展を阻害しているのではないか。それらの理由で飯田濠の埋め立て計画がたてられた。

 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)「町名探訪」で

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 ここで「臭気」や「廃棄物」が、ごみの原因でしょうか。地元の人は「飯田壕の埋め立てと再開発は、外堀通りに面している低層の倉庫街をビル街にしたら大もうけ、という経済的理由だと思います」と説明します。「神田川が臭かったというのは、ゴミ運搬のせいではなくて、当時の都心の川の共通点つまり流れがなく、生活排水で汚れていたからです」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう」
「廃棄物の積み出し」では「後楽橋のたもとと、水道橋の脇にゴミ収集の拠点があって住宅街から集めてきたゴミをハシケに積み替えていました。電車から見る限り、昭和が終わるぐらいまで使っていたように記憶します」

 神田川のゴミ収集

 また、このゴミで飯田濠が一杯になっていたと考えたいところですが、それは間違いで、他には普通の堀が普通にあり、ゴミは主にこの部分(下図では右岸の真ん中)にあったといえると思います。他にもゴミはあるけど。

神楽河岸。「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

揚場町|町方書上と御府内備考

文学と神楽坂

揚場町・現代

揚場町・現代

 揚場あげばちょうは新宿区北東部にある町名で、飯田濠に面した荷揚げ場があったので、この名前になりました。
 文政9年(1826年)の「町方書上」の揚場町です。「相」という言葉が出てきますが、「相成る」「相変わらず」と同じで、意味は「語勢や語調を整える。意味を強める」ものです。

新宿近世文書研究会『町方書上 牛込町方書上』平成8年。

新宿近世文書研究会『町方書上 牛込町方書上』平成8年。非売品。新宿区立図書館。

牛込揚場町
一 御城之方り、弐拾七町
一 町方起立之年代、草分人之名書留無御座分り不申候得共、往古武州豊嶋郡野方領牛込村之内有之候處、年月不知武家方御屋鋪相成、其後追々拝領町屋相渡、神田川附而山之手諸色運送之揚場相成候付、町名揚場町相唱申候
[現代語訳]牛込揚場町
一 江戸城からは北西の方角で、およそ3kmぐらい
一 町成立の年代や成立時の人々の名前は書きとめはなく、不明ですが、昔は武蔵国豊島郡野方領牛込村の中にありました。年月はわかりませんが、初めに武家方の御屋敷がでてきて、その後、だんだんと拝領町屋もでできました。神田川の側であり、山の手で種々の品物を運送するのが揚場になりました。町名も揚場町といいます。

書上 かきあげ。特定の事項を調査して、下位から上位の者や機関に上申すること。その文書。
 より。平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた合字平仮名(合略仮名)
 い。北西よりやや北寄り。北西微北。北から東回りで330°
 新字体は「当」
 おおよそ。ほぼ。大体。
弐拾七町 27町。約3km。
起立 きりつ。都市などを建設すること
草分人 くさわけにん。草分は、江戸時代、荒れ地を開拓して新しく町村を設立すること。従事した者や設立当時からの住民を草分町人や草分百姓という。
書留 書き終える。書きとめる。
無御座 ござなく。ありません。ございません。「無し」の尊敬語、丁寧語。
 動詞に付いて、語勢や語調を整える。意味を強める。
不申候 〜と言いませんでした。
候得共 そうらへども。ではありますが
武州 武蔵国の別称。
豊島郡 武蔵国と東京府にあった郡。概ね千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、練馬区の区域
野方領 地名に武蔵野のように野がつくところが多く、まとめて野方と読んでいた。豊島郡のうち牛込村から吉祥寺村までの広範な部分。
屋鋪 やしき。屋敷。
追々 おいおい。これから徐々に。時間が経つにつれて。だんだんと。
諸色 諸式。いろいろな品物。いろいろな品物の値段。物価。
 しこうして。しかして。そして。順接を表す語。しかも。しかるに。それでも。逆接を表す語。

 次は文政12年(1829年)の「御府内備考」の揚場町です。ほとんど同一なので、訳はしません。

揚場町

(左図)御府内備考。第53~55巻。牛込1~3。揚場町。(右図)大日本地誌大系。第3巻。御府内備考巻54。どちらも国会図書館。

一 町方起立の年代草分人の名書留等無御座相分不申候得共往古武州富島郡野方領牛込村の内に有之候處年月不知武家方御屋鋪に相成共後追々拝領町屋に相渡神田川附に而山の手諸色運送の揚場に相成候に付町名揚場町と相唱申候

酒問屋升本|揚場町

文学と神楽坂

 西村和夫氏の『雑学 神楽坂』第一章「神楽坂今昔」(17頁から)では

 神田川の船運が盛んだった時代、小石川橋から牛込橋までの土手上に、荷揚げ場が続き飯田河岸と呼ばれていた。(中略)
 濠端には船宿や旅館が並び、酒、油など問屋筋が店を構え、特に、幾棟もの酒問屋「升本」の蔵が目を引いた。(中略)
 特に酒問屋升本はその繁盛ぶりを「升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝したるものにて。稲荷社なども見ゆ」と明治に出版された『東京名所図会』に書かれている。
 松田幸次郎は幕末、「升本屋」を創業、千駄ケ谷大番町に店を出す。升本喜兵衛の代に揚場町に移転し酒類の販売から不動産業まで手広く事業を拡大して成功した。酒類の販売においても多くの使用人に暖簾分けをしたので 市内の酒屋には「升本」屋号を名乗るものが多い。

 初代升本ますもと喜兵衛は文政5年(1822)8月25日に生まれ、酒問屋になりました。明治維新を迎えると場所を牛込揚場町に移り、升本を創立します。喜兵衛は明治3年(1870年)、町年寄となり、のちに三大区(のちの牛込区)の役職を歴任し、明治12年(1879年)、牛込区会議員に当選。土地事業を手懸け、旧旗本地を買占め、不動産業も着手したことで巨万の富を得ました。明治40年(1907)死亡。

http://sake-masumoto.co.jp/gallaery/officephoto/

 二代目の升本ますもと喜兵衛は嘉永(かえい)2年1月5日生まれ。升本の養子となり、酒問屋をつぎます。中央貯蓄銀行取締役、東京府会議員などをつとめました。労働者に草鞋(わらじ)を、困窮者には金をあたえ、その額は毎月数百円にのぼったといいます。大正3年12月22日死去。66歳。江戸出身。旧姓は松本。

升本喜兵衛。酒造りの様子

 明治45年、喜兵衛氏は牛込神楽坂で37筆という多くの土地を所有していました。ただし、神楽坂よりは若宮町、揚場町のほうが多くの土地をもっています。神楽坂1丁目が多いようです。

 1984年、揚場町に巨大な土地を持っていました。

1984年、住宅地図

http://sake-masumoto.co.jp/gallaery/officephoto/

 さらに四代目の喜兵衛は明治30年1月1日生まれ。弁護士。母校中央大の教授となり、昭和36年学長。のち総長、理事長をつとめます。43年学園紛争で退任。酒問屋升本総本店社長。弟に民社党委員長佐々木良作。昭和55年11月28日死去。83歳。

 飯田濠の再開発は昭和47年に登場します。四代目喜兵衛の三男は、升本達夫氏でした。当時は国の都市局長で、再開発の本締めでした。利権もからみ、あれこれの末、昭和59年、遊歩公園ができました。

升本総本店

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。再開発前の飯田堀。


軽子坂|「もっこ」と「かるこ」

文学と神楽坂

 軽子坂は明治20年の地図でも出ています。では最初は標柱を見てみましょう。

軽子坂上

軽子坂の標柱

(かる)()(ざか)  この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。
 軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。

 軽籠は「かるこ」と読み、軽籠持も「かるこもち」と読みます。「もっこ」とは畚とも書き、網状に編んだ縄や藁蓆(わらむしろ)の四隅に吊り綱を2本付けたもの。吊り綱がつくる2つの環にもっこ棒を通し、前後2人でもっこ棒を担ぎ、主に、農作業などで土や砂を運搬したもの。「もっこう」ともいいます。

 船荷をもっこに入れ江戸市中に運搬するのはちょっと大変だなあと思います。遠方はやはり荷馬車でしょうか。もっこは近くのものの方がいいと思うのですが。ただし、江戸時代には、舟で着く荷物を坂上にかつぎ上げる人足があり、これを軽子といいました。軽子と軽籠は違うものなのでしょう。 北見恭一氏が『神楽坂まちの手帳』第8号「町名探訪 揚場町」(けやき舎、2005年)で書かれ……

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで、遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 上図は牛込揚場跡で、門は牛込見附門です。(鹿鳴館秘蔵写真帖。明治元年)。写真を見ると橋の手前が遊水池になっています。牛込門の船溜と呼びました。

神楽河岸

明治28年。東京実測図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

 ここで「神楽河岸(がし)」とは以前は「牛込揚場河岸」と呼んだ場所です。明治時代にこれが「神楽河岸」に変わりました。また、昭和58年には、濠が埋め立てられ、「神楽河岸」は人口0人の東京都新宿区の町名になりました。
神楽河岸2
神楽坂まちの手帳』の『神楽坂界わいの坂・ベスト30その1』「軽子坂」では

 江戸は舟運にめぐまれていて、遠く千葉方面などからの穀類、酒、魚介、米、野菜がこの神楽河岸についた。

 穀類、酒、魚介、米、野菜がでています。また、『坂・神楽坂』という平成2年に大久保孝さんの自己出版の本があります。そこでは
 軽子坂と云われるのは、酒問屋升本の酒庫に全国から船に積んで来て神楽河岸に着いた酒樽を軽子たちがかついで登った坂であるからである。

 こんどは酒で、「酒問屋升本」も出てきます。『私のなかの東京』(野口富士男)では
 揚陸された瓦や土管がうずたかく積まれてあって、その荷を運ぶ荷馬車が何台もとまっていた。

とあります。荷馬車でこれから山の手に行くのでしょう。

 なお、軽子坂の下のほうの標柱は
軽子坂下


 また、「怪談牡丹燈籠」のお(つゆ)の父、牛込軽子坂の旗本飯島平太郎は軽子坂を上にいったところに屋敷があるといわれています。