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浄瑠璃坂の討入り|竹田真砂子

文学と神楽坂

 竹田真砂子氏の『浄瑠璃坂の討入り』(集英社、1999年)です。

 この(浄瑠璃)坂で、寛文12年(1672)2月2日仇討ちがあった。
 仇は元宇都宮藩奥平家重臣奥平隼人はやと、討手も同じ藩の出身で奥平源八げんぱち
(中略)その総大将源八は、弱冠15歳の若衆で人目を惹く美少年であったという。古記録『義のかたきうち物語』は、仇討ちのときの源八を(おおむね)こんなふうに伝えている。
『肌には白小袖緋綸子ひりんずの重ね下着に南蛮鎖なんばんぐさり着込みを着し、白綸子の小袖の上には黒糸で角の内に一文字、紅梅色の糸で八幡大菩薩と縫い取り。そして十たびの太刀をはき、一幅の緋綸子をもちいて鉢巻きとしているが、そのうえから柳の糸のように乱れかかる黒髪の有様はあっれ武者ぶりの美しさ。昔、九郎判官ほうがん義経頼朝の代官として西国で戦ったとき、赤地の錦の直垂ひたたれ黒糸おどよろい鍬形打ったかぶと猪首に着てこう手造りの太刀をはき采配を振るお姿は諸軍に勝れて見えたというが、それでも彼ほどではなかったろう、と皆々が誉めた』

 真偽のほどは定かではないが、ともかく美丈夫と伝えられ、日本のアイドル中のアイドルともいえる源九郎判官義経に勝るとも劣らぬほどの美々しく健気ないでたちであったとは恐れ入るが、そういわしめるだけの魅力を源八は持ち合わせていたと見える。
 この源八に助太刀するもの、筆頭家老夏目勘解由かげゆの嫡男夏目外記げき以下41名。総勢42人という大所帯であった。
 時刻はまだ夜が明ける前の寅の刻(午前四時ごろ)。浄瑠璃坂上、鷹匠町戸田七之助組屋敷前に勢揃いした42人は、大斧で門扉を打ち破り、抜刀して屋敷うちへ侵入した。
 浄瑠璃坂討人りの基本資料となっている『中津藩史』には『槍は(屋内では使いにくいので)特に門内に残しておき、松明たいまつを振りかざし、刀を抜き払って侵入したが、老人婦女子は殺傷してはならぬ、と互いにいさめあった』とある。不意の討入りで屋敷内がかなり混乱していたようだ。
 ところが、せっかく討ち入ったというのに、目ざす仇の奥平隼人はいなかった。親類の家で囲碁に興じていたための不在であったという。


若衆 わかしゅう。年若い者。若者。若い衆。美少年。特に、男色の対象となる少年。ちご。
義のかたきうち物語  宇都宮市立図書館にあり、新宿区図書館や国際国会図書館にはありません。
白小袖 しらこそで。白無地の小袖。しろむく。
緋綸子 ひりんず。緋色の滑らかで光沢がある絹織物。緋色ひいろ#db4f2e
南蛮鎖 16世紀ポルトガル人が日本の武将に献じたヨーロッパ製の鎖帷子(かたびら)。帷子とは細かい鎖を平らに編んでつくった略式の防具。
着込み 上着の下によろい・腹巻き・鎖帷子くさりかたびらなどを着込むこと。
紅梅色 こうばいいろ。紅梅の花の色のようなやや紫みのある淡い紅色。#f2a0a1
十たびの太刀 よくわかりませんが、「十回ほど丹念に打ち、また鍛えた太刀」でしょう。
八幡大菩薩 八幡神に奉った称号。仏教の立場から八幡宮の本地を菩薩として呼ぶ。
九郎判官義経 源義経。幼名は牛若丸。平安末期・鎌倉初期の武将。九郎は源義朝の九男だったから。判官は律令制で四等官第三位の官。
頼朝 源頼朝。みなもとのよりとも。鎌倉幕府の初代征夷大将軍。
直垂 主に武家社会で用いられた男性用衣服。

黒糸威し よろいの「をどし」の一つ。黒糸で綴られたもの。甲冑を作る際、縦方向につなぎ合わせることを「おどす」といい、各パーツをつなぎ合わせているのが「縅毛おどしげ」といっていました。
鍬形 かぶとの前びさしの上に、角のように二本出ている金具。
猪首 首が短く見えるところから、かぶとを後ろにずらして、少しあみだにかぶること。敵の矢も刀も恐れない、勇ましいかぶり方という。
こう手造り わかりません。ちなみに甲手こうしゅは手の過労性腱鞘炎。甲手こては小手、籠手、篭手とも書き、ひじから手首までの部分。なお、手甲(てっこう)は、上腕から手首や手の甲までを覆うように革や布でできた装身具
戸田七之助組屋敷 延宝年中(1673-80)の戸田七之助組屋敷は右下の青色で囲んだ地域(地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会)
中津藩史 黒屋直房著の『中津藩史』(国書刊行会、1987)です。

延宝年中(1673-80)

 初回は失敗と思えました。仇討ちを断念した一党が牛込橋前まで来たときに、隼人が手勢を率いて追ってきて、源八は隼人と対決し、討ち取りました。

 夜が明けてくる。味方に手負いもでた。いつまでも長居はできない。近くの辻番所で戸板を借りて手負いを乗せ、みなみな心を後に残しながらもひとまず引き揚げることにする。元来た道をたどり、水戸藩邸の少し手前、牛込土橋まで来たとき、後から弓矢、槍を引っ提げた武士20人余りを従えた隼人が追い駆けてきて、再び戦いが始まった。隼人方は矢を射かけ、槍を振り回す。源八方は、手負いと共に隊列を離れた者もあり、人数は半分になっていたが、ここでは、室内で使用できなかった槍を存分に振り回して、ついに隼人を水中に追い詰め、伝蔵の助太刀のもと、めでたく源八は本懐を遂げた。

辻番所 江戸時代、辻斬りが横行したことから寛永6年(1629)に江戸市中の武家屋敷町の辻々に設け、辻番人を置いて路上や一定地域の警備をさせた番所。町方で辻番所にあたるものは自身番である。
水戸藩 水戸藩上屋敷は文京区後楽地域や春日地域(現在の小石川後楽園など)。
牛込土橋 牛込にあった土で作られた橋。牛込橋のこと。市谷寄りと小石川寄りで水位差があり、小滝を設けて小石川方面に水を落としていました。
水中 外堀の水中に落ちたともいいます。
本懐 もとから抱いている願い。本来の希望。本意。本望。

 これから30年後の1702年、赤穂浪士の討入りが起こっています。

芥坂|鷹匠町と砂土原町

文学と神楽坂

 芥坂(ごみざか)です。都内には沢山の芥坂がありますが、ここでは新宿区の鷹匠町と砂土原町との間の芥坂を取り上げます。場所はここ

 まず横関英一氏の『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年。中央公論社、昭和56年)では

 芥坂と鉄砲坂とは、特別に関連はないのだが、ただともに坂路の崖下の特徴をつかんで、施設され、活用されているところが似ているのである。芥坂はその崖下に芥捨場ができていた。それから鉄砲坂は、崖下に特別な施設をした幕府の鉄砲練習所があった。坂を利用した施設と言えば、これら二つのもの以外にはなかったようである。もっとも、展望のよい坂の上などを利用して、火の見櫓を立てて、そこへ火消屋敷を施設したということはあるが、それが坂の名になったものは一つもない。小石川伝通院前の安藤坂の定火消屋敷、市ヶ谷左内坂上、駿河台紅梅坂上、溜池の霊南坂上などの火消屋敷が、この例である。

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

芥坂(ごみざか) 鷹匠町二番と砂土原町一丁目二番の間を長延寺町へ南下する石段坂。芥坂という坂名は江戸の坂にすいぶん多く残っている。文字通り芥捨て場にした坂であろうが、痩嶺坂、蜀江坂というような漢学流に凝った坂名より、むしろ何気なくつけられたまま何百年もそれが呼名として現存しているのが、かえって親しみやすい気がするのである。今でもちょっと裏町の坂路には塵芥のポリバケツが坂下などに集積されていたり、小型トラック、中古自動車などが片側にならんで置かれてたりして、カメラの邪魔になって腹立しい気がすることもあるが、それは昔も今もさしたる変わりはなく、裏町の坂が芥捨ての場であったり、夜泣きそばの屋台車などがひっそりとおかれていたのであろう。
 この芥坂の下は大日本印刷の工場の片隅であるが、坂上は高級住宅のならぶ道である。鷹匠町という町名はここが江戸時代には御鷹匠組の組屋敷だったためで、「府内備考」に「鷹匠町 昔御鷹匠の組屋敷ありしといふ。」と記されている。

地図の芥坂

地図の芥坂


 現在、芥坂の一部が残り、残りは「ごみ坂歩道橋」になっています。

 道家剛三郎氏の「東京の坂風情」(東京図書出版社、2001年)では

 鰻坂の西はずれは浄瑠璃坂上でもある。もとは南西へ急落する段坂があって、崖地の藪や樹木のために別名のような坂名がふさわしかった。崖上の武家屋敷からのゴミも捨てられていたことであろう。ところが今ではこの坂の様子は一変している。崖下のこの辺り一帯は大日本印刷の工場構内であって、かつての公道でもうかつに歩いていようものなら、守衛がとんできて誰何(すいか)(あなたは誰ですか)されることになる。そのような環境であるから、芥坂を崖上から下りてきて、その辺りを関係者以外の方がうろうろされては、会社としましてはなはだ困るのであります。というわけで、市谷左内町、本村町の方へ往来なさるかたのために、石段坂上あたりから歩道橋となって構内の低いところを跨いでいるのである。つまり段坂は消えて、歩道橋の入口に芥坂の存在していたことを記した案内表示があることで、やっと捜しあてた安堵のあとに虚しさを感じたのは、非生産的な人間の身勝手さなのであろうか。もとの段坂ならば八五点くらいの評点であるのが、あまい六〇点となったのは、それでも坂上付近にわずかな面影が残っていたからである。

神楽坂の通りと坂に戻る場合は
ほかに歌坂鼠坂鰻坂中根坂

鼠坂|納戸町(360°カメラ)

文学と神楽坂

 牛込の(ねずみ)(ざか)という坂がありました。場所はここ。横関英一氏の『江戸の坂 東京の坂』(有峰書店、初出は昭和45年)が詳しく

鼠坂 江戸には鼠坂という名の坂があった。それから鼠穴など呼ぶ地名もあった。ごれらは、細くて狭く長い坂または道を言ったのである。
『改選江戸志』は、「鼠坂は、至つてほそき坂なれば、鼠穴などいふ地名の類にて、かくいふなるべし」と解説している。
 とにかく、鼠坂も鼠穴も、ともに細長い狹い道を意味していることは確かなようだが、鼠穴のほうは行き止まりの袋町といったようなところもある。
 現在、東京の鼠坂は、つぎの三ヵ所である。
(1)文京区音羽一丁目(旧音羽町六丁目)から小日向二、三丁目境を東へ上る細くて長い坂。音羽町六丁目の丁亥(文政十年)の「書上」にはつぎのように記してある。「坂、幅壱間程、長凡五拾間程。右は鼠坂と里俗に相唱申侯」
(2)港区麻布永坂町と麻布狸穴町との間を、北の方麻布飯倉片町まで上る坂。
(3)新宿区納戸町と鷹匠町との境を、北のほうへ上る狭い坂。

 石川悌二氏の『江戸東京坂道事典』(新人物往来社)では

 納戸町と鷹匠町の境を北上する坂で、中根坂の北東にあたり、『東京案内』には「牛込納戸町と市谷鷹匠町の間より加賀町に下る坂路あり、鼠坂と呼ぶ」とある。狭い坂道で坂下が袋小路になっているようなものをむかしの人は鼠坂と袮し、『改撰江戸誌』に「鼠坂は至ってほそき坂なれば、鼠穴など地名の類にてかくいふなるべし」と書かれている。この坂の下も加賀町一丁目大日本印刷会社東辺の谷間で、その東に芥坂があり、西には中根坂が市谷本村町陸上自衛隊本部裏手へと南上していて、その道をさらに進めば左内坂上に至る。市谷台と牛込台のはざまである。

 山野勝氏の『古地図で歩く江戸と東京の坂』(日本文芸社)では

 その仇討跡からさらに進み、突きあたりを片折する。道は緩やかな下りになる。この古趣の漂う坂を鼠坂という。鼠のような小動物しか通れないような細い急坂で、坂下が袋小路になっているような所を、昔の人は鼠坂と称したようで、都内には同名の坂が、この他に文京区音羽一丁目と港区麻布永坂町にあるが、山地の坂も鼠の通路のイメージに近いと思われる。しかし、残念なことに坂の下部付近に、先の芥坂と同様の歩道橋が架けられたため、坂下は大日本印川の柵内にとり込まれてしまった。歩道橋を進んでいくと、前述した中根坂の上り囗に出ることになる。

 遠くでは昔と変わらない光景が出てきます。

現在の鼠坂
鼠坂と中根坂

 ここで昔の鼠坂は赤の坂道でした。しかし、中根坂に歩道橋ができて、そのためこの歩道橋につなぐピンク色の道もできました。鼠坂の下3分の1(ピンク色のうち南1/3の坂)は通行はできず、現在はあったことも判らなくなっています。

 以前は標柱もあったようです。「細くて狭い坂だったから、まるで鼠がとおるほど狭かったからそう名づけたのであろう」と書かれていたようです。