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神楽坂3丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13183~86

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13183~86 はカメラを神楽坂3丁目の坂上付近に置き、坂下を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13183 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13184 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13185 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13186 神楽坂歩行者天国

 坂の傾斜が急な部分はOリングのくぼみがついたコンクリート舗装です。Oリングの位置は「万平」「龍公亭」あたりまででした。車道の中央には舗装の継ぎ目があります。ここで地元の方は

舗装の継ぎ目はOリングの部分から坂上までずっと続いています。この当時の舗装はアスファルトではなく、コンクリートであったと思われます。少し前の時代のID 12903には、これほど大きな継ぎ目がありません。

といっています。しかし、アスファルトのほうが道路の継ぎ目や接合点は多いし、色合いが決め手だといっても、はっきりはしません。ID 13185では道路の照り返しがOリングがあるほうが強いと思います。
 縁石は黄色と無彩色との2色で(現在もよく見ると2色)、意味は「駐車禁止」。歩道はアスファルト舗装。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。神楽坂通りの中央にはローラースケートを履いた男の子。中央の上空には(横断歩道)の道路標識。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱はモノクロ写真では薄い色でしたが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。「神楽坂通り」が街灯に光っています。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂3丁目→坂下(昭和48年)
  1. (駐車禁止)(区間内)
  2. (車両進入禁止)
  3. (横断歩道)
    ――神楽坂仲通り
  4. 化粧品さわや
  5. (ビク)ター(リード商会)
  6. 純喫茶クラウン
  7. 喫茶(坂)
  8. 看板「パチンコは(マリーで)」
  9. クスリ 山一薬品
  10. ハ(ッピー)ジャック

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. (ヒデ)美容室 HIDE HEALTH SALON。突き出し看板「ueta エダ」(看板は、おそらく化粧品)
  2. 道路標識(裏面)
  3. くすりは 山本薬局 純良医薬
  4. BAR まき
    ――神楽坂仲坂
  5. BARBER よね(ざわ)
  6. 臼井歯
  7. せともの 太陽堂
  8. ニッポンハム 肉のますだや
  9. ▶電柱看板「歯 石川」「 大久保
  10. UC(大川時計店)かつ一(2階)
  11. ESUYA
  12. コーセー化粧品 十奈美
  13. 夏目写真館 夏目写真館
  14. カブト虫(純喫茶)
  15. ▶電柱看板「石川
  16. 麻雀 サンコール(松本商店)

住宅地図。1974年

神楽坂1丁目(写真)昭和45年、ID 13126、ID 13128とID 13130

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 13126、ID 13128とID 13130を見ていきましょう。3つとも昭和45年(1970)3月、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。ID13117、ID13118、ID13121-22、ID13124と同様の画角ですが、より左側に寄った場所から撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13126 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13128 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13130 牛込見附、神楽坂通り

 交差点名は「牛込見附」。信号機にはゼブラ柄の背面板があり、逆転式一方を示す回転式の「進入禁止」の標識も見えます。通りに入ると標識「神楽坂通り/美観街」があります。
 車道は4方向ともアスファルト舗装で、側溝と縁石は牛込橋で確認できますが、他の車道も同じでしょう。また神楽坂の車道はガードレールはなく、牛込橋と右側の外堀通りの車道にはあって、おそらく左側の外堀通りもあったでしょう。また、歩道はアスファルト舗装です。
 街灯は昭和36(1961)年以降の大きな円盤形で、その下に「神楽坂通り」があります。電柱の上には大きな柱上変圧器があるものもあります。
 いずれ有楽町線「飯田橋駅」が外堀通りの下にできる予定ですが、工事開始は1970(昭和45)年8月なので、この写真より少し後です。
 牛込橋には桜の古木があります。ID 67(昭和48年(1973)5月)では取り除かれています。

牛込橋→神楽坂(昭和45年)
  1. 富士見 〇〇入学随時☎ 英会話タイプ学院 この手前
  2. 電柱看板「独特 とんかつ 森川
  3. 東山酒蔵
  4. 電柱看板「 大久保
  5. (12-24 駐車禁止)(区間内)
  6. 交通標識の裏面
    ――「牛込見附」交差点
  7. 看板「無事故運転は/教養のあらわれ」
  8. 電柱看板「東電のトレードマーク 中〇」
  9. (車両通行止め)
  10. 電柱看板「八千代鮨
  1. (歩行者通行止め)
  2. 萩の宮
  3. ファサード看板「加藤医院
  4. 貸間 アパート 学生会
  5. 映画ポスター「大いなる男たち」(日本公開1969年10月25日)
    ――「牛込見附」交差点
  6. 株式会社 さく(らや)(靴)
  7. 佳作座の看板「〇〇上映中」(「尼僧物語」か))
  8. 赤井商店
  9. カレーショップ ボナ
  10. (白十字医院)
  11. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田(紙店)
  12. (車両進入禁止)
  13. 不二家洋菓子
  14. (消火栓)
  15. 突き出し看板「喫茶 軽い心」 屋上看板「喫茶 軽い心」屋上看板「3,4F 麻雀 桜/2F 喫茶室 軽い心/1F パブ ハッピージャック」スタンド看板「ハッピージャ(ック)」「今宵楽(しく軽い心で)」
  16. (右のネオンサイン)(キャ)パレー(ムー)ンライト(仲通り)
  17. (さらに右のネオンサイン)神楽坂トルコ(仲通り)
  18. 看板「パチンコはマリーで」
  19. ニュ(ーイト)ウ(靴店)
  20. 純喫茶 クラウン(喫茶店)
  21. MAX FACTOR(化粧品)
  22. 資生堂(化粧品)(さわや
  23. ナショナルのマーク(竹谷電気工事)
  24. 東京電力(サービスステーション)
  25. 鮨どころ 二葉(寿司)

住宅地図。1970年

神楽坂1丁目(写真)昭和45年 ID13117-18, 21-22, 24

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID13117-18, 13121-22, 13124を見ていきましょう。全ては、昭和45年(1970)3月、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13117 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13118 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13121 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13122 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13124 牛込見附、神楽坂通り

 交差点名は「牛込見附」。信号機にはゼブラ柄の背面板があり、逆転式一方を示す回転式の「進入禁止」の標識も見えます。通りに入ると標識「神楽坂通り/美観街」があります。
 車道は4方向ともアスファルト舗装で、側溝と縁石は牛込橋で確認できますが、他の車道も同じでしょう。また神楽坂の車道はガードレールはなく、牛込橋はあり、おそらく外堀通りもありでした。
 歩道もアスファルト舗装ですが、カメラの足元の牛込橋部分は石敷でした。ID 13117の右下のガードレールの切れ目あたりで、アスファルトの歩道が縁石で終わっているのが分かります。
 街灯は昭和36(1961)年以降の大きな円盤形で、その下に「神楽坂通り」があります。ただし、牛込橋の最も手前に逆円錐形の街灯があり、これは千代田区のものと思われます。電柱の上には大きな柱上変圧器があるものもあります。
 いずれ有楽町線「飯田橋駅」が外堀通りの下にできる予定ですが、工事開始は1970(昭和45)年8月なので、この写真より少し後です。
 牛込橋には桜の古木があります。ID 67(昭和48年(1973)5月)では取り除かれています。

牛込橋→神楽坂(昭和45年)
  1. 登録商標東山 東山酒蔵〇会 東山酒蔵
  2. (12-24 駐車禁止)(区間内)
  3. ▶電柱看板「 大久保」「東電のトレードマーク 中〇」
  4. 交通標識の裏面
    ーー「牛込見附」交差点
  5. 看板「無事故運転は/教養のあらわれ」
  6. (車両通行止め)
  7. (パチン)コ Pachinko(ニューバリーパチンコ)
  8. (駐車禁止)(区間内)
  9. 田原屋(フルーツパーラー)
  10. 田口屋生花店。五階建て
  11. 「ダイヤモン(ド毛糸)」(大島糸店)
  12. (喫茶)五(条)(五条ビル)
  13. 遠くに「協和銀行」

▶は車道寄りの歩道上に広告があり、ない場合は直接店舗に

  1. 立て看板「アルバイト 下宿 アパート 貸間 日本学生会
  2. ▶立て看板「盛況 酒ビール飲放題確定サービス 8時迄〇〇一五〇〇円」
  3. 電柱広告「洋装店 ナカノ」
  4. 萩の宮
  5. ファサード看板「入院設備あり 産婦人科 加藤医院
  6. ▶映画ポスター「大いなる男たち」(日本公開1969年10月25日)
    ーー「牛込見附」交差点
  7. 佳作座の看板「〇〇上映中」(「尼僧物語」か))
  8. 赤井商店
  9. カレーショップ ボナ
  10. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田(紙店)
  11. (消火栓)
  12. 突き出し看板「喫茶 軽い心」 屋上看板「喫茶 軽い心」屋上看板「3,4F 麻雀 桜/2F 喫茶室 軽い心/1F パブ ハッピージャック」スタンド看板「ハッピージャ(ック)」
  13. (右のネオンサイン)(キャ)パレー(ムー)ンライト(仲通り)
  14. (さらに右のネオンサイン)神楽坂トルコ(仲通り)
  15. クラウン(喫茶店)
  16. 資生堂(化粧品)(さわや)

住宅地図。1970年

神楽坂2丁目(写真)昭和50年頃 ID 9778

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9778は、昭和50年(1975年)頃、神楽坂2丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9778 神楽坂

 車道のOリングがあり、続いて側溝、縁石、歩道はアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。電柱は道路の左側にしかなく、電柱の上には大きな柱上変圧器があります。
 坂の途中に非常に大きなクレーン車が出ていますが、該当しそうな新築ビルはありません。

神楽坂2丁目(昭和48年)
  1. (横断禁止)
  2. たばこ 経済新聞
  3. 「大島歯科」「オリジナルボタン」 「(株)オオシマ」「ᘂ ハマナカ手芸糸」「マジックバック」「カネボウ毛糸 ハマナカ手芸糸」
  4. 神楽家(せんべい)
  5. 純喫茶 カブト虫 Coca Cola
  6. 看板「通学路」
  7. 電柱看板「石川  」「 大(久保)」
  8. 麻雀
  9. 夏目写真館
  10. 西川 みゆき
  11. 地図によれば「仲門堂」
  12. (消火栓)「歯科 石川  ここ」
  13. 電柱看板「歯 石川  」「 大久保」
  14. 地図によれば「巴有吾有」
  15. 地図によれば「十奈美」
  16. とんかつ(かつ一)
  17. ニッポンハム(肉のますだや)
  18. ヒデ美容(室)
  19. 屋上看板「話し方教室」袖看板「旭図書」「話し方教室」(五条ビル)
  20. (遠くに)三菱銀行
  1. 「D/SL気分を/満喫して下さい」「サービス中!!」「マ〇ー/祝/さ・」造花(パチンコマリー)
  2. ニューイトウ(靴):
  3. 珈琲 音楽 坂
  4. 陶柿園。昭和47年(1972年)3月に完成。
  5. 純喫茶 クラウン
  6. 資生堂化粧品(さわや

1976年。住宅地図。

 

神楽坂3丁目(写真)昭和28年 ID 9506

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9506は、昭和28年以降、おそらく神楽坂3丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9506 神楽坂

 車道は凹凸が目立ち始め、将来できるOリングはなく、急峻な坂は石敷でした。歩道の構成は車道の側から縁石、外コンクリート3列、細い石、内コンクリート2列です。縁石はかなり薄く、隣の店舗同士では階段のような差がありました。中央に雨水を流すへこみがあり、側溝はありません。
 竹か笹が各店舗から1本ずつ、車道に向かって斜めに立っています。リボンや紐状の飾り、小さな提灯が下がっています。「全店大賣出し 神楽坂」ののぼり旗もあります。
 人々は半袖で、明るい色の夏服を着ています。おそらく七夕シーズンの7月ごろ、商店街の中元セールの写真でしょう。
 中央には街灯の基礎だけがあります。その向こうはポールも立っています。これは昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯の下部です。しかし上の照明(花の部分)はついていません。一方、道路の反対側には坂下に向けて簡素で背の低い丸い電球1灯の街灯(ID 30ID 4792等)が立っています。
 おそらくこの時に、街灯を交換しました。街灯の基礎やポールが黒いのはさび止めの状態で、まだ塗装していないからと思われます。ID 12125~12127の貴重なカラー写真では鈴蘭灯は白っぽく塗られています。実際にはライトグレーか銀色だったでしょう。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂3→2丁目(昭和28年以降)
  1. パーマネント。マーサ美容室。二階建て
  2. 神楽坂仲通り
  3. 電柱看板「旅館 碧運」「 大久保質店」
  4. さわや。二階建て
  5. 亀井鮨。平屋
  6. 壁面一杯に「ニューイトウ」
  1. 岡田印房(地図では岡田印章)。「表札 看板 名刺」「星名刺」
  2. 助六 二階建て
  3. 龍公亭 平屋
  4. (建築中)
  5. 看板「新しいカット コールド〇 パーマネント」(ビデパーマ)
  6. (山本薬局)
  7. 神楽坂仲坂
  8. 自立看板「みい〇」
  9. 電柱看板「 大久保質店」
  10. 電柱看板。床屋のサインポール(管理髪館)

神楽坂2丁目(写真)昭和48年 ID 8805, ID 8806

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8805とID 8806は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂2丁目から坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8805 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8806 神楽坂

 休日の歩行者天国が始まっています。「歩道がそれ以前のブロック敷きからアスファルトになっています」と地元の方。一方、車道について、急勾配のコンクリート坂は滑り止めが必要ですが、これは道路表面に円形のオーリングを埋め込み、一定時間後にそれを取り除く方法をとっています。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。
 電柱の上には大きな柱上変圧器があり、電柱看板も見られます。また遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えています。

神楽坂2丁目(昭和44年)
  1. 化粧品 おしゃれの店 十奈美 ブラバス・スタッフ/BR  KOJI/コージーアイラッシュ MG5
  2. 電柱の剥がされたビラ「ベトナム革(命)」
  3. おしゃれの(S)PO(T)T ESUTA(洋品店)
  4. とんかつ かん一(2階)
  5. (高い位置に マルマン)ガスライター メガネのオオカワ Nikon メガネレンズ
  6. 街灯看板「神楽坂通り」
  7. 電柱看板「歯 石川」「 大久保
  8. ヒデ美容室
  9. (音楽)長崎(五条ビル)
  10. 菊正宗 青柳寿司
  11. そばどころ 神楽坂 丸屋
  12. 三菱銀行
  1. ビクター音楽 リ(ード商会)(レコード店) 2階 (名)人荘 (麻雀店)
  2. 山田紙店 仮営業所(以前の亀井寿司)
  3. 資生堂化粧品 さわや  カネボウ化粧品
  4. 喫茶 馬
  5. マーサ美容室(窓からウインドウ型のエアコンが飛び出している。昭和40年(1965)頃の写真ID 15にはないもの。店舗の冷房が普及していった時期でしょう)
  6. アザミ
  7. ナショナル クレジット ナショナル カラーテレビ(竹谷電気工事)
  8. 小料理 万平
  9. 東洋紡カーテン(菱屋
  10. 東京電力(サービスステーション)
  11. 鮨どころ 二葉
  12. 酒酒 鳥忠
  13. 五十(番)

1973年。住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)昭和48年 ID 8801~ID 8804

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8801からID 8804は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂1丁目から坂上を撮ったものです。ID 8803はID 66と同じ写真です。休日の歩行者天国が始まっています。「歩道がそれ以前のブロック敷きからアスファルトになっています」と地元の方。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8801 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8802 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8803 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8804 神楽坂

 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。標識「神楽坂通り/美観街」(カラー写真)も左右に1本ずつできています。その一方は中華料理「信華園」がある歩道にできました。また遠くに同じ「神楽坂通り/美観街」が見えています。
 電柱の上には大きな柱上変圧器があります。

神楽坂1~2丁目(昭和48年)
  1. 看板「中華料理 信華園」と6角形の竜形
  2. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  3. 電柱看板「川島歯科
  4. 小栗横丁への道
  5. 半分だけの標示「御料理 志満金
  6. 電柱看板の「 大久保
  7. 「靴 オザキヤ
  8. 「カネボウ毛糸 ダイヤモンド毛糸」(大島糸店)
  1. 突き出し看板「喫茶室 軽い心」。一階で 洋酒とお食事 ハッピージャック
  2. 麻雀 桜(桜別館)
  3. 山一薬品(工事中)
  4. 看板「パチンコはマリーで」
  5. ニューイトウ(靴)
  6. 坂(喫茶)
  7. 陶柿園がビルに。1年前の昭和47年(1972年)3月に完成した。
  8. 喫茶  クラウン
  9. 「神楽坂ビル」。1969年2月完成。
  10. MAX FACTOR(化粧品)
  11. 資生堂化粧品(さわや
  12. 菱屋」も高層ビルに。竣工は昭和42年か
  13. 東京電力

1973年。住宅地図。

神楽坂1~2丁目(写真)昭和45年 ID 8318

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8318は、昭和45年(1970年)3月、牛込見附(現、神楽坂下)交差点から神楽坂1丁目などを撮ったものです。藤の形の造花がたくさんあり、これはID 8317(つまりID 64)からの連続した写真だと思います。ほかにも翁庵の前の自転車や駐車車両、道路の水まきの跡、不二家の商品なども同じです。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に標識「神楽坂通り」があり、また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ出ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8318 神楽坂

 

神楽坂1~2丁目(昭和45年)
  1. (フルーツパーラー 田原)屋
  2. 電柱看板「神楽坂通 倉庫 取扱 このさき」
  3. 衣裳 清水本店(貸衣裳店)
  4. 看板「生そば おきな庵」(翁庵
  5. 中華料理 信華園
  6. パール。ビリヤード。小栗横丁にありました。
  7. 電柱看板「川島歯科
  8. 電柱看板「 大久保
  1. 山田紙店
  2. FUJIYA 不二家洋菓子 FIJIYA コーヒーショップ 歩道におそらく山積みの不二家の商品
  3. 突き出し看板「おしるこ 紀の善
  4. Frère WADAYA(メンズウェアー)
  5. 喫茶 軽い心 洋食 食事 ハッピージャック
  6. くすり 山一薬品
  7. パチンコはマリーで
  8. ニューイトウ(靴)
  9. 純喫茶 クラウン
  10. 神楽坂ビル。築年月は昭和40年11月
  11. MAX FACTOR(化粧品)
  12. 資生堂化粧品(さわや
  13. 菱屋ビル(昭和42年頃)

1971年。住宅地図。

神楽坂2丁目(写真)夕景 昭和43年 ID 8019

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8019を見ましょう。年は1968年(昭和43年)、月は「神楽坂百年」の提灯があり、頭に浮かぶのがID 8018(「目で見る神楽坂百年写真展」、10月15日~10月25日)で、おそらく10月。撮影は神楽坂2丁目から坂下をねらっています。車道はゴム製リング(オーリング)でつけた滑り止めのドーナツ状の窪みがあります。歩道はややサイズの大きい平らな正方形のブロックで、街灯は丸い巨大蛍光灯です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8019 神楽坂1

神楽坂2丁目(昭和43年)
  1. 化粧品さわや
  2. 亀井鮨でしたがID 8-12の看板は外され、閉店しているようです。貼り紙があります
  3. 街灯看板「神楽坂」造花
  4. 神楽坂ビル 5階建て 建築中 小林工務店
  5. 喫茶クラウン
  6. 陶柿園
  7. 喫茶 音楽 坂
  8. ニューイトウ(靴)
  9. ファサード看板「マリー」突出し看板「パチンコはマリーで」
  10. 4階建て。ネオン(桜 3F 軽い心 2F パブ ハッピージャック)屋上広告「今宵楽しく軽い心」
  1. 電柱看板「健康保険医 石川歯科 この奥」「 倉庫完備 取扱丁寧 大久保
  2. CHINA & GLASS せともの 太陽堂 TAIYODO 1割引
  3. 〇スハム 増田屋 特選 牛豚鶏 ますだや
  4. マルマン ガスライター大川時計店(ショーウインドウ)
  5. とんかつ かつ一(2階)
  6. 街灯看板「神楽坂」「神楽坂百年」造花
  7. ⚫ ESUY(洋品の「エスヤ」)
  8. (洋装生地)林屋
  9. タイヤモンド毛糸 大島糸店
  10. オザキヤ(靴)

昭和45年 住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)景色 昭和41年 ID 7658

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 7658を見ていきましょう。時代は1966年(昭和41年)で、全員長袖で、コートを着ている人もいます。撮影の方向は、神楽坂1丁目から坂上に。街灯は蛍光灯一つだけで、これは昭和36(1961)年以降です。車道は平坦で、凸凹もありません。道路にたまった雨水などを排水する側溝があります。歩道は昭和37年夏や、昭和41年の「坂のある街」では表面に滑り止め文様がありましたが、昭和41年の後半にややサイズの大きい平らな正方形のブロックに代わり、きれいに並んでいます。この歩道は改修後でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7658 神楽坂 紀の善付近 1966年

神楽坂1~2丁目(昭和41年)
  1. 1階建て。田口屋生花店だが、ID 54の大きな看板はなくなった。
  2. 街灯看板の「パール ビリヤード」と「神楽坂」
  3. 電柱看板の「川島歯科
  4. 小栗横丁に行く小道
  5. 壁面看板とファサード看板の「花 田口屋生花店」。不明のネオンだが、ID 5081では「花 田口屋」。ここから2丁目
  6. 街灯と「神楽坂」
  7. 「御料理 蒲焼 志満金」と「うなぎ丼」
  8. 電柱看板の「 大久保
  9. 「靴 オザキヤ
  10. たばこ ☎(田金果実店)
  11. (食品 丸八)
  12. 「特約店 大島糸店」 4階建て
  13. サンコール(松本商店)
  14. 夏目写真館
  15. ✚クスリ(神楽坂薬局)
  16. 「洋装生地 林屋」
  17. ヒ(デ美容室)
  18. 五条ビル。5階建て。翌1967年完成だが突き出し看板も出ており完成間近
  19. 遠くに「(三菱)銀行
  1. 街灯
  2. 山田紙店
  3. ヤマザキパン(明治アイスクリーム)コカコーラ。公衆電話。でんわ☎でんぽう。公衆電話の台に第一相互銀行の広告
  4. おしるこ 紀の善
  5. 神楽小路。歩道からは1段下がる。おそらく歩道の改修で段差がついた。
  6. 床屋のサインポール(理容バンコック)
  7. (Frère WADA)YA(メンズウェアー)ID 86に詳しい
  8. 消(火栓)レストラ(ン)この先〇
  9. 軽い心
  10. ニューイトウ(靴)
  11. 遠くに「資生堂化粧品」(さわや
  12. 遠くに「神楽坂通り/美観街」。「坂のある街」にはないので、歩道改修と同時設置か。

神楽坂3丁目(写真)大東京祭パレード 昭和32年 ID 4943

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4943は昭和32年(1957年)「大東京祭」における「花自動車パレード」を撮ったものです。坂下から坂上への自動車、バスやトラックの「花自動車」パレードでした。「祝 大東京祭」を掲げるオープンカーには女性4人が手を振り、左ハンドル車の運転手が座っていました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4943 大東京祭 花自動車パレード 神楽坂

 街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭すずらんの花をかたどった鈴蘭灯でした。電柱の上には細い柱上変圧器があります。車道は石敷ですが、平坦、滑らかで、センターラインは消え、しかしうっすらと残っています。つまり昭和30年に行った対面通行はやめ、昭和31年には坂を上る方向の一方通行に変えています。もっと遠くのセンターラインは実線が残っています。坂下の交差点の横断幕はおそらく「片側通行帯」で、神楽坂通りが一方通行であることを知らせる目的でしょう。この一方通行が逆転式に変わるのは昭和33年と思われます。
 右側の鈴蘭灯は歩道のど真ん中に立ち、左側の電柱は車道寄りの歩道に立っていました。縁石から約30cm内部に新しいコンクリートの列があり、この間の地下には下水が流れていたようです。
 ヒデ美容室と山本薬局の間の歩道には段があります。昔の神楽坂の階段のなごりかも知れません。
 地元の方はさらに説明します。

 太陽堂の横の路地に積み上げてあるのは「ばち」ですね。大東京祭は都民の日(10月1日)ごろの実施なので、ちょうど需要期でしょう。都の資料によれば大東京祭は昭和31(1956)年が第1回となっています。またオープンカーの頭上の横断幕を、この季節で大胆に予想すれば「紅葉祭」でしょう。
火鉢 暖房具の一種。灰を入れ、炭火すみびをついで手足をあぶり、室内を暖め、湯茶などを沸かした。

神楽坂3丁目(昭和32年)
  1. 看板「パーマネント」の「ネ」。マーサ美容室
  2. おそらく電柱看板「マッサージ 〇サージ院」
  3. 電柱看板「喫茶 七福」「菓子 七福」
  4. さわや
  5. 亀井鮨
  6. ルナ美容室
  7. 喫茶クラウン
  8. 電柱看板「旅館 川田
  1. ビデ美容院
  2. 綜合 ビタミン剤 強力パンビタン  山本(薬局)。看板「抗生物質製剤 クロロマイセチン」
  3. 美術陶器 太陽堂 せともの
  4. BARBER 管理髪館
  5. ス〇 美術〇〇
  6. 時計。メガネ
  7. ✚クスリ
  8. 夏目写真館
  9. 電柱看板「石川歯科

神楽坂3丁目(写真)昭和54年 ID 88と ID 11868

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 88と ID 11868は、昭和54年(1979年)1月の神楽坂3丁目を坂上から坂下に向かって撮ったものです。また ID 11869はさらに坂下に向かった場所です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 88 神楽坂途中より坂下方面

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11868 神楽坂

 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱の上には柱上変圧器があります。街灯には正月の飾りとして、細長い竹と足元に松が結びつけられています。
 車道の舗装は中央に大きなひび割れがあります。アスファルトではなく、半分ずつ交互にコンクリート舗装をしたからと思われます。右手前のすぐ後ろからは坂道用のΟリングのくぼみが沢山見えます。

Oリングでは?

 千代田区の建物については私はわかりません。

神楽坂3丁目
  1. ジョンブル コーヒー専門店 コーヒー豆 コーヒー機器
  2. (駐車禁止)(区間内)
  3. 4階建て(竹谷電気工事)
  4. 2階建て(ランジェリーシャンテ)
  5. マーサ美容室
  6. 横断歩道
  7. 神楽坂仲通り
  8. さわや(化粧品)
  9. ビクターレコード(5階建て)(神楽坂ビル)
  10. 寿し まきや
  11. 4階建て陶柿園)
  12. (坂とニューイトウは見えない)
  13. パチンコマリー
  14. 4階建て(桜 3F 軽い心 2F パブ ハッピージャック)
  15. 道路標識
  1. スタンド看板「ギター」(五条ビル)
  2. COFFEE naga(saki)(五条ビル)
  3. (ヒデ)美容室
  4. パテック(ス) 山本(薬局)
  5. 大久保(質)
  6. (離れて)志満金 5F 塔屋の看板
  7. 神楽坂通り/美観街

1980年 住宅地図。

神楽坂2丁目(写真)昭和33年 ID 57

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 57は、神楽坂2丁目を撮ったものです。撮影の方向は、坂下から坂上で、街灯は昭和36~7年まで続いた鈴蘭灯でした。
 シャツの人がいますが、半袖の人はいません。つまり夏ではありません。歩道はきれいで平坦です。
 左に建築中のビルは大島ビルで、この築年月は昭和34年(1959年)5月、総階数は4階です。建築後は大島糸店になりました。この撮影日は、佳作座の広告「野ばら」があるので、昭和33年秋や冬でしょう。
 一方、新宿歴史博物館の調べではこの写真は「昭和37年頃」に撮ったといいます。
 横断幕の「本日特売日」があります。
 また、車道のOリングはないのですが、アスファルト舗装では車の馬力が不十分で、石敷でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 57 神楽坂入口付近から坂上方向

神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂2丁目(昭和33年)
  1. 建築中。「タイヤモンド毛糸 大島糸店」になる
  2. 電柱看板。「 倉庫完備 大久保」「石川歯科
  3. (マルヨシ美術店)
  4. 夏目写真(館)
  5. 「+クスリ」。精神安定剤「ハーモニン 神楽坂薬局」
  6. 洋装生地 林屋
  7. (十奈美)
  1. パチンコマリー。Pachinco Mary。右端に佳作座の広告「野ばら」(日本公開は昭和33年8月23日)も。
  2. 壁面看板「ジュ 靴」「ヤマヤタ ⇒」
  3. 看板「洋食 喫茶京屋⇒」(奥にあった)
  4. 「靴はニューイトウ」
  5. 通りに接し「イトウふと(ん)」。「コーヒー 坂」ではない
  6. (陶磁器 陶柿園
  7. 「旅館 かぐら苑」の半分だけが見える
  8. クラウン(喫茶)
  9. ルナ美容室
  10. ポーラ化粧品
  11. 亀井鮨
  12. ひときわ高い看板「資生堂化粧」(さわや
  13. 遠くに看板「テレビ 竹谷電気」。
  14. さらに「万平のみや」の特徴的な吊り看板

神楽坂1~2丁目(写真)昭和37年夏 ID 17-19

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 17から19までを見ていきましょう。ID 17と18は降雨はなく、ID 19はあります。多くは半袖です。撮影の方向は、神楽坂1~2丁目から坂上に向いています。街灯は一つだけで、これは昭和36(1961)年以降です。車道は平坦で、凸凹もありません。歩道の表面には文様があり、ところどころ割れています。

新宿歴史博物館 ID 17 神楽坂下から坂上方向 昭和37年頃

新宿歴史博物館 ID 18 神楽坂下から坂上方向 昭和37年頃

新宿歴史博物館 ID 19 神楽坂下から坂上方向

神楽坂1~2丁目
  1. 甘味 桜井。ここは1丁目。
  2. パール ビリヤード。現在はないが、小栗横丁にあった。
  3. 小栗横丁に行く小道
  4. 壁面看板の「花 田口屋」。ここから2丁目
  5. 電柱看板で「川島歯科」。現在はないが、藁店にあった。
  6. 志満金
  7. オザキヤ
  8. たばこ ☎(果実 田金)
  9. (食品 丸八)
  10. タイヤモンド毛糸 大島糸店
  11. 松本商店
  12. 菓子 神楽屋
  13. 夏目写真館
  14. クスリ
  15. 林屋
  16. (十奈美)
  17. エスヤ
  1. ここは2丁目。白い建物の1階はテーラー和田屋、2階が理容バンコック。2階に床屋のサインポール
  2. メトロ映画で「九ちゃん音頭」公開は1962年7月と「男度胸のあやめ笠」公開1962年6月
  3. 白い建物はスナックとバー みなみ
  4. 麻雀⇒(志乃多の前から麻雀ルビーに入ることができる)
  5. 志乃多寿し
  6. グロンサン 山一薬品
  7. パチンコマリー
  8. ニューイトウ靴店
  9. レストラン京屋(奥にあった)
  10. ビリヤード 神楽坂(奥にあった)
  11. 喫茶 音楽 坂
  12. 陶磁器 陶柿園
  13. (旅館 かぐら苑)
  14. クラウン
  15. (美容室 リカ)
  16. ポーラ化粧品
  17. (鮨 亀井)
  18. 資生堂化粧品 さわや

 メトロ映画では1962年の夏用に映画2本立てを出しています。
 ID 17にはきれいなアスファルト舗装が広がります。はるかに彼方に別の舗装があるようで、反射も違っています。ID 18ではオザキヤ頃から上にこの舗装があるようです。しかし、よく見ると、Oリングはまだつけていないようです。

新宿歴史博物館 ID 18の一部

 ID 19もOリングはなく、つまり、1962年7月はOリングのないものを使って舗装をしたのです。おそらく1962年末にはOリングもついているはずです。
 この舗装はコンクリートではなく、石敷いしじき、石だたみでした。地元の方によれば「当時の車のエンジンはパワー不足で、アスファルト舗装では坂を上れなかった。表面のザラザラした石敷だった。ただ石が割れて飛ぶことがあったので、コンクリートに替えることにした。しかしコンクリートでも使っているうちにツルツルになって滑るので、Oリングの溝が必要だった」といいます。

神楽坂3丁目(写真)昭和40年以前 ID 8-12

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8からID 12までを見ていきましょう。今は晴れで、半袖の人が多いので、おそらく夏。撮影の方向は、神楽坂の中途から坂下に向いています。街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。車道にはOリングのくぼみが作られて、歩道は四角いブロックを敷き詰めただけで、凸凹が目立ちます。1970年頃までにアスファルト舗装に変わったと思われます。

新宿歴史博物館 ID 12 神楽坂途中、さわや付近から坂下方向

新宿歴史博物館 ID 9 神楽坂途中、さわや付近から坂下方向

新宿歴史博物館 ID 8

歴史博物館 ID 10

新宿歴史博物館 ID 11

 道路標識が横断歩道の側に見えます。「横断歩道」、2つの平行線、「PEDESTRIAN CROSSING」と書かれています。

新宿歴史博物館 ID 7002 神楽坂 昭和34年頃

「マーサ美容室」は窓1枚1枚が斜めに開き、つまり冷房はなく、大きい店舗で、コールドパーマと書いてあります。ボーラー化粧品は1964年(昭和39年)ではありますが、1965年(昭和40年)にはリード商会に変わります。したがって、昭和40年が最大年度でしょう。
 下の漢字は「野乃木」でした。「」は変体仮名の「の」でした。

全航空住宅地図帳 1965年


 電柱看板の「菅理髪館」は小栗横丁にあります。

1963年。住宅地図。

神楽坂2丁目と3丁目(坂上→坂下)
  1. (学校、幼稚園、保育所等あり)
  2. 竹谷電機 ナショナル冷蔵庫テレビ
  3. 趣味の店 あざみ
  4. (横断歩道)
  5. マーサ美容室
  6. 将来の神楽坂仲通り。2と3丁目の間
  7. 資生堂化粧品 さわや
  8. (駐車禁止)
  9. 亀井鮨
  10. (美容室ルカ)
  11. ボーラー化粧品
  12. (陶磁器 陶柿園)
  13. コーヒークラウン
  14. 「野乃木」か「かやの木」
  15. 喫茶 坂
  16. (靴 ニューイトウ)
  17. パチンコマリー
  1. ヒデ美容室
  2. 山本薬局 パンビタン
  3. 将来の神楽坂仲坂。2と3丁目の間
  4. 電柱看板で「菅理髪館⇒」
  5. 牛豚鶏 增田屋
  6. プラチナ万年筆 大川時計店
  7. エスヤ洋品 福田屋
  8. 洋装生地 林屋
  9. 十奈美 資生堂
  10. クスリ
  11. 夏目写真館

神楽坂3丁目(写真)昭和42年 ID 6とID 12905、ID 7とID 12903、ID 12904

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 6とID 12905、ID 7とID 12903、ID 12904を見ていきましょう。ともに今は雨は降り、撮影の方向は神楽坂の中途から坂下に向いています。街灯は鈴蘭灯とは違い、円盤形の大型1個だけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。円盤形の下には標識「神楽坂」もあります。車道では横断歩道を越えて、菱屋の前まで、Oリングのくぼみがあり、歩道は滑り止めのついた四角いブロックで舗装しています。

新宿歴史博物館 ID 6

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12905 神楽坂

新宿歴史博物館 ID 7

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12903 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12904 神楽坂

神楽坂3丁目(昭和42年)坂下→坂上
  1. 亀井鮨
  2. (資)生堂化粧品 さわや
  3. 神楽坂仲通りに入る。これから3丁目に。数軒はいり…
  4. 歩道に電気製品?(竹谷電気)
  5. 横断歩道。
  6. 柳の木が見える(万平
  7. ブリヂストン エバーソフト(菱屋)。エバーソフトは商標名で、ゴムや合成樹脂を加工し、柔らかく弾力性のあるようにしたもの。マットレス、クッション、座布団などに使う。
  1. ✚クスリ(神楽坂薬局)
  2. (洋装生地)林屋
  3. 電柱看板「質 大久保
  4. (ID 9によれば)プラ(チナ万年筆)(大川時計店)
  5. 牛豚鶏 増田屋
  6. 太陽堂
  7. 神楽坂仲坂に。これから3丁目に
  8. パンビタン 山本薬店。看板「抗生物質製剤 クロロマイセチン」
  9. ヒデ美容室
  10. 工事中
  11. 電柱看板「東京電力サービス(ステーション)」
  12. 廣東料理 龍公亭

 右手の工事中については、1967年(昭和42年)までは「きらく会館」で、70年(昭和45年)になると「コーヒー5番」になります。また「ブリヂストン エバーソフト」は「菱屋」です。
 また、菱屋の写真がわずかに出ていますが、これは古い店舗です。新しいビルにかわるのは昭和42年以降でした。

昭和38年/42年 vs 45年

 一方、昭和42年2月8日の田口重久氏の写真があり「2月8日までに『Club 軽い心』の向こうで、菱屋のビルが完成しています。つまり新しいビルに変わるのは昭和42年(または前年末)でした」と地元の人。

05-14-37-1

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」05-14-37-1 牛込見附から神楽坂下を 1967-02-08(昭和42年)

 これから地元の人はこう考えます。

 右手の龍公亭とヒデ美容室の間に空地があります。ID 4794(昭和27年)は、ここに建物が建築中(または改装中)でした。かなり見づらいですが、ID 9504-9505(昭和28年以降)では、少し奥まった店らしきものが見えます。ID 4943(昭和32年)でも右端のヒデ美容室の隣に店があることが確認できます。
 しかし、この店はその後、短期間で取り壊されたと見られます。1962年-63年(昭和37-38年)の住宅地図では下図のように空地になっています。隣家の壁面が煤けているので火事だったかも知れません。ID 14-15(昭和37年以降)でも、このID 6-7などと同様に空地です。
 空地は1964年(昭和39年)の地図以降は「きらく会館」、1970年(昭和45年)になると「コーヒー5番」になります。
 これらを総合すると、撮影時期は「きらく会館」が建つ前の1963年(昭和38年)ごろと思われます。

1962年 龍公亭付近

昭和30年代半ばの神楽坂下(写真)ID 5510, 7002, 9109

文学と神楽坂

 地元の人が昭和30年代の神楽坂通りについて送ってくれました。

 新宿歴史博物館所蔵のうち、昭和30年代中葉の神楽坂下の写真は解像度がよく、多くの情報が読み取れます。おそらくプロが大判フィルムで撮影したのでしょう。外堀通りを都電が走っていた頃のもので、2枚とも軌道の石敷が鮮やかです。都電牛込線は、この写真の数年後に廃止になりました。

 昭和35年の写真(ID:5510)を見てみましょう(新宿歴史博物館所蔵「データベース 写真で新宿」。下図で、拡大できます)。向かって右の角が赤井商店。戦前から続く名店で、神楽坂の入り口のランドマーク的存在でした。よく見ると、隣の津田印店と同じ建物です。木造の建屋でも、間口を区切って店の一部を他人に貸すのは古い商店街では良くあることでした。この建物は外壁をテントで覆って化粧しましたが、現在も同じものを2つの店で分けて使っています。

神楽坂下 昭和35年頃。新宿歴史博物館 ID 5510

 

神楽坂1~2丁目(昭和35年)
  1. 電柱看板「整美歯科 山本薬局横 院長 松本茂曜」「土地家屋 野口商会不動産部」「どもり 赤面対人恐怖」

  2.  自動車通行止 一方通行出口 午前AM0-正午NOON 自動車 MOTOR-CARS 東京公安委員会
  3. ニューバリー
  4. 田原屋 パーラー
  5. 電柱看板「質 倉庫完備 大久保
  6. 元祖 貸裳店・(清水本)店
  7. 生そば(翁庵
  8. 電柱看板「川島歯科
  9. 電柱看板「森本不動産
  10. (ダイ)ヤモンド毛(糸)
  11. (夏目)写真館
  1. 足袋・Yシャツ 赤井商店
  2. 一方通行
    正午 午後 PM 12:00 自動車 MOTOR-CARS 東京公安委員会
  3. 津田印店 印章 ゴム印
  4. ニューマヤ マヤ片岡出身 小山美智子
  5. 山田紙店
  6. 神楽堂 ヤマザキパン 電話 公衆電話 ヤマザキパンの納品車
  7. おしるこ(紀の善
  8. サインポール2つ(理容バンコック)
  9. 上映〇(メトロ映画
  10. ト(リ)ス(バー)、トリスバー  沙羅
  11. ダンス(小柳ダンススクール
  12. パチンコ(マリー)
  13. 志乃(多寿し)
  14. ビリヤード
  15. ニューイトウ
  16. 喫茶 クラウン
  17. (ルナ美容室)
  18. ポーラ化(粧品)
  19. 資生堂(化粧品)

都電牛込線 1905年8月12日神楽坂から四谷見附までを開業。1967年(昭和42年)12月10日、市ヶ谷見附と飯田橋を廃止。1970年(昭和45年)3月27日、全線廃止
ランドマーク 都市景観や田園風景において目印や象徴となる対象物。

 その隣は、この写真では見えていませんが「白十字診療所」という名の診療所でした。昭和50年代まで続き、同じ場所の写真(ID:9109、下図)で確認できます。
 次は山田紙店。2階には美容室「ニューマヤ」が入っています。看板は「マヤ片岡出身」と読めます。戦前・戦後を通じて美容界のリーダーのひとりだったマヤ片岡の直弟子の店で、時にはマヤ片岡も巡回してきたそうです。後に3丁目に自前のビルを建てるほど成功しました。2代目の店主が急逝し、閉店したのは2016年(平成28年)のことでした。
 次の神楽堂パン店の前にはヤマザキパンの納品車が止まっています。その隣は紀の善。黒地に白文字の看板は「おしるこ」と読めます。

[参考]神楽坂下交差点 昭和51年8月26日 新宿歴史博物館 ID 9109

 神楽小路を挟んで、黒っぽい高い建物は「理容バンコック」。この建物の1階は、しばしば店が代わるのですが、2階室は現在も紳士向け理髪店の「萬国館」として続いています。商店街では珍しいケースだと思います。突き出している「ダンス」の看板は、この建物ではなく神楽小路の奥にあった「小柳ダンススクール」です。
 その向こう、いかにも路地があるように見えますが、奥にあったメトロ映画の入り口です。「上映■」の演目の看板や、なんとか「メトロ」と読めるのぼり旗があります。角にはトリスバーがあり、看板も「トリスバー 沙羅」が見えます。
 次は「志乃〇」は「志乃多寿し」。人形町にある総本店の神楽坂店でした。その向こうの山一薬品は、この頃でもまだ平屋です。「ビリヤード」は通りではなく、パチンコマリーの角を入った路地の奥にありました。
「靴ニューイトウ」から先は、このブログの別記事で詳しく書かれています。
 同じ昭和35年(ID:5510)の向かって左側。「パチンコニューパリー」「パーラー田原屋」「貸衣装(清水本)店」、「生そば」(翁庵)まで確認できます。よく見ると「(ダイ)ヤモンド毛(糸)」(大島糸店)や「(写)眞館」(夏目写真館)の看板も見えます。

理容バンコック 「東京坂道ゆるラン」の「落語『崇徳院』の古地図」「明治後期、神楽坂の床屋」で。だたし、本当に理容バンコックがどうかは、わかりません。

明治後期、神楽坂の床屋

のぼり旗 図の左側にあったのぼり旗のこと。う~ん、私はわかりません。
トリスバー 写真の「ト〇フ」も「トリスバー」

拡大図。ID:5510

ビリヤード 国際ビリヤードが袋小路のつきあたりにありました。

1995年 住宅地図。

 もう1枚の昭和34年(ID:7002、下図)は縦に画角が広く、坂の中腹から先までうかがえます。さわやのあたりで坂が少し緩くなっているのも、よく分かります。その近くの横書きの大きな「〇中御」は「お中元」のセールでしょうか。
 一番高いところの「木村(屋)」の向こうに見える週刊紙の看板は、「記憶の中の神楽坂」に出てくる茂木書店のものと思われます。この店の後に、坂下からニューマヤが移ってきました。
 書店の下にチラリと半分だけ見えている看板は、塩瀬か柏屋のように思えますが、もう確認できません。

神楽坂 昭和34年頃。新宿歴史博物館 ID 7002

記憶の中の神楽坂 かぐらむら 今月の特集 記憶の中の神楽坂



昭和40年代の神楽坂(写真)

文学と神楽坂

神楽坂 加藤倉吉氏作の銅版画『神楽坂』(昭和47年)(植村峻氏『日本紙幣肖像の凹版彫刻者たち』、2010年)

  1. 看板「神楽坂通り」
  2. 街灯の途中から斜めに筒が出ていて、季節ごとに飾りや旗を差し込む。この時期は餅花みたいなものを飾っている。そこからぶら下がった提灯が割れてしまったように見える。
  3. 「山田」紙店
  4. 街灯
  5. FUJIYA 不二家洋菓子
  6. FUJIYA コーヒーショップ
  7. 不二家洋菓子
  8. おしるこ 紀の善
  9. 床屋のサインポール。2階が理容バンコック
  10. 1階がテーラー和田屋。
  11. 軽い心
  12. 神楽坂通り
  13. 美観街
  14. 文字のない飾り
  15. 街路灯に看板の「神楽坂通り」
  16. 軽い心
  17. 山一薬品
  18. 街路灯に看板の「神楽坂通り」
  19. 陶柿園
  20. パチンコマリー
  21. 菱屋
  22. MAXFACTOR(さわや)
  23. ニューイトウ(靴)
  24. 柱上変圧器
  25. (カネ)ボウ毛糸(ダイヤ)モンド毛糸 特約(店)。大島糸店
  26. うなぎ/割烹 志満金

神楽坂入口から坂上方向 新宿歴史博物館 ID 65

昭和48年2月。神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 65 から

  1. 赤井商店
  2. カレーショップ ボナ
  3. ここと4の間に山田紙店があるはずだが、この時は地下鉄出口の建設中。
  4. 不二家洋菓子。ウロコ張りの洋館風。店の横が見えている
  5. 紀の善。切妻の屋根
  6. 理容バンコックのサインポール
  7. 3F 麻雀 桜。2F 喫茶室 軽い心。1F パブ ハッピージャック
  8. 神楽坂通り。美観街。文字のない飾り。
  9. 牛込見附
  10. 昔は段差が見えた
  11. 質。大久保質屋。神楽坂仲通りにあった質屋
  12. 斉藤医院。小栗横丁と見番横丁、神楽坂通りで囲んだ医院(下図)。なお、神楽坂4丁目8番地の斉藤医院は戦前にはありましたが、戦後はなくなっています。

    1970年 住宅地図

  13. パチンコ ニューパリー
  14. 将来の有楽町線「飯田橋」。道路を開削し、上に鉄板。埋め戻しは開業後。





神楽坂1ー2丁目(写真)坂のある街 昭和41年

坂のある街
 1966(昭和41)年、メトロアーカイブの「坂のある街」(インターネット)から
 年代:1966(昭和41)年 路線:東西線 駅: 神楽坂 カテゴリ:街の様子 坂と小路の街、神楽坂。写真の神楽坂通りは日本でも珍しい「逆転式一方通行」(進行方向が午前と午後で逆転する)が実施されている。

  1. パチンコマリーの前の歩道が濡れている。昔は自分の店の前にほこりが立たないようジョーロで水まきしました。
  2. オー(Ο)リング。スベリ止めコンクリート
  3. 歩道が30センチ角くらいの石で舗装。この後、神楽坂はアスファルト舗装を経てカラーブロック舗装に。
  4. パチンコマリー
  5. レストラン京屋(右側にはいっていく)
  6. ニューイトウ(靴)
  7. 坂(コーヒー)
  8. 陶柿園
  9. クラウン(喫茶)
  10. カネボウ化粧品(さわや)
  11. レコード
  12. 菱屋(寝具・インテリア)
  13. さわや(化粧品)
  14. 柱上変圧器
  15. 石川歯科
  16. 夏目写真館
  17. 街路灯に看板「神楽坂」
  18. カネボウ毛糸 ダイヤモンド毛糸 特約店 大島糸店(のちに大島歯科)
  19. 大島糸店
  20. 食品まつはち
  21. 果実田金
  22. オザキヤ(靴)
  23. 質屋(大久保)。神楽坂仲通りの質屋

参考。神楽坂の今昔1

上村一夫と神楽坂

文学と神楽坂

「上村一夫が『寺内』から描いたもの」について、地元の人からの情報提供です。

「神楽坂」の画3点の場所は特定できます。
 最初の絵は「十奈美」さんの前。ローマ字で分かります。1985年『神楽坂まっぷ』でもタイル張り風の外観(橙色)が確認できます。
十奈美 となみ。化粧品を売っていましたが、閉店。現在はポルタ神楽坂の一部になりました。

 次は、前とほぼ同じですが画角がやや右向き。「でんでんむし」は神楽坂ビルの地下の店でした。ダイニングバーだったと思います。「でんでんむし」は中村武志『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)でもでています。https://kagurazaka.yamamogura.com/kagu-nowthen1/

神楽坂ビル 正しくは神楽坂ビルディング。上の青色のビル。築年月は1969年2月

 三番目は、見たとおり大島さんの前です。ポルタ神楽坂のすぐ手前。大島さんは昔は糸屋さん。土地オーナーなので、ポルタに買収されず、今も「大島ビル」です。
 看板の「中河電気」は5丁目の鮒忠の2軒先。3点とも街灯が新しい。少なくとも1976年以降のものです。さすがに83年発表の作品ですね。
大島さん 大島ビル。築年月は1959年5月。
ポルタ神楽坂 東京理科大学の新しい施設で、主に飲食店の複合ビル。築年月は1993年8月。2011年に高級分譲賃貸マンションも販売。
中河電気 中河ビル。築年月は1968年9月。現在は八潮ビル。1階に焼肉、炭火焼き、ステーキの「新泉」
鮒忠 現在は閉店。
YAHOO! Japan 地図では…

中河電気は現在、八潮ビル。1階に焼肉「新泉」。鮒忠は閉店し、駐車場に。

 以下の2図は1966-67年の街灯。最初は1966(昭和41)年、メトロアーカイブの「坂のある街」では https://metroarchive.jp/pic_year/year1960/坂のある街.html
新修新宿区史編集委員会『新修新宿区史』(新宿区役所、昭和42年)では…
 ただ毘沙門天の画だけは、なぜか古い街灯が描かれています。
 逆に毘沙門天の写真(詩学社)の「昭和56年頃」は、やや疑問です。もう街灯は更新していたんじゃないかな。ギリギリかな?
毘沙門天の写真(詩学社) 本には「毘沙門天」と書いてあるだけででした。本の『神楽坂と大〆と私』のあとがきは昭和55年に、出版は昭和56年に行っています。

 最後に「神楽坂2丁目にある袋小路」。三番⽬の⼤島さん前については正しいと思います。別の写真でも同じ歩道の縁石の様子が確認できます。ただ最初と2番⽬は違います。これにはカラクリがあります。
 ご記憶でしょうか。神楽坂の急坂を削って「「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる」ことを。坂を削った結果、さわやさんの前は歩道と車道の段差が大きい。
 近年の改修工事でかなり直りましたが、まだ名残りがある。ストリートビューでも、さわや前の段差が坂下に行くと小さくなるのが分かります。上村氏がスケッチした当時は、描かれたような形だったのでしょう。
 上村氏が神楽坂に仕事場を置いたのは、『同棲時代』を掲載した『漫画アクション』の双葉社が神楽坂下にあったからじゃないのかな。古賀八千香氏は、そのあたりを突っ込んで欲しかったな。
別の写真 メトロアーカイブの写真には、3枚目のマンガと同じ歩道の「へこみ」が写っています
「さわや」さんの前あたりで 「神楽坂2丁目」で引用しています。
ストリートビュー 陶柿園とたんす屋の前にある縁石を比べます。
神楽坂下 双葉社は昭和43年4月に神楽坂1-8に社屋を新築移転し、昭和59年3月に新宿区東五軒町3-28に移転しました。これは住宅地図(昭和58年)から。

神楽坂通り(2丁目北西部、360°)

文学と神楽坂

 神楽坂通りの2丁目北西部です。まず場所を確認します。


 神楽坂通りを、路地角に建つ「俺流塩ラーメン神楽坂店」(関東大震災前は「かもじ屋」)から、神楽坂仲通りの「さわやビル」(以前は「佐和屋」)まで行きましょう。1927年➊「古老の記憶による関東大震災前の形」(神楽坂界隈の変遷。昭和45年新宿区教育委員会)では、店舗は計11軒ありました。

1927年 ➊ 古老の記憶による関東大震災前の形。神楽坂クラブは明治44年2月、大逆事件の合同茶話会を行った場所。

 一方、➋2017年にはここには6軒しかありません。この11軒のうち1927年と同じ軒は1軒のみで、神楽坂仲通りに接する佐和屋(さわやビル)でした。

2017年➋ 住宅地図

 では、2017年から時計を逆に回し、33年前、つまり➌1984年ではどうでしょうか。

1984年➌ 住宅地図

 上図を見る限り、➋とはほとんど変わりません。変わった点では➌の「さわや」から➋の「さわやビル」に変化しました。1990年に「さわやビル」ができています。あと➌の「ニューイトウ靴店」から➋「食道楽」と「第83東京ビル」に変わっています。

 では、➍1970年(2017年から43年前)はどうでしょうか。さすがに変化が出ます。

1970年➍ 住宅地図。

1番目は「さわや化粧品」のお隣に「亀井寿司」があったこと。2番目は「ヴェラハイツ神楽坂」はまだなく、かわって1970年には「喫茶クラウン」と奥の「旅館 かやの木」があった点です。
 また「コーヒー坂」と「イトウ靴店」➍から「ニューイトウ靴店」➌になり、それから「食道楽」と「第83東京ビル」➋になりました。しかし、地元の人によれば、おそらく「コーヒー坂」と「イトウ靴店」は2つのままだったといいます。つまり、1984年➌の「ニューイトウ靴店」が間違いで、正しくは「ニューイトウ靴店」と何か他の店舗があったというのです。なお「第83東京ビル」は1990年にできています。

 さらに昔に行くと、➎1963年では…

1963年➎ 住宅地図。

「神楽坂ビル」が「ポーラ化粧品」と「ルナ美容室」の2つに別れています。また「旅館 かやの木」は「旅館 かぐら苑」になっています。

 では、戦後すぐの地図はどうでしょうか。➏1952年です。

1952年➏ 昭和27年、火災保険特殊地図

「ポーラ化粧品」と「ルナ美容室」が「(料)かほる」になっています。

 つまり、第2次世界大戦後の6軒などは、あまり大きな変化はしていません。名前とその建物は色々変わりますが、所有した土地になるとおそらく変化していません。

 戦前の地図はあまり多くはありません。まず➐1937年の火災保険特殊地図です。

1937年➐ 火災保険特殊地図

 1937年➐の「スシヤ」と1970年➍や1963年➎の「亀井寿司」は同じでしょう。1937年➐に戦後➎を重ねてみると…(赤字は戦後)

 次は➑1930年です。うち下が昭和5年頃です。ちなみに上は平成8年です。

1930年❽新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)

 昭和5年の地図を1937年の地図に加えて、下図になります(赤字は戦前)。なお、大内理髪店は上図❽と同じで、幅は大きくしてあります。また「神楽坂クラブ」は正式には奥まった場所なので、ここではそこに行く道を2本の線で表しています。なお、この路地は戦前と戦後で、路地の場所が違います。そもそもこの路地が続く建物は、➐は都館、➎はかぐら苑で、その建物の大きさも違っています。土地の所有が変わっている可能性もあると地元の方。

 これを1927年➊の「古老の記憶による関東大震災前の形」と比べてみます(下図)。いろいろな点で同じです。

➊1927年

 左から見ていくと、「佐和屋」は「さわや」に漢字からひらがなに変換し、「靴屋」は「川口下駄」と「堀田洋服店」になり(靴屋=川口下駄)、「ハンコ屋 西山」は「愛両堂印店」(ともにハンコ屋)、「幸煎餅店」は「神楽せんべい」(2店ともせんべい)、「大内理髪店」は同じで、「はき物 脇坂」は「瀧上靴店」「近江屋下駄」になり、「小林金物店」と「金物・小林」はまず同じで、「遠藤書店」は「文泉堂書店」になり、「かもじ屋」(女性が日本髪を結うとき頭髪に補い添えるための髪)から「えり庄」(衣服のえりの店舗)になりました。

 戦前の「貸席 神楽坂クラブ」は「ハンコ屋 西山」の左側の路地、あるいは「靴屋」の右側の路地に入っていきました。戦後はこの「ハンコ屋 西山」は「喫茶 クラウン」に、「靴屋」は「神楽坂ビル」と名前が変わります。その中にあった「旅館 かぐら苑」は「ハンコ屋 西山」の右側にでてきます。つまり、戦前は「神楽坂ビル」と「ヴェラハイツ神楽坂」の間に路地があり、戦後は「ヴェラハイツ神楽坂」と「陶柿園」の間にあったのです。

牛込の文士達④|神垣とり子

文学と神楽坂


 藤森秀男という詩人がよく来た。目的はやはり間宮茂輔をふった京都生れの女子大生にあるらしかった。「こけもも」という詩集をくれたが朝の九時頃から夜までいて、彼女のことばかり話すので弱った。お相手をしているけど「雀のお宿」じやないからお茶にお菓子、お土産つづらというわけにもいかず、河井酔若が尋ねてきたのでこれ幸いと神楽坂へ出かけて「オザワ」で食事をした。
 「オザワ」は毘沙門の向う側で薬局をやっていて地内の芸者やへ通りぬける小路があって芸者が声をかけてゆく。その奥と二階で洋食やをやっていた。「田原や」は果物やでここも裏でフランス料理をやっていたが、味も値段も銀座並みなので、お客のなりたねも違っていた。文士連も芥川竜之介菊池寛今東光の「新思潮」や慶応の「三田文学」の連中が常連で、とりまきをつれて肩で風を切って神楽坂を歩っていた。
 坂上の料理屋には芸者も入り、神検・旧検に別れている。待合松ヶ枝が幅をきかせていた。毘沙門横丁には「高しまや」という芸者やに、松蔦・寿美蔵なんて役者の名にちなんだ芸者がいた。ロシヤ芸者の松子なんていう毛色の変ったのもいた。

藤森秀男 ふじもりひでお。正しくは秀夫。ドイツ文学者。東京大卒。詩人、童謡作家。慶大や金沢大などの教授を歴任し、ゲーテやハイネを研究。訳詞としては「めえめえ児山羊」(ドイツのわらべ歌)。生年は明治27年3月1日、没年は昭和37年12月20日。享年は満68歳。
こけもも 1919年、藤森秀夫氏は『こけもゝ 詩集』を文武堂から発行しています。
雀のお宿 童謡『すずめのおやど』の歌詞は すずめ すずめ/おやどは どこだ/ちっちっち ちっちっち/こちらでござる/おじいさん よくおいで/ごちそう いたしましょう/お茶に お菓子/おみやげ つづら/ 作詞は不詳、作曲はフランス民謡で、昭和22年に作られました。
つづら 葛籠。蓋つきの籠の一種。後に竹を使って縦横に組み合わせて編んだ四角い衣装箱。
河井酔若 かわいすいめい。詩人。「文庫」の記者として詩欄を担当し、多くの詩人を育てる。生年は明治7年5月7日、没年は昭和40年1月17日
地内 現在は「寺内」というのが普通
なり 形。身なり。服装。なりふり。風体。
たね 血筋。血統。
新思潮 文芸雑誌。第1次は1907年~08年、小山内 (おさない) 薫が主宰し、演劇を中心とする外国文学の翻訳紹介。第2次は10年~11年で、小山内の他、谷崎潤一郎,和辻哲郎,後藤末雄等の東京大学の同人誌。第3次は14年2月~9月で、山本有三,豊島与志雄、久米正雄、芥川龍之介、松岡譲、菊池寛等が創刊。第4次は16年~17年で、久米、芥川、松岡、菊池等が再刊。全同人が文壇への登場を果し、第3次と第4次の同人を『新思潮』派と呼ぶ。以後、十数次に及ぶ。
三田文学 文芸雑誌。1910年5月、永井荷風を中心に森鴎外、上田敏を顧問として創刊。三田文学会機関誌。自然主義の「早稲田文学」に対した耽美主義の立場をとった。久保田万太郎・佐藤春夫・水上滝太郎・西脇順三郎らが輩出。断続しつつ現在に至る。
神検・旧検 昭和10年頃、神楽坂花柳界に政党関係の内紛があり、神楽坂三業会(神検、新番)と牛込三業会(旧検、旧番)に別れた。神検は民政派、旧検は政友会だった(松川二郎「全国花街めぐ里」誠文堂、1929年)。戦後の昭和24年、合併して東京神楽坂組合に。
待合 花街における貸席業。客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店。
高しまや 毘沙門横丁に「分高島」があります。ここでしょうか。なお「分」「新」「金」などが名前についている場合は「分家」のことが普通です。

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会

 坂の途中で「ルーブル紙幣」が5銭10銭と売れていた。塩瀬の最中が一つ買える金額で「100ルーブル」の所有者になれ、ふたたび帝政ロシヤの夢を見るには安いのでよく売れた。売れたといえば毘沙門さまの境内にしんこ細工の屋台店があった。このしんこ細工でよせ鍋や、お櫃(ひつ)の形をつくって2銭で売っていた。葛西善蔵は子供をつれて上京するときっと泰三の家へ来るのでよく買ってやった。
 原稿紙は相馬や山田やのがいいっていって遠くから買いにきていた。坂下の「たぬきや」瀬戸物店では新婚の連中がよく買物をしていた。足袋やの「みのや」は山の手では一流店で手縫だった。銀座の「大野屋」と同じ位の値段だった。本多横丁の小間物やも「さわや」より少し落ちるが品物が多く、徳田秋声山田順子とベタベタしながら買いものをしていた。

帝政ロシヤ 1721年から1917年までのロシア帝国。日露戦争は1904年から1905年まで。
しんこ細工 新粉細工。新粉(うるち米を粉にしたもの)を水でこねて蒸し、それをついたものが新粉餅。これでさまざまな物の形をつくるのが新粉細工。
お櫃(ひつ) 炊いた飯を釜から移し入れておく木製の器。めしびつ。おはち。
きっと 確実にそうなるだろうと予測しているさま。自身の事柄に関しては決意を、相手に対しては強い要望を表す。必ず。あることが確実に行われるさま。必ず。
たぬきや 「古老の大震災の前」では神楽坂2丁目北側の「瀬戸物・タヌキ堂」です。「しのだ寿司」から「オアシス」になっていきます。
大正11年頃
古老の大震災の前
昭和5年頃
新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年
昭和12年
火災保険特殊地図
昭和27年
火災保険特殊地図
昭和35年
住宅地図
平成22年
住宅地図
神楽坂2丁目・坂上
絵草紙屋松来軒中華11空き地パチンコマリー第2カグラヒルズ
山本甘栗店11
茶・山下山下園茶店11
山本油店クスリ山一オアシススロットクラブ
瀬戸物・タヌキ堂ワコー喫茶キッサしのだすし
銘仙屋大木堂パンキッサ空き地コーヒーリオン
バー沙羅
第1カグラヒルズ
夏目写真館夏目写真館11メトロ映画館メトロ映画館
瀧歯科医濫長軒皮膚科医院
棚橋タバコ屋隼人屋煙草タバコ
吹野食料品富貴野食品〇〇〇ヤ
大畑バン店大畑菓子店キッサパチンコバンコク理容バンコック大内理容店
坂下

小間物や 「ここは牛込、神楽坂」第5号(平成七年)32頁には本多横丁の神楽坂四丁目に「小間物・桔梗屋」があったといいます。ここでしょうか?

 横寺町飯塚は近くに質やもやっていて、土蔵のある親質屋で牛込きっての金持とかいわれ坪内博士令嬢息子が嫁にもらって評判だった。公衆食堂がそのそばにあった。この店は近所の人達まで利用した。ごま塩が食卓にあるので労働者に喜ばれた。横寺、通寺は「めし屋」がない所で、この公衆食堂の前に天ぷらやが出来、15銭の天丼を売って出前をするので、芸術クラブ住人に重宝がられた。
 松井須磨子が首をつった二階の廊下は格子がはまって明りとりになって吹きぬけになっていた。その部屋を見に行く学生があった。そこの前に小さな雑貨屋があり、お湯やに行く人に石鹸や垢すりを売っていた。その家には娘が3人いて上の子が15~6で、抱月が須磨子と歯みがきなんか買いにきてよく顔をしっていたけどそんなに偉い女優とは知らなかったという。

令嬢 写真家の鹿嶋清兵衛と後妻ゑつの長女くにを6歳の時に養女にしています。
天ぷらや 一軒家か屋台です。新宿区横寺町交友会、今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(2000年)でも、1997年の新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』でも昭和10年頃になると、なくなっていました。
格子 細い角材や竹などを、碁盤の目のように組み合わせて作った建具。戸・窓などに用いる。
明りとり 光を取り入れるための窓。明かり窓。外の光の取り入れぐあい。採光。
小さな雑貨屋 2000年の『よこてらまち』でも1997年の新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(下図)でも不明です。

よこてらまち

神楽坂界隈

お湯や 藤の湯でした。

目白三平のあけくれ|中村武志


文学と神楽坂

 昭和32年(1957年)、中村武志氏が書いた「目白三平のあけくれ」です。昭和のゼロ年代から10年代にかけて神楽坂にどんな店舗があったのか、それを昭和30年代と比較しています。知らない店舗も多く出てきています。

    バナナの叩き売り

 神楽坂を登って行くと、左側の「田金」果実店のあたりに、「樽平」という飲屋があった。今では、新宿の「二幸」裏の横町や銀座の全線座の裏路地に支店を出しているが、当時は神楽坂だけであった。
 女気が全然なくて、ボーイさんがお銚子やお通しを運んで来た。酒もよく吟味してあって、お銚子一本十五銭であった。この実質的なのが一般に受けたのだろう。「樽平」は神楽坂で成功して、新宿へ支店を出したのだが、今では本家の神楽坂が駄目になって、新宿の方が繁昌しているわけだ。
 この「田金」果実店の並びに、「志満金」という蒲焼屋があるが、そのあたりに、当時は「ギンセン」という喫茶店があった。「ギンセン」では、二十五銭のカレーライスと、三十銭のハヤシライスを食べさせてくれた。味が非常によかったから、金のある時は、ここへいつも来たものだ。
 その頃、法政大学の食堂のカレーライスは、たしか十五銭だったと思う。安いことは安かったが、その代り、義理にもうまいとは云えなかった。

 昭和ゼロ年代の地図はひとつだけで、それは新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏が「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」で描いた昭和5年頃の地図なのです。下の地図では、この図から神楽坂下から上にかけて志満金などを中心に左側の商店だけを抜き出したものです。図の左側は昭和5年頃の商店、中央は平成8年12月の商店、右側は2017年の商店です。樽平、志満金、田金果実店はここに出てきます。

1930年頃1995年2017年
はりまや喫茶夏目写真館ポルテ神楽坂
白十字喫茶大升寿司
太田カバン神楽坂煎餅
今井モスリン店カフェ・ルトゥールY! mobile
樽平食堂ラーメン花の華天下一品
大島屋畳表田金果物店メガネスーパー
尾崎屋靴店オザキヤ靴オザキヤ
三好屋食品志満金 鰻志満金
増屋足袋店
海老屋水菓子店
八木下洋服田口屋生花田口屋生花

田金 果実店。右の図では左側の真ん中に。下の写真では青色の店舗。田金果実店はおそらく戦後に出てきた店舗で、2008年まではありましたが、2010年には終了しています。
樽平 山形の蔵元樽平酒造の直営店。昭和3年に神楽坂で開業。すぐに銀座に移転。新宿、銀座、上野、五反田にも出店。現在、神田だけですが、直営店があります。下の図では赤で囲んだ店。白木正光氏が編集した「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和8年)には「左側にある瀟洒な構えの小店ですが、ここにはこうした類の酒店が尠いせいか、上戸党には大層な評判です。」と書いてあります。
二幸 1926年、「二幸食品店」が創業。現在は新宿アルタ。
全線座 映画館の1つ。1930年から早稲田全線座、銀座全線座、渋谷全線座等を運営。1938年(昭和13年)、京橋区銀座8丁目に洋館古城風の建物の「銀座全線座」を開業。
志満金 現在もある鰻屋。詳しくは志満金で。下の写真では黄色の店。

志満金前(昭和20年代後半)『目で見る新宿区の100年』(郷土出版社、2015年)

ギンセン 正しくは「銀扇堂」。菓子喫茶店。白木正光氏が編集した「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和8年)には「坂の中腹左側。ベーカリー式の菓子、喫茶、カツレツ御飯(25銭)等婦人連にも好かれ(そう)な店です」。また、安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では「銀扇堂 坂の中腹左側。ベーカリー式な家で、比較的落付いた店です。喫茶の外にランチも出来コーヒーとケーキは此の店自慢のものです。場所柄粋な婦人連がよく出入りし、学生間にも却々好評です。高級の喫茶として、レコードにゆっくり落付ます。此所の洋菓子はなかなかうまい」。なお、「却々」は「なかなか」と読みます。

 せんだって、二十何年振りに、新装なった法政大学の建物を見せて貰った。五五年館の地下の立派な大食堂では、カレーライスが四十五円で、ハヤシライスが六十円だということであった。一度暇を見て、このカレーライスを賞味しようと思っている。
 右側の小間物店「さわ屋」は、昔から変りがないが、横町の丁度「さわ屋」の真裏に、「東京亭」という小さなカフェーがあって、友だちのH君が、そこの女給のいくよさんに可愛がられたようであった。いくよ姉さんは、間もなくパトロンを見つけて、横町の奥で「いくよ」という小料理屋を開いた。今はもう小料理屋の「いくよ」は影も形もなく、ましていくよ姉さんの消息なぞ知る由もない。
 また左側に移るのだが、山本薬局のあたりに、果実店の「田原屋」があった。喫茶部も経営していて、落ちついた感じのいい店であった。現在は、ずっと先の、毘沙門天善国寺の近くに、同名の小さな果実店があるが、これは弟さんが主人だということだ。

法政大学五五年館 千代田区富士見にある法政大学市ケ谷キャンパスの1つ。五五年館は赤丸。

さわ屋 以前はかんざし、櫛、かもじなどを扱う小間物店。現在は資生堂の一店舗として化粧品を販売。詳しくはさわやで。
東京亭 神楽坂仲通りにあった店舗。安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では「白木屋横町 小食傷新道の観があって、おでん小皿盛りの「花の家」 カフェー「東京亭」 野球おでんを看板の「グランド」 縄のれん式の小料理「江戸源」 牛鳥鍋類の「笑鬼」等が軒をつらねています」と書いてあります。
いくよ 神楽坂仲通りにあった店舗。これ以上は不明。

昭和27年「火災保険特殊地図」から

山本薬局 神楽坂三丁目にありました。上の昭和27年の「火災保険特殊地図」では右端に近く、赤い店舗です。
田原屋 戦後、神楽坂中腹にあった果実店の田原屋はなくなりました。恐らくこの図で青の店舗です。

 坂を登り切った右側に「藤屋」という花屋がある。昔はこの店の前あたりで、毎晩のようにバナナの叩き売りをやっていた。戸板の上に、バナナを沢山並べて、大きな房には、はじめ七、八十銭の値段をつけ、買手がないと見ると、竹の棒で戸板を叩きながら、十銭刻みに値段を下げて行く。安いなと思うところで、お客が買ったと声をかけるのだ。
 安いバナナを買う時もあったが、慌てて声をかけたために、十銭くらい高く買わされたこともあった。とにかく、夜の神楽坂名物として、バナナの叩き売りは無くてはならないものであった。
 このバナナの叩き売りをやっていた人が、「藤屋」の前の、「ジョウトウ屋」という果実店の主人だそうだが、あの頃の毎晩の努力が実を結んだわけで、大変おめでたいことだと思っている。

藤屋 本多横丁の右角にあった店舗で、右図では左端の赤い店舗でした。以前は豊島理髪店で、昭和27年には「藤屋」に変わり、昭和35年ごろには、中華料理の「五十番」。平成28年(2016年)、五十番も本多横丁の右角から左角に移って、ここは新たに「北のプレミアムフード館 キタプレ」に。
ジョウトウ屋 確かにジョウトウ屋と書いています。「いや、ジヤウトーヤのほうが正しい」という議論はジョウトーヤで。図ではピンクの店舗。

私のなかの東京|野口冨士男|美観街②

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年、1978年)の②です。
 魚肉ぎらいの私は肉食しかできないが、近年はスナックばやりで、そんな私ですらうっかりコーヒーをのみに入ると店内に肉料理の臭気が充満しているために、コーヒーの香気をそがれて辟易する場合がある。つとめて専門店へ入るようにしているのはそのためで、神楽坂へ出ると私が立ち寄るコーヒー店は二軒ある。坂の登りかけの左側にあるパウワウ(伝票には「巴有吾有」とある)には法政大学や東京理大の学生が集まるらしく、時によってびっくりするほど美しい女子学生が、セブンスターなどを指にはさみながら一人で文庫本を読んでいることがあるが、不思議なほどジーンズ姿を見かけない。
 地下鉄東西線の神楽坂駅で乗降するとき立ち寄る赤城神社前の珈琲園という店には、学生よりOLのほうが多いせいもあるが、そこでもジーンズには出くわさない。
 神楽坂は、そんな街である。
 余談ながら、昨年(昭和五十二年)築地の新喜楽で催された文藝春秋の忘年会に出席したとき、酌をしてくれた新橋の若い芸者さんは生家が神楽坂の芸者屋だということであったから、自宅へ帰るときにはどんな服装をするのかと訊いたら、ジーパンだと応えていた。現在では新橋芸者のジーパン、相撲のトレパンがすこしも奇異ではない。むかしは、着物の着こなしで商売女か素人娘かすぐわかったものだが、いい時代になった。また、それだけ現代小説が書きにくくもなった。
 東京地図出版株式会社版のミリオン・レジャーガイド『東京のみどころ』によれば、≪通り(早稲田通り)は午前、午後で一方通行が逆になるという都内でも珍しい逆転方式一方通行路になっている≫とのことで、朝寝坊の私は午前中の様子を知らなかった。午前中は坂上から坂下へ、午後はそれが逆になるわけで、さいきん坂下から行けば中腹の右側にある化粧品店さわやと、Lサイズの婦人服店L・シャン・テのあいだを入った左側にある和風とんかつの和加奈という店で夕食をしながらたずねたところによれば、正午から午後一時までは歩行者天国になるということである。はじめて入った店で、こってりした味の好きな人にはむかないかもしれないが、小さなスリ鉢に小さなスリゴギがついていて、すったゴマにソースを注いで、それをつけて食べるとんかつは、あっさりしていて私の囗に合った。

珈琲園 1975年、東西線の神楽坂駅の近傍で、赤城神社前のコーヒー店は三軒ありました。珈琲園はありませんでしたが、珈琲館はありました。しかし、珈琲館は珈琲園と同じだということはできません。誤植ではありません。
新喜楽新喜楽 新喜楽は東京都中央区築地四丁目にある老舗の料亭。芥川賞・直木賞の選考を行う場所でもあります。
東京のみどころ 『東京みどころ』(東京地図出版、1991年)から引用すると
東京のみどころ 飯田橋駅の新宿寄り出口(神楽坂口)を出て、右へ行くと神楽坂である。明治の頃からの古い繁華街で、坂を登りきった左側にある毘沙門さまの信仰とともに発展してきた。坂は相当な急勾配で、通り(早稲田通り)は午前、午後で一方通行が逆になるという都内でも珍らしい逆転式一方通行路になっている。
 花街はこの通りの裏側にあり、外堀通りと大久保通りに囲まれた一角は飲食店街になっている。
 これで神楽坂は終わりです。量の少なさ。次の「早稲田周辺」の方が書いた量も多いし。1990年ごろの神楽坂を表しているようです。
逆転式一方通行 市ケ谷経済新聞では
「神楽坂がまるごとわかる本」の著書がある渡辺功一さんは「以前の神楽坂通りは対面通行だったが、歩道を作るにあたり車道が狭くなることから一方通行に変わった」と話す。しかし、一方通行にしたことで大久保通りなどは渋滞。当時、朝日新聞の投書欄には大々的に「神楽坂通りの一方通行は不便で困る」との声が寄せられた。これにより、「逆転式一方通行」が誕生。「このような通りは都内では唯一、日本でも唯一と言っていいだろう」と渡辺さん。(「田中角栄」説は本当?-神楽坂「逆転式一方通行」誕生の経緯。市ケ谷経済新聞。2011年02月12日)

さわさ 下の地図では「化粧品さわさ」です。さわや
L・シャン・テ 下の地図では「ランジェリーシャンテ」と書いてあります。ランジェリーは「女性用の下着・肌着・部屋着」「装飾性がある高価な下着類」。「シャンテ」は「歌う」こと。L・シャン・テは左右のビルと後ろの数店舗と一緒になってマンション「ヴァンテ・アン神楽坂」に変わっています。
和加奈 「和風とんかつ和加奈」は、現在は中華の「味角苑」です。味角苑
神楽坂青年会の『神楽坂まっぷ』(1985年)です。美観街
 マダムらしい人に、私がガキのころ神楽坂に住んでいたことがあると告げると、神楽坂には古い店ものこっていてあまり変っていないでしょうと言われたが、戦前どころか震災前の神楽坂すら知っている私には、やはり変ったというおもいのほうが強い。殊に、坂下にも、坂上の以前の都電通り――現在の大久保通りのちかくにも「神楽坂通り=美観街」などという標識が立っているのには、どうしても違和感をおぼえさせられる。美観街などというのは文字面も悪いし、音もきたない。いっそミカンマチとでも読ませたらどうでしょうと、皮肉の一つも言いたくなるほどきたない。

現在の神楽坂通りの道幅は、歩道も合めて十ニメートル弱。これは神楽坂が最も繁栄した大正、昭和初期のころと変っていない。

 これは昭和五十一年八月十六日付「読売新聞」朝刊「都民版」の「ストリート・ストーリー」に掲載された『神楽坂』の一節である。なんのことはない、≪都内でも珍しい逆転式一方通行路≫の理由もその道幅のせいだし、戦前には歩道もなかったから両側に夜店が出たわけで、現状からは往年の神楽坂通りがかなり回想しづらくなっている。が、さいわい私は三、四年前に、昭和四十五年三月三十一日発行の新宿区立図書館資料室紀要『神楽坂界限の変遷』の附録として刊行された『神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形-』という、縦二十五センチ、横六十五センチ弱の横に長い地図の複写を荒正人から贈られて保存している。そのため、それをみると、いったんうしなわれた記憶が身うちから立ちのぼってくるのを感じる。

美観街 植村峻氏は『日本紙幣肖像の凹版彫刻者たち』(2010年)を書き、その中に加藤倉吉氏作の銅版画『神楽坂』を紹介しています。まるで写真と間違えてしましますが、一種の版画、神楽坂の銅版画なのです。ここで「神楽坂通り」からその下の「美観街」、さらにその下に4角の看板が付いています。この1番下の看板、夜になると、ネオンや発光ダイオード(赤色はできていました)が見えるのでしょうか? 加藤倉吉氏は印刷局に勤め、紙幣や切手を中心にした凹版彫刻者でした。詳細はここで。

銅版画の『神楽坂』

神楽坂通りの図 現在の神楽坂です。『神楽坂通り』「美観街」の看板がない点、街灯の形が違う点、ケヤキの街路樹が生えている点、電柱はなくなっている点などに違いがあります。神楽坂登り1神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形』は、新宿区立図書館資料室紀要『神楽坂界限の変遷』の附録として昭和45年(1970年)に刊行し、以来、このコピーは何度も何度も繰り返し、ここでも同様で、いろいろな本で再発行されています。たとえば新宿歴史博物館の『新宿区の民俗』(5)牛込地区篇(2001年、1500円)などです。

神楽坂|陶柿園、写真館、さわや

文学と神楽坂

 最初は陶柿園とうしえんです。陶磁器をおいています。昭和23年、開業しました。1階は手頃なもの、2階は高級品を選んでいるようです。陶磁器以外にガラス製品も売れています。場所はここ

 昭和31年、陶柿園に車が突っ込む交通事故が発生し、ここから逆転式一方通行になりました。

 この3階は「神楽坂写真館」、つまり「旧夏目写真館」で、場所はここ。やはり1世紀以上続く写真館です。昔、この写真館は反対側のここでした。もっと昔は陶柿園が現在いる場所にでています。

 つまり、坂上を上に見ると、最初は夏目写真館は右で、第2次世界大戦後では左に、そのあと、2011年、「ポルタ神楽坂」ができると、また右に移ります。

tousien

さわやは資生堂の一店舗として化粧品を置いています。しかし、創業はなんと大正2年。本来はかんざし、櫛、かもじを扱う店でした。場所はここ
さわや