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飯田橋と牛込区筑土方面遠望(写真)大正8年頃

文学と神楽坂

 この絵葉書は個人が所蔵するものですが、最初に雑誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」に出たときは低解像度で、もっと解像度が高くないと発表には向かないと思っていました。最近、石黒敬章氏の「明治・大正・昭和 東京写真大集成」(新潮社、2001年)を見ていると、初めて大きな写真を発見し、さらに「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)でも発見しました。
 まず何台かの電車が走っていますが、全て路面電車です。つまり道路上を走る市電や都電です。現在ではバスに代わり、なかには地下鉄に代わっています。JR(国鉄、省鉄)とは違います。路面電車の駅もバス停や地下鉄の駅に代わりました。

 林順信氏の「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)は

飯田橋の変則交差点 大正8年頃
 左に見える小さな鉄橋が飯田橋、右に見えるのは江戸川に架かる船河原橋である。江戸川がここで外濠に落ちるとき、どんどんという響きをたてていたので、通称「どんどん」と呼ばれていた。外濠に沿った左手を神楽かぐら河岸がしといい、目の前の町を揚屋あげやちょうという。諸国の物資を陸掲げした頃の名前である。船河原橋上を渡るのは、外濠線の環状線の➈番と新宿と万世橋とを結ぶ③番の電車、それと交差するのは、江東橋から江戸川橋に通う⑩番である。飯田橋は、昔から変則的五差路で交通の難所である。
飯田橋 東京都千代田区の地名
江戸川 ここでは神田川中流のこと。昭和40年以前に、文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を江戸川と呼んだ。
揚屋町 正しくは揚場あげば町です。
環状線の➈番 あっという間に市電の線路番号は変わります。これは大正4年に市電の系統でしょう。
万世橋 千代田区の神田川に架かる橋。秋葉原電気街の南端にある。
江東橋 墨田区の地名。墨田区で大横川に架かる橋
江戸川橋 目白通りにあって神田川を架かる橋。東京メトロ有楽町線江戸川橋駅前にある。

 五差路と視線の方向です。

牛込区の地形図。大正5年第一回修正測図。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』昭和57年)

 石黒敬章氏の「明治・大正・昭和 東京写真大集成」(新潮社、2001年)の説明は……

【飯田橋と牛込区筑土方面遠望】
現在は飯田橋交差点になり面影はない。左の鉄橋が飯田橋。右は船河原橋で、電車は新宿―万世橋間の③番と環状線の⑨番で、左の飯田橋を渡る電車は江東橋―江戸川橋間を走る⑩番だそうだ(『東京・市電と街並み』による)。⑩番の電車の奥の道は大久保通り。堀に沿って左に行けば市谷方面。現在も飯田橋交差点は変則的な五叉路で複雑である。

 最後は「かぐらむら」の文章です。「今月の特集 記憶の中の神楽坂」でおそらく2009年に出ています。

飯田橋界隈(大正時代/絵はがき、個人所蔵〉
複雑な地形で判り辛いが、左横の鉄橋が飯田橋である。市電外濠線が走っている。市電が停車している橋は、神田川に架かる船河原橋である。斜め上方に延びている道路は現在の大久保通りで、九段下から江戸川橋方面に行く市電が通っていた。通り沿い右奥の白い瀟洒な建物は、下宮比町1番地の吾妻医院という個人病院である。大正12年に売りに出されていたのを、関東大震災で九段下の至誠医院を失った吉岡弥生が購入し、至誠病院として多くの患者を集めたが、昭和20年4月14日空襲で全焼した。その後、東京厚生年金病院となり今日に至っている。
左上、ひときわ大きな灰色の屋根が、津久戸小学校である。この写真が撮られたのは(推測だが)自転車や人力車の様子から、大正の中期~後期ではないか。車両の前後がデッキ型の市電は、明治36年~44年に製造された。夏目漱石はじめ神楽坂を訪れた当時の文化人達が利用したのがこの車両である。1枚の絵はがきによって、古き飯田橋の「日常の一瞬」を垣間見ることができる。

吾妻医院 東京女子医科大学「東京女子医科大学80年史」(東京女子医科大学、昭和55年)では……

 吾妻病院は、大正5年(1916)まで順天堂の産科部長をしていた吾妻勝剛が、そこを辞めて、下宮比町に開業したとき建てた病院である。当代一流の産科医であった吾妻は最新の設備を備えた産科病院を建て、隆盛を極めたが、好事魔多しの譬えどおり大震災の日、熱海の患家で家の下敷となり、圧死したのであった。
 吾妻病院は火をかぶらなかったものの、地震で建物のあちこちが痛んでいた。しかし産科婦人科専門の弥生にとっては願ってもない病院であった。それを入手し、修理し、この年11月23日からここを第二東京至誠病院として再開した。この場所が牛込区下宮比町(現在の厚生年金病院の場所)であることからその後はここを学校のある“河田町”に対し“宮比町”と呼ぶのが内部での慣わしとなった。
 現在は名前は変わり、東京新宿メディカルセンターです。
吉岡弥生 医者。済生学舎(現日本医科大学)を卒業、東京で開業。明治33年(1900)東京女医学校(現在の東京女子医科大学)を創立。昭和27年、東京女子医科大学の学頭に就任。生年は明治4年3月10日(1871年4月29日)、没年は昭和34年5月22日。享年は満88歳
デッキ deck、vestibule(USA)。車内への出入口があり、客室との間に仕切戸が設けてある車端部の空間。鉄道車両で客室への出入口の部分。

「どんどん橋」は一般名詞? 固有名詞?

文学と神楽坂

 神楽坂に住む地元の人がこんな異議を送ってくれました。 神田川(昔の用法では江戸川)にある「どんどん橋」についてです。
 まずその内容です。
「どんどん」は2つ?
 こちらのサイトで、神田川の「どんどん」を知りました。ただ、どうにも分かりにくいところがあります。
 歌川広重団扇絵「どんどん」の記事には「船河原橋は『どんど橋』『どんどんノ橋』『船河原のどんどん』などと呼ばれていた」とあります。一方で団扇絵に描かれた「どんどん」については「牛込御門で、その向かいは神楽坂」と説明しています。
 別の記事の船河原橋と蚊屋が淵では「船河原橋は(中略)俗にドンド橋或は單にドンドンともいふ。」
 牛込橋では「この『どんどん』と呼ぶ牛込御門下の堰」と書かれています。
 同じものかと錯覚してしまうのですが、牛込御門のある牛込橋と、船河原橋は別の橋です。
 おかしいなと思って改めて地図(明治20年 東京実測図)を見たら、船河原橋のすぐ下に堰と思われるものが書かれています。

 つまり「船河原のどんどん」と、広重団扇絵の「どんどん」は別モノなんですね。
「どんどん」と呼ばれるものが2つあったのでしょうか。それとも何かの間違いでしょうか。

 まず「どんどん橋」を考えてみます。辞書を見ると「踏むとどんどんと音のする木造の太鼓橋(反り橋、全体が弓なりに造ってある橋)」。また「どんどん」は「物を続けざまに強く打ったり大きく鳴らしたりする音を表す」ことだといいます。なるほど、太鼓橋だったんだ。つまり、これは固有名詞ではなく、あくまでも一般名詞なのです。そして、船河原橋でも、牛込橋でも、一般名詞の「太鼓橋」や「どんどん橋」と呼んでもいいのです。
 赤坂の溜池では堰をつくって、やはり「赤坂のどんどん」と呼ばれていたようです。この「どんどん」は「どんどんと音のする橋」なのでしょう。

「溜池葵坂 溜池は、江戸時代初期に広島藩主浅野幸長が赤坂見附御門とともに築造した江戸城外堀を兼ねる上水源で、虎ノ門から赤坂見附まで南北に長さおよそ1,400m、幅45~190mの規模を持つダムである。写真はその南端部の堰の部分で、堅牢な石垣の間から滝のように流れ出ている水が溜池の水である。どうどうと流れ落ちる水量の多さから、その落とし口は「赤坂のどんどん」と呼ばれ、江戸の名所の一つとして錦絵にも数多く描かれている。葵坂は写真左手を緩やかに登る坂で、高い樹本のあたりが坂の頂上となる。溜池は明治10年(1877)にこの堰の石を60cmほど取り除いたところ、瞬く間に干上がってしまったという.またこの付近は大正から昭和にかけての大幅な道路改正が行われ、葵坂は削平され、溜池も埋め立てられて外堀通りとなった」マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)

 御府内備考(府内備考の完成は1829年)の「揚場町」には船河原橋、つまり「どんどん橋」がありました。


 右は町内東北の方御武家方脇小石川邊えの往來江戸川落口に掛有之船河原橋と相唱候譯旦里俗どん/\橋と相唱候得共

マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)。

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「5000分1東京図測量原図」(複製。日本地図センター、2011年)

 解説とは違い、中景に船河原橋が見え、遠くに隆慶橋が見えています。
 町方書上(書上の完成は1825-28年)の「揚場町」も同じです。

船河原橋之義町内東北之方御武家方脇小石川辺之往來、江戸川落口掛有之、船河原橋相唱候訳、且里俗どんどん橋相唱候得共
 なお、御府内備考の牛込御門の外にある「牛込橋」では「どんどん橋」だと書いてはありません。おそらく時間が経ち「どんどん橋」から、普通の橋になったのでしょう。御府内備考の「牛込御門」は……
    牛込御門
【正保御國繪図】には牛込口と記す。【蜂須賀系譜】に阿波守忠英寛永十三年命をうけ、牛込御門石垣升形を作るとあり。此時始て建られしならん。【新見某が隨筆】に昔は牛込の御堀なくして、四番町にて長坂血槍・須田久左衛門の並の屋敷を番町方といひ、牛込方は小栗牛左衛門・間富七郎兵衛・都筑叉右衛門などの並びを牛込方といふ。其間道はゞ百間にあまりしゆへ。牛込と番町の間ことの外廣く、草茂りしと也。其後牛込市谷の御門は出来たりと云々。

マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)

 上図は牛込揚場跡で、門は牛込見附門です(鹿鳴館秘蔵写真帖。明治元年)。写真を見ると橋の手前が遊水池になっています。牛込門の船溜と呼びました。
 さて、この「どんどんノ図」はどちらなのでしょうか。牛込揚場町にある茗荷屋は右岸にあり、この位置から、おそらく、牛込橋だろうと思っています。