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横寺町|アルバム 東京文學散歩

文学と神楽坂

野田宇太郎 野田宇太郎氏が描く「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)の「横寺町」です。氏は昭和時代の詩人で文芸評論家。第一早稲田高等学院英文科中退。詩作を開始。新聞記者を経て、昭和15年、小山書店に入社。第一書房に続き、河出書房では「文芸」の編集に。昭和26年、日本読書新聞に『新東京文学散歩』を連載し、ベストセラーに。

 今から二十年にも近い昔のことであるが、九州から文学を志して上京したほんの青年になつたばかりの私は牛込の横寺町に下宿暮しをしてゐたことがあつた。その頃の横寺町は賑やかな神楽坂から肴町通寺町にそのまま続いて、まだ賑ひの絶えないやうな一筋の町であつた。
 その頃の記憶として今もありありと眼に浮ぶのは先づ町の途中の官許にごりの大看板もなつかしい縄暖簾飯塚酒場である。と云つても私は全くの下戸で、少しでも酒を飲むとすぐに心悸が乱れるやつかいな病気があつて定連と云ふわけではなかつたが、一杯十銭? の安酒と五銭の湯豆腐か何かにあこがれてそこに通ふ友人に誘はれては恐る恐る中にはいつたものである。冬でも浴衣の極貧書生や絵描きの玉子と云つた哀しい連中も、そこでは王者のやうな怪気焔をあげ、どぶろくの臭ひや煮物の湯気の立ちこめる酒場の中は妙に私の感傷をそそつたのである。今にして思ふと、あの酒のみの和製ベルレエヌのやうな熱血薄倖の詩人児玉花外翁などもその中の王者然と鎮座してゐたのであらう。
 その隣りの奥まつた所に、幽霊アパートの異名をもつた小林と云ふ、名ばかりの見るからに不潔で今にも毀れさうに軒を傾けたかなり大きなアパートがあつたが、或日それがかつての島村抱月松井須磨子芸術惧楽部のなれのはてで、ここで抱月が大正七年十一月に急性肺炎で死に二ヶ月日の命日に須磨子が抱月の後を追つて自殺した因縁深い家だと知り、一二度そこをのぞきに行つたりした。極貧画家がそこにゐて須磨子の幽霊を天井か何処かに落書さしてゐると云ふことだつた。
肴町 現在の神楽坂5丁目
通寺町 現在の神楽坂6丁目
官許 政府から民間の団体や個人に与える許可
にごり 白く濁っている酒。どぶろくと同じことが多い。「官許にごり」を看板にして稼ぎまくったどぶろく酒場が多いという。
縄暖簾 なわのれん。多くの縄を結びたらしてつくったのれん。店先にのれんがかかっているから、居酒屋、めしなど
定連 興行場、酒場などでいつも来るなじみの客。常客。
玉子 修業中の人
ベルレエヌ ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)。1844〜96。フランス象徴主義の代表的詩人。天才少年詩人ランボーを熱愛し、2人でイギリス・ベルギーを放浪するが口論となり発砲し、外傷を負わせる。酒・女が好きで、堕落放浪の日々を送ったが、すぐれた叙情詩を残した。

(2)現在の飯塚酒店前付近

(2)は昭和28年頃、朝日坂の途中から神楽坂通りの方を見下ろしたもの。坂は舗装されていません。見えている店先の看板は「マルキン」の上にで、これは「マルキン醤油」。さらに塩、酒焼酎、飯塚本店で、2棟とも同じ酒店と思われます。その先の角の「野口商会」の看板は、道を入った奥の不動産の会社(最下図)。

(3)芸術倶楽部の跡

(3)は「芸術倶楽部館|神楽坂」と最下図を参照。

 又、横寺町には何よりも尾崎紅葉が永年住みついて明治三十六年十月三十日に死ぬまでゐたと云ふ家も下宿の近くにあると聞いてゐたが、そこには遂にゆく機会もなく私は横寺町から飯田町へと下宿を移らねばならなかつた。
 戦後になつて私が横寺町に行つたのは先づ四十七番地の紅葉の所謂「十千とちまん」跡を調べることからであつたが、すつかり酷く戦火の犠牲となつた横寺町に、なつかしい想ひ出を豊かに抱いてゐた私にとつて全く悪夢のやうな場所であつた。やうやく紅葉に家を貸してゐたと云ふ家主の小さな家を見つけ出したが、そこが十千万堂の跡でもあつた。鏡花秋声風葉春葉などの紅葉門下の四天王と謳はれた作家たちの勉学のあとなど偲ぶよすがとてなく、ただ私の自由な幻想だけが、荒れはてた焼土の上をかけめぐつた。そして芸術倶楽部の跡に立つと、再び私は呆然とたたずむより外はなかつた。ただ赤く焼けた瓦礫だけがその場所と覚しい所に散乱して、僅かに昔の敷地の周囲をおぱろげにみせてゐるだけであつた。「カチューシヤの唄」の哀調が故もなく私の心の奥からシャボン玉のやうに浮びあがつて、ぽつんと消えた。
 飯塚酒場は然し何処かに昔の形をとどめて、ただわびしげなバラック風の洒店として昔の場所に建つてゐた。もう私の夢は現実の陽照りにからからに乾いて、何もそこに思ひ描くことさへ出来なかつた。
飯田町 旧東京府麹町区飯田町。九段や飯田橋など。
十千万堂 「十千万堂」は尾崎紅葉の雅号、また東京府牛込横寺町(新宿区横寺町)の紅葉の住居
カチューシヤの唄 トルストイの小説『復活』主人公の女性の名前。芸術座の第3回目の公演である『復活』の劇中歌。主演女優の松井須磨子が歌唱し、作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平。「カチューシャかわいや わかれのつらさ」で始まる。


(1)十千万堂(尾崎紅葉)邸跡、前方樹木の茂る向うは箪笥町。その崖下に紅葉の文学塾があった

(1)は、昭和28年頃で、十千万堂は戦災で焼失し、その後に木造平屋が立ち始めています。下の図は最近の同じ場所。十千万堂跡は庭木が茂っていて、中が見えません。

 それても私は必要があつて其後幾度も横寺町を訪れた。その町の名の出所と思はれる寺院もすべて焼けはてて、古い墓石だけが通りからあらはに見えたが、私の下宿の場所はつひに思ひ出せなかつた。さうした焼土の中にも次々に新しい家が建ちはじめ、十千万堂あとは地元の新宿区の史跡となつて片づけられ、芸術倶楽部の跡には、新しい住宅がどしどし出来てしまつた。然し飯塚はにごりの官許がとれないとかで、さみしげに酒店を開いてゐるばかりであつた。
 そこから歩いても大して遠くない牛込弁天町多聞院にある須磨子の墓へも、横寺町に行つたついでに私は詣でた。さみしい焼け寺の墓地のさみしい墓だつた。その前の抱月須磨子の慰霊のための芸術比翼塚も、何だかわびしいばかりで、そぞろに恋の哀れが感じられた。
多聞院 真言宗豊山派に属する照臨山吉祥寺多聞院。
比翼塚 ひよくづか。愛し合って死んだ男女、心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚。
そぞろに これといった理由・目的はないが。わけもなく。なんとなく。

(4)松井須磨子の墓(多聞院)(5)多聞院内の芸術比翼塚

1960年 住宅地図