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神楽坂1丁目(写真)平成31年 ID 14049

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14049は、平成31年(2019)1月、牛込橋から神楽坂通りをのぞんで、写真を撮ったものです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14049 牛込橋から神楽坂通りをのぞむ

 四つ角は神楽坂下交差点、左右の道路は外堀通り、前後の道路は神楽坂通りです。歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗り、意味は「駐車禁止」
 左右の歩道の縁石側に、神楽坂通りと同じ上を向いて逆正4角錐の街灯(アイ ツインアークが光源)があります。ここはちょうど千代田区との区境で、手前右上の下向きの正六角体の街灯は千代田区側でしょう。左側にある2個の緑色の小型ボックスは無電柱と地下の共同溝に伴ってできたものです。左右に背の低いお花畑があり、歩道はインターロッキングという小型ブロックでした。

神楽坂1丁目(平成31年)
  1. ニューハウス(不動産会社)か?
  2. 神楽坂バル Lasana
  3. ▶街灯に旗「神楽坂」
  4. 名代 富士そば。のぼり旗「生蕎麦」
  5. (カナルカフェ)
  6. (歩行者横断禁止)
  7. 最高速度30km (駐車禁止)
  8. 外堀通り
  9. ▶「神楽坂下」交差点。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  10. (STARBUCKS COFFEEのトレードマーク)(喫茶店)
  11. エイブル(不動産会社)
  12. 屋上広告「(インター)ネット (まん)が喫茶」(向かいのカグラヒルズに入居)「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」(会田ビル)(翁庵=そば屋)
  13. 駅前留学 NOVA 子ども駅前留学 NOVA KIDS(三経 第22ビル)
  14. (志満)金(うなぎ店)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗から広告に

  1. 千代田区の街灯
  2. 神楽坂の絵
  3. ▶街灯に旗「神楽坂」
  4. ▶消火栓
  5. アパマンショップ(不動産仲介業)
  6. その右に「りそな銀行」、さらに「リアット」(靴修理)
  7. (一方通行)「自転車を除く 0-12」。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」(一方通行入口)「12-24」
  8. のレン(生活用品店)
  9. 「ドトールコーヒー」「 ホットヨガ/カルド神楽坂」 ONE DX BOCX
  10. 右に「神楽坂 あんみつ」「紀の善」
  11. カグラヒルズ デジタルサイネージ「盾の勇者の成り上がり シリーズ〇〇1~20巻 絶賛発売中 ファンタシー 2019年1月〇日よりTV アニメ放映」「カラオケの鉄人 11:00~AM/6:00」「インターネット まんが 喫茶 自遊(空間)」「マツモトキヨシ」(薬屋)「ミライザカ」(唐揚)

善國寺(写真)昭和54年 ID 11865

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11865は、昭和54年1月、毘沙門天善國寺を撮ったものです。これは[A]とします。

[A]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11865 善国寺

 同じく昭和54年1月に善國寺を撮ったもの[B]があり、それが下のID 11830です。2つとも昭和54年1月の撮影ですが、いくつか違いがあります。

[B]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

 また、ID 9909は昭和50~51年に撮ったもので、これを[C]として3つを比較します。

[C]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9909 善国寺

 立て看板[A]は「歳旦祝祷祈願会」、[B]は「歳旦初寅祈願会」です。
 歳旦さいたんの「歳」は地球が太陽を一周する時間で1年間、「旦」は朝になり、つまり「元日の朝」。
 祝祷しゅくとうとは宗教行事の終りに会衆や人物に祝福を求める祈り。初寅はつとらとは新年になって最初の寅の日、あるいは、その日に毘沙門天へ参詣すること。祈願きがんとは神仏などに祈り願うこと。
「毘沙門天は寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻にこの世にお出ましになったことから、寅毘沙と呼ばれる」(善国寺公式サイト)とされ、寅の日を大事にしました。
 昭和54年(1979年)の初寅は1/11(木)でした。[B]は11日以前、[A]はそれ以降の撮影と想像できます。
[A]と[C]には、のぼり旗「奉献開運大毘沙門天」があがっています。添え書きとして[A]は「神楽坂興隆会」、[C]は「神楽坂」しか見えませんが同じものでしょう。「神楽坂興隆会」は地元の方によると「善国寺の応援を主目的にした地元の団体。後に、この団体が中心になって現在の赤い山門を寄進した」とのこと。確かに今の山門には「神楽坂興隆会」の銘板があります。

神楽坂興隆会

[B]にのぼり旗がないのは正月休み中の撮影だったからかも知れません。
[A][B]とも賽銭箱には「志納」とあります。志納しのう金とは信仰心から社寺に納める金、または拝観料です。
[A]は階段脇に一対の提灯があって、「毘沙 善國寺」と書かれています。本堂の長押なげしの中央は正月飾りがあります。その奥の内陣には山号の「鎮護山」。ガラスケースに入っているのは、日蓮宗の祭礼で使うまといでしょうか。ガラスケースの前にも賽銭箱があり、「浄心」と筆書で書かれているようです。

善國寺(写真)昭和50~51年頃 ID 9909-9911

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9909-9911は、昭和50~51年頃、毘沙門天善國寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9909 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9910 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9911 善国寺

「昭和20年の東京大空襲は、首都を火の海と化し、当山も灰燼に帰するところとなった。 しかし、同26年には毘沙門堂を再建、46年には地元各位を始め、有縁の方々のご賛助により、威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成し、戦災後の復興が果たされたのである」と善國寺
 戦後の最初の再建は仮堂扱いで毘沙門堂と称し、本格的な再建で本堂が出来たと考えているようです。善国寺は江戸期から「神楽坂の毘沙門様」として知られており、「毘沙門堂」とした方が一般に理解されやすい面もあるでしょう。どちらにせよに本尊は毘沙門天像です。
 1代昔の毘沙門堂は木造でしたが、現在の本堂はコンクリート造です。規模は大きくなり、本尊を安置する内陣は2階になりました。1階は「毘沙門ホール」として会合やイベントに使われます。

毘沙門堂 毘沙門天(多聞天)をまつる堂
本堂 寺院で本尊仏を安置する建物
内陣 本尊仏を安置してある中央部

 本堂の再建と同時期に、境内を囲んでいた石囲いも一新されました。それまでは戦前のもので、1本ずつ寄進者の名が刻まれていました。新しい石囲いは写真でも分かるように、何も刻んでいません。
 境内の本堂前に円盤形の灯りが2灯あります。この時期の神楽坂通りの街灯ととそっくりですが、下部の「神楽坂通り」の四角い照明はありません。ID 8271-8272の建て替え前の境内では、通りの街灯が円盤形になっているのに、本堂前の左右には古い街灯と同じ鈴蘭灯があります。この鈴蘭灯を新しくしたもののようです。現在の境内の灯りは街灯とは違う形になっています。
 ID 9909とID 9911では道路標識の「12-24 駐車禁止」と「歩行者横断禁止」が見えます。これには神楽坂の逆転式一方通行が関係していると思われます。坂下から坂上に向かう12-24は善国寺のある左側に駐車禁止の標識で、0-12は逆側に標識がないといけません。田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-02(1984年10月02日)で、反対側の楽山前にある駐車禁止標識が確認できます。
 写真を見ると、のぼり旗「奉献開運大毘沙門 神楽坂」は2つ立っています。さらに「本日 開店 麻雀」もでています。「神楽坂通り」の下には数本の木と竹や笹に似せた人工葉があります。
 ID 9910とID 9911では正門に「神楽坂」と「毘沙門天」、のぼり旗の向こうに石虎が見え、さらに右側に藤棚も見えます。ID 9910のさらに右側に石造りの灯籠(石灯籠)がありますが、現在はなくなっています。
 ID 9911の左側はキリンビールやサッポロビールを積んだトラック、次に電柱広告で「割烹〇〇」「自慢のうぐいす巻 八千代鮨」と読めます。八千代鮨は本多横丁の老舗です。 その奥の「営業所 (竹)谷電気工事 260-682X」は毘沙門天境内にあった仮店舗でしょう。ガラス戸の中には人影も見えます。竹谷電気は神楽坂3丁目にあり、ID 8805-8806(昭和48年)では2階建ての店舗、ID 88(昭和54年)ではビルになっています。現在はファミリーマートやロイヤルホストの入ったビルの一部です。

神楽坂5丁目(写真)昭和28年以降 ID 9507

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9507は、昭和28年(1953年)以降の神楽坂4~5丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9507 神楽坂 角松

 歩道はコンクリートブロックで3列。中央に雨水を流すへこみがあり、側溝はなかったようです。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯です。
 紅白幕とのぼり旗「全店 大売出し」、松のような飾りがあり、ID 9495と同時期の撮影でしょう。人々は長袖で、冬服を着ています。正月に門松1対があることから、年末セールの時期と推測できます。

神楽坂4、5丁目(昭和28年以降)
  1. 尾澤薬(局)
  2. 紅白幕
  3. マケヌ屋洋品店(ID 6340参照)
  1. 門松(五十鈴?)
  2. 紅白幕

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂3丁目(写真)昭和28年 ID 9504-9505

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9504~9505は、昭和28年以降の神楽坂3丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9504 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9505 神楽坂

 車道は凹凸が目立ち始め、将来できるOリングはまだありません。歩道は正方形コンクリートの数列と縁石からつくられて、車道と縁石の段差はほとんどないようです。下水は縁石の側にはないと思います。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯で、向かって左側は歩道の端の縁石近くに、右側は逆に建屋の近くに立っています。右端に完成寸前の建物があります。見番横丁の角で、後に「レストラン花菱」として開業します。昭和28年(1953年)撮影のID 99では看板が出ているので、この写真はその少し前の撮影と思われます。
 ID 9505で右側の白い上下の女性は半袖ですが、他は長袖で、しかしコートを羽織るほどの寒さではありません。

神楽坂3丁目(昭和28年以降)
  1. のぼり旗「うし込神楽坂 呉服/〇 丸富呉服店」
  2. .店の前に土盛りと植木のような植物(菱屋)二階建て
  3. 吊り広告「鮨」(万平)平屋
  4. ピアノ。広告「ピアノ。オルガン」(福島ピアノ)二階建て
  5. 電柱広告「龍公亭」
  6. マツダ眞空管。Toshibaの丸い看板(竹谷電気工事)平屋
  7. パーマネント(マーサ美容室)二階建て
  8. 神楽坂仲通り
  9. 電柱看板「旅館 碧運」
  1. 建築中(後のレイトラン花菱)
  2. (わずかに見える岡田印房)
  3. 助六 二階建て
  4. 龍公亭 平屋
  5. (ビデパーマ)
  6. (山本薬局)
  7. (空地または建築中)
  8. 神楽坂仲坂
  9. せともの。太陽堂
  10. 牛豚肉(ますだ肉店
  11. 電柱看板。床屋のサインポール(管理髪館)

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂1丁目(写真)昭和5年頃 ID 9378

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9378は、昭和5年頃「牛込見附(現在は神楽坂下)」交差点近くから神楽坂1丁目などをねらい、また、この写真は東京市牛込区役所蔵版「牛込区史」(昭和5年3月31日、590-1頁)に出ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9378 神楽坂

 写真のキャプションでは……

  神樂坂の今昔 現在
 近時矢來より牛込見附の處、道路整備し就中見附より肴町に至るあたり、獨り毘沙門の縁日と云はず四時散策の人が絶へない。兩側店舗の家並みは落付きを見せ、そこに一鮎の情味さへ漂はせ神樂坂特有の氣分のみなぎつてゐる處、山の手方面には他にその類例がない。

牛込見附 これは「牛込見附」(現在の神楽坂下)交差点。
就中 なかんずく。その中でも。とりわけ。
肴町 現在の神楽坂5丁目

 紅白テープで巻かれた柱が坂下から坂上まで覆い、これは昭和10年に撮られた別の写真でも見られます。また、右2本目の柱に道路を照らす電灯もあると思います。「神楽坂通 善國寺」とも無理して読めるのぼり旗も沢山でています。
 電柱(電信電話柱)1本に数十本の架線がでています。多重通信はまだなく、1回線で電線1つが必要だったからです。
 前面に路面電車が走り、さらに左側には電力を供給する架線柱が見え、下を向いておそらく電灯が2つです。
 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』「神楽坂と縁日市」(平成9年)によれば、昭和5年、交差点「牛込見附」から上に向かって右手は「赤井足袋店、田中謄写堂、萩原傘店、山田屋文具、斉藤洋品店、みどりや、紀の善寿司」、左手は「寿徳庵菓子、畔柳氷店、伊勢屋乾物、翁庵そば、須田町食堂、東京堂洋品、陶仙亭中華」があったといいます。はっきり分かるのは右の角の赤井足袋店(足袋形の白地看板)、左の角の寿徳庵菓子(「大福」の看板)だけです。
 電柱の間から見える「名〇」の看板はID 7641と比べると赤井の隣と思われます。また寿徳庵の左には「古老の記憶」「私のなかの東京|野口冨士男」などによれば「娘義太夫の定席『琴富貴』」があったとありますが、残念ながら分かりません。寿徳庵前の電柱には「西條医院」(若宮町)と別の病院の広告が見えます。
 また右側の坂の中腹、ひときわ大きい入母屋屋根の3階建ては「場所的に佐和屋ではないか」と地元の人。

神楽坂1丁目(昭和5年頃)
  1. 電柱看板「西條醫院」「醫院」
  2. 寿徳庵(大きな看板「大福」)
  1. 赤井足袋店。足袋形の白地看板と看板「名」

神楽坂1丁目(写真)昭和63年 ID 97と98

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 97は、昭和63年(1988年)に牛込橋方面から神楽坂下交差点を通り、神楽坂1丁目などを、ID 98は神楽坂1丁目から坂上に向かって撮ったものです。おそらく同時に撮影したのでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 97 神楽坂入口付近から坂上方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 98 神楽坂入口付近から坂上方向

 街灯は一本に2個の6角形のランタン型で、道路側の灯りは下から上に付き、歩道側は上から下です。交差点は「牛込見附」から「神楽坂下」と名前が変わりました。なお坂上の交差点は「神楽坂」だったものから「神楽坂上」に変更しています。
 商店街の名前を示す大きな「神楽坂/美観街」の標識ポールもなくなり、新しい標識ポールができました。向かって右が「神楽坂」、左が「かぐら坂」です。またID 98では右のポールの下に小さな「かぐら坂」もあります。
 さらに下には木製の「神楽坂」があり、区が神楽坂について簡単な由来をかいたものです。
 上向きの矢印の道路標識はロール式の標識で、坂下から坂上までの一方通行を示し、時間によって車両進入禁止の表示と入れ替わります。

神楽坂1丁目(昭和63年)
  1. 電柱看板の「質 大久保
  2. のぼり旗の「360円」。おそらく看板の「ハンバーガー」。マクドナルドがすでに出店
  3. 道路標識「駐車禁止 」「30」
  4. 外堀通り
  5. 電柱看板「八千代鮨」(本多横丁に)
  6. ニューバリー(パチンコ)本日開店
  7. ゲーム
  8. 清水衣装店
  9. きそば 神楽坂 翁庵は「楚」のくずしかな、は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。BF、リーチ ふじ 麻雀 3F、公共施設研究所 4F、岩井物産(株)5F。(高い位置の看板)翁(庵)。
  10. (同じく高い位置で黒地の白文字)ローンズ日立
  11. 「エ」だけが見える
  12. (高い位置の看板)(志)満金
  1. AKA(I)
  2. ヒグチトラベル、薬 ヒグチ
  3. 看板「紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店
  4. 消火栓標識と消火栓広告「質 大久保
  5. 地下鉄 飯田橋
  6. 不二家
  7. WAD(AYA)(メンズウェア)
  8. 屋上看板「興銀のワリ(コー) 丸和証(券)」。壁面看板「英(会話)。各階 名店ぞろいの! カグラヒルズへどうぞ」。突き出し看板「明光証券。磯忠 麦酒倉。GAME。ECC 、丸和証(券)」
  9. (のぼり旗)神楽坂歳末ドリームセール。年末に近い時期の撮影か?
  10. 丸和証券、珈琲 専門店 マイアミ、GAME、ウェンティーズ。
  11. パチンコ

神楽坂2丁目(写真)昭和27年頃 ID 29とID 5081

文学と神楽坂

 昭和27年頃に撮った新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で2枚の写真です。1つは新宿歴史博物館 ID 29で、解像度は921 x 733ピクセルです。

新宿歴史博物館 ID 29 神楽坂途中、2丁目付近

 これは次のような私の説明があります。

神楽坂2丁目(写真)昭和27年頃 ID 29
 最左端は「生花や」で、田口屋生花店です。隣には鰻の「志満金」、尾崎屋(靴店)、田金果物店、八食品、大島糸店と続きます。のぼり旗は「歳末大売り出し」で、良く見るとID 28でも確認できます。

 次は新宿歴史博物館 ID 5081です。本体の解像度は3286 x 2480ピクセルでしたが、私のWordPressでは最大の解像度は2560ピクセルだけです。

新宿歴史博物館 ID 5081

 これも新宿歴史博物館に次の説明があります。

昭和(戦後) / 昭和27年(1952)頃 創業明治2年(1869)の老舗うなぎ屋志満金の前。

 さて同じ新宿歴史博物館で、どうして解像度がこれほど違うのか、おそらく…と考える前に…
 もう一度、ID 5081を説明しましょう。左端は「花 田口屋」です。夜に光るネオンがあり、ID 29でも分かりにくいけれど、よく見るとあります。
 次が「志満金」。左側には「北京料理」があります。看板は「銘酒 白鷹 料理 志満金」「蒲焼」の2つ。街灯のポールには「コーヒー 〇 フジヤ」と書いてあります。
 次は尾崎屋で、靴屋です。靴の絵と「ライ  ム」があります、「アポロ〇〇〇」もあります。ここにも長靴のネオンがあります。
 次は名前がない2店舗で、都市製図社の火災保険特殊地図(昭和27年)によれば田金器物、八食品で、人文社の「日本分県地図地名総覧」(昭和35年)では「果実 田金」「食品 丸八」です。旗は「歳末大売り出し」ではなく、「全店 大売出し」でした。
 次は大島糸店。看板は「毛糸ボタン 洋裁〇〇〇」。電柱看板の「質 買入 大久保」があります。
 続いて「神楽 菓子」と「〇遠家具」と「夏目写真館」が続き、口中清涼剤「仁丹」は「神楽坂薬局」があるためでしょう。
 さらに電柱看板の「三池旅館」、増田屋の「牛豚肉」、「太陽堂」「セトモノ」の瀬戸物屋。
 最も遠い「千代田銀行」は、三菱銀行です(⇒)。ウィキペディアでは1948年(昭和23年)から 1953年(昭和28年)まで、「株式会社千代田銀行」と改称したといいます。今もほぼ同じ場所に三菱UFJ銀行があります。
 解像度の違いについて、地元の方は「連続して撮影したものと見ていいと思います。
 なぜ、かくも解像度が違うのか。ID 29は保存したプリントからスキャンした。ID 5081はネガが残っていた。その差でしょう。両者に決定的な違いはないと思います」といい、これには大賛成です。でもID 29のネガも残っているのではと思います。

都市製図社「火災保険特殊地図」昭和27年

神楽坂2丁目(写真)昭和27年頃 ID 28-30

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 28からID 30を見ていきましょう。今日は晴れ。長袖の人が多く、夏以外の季節。撮影の方向は、ID 28からID 29は坂上を、ID 30は坂下を見ています。簡素でまん丸の街灯は電笠もなく、これは昭和28(1953)年以前にあたります。昭和28年、新宿歴史博物館 ID 21には鈴蘭灯がありました。また歩道はどぶ板しかなく、平気で道を歩いています。

新宿歴史博物館 ID 28 神楽坂途中、2丁目付近

 メトロ映画では「情無用の街」という洋画をやっていました。日本の初演では1952(昭和27年)1月19日でした。理髪バンコク館があり、電柱看板「旅館 碧逢」があります。小栗横丁への入口の左側から日光がさしています。中央に横書きで「ニュー」がありますが「ニューイトウ」です。

1952年、火災保険特殊地図

新宿歴史博物館 ID 29 神楽坂途中、2丁目付近

 最左端は「生花や」で、田口屋生花店です。隣には鰻の「志満金」、尾崎屋(靴店)、田金果物店、八食品、大島糸店と続きます。のぼり旗は「歳末大売り出し」で、良く見るとID 28でも確認できます。
 郷土出版社の「新宿区の100年」(2015年)では……

神楽坂、志満金前(昭和20年代後半)
現・神楽坂2丁目。手前が鰻料理の老舗として名高い「志満金」。大売出しの日、各店の人たちが勢ぞろいした一コマ。神楽坂界隈は戦災でほぼ全焼に近い打撃を受けたが、戦前からの馴染み客たちの後援もあって、早くから復興した。志満金は現在もグルメスポットの一店である。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 30 神楽坂途中から坂下方向

 マーサー美容院の巨大な看板「パーマネント」があり、すぐ下には将来の「神楽坂仲通り」があります。右側にも隙間があり、これは「神楽坂仲坂」です。すぐ下には大きな壁面看板があり、太陽堂です。横断幕「火」も出ていますが。「火の用心」でしょう。地元の方は「新宿歴史博物館 ID 28-29には横断幕はなく、逆にID 30には『歳末大売り出し』が見えない。電柱の電線の数(横木の数)はID 30の方が少ない。よってID 30の方が古い写真と思われます」といいます。
 地元の方は「①は戦前からあった「大松閣」で、神前式結婚式を創始した東京大神宮の結婚式場だった。今は式場は隣接施設に移り、「大松閣」跡は貸しビルになっている。②は国鉄飯田橋駅西口駅舎。③は東京ルーテルセンター教会の塔。塔の左側(背後)は暁星学園か、母体の修道院(いずれも千代田区富士見)。④はメトロ映画。⑤はニューイトウ(後に靴店)。⑥はその隣で陶柿苑。写真に写っているような下りの車が誤って突っ込んだわけです。⑦は「喫茶 七福」。良く見ると下の看板にもコーヒーカップの絵が見えます」

新宿歴史博物館 ID 30

 地元の人は「謎が、ようやく解けました。角に『七福』はあったんです。仲通の角が少しへこんでいて(正確には、建物の中に三和土のような場所があり)マーサと七福は入り口を共有していたと思われます。解説図を添付しました。新宿歴史博物館 ID 8 ID 10では七福はなくなっていますが、マーサの入り口が凹んでいるのが分かります」
 しかし、私にとっては「パーマネント」の「ト」の下にマーサー美容院の入口があるとも思えています。

住宅地図。人文社。1962年 喫茶 七福

住宅地図。住宅協会地図部