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むらさき鯉|半七捕物帳

文学と神楽坂

 岡本綺堂氏の「半七捕物帳」の「むらさき鯉」の出だしの文章です。この小説が実際に起こったとすると文久3年(1863年)ですが、では綺堂氏はいつ書いたのか、これがわかりません。大正5年、年齢は44歳から半七捕物帳を書き始め、大正14年に前半5巻の47篇を書き終わり、その後、昭和9年から11年までに、後半23篇を書いています。多くの場合、その初出の年月は不明です。

        一
「むかし者のお話はとかく前置が長いので、今の若い方たちには小焦こじれったいかも知れませんが、話す方の身になると、やはり詳しく説明してかからないと何だか自分の気が済まないと云うわけですから、何も因果、まあ我慢してお聴きください」
 半七老人は例の調子で笑いながら話し出した。それは明治三十一年の十月、秋の雨が昼間からさびしく降りつづいて、かつてこの老人から聴かされた『津の国屋』の怪談が思い出されるような宵のことであった。(中略)
「そこで、このお話の舞台は江戸川です。遠い葛飾かつしか江戸川じゃあない、江戸の小石川牛込のあいだを流れている江戸川で……。このごろはどてに桜を植え付けて、行灯をかけたり、雪洞ぼんぼりをつけたりして、新小金井などという一つの名所になってしまいました。わたくしも今年の春はじめて、その夜桜を見物に行きましたが、川には船が出る、岸には大勢の人が押し合って歩いている。なるほど賑やかいので驚きました。しかし江戸時代には、あの辺はみな武家屋敷で、夜桜どころの話じゃあない、日が落ちると女一人などでは通れないくらいに寂しい所でした。それに昔はあの川が今よりもずっと深かった。というのは、船河原橋の下でき止めてあったからです。なぜ堰き止めたかというと、むかしは御留川おとめがわとなっていて、ここでは殺生せっしょう禁断、網を入れることも釣りをすることもできないので、鯉のたぐいがたくさんに棲んでいる。その魚類を保護するために水をたくわえてあったのです。勿論、すっかり堰いてしまっては、上から落ちて来る水が両方の岸へ溢れ出しますから、せきは低く出来ていて、水はそれを越して神田川へ落ち込むようになっているが、なにしろあれだけの長い川が一旦ここで堰かれて落ちるのですから、水の音は夜も昼もはげしいので、あの辺を俗にどんどんと云っていました。水の音がどんどんと響くからどんどんというので、江戸の絵図には船河原橋と書かずにどんど橋と書いてあるのもある位です。今でもそうですが、むかしは猶さら流れが急で、どんどんのあたりを蚊帳かやふちとも云いました。いつの頃か知りませんが、ある家の嫁さんが堤を降りて蚊帳を洗っていると、急流にその蚊帳をさらって行かれるはずみに、嫁も一緒にころげ落ちて、蚊帳にまき込まれて死んでしまったというので、そのあたりを蚊帳ヶ淵と云って恐れていたんです」
「そんなことは知りませんが、わたし達が子どもの時分にもまだあの辺をどんどんと云っていて、山の手の者はよく釣りに行ったものです。しかし滅多めったに鯉なんぞは釣れませんでした」
「そりゃあ失礼ながら、あなたが下手だからでしょう」と、老人はまた笑った。「近年まではなかなか大きいのが釣れましたよ。まして江戸時代は前にも申したような次第で、殺生禁断の御留川になっていたんですから、さかなは大きいのがたくさんいる。殊にこの川に棲んでいる鯉は紫鯉というので、頭から尾鰭までが濃い紫の色をしているというのが評判でした。わたくしも通りがかりにその泳いでいるのを二、三度見たことがありますが、普通の鯉のように黒くありませんでした。そういう鯉のたくさん泳いでいるのを見ていながら、御留川だから誰もどうすることも出来ない。しかしいつの代にも横着者は絶えないもので、その禁断を承知しながら時々に阿漕あこぎ平次のへいじをきめる奴がある。この話もそれから起ったのです」

小焦れったい こじれったい。もどかしくていらいらする。じれったい。
因果 原因と結果。その関係。
津の国屋 半七捕物帳の1つ。酒屋「津の国屋」で幽霊が出るという。半七は犯人を捉える。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
葛飾 東京都葛飾区のこと。区の左側に利根川の支流、江戸川がある。
江戸川 利根川の支流。千葉県北西端の野田市関宿で分流し、東京湾に注ぐ。
小石川 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
牛込 旧牛込区のこと。昭和22年以降は四谷区、淀橋区と合併し、新宿区に。
行灯 あんどん。小型の照明具。木などで枠を作り、紙を張り、中に油皿を置いて点灯する。
雪洞 ぼんぼり。紙・布などをはった火袋を取りつけた手燭てしよくか燭台。右図を参照。
新小金井 東京都小金井市東町。桜が有名な町で、西武鉄道の新小金井駅がある。小石川区(現、文京区)と牛込区(現、新宿区)から見ると、小金井はかなり遠い。
船河原橋 旧江戸川、外濠のお堀、さらに神田川を結ぶ橋。船河原とは揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原から。
堰き止める せきとめる。塞き止める。堰き止める。流れなどをさえぎりとめる。
御留川 おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所。
殺生 せっしょう。生き物を殺すこと。仏教では十悪の一つ。
堰く せく。堰く。塞く。流れをさえぎってとめる。せき止める。
堰かれる せかれる。流れをさえぎってとめられる。
どんどん 江戸川落とし口にかかる船河原橋を通称「どんどん橋」「どんど橋」といいます。江戸時代には船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたとのこと。

マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)。解説とは違い、近くに船河原橋が見え、遠くに隆慶橋が見えています。

蚊帳ヶ淵 かやがふち。船河原橋の下を流れる水がよどんで深くなった所。『東京名所図会』第41編(東陽堂、1904年)では「蚊屋が淵は船河原橋の下をいふ。むかしはげしき姑、嫁に此川にて蚊屋を洗はせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。」
攫う。 さらう。攫う。掠う。油断につけこんで奪い去る。気づかれないように連れ去る。その場にあるものを残らず持ち去る。関心を一人占めにする。
紫鯉 むらさきこい。江戸志では「此川に生ずる鯉は世の常の魚とことにして、味ひはなはだ美なり、されどみだりに取ことを禁ぜらる」
阿漕 あこぎ。禁漁地の阿漕ヶ浦で、ある漁師が密漁をして捕らえられたとの伝説から。しつこく、ずうずうしい。義理人情に欠け、あくどい。特に、無慈悲に金品をむさぼること
阿漕の平次 あこぎのへいじ。阿漕ヶ浦で、母の病のために禁断を破って魚をとり、簀巻すまきにされたという伝説上の漁師。

紫鯉|遊歴雑記

文学と神楽坂

 十方庵敬順氏が書いた「遊歴雑記初編」(嘉永4年、1851年)です。これは1989年、朝倉治彦の校訂で平凡社が復刻した部分から取りました。江戸川(現神田川)の「中の橋」で「むらさき鯉」があったといいます。最初は現代語訳です。

[現代語訳] 武蔵国江戸川の最上部は牛込区と小日向区との間にある目白下大洗堰で、ここで白堀上水を分け、あまった水は下流にながす。一方、江戸川の最下部は船河原橋であり、これで終わる(訳注。昔の神田川を神田上水、江戸川、神田川と3つに分けていました。現在は全て神田川です)。川の長さはおよそ2000kmで、この間を江戸川という。しかし、誠実に呼ぶと、小日向の「中の橋」の上流220m、下流220m、前後440mをあわせた流れを江戸川という。
 その理由は、「中の橋」の流れが大部分は深く、鯉も数多く、橋の上から見ると、大きな鯉では90~110センチに及び、たまには、110センチ強と思える緋鯉も見える。「中の橋」の前後は鯉は殊に多く、水中でただ一面に黒く光り、キラキラと泳ぐものはどれも鯉だ。どれも肥えて太っていて、あるいは、丸く短い。これをむらさき鯉と称し、風味で見ると、このむらさき鯉が一番良く、豊島荒川の鯉や利根川の鯉はこれよりも劣る。これを紫鯉というのは、江戸川という名前からきたもので、逆に、数千万匹の紫鯉があるからこそ、江戸川という名前がついた。以上が、江戸むらさきの由縁である。
 この清流の鯉は、むかし、五代将軍徳川綱吉がここに御放流し、この鯉は成長し、さらに、八代将軍徳川吉宗も同じくここに放流して鯉も成長したので、「中の橋」の前後、川の中央部では550mほどの間は、「御留川」として、釣魚は厳禁である。また鯉は「中の橋」前後でだけ動き、外には行かない。ただし、大雨が降りつづき、満水する場合は違い、鯉は川下の竜慶橋の辺りにまで下がることもある。逆に水上の石切橋の辺りに上る場合もある。石切橋からの川上では、まれに網や釣りをして、鯉をとらえる場合もあるという。例年1~2度、2,3艘の御用船はならべて乗り入れ、鯉を採ることもある。

神田上水と旧江戸川

 東武江戸川(現神田川)といふは、牛込小日向の間にハサまりて、カミ目白下ヲゝ洗堰アライゼキに於て白堀シタホリ上水をワケ余水の下流にして、末はフナ河原ガワラバシまでの間、川丈カワタケ長き事拾八九町、此間を惣名ソウメウ江戸川といひ来れり、しかれども誠の江戸川とサスところは、小日向ナカハシ水上ミヅカミ弐町、橋よりシモ弐町、前後四町が間のナガレを江戸川といえり、
 その故は、中の橋の水中はホトンド深くして、ぎょ夥し、大いなるは橋の上より見る処、弐尺四五寸又は三尺に及ぶもあり、邂逅タマサカには、三尺余と覚しき緋鯉ヒゴイも見ゆ、中の橋の前後殊に夥しく、水中只壱面に黒く光り、キラ/\とヲヨぐものは皆鯉魚なり、おの/\肥太コエフトりたる事、丸くして丈みじかきが如し、これをむらさきゴイと称し、風味鯉魚の第一、豊嶋荒川又利根川トネガワの鯉、これにツグべしとなん、是を紫鯉といふ事は、江戸川といふ名によりて名付、又此処に紫鯉数千万スセンマンあるが故に、江戸川とは称す、江戸むらさき由縁ユカリによりてなりとぞ、
 此清流の鯉は、むかし、常憲尊君五代将軍徳川綱吉へ御放しありて、生立ソダテしめ給ひ、後又有徳尊君(八代将軍徳川吉宗)同じく此処へ放して生立ソダテしめ給ふによりて、中の橋前後、河中五町程の間は、御止川ヲントメガワと成て、釣するを堅く禁じ給ふ、此鯉魚中の橋前後にのみ住て、更に外へ動かず、但し、大雨降つゞき満水する時は、川下カワシモ竜慶橋辺へさがるもあり、又水上ミヅカミ石切橋イシキリバシ辺へ登るもありけり、石きり橋より上にては、マレアミツリして、鯉魚を得る事もありとなん、例年壱両度づゝ御用船弐三艘ならべ乗イレ、鯉魚をトラしめ給ふ、

東武 武蔵国の異称。江戸の異称。
牛込 旧牛込区のこと。昭和22年以降は四谷区、淀橋区と合併し、新宿区に。
小日向 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
目白下 目白下は文京区目白台よりも標高は低く、江戸川橋の周辺で、場所は関口一丁目、水道二丁目、水道一丁目など。
洗堰 あらいぜき。常時水が堰の上を溢れて流れるように作った堰。
白堀 しらほり。開渠。蓋のない地上の水路のこと。
余水 よすい。余分の水
船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。文京区後楽2丁目、新宿区下宮比町と千代田区飯田橋3丁目をつなぐ橋。
川丈 川の長さ。
 およそ。おおかた。だいたい。約。
拾八九町 長さの単位で、1963~2072メートル
惣名 そうみょう。総名。いくつかの物を一つにまとめて呼ぶこと。呼び名。
中の橋 なかのはし。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けた橋。
水上 みずかみ。「みなかみ」で「流れの源のほう。上流。川上」
弐町 二町。約220メートル
 ほとんど。大多数。大部分
鯉魚 りぎょ。鯉(こい)
邂逅 「わくらば」と読み、「まれに。偶然に」
たまさか 偶さか。適さか。偶然。たまたま。
弐尺四五寸 2尺4~5寸。約91~95センチ
三尺 114センチ
緋鯉 ひごい。赤や白の体色の鯉の総称。普通、橙赤色。観賞用。
豊嶋 豊島郡。武蔵国と東京府の郡。おおむね千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、大部分の練馬区。江戸時代以降、江戸市中は豊島郡から分離。
江戸むらさき 色名の一つ。濃い青みの紫。16進法では#745399     
常憲 第5代将軍徳川綱吉つなよしの戒名は常憲院殿贈正一位大相国公。
尊君 男性が、相手の男性を敬っていう敬称
 ここ。現在の時点・場所を示す語
生立 おいたち。生い立ち。育ってゆくこと。成長すること。
有徳 徳川吉宗の戒名は有徳院殿贈正一位大相国
御止川 御留川。おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所
 と。いっしょに事をする仲間。
竜慶橋 隆慶橋。りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。上図を
石切橋 いしきりばし。付近に石工が多かったため。別名は「江戸川大橋」。上図を
壱両度 いちりょうど。一回か二回。1~2回
御用船 江戸時代、幕府・諸藩が荷物運送などを委託した民間の船舶。