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大震災②|昭和文壇側面史|浅見淵

文学と神楽坂

 いっぽう、神楽坂の横丁の植木垣のつづいたもの静かな屋敷町に、医院の跡を買って銀座のプランタンが進出して来たりもした。このプランタンは近年文春クラブの面倒を見ていた洋画家の松山省三氏(前進座河原崎国太郎の父)の店で、銀座で開店している時には、正宗白鳥小山内薫吉井勇なども現われ、また「荷風日記」などにも屢〻出てくる。最近故人となった文春社長の佐佐木茂索がまだ「時事新報」の文芸記者を勤めていた時代で、茂索は当時新潮社の通りの突き当たりの矢来下にあった、兄さんの経営する骨董屋の別棟の洋館に住んでいたと思うが、プランタンが神楽坂に引越してくると、目立つその常連の一人となっていた。また広津和郎氏などもよく姿を見せ、みんなは別室で麻雀の卓を囲んでいたようだった。その時分はまだ麻雀クラブなど無い時代だった。この二人に限らず、広津、佐佐木氏たちの年代の作家たちが、大勢出入りして人目を惹いていた。ぼくが徳田秋声の愛人の山田順子をはじめて見たのもここだった。なかなかの北国美人だったが、秋田なまりが気になった。その時分はカクテルが流行した時分で、ここの一杯三十銭のマンハッタン・カクテルというのが口当りがよくて評判になり、早稲田の文科生なども大勢通っていた。

屋敷町 岩戸町二十四番地で、川喜田屋横丁と呼んでいます
カフェープラントンプランタン Café Printemps。飲食店。1911年(明治44年)、銀座に開業し、「日本初のカフェ」。喫茶店とはいえ、洋食がメニューの中心。料理はソーセージ、マカロニグラタンなど珍しいメニューや「焼きサンドイッチ」など。関東大震災後の1、2年間は牛込岩戸町二十四番地に。戦争中は休業状態、1945年(昭和20年)3月、建物疎開で店は取壊されました。
文春クラブ 文春クラブは文春地下にあったクラブ。作家や職員用に作ったものでしょう。
前進座 昭和6年(1931年)に歌舞伎界の因襲的な制度に反発して松竹を脱退した中村翫右衛門、河原崎長十郎、市川荒次郎を中心に結成された劇団。古典歌舞伎のみならず、現代劇、大衆演劇、児童演劇など多くのジャンルの演劇作品を上演。
河原崎国太郎 5代目。1909―90。本名松山太郎。洋画家松山省三の子。2世市川猿之助の門に入り、市川笑也(えみや)と名のり、劇団前進座の結成に参加。1932年(昭和7)5代目国太郎を襲名。前進座の(たて)女方(おやま)(女形の中で、最高位の俳優)として活躍。
荷風日記 『断腸亭(だんちょうてい)日乗(にちじょう)』のこと。永井氏は1917年(大正6年)9月16日から、死の前日、1959年(昭和34年)4月29日まで日記をつけていました。
時事新報 福沢諭吉が1882年3月1日に創刊した日刊紙。当時の東京の政論新聞は自由党、改進党、帝政党の機関紙の全盛時代でしたが、「独立不羈、官民調和」を旗印とする中立新聞として、大正の中期まで日本の代表的新聞。「日本一の時事新報」と称しました。 本社は東京日本橋区
マンハッタン矢来下 酒井家屋敷の北側の早稲田(神楽坂)通りから天神町に下る一帯を矢来下といっています。
マンハッタン・カクテル Manhattan cocktail. 通称カクテルの女王。ライ・ウイスキーなどを2、スイートベルモットを 1、アンゴスチュラビターズ数滴で作ります。色は琥珀色(ブラウン)

神楽坂通り2|大宅壮一

文学と神楽坂

 神樂坂は全く震災で生き殘つた老人のやうな感じである。銀座のジヤツズ的近代性もなけれぱ新宿の粗野な新興性もない。空氣がすつかり淀んでゐて、右にも左にも動きがとれないやうである。
 震災は「東京」の容貌を一変させ、それに伴つてその心理にも大變革を齎らした。「下町」といつても、震災後の下町は、久保田万太郎描くところのそれと大變な違ひである。又同じ「山の手」といつても、震災後に新宿を中心として形成された山の手は、昔のそれとは全く別なものである。ところが、神樂坂だけは、依然として昔ながらの「山の手」である。
 神樂坂の通りを歩いてゐて一番眼につくのは、あの藝者達がお詣りする毘沙門様と、その前にあるモスリン屋の「警世文」である。この店の主人は多分日蓮凝りらしく、本多合掌居士を眞似たやうな文章で「恩想國難」や「市會の醜事實」を長々と論じたり、「一切の大事の中で國の亡ぶるが大事の中の大事なり」といつたやうな文句を書き立てた幟りを店頭に掲げたりしてゐるのを道行く人が立停つて熱心に読んでゐるのは外では一寸見られない光景である。これが若し銀座か新宿だとすると、時代錯誤であるのみならず、又場所錯誤でもあるが、神樂坂だとさういふ感じを抱かせないばかりか、その邊りの空氣とびつたり調和してゐるやうにさへ見えるのである。
 更に、市電を横切つて新潮社の方へ坂を登つて行くと、右手に、角帶をしめた数人の徒弟が店頭に坐つて一足宛丁寧に縫つてゐる平縫ひ足袋屋がある。「足にぴつたりとあふ足袋」といふモツトーが店頭に掲げられてゐるが、それを見ると、時代の流れに抗する最後のものといつたやうな感じを受ける。資本主義の大洋の中で、一つぽつねんと取り殘されてゐる封建時代の島とでもいつたやうなものである。
 神樂坂といへば、東京でも有名な盛り場だが、恐ろしく活氣がない。町がどことなく濕つぽくて黴臭い。
 あの相當長い通りにカフエーらしいカフエーが一軒もない。以前はプランタンなどがあって、幾分近代性を漂はしてゐたけれど、それも経營困難だとかで、銀座の方へ移つて行つてしまつた。こゝはカフエーよりも寧ろ、蕎麥屋とか、おでん屋とか、壽司屋とかゞ繁昌するところらしい。それも近頃の不景氣で、あちこちに貸家の札が見えるのは寂しい。
 銀座が断髪洋装のタイピストだとすれぱ、神樂坂は黒繻子をつけて赤いてがらをかけたおでん屋の娘といつた感じだ。
 それから又、神樂坂の兩側の裏はすつかり待合になつてゐて、そこから出て来る藝者といふ非近代的な存在が、この通りの空氣を更に非近代的なものにしてゐる。
 朝――といつても十時か十一時頃、省線の牛込驛の方から坂を登つて來ると、黄色つぽい顏に下の方だけ濃い白粉の下塗りをしてお湯から歸つて來る年増藝者や、どれもこれも皆同じやうな職業的類型性を帶びた顏の半玉達が三味線を提げてお稽古に行くのによくぶつつかる。朝の藝者は、全く芝居の樂屋裏よりも殺風景である。
 僕が神樂坂を通るのに一番好きな時刻は、夜十二時すぎて夜店もなくなり、人通りも絶えて、紙屑が風に吹かれて、電燈だけがあかあかと輝いてゐる通りに舞ひ上つてゐる頃である。その頃は、それは神樂坂だけに限らないが、「都會の砂漠」を行くとでもいつたやうな感じである。(一九二八年「文章倶楽部」)

モスリン屋 今和次郎編纂の『新版大東京案内』では

日蓮宗の辻説法でその店謳はれるカグラ屋メリンス店

といっています。メリンス店は5丁目にあり、神楽屋ともいいました。「カグラ屋メリンス店」は現在の「Paul神楽坂店」です。

明治40年の5~6丁目

岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」

本多合掌居士『日本史人物 迷言・毒舌集成』では

本田仙太郎、宮崎県の出身で、通称か号か不明も「合掌居士」と称されている。別に「日向鉄城」の筆名で著作もあるらしい。いずれにせよ、意図不明の全面広告を出すくらいだから田舎大尽なのであろう。
http://hanasakesake.seesaa.net/article/426383965.html

日蓮 日蓮は道ばたに立って通行人を相手に説法することを辻説法と呼びました。
角帯 二つ折りの、かたくて幅のせまい男帯
角帯 平縫い 糸と糸との間隔をあけずに縫い埋める刺し方

足袋屋 これは美濃屋のことでしょう。戦前の美濃屋は神楽坂6丁目にあって、戦後から5丁目に移ってきました。
ぽつねん ひとりだけで何もせず寂しそうにしている
プランタン カフェー・プランタン。1911年(明治44年)、銀座に開業した「日本初のカフェ」で、文学者や芸術家らの集まる店でした。関東大震災後に神楽坂に支店を出しましたが、1、2年後にここは閉店。戦争中に本店も閉店。
繻子 しゅす。布面がなめらかで、つやがあり、縦糸か横糸を浮かした織物。上の「繻子織り」を参照。
繻子
 衣服の首回りの部分
てがら 手絡。丸髷まるまげなどの根もとに掛ける、飾りのきれ。色模様に染めた縮緬ちりめんなどを使います。銀座は洋風、神楽坂は和風でしょうか。

手絡

http://kokeshiwiki.com/?p=8540

待合 客と芸妓の遊興などのための席を貸して酒食を供する店
省線 鉄道省(運輸省)の管理の鉄道線。国電の旧称。
半玉 はんぎょく。芸者見習い中で、まだ一人前ではなく、玉代ぎよくだいも半人分の芸者

文学と神楽坂

明進軒、プランタン|岩戸町

文学と神楽坂

 渡辺功一氏著の『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)の142頁では以下の説明が出てきます。

プランタンまえの明進軒
 麻雀の歴史の証人となったプランタン神楽坂店は、いったいどこにあったのか。神楽坂六丁目の横丁であるが諸説があって今一つはっきりしない。「神楽坂の横丁の植木垣のつづいたもの静かな屋敷町に医院の跡を買って開いた」と紹介した文献もあるが場所の特定に至らない。ところがその場所を明記した文献があったのだ。

その料理店は明進軒といった。紅葉宅のある横寺町に近いという関係もあって、ここは硯友社の文士たちがよく利用した。紅葉の亡くなったときも徹夜あけのひとびとがここで朝食をとっている。〈通寺町小横丁の明進軒〉と書く人もいるが、正しくは牛込岩戸町ニ十四番地にあり、小路のむかい側が通寺町であった。今の神楽坂五丁目の坂を下りて大久保通りを渡り、最初の小路を左へ折れてすぐ、現在帝都信用金庫の建物のあるあたりである。
『評伝泉鏡花』笠原信夫 白地社

 このように明確に記載されている。この場所は神楽坂通りに面した亀十パン店のあった横から路地を入った左側で、現亀十ビルの裏手にあたる。同書には「尾崎紅葉が近くてよく使った明進軒という洋食屋であった」という記述があるが、横寺町の紅葉宅から神楽坂上の交差点までは近いとはいいがたく、特定はできなかった。そこは日本料理の『求友亭』があった場所とも考えられていたので、この店と混同してしまったのではないかと推察していた。
 ところが歴史資料の中にある明治の古老による関東大震災まえの神楽坂地図を調べていくうちに「明進軒」と記載された場所を見つけることができた。明治三十六年に創業した神楽坂六丁目の木村屋、現スーパーキムラヤから横丁に入って、五、六軒先の左側にあったのだ。この朝日坂という通りを二百メートルほど先に行くと左手に尾崎紅葉邸跡がある。
 明治の文豪尾崎紅葉がよく通った「明進軒」は、当時牛込区内で唯一の西洋料理店であった。ここの創業は肴町寺内で日本家屋造りの二階屋で西洋料理をはじめた。めずらしさもあって料理の評判も上々であった。ひいき客のあと押しもあって新店舗に移転した。赤いレンガ塀で囲われた洒落た洋館風建物で、その西洋料理は憧れの的であったという。この明進軒は、神楽坂のレストラン田原屋ができる前の神楽坂を代表する洋食店であった。現存するプランタンの資料から、この洋館風建物を改装してカフェープランタンを開業したのではないかと思われる。
 泉鏡花が横寺町の尾崎紅葉家から大橋家に移り仕むとき、紅葉は彼を明進軒に連れていって送別の意味で西洋料理をおごってやった。かぞえ二十三歳の鏡花はこのとき初めて紅葉からナイフとフォークの使い方を教わったが酒は飲ませてもらえなかったという。当時、硯友社、尾崎紅葉、泉鏡花、梶川半古、早稲田系文士などが常連であった。

 しかし、困ったことにこの歴史資料の名前は何なのか、明治の古老による関東大震災まえの神楽坂地図はどこにあるのか、わからないのです。この文献は何というのでしょうか。あったのでしょうか。まさか昭和45年、新宿区教育委員会の「古老の記憶による関東大震災前の形」だとは思えません。これは神楽坂一丁目から五丁目までを描いたものです。
 この位置は最初は明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように名前が変わりました。また、明進軒は「通寺町の小横町」に建っていました。これは「横寺町」なのでしょうか。実際には「通寺町の横丁」ではないのでしょうか。あるいは「通寺町のそばの横丁」ではないのでしょうか。
 昭和12年の「火災保険特殊地図」では岩戸町ニ十四番地はこの赤い多角形です。なお求友亭は通寺町75番地でした。またこの横丁は川喜田屋横丁です。明進軒
 また別の地図(『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった「寺内」)でも同じような場所を示しています。

明進軒

明進軒

 さらに1970年の新宿区立図書館が書いた「神楽坂界隈の変遷」では

 紅葉が三日にあげず来客やら弟子と共に行った西洋料理の明進軒は,岩戸町24番地で電車通りを越してすぐ左の小路を入ったところ(今の帝都信用金庫のうしろ)にあった。
 この「左の小路」というのは川喜田屋横丁です。さらに「神楽坂界隈の変遷」は『東京名所図会』(監修宮尾しげを、睦書房、1969年、東陽堂の「新撰東京名所図会」明治29-44年刊の複製)を引用しています。ここでは「新撰東京名所図会」第42編を直接引用します。

明進軒

現代の明進軒。マンションです。

●明進軒
岩戸町(いはとちやう)二十四番地に在り、西洋料理(せいやうれうり)、營業主野村定七。電話番町一、二〇七。神楽坂(かぐらざか)青陽樓(せいやうろう)(なら)(しよう)せらる。以前區内の西洋料理店は、唯明進軒(めいしんけん)にのみ限られたりしかば、日本造二階家(其当時は肴町行元寺地内)の微々(びゝ)たりし頃より顧客の引立を得て後ち今の地に轉ず、其地内にあるの日、文士屡次(しばしば)こゝに會合(くわいがふ)し、當年の逸話(いつわ)また少からずといふ。

 結論としては明進軒は以前の岩戸町二十四番地(現在は岩戸町一番地)なのです。